少女の愛した狼 屍山血河編
その一 風は朱に染まっているか
鋼を思わせる灰色の岩が一面を覆い尽くす大地が朱に染まっていた。
深い青色の夜空からは滝の様に濃密な星と月の光とが降り注ぎ、真の闇の訪れを阻み、暗闇に沈む世界を白々と照らしていたが、その一帯ばかりは照らし出す事を忌まわしく想っているに違いない。
血の海という言葉を現実のものにしたならば、まさしくこの光景に違いないと誰もが、咽喉の奥から込み上げてくるものをこらえながら納得することだろう。
分厚く異様に巨大な岩盤によって地面が覆い尽くされている影響で、周囲には灌木はおろか生命力の強い雑草さえもただの一本も生い茂ってはいなかった。
広大な大地に沁み込む事もなくその領土を広げる血の海の中に、転々と転がっている物体がいくつも見受けられた。
それは例えば、割られた腹筋から零れ落ちて長々と伸びる臓物、肘か先を斬り飛ばされた腕をはじめとした四肢の一部、腰から上と下とで分断された人型に近い胴体、頭蓋を割れて脳漿と眼玉をぶちまけている頭部。
一見すれば人のそれと見間違うほど酷似したそれらは、仔細に観察する事が出来れば絶命の苦悶をむざむざと刻む顔や、千切れ飛んでいる手足を覆いつくすようにびっしりと生えている剛毛に気づき、大地に転がる醜悪極まる死骸が元は無数の猿達であると分かる。
死骸の数を数える作業が途方もない拷問となるに違いない凄惨酸鼻なそれらの中で、月光の祝福を満身に浴びて全身に光の珠粒を纏う獣の姿が一つある。
血の海と等しい色合いの毛皮を全身に纏い、片耳の先端が欠けた巨躯の狼である。
肩までの高さがゆうに六尺に届く、尋常な狼に比べて数倍にも届く巨大さだ。
血の海の上に立つその全身からは、周囲の光景に対する恐れも哀惜の念もなにも感じられない。
妖魔の哭く声が風に乗り、付近の村落に呪いの歌のごとく届く事から、妖哭山と呼ばれる魔性の者どもの巣窟に住まう妖狼族の雄、飢刃丸である。
うるぅおおおお――――――んんんん――――――――――
彼方より届いた同胞の遠吠えに、飢刃丸の耳がぴくりと震えた。
今宵繰り広げた殺戮劇に伴ってきた同胞たちが、逃げ出した他の魔猿達を尽く殺し尽くした事を伝える遠吠えであった。
くっ、と赤く濡れそぼった飢刃丸の口が吊りあがる。
小賢しい猿どもが同族内での勢力争いによって弱体化した隙をついての奇襲は、まず成功と言えるだけの成果を上げたと言えよう。
飢刃丸はほとんど一方的な虐殺に終わった結果に暗い愉悦を覚えながら、足元に踏みにじる二匹の魔猿の遺骸に目を向けた。
どちらも通常の魔猿を一回りも二回りも上回る巨躯を持ち、それぞれが赤と青の毛皮を纏う明らかに格の高い魔猿であった。
他の妖狼達では相手にならず飢刃丸自らが喉笛を噛み切り、脊髄を噛み砕いた魔猿どもである。
白猿王との抗争に勝利し、魔猿達を率いる地位に就いた二匹の魔猿達であったが、その天下も一月と保たずに飢刃丸の手によって、たった今終焉を迎えた。
あらん限りに口を開き、舌を伸ばして苦痛を露わにする醜い顔に飢刃丸の牙がずぶりずぶりと突き刺さり、時を置かずして生皮をその下の肉ごと引き剥がす音と、ぶつりぶつりと弾力のある肉を噛み切り咀嚼する音とが続く。
強い妖気を持つ妖魔を屠った時、その死骸を食らって己の力とするのはこの妖哭山では至極当たり前のことであった。
白猿王にはわずかに及ばぬとは言え、魔猿達の中でも屈指の力を誇る二匹の血肉と怨恨を色濃く残す妖気を血の一滴、毛の一本、骨の一欠けらも残さぬよう、飢刃丸は口を動かす速度を徐々に速めてゆく。
鮮血滴る肉が咽喉を通り胃の腑に届く都度、飢刃丸の全身に新たな力と憎悪と怨恨を色濃く孕む妖気が漲る。
