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No.19828の一覧
[0] 少女の愛した狼 第三部完結 (和風ファンタジー)[スペ](2022/01/30 08:17)
[1] 命名編 その一 山に住む狼[スペ](2010/11/01 12:11)
[2] その二 出会う[スペ](2010/11/08 12:17)
[3] その三 暮らす[スペ](2010/10/23 20:58)
[4] その四 おやすみ[スペ](2010/06/28 21:27)
[5] その五 雨のある日[スペ](2010/06/29 21:20)
[6] その六 そうだ山に行こう[スペ](2010/06/30 21:43)
[7] その七 天外という老人[スペ](2010/07/01 20:25)
[8] その八 帰る[スペ](2010/07/03 21:38)
[9] その九 拾う[スペ](2010/07/12 21:50)
[10] その十 鬼無子という女[スペ](2010/11/02 12:13)
[11] その十一 三人の暮らし[スペ](2010/07/07 22:35)
[12] その十二 魔猿襲来[スペ](2010/07/08 21:38)
[13] その十三 名前[スペ](2010/09/11 21:04)
[14] 怨嗟反魂編 その一 黄泉帰り[スペ](2010/11/01 12:11)
[15] その二 戸惑い[スペ](2011/03/07 12:38)
[16] その三 口は災いのもと[スペ](2010/11/08 22:29)
[17] その四 武影妖異[スペ](2010/12/22 08:49)
[18] その五 友[スペ](2010/10/23 20:59)
[19] その六 凛とお婆[スペ](2010/10/23 20:59)
[20] その七 すれ違う[スペ](2010/10/23 20:59)
[21] その八 蜘蛛[スペ](2010/10/23 20:59)
[22] その九 嘆息[スペ](2010/10/23 20:59)
[23] その十 待つ[スペ](2011/03/25 12:38)
[24] その十一 白の悪意再び[スペ](2010/12/01 21:21)
[25] その十二 ある一つの結末[スペ](2010/11/08 12:29)
[26] 屍山血河編 その一 風は朱に染まっているか[スペ](2010/11/04 12:15)
[27] その二 触[スペ](2010/11/09 08:50)
[28] その三 疑惑[スペ](2010/11/13 14:33)
[29] その四 この子何処の子誰の子うちの子[スペ](2010/11/20 00:32)
[30] その五 虚失[スペ](2010/11/22 22:07)
[31] その六 恋心の在り処[スペ](2010/11/29 22:15)
[32] その七 前夜[スペ](2010/12/13 08:54)
[33] その八 外[スペ](2010/12/22 08:50)
[34] その九 幽鬼[スペ](2010/12/27 12:12)
[35] その十 招かざる出会い[スペ](2011/01/03 20:29)
[36] その十一 二人の想い[スペ](2011/01/07 23:39)
[37] その十二 味と唇[スペ](2011/01/16 21:24)
[38] その十三 雪辱[スペ](2011/02/16 12:54)
[39] その十四 魔性剣士[スペ](2011/02/01 22:12)
[40] その十五 血風薫来[スペ](2011/05/25 12:59)
[41] その十六 死戦開幕[スペ](2011/02/24 12:21)
[42] その十七 邂逅[スペ](2011/03/20 20:29)
[43] その十八 妖戦[スペ](2011/03/23 12:38)
[44] その十九 魔弓[スペ](2011/03/31 09:00)
[45] その二十 死生前途[スペ](2011/05/17 08:55)
[46] その二十一 仙人奇怪話[スペ](2011/05/22 21:31)
[47] その二十二 魔狼と魔剣士[スペ](2011/06/05 20:58)
[48] その二十三 真実[スペ](2011/06/20 12:56)
[49] その二十四 別離[スペ](2011/09/02 23:49)
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[19828] その十三 雪辱
Name: スペ◆52188bce ID:e5d1f495 前を表示する / 次を表示する
Date: 2011/02/16 12:54
その十三 雪辱


 吸い込んだ大気が肺腑を満たし、黄ばみ始めた木の葉の匂いが連日濃度を増している事を、雪輝は実感した。
 吸い込んだ端から噎せ返る匂いの強さは変わらぬが、陽光煮えたぎる夏ならば、鼻の粘膜や肺腑は草いきれに塗れて緑に覆われただろう。今の季節ならば、緑が二、黄色が六、赤が二、と言ったところか。
 舞落ちる葉を見ればまれに紅葉が混じっている。緑と、黄と、茶と、赤と、それぞれに濃淡の事なる四色が、風に揺られゆらゆらと舞っている様は人の足を止めるには十分なほど美しい。
 見るだけならば美しい。
 匂いを嗅ぐだけならば楽しい。
 舞落ちる葉の中に紛れ込んだ食肉虫をものともしない力を持っているのなら。
 かすかにすえた匂いの中に混じる、無臭の毒素を耐え抜く強靭な命なら。
 故にその両方を兼ね備えていた白銀の巨狼は、落葉の三分の一近い食肉虫の牙も、毒素に満ち満ちた秋風も、まるで意に介する事もなく悠々と歩を進めていた。
 雪輝が無意識に纏う濃密で強力な妖気の防御圏が、飽くなき食欲と殺気に満ちた食肉虫も、吸い込んだ体の内側から汚染し腐敗させる毒素も弾いて無効化している。
 地上に落ちた小さな青い満月かのような雪輝の二つの瞳は、同じものを一秒以上見る事はなく、忙しなく焦点を別のものへと動かし続けている。
 既に凛との決闘場として通い慣れた森の一帯に足を踏み入れて、五十歩以上を数えているが、いまだに凛の仕掛けていた罠や凛自身からの襲撃を受けていない。
これは今までの決闘の戦歴を思い返せば稀な例であった。
 これまでは一歩を踏み込んだ端から雨あられと鋼鉄の武具が降り注ぐなり、穂先をびしりと揃えた巨岩やら先端を尖らせた丸太が襲ってくるなど、なんでもござれであった。
 普段の凛しか知らぬひなや鬼無子であったなら短気で性急な所のある凛ならそうだろう、と納得するだろうが、いざ戦闘に際した時の凛を知る雪輝は、それらはあくまで凛の一面でしかないと熟知していた――というよりはさせられたというべきだが。
 必要とあれば丸一日でも二日でも三日でも、身を潜め続けて獲物の息の根を止める好機を待つ忍耐力を、凛はその烈火の気性の中に備えているのだ。
 とはいえ、よもや森のただなかで凛が仁王立ちの体勢で待っているとは、さすがに雪輝の予想外ではあった。
 以前、鎧武者の怨霊と戦う際に着用していた妖虎の皮を加工した革服で、爪先から指先、首元まで覆い隠し、背には刃を備えた多関節の足を折り畳んだ刃蜘蛛がある。
 雪輝が来るまでの間ずっとそうしていたのか、固く腕を組んだ凛は、木漏れ日を浴びて数万粒の陽光の宝石を纏い、白銀の毛並みを眩く輝かせている雪輝を瞳の中に映し、眩しげにあるいは憎々しげに瞳を細める。
 凛の瞳の奥で戦意の焔の影が、ゆら、と揺れた。
 その瞳に、鬼無子やひな達と共に七風の町を歩いていた時の様な和やかさは欠片もない。
 凛が鬼無子やひなと親交を深めた事で、二人の少女達が想いを寄せる魔狼との戦いに手心を加えるという可能性は、その凛の鋭い眼光だけで在りえないと断ずる事が出来る。
 いつもと変わらぬ柔和さで雪輝が凛に声を掛ける。

