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No.19828の一覧
[0] 少女の愛した狼 第三部完結 (和風ファンタジー)[スペ](2022/01/30 08:17)
[1] 命名編 その一 山に住む狼[スペ](2010/11/01 12:11)
[2] その二 出会う[スペ](2010/11/08 12:17)
[3] その三 暮らす[スペ](2010/10/23 20:58)
[4] その四 おやすみ[スペ](2010/06/28 21:27)
[5] その五 雨のある日[スペ](2010/06/29 21:20)
[6] その六 そうだ山に行こう[スペ](2010/06/30 21:43)
[7] その七 天外という老人[スペ](2010/07/01 20:25)
[8] その八 帰る[スペ](2010/07/03 21:38)
[9] その九 拾う[スペ](2010/07/12 21:50)
[10] その十 鬼無子という女[スペ](2010/11/02 12:13)
[11] その十一 三人の暮らし[スペ](2010/07/07 22:35)
[12] その十二 魔猿襲来[スペ](2010/07/08 21:38)
[13] その十三 名前[スペ](2010/09/11 21:04)
[14] 怨嗟反魂編 その一 黄泉帰り[スペ](2010/11/01 12:11)
[15] その二 戸惑い[スペ](2011/03/07 12:38)
[16] その三 口は災いのもと[スペ](2010/11/08 22:29)
[17] その四 武影妖異[スペ](2010/12/22 08:49)
[18] その五 友[スペ](2010/10/23 20:59)
[19] その六 凛とお婆[スペ](2010/10/23 20:59)
[20] その七 すれ違う[スペ](2010/10/23 20:59)
[21] その八 蜘蛛[スペ](2010/10/23 20:59)
[22] その九 嘆息[スペ](2010/10/23 20:59)
[23] その十 待つ[スペ](2011/03/25 12:38)
[24] その十一 白の悪意再び[スペ](2010/12/01 21:21)
[25] その十二 ある一つの結末[スペ](2010/11/08 12:29)
[26] 屍山血河編 その一 風は朱に染まっているか[スペ](2010/11/04 12:15)
[27] その二 触[スペ](2010/11/09 08:50)
[28] その三 疑惑[スペ](2010/11/13 14:33)
[29] その四 この子何処の子誰の子うちの子[スペ](2010/11/20 00:32)
[30] その五 虚失[スペ](2010/11/22 22:07)
[31] その六 恋心の在り処[スペ](2010/11/29 22:15)
[32] その七 前夜[スペ](2010/12/13 08:54)
[33] その八 外[スペ](2010/12/22 08:50)
[34] その九 幽鬼[スペ](2010/12/27 12:12)
[35] その十 招かざる出会い[スペ](2011/01/03 20:29)
[36] その十一 二人の想い[スペ](2011/01/07 23:39)
[37] その十二 味と唇[スペ](2011/01/16 21:24)
[38] その十三 雪辱[スペ](2011/02/16 12:54)
[39] その十四 魔性剣士[スペ](2011/02/01 22:12)
[40] その十五 血風薫来[スペ](2011/05/25 12:59)
[41] その十六 死戦開幕[スペ](2011/02/24 12:21)
[42] その十七 邂逅[スペ](2011/03/20 20:29)
[43] その十八 妖戦[スペ](2011/03/23 12:38)
[44] その十九 魔弓[スペ](2011/03/31 09:00)
[45] その二十 死生前途[スペ](2011/05/17 08:55)
[46] その二十一 仙人奇怪話[スペ](2011/05/22 21:31)
[47] その二十二 魔狼と魔剣士[スペ](2011/06/05 20:58)
[48] その二十三 真実[スペ](2011/06/20 12:56)
[49] その二十四 別離[スペ](2011/09/02 23:49)
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[19828] その十 招かざる出会い
Name: スペ◆52188bce ID:e5d1f495 前を表示する / 次を表示する
Date: 2011/01/03 20:29
その十 招かざる出会い


 刃と刃とが交差し、虚空を触れ合った金属音が揺らしてその残響が木霊する中、刃と刃の交差点は星の瞬きにも似た銀の火花を散らす。
 銀の煌めきが大気に消えるよりも早く二つの刃は離れた。
 愛刀崩塵の刀身から伝播して右腕を骨から震わせる衝撃に、鬼無子は巌のごとく引き締めた表情のままに柳眉を寄せた。
 猛虎を輪切りにする一刀は同等の一刀に迎え撃たれたのである。
 手弱女の細腕としか見えぬ鬼無子の繰り出した一刀の、苛烈なまでの破壊力と疾風の速さが共存した一撃を受け、黄昏夕座は浮かべていた微笑を深く刻み直す。
 それは彼の予想を越えた技量を鬼無子が備えていた事を喜ぶ笑みであった。
 ただそこに佇んでいるだけでも世界が夕暮れに――黄昏に染まるかのような幽冥の雰囲気を纏う夕座が笑めば、そこにあるのは見る者の心を負の魅力で絡め取るこの世ならぬ笑み。
 その笑みを前に鬼無子が感じたのは、背筋を貫く特大の悪寒であった。
 鬼無子と夕座の間にあの世とこの世とを分つ境界線が引かれていて、夕座はその境界線の向こう――あの世からこちらへ来いと呼んでいる、そんな恐怖が鬼無子の精神に小さな牙を突き立てていた。
 そしてまた同時に、己の磨き抜いた武が及ばぬかもしれぬ強敵を前にして歓喜する武人の狂気が、自分と同じように目の前の男にも在る事に対して鬼無子が感じた嫌悪の表れでもある。
 人外の美貌としか形容のしようがないこの妖剣士にも、鬼無子と同様に強敵との死合に生を体感する精神が備わっているのだ。
 弾きあった刃を引き戻し、右八双に構えた夕座の腕が煙に包まれた様に消えた。
 三間の距離を瞬きよりも早く詰めた踏み込みを、更に上回る神速の太刀は鬼無子の左頸部へと陽光を斬り散らしながら銀閃を伸ばす。
 例え鬼無子の肉体が常人をはるかに超える剛性と柔軟性を兼ね備えた頑強なものであれ、首筋が鮮血を噴くに留まらず、そのまま右肺下部まで突き抜けるであろう一太刀である。
 びょう、と鳴る風切り音は、斬られた風の挙げた断末魔に違いあるまい。
 見る者の網膜をも切り裂くかと見えた一刀を、今度は宿す霊力で刀身を青い光で覆う崩塵が受けた。
 ふたたび鳴り響く高く澄んだ美しい一音。
 刀と刀、刃と刃。命を奪う利器が奏でるには余りにも美しい音であった。生と死の境界線を分かつがゆえに、美しいのか。
 だが問いに答える者はこの場に居ない。鬼無子も夕座も互いに振るう刃に乗せているのは、目の前の存在の命運を断つ一念のみ。
 二度目の刃の交錯越しに、鬼無子と夕座の視線が絡み合った。相手の心臓を射抜くかのごとく鋭い鬼無子の視線を、黄昏の陰鬱さを湛える夕座の視線が吸い込む。
 そのまま魂まで吸い込まれてゆくかのような錯覚に襲われて、精神に虚脱が襲い掛かる予感に、鬼無子が両腕の膂力を爆発させて夕座の刀を突っぱずした。
 瞳を合わせるだけで相手の意思を奪い、自らの傀儡とする催眠眼を警戒したのである。
 比喩でも何でもなく百人力に等しい鬼無子の超人の膂力は、夕座の刀が突如虚無に変じたかのごとく吸い込まれて消えた。
 並みの使い手ならば突っ張ずされた自身の刀身に額を割られ、十間は吹き飛ばされて赤い花を大地に咲かせるはずが、夕座は変わらぬ笑みを湛えたままわずかに刀身を引いただけであった。
 鬼無子の処女の鮮血を塗りたくった様な妖しくも美しい唇から、極めて短い吐息がひとつ、紙縒りの様に細く吐き出された。吐息が風に溶けるよりも早く、崩塵は白銀の鳳仙花のごとく爆ぜ割れる。
 夕座の腰で、腹で、肩で、首で、額で、太ももで、無数の銀花が咲き誇った。
 斬撃の残像が網膜に残っている間に次の斬撃が迸る鬼無子の連続斬撃を、未来が読めているかの如くことごとく受け止める夕座の刀との間で生じる一瞬の光芒、その連続である。
 疾風の連続突きが四度空を貫いた時、鬼無子は戻した崩塵を烈風の荒々しさを纏う横薙ぎの一刀へと変えるも、大地に根を張ったかの如く悠然と立つ夕座の刀はやすやすとそれを受け止める。
 二刀が刃を噛みあわせていた時は、一秒ほどの時間もなかったろう。
 再び離れた崩塵は、鬼無子の体捌きと足捌きの絶妙な連携によってたっぷりと体重と膂力の乗った縦一文字の斬閃となる。
 永く別れた恋人との再会に焦がれたかのように熱烈と叩きつけられた一刀は、予め打ち合わせていたかのごとく、横一文字に刀を構えて峰に左手を添えて支える夕座によって阻まれる。
 両刃の衝突点で繚乱と銀の火花が散り、血の流れなど知らぬ青い夕座の顔と白蝋の様に滑らかな鬼無子の顔を照らす。
 重さ十貫の鉄芯仕込みの木刀を小枝のように振り回し、百貫の巨岩でお手玉が出来る鬼無子の打ちこみである。
 受けた刀は砕け散り、相手の肉体は縦に二つに割れる、どころかあまりの衝撃に肉体が爆散するのが当然の結末だ。
 しかるに、夕座は三日月の微笑をそのままに鬼無子の一撃を見事受け止めて見せ、大地に踏ん張る足を陥没させるのみに留めて見せた。
 鋼を断つ崩塵と十二分以上にその切れ味を発揮させる鬼無子の太刀をこれほどまで捌いてみせ、かつ刀身に刃零れ一つないのは受ける刀がよほどの業物なのか、あるいは夕座の技量が並みはずれて高いからか。
 鬼無子は両方、と判断していた。
 金属の衝突音が夏の日の風鈴を思わせる透き通った音を立てるのと時を同じくして、崩塵は夕座の左腰から輪切りにせんと襲い掛かっていた。
 鬼無子に三本目の腕があり、そこに二振り目の崩塵を手にしているのかと錯覚するかの如き連撃は、しかし、今度もまた夕座の刀が防いでいた。
 人間など例え鎧兜で身を固めていようとも、水を斬るかのごとく頭頂から股間までを両断するまさしく必殺の一刀も、相手の肉に触れられねば意味を成さない。
 刃を合わせたまま夕座が口を開いた。愉悦の滲む楽しげな声であった。