ぐちゃぐちゃと汚らしい水音を口内に響かせながら、飢刃丸は目の前の馳走ではなくこの場にはいない誰かを見ているかのような、ただただ冷たい瞳をしていた。
その眼に移るはかつて己を敗北の泥濘に叩き落とした白銀の狼であったろうか。
*
「きゃん」
と、青年が無理に高い声を出している様な声が一つ、妖哭山の山中に建立された樵小屋の大気を震わせた。
闇と共に訪れた静寂がその奇妙な声によって破られて、それまで静謐に沈んでいた樵小屋の住人が動く。
ぬばたまの闇と同じ色の髪を揺らしながら、あら、という声を小さな桜色の貝殻の様な唇から少女が零す。
肌を斬る様な寒風の吹きすさぶ厳冬の最中、ふと春の訪れを感じた時の様な気持ちにさせる暖かな声であった。
小さな唇、卵型の綺麗な輪郭を描く顎、黒瑪瑙を思わせる円らで大粒の瞳の配置の妙は、少女が揺籃の時を終えて羽を広げた時の美貌を期待させるものがある。
老齢の樵が残した樵小屋の新たな住人の一人、ひなである。
小さく火の粉を爆ぜる焚き火を前に、まだ未成熟な蕾を思わせる可愛らしい顔を、赤々と照らされながら先ほどから竹籠を編む作業に集中していたが、すぐ耳元で聞こえてきた珍奇な声に、つい背後を振りかえったようであった。
ひなが背後を振りかえるのに合わせてふわりと広がった髪が、窓から差し込む月光と焚き火の赤光を浴びて、無数の煌めきを纏いながら柔らかくひなの背にかかる。
その髪の幾本かが悪戯心を覚えた様に、ひなの背後に居る存在の鼻先をくすぐっていったために、もう一度、あの奇妙な声がした。
「きゅん」
その声に一拍子遅れて、ひなが編み作業をする間、左前脚の付け根のあたりに背を預けていた背後の巨大な物体がもぞりと身じろぎをする。
尋常な狼の数倍にも達する異常な巨躯を長々と横たえて、ひなが小さな指をちょこちょこと動かすさまを、穏やかなまなざしで見守っていた白銀の魔狼――雪輝だ。
長い時間を共に過ごした連れ添いのように、言葉を交わさずともただ心地よい時が流れる事に穏やかな満足感を覚え、何を言うでもなくひなの邪魔にならぬようにと、身じろぎひとつせずにいたのだが、なにに刺激を受けたのか……
「雪輝様、ひょっとしてくしゃみをされたのですか?」
はじめて耳にした狼のくしゃみというものに、驚きました、と顔に書いて問うひなに対して、返事というわけではないのだろうが、雪輝はくしゅ、と小さな音を立てて鼻を鳴らす。
雪輝にしてもくしゃみをした経験は珍しいのか、青い満月をはめ込んだような瞳をぱちぱちとさせながら、不思議そうに両耳をピンと直立させて、鼻先を右の前肢で擦る仕草を繰り返す。
猫が顔を洗うのに似た仕草だが、こちらは肩高が六尺にも達する巨躯と人語を解する知恵を併せ持った狼の妖魔である。
まず可愛らしさよりもその巨大さからくる威圧感に、見た者は肝を潰されることだろう。
しかし、長いとは言えないが非常に濃密な時間を共有し、狼の表情というものも判別できるようになったひなにとっては、きょとんと無垢な顔をして不思議そうに鼻先を擦る雪輝の姿は、まったく別のものに見えているようだった。
ころころと慎ましく鳴らされた金鈴の様なひなの声に、鼻先を擦るのをやめた雪輝が、大首を傾げながらひなの顔を真正面に見つめて口を開く。
そっと触れた指先がたちまち血の珠を結ぶほど鋭い牙が生え揃った口は、威容の醸しだす迫力に満ちた狼の容貌に相応しいものであったか、そこから紡ぎだされた言葉には少女に対する深い優しさがあらんかぎり含まれていた。
「なにか可笑しかっただろうか?」
「いいえ、雪輝様があまり可愛らしかったものですから、つい」
この上なく柔和に笑むひなの眼差しにも、雪輝がひなに向けるのと同じ優しさが込められている。