「堂々と待ち構えていたか。お前にとって今日の風はどのように吹いている?」

 その言葉の裏で全方向に瞬時に跳躍を行えるよう、四肢に意識が行き渡ってい た。
 もっとも、神夜国中に悪名を知られる妖哭山で生きた雪輝にとっては、常に警戒の念を心中に抱いておくのは当たり前の事であったし、それは山の民である凛にとっても同じ事であるだろう。
 凛と雪輝との事情を知る山の民はともかく、雪輝を恐れぬ妖魔や野の獣の類が、戦闘中の一人と一頭の間に割って入る可能性もあるし、事実、二度ばかり過去に決闘の最中に乱入者が姿を見せた事があった。
 組んでいた腕をぶらりと垂らし、凛は一層瞳を細めた。凛の刃さながらの鋭い視線は、雪輝の青い瞳を真っ向から睨み据え、そのまま心臓を貫かんとしているかのようであった。

「獣の癖にお前は相変わらずもって回った言い方をするな。……悔しいがお前には今までの手は尽く通じなかった」

 これ以上ないと言うほど不機嫌に表情を歪める凛の言葉に、ふむ、と雪輝は納得の声を一つ零す。
 罠を仕掛け、身を隠し、獲物を誘いこみ、必殺の機会を作り出し、仕留める。
山の民が妖哭山での長い戦いの歴史で培った闘争と鍛鉄の技術の粋を凝らした戦い方では、雪輝に傷一つ付ける事も適わず、凛は挑んだ数だけ苦杯を煽る羽目に陥ってきた。
 一度や二度の負けであるなら――本来、妖哭山において敗北とはすなわち死を意味するが――凛はより狡猾な罠を仕掛け、巧妙に身を隠し、武器を強力なものに変えはしても山の民としての戦い方は貫き通してきた。
 しかし流石に敗北の黒星の数が増え続けた結果、思いきった方針の変更に踏み切ったのであろう、と雪輝は自分を納得させた。
 凛が少なからず苦悩を経て降したであろう判断が吉とでるか、凶とでるか。