「私とここまで刃を結べるとは見事。だがこれまではすべて私が受けた。次は私の番」

 崩塵の刀身を絡め取る動きを夕座が見せた時、鬼無子は崩塵を引き戻す作業に傾注した。しかし崩塵はまるで夕座の刀に吸いついているかのように離れることなく、夕座の腕の動きに巻き込まれる。
 妖術や刀の特異な能力ではない、と事前に何の予兆も感じなかった鬼無子は瞬時に判断を下す。
 鬼無子が崩塵に加える力を刀越しに尽く霧散させる夕座の高度な技術によるものだろう。
 鬼無子が抗う術を見つける前に、気付けば崩塵の刀身はその切先を境内の地面に突き刺していた。崩塵の峰を刃で押し込んでいた夕座の刀が、鬼無子の首を下から掬うように動く。
 首をはねられて、血の雨を降らしながら喜劇の様に空中でくるくると回る自分の生首を連想し、鬼無子は後方への跳躍に踏み切る。刃で受けるのは間に合わないと悟っていた。
 空気が鳴った。
 夕座の刀が首を刎ねる寸前、鬼無子の後方への跳躍が間に合い、空を切った為に鳴った音である。
 地上から空へと向けて描かれた銀の三日月は、栗色の髪を数本斬るに留まった。 一寸ほどの長さで斬られた鬼無子の前髪が、風に煽られてはらりと舞い落ちる。
 後方へ飛びのいた鬼無子は、大地を蹴って後方への跳躍の最中、まったく同じ速度で鬼無子を追って跳躍した夕座の姿に、目を見張る。
 影の様につかず離れず、夕座は肩の切っ先を右下段に流した姿勢で鬼無子を追っていたのだ。
 舌打つ気持ちを丹田に練っておいた気の爆発と共に吐き出し、鬼無子は右手一本で握っていた崩塵を夕座の左頸部に迸らせた。
 刃圏に入れば夜空を斬り裂く流星も落とすのではと見える一閃であった。生涯を剣に捧げた者でも、はたしてその生命を終えるまでに体得できるかどうかという一閃だが、鬼無子の放つ太刀はすべてそれだ。
 そして夕座もまた。
 空中で二振りの刃によって斜めに傾いだ十字が描かれて、互いの身体を弾く形で鬼無子と夕座はほぼ同時に大地に着地した。
 着地しざまに夕座は大地を蹴った。地を踏む足が足首まで沈むほどの踏み込みであった。
 大気をぶち抜きながら迫る夕座に対し、鬼無子は完全に後手に回る。
 瀑布の迫力と勢いで上段に叩きつけられてくる打ちこみ、銃火を思わせる速度で中段に放たれる突き、月下に水面を跳ねる魚のごとく下段を切りあげてくる一刀。
 息つく暇など欠片もない夕座の怒涛の攻めを前に、鬼無子は反撃の瞬間を見いだせずに防禦に回る他なかった。
 刃と刃の衝突音は一繋ぎの楽曲のごとく絶えず続き、鬼無子は超人の反射神経と反応速度、人外の血が齎す未来予知じみた直感、歴戦の経験が培う予測の全てを動員して、夕座の太刀を時に受け、時にかわし続ける。
 刃が噛み合い続けて遂に三十合目を数えた時、夕座は攻めの手を緩めてゆらりと二歩、三歩、四歩と後退した。
 鬼無子は同じ距離を詰めて追撃の手を放つことなく、その場に足を留めて夕座の全身を凝と睨みつける。
 筋繊維一本の動きから次に映る行動を見抜くべく、鬼無子の瞳は人ならぬ視力を発揮している。
 きせず、構えは両者ともに平青眼。
 待ちか、攻めか。
 そのどちらでもなかった。微笑を取り払い、夕座が口を開いた。心底からの感嘆を隠さぬ声で言う。

「ふむ、私の攻めをここまで受けて傷一つ負わなんだのは、お主で三人目。見事ぞ、名も知れぬ姫武者」

「…………」

 答えぬ鬼無子に構うことなく夕座は言葉を続けた。他人の反応を待つような神経の持ち主ではないだろう。

「それにしても番所で感じた気迫ばかりが気になっておったが、よく見ればお主、美しいな。まだ二十歳にもなっておるまい。その年でよくもこれだけの技を得たものぞ。私はもっと掛った。強いだけの女なら腐るほどいる。美しいだけの女もな。だが、美しく強い女となればこれは稀よ。ふむ、しかし、ゆえに惜しい」

 惜しい、とはこの場で鬼無子を殺す事が、という意味か。
 少なくとも鬼無子はそう捉えた。
 今の鬼無子の背後には崩壊間近の門が聳えている。すっかり屋根が傾いでいる寺を背後に、夕座が鬼無子と相対している。
 参拝する者も絶えて孤塁を守るはずの住職や寺男もなく、御仏の威光が忘れられた廃寺に、夕座は不浄の気配を全身から漂わせて刃を鬼無子へ向けている。
 純粋な技量は互角か、わずかに向こうが上、と鬼無子は判断を下しながら口を開いた。