一方で可愛いと言われた雪輝はといえば、自分に対して可愛いという形容詞が用いられることが、不思議でならないようでふむん、とひとつ漏らしてひなの手では抱えきれるかどうかという太い首を捻る。
「ふむ。私の様な恐ろしげな姿をした者には似合わぬ褒め言葉ではあるな。褒められて悪い気はしないが、ね」
ゆらりと雪輝の長い尾がゆっくりと左右に振られて音を立てる。
ゆらり、ゆらり、ゆらり。
嘘をつくのが大の苦手なこの狼の、嬉しい時に体が示す反応であった。
雪輝の心が嘘をつくのが苦手なら、この狼の身体は隠しごとをするのが大の苦手なのだ。
「可愛いというのならひなの方が可愛いという言葉が似合うだろうに」
雪輝自身が意識したわけではなかったが、この愚鈍な所のある狼にしては珍しい褒め言葉である。
「まあ、雪輝様ったら」
褒めようとして褒めたというよりは本当にそう思っているから口にした、といった調子の雪輝の言葉であったが、御世辞やおだての言葉ではないと初対面の者にもわかる正直さであったから、言われた方もこれは素直に嬉しい。
ひなは、血色の良くなった頬にうっすらと朱の色を登らせ、はにかんだ笑みを浮かべながら自分をまっすぐに見つめている狼の青い瞳を見つめ返す。
青い満月の中に映る自分の姿に、このまま雪輝様の瞳の中に閉じ込められるのもいいかもしれない、とひなは心の片隅で考えた。
もしそんなことになったら、慌てて雪輝は目玉をほじくり出してでもひなを外に出そうとするだろうから、その様な事にならぬ方がよいのだけれど。
「ありがとうございます。雪輝様にそうおっしゃっていただけると、私はとても嬉しいですよ」
赤みを帯びた頬に手を添えて嘘偽りなく喜びを告げるひなに、雪輝のゆっくりと揺れていた尾の左右に振られる速度が一段増した。
ひなも雪輝も両方ともが相手に嘘をつくという事など、一欠けらほども思考の中にない正直者同士であるから、一度相手を褒めだすとなかなかこれは収まりを見せない。
「そうか。ではもっと言った方がよいのかな」
ひなにはいつも笑っていて欲しいと常に願っている雪輝であるから、このような言葉が出てくるのは当然というべきだろう。
「それはご勘弁下さいませ。私が嬉しくて息もできなくなってしまいそうですから」
「ふうむ、それはいかんな。せっかくひなを喜ばせる良い方法が見つかったかと思うたのだがなぁ」
心底残念そうにつぶやく雪輝の様子に、そこまで自分を思ってくれる事への感謝の念を抱きながら、ひなは手で口元を隠しながら品よく笑った。
僻村の村娘という生まれと育ちにしては、決して目立ち過ぎて鼻につくような事のない、小さな花の可憐さを思わせる品の良さが滲む笑みである。
加えて笑みを向けられたものがどんなに暗い沈鬱な心に陥っていても、一筋の光明が射したように救われた気持ちになる笑みだ。
その品良い笑みも心安らぐ笑い声もまた雪輝の耳にはこの上なく心地よく、尻尾と同様に耳が嬉しそうにぴくぴくと震えている。
なんにつけひなが笑顔を浮かべていればこの狼は満足であるし、ひなの方も雪輝が嬉しそうにしていれば胸中で喜びを噛み締める性格をしているから、互いの幸せが循環しやすく共有しやすい幸福な関係にある一人と一頭といえよう。
さて、樵小屋の中の一人と一頭が何物も入る余地のない空間を構築している中、その空気を察して中へと一歩足を踏み入れる事を躊躇する影が一つ、鹿皮の戸のすぐ傍に居た。
繊細なまでの神経で一本一本丁寧過ぎるほどに植え付けられたように整った眉を、むむぅと寄せて悩む色を秀麗な美貌に浮かべているのは、もう一人の同居人である四方木鬼無子に相違ない。
日課にしている素振りを終えて、さて汗を流して寝の床に就こうと思い立ったわけだが、常人よりもはるかに鋭敏な鬼無子の耳は、樵小屋の中で交わされるひなと雪輝の会話を一語一句洩らさず聞き届けていた。