「それも私次第か」

 雪輝は淡々と呟き、凛の続く言葉かあるいは敵意を待った。殺意こそ込めぬものの雪輝は凛との戦いに全力を尽くすつもりであったが、先手は凛に取らせると決めていた。
 いかに凛が若輩ながら鍛え抜かれた戦士といえども、どんな形で襲いかかろうとも雪輝は、その身体能力だけで後の先を取る事が出来る。
 これまで一度たりとも凛に敗れなかったが故の傲慢さでも、圧倒的強者としての怠惰でもなく、ごく単純に彼我の生物としての性能差を雪輝はよく理解していた。
 それに、凛が今度はどのような手を繰り出してくるのか、という興味が雪輝の心の中にないとは言い切れないのもまた事実。
 凛の垂らした両腕のそれぞれの人差し指が、かすかに動き、その小さな背に巨大な蜘蛛の足が、陽光を斬り散らしながら雪輝の視界の先で広がる。
 金属の擦れ合う音も、関節の軋む音もなに一つなく、静寂と共に刃を構える鋼鉄の蜘蛛は、白銀の魔狼の瞳にその威容を映す。
 垂直に立っていた雪輝の二等辺三角形の耳が、両方とも前傾していた。
はるかな古代、天空の彼方よりこの妖哭山に降ってきたという隕鉄を鍛え上げ、一族に伝わる秘伝の製造法で鍛え上げられた刃蜘蛛の刃は、ただそこに存在するだけで妖哭山の妖気を霧散させる高純度の霊気を発している。
 鬼無子の愛刀崩塵には及ばぬとも、この武器は自分を殺傷せしめる危険な代物だ、と言う事を、雪輝の本能が察知してより一層の警戒を促した表れであった。
 凛が鎧武者と死闘を繰り広げた時よりもさらに磨きを掛けて、物理的霊的殺傷能力を向上させた刃蜘蛛の、八尺(約二・四メートル)の六本の足の切先がそれぞれ雪輝を狙う。
 そろそろか、と雪輝は舌の上で言葉を転がした。
 凛の背中から現れたからくり仕掛けを動かす為に凛の両腕は塞がれ、代わりに六本の蜘蛛足が自分への攻撃を担うのであろう。となれば凛の指の動きを覚えれば次の蜘蛛足のどれが動くか先を読む事も容易い。
 言葉にすればなんとも簡単な事だが、凛がそこまで生易しい相手でない事を、雪輝は良く理解している。鋼鉄の蜘蛛だけが凛の用意した手札ではあるまい。
 可能であれば自身が無傷で、そして凛もまた無傷の状態で勝利をおさめる事が雪輝の今回の決闘における最大の目的である。
 かような達成困難な目的を雪輝が掲げているのは、雪輝であれ凛であれ、その身に傷を負えばひなが悲しみ、心を傷つける為だ。
 ひなの心を傷つける要素は叶う限り排する心積もりである雪輝であれば、双方無傷での決着という目的を掲げるのは当然の流れと言えただろう。
 さらに言えばこれまでの戦いの全てにおいて、雪輝は凛の如何なる罠にも攻撃にも傷を負った事はなく、また凛に傷と呼べるような傷を与えた事もない。
 つまるところ、いつもどおりに戦うまでの事、と雪輝は必要以上に緊張するでも気負うでもなく、しかし油断するでもなく凛の一挙一投足、視線の動きから呼吸の強弱に至るまで仔細に観察する。
 風は変わらず吹いている。
 木の葉は変わらず舞落ちている。
 落葉の雨の中、白銀の魔狼と背に鋼の蜘蛛を負った少女の対峙は、時が流れる事を忘れたかのように変わることなく続き、ともすればこのまま永劫に両者の対峙は続くのではあるまいか。
 一人と一頭の対峙を見守る何ものかがいたならば、そんな疑惑に捉われたかもしれない。
 刃蜘蛛を展開しながらも、それだけに留めて雪輝との対峙を続けていた凛の瞳孔が、不意に猫科の生き物のように細まるのを、雪輝は見逃さなかった。
 来る――脳裏にその一語が閃いた瞬間、凛の足は地を蹴り、雪輝は巨体を沈めた。左右から雪輝に迫る四つの銀閃が、急激な上下運動に靡いた雪輝の体毛の端を斬った。
 残る二本の刃蜘蛛の足が、上弦の月を描きながら身を沈めた雪輝の首を斬り裂きにかかる。
 速く、鋭く、そして精確な斬撃であった。
 斜めに傾いだ十字の軌跡を描いた二本の蜘蛛足は、虚しく空を斬り、振り抜き終える寸前に関節を折り曲げて、凛の左右の脇に移動して鈍く輝く切先を、後方へ跳躍した雪輝へと向ける。
 おおよそ一月前の決闘の時に比べて更に動きが速くなっている雪輝に、凛は眉間に小さな皺を刻んで、厄介なと言う言葉を飲み込む。
 白猿王一派や怨霊との戦いを経て雪輝が確実に戦闘能力を向上させている可能性を、考えていないではなかったが、こうして実際にその変化を体感させられると面白いものではない。
 夏の日の陽炎のごとく雪輝の巨躯がゆらと揺れる。右から来るか、左から来るか、正面から来るか、それとも上から来るのか。
 雪輝の四肢の歩みは歩幅も調子も不規則に行われて、いつどの肢が地を蹴り、どこから襲い掛かってくるのか、正面から見据えていても判別しがたい。
 必要とあれば数日に渡って泥の中であろうとじっと息を潜めて身を隠す事も厭わぬ凛であるが、生来の気質から受けと攻めを選択できる場合においては、やはり攻めの手を取る。
 雪輝の不規則な歩行が攻撃の為の跳躍に踏み切るよりも早く、凛の足が再び地を蹴る。
 乾いた唇を、小さな舌を伸ばして舐め取り、身を強張らせる緊張をほぐしながら、凛は刃蜘蛛に繋がる金属糸の操作に意識を傾注した。


 雪輝の後ろ姿が折り重なる木立の彼方に消えてからしばし、薫風に靡く黒髪を左手で抑えながら、ひなは姉と慕う鬼無子の顔を見上げて問うた。
 雪輝の無事を問う言葉だろう、と鬼無子は極自然に考えていたが、ひなの口から出てきたのはそんな鬼無子の考えとはまるで違う言葉であった。

「ひな、雪輝殿の事なら心配しなくとも……」

「鬼無子さん、ひょっとして雪輝様の事、好きになられました?」

「…………」

 小さなひなを安心させるために笑みを浮かべながら口を開いた鬼無子は、小首を傾げながらひなの言った言葉に、全身を一度強く震わせるや否や、舌の根と唇、そして美貌と言う他ない顔容を硬直させる。
 石を素材にこの世に二人といない彫刻家が彫りあげた美女の面、と言われたら思わず納得しかねないほど、鬼無子の表情からは動きや変化と言うものが取り払われていた。
 徐々に鼓膜の震えが収まり、ひなの発した言葉を鬼無子の脳と精神が受け止めて理解し始めれば、鬼無子の心にはここ数日頻繁に吹き荒れている動揺の嵐が巻き起こる。
 ひなの言葉は鬼無子の純情な乙女の部分とひなの慕情を傷つける可能性を危惧する家族としての部分を、容赦なく貫く言葉に他ならなかった。
 じいっと鬼無子の黒い瞳を見つめるひなに、非難や呵責の様子は見られず、純粋な疑問として口にしたように見える。

「な、なぜ、そのような事を思ったのだね、ひな?」

 結局ひなの質問には答えずに、はぐらかしただけだと、動揺の荒波に揉まれていまだ正常な思考を完璧に取り戻せぬまま、鬼無子は思考の片隅で誤魔化しの言葉を口にする自分を責めた。
 鬼無子に及ぼした影響と答えを得られなかった事は気にせずに、ひなは素直に鬼無子が雪輝を好いているのでは、と思った理由を口にする。

