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No.19828の一覧
[0] 少女の愛した狼 第三部完結 (和風ファンタジー)[スペ](2011/12/14 12:47)
[1] 命名編 その一 山に住む狼[スペ](2010/11/01 12:11)
[2] その二 出会う[スペ](2010/11/08 12:17)
[3] その三 暮らす[スペ](2010/10/23 20:58)
[4] その四 おやすみ[スペ](2010/06/28 21:27)
[5] その五 雨のある日[スペ](2010/06/29 21:20)
[6] その六 そうだ山に行こう[スペ](2010/06/30 21:43)
[7] その七 天外という老人[スペ](2010/07/01 20:25)
[8] その八 帰る[スペ](2010/07/03 21:38)
[9] その九 拾う[スペ](2010/07/12 21:50)
[10] その十 鬼無子という女[スペ](2010/11/02 12:13)
[11] その十一 三人の暮らし[スペ](2010/07/07 22:35)
[12] その十二 魔猿襲来[スペ](2010/07/08 21:38)
[13] その十三 名前[スペ](2010/09/11 21:04)
[14] 怨嗟反魂編 その一 黄泉帰り[スペ](2010/11/01 12:11)
[15] その二 戸惑い[スペ](2011/03/07 12:38)
[16] その三 口は災いのもと[スペ](2010/11/08 22:29)
[17] その四 武影妖異[スペ](2010/12/22 08:49)
[18] その五 友[スペ](2010/10/23 20:59)
[19] その六 凛とお婆[スペ](2010/10/23 20:59)
[20] その七 すれ違う[スペ](2010/10/23 20:59)
[21] その八 蜘蛛[スペ](2010/10/23 20:59)
[22] その九 嘆息[スペ](2010/10/23 20:59)
[23] その十 待つ[スペ](2011/03/25 12:38)
[24] その十一 白の悪意再び[スペ](2010/12/01 21:21)
[25] その十二 ある一つの結末[スペ](2010/11/08 12:29)
[26] 屍山血河編 その一 風は朱に染まっているか[スペ](2010/11/04 12:15)
[27] その二 触[スペ](2010/11/09 08:50)
[28] その三 疑惑[スペ](2010/11/13 14:33)
[29] その四 この子何処の子誰の子うちの子[スペ](2010/11/20 00:32)
[30] その五 虚失[スペ](2010/11/22 22:07)
[31] その六 恋心の在り処[スペ](2010/11/29 22:15)
[32] その七 前夜[スペ](2010/12/13 08:54)
[33] その八 外[スペ](2010/12/22 08:50)
[34] その九 幽鬼[スペ](2010/12/27 12:12)
[35] その十 招かざる出会い[スペ](2011/01/03 20:29)
[36] その十一 二人の想い[スペ](2011/01/07 23:39)
[37] その十二 味と唇[スペ](2011/01/16 21:24)
[38] その十三 雪辱[スペ](2011/02/16 12:54)
[39] その十四 魔性剣士[スペ](2011/02/01 22:12)
[40] その十五 血風薫来[スペ](2011/05/25 12:59)
[41] その十六 死戦開幕[スペ](2011/02/24 12:21)
[42] その十七 邂逅[スペ](2011/03/20 20:29)
[43] その十八 妖戦[スペ](2011/03/23 12:38)
[44] その十九 魔弓[スペ](2011/03/31 09:00)
[45] その二十 死生前途[スペ](2011/05/17 08:55)
[46] その二十一 仙人奇怪話[スペ](2011/05/22 21:31)
[47] その二十二 魔狼と魔剣士[スペ](2011/06/05 20:58)
[48] その二十三 真実[スペ](2011/06/20 12:56)
[49] その二十四 別離[スペ](2011/09/02 23:49)
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[19828] その十二 味と唇
Name: スペ◆52188bce ID:e5d1f495 前を表示する / 次を表示する
Date: 2011/01/16 21:24
その十二 味と唇


 幾万人もの巨人が夜空に腕を伸ばしたように大振りの枝葉は奔放に伸び、億年の歳月の間変わらず地上に降り注ぐ冷たく美しい月光を遮って、山中を覆う夜の闇をより暗いものに変えている。
 いまも湯気を立てる新鮮な血を舐める音、肉を骨から引き剥がす生々しい音、骨をかみ砕いてその中の髄を啜る音、断末魔の悲鳴が絶えることなく山のどこかしらで生まれては静寂の帳が完全に下りる事を拒絶している。
 この山には一夜たりとも完全な静寂の夜が訪れた事はないだろう。
 周辺に住まう無力な人々には近づくだけでも生命の終わりを意味する死と恐怖の代名詞、妖哭山のいずれ来る氷雪の季節の足音が、徐々に聞こえ始める秋の夜。
 冴え冴えと輝く月を夜天に戴く山中の、織りなす森の木々が開けたとある一角に建てられた樵小屋の窓には、木板の代わりに炎で炙っても解ける事のない不可思議な氷が嵌められて、四角に区切られた光を外に零している。
 その樵小屋の中に、ぱしゃん、と小さな水音が一つ木霊した。囲炉裏で燃える火に照らされる内部は、絶えずもうもうと噴き上げる湯気によって白い紗幕が下りた様に煙っている。
 水を打つ音にわずかに遅れて、もうもうと白い湯気を立ち上げる湯面に、小さな波紋が広がった。
 波紋の源は白銀の魔狼雪輝を大黒柱にして、一頭の妖魔と二人の少女達が暮らす樵小屋の中に設えられた、岩石製の湯船である。
 一見すれば刀を振りまわす事など出来そうにもない細腕の女人が、巨岩を一刀を片手に斬って形を整えて、湯を張る内部を鑿も何も使わずに十本指だけで砂を掬う様にしてくり抜いて作ったとは、世の諸人が信じまい。
 雪輝達一行が予想をはるかに超えて様々な体験を強いられた七風の町から帰ってきて、一刻(約二時間)ほどが経過している。
 凛とこの樵小屋で別れた後、買いこんだ荷物を樵小屋に仕舞い終えて一段落が着き、掻いた汗を流すことになったのである。
 行き帰りの往路を雪輝の背に乗って済ませた為、ひなの小さな体に疲労は全くなかった。
 また雪輝の近くに居る限りにおいては、雪輝自身が周囲の気温をひな達の適温に保っているから、実際の所は風呂に入るほどの汗は掻いていない。
 とはいえ人の流れが激しい七風の町中を長時間歩きまわった為に、埃が着物や髪に着いて汚れてしまったのは事実であるから、汗を流す以上に身体に着いた汚れを落とす事が主な目的である。
 桜色がかった乳白色の風呂用薬液のかすかに甘い香りを胸一杯に吸い込み、ひなは湯の心地よさに長く息を吐く。
 大量の湯に暖められて血色の良いひなの頬を見る限りにおいては、帰り道での苗場村の村人たちとの遭遇は、ひなにとってなんの心労にもなっていないように見える。
 ひなは後ろを振り返りながら言った。