「まったく、こちらが困ってしまうほど二人の仲睦まじきこと。雪輝殿が人間であったら、評判のおしどり夫婦という言葉でも足りぬな。やれやれ」
苦笑するほかない、と言わんばかりに鬼無子はそれでも我が事の様に嬉しそうに苦笑を浮かべる。
その苦笑の中には雪輝とひなに対する嫌味や苛立ちといったものが、ほんのわずかほども含まれてはいない。
この女剣士も樵小屋の中の一人と一頭に負けず劣らずお人好しな性格をしているようだ。
星の明かり一つあれば夜行性の獣も道に迷う様な夜闇であっても、昼間とそう変わらない視界を保てる鬼無子は、いまいつもの筒袖と袴姿ではなく凛とのやり取りで譲ってもらった簡素な柿色の野袴姿であった。
口紅を刷かずとも大輪の椿の様に艶やかな紅色の唇に、染みも傷もなく白磁器の方が黒ずんで見える雪色の肌、絵師が忠実に紙の上に再現できたなら男どもがこぞって買い求めるだろう美貌は、着衣が粗野なものでも色褪る事はない。
ほつれたおくれ毛が汗に濡れて張り付きかすかに桜の色に上気したうなじが、匂い立つような色香を醸している。
手の届く距離まで近づけば鬼無子の身体から匂い立つ濃密な無色の色香に酔いしれて、その場に昏倒してしまいそうなほど。
鬼無子の姿を迷いこんだ猟師が見かけていたら、妖艶極まりない美しさを前にして、これは人間であるはずがないと、半ば夢現を彷徨う恍惚とした心で矢を射かけたであろう。
人間の精を吸って生きる淫魔もかくやの妖美な雰囲気を纏う鬼無子であったが、全く似合わぬものがその小脇に抱えられていた。
赤樫から削り出したとびきり頑丈な木刀である。
よく見ればその柄尻に丸で囲んだ凛の一文字が彫ってある。これはもうまず間違いなく、鬼無子らと親交の深い山の民の少女凛の用意した木刀だ。
鬼無子が凛に特別に用意してもらったこの鉄芯入りの赤樫の木刀の重量は、一本あたり十貫(約三十七・五キログラム)ある。
鬼無子はこの真剣よりもはるかに重いこの木刀を振りまわす事を、朝夕の日課のひとつとしていた。
この木刀を両手に一本ずつ握って二千本ずつ振り回せば、一般的な武芸者の数倍以上の肉体的耐久力や持久力を備える鬼無子も、流石に疲労を覚えて汗くらいは流すようであった。
それでも刀を振るう時に邪魔にしかならない豊かすぎるほど豊かな乳房の起伏は穏やかなもので、汗を浮かべる事はあっても息を乱すほどの運動ではないということだろう。
この様子ならこれから更に一万本くらいは振り回す体力的な余裕はありそうだ。
左の小脇に木刀二本(合わせて約七十キログラム)を抱えながら、鬼無子は成人男性一人分の重量を抱えているとは思えない身軽な調子で、首に掛けている手拭いで赤林檎色の頬を伝う汗を拭う。
夏の残暑は夜の暗闇の中にも気配を残しているが、四季の移ろいは緩やかにそして確実に秋へと変わりつつあり、頬を撫でる風にふと秋の冷たさを感じることもしばしばである。
いまはまだ素振り運動によって生じた熱が体内に残っているが、直に首筋や脇、太ももの付け根に乳房の谷間と、場所を選らばずに浮いている汗や秋の冷気を含んだ夜風が熱を奪い体が冷えてしまうだろう。
鬼無子の肉体は一般的な人間の肉体の常識とはまるで別物の頑健さを誇ってはいたが、鬼無子自身は人並みに身だしなみという概念を知っているまともな所のある女性である。
であるからして、全身を濡らす汗をそのままにして体を冷やしたり、汗のにおいに塗れているのは御免こうむりたい、というのが正直な本音だ。
「あの雰囲気の中に足を踏み込むのは正直無粋であるとは思うが、致し方あるまい」
一瞬気まずそうな顔を拵えてから、鬼無子は姿勢を正してんん、と如何にもわざとらしい咳払いをする。