「先ほど、雪輝様がおまじないと言って鬼無子さんに接吻された時に、鬼無子さんは耳から首まで赤くなられましたし、いまもまだ赤いですから。ひょっとしてお恥ずかしいだけなのではなくて、その、雪輝様を殿方として考えていらっしゃるからなのかな、と思ったんです」

 ひなが恥ずかし気に告げた言葉を受けて、鬼無子は反射的に自分の頬と耳に触れる。
 赤くなっているかどうかまでは分からないが、指の触れた耳と頬は熱く感じられるほどに熱を帯びていて、鬼無子は自分の心の変化を隠せずにいた事を悟る。
 ひなの指摘を受けて、鬼無子はますます自分の顔だけでなく全身に至るまで体の奥側から新たな熱が生じているのを、実感していた。鬼無子は言葉よりも雄弁に、その態度でひなの言葉が正鵠を射ぬいた事を告白していた。
 ここまで至れば誤魔化す言葉には何の意味もない。徐々に平静を、といっても普段と比べれば混乱の極致と言ってもいい精神状態ながら、鬼無子は熟れた林檎にも劣らぬ顔色のまま、唇を動かす。

「ああ、いや、なんといえば良いのか。その、あう…………」

 ひなに何と言えば良いのか分からぬまま、鬼無子の唇から零れ落ちたのは、意味を成さぬ言葉の羅列ばかり。
 このまま口を濁した所でひなが納得のいく説明をする事は出来ないと、鬼無子は大きく長い溜息を吐きながら、諦観と共に認めざるを得なかった。

「そ、そうなのだ。それがしは、いつの間にか、本当に自分でもいつからかは分からぬのだが、そのぅ……ゆ、ゆき、雪輝殿の事を、お、おし、お慕い…………」

 両の人差し指の先を突っつき合せながら、顔を俯かせて口籠る鬼無子の様子に、ひなはくすりと小さな笑い声を零す。
 いつも自分の面倒をなにくれとなく見てくれて、母か姉の様に慕う鬼無子の見せる初心な様子に、ひなはついつい可愛らしい、と思ってしまう。
 普段、鬼無子の見せる態度は清々しく凛冽としたものであり、このように慌てふためいて頬を紅潮させる様な事は滅多にない。
 だからだろうか、ひなはもっとこの可愛らしい様子を見せる鬼無子の姿を見たくなって、ひょっとして、と思った事を口にする。それは、ひなの思い通りに鬼無子のとても柔らかで幼い女としての部分を突く言葉であった。

「ひょっとして、鬼無子さんが殿方をお慕いするのは雪輝様が初めての方なのですか?」

「え!? え、えっと、それは、その。うぅ、そ、そう、だ。それがしは、生まれてこの方、恋というものをした事がなくて、雪輝殿が、は、はじめての方だ」

 語尾に行くにつれてどんどんと声を小さく落としてゆく鬼無子の姿が、そのまま小さくなって消えてしまいそうに見えたのは、ひなの錯覚ではあるまい。
 鬼無子は顔をこれ以上ないほど鮮やかに赤く染めたまま、ちらりとひなの顔を盗み見る。ひなの機嫌を損ねる、ないしは余計な不安や心配を抱かせることは、鬼無子にとって今後の生活においても、また心情的にも何としても避けたいことだった。

「と、ところでひなは、それがしが、雪輝殿の事を、うー、あー、とにかくその様に思っていても構わぬのか? にこにこと笑っておるが、怒っていたりはしないのか?」

 ひなは鬼無子に言われた事がよほど意外だったのか、丸い瞳をぱちくりとさせてから、ころころと笑いながら首を横に振る。

「いいえ。私にとって雪輝様も鬼無子さんもとても大切で大好きな方々ですから、鬼無子さんが雪輝様の事をお好きというのなら、私にはとても嬉しく思います。私の好きな方が私の好きなもう御一方(おひとかた)を同じように好いてくださるのは、素敵な事ではないでしょうか」

「そ、そういうものか?」

「はい、そういうものです」

 嘘偽りなく嬉しそうに語るひなの様子に、鬼無子は内心で首を傾げる思いであったが、鬼無子が雪輝に対して慕情を寄せる事に対しては本当に喜んでいる様子であったので、まず何より安堵の思いが胸の中で領土を広げる。
 凛にひなと雪輝の関係を見ていて嫉妬しないのか、と聞かれた時にこれを強く否定した鬼無子であったが、いざ他人が似たような事を口にするとなるほど、なかなか信じ難いものだと、奇妙に感心していた。
 鬼無子が思っていた以上に、ひなにとって鬼無子は大切な存在であったという事か、あるいはそもそもひなが独占欲といった欲望に関して、淡白な性格をしているからなのか。

「そうであるなら、それがしにはありがたい話ではあるのだが」

「鬼無子さんが雪輝様をお好きだと、なにか良くない事があるのですか?」

 ひなからすれば、鬼無子が雪輝に対する感情をひた隠しにしようとしていた事や、自分に対してやけに気を使う素振りが見られる事が不思議でならない様子であった。
 これは、鬼無子が雪輝の事をどう思っていようと、自分と雪輝の間に割って入る余地はない、というような余裕などではなく言葉通りの純粋な疑問による。
 どうやら本当にひなにとっては、鬼無子が雪輝の事を好きであってもなにも問題はないらしい。
 むしろ大好きな鬼無子が、自分の大好きな雪輝を、同じように好きである事が嬉しくて仕方ない様子である。
 おそらくは子供が父母の仲が良い事を喜ぶ心境に近いのであろう。