「気持ち良いですね、雪輝様。初めてのお風呂はいかがですか?」

「ふぅむ。暖めた水に身を浸すのは、心地よいように感じられるな。もっともひなと一緒だからかもしれないな」

 全身を美麗に飾る白銀の毛並みを湯と湯けむりで濡らした雪輝が、自分に背中を預けているひなに答え返す。
 人間なら成人男性でも四、五人は余裕を持って入れる岩石の湯船であったが、肩高約六尺、全長十数尺か二十尺にもなる雪輝が入るとなると、流石に全身をまっすぐに伸ばすわけにもゆかず、雪輝は体を三日月の様に柔軟に曲げて入浴している。
 傍から見ると窮屈そうに見えるが、骨格と筋肉がよほど柔軟にできている様で、雪輝に苦しげな様子は見られない。

「ふふ、そうですね。私も一人で入るよりも鬼無子さんと一緒に入る方が楽しくて心地よいですし、雪輝様の仰られる通りかもしれません」

 くすくすとひなは慎ましく笑う。
 辺境の寒村に生まれ育った村娘と言う生い立ちの主であるのに、ひなの所作の一つ一つは野卑さの無い品の良いものである。
 ひなが大口を開けて、悪く言えば下品に、良く言えば元気良く笑う所を見た事がないな、と雪輝は思った。
 とはいえ心底から自分よりもひなを優先順位のはるか上に置いている雪輝であるから、悪く見える笑みであれ、良く見える笑みであれ、それがひなが浮かべるとなれば喜ばしく感じて満足するに違いない。
 うっすら桜色に染まる湯に浸かっているひなは、幼い体に手拭いを巻いて隠すという事はしておらず、雪輝の目に生まれたままの姿を晒しているが一切抵抗や羞恥の念を感じている様子はない。
 ひなには心と生命を捧げる対象である雪輝に対して、自分の心と体を隠すという発想が一切ない。
 ひなだけでなく鬼無子と凛も、以前の滝での水浴びで雪輝が不用意な発言さえしていなかったら、いまでも雪輝に裸身を晒す事には特に問題を感じていなかったかもしれない。
 もっとも鬼無子に関しては自分が雪輝に向ける感情を理解した今となっては、羞恥心に頬を染めながら、雪輝との混浴を断固として拒絶するだろうし、実際に雪輝との混浴を辞退し、ひなと雪輝より先に入浴を済ませている。
 鬼無子は今は火の粉が爆ぜる囲炉裏の前で寝間着に着換えて、自在鉤に吊り下げた鉄鍋の中身をかき回している。
 鉄鍋の中では入浴前にひなが下ごしらえを済ませた味噌仕立ての牡丹鍋が煮られていて、山菜や茸の類もいっしょくたに煮えて、良く味が沁み込んでいるのが見てとれ、食欲をそそる匂いがぷんと鉄鍋から漂っている。
 今回の雪輝との混浴はひなからの提案によるものだ。
 今までは二人と一頭で一緒に入るには流石に狭いという事もあって実現しなかったが、最近雪輝に対して積極的な行動に出ているひなが、より雪輝や鬼無子と親密になろうと考えて口にしたのである。
 恋心の自覚により雪輝とひなに対する遠慮と新たな配慮が生まれた鬼無子は、たいていの事は受け入れるものの流石にこれを断ったが、雪輝がひなの喜々とした提案を断るはずもなく、小さな少女と巨体を誇る狼が共に風呂に入っているという奇妙な図が出来上ることとなった。
 水浴びなら何度かした事はあったが湯に入るという経験は初の雪輝は、ひなと共に入っている事もあってか非常に寛いでいる。
 岩風呂の中で身を曲げるという窮屈な姿勢ではあるが、雪輝はそれを苦に感じている様子はなく、うっすらと目を細めて湯の温かさとひなの感触を満喫している。
 ひなは雪輝の斜めに傾いで投げ出されている右後ろ脚に小振りな桃を思わせるお尻を乗せ、その肢の付け根から腹部のあたりに背中を預けている体勢だ。
 雪輝に対してひなは遠慮なく体重を預けて、無防備に裸身を晒して雪輝の目を楽しませていたが、その一方で雪輝はきちんと食べているにも関わらず、ほんのかすかにしか感じられないひなの重さに少しばかり不安の念を抱いていた。
 食べる量と体重増加の比例を考えれば、ひな以上に鬼無子など五倍も十倍も重くなければおかしいのだが、ひなの場合は出会った頃の無残な姿を雪輝が今も鮮明に覚えている事もあって、不安と心配の両方の念を些細な事にも抱いてしまうようだった。
 以前、鬼無子に女性に重いと言ってはならない、と教えて貰った事を思い出した雪輝は、軽いと言う分には問題なかろうと、ひなを丸呑みに出来る口を開いて不安の念を素直に告げる。