無論、中に居る一人と一頭に聞こえるようにという配慮が込められている。
少し念入りにし過ぎかな、とは自分でも思うものの更に鬼無子は入室の声かけを行う。
「雪輝殿、ひな、入りますぞ。よろしいか?」
応答はすぐにあった。
「はい、お湯の用意も出来ていますから、どうぞお入りください」
鬼無子が素振りを終える時間はいつも同じ時間帯であるから、すぐに素振りの後の汗を流せるように、ひなはいつもこの頃になると竈で湯を沸かしておいてある。
ひなの声の調子からして一人と一頭の世界に割り込んだ事に対する怒りや不愉快さといった感情は、爪の垢ほども込められていないのは確実だった。
これはいささか鬼無子が気を遣いすぎたというべきだろう。
ひなと雪輝が互いの事をこの上なく大切に思い合っているのは確かだが、この一人と一頭は鬼無子の事もとても大切な存在として想っているのだから。
「では」
と一声返してから鹿皮の戸を捲り、鬼無子は樵小屋の中に入る。
つい先ほどまで囲炉裏を前に座るひなの背中を温める位置にいた雪輝が、ちょうど土間の方に降りて鬼無子と入れ替わりに樵小屋の外に出ようとしていたところだった。
これまでひなと鬼無子が湯浴みで汗を流す時や寝間着から着替えるために、自ずから輝くように眩しい裸身を晒していた時、雪輝は樵小屋の中に留まってその様を好きと勝手に観察していた。
雪輝に見られる側であるひなと鬼無子はというと、雪輝の外見が狼であることから生まれたままの姿を見られてもさして気には留めていなかったのだが、ここ数日でその意識に若干の変化がみられていた。
具体的にいえば凛を含めた三人で滝壺で水浴びをした際に、雪輝が悪気はなかったにせよ迂闊にも三人の乳房を見比べて、『大中小』などと比較した発言をして以来、女人の裸身を無遠慮に見る事は礼を失する行為なのではあるまいか、と雪輝が思い当たったためである。
この狼にも高いとは言い難くはあるものの、一応は学習能力というものがあり、ひなはまったく気にしていないのだが、ひなと鬼無子が着替える時などは必ず席を外す様にしている。
鬼無子は自分よりも八寸近く上にある雪輝の顔を見上げた。
「少々風が冷とうございます。すぐに済ませますので、申し訳ありませぬが堪えてくださいませ」
「冬の雪も夏の日差しも私にはさして変わらぬものだ。好きなだけ湯浴みをしておればよい。ひなも鬼無子と一緒に湯浴みするのを楽しみにしている」
「それでは雪輝様の御言葉に甘えさせていただきますかな」
鬼無子としては正直なところ、過日の大中小発言以来、妙に雪輝の視線というものが羞恥の念を呼び起こすものとして感じられており、雪輝が席を外してくれるのはありがたくあった。
雪輝殿とは言え狼を相手に何を、とは自分でも思うのだがこればかりは如何ともしがたいのである。
鬼無子の頬に差している赤みは、素振りの余熱ばかりでなくわずかな恥じらいの赤も混じっているのだろう。
「ではな。体の芯まで暖めると良い」
と一つ呟いてから、雪輝は長々と伸びる尾をゆらゆらと揺らしながら樵小屋の外へ出た。
雪輝の退出を確認してから、鬼無子は脇に抱えていた超重量の木刀を土間の床に突き刺す。
木刀の切っ先はまるで水に沈むように土に突き刺さって潜り込む。砂山ならともかく踏み固められた土間の地面に、こうも簡単に突き刺さるのは少々異常な光景であった。
鉄芯の重量もあるだろうが、ぐい、と押し込んだ鬼無子の怪力以外の何物でもない膂力のせいもあるだろう。
それから鬼無子は視線を巡らせて、竈の近くで白い湯気をもくもくと立てている大きめの二つの盥(たらい)で視線を止めた。
生活に支障のない道具が残っていた上に頑丈で広い作りの樵小屋ではあったが、流石に湯船までは備えておらず、樵小屋の中で水浴びや湯浴みをする時は、このように盥に水なりお湯なりを張る形になる。