「満足していただけたのなら、剣を引いてもらいたいものだが」

「ふむ。そうさな、お主が私の配下、いや、それはちと勿体無いか。こうしよう、お主が我が妻となるのならば刃を納めようぞ」

 辻斬り同然に手合わせを申し込んだかと思えば、妻になれば見逃すという。黄昏夕座と言う人間の精神構造は、一般人とは異なる怪奇なものとしか言えない。
 鬼無子は、といえば人生で初めて異性から掛けられた求婚の言葉が夕座から出た事に対して、心の中では苦虫を百万匹も噛み潰したような気持ちであったが、表には感情のさざ波も起こす事はなく冷たく答える。

「断る」

「つれないな。私の見た目が気に食わぬか?」

 余裕の表れなのか、夕座は左手を刀の柄から離してそっと自分の頬を指でなぞる。頬をなぞる指に、指になぞられる頬に、男も女も羨望の炎に身を焦がして悶えるであろう妖しさであった。
 細く長い指には皺があり爪があり、それは決して人間の指と相違ない形状をしているはずだ。なのに夕座の指はそれ自体が芸術の概念を覆しかねぬ途方もない美の結晶であった。
 わずかに尖った爪の淡い桜色の艶めかしい輝き、関節ごとに刻まれている皺ははるか夜空の果てに浮かぶ星状雲のごとく妖しく、骨と筋と肉と血管を包み込む肌は赤子のそれと変わらぬ張りと眩さだ。
 この男の体の中に、鬼無子同様に淫魔の血が流れているとしても、誰も疑わないのではないか。あるいは流れているのは淫魔ではなく美醜を司る邪神の血であったかもしれない。いずれにせよ神聖な存在の血肉を受け継いではいないだろうことだけは確かだ。

「それとも惚れた男でもいるのか?」

 夕座の惚れた男と言う言葉に、脳裏にのほほんと笑む雪輝の横顔が浮かび、鬼無子は思わず頬を朱に染めた。
 半ば冗談で口にした言葉が意外にも正鵠を射た事に、夕座はおや、と呟いた。この男にしては意外と言うべきか、平凡な反応である。この男にも人並みの所はあるらしい。

「こ、断る理由はともかく! 貴殿の提案は飲めぬ。これ以上、貴殿の気まぐれには付き合えぬゆえそれがしはこれで失礼させていただく」

「退く気か? させぬ。足の一つ二つなくともお主は愛でるに十分よ」

 戦慄的な夕座の言葉が鬼無子の鼓膜を震わせた時、夕座は初めて眉間にしわを寄せて、苛立ちに近いものを露わにする。
 意思の固さがよくあらわれている鬼無子の拒絶を受けた夕座は、いつの間にか左手に握っていた鬼無子の前髪を口元に運び、妖しく口付けた。
 鬼無子以外の者が見れば官能の吐息を洩らしながら絶頂さえ覚えかねぬ、途方もなく淫靡な口付けであった。
 老いと若いとを選ばず女であれば嫉妬に胸が焼け焦げる夕座の行為だが、髪のごく一部とはいえ、自分の肉体に夕座の唇が触れる光景を目の当たりにさせられた鬼無子にとっては吐き気を催すほど気障で厭味ったらしい行為としか映らない。
 鬼無子は非常時を想定して草鞋の中に仕込んでいた逃亡用の呪符を発動させた。発動は念じるだけで支障なく行える。
 夕座が唇を離した鬼無子の髪を袖に仕舞いこみ、右後方に切先を流しながら鬼無子めがけて踏み込むその先で、鬼無子の左足裏から真っ白い煙が噴水のごとく噴き出して夕座の視界を覆い尽くし、妖剣士の美身を飲み込む。
 並みの濃霧など薄暗がり程度にすぎない夕座の視力をもってしても、伸ばした手の指さえ見えなくなる途方もない濃度の白霧である。
 目眩ましの光や煙を発生させる逃亡用の呪符や術は三国のどこでもありふれているものだが、鬼無子の使用したそれは討魔省謹製の四方木家用の特製品であった。
 朝廷の保有する対妖魔戦力の中でも、四方木家は中核の一つに数えられる重要戦力であるから、仮に出撃した際に予想外の強敵と遭遇した折には、滅多な事がない限りは仲間を見捨てでも帰還するよう申し伝えられている。
 鬼無子が使ったのは、その逃亡に使用する強力な、という言い方はおかしいが極めて効力の高い品なのである。
 塞ぐのは視覚だけではなく嗅覚にも及ぶようで、夕座の鼻はさきほどから如何なる匂いの微粒子も感じる事が出来なくなっていた。
 それでもなお直感に従って鬼無子の後を追わんとした夕座の足を止めたのは、四方から飛来した鋼鉄製の投げ刃であった。
 おそらくは鬼無子が霧を発生させる直前の夕座の位置や動きから位置を予測し、投じたのだろうが、四本の投げ刃は夕座の腹腔、咽喉、後頭部、心臓といずれも必殺を期した狙いである。
 夕座は動揺を感じる事もなく、刀を無造作に動かして方角も狙いもばらばらに飛来した投げ刃の全てを防いでみせる。
 人間の頭蓋を豆腐のように砕く投げ刃の威力も、夕座にとってはさしたる脅威ではないのか、刀を握る右腕が衝撃に痺れた様子はない。
 鬱陶し気に左手で白霧を払いながら、夕座はくるりと踵を返して歩を進めて白霧の覆う範囲から出る。
 抜きっぱなしにしていた右手の刀を腰の朱塗りの鞘に戻し、夕座は面白い、と顔に大きく書きながら、荒れ果てた境内の中で無事に残っていた石灯籠の一つに背を預けた。

「番所で小役人の詰まらぬ話を聞くのに飽いて後を追ってみれば、これは清らかと淫らの混じる妖花よと思ったが、思いのほか鋭い棘をもっていたものよなあ。そうは思わぬか、影座(えいざ)よ」

「仰られる通りかと」

 夕座に応じる声は天から地上から、夕座が身を隠していた雑木林の陰から、崩れかけの壁の向こうから、夕座が背を預ける石灯籠の向こうから聞こえた。
 複数の声ではない。ただ一人の声である。それが四方八方から聞こえてくるのである。
 夕座にとっては日常の範疇なのか、驚いた風はなく打てば響く返事に満足しているようだった。
 錆びた鉄扉が挙げる軋みの様な声の主は、各国が抱える忍び、草、軒猿、素破などと呼ばれる諜報・暗殺・工作を行う陰者のひとりであろう。

「あの者、如何なさりますか」

「放っておけ。今の七風に私以外であの姫武者と渡り合えるものはおらぬ。骸の山を所望するのならば、止めぬがな。それと、お前の足元を見よ」

 影座と呼ばれた忍びは、声にこそ出さなかったが、自分の足元を見て驚愕の気配を境内に広げた。
 夕座以外の人影がまるで見当たらぬ境内のどこかに潜む影座の位置をどのようにして把握したものか、影座の足元には一本の団子串が突き刺さっていたのである。
 影座の履く足袋の爪先を地面に縫いつける串は、霧に紛れて鬼無子が逃亡する際に、夕座に投げ刃を投じたのと同時に、姿を潜めていた影座に牽制として放っていたのだろう。
 自分に向けて串が投じられていた事に気付けなかった事に対し、影座が覚えた動揺は決して小さなものではなかった。