「ひなはまるで羽毛の様に軽いな。あれだけ食べているのに、あまり血肉になっておらぬのか。それとも本当はあの程度では足りておらぬのかね? なれば今少し狩りの頻度を増やそう」

 そう言って雪輝はひなの左の頬をぺろりと舐める。この両者の関係を知らぬ者が見たら雪輝がひなの事を味見している、と千人が千人とも勘違いしたことだろう。
 しかして鬼無子やひなにとっては巨大な狼のこの行為は食欲の表れなどではなくて、純粋に親愛の情によるものであると十分に理解しているから笑顔を浮かべて受け入れる。
 自分の左頬や首筋に擦り寄る雪輝の鼻先に左手を添えて、ひなは湯水を弾く雪輝の毛並みを優しく撫でた。
 いつものさらさらと毛並みを梳く指から零れる雪輝の毛並みも、湯に浸るとまた違った触感になり、ひなの指に新鮮な楽しみを与えている。
 諭す様に雪輝に告げるひなの声はどこまでも穏やかであった。

「食べる量が足りていないという事はありませんよ。いつもお腹いっぱい食べておりますから。雪輝様にお会いした頃よりはちゃんとお肉もついておりますし、背もすこし高くなっておりますでしょう」

 ひなにすらりと伸びる鼻筋を撫でられながら、雪輝の青い視線はひなの頭頂部の当たりに焦点を合わせる。
 最初に出会った時から今日にいたるまでのひなの姿を日毎に克明に記憶している雪輝であるから、およそ一月前と今のひなの変化をほぼ精密に把握しており、確かにひなの言うとおり小さな少女の背が伸びている事は理解している。

「高くなったと言っても一寸(約三センチ)にもならぬであろう。元が痩せ細っておったから多少ふくよかになりはしたが、それでもひなはまだずいぶん細身に見える」

 しかし雪輝の口調からは、その程度のひなの成長具合ではいまひとつ納得がいっていない事が伺える。
 ここまで雪輝と話をして、ふと、ひなは在る事に思い至る。ひょっとしたら、雪輝様は人間の子供の成長を、野の獣と同じように考えているのかもしれないのではないか、と。
 たいていの獣は一年かそこらで成獣に至るが、人間はそうはいかない。大体この時代なら、武士階級なら十五、六歳、早ければ十二、三歳で元服を行い大人と認められるし、農民などもおおむねその年で一人前扱いをされる。
 そもそも労働力としてならば十歳になる前から農作業に駆りだされるのが当たり前である。
 野の獣と人間とではかくも成長に必要とされる年月には違いがあるのだが、それを雪輝が理解しているとは限らない。
 なにしろ長時間人間とまともに接するのはひなが初めてであるから、人間と言う生き物に対する知識があらゆる点で不足しているのだ。

「雪輝様、人の子というものは一月や二月でそうそう大きくは成り難いものでございますよ。ひょっとしたら中にはその様な方もいらっしゃるかもしれませんけれど。私は雪輝様が思うほどには大きくなっていないかもしれませんが、食べた分はちゃんと私の身体になっているはずですよ」

「そういうものか。確かに私は同じ人間と一月近く共に過ごした事はないから、生育の判断をつける基準と言うものを知らぬ。私の心配は杞憂か。むろんそうである方が良い事だ」

 これは雪輝の言葉の通りで、雪輝はこれまで人間の老若男女とは山の民限定ではあるが、接した経験はあったもののそれはほんの一時のものばかりで、ひなのように何日にも渡って行動を共にするのは現状が初めてになる。
 ひなの言葉を耳にして頭を捻っていると、雪輝は毎日を共に過ごしたわけではないが、一月ごとに決闘を繰り返していた凛が、初めて会った頃と今を比べても体つきにそう変化がない事に気づいた。

「そう言えば凛めも見るたびに大きくなっているか、といえばそうでもないな。あの娘もまだ子供であるからすぐ大きくなるものかと思ったが、そうでもないようであるし、私の気にし過ぎというわけか」

 実際には凛の場合は既に成長期が終わりを迎えているから、本来ならぐんと体つきが大人びるはずの年齢にあっても変化が見られないのであって、凛の成長過程をひなに当てはめるのは正確ではない。
 ただ、この雪輝の言葉から察するにこの狼の判断基準では、凛は人間の中でも子供に分類される様だ。
 明言しているわけではないが雪輝の鬼無子に対する態度を見るに、鬼無子の事は大人扱い――少なくとも一人前扱い――はしている様であるから、凛と鬼無子の間に雪輝にとって人間の大人と子供の区別をつける境目が存在しているのだろう。
 ひなは、それがやっぱりおっぱいの大きさの違いなのではないだろうか、と考えていたりする。
 年齢で言えば鬼無子と凛は二つしか違わないのだが、両者の肉体の生育具合の差は埋めがたく、途方もなく深い溝が存在している。
 その溝はひなにとっても途方もなく広大で深い溝の様に感じられていて、密かに憧れている鬼無子のような体つきに、自分はなれないのではないかと時折悩んでいる。
 鬼無子と同じ年になるまで七年余りの猶予があるとはいえ、自分が鬼無子の様な体つきになれるとはどうしても信じ難いひなは、大きくなっても自分が雪輝に大人扱いされないと考えると、胸の奥が切なくなってしくしくと心が痛みを訴える。
 ひなは大きくなったら、雪輝と番に、夫婦になって、そして子宝にも恵まれたいと、心底から願っていた。
 しかしながら、ひなの記憶の中に鮮明に刻印されている母は、お世辞にも胸が大きいとは言い難かった。

「凛さんは鬼無子さんみたいなお身体になりたいそうですよ。私も鬼無子さんの身体つきを見ていると、あんな風にとても女性らしいお身体が羨ましく思えますから、凛さんのお気持ちもわかります」