そもそも湯船に湯を張るのには手間も薪代もかかる物で、一般庶民の家屋には無いのが普通であるし、それなりの町や都市であれば公衆浴場が営まれてもいるが、これも蒸し風呂がほとんどだ。
波々と湯の張られた湯船というものは、それなりに品格のある家に産まれたと思しい鬼無子の生家ならともかく、ひなにとっては未経験の品である。
とはいえその事で贅沢を言うほど鬼無子は世間を知らぬ女性ではなかったし、盥でも十分に疲れは取れて気持ちもいい。
ひなの用意した二つの盥の横には、追加のお湯や冷ますための水の入った桶がいくつか柄杓と共に置かれていた。
既にひなが鬼無子と自分の着替えや体を拭うための布を用意し終えていて、鬼無子と一緒に湯浴みするのを楽しそうにして待っていた。
「お待たせしたかな?」
「ちっとも」
首を横に振るひなに微笑みかけて、鬼無子は腰帯に手を掛けてゆっくりと解き始めた。
*
ひなと鬼無子の二人揃って着物を脱ぎ、竹籠にしまってからそろりと足の指先から盥の中の湯に沈める。
体格は人並みの鬼無子と小柄なひなの二人が肌を寄せ合って身を沈めればまだ少し余裕がある程度に盥は大きく、盥一つに一人が入れば足は伸ばせぬまでも寛ぎを感じるには十分な広さがある。
湯は少し熱く感じる位が好みの鬼無子にはほどよい温度であった。
足を折って前に出し腰を降ろした鬼無子の隣の盥に、足を揃えて横に倒した姿勢でひなも鬼無子にならって湯に腰を降ろす。
いつも髪を束ねている青い組紐が解かれて広がった鬼無子の栗色の髪の毛先が、湯に触れてゆらと湯面に揺らめく。
雪輝と共に暮らし始めてから、薬草から抽出した薬液で髪の潤いを保ち、切るのは毛先を整える程度に留めていたひなの黒髪は、小桃のようなお尻に毛先が届くまで伸びており、鬼無子同様に湯に濡れて揺らめいていた。
ひなの方を向いて、ほぅ、と心地よく鬼無子の唇から零れた吐息が耳の裏をくすぐり、ひなは、きゃ、と小さく声を出した。
「おや、これはすまない」
「いいえ、すこし驚いただけですから」
「そうか」
お互いにくすりと笑い合い、二人は思い思いに湯に浸した手拭いで体を拭き清め始める。
湯に入る前に足や手の汚れなどは洗い落としていたが、改めて熱い湯で全身を濡らしてゆくと、同時に体の中の疲労も溶け消えてゆき、鬼無子は心地よさに眼を細める。
湯にはほんのりと緑の色が着いているが、これはひなが趣味で作っている薬草などを煎じたり、乾燥させてから粉末にするなどして作った粉末状の入浴剤だ。
貴人の使う香油や入浴剤ほどの効用は流石に見込めないが、疲労がよく取れて血行も良くなり、体がぽかぽかと温まると鬼無子にも好評の品である。
基本的にひな達が日常使う薬液などは、ひなの独学と凛が好意で教えてくれた山の草花などから作ったものが多いが、鬼無子の方も同様にこの国の草花に詳しく、打ち身や切り傷によく利く軟膏や匂い消しの薬を作る知識があった。
元々の職業を考えれば、対峙する対象である妖魔の毒を解毒するためや、気配を悟られぬための匂い消しとして学んだものであろう。
空の桶に入れられていた一組の貝殻を取り、鬼無子はその中にあるねっとりとした桜色の膏薬を手に取った。
武者修行中も女人としての身だしなみとして、鬼無子が使っては足し、減っては作った髪の色艶や柔らかさを保つための膏薬である。
「ひな」
「はい」
呼びかける鬼無子の声に素直に従って、ひなは盥の中で体を動かして鬼無子の方に背を向ける。
鬼無子はすぐ目の前にあるひなの黒髪を一掬いずつ手にとって、丁寧に膏薬を塗り込む作業を繰り返す。