「申し訳ございませぬ」

 血を吐く様な影座の声であった。まさにこの瞬間、忍びとしての影座の矜持は泥濘に塗れ、屈辱に胸を焦がしているのだ。

「謝まらずともよい。お前は紛れもなく一流の忍びであることは、私がよく承知している。こたびはただ相手が悪かっただけの話。あの姫武者の振るっていた刀、私の見立に間違いがなければあれは四方木家の宝刀・崩塵」

 驚愕の余韻が消えるよりも早く、影座の新たな驚きの気配がさざ波を起こした。ひなと雪輝の同居人とその腰のものは、他国にまでその勇名が知れ渡った名家と名品であったらしい。

「神夜十三霊剣の一つ、崩塵にございますか。ではあの者が四方木家最後の姫君、鬼無子姫ということに?」

「であろうよ。宗家たる百方木(ももぎ)家の反乱の折に、朝廷の側に着き一族尽く死に絶えたと聞き及んでいたが、当主の一人娘だけは生き残っておったようだ。国を追われたか自ら出たのかは知らぬが、この幽城国に流れ着いて居るとは流石の私も想像だにせんだわ」

「さればあれほどの武の冴えも得心が行きまする。加減していたとはいえ貴方様とあれほど斬り結べるものが、ただの人間であるはずがございませぬ」

「本気を出しておらぬのは向こうも同じことよ。四方木家に流れる四百四十四種の妖魔の血、どういうわけかは知らぬが私との立ち合いの中では一種たりとも覚醒させなんだ。ともすれば覚醒してしまえば二度と戻れぬほど人間としての限界が近いのやもしれぬ」

「妖魔の血に飲まれれば間違いなく大禍となりましょう。放置されてもよろしいので?」

「お前は見ておらぬか。あの瞳、あれは人である事を矜持にしておったわ。眩いほどに澄んだ輝きを放っておる。人外に身を落とすくらいならば自分で自分の首を落とすであろう。
 ふむ、しかし、名も聞かなんだは失策であったかな。四方木の姫君の名が鬼無子とは知っていたが、本人から聞きたかったものだ。ふふ、冗談ではなく本当に我がものとしたくなってきたぞ。ああいう女は褥の中で激しく乱れるもの。それにあの惚れた男がいるかと問うた時の反応、あれは乙女ぞ」

 そう言って夕座の浮かべる笑みは、途方もなく美しい事を除けば人並みに好色であったが、それでもこの男に声をかけられれば、一万人の女が一万人とも自ら股を開いて求めるだろう。それほどまでに美しいのが、黄昏夕座と言う妖剣士であった。

「お戯れも大概になされませ。お役目がございますぞ」

 窘める口調の影座に夕座は苦笑いを浮かべた。苦笑は妖しいまでに美しくはあったが、人間的なものであった。この青年がかような反応を示す辺り、影座はそれなりに心を許した相手ということなのだろう。

「分かっておるわ。国境を騒がす妖魔共の件であったな。だがその前にまず刀を変えねばならぬ。見よ」

 鞘鳴りの音を立てながら再び抜き放たれた銀刃に、どこに潜むとも知れぬ影座の視線が吸い寄せられた。
 一般的な刀の範疇に収まる二尺三寸(約七十センチ)の刀身にわずかな刃毀れも傷も見えぬそのどこに異変を見つけたのか、影座が低く唸った。

「我が愛刀・朱羅(しゅら)。童が振るってさえ金剛石をも断つ今代屈指の名刀をかくも無残な姿に変えるとは、恐るべきは四方木の血か霊刀崩塵か」

 恋人の肌を愛撫するように愛おし気に夕座の指が朱羅の刀身を這うやいなや、朱羅の刀身が半ばから唐突に、きぃん、と透き通った音を挙げて二つに折れる。
 半ばから切っ先までが境内に落ちて、地面に突き立つ。切先の先に在った石は真っ二つになり、研磨された鏡の様な断面を覗かせている。

「あのまま続けていたとしたなら、はたして地に伏したのは私であったか、四方木の姫君であったか。ふふふ、まこと面白いおなごよ。朱羅の代わりは用意できるか、影座よ」

「お望みの物をご用意いたします」

「よしなに頼むぞ。さて、四方木の姫君よ、お主とはまたいずれまみえようぞ。その時、お主がまだ人であれば力づくで我が妻とし、妖魔であれば討ちし後にその屍を犯してくれよう」

 なんとおぞましく恐ろしい破倫の宣言であった事か。もし鬼無子が夕座のこの言葉を耳にしていたら、あまりの暴言に顔面を青く変えたか、瞬時に頭に血を昇らせて斬りかかっていたかもしれない。



 逃亡用の呪符を使い、夕座の眼を晦まして逃亡を図った鬼無子は、夕座に凌辱の宣誓をされたとは知らず、早急にひなと凛に合流すべく人の目を憚らずに地を蹴って七風の町中を疾駆していた。
 体の全細胞にはまだ夕座の振るう太刀の恐ろしさが克明に残っていた。瞼の裏に焼きついている太刀の凄まじさは、うなじに鳥肌を立たせている。
 昼間の退魔士もどき共や三流のぼんくら剣士たちの事など鬼無子の脳裏からきれいさっぱり消え去っていた。おそらくもう生涯思い出す事はないだろう。
 それほどに先ほどまで刃を交えていた黄昏夕座と言う剣士は、人間の規格を超えた鬼無子をしても恐るべき強敵であった。
 正確に向こうの素性が知れたわけではないが、鬼無子が肌と魂で感じ取った感覚を信じるのなら、あの男は十中八九間違いなく鬼無子同様に妖魔の血を引く半人半妖、かあるいは服従の呪いを架せられた純粋な妖魔、と見ている。
 はたして妖魔嫌いの織田家中でどのような扱いを受けているかまでは鬼無子にも想像の及ぶ所ではないが、あれほどの腕ならばそれなりの地位を与えられているか発言力位はもっていよう。
 あの妻になれ、という言葉には正直吐き気を堪えねばならぬほどのおぞましさに襲われたが、まったく不運な事に目を着けられてしまった以上、もうこの七風の町に足を踏み入れる事は控えねばなるまい。

「雪輝殿や凛殿にあのような釘を刺しておいてそれがし自身が騒動の火種になってしまうとは、まるで申し訳が立たんな」

 ひな達と約束していた合流場所に近づくにつれて速度を抑え、疾駆から徐々に通常の歩行速度へと落とす。
 あの夕座とかいう男の手が伸びるよりも早くこの町から出なければならないのが問題だが、さてどうやってひなと凛殿に言い訳をすればよいのか、と鬼無子が頭を悩ませながら歩いていると、不意に視界の先で人だかりができているのが、鬼無子の目に映る。
 十重二十重に誰かを囲い込んでいる様だが、袋叩きにしているというような危険な雰囲気ではなく、なにやら心配する声がいくつも囁かれている。
 これはなにがあったのか、と鬼無子の胸中に疑問符が浮かび上がった時、両肩に味噌樽や米俵を担いだ凛とひなが、鬼無子を見つけて声を掛けてきた。
 少なくとも別れた二人と無事に合流する事は出来たため、鬼無子はかすかに肩に圧し掛かっていた重圧を軽くする。

「遅れて済まぬ。ところでこれは何の騒ぎで? 剣呑といえば剣呑な様子……」

「いや、あたしらもさっきここに着いたばかりだから詳しい事は分んなくてさ。町の女の子がなんか酷い目に遭ったとかあわなかったとか」

 言葉を濁す凛と鬼無子達に気づいて、なにやら訳知り顔の女が声を掛けてきた。 三十そこそこの、どこにでもいる様な平凡な町女である。

「あんた達、外に出る時はお気をつけ。なんでも近くの森に嘘みたいに大きな狼が出たんだってさ」

 大きな狼、という言葉に鬼無子、凛、ひなの三人が揃って顔を引き攣らせた。やっぱり分かっていなかったのか、と三人とも雪輝に愚痴の一つも吐きたい気分になる。
 三人の期待を裏切ったとも、逆に期待を裏切らなかったとも言えるだろう。
 顔面を揉み解して表情を取り繕った鬼無子が、女にもっと詳しい事を聞きだすために訪ねる。