 少し恥ずかし気に自分の身体に手を回すひなの顔を、雪輝は首を伸ばして覗きこむ。鬼無子とひなの体を比べて、なにか負い目に感じる様な事があるだろうかと、雪輝は不思議そうな色を瞳に浮かべている。

「そう言うものか? 鬼無子の事はたしかに美しいとは思うがひなとてそう引けを覚える様なものではなかろう。ひなも美しいと思うぞ。可憐と言っても良いのではないかね」

 人間が人間に対して抱くのと同じ美醜感覚を雪輝が有している事は、既にひなも知っていた事であったが、たとえば身体つきの豊かさなどに関する認識については、また異なるらしい。
 まあ単に性的な趣味嗜好の違いと言う物は人間にも千差万別であるから、狼の妖魔であるが故なのか、単に雪輝が女性の身体つきの差異について気に留めない性格の主なのかは謎であるし、ひなにはその点を追求する気はなかった。
 ありのままの自分を美しい、可憐とまで褒めてくれる雪輝の言葉。それだけでひなには幸せを噛み締めるには十分すぎたからだ。

「とんでもありません。鬼無子さんと私とではまるで違う生き物みたいでしょう? あと何年かしてからでないと結果は分かりませんが、私も鬼無子さんみたいになりたいと思っている、と言う事は覚えておいてください」

 ひなは自分の胸元に手を当ててから、鬼無子のそれを描く様に手で円を描いて見せる。自分と鬼無子の乳房の大きさを示すための表現である。
 ひなの握り拳一つ以上に、両者の胸元を飾る胸乳の大きさには厳然たる差が存在している。
 雪輝はとりあえずそんなものか、とあまり深くは考えずにひなの言う事に黙って耳を傾けていた。
 元々呑気な性格をしており万事に無頓着な所があるから、人に言われた事を馬鹿正直なほど素直に受け取るのは、この狼の長所でありまた短所でもあったが、そこがひなと鬼無子に愛される理由の一つである。

「あと、凛さんを鬼無子さんと比べる様な事も言ってはいけませんよ。なにより凛さんがお気になさっている事ですから、雪輝様にその事を言われたらとてもお怒りになられますからね。また水浴びをした時の様に、凛さんに殴られたいと仰るのならばお止めいたしませんけれど」

 迂闊な事を口にする事の多い幼い我が子に、優しく聡い母が言い聞かせるひなの口調である。

「私も誰かに殴られるのは好きではないからな。覚えておこう。ところでまだ入っていて大丈夫か? 湯あたりしない様に気をつけなさい。熱くはないか、それともぬるくはないか?」

「ちょうど良いように思われます。もう少し入っておりましょう。せっかく雪輝様とご一緒しているのですから」

 にこりと笑むひなに、雪輝はそうかと短く答えて押し黙り、伸ばしていた首を引っ込めて首の付け根のあたりまでお湯の中に浸かる。
 確かにひなの言うとおり折角ひなと一緒に入浴しているのだから、この時間を満喫しないのは損であると、この狼も考えた様である。
 ひなは揃えていた両足を崩し、雪輝に自分の体をしなだれかかる。そうしてから恋の熱が冷えぬ恋人同士が互いの腕を絡ませる様にして、ひなは自分の左腕を雪輝の右前肢に絡ませて、ちょこと頭を雪輝の右肩に預ける。

「本当に気持ち良いですね、雪輝様」

「うむ」

 実に満足げなひなと雪輝のやりとりだ。雪輝の姿形とひなの外見の幼さを別とすれば、死ぬまで寄り添って過ごすに違いない恋人同士としか思えぬ一頭と一人であった。
 一人と一頭がのんびりと心身ともに安らぎを覚えていた一方、鉄鍋の中身を延々と木製のおたまでかき回している鬼無子は、ぶつぶつとなにやら口にしながら思案に耽っていた。
 普段は青い組紐で纏めている栗色の髪をそのままに背に流し、かすかな湿り気を残す髪からは甘い香りがしている。
 白雪も黒ずんで見えるのではと目を疑うほど眩い白皙の美貌はうっすらと桜色に染まり、雪輝との同居暮らしで妖魔化が進んだことも相まって、生来の美貌は鬼無子の肉体が純潔であるにもかかわらず、国を腐敗させる淫美女のごとく艶めかしい。
 手に持っているのがおたまといささか不似合いではあったが、白蝋の細面に物憂げな影を浮かべている様は、もしこの場を不意の訪れた者がいたならば、戸を開けて鬼無子を見た瞬間に心奪われて朝までその場に立ち尽くすであろう妖美さである。
 しかしながら、今、鬼無子の精神を捉えて離さぬのは、その類稀なる美貌には決して相応しいとは言い難い事柄であった。
 いや、ある意味では相応しいのかもしれない。
 ぐるぐると飽きることなく鉄鍋をかき回す鬼無子を仔細に観察すれば、凝固させた巨大な血の塊から削り出したかのように赤い唇が、忙しなく開かれては閉じ、閉じては開かれてを繰り返している事に気付くだろう。
 呟かれているのはこんな言葉であった。

「やはり恥ずかしがらずに素直に雪輝殿と一緒に入るべきであったか。いやしかし、いくらなんでも雪輝殿に裸身を晒すのはそれがしにはまだ早いというか心の準備がいる。いやいや、ひなはまるで恥ずかしがらずに雪輝殿と共に湯に浸かっておるし、それがしもまるでやましい事ではないと言う様な態度で入浴すれば、ううむ。だが次の機会もあるだろうし、でもやっぱり恥ずかしく思えるし、いやそもそもそれがしとひなと雪輝殿で入るには、流石に狭いから入るとしたならば相当に密着することになる。そうなってはそれがしがいつも通りに振る舞えるわけもない……。むう、それがしはどうすることが正しき道であると言うのか。難しい、難しすぎる。冥府の父上、母上、愚かな不肖の娘になにとぞ良き知恵をお授け下され。それがし、色恋沙汰に関してはなにも教わっておりませぬゆえ、どうすればよいのか分からぬのです」