村での荒んだ暮らしの影響で雪輝と共に暮らし始めた時は、随分と痛んでいたひなの髪であったが、いまでは手櫛で長い髪を梳いても指が引っ掛かる事は減り、枝毛なども激減している。
膏薬は髪の保湿などが保たれて髪から薫る香りもよくなる品で、せっかく綺麗になった髪なのだから、と鬼無子は黒髪の一本一本に注意しながら膏薬を塗り込んでいった。
当初二人で湯に入る様になった頃、ひなは武家の生まれである鬼無子だから、風呂をはじめ身の世話の一切合財を下女がしており、一人で諸国を旅していたとはいえ鬼無子はそういった事に疎いと思っていた。
そのため湯浴みをする時は自分が鬼無子の世話をしなくては、と考えていたのだが実際はというとその逆になっていた。
鬼無子は武家の出ではあるものの、その家が妖魔の血を引くという決して表には出れない日蔭者の一族であった事や、幼少の頃から死線を廻る人生を送ってきた影響で、身の回りの雑事や家事全般をすべてこなせるだけの生活力は備えていたのである。
むろん、古くから家に仕える下男下女の類は四方木家に居たのであるが、鬼無子がまだ宮仕えをしていた頃は、妖魔や朝廷の転覆を狙う人間勢力の暗躍が頻発しており、世話を担う家僕達も戦闘に投入され、身の世話など全て自分でするのが当たり前になっていたのだ。
そのために、鬼無子は裁縫や掃除、洗濯もそれなりにこなす生活力を身につけるに至っている。ただし、料理に関しては栄養最優先であるために味は今一つという結果に陥っていたが。
また鬼無子は生来世話を焼くのが好きな性格をしているようで、普段は世話をする側であるひなが珍しく鬼無子にされるがままにしていると、顔を見えなくてもはっきりと分かるくらいに上機嫌な様子だ。
そのうち鼻歌でも歌い始めるのじゃないかしら? とひなが思うくらいである。
「ふふ、ひなの髪はご母堂譲りなのか、手触りがよいし癖もない。風雅の分からぬそれがしでは、あまり思いつかぬがそうさな珊瑚や鼈甲細工の簪などよく似合いそうだ。それがしが持っていたら喜んで譲りたい所なのだが、生憎と持ち合わせがなくてな」
申し訳なさそうに鬼無子は言う。
みだしなみの概念は有しているのだが、基本的に自分を武人・侍であると定義している鬼無子は自分自身を着飾るという発想には乏しく、簪や細工物の櫛、根付けといったものは武者修行には邪魔と判断し、持ち歩いてはいなかった。
「褒めて頂けるだけで私は胸がいっぱいです。私は鬼無子さんの御髪(おぐし)の方がとてもきれいだと思いますけれど」
「そうかな。誰かに容姿を褒められるのはずいぶんと久しぶりのことゆえ、ちとくすぐったい」
鬼無子の手が髪を優しく扱っているため、ひなは後ろを振り返る事は出来なかったが、鬼無子がはにかむ様に笑んでいるのが手に取るように分かった。
照れ臭くなったようで、鬼無子は下手糞な咳払いを一つして話題を変えにかかった。
人を褒めるのには抵抗はないが、自分が褒められることに対しては慣れていないせいもあって抵抗があるらしい。
「おほん、し、しかし綺麗といえば雪輝殿の毛は、それがしの髪などよりもよほど美しく思えるな。本物の銀がくすんで見えるほどに輝いておるよ、あの毛並みは。見た目の美しさのみならず手触りの素晴らしさ。この山に来てよかったと思ったものの一つだ、あれは」
「鬼無子さんは本当に雪輝様のお身体がお好きなのですね」
「うむ、実に素晴らしい感触であるよ、あのもふもふとした毛並みは」
心の底から賞賛していると分かる鬼無子の言葉に、ひなは自分が褒められたかのように喜んでコロコロと可愛らしく小さな笑みを零す。
初めて鬼無子が眼を覚まし、勘違いして雪輝と斬り合い寸前まで陥った時に、鬼無子の説得を行ったひなは、当初鬼無子の事を生真面目だけれど妖魔相手でも非が自分に在り、理が向こうにあれば頭を下げられる人、と考えていた。