「ほ、ほう、狼ですか。昔からここら辺には出没していたのですかな?」

 女の武士姿は珍しいが、一応武家の人間相手と言う事で女は鬼無子相手に口調を丁寧なものに変えた。

「とんでもない。狼なんてここらじゃ滅多に出やしませんよ。なんでも綺麗な銀色の狼らしくってね。その狼に襲われた女の子が命からがら逃げてきたって話で、いま、急いで番所に知らせに走っているんですよ。お武家さんも外に出られる時は気を付けてくださいな」

「かたじけない」

 話し終えた女がああいやだいやだ、怖い怖い、と呪文のように呟いて離れてから、鬼無子と凛とひなは互いに視線を交わし合い、無言のまま頷き合った。
 今この瞬間、彼女らには言葉は必要なかった。
 凛が担いでいた味噌樽や塩壺、米俵を鬼無子が受け取り、凛はひなを背負う。小柄なひなよりも荷の方がはるかに重い為、凛の数十倍以上の怪力を誇る鬼無子に預ける方が移動速度は速くなる。
 鬼無子が先頭に立って通りを半分ほど埋めている人だかりを、失礼、失礼、と言いながらかき分けて進み、街道まで出るやすぐに鬼無子と凛の足は疾走を始めた。
 七風の町を目指す旅人達がぎょっと目を向くほどの速さで走る凛の背に負われたひなが、声を張り上げて疑問を口にした。

「森に出た狼って、やっぱり、雪輝様でしょうか」

「あいつ以外いないだろ」

 あの阿呆が、と今にも吐き捨てんばかりに不機嫌に顔を歪めた凛が間髪いれずに言う。

「で、でも雪輝様は人を襲ったりなんてしませんよ」

 雪輝の気性が温厚篤実なものであることはこの場に居る三人全員が認める所ではある。雪輝の場合、不意に人間と遭遇しても牙をむくどころか穏やかな声音で挨拶くらいはするだろう。
 もともと人間に対する敵対意識や食料である、という認識を持ち合わせていない事と生来の温厚な気質が、ひな達との同居暮らしで更に顕著になっているから、雪輝が自分から人を襲うなどと言う事は天地がひっくり返ってもありえないとひなは固く信じている。

「それはそれがし達もそう思う。第一雪輝殿に襲われて逃げられる人間などそうはおらぬし、なにより雪輝殿本人に問いただすのが一番手っ取り早い。あの方は、心底嘘をつけぬ性格であるから自分が不利になる事でも隠す様な事はすまい」

「あいつ、まだあの森に居るかね?」

「それがし達に何も告げずにあそこから離れる様な判断の出来る方ではあるまい」

 雪輝に対する信頼は全幅のものであるはずなのに、時折鬼無子は雪輝に対して辛辣な評価を下す事がある。とはいえ辛辣ではあるもの間違った評価ではないから、面と向かって言われても雪輝に反論の言葉はあるまい。
 人間一人分よりもはるかに思い荷物を担いでいながら、普通の人間の全力疾走どころか駿馬の脚でさえ比べるべくもない鬼無子と、険しい山の生活が自然と鍛え上げた凛の脚力は、瞬く間に三人の姿を雪輝と別れた森へと運んだ。
 七風の町娘が――推定ではあるが――雪輝と遭遇した正確な場所までは、人々の口に乗っていなかったら分かってはいないが、あの雪輝の事であるからひな達を背中からおろした場所の近くをうろついているのは間違いない。
 妖魔改の番所に連絡が入り調査の為の人員の選出の作業には半刻(約一時間)も掛るまい。
 あの番所で燻っていたもどき連中ならどうとでもあしらえる程度に過ぎぬが、仮に黄昏夕座が雪輝と遭遇したら、という危惧が鬼無子の心に黒々とした不安を抱かせていた。
 鬼無子はあの死合の中で感じた夕座の不気味な底の知れなさが、雪輝の生命さえ脅かしかねぬものに思えてならないのだ。
 凛もひなも、そして鬼無子自身が気づいていなかったが、この時鬼無子は惚れた男の身を案ずる恋の炎に胸焦がす乙女の顔をしていたのであった。
 ちょうど雪輝の背中から降りた辺りで周囲の木々に視線を巡らしていると、がさりと音を立てて背の低い茂みを揺らしながら、見慣れた白銀の狼がその巨体を露わにした。
 ひな達と別れるのは寂しいと公言していたのは嘘ではなかったようで、ひな達三人の姿を認めた雪輝の瞳は喜びに輝き、耳と尻尾は感じている嬉しさを隠さずにぱたぱたと動き、ゆらゆらと左右に揺れている。

「お帰り、買い物は楽しめたか?」

 第一声から喜びに弾んでいる。しかしこの言葉はいまの三人にとっては間の悪いものであった。まず一番不機嫌の表情を拵えていた凛が舌鋒鋭く問うた。

「雪輝よ、お前、この森であたしら以外の誰かと出くわしたか?」

 すでにひなを背中から降ろしていた凛は、いかにも不機嫌そうに腕を組んでいる。雪輝はすぐさま凛を筆頭に三人ともが剣呑な雰囲気を滲ませている事に気付き、おや、と疑問符を頭の上に浮かべた。
 そうすると例え造作が完璧に調和のとれたイヌ科の生物であっても、無邪気な子供のように見えて、相対している者の心を和やかなものにする。
 その証拠に凛の眉間に刻まれていた不信の皺が、わずかに緩む。
 雪輝は正直に答えた。ひな達三人の予想通りの正直さであった。

「うむ。凛位の年頃の女の子と男が四人。女の子は町に戻ったな」

 これで町で噂になっていた狼というのが雪輝当人であることは確定である。後は娘を襲ったという事情を正確に把握しなければならない。
 その事情如何によっては、凛は小袖の中に仕込んだ小柄や短刀を閃かす腹積もりであったし、鬼無子も鬼無子で少しばかり斬りつけてやろうか、といつでも崩塵を抜けるように鯉口を切っていた。
 唯一どんな事情があるにせよ雪輝を一途に信じるひなが、悲し気に眉根を寄せて雪輝の頬を両手で挟み込んだ。
 見えざる悲しみの霧を纏うひなの姿に、雪輝はひどく戸惑った様子を見せる。文字通りの狼狽である。

「ひな、どうしたのだ?」

「雪輝様。私たち、町で良くない話を耳にしたのです」

「どのような話だ」

「町の娘さんがこの森で狼に襲われたという話です。その狼はとても大きな体で綺麗な銀色の毛並みをしているそうです。雪輝様は銀というよりは白銀ですけれど、さきほど雪輝様も娘さんや男の人と会ったと仰られましたし、これは雪輝様の事だと思うのですが」

 ひなの言葉を耳にした雪輝はしばらく自分の頭の中で吟味したうえでこう答えた。

「私だな。しかし私は女性を襲ったりはしておらぬよ」

 弁明と言うよりも襲ったという風に事実が歪曲されている事に戸惑っている様子であったから、場合によってはと考えていた凛と鬼無子も刀の柄に伸ばしていた手を戻す。
 元々雪輝が人を襲うなどと本気では信じていなかったのだから、こうも呆気なく態度を変えて雪輝の言い分を信じるのも、そう無理のあるものではないだろう。
 夕座の脅威はとりあえず思考の片隅に追いやり、雪輝の事情を聞く事にした鬼無子が、崩塵の柄尻に左手を置きながら朱色の花唇を開く。
 そこから濃密な花と新鮮な血の匂いがしないのが不思議なほど艶やかな朱の唇であった。