「いや。……そう、だな。ひながそう気にした風でないようなら、別段改めて口にする様な事ではない、かな。はは、ひなは器が大きいというかなんというか、それがしの想像を超えている。心配が杞憂に終わった事は喜ばしい事だと考えよう」

「はあ」

 鬼無子が一体何を危惧していたのか全く見当のつかないひなは、今一つ納得の行かぬ様子で首を捻ったが、これ以上追及しても鬼無子を困らせるだけだと言う事は理解できた。

「こう言っては何ですけれど、きっと雪輝様は私や鬼無子さんの想いに気づいてはいらっしゃらないのでしょうね」

 心が切られる様な思いを切ないというが、半ば冗談めいて軽い調子で告げられたひなの言葉には、その切なさが少なからず含まれていた。
 鬼無子も自身の心を悟って以来、ひなの胸中が十二分以上に理解できるようになっていたから、雪輝の鈍感さを嘆きながら同意する。

「そもそも狼の妖魔を相手に慕情を募らせる我々の方が常識から外れているし、雪輝殿はどうも精神的に幼い部分があるから、恋だの愛だの言われてもいまひとつ理解の及ばぬ所があるのだろうさ」

「時々、私よりも小さな子供の様に振る舞われる時がありますものね」

 日常の中で見せる雪輝の幼い言動を思い出して、ひなはくすりと小さな笑みを零す。
 ひなが雪輝に引き取られた当初は、まだ雪輝も落ち着き払った態度のともすれば老人めいた所を見せていたが、昨今ではひなより下か、精々が十代半ば程度の精神年齢ではと思わせる言動がしばしば見られる。

「ひなには時間がある。焦らずゆるりと歩み寄ってゆけば良いさ。一年か二年もすれば雪輝殿もいくらなんでも気づくであろうからね。以前も同じような事を言ったが、時間を掛けて理解を深めて行く事だ」

 自分には残された時間がない、その事を意識してかひなに語る鬼無子はどこか寂しげな様子であったが、幸か不幸かひながそれに気付く事はなかった。

「それは重々承知しておりますけれど、もっと早く気付いていただければと私が思うのは欲張りな事でしょうか」

 ひなには珍しい重い溜息を耳にしながら、鬼無子はそっとひなの肩を抱き寄せて、軽く肩を叩いて慰める。小さな肩であった。
 ひなが以前、雪輝の子供が欲しいと告白した時も思ったものだが、まったくもって

「雪輝殿は罪な御方だ。とはいえ、ここで思い悩んでも進展が見込めるものではないし、雪輝殿が無事に戻られると信じよう」

「はい。雪輝様と凛さん、どちらも怪我をしていないと良いのですけれど」

 ふうむ、と鬼無子は一つ漏らす。
 実のところ、鬼無子は雪輝が戦う所も、凛が戦う所も、両方とも直に目にした事がない。一応、白猿王一派との交戦で死にかけていた所を拾われて、目を覚ました時に雪輝とごく短時間ながら立ち回りを演じたが、雪輝の全力など欠片も見れてはいない。
 それでもこれまでの鬼無子の戦歴と体内の妖魔の血の反応具合から、雪輝のある程度の実力は察しがついている。
 しかし凛は、というとこちらが問題であった。ともに水浴びをした際に凛の裸身を見て、全身の筋肉の着き具合や骨格からおおまかな身体能力は察しがついているが、凛の本領は手製の武具を振るう時と耳にしているから、こちらもまた真の実力が分かっているわけではない。
 はっきりと両者の戦いの勝敗を口にするには、鬼無子の有する情報には穴が多く、鬼無子は勝敗を断じる事は避けた。

「口では何のかんのと言いながら凛殿もお優しい所があるからね、多少は手心を加えてくれるだろう。ま、どちらも無事に帰ってくるさ」

 凛の気性を考えれば、まったく手加減をしないだろうな、と思いながらそれでも鬼無子は気休めを口にした。鬼無子自身、凛が手心を加えるなど信じてはいない言葉であった。


「ぬぁああああ!!!」

 凛の咽喉から迸る絶叫に先んじて、六本の蜘蛛足がそれぞれ個別の速度で雪輝の全身を貫くべく迸る。
 鋼に等しい雪輝の体毛と無意識に体表上に展開している妖気の防御圏、更に意識して展開している高速で対流する攻撃的な第二の防御圏内の両方を、突破し雪輝自身に届く刃である。
 並みの人間どころか対妖魔戦闘の心得のある呪術士や剣士の類でも、防御圏の突破は愚か、突きこんだ刀槍は妖気の渦に巻き込まれて微塵に砕け、放った呪術や妖術は一つ残らずかき消されてしまう。
 その防御圏を突破しうる刃を鍛え上げた凛の鍛冶士としての力量はまさに賞賛に値する。刃蜘蛛に切り裂かれた風が、凛の殺意を乗せて雪輝の知覚に脅威を伝えてきた。