 凄艶と言える雰囲気と美貌にも関わらず、心は純真無垢な乙女である鬼無子は、雪輝と一緒に入浴するというひなの提案を断った事に、相当に未練を抱いてぐちぐちとこだわっている様であった。
 今は亡き鬼無子の父母も、よもや退魔士として一族の技術と知識の全てを伝えて育て上げた娘が、狼の妖魔相手に恋の悩みに陥るなどと、万に一つどころか億に一つも考えた事はなかっただろう。
 凛がこの草葉の陰で両親がさめざめと涙する様な鬼無子の呟きを耳にし、この姿を目にしていたならば、もはや鬼無子と言う人間に対する評価は地の底へと急落下したに違いない。
 過日の幸福な悪夢を見た事をきっかけに自身の心を知って以来、鬼無子は人生に置いて初めて足を踏み入れることになった“恋愛”という、ある意味この世界で最も過酷な戦場に戸惑ってばかりで、百戦錬磨の退魔士として培った経験も胆力もなんら活かせずにいた。

「鬼無子さん、お待たせしました。お鍋も良く煮えてますね」

 思考の海の底を歩いていた鬼無子は、不意に背中に掛けられたひなの声に、ようやく思考の海から引きずりあげられた。
 思わず心臓を口から吐き出しそうになるほど鬼無子は驚きに見舞われたが、ひなが風呂を終えた事に気付けなかったのは自分の失態であると、自分自身に叱責をしてこの驚きを無理矢理に飲み込む。

「うむ。寒さが増してきたからな。風呂も良いが鍋ものも良い。何より空腹を満たせる」

 食欲をそそられていたのも事実であったから、一度鍋の中身の方へ意識を向けると、途端に腹の空き具合が気になる自分に、鬼無子は浅ましいと今更ながらに恥ずかしさを覚えた。
 腹の虫が鳴らなかっただけまだましだと自分を慰めるのも、なんだか情けなく感じられて、鬼無子は湯の熱以外にも恥じらいで頬を更に赤くする。
 普段の家事に関して鬼無子はひなを良く手伝っているが、こと料理に関しては基本的にひなまかせであった。これは鬼無子が家事を一通り教わりながらも職業柄、味よりも栄養を最優先にした栄養一辺倒の料理しか知らなかった為である。
 しかしながら三食毎度、美味なのものを提供してくれるひなに対して、料理をまかせっきりにしている事が、流石に鬼無子は申し訳なく感じてひなに教えを請いながらではあるが最近では一緒に台所に立つようになっていた。
 本日の鍋料理にしても味付けから鍋に適した具材の切り方など細かい点に至るまで、鬼無子はひなに指導を頂きながら用意の手伝いをしたのである。
 質素な寝間着の上に綿入れを着こんだひなが、鬼無子から見て左手側に座り、右手側には雪輝が腰を落ち着ける。
 雪輝ほどの体躯と長い体毛の持ち主ともなれば、一度濡れ鼠になったあとに体を乾かすのには長時間を要するだろうが、雪輝自身の妖気を媒介にして周囲の熱量を操作する異能を獲得している。
 その異能を駆使して雪輝は体温と表皮周辺の温度を挙げて、風呂から上がった時に全身にまとわりついていた湯の滴をすべて蒸発させており、いまは全身の毛がふわふわと空気を孕んでいつも以上に柔らかな感触となっているのが見てとれた。
 我知らず、鬼無子の手が雪輝の毛並みを撫でようとわきわきと開いては閉じてを繰り返していたが、

「ではいただきましょうか」

 というひなの言葉によって励起された食欲が、指の動きを抑え込んで、一も二もなく鬼無子はひなの言葉にうなずいていた。
 雪輝とひなと鬼無子とでいただきますと唱和してから、箸と口とが休むことなく動いては笑い声が零れて、ここが妖魔の跋扈する死地とは信じられぬほど和やかな時間が続いた。
 頻繁に鬼無子が箸を動かして鍋と雑穀飯を片づけている中、不意にひなが雪輝の視線がじいっと先ほどから自分と鬼無子の茶碗や、鍋に向けられている事に気づいて、小首を愛らしく傾げながら口を開いた。

「雪輝様、私達の顔に何か付いておりますか? それともお気に障る様な事がありましたでしょうか」

「うむ? ああ、いやそうではないよ。ふむ、そうだな、言うか言うまいかと前から考えておったが、せっかくの機会だから言っておくか」

 この単純な思考で生きている狼が言うか言うまいか前から考えていた、などというものだからひなと鬼無子は、これは真面目な話か、と箸を止めて雪輝の言葉の続きを待つ。

「私は生まれてこの方、口にしたものはせいぜいが水くらいのものだったが、ひなと一緒に暮らすようになってから、人間の食事と言うものに興味を覚えたのだよ。腹が減るという感覚は理解しがたいものであるが、君達が嬉しそうに食事しているのを見ると、やはり興味を注がれるものがある」

「では雪輝様は以前から私達と同じように食事をしてみたかったのですか?」

「迷惑になるかと思って口を噤んでおったのだが、興味の方が勝ってしまって、ついな。あまり気にはかけんでおくれ。いずれにせよ私は餓える事のない体であるからな」

 言われてみれば、以前から雪輝はひな達の食事風景を興味津々と言った様子で観察していたが、そこまで興味を抱いていたとは少しばかり意外で、ひなと鬼無子はお互いの顔を見つめて、くすりとひとつ零した。
 こちらが思っていた様な深刻な事ではなかった事に対する安心が一つと、いかにも呑気に生まれついている雪輝らしい考えであったから、和やかな笑みが自然と浮かび上がってきたのである。