「では女性や男の方々とはどのようにしてお会いになられたのですか?」

「ふむ、それはひな達と別れてからしばらくしての事だな」

 雪輝は青空を仰ぎながらつい数刻前の出来事を思い出しながら口を開き、ひな達三人は一語一句聞き逃さぬ様に耳を澄ます。
 ひな達と別れた後、雪輝は初めて出た妖哭山の外の世界に対して好奇心の手を伸ばして、他にする事も思いつかなかったので森の中だけではあるが散歩をした。
 雪輝の嗅覚、聴覚、触覚、霊的知覚には雪輝以外の妖魔の気配はまるで感じられず、精々が人間には無害な樹木や草花の精の、朧月の様に淡い気配のくらいのものだ。
 これが妖哭山の妖精の類となると、他の存在の血を啜り、断末魔に花弁を震わせる事を望む様な邪悪極まりないものになる。
 しかるにこの森の中に住まう妖精達の気配は陽性の生命力に満ちたもので、いわば新参者である雪輝に対して向けられている気配も、少々警戒の気配を含むが剣呑なものではない。
 雪輝の対応次第では友好的にも敵対的にもなるだろうが、雪輝の方から手を出す様な事はまずあり得ないし、森そのものを敵に回す様な事にはなるまい。
 雪輝は森の中のあらゆるものに興味を抱き、頻繁に鼻を引くつかせては大気に混じる匂いの成分の分析や、その青い満月の瞳に映る緑の世界を仔細に観察している。
 無防備に匂いを嗅いでも花粉に紛れた毒素が鼻の粘膜を糜爛させようとする事もなければ、踏みしめた草葉の陰に潜んでいた食肉蜘蛛や親指ほどもある巨大な蟻の大群が襲い掛かってくるような事もない。
 鱗に当たる陽光を屈折・反射・吸収して周囲の風景に溶け込ませて、巨木や風景の一部と化けて近づいたものを丸呑みにする大蛇や蜥蜴もいないし、地面に潜んで頭上を歩いたものの足元から食らいつく土竜や蚯蚓の化け物の気配も感じられない。
 あまりにも生命に対する脅威の少なさに、かえって雪輝は戸惑ってしまうほどである。
 周囲が生まれて初めて体験するほどに穏やかな世界ではあったが、すでに習性として周囲を警戒する癖がついている雪輝は、ちちち、と鳴き声を零しながら青空に羽ばたく小鳥や、雪輝の姿に気づいて驚きに硬直する鹿や野兎にも、つい警戒の意味を込めた視線を送ってしまう。
 妖哭山ではどんな小さな生き物であってもこちらの命を脅かす力を秘めていないとは、決して言いきれないからだ。
 そうしてしばらくこの森の先住者達を不本意ながら驚かせつつ散歩を続けていた雪輝は、不意に初秋の冷風が運んできた複数の人間の匂いと慌ただしく走る音に気付き、ひなの腕が回りきらないくらいに太い首を匂いと音の源へと巡らす。
 ここで自分がその人間達と顔を合わせれば騒ぎとなり、ひいてはひな達に迷惑を掛ける事になるのは間違いない。
 しかし同時にひなや山の民とは違う外の世界の人間に対する興味が、雪輝の中にないとは言えないのもまた事実。
 ほんの十秒ほど黙考に耽った雪輝は、相手から見つからないようにして人間達の様子を観察する事に決め、草を踏む足音一つ立てずにその場を離れた。
 雪輝が息を潜めて向かった先に居たのは、たしかに雪輝が知覚した通りに一人の少女とそれを追いかける四人の男どもであった。
 しきりに後ろを気にしながら、少女は熟した林檎の色に頬を染め、吐く息は荒く、あどけなさの残る瞳には恐怖を色濃く浮かべて、森の中へ中へと逃げている。
 茶色の小袖の裾をからげ、愛らしい大粒の瞳には涙の粒が尽きず溢れている。年若い少女が涙を浮かべながら走るその理由は、少女が頻繁に背後に向ける視線の先を見れば誰の目にも明らかなものであった。
 瞳に怒りと欲情がぎらぎらと粘着質の光を輝かせながら、野獣が人間の真似をしているかのような男どもが、時折、待てと叫びながら少女をその腕に抱くべく追いかけ回しているのだ。
 どこの町にでもいる気性荒く酒が入れば簡単に暴力を振るうゴロツキの類であろう。昼間から酒精を貪っていたようで、頬には朱が射している。
 揃いも揃って方々に伸びたふけまみれの髪に、顎の輪郭線を隠す無精ひげ、毛むくじゃらの腕や脛はむき出しで、腹に巻いた晒しには匕首が呑んであった。
 捕まれば喉元に匕首を突きつけられて脅されながら、着物を乱暴に脱がされて、こんな森の中で男どもに輪姦される運命だと言う事が、嫌というほど理解出来ているからこそ、少女は恐怖の相をあどけない顔に浮かべているのだ。
 欲望をたっぷりと貯め込んだ男どもは一度や二度では決して満足すまい。一人当たり四回、あるいは五回は犯されるかもしれない。
 既に男どもの頭の中では白濁に塗れた少女が森に捨てられているか、土に埋められるかでもしているのだろう。
 どうしてこんなことに、と少女が何度も何度も繰り返した疑問と共に後ろを振り返った時、不意に視界が反転した。
 躓いた、立ち上がらないと――この二つが少女の思考を埋めた時、すでに体は前のめりに倒れ込んでいる。
 うつ伏せの姿勢で倒れ込みなんとか体を起こそうとして、左足首に走った痛みに太めの眉を寄せた。
 思わず左足を見れば地面から覗いていた太い木の根っこに左の足首が絡まっていた。幸いにして捻挫はしていないようだが、これで大きく男どもとの距離は詰められてしまった。
 絶望的、そう評するのが適切な失敗である。
 それでもなお体を起こそうとする少女を追いついた男の一人が押さえつけた。
 あっ、とぷりぷりと肉厚の唇から一言零した時に、少女は身体をくるりと仰向けにされた。黄ばんだ歯と黒く濁った歯茎をむき出しにして、男が笑っている。
 罅割れて醜い唇には涎が滴っていた。見れば既に褌を解こうと腕を動かす男もいた。数は四人。二十歳そこそこの者もいれば少女の父と同じ年かさの者もいる。
 どいつもこいつも青い果実を貪り踏みにじる暗い欲望に突き動かされて、嬲られる側である少女の心と体など微塵も気に留めていないのが一目で分かる。
 最下級の夜鷹を買う金もない時、あるいはこの時のように欲情をそそる獲物を見つけた時、きっとこのようにしてこいつらは欲望を充足させてきたのであろう。
 この時期の森のこんな奥にまで人が来る事など滅多にないと分かってはいたが、それでも出せる限りの悲鳴を上げようとした少女の口を、毛むくじゃらの腕が抑え込んでささやかな抵抗さえも封じられた。
 男達はようやく捕まえた小鳥を手放すつもりなど欠片もなく、欲望を押さえるつもりも同じようになかった。
 少女に馬乗りになった男の手が無遠慮に小袖の合わせ目に掛けられるや一息に引いた。粗末な小袖は男の乱暴な手つきにわずかに抵抗を示したきり、あっさりと破かれて意外に豊かな少女の乳房を晒した。
 男達の欲情の炎がひと際激しく燃える。
 まだ恋もした事がない少女が、恥辱と恐怖に新たな涙を浮かべて、せめて自分を汚す醜いものを目にしないで済むようにと固く目を閉じた時、馬乗りになった男は顔を伸ばして乳房の先に色づく肉粒にむしゃぶりつこうとしていた。
 そして、そこで雪輝が行動に映ったのである。
 鬼無子に釘を刺されていた事もあって、雪輝は極力この少女と男達に関わらぬようにしようと決めていたが、流石に今目の前で繰り広げられていた凌辱劇は後に鬼無子や凛に叱責されようとも見逃せぬものであった。
 いま襲われている少女は雪輝にとって縁も所縁もなく、その貞操が危機にさらされているからと言って助ける義理も義務もありはしなかったが、しかし、雪輝が介入すれば避けられる悲劇を見逃したとあっては、今日の日の事を雪輝は生涯後悔し続けるという確信があった。
 それに少女は似ても似つかなかったが凛とそう変わらぬ年頃であったし、どことなくひなに似ている様に雪輝には見えていた。