「だが、斬られてはやれぬ」

 自らに迫る刃蜘蛛の左右上足四本を、雪輝は前肢を振るってはじき返し、どこまでも透き通った、きぃんと硬質の音が鳴り響く中、残る左右下足二本をまとめて噛み止める。
 雪輝の妖気と刃蜘蛛の霊気が衝突し互いを喰らい合って、白銀の火花が噛み止めた刃蜘蛛の刃と雪輝の真珠色の牙との間で舞い散る。
 牙と牙の間に自分を殺傷しうる凶器を噛み止める行為は、決して愉快とは言えなかった。
 噛み止めた刃蜘蛛の足を思い切り引きこんでから、雪輝はその野太い首を勢い凄まじく左右に振り、刃蜘蛛を制御する凛を周囲に聳えている巨木の峰に放り投げる。
 銃弾もかくやの速さで空を飛んだ凛であったが、全身に掛る負荷を堪え切り、左の刃蜘蛛三本を地面に突き刺して無理矢理に勢いを殺す。地面に一尺も刃を突き刺し、五間近く吹き飛ばされた所で、ようやく凛の体は停止した。
 尋常な狼にはあり得ない妖魔ならではの雪輝の怪力に、凛は悪態こそ吐くが動揺することもなく、ただ目を細めて雪輝の挙動に神経を裂く。つまるところ、予想の内に過ぎなかったのである。
 すでに雪輝の姿は凛の懐近くにまで潜り込んでいた。
 まるで風か煙のようだ。
 掴もうとすれば手の中からするりと抜けだし、止めようと思ってもこちらの意を介さずに懐にまで容易く潜り込んでくる。
 かすかに開かれた雪輝の口から覗く牙に、雪輝の妖気が圧縮されているのを、凛は本能と視覚の二つで察知した。凛の纏う妖虎の革服の守りを突破するのに、それが必要だと判断したのであろう。
 はん、と凛は一つ漏らした。雪輝がそこまでこの妖虎の革服を評価した事への喜びと、そうするだけで防御を破られる事への焦燥が混ざり合った“はん”であった。
 凛の唇から吐かれた吐息に嘲る成分が混じっていた事に、凛の喉笛まであと一息という所で、雪輝が気付いた。刃蜘蛛の足の一つの節足が、左右に分かれて中に収納していた胡桃大の球体を雪輝の眼前に落とした。
 球体から火の着いた導火線が飛び出ている事に気付き、雪輝は目の前の品に対する知識を有してはいなかったが、危険なものであると直感で判断し、前方の跳躍の為に溜め込んだ力を無理矢理に抑えこんで、その場でたたらを踏んで急制動を掛ける。
 凛がこれまで使用した道具の中で、眼前の球体に酷似したものがあったかどうか、即座に記憶を照合する雪輝の眼前で、導火線が遂に燃え尽きて目の前で内側から炸裂する。
 雪輝は球体の炸裂による衝撃で頬を打たれ、同時に聴覚に間近で落雷が落ちたかと錯覚するほど途方もない大音量が、そして視覚に網膜を焼き尽くす真っ白い光が襲い掛かる。
 山の民が狩猟の際に使用する閃光玉と音響玉である。雪輝の様な五感の優れた妖魔や野獣の探知能力を、大幅に制限する厄介な道具だ。
 炸裂する寸前に、球体の正体の推測を終えていた雪輝は固く目を閉じていたが、閉じた瞼から水の様に入り込んできた光によって、目玉を針で貫かれた様な痛みが雪輝に襲い掛かった。

「っ!」

 咽喉の奥から零れそうになった苦鳴を噛み殺し、雪輝は瞬時に自分の耳と目がどこまで役に立つか、判断を下す。
目は、駄目だ。
 瞼を開こうとしただけでも途方もない苦痛が襲い掛かり、無理にこじ開けた所で瞳には何も映らない。
 耳も目と同様に役には立たない。鼓膜の奥、それこそ脳味噌を直接揺さぶられているか、耳元で大鐘を忙しなく打ち鳴らされているかのような状態だ。
 五感の内二つを潰されはしたが、雪輝はさほど動揺はしなかった。残る三つの感覚の内、味覚は別としても、嗅覚と触覚が残りなおかつ直感が残っていれば戦いを継続するには十分だ。
 さすがに戦闘能力と探査能力の大幅な低下は否めないが、雪輝は戦意を衰えさせることなく閃光と音響の洪水に襲われる寸前に目にしていた凛の位置めがけて、跳躍へと転ずる。

「ぐぅるああ!!」

 雪輝には珍しいまさに狼のものに相違ない咆哮を挙げて、凛がいたはずの空間に爪を仕舞ったままの右前肢を振り下ろす。しかし返ってきた感触は空を切るもの。
閃光玉と音響玉を放ったままその場に留まるという選択肢を、凛が取るわけもない。雪輝もまたそれを理解しながらも、右前脚を振るったのはより正確に凛の残り香を嗅ぎ取る為だ。
 数瞬前まで凛が存在していた空間には、当然凛の匂いが他の空間よりも色濃く残留している。雪輝はいつもより少しだけ深く息を吸いこむ。
 しかし目と耳を潰しておきながら、凛が鼻を無事に残す迂闊な真似をするとは、単純な雪輝といえども思いはしなかった。
 山の民の使う道具の中に妖魔の嗅覚を潰すためのものもごまんと存在している。これまで凛は、自身の匂いを消す秘薬を頻繁に使用してきたが姿を現して挑んできたが、今回はその逆の選択肢を取る可能性が高い。
 故に雪輝は嗅覚を知覚網の主軸に据えながら、嗅覚の嗅ぎ取った匂いを信じ切って判断を誤まらぬように慎重にならざるを得ない。

――どう来る、凛?

 凛が自信とともに持ち出してきたあの鋼鉄の蜘蛛が、自分を殺害しうる武器である事は雪輝も認める所である。
 だが回避に神経を傾けておけば、薄皮一枚を裂かれた所で反撃に出て、凛に一撃を加える事は十分に可能だ。
 ここは待ちの手か、と雪輝がひとりごちた時、凛はある大樹の大振りの枝の上に座り、雪輝の姿を冷たく燃える炎を宿した瞳で見下ろしていた。
 ひなにはとても悪いと思う。鬼無子に対しても、やはり悪いと思う。雪輝に対しては、まあ、悪いとは思うが、それ以上にざまあみさらせ、という気持ちの方が大きい。
 雪輝が傷つけばまず間違いなくひなは悲しみの涙で頬を濡らし、鬼無子もまた苦渋の杯を呷ることになるだろう。
 ひなの悲しむ姿がありありと脳裏に浮かびあがり、凛はそうさせるのが自分であると思えば、言葉にはし難い罪悪感が巨大な黒い塊となって胸の中に生じる。
 それは胆力に富んだ凛をしても抱え込むのが苦しいと弱音を吐きたくなるほど、重く苦しいものであった。想像の上でさえそうなのだから実際に雪輝を傷つけてひなを悲しませたなら、いま思い描く罪悪感をはるかに上回るものが、凛の胸の中の戸を叩く事だろう。
 しかし、ああ、しかし。