「では正直に告白なさった事ですし、お食べになられますか?」

「うむ。量は小鳥の餌ほどで構わぬ。私は腹の空かぬ体ゆえな」

 好奇心を隠さず耳と尻尾を動かしながら頷く雪輝の隣にひなは腰掛けて、木椀の中で良く味のしみ込んでいる椎茸を一つ、箸でつまむ。

「はい、雪輝様。お口を開いてくださいませ、あ~ん」

「あ~ん? なにかのまじないか?」

 雪輝のこれまでの生涯を考えれば、ひなの言葉の意味を理解できなくとも仕方はない。あら? とひとつ零してから、ひなは差し出した箸を椀の中に戻して赤ん坊に言い聞かせるように優しく雪輝にこの行為の意味を教える。

「御存じありませんでしたか。こんな風に口を開くと、あ~ん、となりますでしょう。ですからこう口を開いてください、という意味であ~ん、と言い表すのですよ」

 見本を見せるのが手っ取り早いと、ひなは椀と箸を手に持ったまま自分の小さな口を開いて、あ~ん、という言葉の意味と行為について雪輝に説明する。
 小鳥が親に餌をねだっている様で、可愛らしいものだと雪輝は思うが、自分がそうするのはどうにも似合わぬように思えて、少々くすぐったく感じられた。
 確かに牛馬をも上回る巨躯を誇る雪輝が、あ~んと口を開いてもそれは獲物を待ち構えているようにしか見えないだろう。
 雪輝が行為の意味を理解した、と判断したひなは持っていた箸を再び動かして雪輝を促す。

「では雪輝様、あ~んしてください。あ~ん」

「こうか? あ~ん」

 真珠色の牙がずらりと並ぶ雪輝の口が、ひなの目の前でゆるく開かれた。狼の妖魔が口を開いているのだから、近づく事さえ遠慮したい所であるが、ひなは自分の言うとおりに出来た雪輝の事を褒めてあげたい気分だった。
 例えるなら、それは初めて他人の手を借りずに着替えの出来た子供を褒める親の心情に極めて近しいものといえるだろう。

「はい、よくできました。どうぞ、御味見くださいませ」

 ひなが自分の口の中に置いていった椎茸を、雪輝は慎重に牙を噛みあわせて咀嚼を始めた。本人の言が確かならば、雪輝がこれまで口中に含んだ事のあるものは水と、敵対した妖魔の噛みちぎった血肉くらいのものであろう。
 口中に含んでさらに嚥下したとなれば、本当に水くらいのものであるから、雪輝は初めて固形物を噛み、味わう経験をしていた。
 幼子の一人くらいなら一呑みにできる雪輝の巨大な口に、たった一つっきりの椎茸ではどう考えた所で量が足りていない事は確かで、ひなは雪輝が催促したらすぐに次を出せるように、ちょこんと正座した膝の上に木椀を乗せて待っている。
 もぞもぞと牙と牙とが噛み合わされた雪輝の口がしばらく動き、ごくりと飲み込む音が続く。
 雪輝の食事初体験の感想を聞き逃さぬようにと、ひなと鬼無子は雪輝の取る言動に熱い視線を寄せる。
 すでに牡丹鍋を九割方胃袋に納めていた鬼無子が、箸を動かす手を止め興味を抑えきれぬ様子で問うた。

「いかがですか、雪輝殿。どのように感じられますか?」

 狼の妖魔と戦った経験はあったが、味覚がどうなっているかと問いかけた事などあるはずもなく、鬼無子は夜空の色をした瞳に好奇心の輝きを瞬かせている。

「なんといえば良いのか。味は好ましく感じられるな。もっと食べたいと感じる事が美味と言うのならば、私にとってこの味は美味なのだろう」

 自分でも正確に表現する言葉が見つからないのか、雪輝は何度か首を捻って、いま自分の味覚が感じている味を伝えようと口の中で言葉を転がす。

「鬼無子さん、どういうことでしょう? ひょっとして美味しいとか不味いとか、そういった事も雪輝様には分からないのでしょうか?」

「そうだな。雪輝殿が食事をとるのが初めてという事なら、そもそもしょっぱい、甘い、辛い、苦い、といった感覚も良くお分かりになっていないのではないだろうか。自分が感じている味を、甘いと言うべきなのか辛いと言うべきなのか、そういった所から分からぬのかもしれん。まあ、そもそもそれがし達と雪輝殿の味覚が同じかどうかはこれから調べねば分からん事なのだが」

「では雪輝様の舌は赤ちゃんみたいに何も知らないと考えた方が良いかもしれませんね」

「多分、そんな所だろう。となればまず味の判別が着く様に食べるものを考慮した方が良いのではないか?」

「なるほど、そう言えば雪輝様は狼ですけれど、なにか食べてはいけないものがあるのでしょうか?」

「む、そうだな。一口に狼の妖魔といっても色々いるが、雪輝殿の様な天地万物の気で血肉を構成している類のものは、天然自然の毒物に対してほぼ完璧な体勢を有している場合がほとんどだが、たしか狼や犬は葱の類に貝、烏賊や蛸、葡萄を与えてはいけないと聞いた事がある。海のものは生でなければ大丈夫だったかな?」

「結構あるものなのですね」

「茸や山菜の類はどうだったかな。それがしの知っている範囲で飼われていた犬や猫は、一匹残らず戦闘用に改良された魔犬、魔猫で、ある程度毒をもった妖魔の血肉でも平気で食べていたから、あまり参考にはならぬしな」

「雪輝様もその猫や犬みたいに毒に対してお強ければよいのですけれど」

 ひなと鬼無子は意見を交わし合いながら揃って思案顔となり、雪輝はと言えばここは自分は黙っておくべきか、と口を噤んで二人が妙案を出すのを待っている。自分がこの場ではあまり役に立たないと言う自覚があっての事であろう。