「待て」

 姿を伏せたまま掛けられた雪輝の声に、男達は動揺を、少女は暗中に差した救いの光を見た。
 こんな陰惨凌辱の悲劇場には相応しくない涼やかな声であった。陽光滾る夏の最中に、ふと涼風を頬に受けた様な気持ちになる、そんな声。あるいはだからこそこの場には相応しいのかもしれない。
 野獣のごとき男どもの手に囚われた哀れな少女を救う者には。
 少女の腹の上に馬乗りになった男を除いた三人が、それぞれさらしに呑んでいた匕首を抜き、姿の見えぬ声の主を求めて辺り一帯を凶光の宿る瞳で見まわす。
 極上の料理を舌に乗せる寸前で待ったを掛けられた様なものだ。男達の声の主に――雪輝に対する感情は既に憎悪に達している。

「か弱い少女一人に大の男が四人もよってたかってみっともなかろう。花を手折るも愛でるも個人の好き好きかもしれぬが、踏み躙るのは感心できぬ。いますぐにその少女を放してこの場より去れ」

 雪輝の声は男と少女達に森の彼方から、天から、あらゆる方角から木々に反響して聞こえてきて、声の響きこそ澄んだ小川のせせらぎの様に清澄であったが、それ故にかえって不気味さを纏っていた。
 少女に馬乗りになっていた男も立ち上がり、興奮しているのか唇をしきりに舐めている。この現場を目撃した声の主の殺害を、四人の男たち全員が決意していた。その様子からはすでに数人の命を奪っている手慣れさが見受けられる。

「うるせえ、ごたくをぐだぐだとぬかしやがって。おれらがどの女を犯そうがてめえの知ったこっちゃねえだろう。そういうてめえこそおれらの相伴に預かりてえんじゃねえのか? この雌餓鬼、年の割に良い体をしてやがる」

 雪輝が初めて耳にする汚らしい言葉と、あの白猿王とは異なる意味で醜い男達の笑みに、男や少女達には見えなかったが、秀麗な狼の顔には戸惑いにも似た怒りが浮かび上がっていた。
 いままで雪輝が出会ってきた人間は、目の前の男どもの様な欲望のままに他者を傷つける事に、なんの罪悪感も感じない様な卑劣漢は皆無だったのである。
 幸いにもこれまで雪輝が出会ってきたのは人間の備える善性を多く持った者達ばかりであったがゆえに、雪輝にとってここまでその心の在り様が醜い人間が存在している事は青天の霹靂とでも言うべき事態なのであった。
 自分でも意識しない内に、雪輝は重い溜息を吐いていた。人間と言う存在への失望の表れであると、本人も気づいていたかどうか。

「ならば力づくも止むをえまい。今日この日、お前達の様な人間がいると知った事を、私は生涯忘れまい。悪い意味でな」

 さっさと出てきやがれ、と言葉を続けようとした男達の顔面は動く事を放棄した。彼らの目の前に現れたのは、これまで一度も目にした事がないほど美しく巨大な白銀の狼、すなわち雪輝であった。
 初めてひなと出会った時と同様の、妖魔の哭く声の絶えぬ山の主とされた威厳を纏っていた。
 これ以上あり得ぬと断言できるほど逞しさと美しさを兼ね備えた四肢で大地の上にしっかと立ち、木漏れ日を浴びる全身は白銀の炎に包まれているかのごとく神々しく輝き、矮小な人間達を見つめる瞳は、この世のものと思えぬほど澄んだ青。
 狼とは大神――神の使いたる獣の意でもある。
 組み伏せられた少女に、そして汚れた欲望を発露していた男達にとっても、突如姿を現した眩く輝く狼の妖魔は、妖魔と言う世界の暗部に属する存在などではなく、あらゆる存在の崇敬を向けられるにふさわしい神の側に属する存在と映った。
 ひなと鬼無子がいれば今一度雪輝に惚れ直し、凛であれば普段からずっとそういう風にしていろと憤慨しかねぬ、大自然の生み出した生きた芸術とでも言うべき美と威厳とを兼ね備えた威風堂々たる姿である。
 近頃では生命を狙う妖魔や怨霊達と対峙した時くらいにしか見せなくなって久しい姿と雰囲気であるが、突然の雪輝の出現を前にした男達は、春の訪れとともに冬の氷雪が解ける様にして、ゆっくりと恐怖の感情を精神の海に広げてゆく。
 雪輝は言葉を重ねるでもなく威嚇の牙を剥くでもなく、風の無い日の湖と同じ静かな瞳で男達を睥睨する。
 魔猿一派や怨霊達を前にした時とは異なり、白銀の全身から明確な殺意を炎の様に噴き出していないのは、やはり相手が下劣な屑であっても人間であるからだろう。
 ひな達と出会った時点で雪輝は既に妖魔を幾体も牙に掛けてはいたが、実のところ生きた人間に牙を突き立てた事も、爪で斬り裂いたこともなかったし、人間を傷つけたと知ればひな達に嫌われるのではないかという危惧が雪輝の胸の中に在った。
 だが雪輝が何をしなくともこの場に居合わせた男どもにとっては、その異様な姿だけで心胆を寒からしめるには十分に過ぎた。
 男達の背丈を超える巨躯の雪輝の出現は、瞬く間に男達の欲情の炎を鎮火させ、何人もの血を吸わせた匕首はその存在を忘れてしまいそうなほど頼りないものに変わっている。
 雪輝が一歩を踏み出そうとした時、雪輝の告げた力づくも止むをえまいという言葉が男達の脳裏に沁み込み、それは血液に運ばれて男達の全身に伝播していた。
 四人の男ども全員がわけのわからない叫びを挙げながら、雪輝に背中を見せてその場から脱兎のごとく逃げ出したのである。
 雪輝はといえば自分が何をするでもなく逃げてゆく男達に、要らぬ苦労をせずに済んだか、と思ったきりである。
 元々人間を相手に力を振るう事を躊躇していた事もあって、後を追いかけて痛めつけるという発想はないらしい。
 残るは凌辱の憂き目にあっていた少女一人だけである。
 雪輝が惨状に耐え切れずに声を掛けて以来、何の反応もない少女へと雪輝が目を向けると、少女は破られた着物の胸元を掻き抱いて立ち上がり、雪輝に向けて真っ白に変わった顔を向けている。
 その顔に浮かぶのが紛れもない恐怖である事に、気付かぬ雪輝でなかった。
 雪輝の視線を受けて体を硬直させた少女は、咽喉の奥から言葉になっていない言葉をいくつか零す。心を縛る恐怖が口を動かす事も許さずにいるのであろう。

「あ……や、いや…………あ、たし……」

 やはり自分の姿は多くの人間にとって恐怖の対象でしかないのかと、雪輝は分かってはいたが悲しい事実を改めて突き付けられて、大きな胸の内をかすかに痛めながら、少女にくるりと背を向けて森の木々の中へと姿を消した。
 雪輝の姿が木立の群れの中に消えて見えなくなってから、ようやく硬直の呪縛から逃れた少女が、へなへなと腰砕けになって尻餅を着く音が、かすかに雪輝の耳に届いた。
 雪輝は、大きく溜息を吐きだした。重く、暗く、長い溜息であった。