――あたしはこいつを倒さずにはいられない。

 これまでの敗北の数々。それによって屈辱の泥濘に塗れていた凛の錬鉄衆としての誇り、生まれついての闘争者としての闘志、それらが凛の中で決してさえぬ炎となって、凛の心と体を突き動かす。
 これまでも、いまも、そしてこれからも凛はこの決闘の場に置いて、雪輝に対して抱く最大の想いは殺意の二文字。
 小柄な全身から無色の殺意を業火の勢いで放出する凛に、雪輝が気づかぬわけもない。敢えて気づかれる様に殺意を放出したのは、これで決着を着けると、凛が不退転の決意をしたからにほかならぬ。
 凛が飛び降りた枝に見えぬ瞳を向けた雪輝の視線の先で、鋼の蜘蛛が六本の足を広げて雪輝の全身を囲い込み、恋人同士の抱擁を思わせる力強さで雪輝に迫る。
 刃蜘蛛の足が閉じ切れば雪輝の五臓六腑を切先が貫き、雪輝の白銀の全身を血の赤で濡らすだろう。
 嗅覚と体毛を揺らす風の流れの変化から凛の所在と行動を把握した雪輝は、頭上から自分目がけて襲い来る凛の姿を精密に脳裏に描き上げる。
 折角凛の指の動きを覚えて、一度繰り出された攻撃であるなら、事前に予測ができるようになったと言うのに、視覚を潰されてはそれを活かせぬな、と雪輝は余裕があるのか、そんな事を考えながら、身を沈めて跳躍の事前動作を行う。
 雪輝の狙いは凛の首。
 凛の着こんでいる革の全身服ならば全力さえ込めなければ凛の首の骨を折るなり、頸動脈を貫く様な事にはならずに済むだろう。
 妖気の操作で爆発的に雪輝の身体能力は高められ、撓めた四肢に溜め込んだ力を、雪輝は直感と大気の流れを感じる触感を頼りに頃合いを計って爆発させた。
 大地を踏みしめていた雪輝の四肢が一息に沈み込む。足場に沈み込むほど凝縮された雪輝の跳躍は、白銀の狼を同色の目にもとまらぬ速さの砲弾へと変える。
 目と耳が潰されたままに、雪輝は脳裏に描き上げた凛の首筋へと大顎を開いて牙を唸らせる。
 刃蜘蛛の六本足が閉じ切るよりもなお早く、雪輝の牙は妖虎の革服越しに凛の首筋に突き刺さり、意図も呆気なく牙と牙とが噛み合う音を立てた。
 革服を突き破ったというわけではない。革服の中身がないのだ。雪輝の牙に抵抗を示すはずの凛の小柄な体が。
 凛が雪輝の嗅覚を無事のまま残したのはこの為であった。匂いを残しておくことで凛がそこに居ると雪輝に錯覚させるための布石であったのだろう。
 動揺のさざ波が雪輝の心の水面を乱し、それを認めて周囲の警戒に雪輝が意識を改めた時、既に凛は必殺の状態にあった。
 枝から飛び降りた直後に革服を背の刃蜘蛛ごと脱ぎ捨てて、秋風に裸身を嬲られながら、凛は両手に刃蜘蛛の足先を持ち既に着地していた。
 凛の手に持つ刃蜘蛛の足先と取り外された節足の間には幾本かの鋼糸が伸びており、凛はこれで雪輝を十重二十重に囲っていた。
 後は左右の腕を思い切り引き、雪輝を輪切りにしていくつかの肉塊に裁断すれば、ようやく、凛は念願の勝利の美酒を味わう事が出来る。
 きらりと木漏れ日を時折反射させる以外には、目に映す事も出来ないほど細い鋼糸は、実に髪の毛の百分の一ほどの細さでありながら、四百貫(約一・五トン)の重量に耐える強度を誇る。
 同時に切れ味もまた風に吹かれた鋼糸が触れただけで、厚さ一寸の鉄板が薄紙に刀で切りつけたかの如く、呆気なく断てるほど。
 刃蜘蛛の刃と同じ素材を、三日間寝ずに鍛え上げる事で造り出した鋼糸ならば、雪輝の多重妖気防御圏と体毛に対しても十二分な殺傷力を発揮しよう。
 筆舌に尽くしがたい万感の思いと、滂沱の涙を流すひなの姿が脳裏を同時に抱きながら、それでも凛は容赦なく腕を交差させた。
 引き絞られた鋼糸が雪輝の体を絡め取り、白銀の体毛にいくつものくびれを作る。鋼糸に触れた体毛が次々と切断され、妖気の防御圏と体毛の守りを突破した鋼糸がついに雪輝の地の肌に触れた時、凛は掌を焼く灼熱を感じた。