「う~ん、雪輝様、申し訳ありませんがお食べいただくのはまたの機会にして、まずは根本的なしょっぱさや酸っぱいという味がどんなものかお勉強いたしましょう」

「二人がそう考えるのならその様にしてくれて構わぬよ。食事は私にとって未知の領域であるから、経験のある二人に任せるのが最良の道であろう」

 二人を信頼しているが故の雪輝の発言と取るべきか、それとも二人に全てを丸ごと投げ出した無責任な発言と取るべきか、微妙な所であったが鬼無子とひなはさほど気にしなかった。
 この手の雪輝の発言にはすっかり慣れていたからであるし、恋慕と言う名の極めて度の強い色眼鏡を掛けている二人には、雪輝の言動は大抵が好意的に解釈される傾向にある。
 鍋の残りを片づける間雪輝に待ってもらい、ひなは盆に塩や味噌などを乗せて、囲炉裏の傍でじっと待っていた雪輝のもとへと急いだ。

「お待たせしました、雪輝様」

「いや、私の我儘から口にした事だ。要らぬ苦労を掛けているのは私の方だ。頭を下げる必要などないよ」

 ひな達と出会うまで一日を浮雲を眺めて過ごす事の多かった雪輝である。ひなが存在を感じられる範囲に居る限りにおいては、であるが気は長く出来ている。

「では早速ですが、まずはお塩から試してみましょうか」

 ふむ、とひとつ頷いて雪輝が口を開く。ひなと一緒に片付けを手伝っていた鬼無子も雪輝の反応に興味を隠さぬ様子で、注視している。

「雪輝様、あ~ん」

「あ~ん」

 在る程度加齢すれば人前では気恥かしくてとてもではないが出来ない行為であるが、人間的な羞恥の感性に乏しい雪輝は、鬼無子に見られていてもまるで気にした風はなく、ひなも愛しい方の見せる幼い言動が可愛らしくて仕方がない様子。
 塩を溶かした水を雪輝の口の中に落とすと、雪輝は再び口を閉ざしてもごもごと舌を動かして塩の味を感じる事に集中している。
 ほどなくして雪輝の眉間に皺が寄る。

「ふむ、これは、あまり多量に口にするのは体に良くないのではないかね。汗をかいた時などには必要かも知れんが」

「雪輝様、それがしょっぱいという事でございますよ。仰られる通りに採り過ぎては体に良くありませんけれど、人間だけでなく他の生き物にも必要なものです」

 言われてみると、確かに野の獣や妖魔の類が塩分を求めて岩を舐めている光景を、以前目撃した事があったと雪輝は記憶の一部を思い起こす。
 雪輝のちぐはぐな知識の中には無かったが、それは妖哭山に点在する岩塩から塩分を摂取しようとしていた光景である。
 雪輝に岩塩の知識があり、もっと早く思い出していたならば、ひな達は少なくとも塩に関してはわざわざ町に買いに行く必要も、凛に調達してもらう手間もかからなくなっていたのだが、その時の雪輝はなぜ岩を舐めているのだろう、としか思わなかったのである。

「これがしょっぱいか」

「はい。しょっぱいという味です」

「しょっぱい、ふむ、しょっぱいか」

 と繰り返す雪輝はその巨体と声から判別できる青年らしき印象とはかけ離れて、幼い子供の様だ。雪輝の様子を見守るひなと鬼無子の目元と口元は緩み、なんとも穏やかな笑みを浮かべる。
 雪輝は舌を伸ばして口を一舐め。

「あとはどんな味があるのだね」

「では次は」

 ここで続いたのはひなではなく、鬼無子であった。やや緊張した面持ちで手には椀と匙を持っている。

「そ、それがしが」

 普段と違って肩肘張った様子が見てとれる鬼無子に、雪輝は不思議そうな瞳を向けたが、最近の鬼無子には良くある事とさほど気には留めなかった。

「ふむ、ではよろしくお願いする」

「はっ! 微力を尽くしてお相手させていただきまする!! で、では、あ~んしてくださりませ」

「あ~ん」

 素直に口を開く雪輝に匙を差し出す鬼無子の顔は、これ以上ない至福の顔に蕩けていた。
 こうして鬼無子とひなに代わる代わる匙を差し出されて、雪輝は二人の気が済むまでの間、ひたすら口を動かして味を楽しむ作業に没頭させられた。
 まるで自分が二人のおもちゃにでもなった様だ、と雪輝は思ったが懸命にも口にする事はなかった。