「といった具合であるよ」

 過去の回想を終えた雪輝は、そう言って話を締めくくった。
 おおむね事前にひな達が想像した通りの話と言えた。
 雪輝が人前に姿を現した事は確かにまずい事ではあったが、だからといって一人の少女に振りかかる災難を防げたというのに見逃したとあっては、ひな達はそちらの方をこそ非難したであろう。
 雪輝の話を聞く限りにおいてはまったく非の無い事情であった事に、ひなは小さな顔に安堵の色を浮かべて、雪輝の下顎となだらかな鼻梁に椛の様に小さな手を添えて、良い子良い子と撫でている。

「その事情では仕方がありませんね。雪輝様が見過ごす事が出来るはずありませんもの」

 人物画の巨匠が生涯を掛けて引いたように美しい輪郭線に白魚も黒ずんで見える繊指を添えて、鬼無子はふうむ、まあ思った通りか、と息を一つ零した。

「『雪輝殿が少女を襲った』、ではなく『雪輝殿が卑劣漢に襲われていた少女を助けた』という話でありましたか」

「もっと正確に言うなら『雪輝が卑劣漢に襲われていた娘を助けたけど、見た目が狼だったんで娘に怖がられて話が逆転して伝わった』、かな?」

 と凛。山の民も最初は雪輝を大狼と血の繋がりのある狼の妖魔かと警戒していたこともあるし、そも雪輝のしたことは人助けである。非難するつもりになどならないようであった。

「君らが急いでここに来た以上、町ではそれなりの騒ぎになっていよう。下手をすればここにはしばらく来られぬやもしれぬな。その点については謝罪するほかあるまい。特にひなには済まぬな。久方ぶりの人里であったろうに、私の行いで要らぬ騒動を起こしてしまった」

 しょんぼりと耳を垂らして頭を下げる雪輝に、いいえとひなは首を横に振る。

「いいえ、雪輝様のなさった事は間違ってはおりません。その女の人を襲った男の人たちを非難こそすれ、雪輝様を責めようなどと私は思いません。雪輝様が私達以外の方にもお優しくて、私は嬉しく思います」

「ひなの言うとおりです。雪輝殿がもしその女子を見捨てたとあってはそれこそそれがし達にとっては噴飯ものでした。気に病まれますな」

「ふうむ、そう言ってもらえると助かるが、どうにも甘やかされているようでむず痒くなるな」

 確かに雪輝に対してひなと鬼無子は好意を寄せている事もあって甘やかす事が多い。

「それに、それがしの方もお伝えせねばならぬ事がございます」

「なんだね」

 鬼無子は町で遭遇した黄昏夕座なる妖剣士の事を伝えた。夕座に自分が目をつけられた事、夕座の実力があるいは自分をも凌ぎ、雪輝にとって危険極まりないものであろう事、鬼無子が肌と魂で感じた事と起きた事実の全てを包み隠さずに伝える。

「鬼無子をしてそこまで言わせるのか。外の人間にも凄まじいのが居るものなのだな」

「どこにでもいると言うわけではございませぬが、今回はそれがしの事と言い、雪輝殿の一件と言い、ちと間が悪うございましたね。この七風の町はしばらく訪れぬようにしなければなりますまい。まあ他にも町はございますし、出かける先を変えればよいだけの話ではあります」

「ふむ、まあ色々と厄介事もあったが、無事買い物は出来たようだし、収穫の方が大きかったのではないかな。ところで、それだけの荷を背負って三人を背に乗せるのは、いささか難しいかもしれんなあ」

 雪輝は鬼無子の足元に降ろされた食糧と衣類に目を向けて、しみじみと呟く。三人を乗せた後にどうやって自分の身体に括りつけたものか、と頭を悩ませているらしい。

「これらはまず雪輝殿に縄で括りつけて先に小屋の方に運んでいただき、そこで降ろしたと後にそれがし達を迎えに来ていただけれよろしかろうと存じます」

「私が荷物だけ先に運んで君らを迎えに来ればよいわけか」

 またすぐひな達を別れる事に対し寂しさを感じているようで、雪輝の言葉の中には一抹の心細さがあった。
 まるで親と別れる幼い子供の様だ、と思いながら鬼無子は苦笑を浮かべる。雪輝ばかりでなくひなも雪輝と同じような顔をしていたからである。この一人と一頭は本当に心の深い所で繋がっているのだろう。

「雪輝殿にばかり労を強いてしまい申し訳ございませぬが、いささか荷が多くなりましたし、我々と共に荷を運ぶのは若干無理がございますから」

 理尽くめの鬼無子の言葉であるから、これには雪輝も従う他ない。仕方がないとばかりに首を左右に振り、渋々鬼無子の言葉に首肯する。だらりとぶら下がる尻尾が、雪輝の意気消沈ぶりを明確に露わにしている。
 荷物があるとはいえ、雪輝の足ならば往復に四半刻も掛らぬであろうに、鬼無子はこの方ももう少し大人になっていただかぬとなあ、と雪輝の見せる稚気を愛おしく思いながら、肩を竦めた。
 雪輝の身体に食料品などを買い求めた際に分けて貰った荒縄で荷を括りつけ、しきりにこちらを振り返って一時の別れを惜しむ雪輝を見送ってから、ひな達は街道を三人肩を並べてのんびりと歩き始めた。
 荷は全て雪輝に託してあるから全員手ぶらで、身軽な帰り道である。夕日が沈み始めるまであと少し、といった具合であろうか。七風の町へ急ぐ者も、七風の町から出る者も歩みが速まっている。
 武士姿の鬼無子と村娘らしい姿の凛とひなの奇妙な組み合わせは、それぞれの美貌も相まって街道をゆく人々の目を引いたが、視線を引きよせている三人はと言うとさして気に止めた様子もなく、樵小屋に着いた雪輝が自分達の所に来るのを待ちつつ歩き続ける。
 雪輝の気性を考えれば荷を降ろしからはほぼ全力疾走でひな達の所を目指すであろうから、ほどなくして合流となるだろう。
 そう考えると雪輝を除いた女子三人だけという状況も珍しいもので――町中を歩いている時もそうだったが――雪輝のいない所でしかできない、女子だけの会話の花も弾み、取りとめのない話はのんべんだらりと続く。
 その会話の花が唐突に萎れたのは、左右を鬼無子と凛に挟まれて、右手を鬼無子と、左手を凛とつないで歩いていたひなが、前を向いたまま足を止めてしまったからだった。
 不意に全身を強張らせて視線を目の前に固定するひなを訝しく思い、鬼無子と凛とがひなの視線の行く末を辿れば、そこにいるのは粗末という他ない野良着に包み、荷車を引いている数人の男達である。
 いかにも農夫といった風体で疲労が全身に沁みついているのが分かる。餓えた村に行けばいくらでも見つかる様な連中である。
 荷車には菰が被されていて荷物がなんなのかまでは分からない。
 鬼無子と凛の目を引いたのはひなばかりか、荷車に纏わりついている農夫たち全員も、ひな同様に顔面を強張らせ、そこに不理解となぜか恐怖の色があった為だ。
 お互いに向き合ったまま、凝然と固まる農夫たちの顔を見た鬼無子の脳裏に、不意に閃くものがあった。見覚えがある、と思うのと同時に思いだす。
 彼らは――

「ひな、か?」

「権兵衛……さん」

 荷車の前を歩いていた四十そこそこの逞しい男が、張り付いたように動きの鈍い喉を動かし、ひなの名を呟けば、ひなもまた同じようにして男の名を呼んだ。
 そう、男達は、ひなを生贄にと選んだ苗場村の村人たちであった。

<続>
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