「なっ!?」

 隠せぬ驚愕が声となって凛の口から零れた時、凛の目の前で目に見えぬほど細い鋼糸は瞬時に高熱を帯びて気化し、鋼糸が繋いでいた刃蜘蛛の本体と、凛の手が握る刃先が高熱によって赤く変色している。
 雪輝が日々の暮らしと怨霊との戦いの中で手に入れた、妖気を媒介とした温度操作の異能、その攻撃的な発露を凛は初めて目にし、身をもって味あわされたのである。
 自分を縛り斬殺せしめんとした鋼糸を瞬時に蒸発させた雪輝は、跳躍の勢いをそのままに頭上にあった枝を足場にして、今度は天から地へと跳躍の矛先を変える。
 掌に火傷を拵えて、刃蜘蛛の足先を地に落とした凛の位置を、雪輝は肉の焼ける匂いと凛の挙げた驚愕の声から正確に認識していた。
 凛が咄嗟に落とした刃蜘蛛の足先を拾い上げようと指を伸ばした時には、既に再度跳躍を行った雪輝の影が、凛の身体に覆い被さっていた。
 瞬く間に凛の視界が転じ、一か月前とほぼ同じ構図が出来上がっていた。
 地面に大の字になって転がる凛と、その胸元に肢を置いて押さえつける雪輝、という構図である。
 ようやく霧霞に覆われている様ではあるが視覚が機能し始め、聴覚の方も徐々に耳鳴りが収まりだした雪輝が、確かに肢の下に凛の体温と質感を感じ、鼻に凛の体の匂いが濃厚に薫ることから、凛を捕まえたと認識する。

「今回は、随分と肝を冷やされたな」

 と瞼をしぱしぱと開いては閉じるのを繰り返し、耳の調子を確かめるようにぴらぴらと動かしながら、雪輝は足元の凛に勝利宣言を告げる。雪輝の中で勝負はもはや決したと分かる言葉である。
 雪輝が直に接触した状態であるなら、一瞬にも満たぬ力で凛の胸部を押し潰すも、収納している爪を伸ばして心臓を貫くも、あるいは今見せた様に凛の身体を業火に包んで消し炭に変える事も可能だ。
 前回と全く同じ体勢で敗北を告げられて、凛は下唇を噛んだ。そのまま上顎の歯が下顎の歯と噛み合いかねぬ強さである。
 凛の胸の中でどれだけの感情の嵐が吹き荒れたのか、目を閉じて心中の整理に集中する事十秒、凛は憤怒と悔しさに強張らせていた体を、唐突に弛緩させて長い溜息を吐きだす。
 再び敗北の泥沼に叩き落とされた事に対する負の感情に加えて、ひなを悲しませずに済んだという小さな安堵の混じる溜息であった。

「おい、早く肢をどけな。負けは認めてやるから、服を着させろ」

「なんだ、あの服の下には何も身につけておらなんだか。人間の世界ではそういうのを、はしたないとか慎みがないと言うらしいぞ」

「それを言ったらおまえなんて生まれた時から素っ裸だろうが」

「狼に人間の羞恥の概念を当て嵌められても困る」

 阿呆の癖に小生意気な、と凛は苛立たしげにそっぽを向いた。そんな凛の様子を見ながら、雪輝は微笑を浮かべて肢をどける。
 余裕のある様に見える雪輝ではあったが、今回ばかりは温度操作の異能を得ていなかったら、危うく凛に体をいくつかの肉塊に分解されかねなかった。
 次か、その次辺りで怪我を負わされるか、あるいは負けるかもしれんな、というのが雪輝の素直な感想であった。
 もっとも今回も敗北した凛はと言えば、特別に使用を許可された隕鉄から鍛え上げた刃蜘蛛を、糸状に加工したものとは言え瞬時に高熱によって気化された事に、いますぐにも頭を抱えたい所だった。
 硬度のみならず耐熱性にも富んだ刃蜘蛛でさえあの様であったのだから、通常の鉄製の武具では雪輝に触れた端から融解させられるか、蒸発させられてしまうだろう。
 ただでさえ純粋な身体能力だけでも手に負えかねぬ強敵であったと言うのに、雪輝が新たに得た異能は単純ながら、あまりにも強力という他なかった。
 衣ずれの音を耳にしながら、雪輝はようやく瞳が焦点を結んだ事と、正常に聴覚が機能し始めたことに、やれやれ、と嘆息の息を吐く。

「凛、もうよいか。準備が出来たのならひな達の所へ戻りたいのだが」

 革服を着終えて、刃蜘蛛の足を収納した凛は変わらず不機嫌な顔のまま、おう、と短く答えた。

「雪輝、お前、まだなんか力を隠していたりしないだろうな?」

 目を細めて低い声音で問う凛に、雪輝は真正直に返事をした。自分にとって不利になる要素であるにも関わらず、雪輝は隠す素振りも見せない。

「ああ、先ほどのあれのことかね。以前にも話した通りだ。まあ、この力に気付いたのもひなに抱きつかれていた時だから、ふとした拍子でまたなにか私が出来る事に気付くやもしれぬな」

「そうかい」

 下手をすればまた一つ二つと新たな力に目覚めかねぬという事実を突きつけられて、凛はますます不機嫌そうに下唇を突き出して、不服の意を表す。
 小さな子供が拗ねているような調子の凛に、雪輝は咽喉の奥で小さな笑い声を立てた。傍らに立った凛の耳にはぐるぐると唸っている様にしか聞こえない。
 なんだ、こいつ、腹でも空かしているのか? と凛は眉を八の字にして雪輝を見つめるが、当然雪輝は空腹を訴えているわけではないので、凛の視線を意に留めずひな達の待つ方へと肢を向ける。

「では行くか。二人を長く待たせるのは心苦しい」

「はいよ」

 まだ悔しさの火種が胸中で燻っている凛は、畜生め、と二重の意味で悪態を一つ吐き、雪輝の後に続いた。
 ほどなくして無事に怪我の無い姿を見せた一人と一頭に、ひなと鬼無子が安堵の笑みを浮かべたのは、改めて語るまでもないだろう。

<続>

ご感想への返事はまた後日致します。
今回において、本妻 ひな 本妻公認愛人 鬼無子 
と相成りました。凛は、ご近所さんですかね。次回からほのぼの激減、副題らしい血なまぐさい話ばかりになります。ご寛恕くださいますようお願い申し上げます。ではまた次回。お読みくださり、ありがとうございました。

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