 明けて翌朝。
 最低限の朝の日課を済ませたひな達は雪輝を先頭に山中のとある場所を目指して歩を進めていた。
 幾許か風の運ぶ血の匂いが濃い事に、雪輝はかすかに鼻先に皺を寄せる。
 自分がひなと肩を並べて、という言い方が正しいかは分からぬが、風呂に浸かっていた昨夜の間に妖哭山山中では常よりも激しく生命を賭した闘争が行われていたらしい。
 その日によって繰り広げられる凄惨な闘争は流血の量を変えるが、ここ数日に掛けて風に紛れる血の匂いと、朝霧のごとく漂う怨嗟の念が常よりも多い日が続いている。
 雪輝が妖哭山に誕生してからそう長い年月が経過しているわけではなかったが、雪輝の生物的な本能と霊的な知覚が、血臭と怨念の増加をなにがしかの凶兆として捉えて、雪輝の精神の水面に警戒の波紋を立てているのかもしれない。
 雪輝ほどに五感が鋭敏ではないが、潜った修羅場の数と滅殺した妖魔の数では同等かそれ以上であってもおかしくない鬼無子は鬼無子で、わずかな山の雰囲気の変化を感じているのか、周囲を巡らせる視線が常よりも忙しない。
 妖哭山で十指に入る大狼を滅ぼした力を持つ雪輝の周囲には、並大抵の妖魔は近寄ることがなく、いるとしても妖哭山でも底辺に位置する力の弱い妖魔や食物連鎖の下位に位置する動物がほとんどである。
 妖哭山では弱者に位置する彼らは、自身の生命を守る時と弱者を助ける場合においてのみ牙を剥く雪輝の性情を理解し、雪輝の行動範囲の中に住むことでその他の妖魔達から身を守っている。
 その為に、樵小屋の付近はともかくいま、雪輝達が歩いている辺りまでくればそれなりの数の小動物や小物の妖魔の気配が感じられるものだが、どうにもその数がいつもより多い様に、鬼無子と雪輝に感じられた。
 最近ではひなと鬼無子の食い扶持を稼ぐために雪輝が牙を剥くようになっている為、彼らの安寧は大いに脅かされ、狩られる側である彼らにしては由々しき事態が発生しているというのに、数が減るどころか増えているように感じられるのはいささか奇妙だ。
 雪輝達が人里に出かけている間に何か異変があったということだろうか。
 明確な異変の予兆というにはいささか大げさに過ぎるかもしれないが、ここ数日の間に白猿王一派の襲撃と怨霊達の復活、妖魔改と思しき奇怪な剣士との遭遇という奇禍に続けて見舞われている事もあって、雪輝と鬼無子は警戒の念を抱かずにはいられなかった。
 いますぐに妖魔なり猛獣の類なりに襲われる様子は見られないが、多少警戒の意識を通常よりも高めにし、雪輝達は目的地を目指して歩き続けた。
 ほどなくして雪輝達の目の前に現れたのは、巨大な神殿か城塞の正門の門柱かと見紛う巨大な二本の大木であった。
 ひなは二度目の、鬼無子は初めて目にする、凛との決闘場を区切る境となる巨木である。
 前回の凛との決闘より、約一ヶ月。昨日の別れ際に、凛より出された決闘の申し出を雪輝が受諾し、決闘に赴く為に雪輝達は朝も早くに樵小屋を出てこの場を目指していたのだ。
 周囲へ巡らせる警戒の念はそのままに、雪輝は一度足を止めて、ひなと鬼無子にここで待つよう目配せをする。

「ここから先は私と凛だけだ。二人はここで待っていなさい」

 見知った凛と雪輝とが相当に危険な戦いをする、と言う事にひなは浮かぬ顔をしてはいたが、それでも雪輝を制止する言葉は口にしない。
 雪輝の行いが自分の為である事は痛いほど理解していたし、雪輝なら凛に傷を負わせるような真似は慎むと言う事も分かっていた。
 少なくともひなにとっては雪輝が凛に敗れると言う事はないと考えているのは間違いない。

「雪輝様、無事の御帰りをお待ちしております」

「凛ともどもな、では」

 簡素に告げて踵を返そうとする雪輝の両頬に、ひなは手を添えた。

「おまじないです」

 七風の町で別れた時の様に、雪輝の口にひなは桜の花びらを思わせる薄い唇を寄せて、狼と少女の唇が触れ合う音がした。
 唇を離したひなはかすかに頬に紅の色を浮かべていた。
 尻尾を大きく一振りして、雪輝はひなの頬を一舐めする。根拠は何もないが雪輝はひなのおまじないにはとびっきりの効果があるだろうと、なんとはなしに思えた。
 雪輝とひなとが二人だけの世界を作る中、別世界の住人にさせられた鬼無子は、ひなの行動に思い切り不意をつかれて、呼吸をする事さえも忘れて心身を硬直させる。
 既に鬼無子の頬は紅薔薇の色だ。
 鬼無子にとって幸か不幸か、この時、雪輝がある行動に出た。

「ひなの事をよろしく頼むぞ。では、鬼無子にもおまじないだ」

「え……んん!?」

 呆けていた鬼無子の濃艶な紅の唇に、雪輝の狼のそれが押し付けられて、ほんの数秒の間、触れ合ってからようやく離れる。
 いかなる事態が生じたのかを脳が理解した時、鬼無子はとっさに叫び出しそうになるのを超人的な精神力でむりやりに抑え込んだ。
 雪輝がおまじないと口にした通りに、雪輝が凛と戦うまでの間、ひなを任せる鬼無子の無事を祈っての行為であろう。
 これは接吻に数えない、これはおまじない、これは接吻ではなくておまじない、と心の中で必死に自分に言い聞かせてから、鬼無子はなんとか笑みを浮かべた。
 鉄の板を無理矢理折り曲げて作った様な、ひどく強張った笑みが出来上がる。

「けけ、結構なおまじないでご、ございますな。ひなの事は、それがしに万事お任せください。ゆゆ雪輝殿のご健闘と無事を、おい、お祈りいたしますので」

「よろしく」

 気楽な調子で呟き、雪輝は大木の門柱の向こうへと足を進めた。この大木を通りすぎれば、そこはすでに戦場だ。
 そしてそこに凛がいる。おおよそ一月ぶりの凛との死闘を目前に、雪輝には欠片ほども気負った様子はなかった。

<続>

taisaさま

いつもありがとうございます。村人たちが襲い掛かってくるかどうかはともかく、疑心暗鬼にかられて、どうにかしないといけないと勝手に思い込んでいるのは確かですね。
雪輝を一番手っ取り早くかつ大きく怒らせる方法がひなを傷つける事ですから、場合によっては血の雨が降るものかと。

ヨシヲさま

( ゚∀゚)o彡°モッフる!モッフる!(返礼)
ひなが恨みつらみを爆発させるのもありかとおもいましたが、とりあえずはあのような形で成長しているんですよ、的な表現をとらせていただきました。大狼と勘違いされている雪輝討伐のリスクは仰られるとおりにけして安いものではありませんが、さてどうなることでしょう。鬼無子に妄執を抱く夕座の存在などいろいろと不確定要素もあることですから。


では今回もお読みくださった皆様と感想を下さったお二方に感謝を。ありがとうございます。今後ともよろしくお願い致します。ご感想ご指摘ご助言ご忠告、もろもろお待ちしております。

1/16 12:30 投稿
1/16 21:17 天船さまからご指摘のあった誤字ほか、数箇所訂正


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