ところが更に日数を重ねて過ごすうちに、生真面目は生真面目なのだが柔軟過ぎる位に融通が利き、またどこか間の抜けて可愛らしい所のある人であると分かり、親しみがずっと増していた。
そのまま暫く他愛のない話を続け、冷めてきた湯に新しい湯を足し、ひなの頭から湯を掛けて洗い流すなどしていると、ふとひなが何か考え込む様子である事に鬼無子は気づいた。
「どうかしたかな?」
「え、あ、そのぅ」
鬼無子の問いにひなはしどろもどろになって答えた。最近では必要以上の遠慮をするのは良くない、と分かっているひなにしては珍しい反応に、はて、と鬼無子の顔に薄い疑問の色が浮かぶ。
遠慮しているのは確かであるが、それ以外にもかすかに恥じらいめいた感情の響きが含まれていたのを、鬼無子の人類の規格外の聴力を誇る耳は聞き取っていた。
だからといって鬼無子は無理にひなから聞き出そうとはしなかった。
既に自分達は遠慮する必要のない間柄であると鬼無子は考えていたが、親しい中にもある程度の配慮といったものは関係性の維持には必要となる。
それにひな一人で解決できない様な問題であったら、聡明なこの少女の事であるから、自分か雪輝に相談してくれるだろうという信頼の念もある。
ひなは顔を俯かせたり上げたりを数度繰り返してから、意を決した様子で小さく頷いてから、鬼無子の方を振り返る。
「あの、雪輝様は大きい方がお好きだと思いますか」
「?」
なにが大きい方が、と鬼無子は疑問符を頭の上に浮かべたが
――よもや食べ物としてか?
という結論に行き着き、鬼無子は意外にひなが剣呑な事を考えていたのかと、一瞬顔を険しく引き締めた。
初めてひなと雪輝が出会った時、雪輝が大狼の滅びを伝えた際にひなが自分を雪輝に食べてもらいたいと告げた事があると聞き及んでいた鬼無子は、何をきっかけにしてかひながまたそんな事を考えていたのかと、悲しみを覚えながら諌めようと口を開く。
「そのような……」
「あの、おっぱいが」
「………………こと、を…………おっぱい?」
「はい」
真摯なひなの瞳が見つめているのが、自分の胸元で確かな質感を伴って揺れている乳房である事に気付き、しばし鬼無子は途中まで開いた口を閉じる事を忘れた。
刀を振るう時に邪魔にしかならず、胸部への攻撃を受けた時に脂肪の壁となるくらいにしか役に立たない、と鬼無子は自分の乳房を過小評価している。
「胸か」
ようやく鬼無子の口から出てきたのはそんな一言であった。
「はい。凛さんや私はほとんど平らですけれど、鬼無子さんのおっぱいは大きくて柔らかいし、とても丸々としていて形もお綺麗だと思います。雪輝様は特に仰られてはいませんけれど、やっぱり体つきは豊かな方が好ましく思われるかもしれないな、と」
一般的にこの時代のこの国では女性は細くしなやかな体つきよりも、少しふくよかな方が好ましいという美的感覚であるから、ひなの言葉も相手が狼の妖魔でありそもそも人間ではない雪輝が相手という事を除けば、そう間違いではない。
雪輝がひなの事を可愛いと評したことと世辞や虚言と無縁の雪輝の性格を考慮すれば、おおむね彼の美醜感覚がある程度人間と共通するものがあると推測できる。
ひなが鬼無子にかような質問をしたのは、雪輝に外見を褒められた事が切っ掛けの一因を担っていたのかもしれない。
ただひなが自分との比較対象とした鬼無子の場合、乳房や尻が目を見張るほど豊かに発達していながら、同時に手足はほっそりとしなやかに伸び、胸と尻をつなぐ腰も、本当に内臓がいくつも入っているのか疑わしいほど細く引き締まっている。
それぞれの時代や国境、人種による美醜感覚の違いなどものともしない、正に傾国の美姫に相応しい艶めかしさと美しさを兼ね備えた肢体の主である。
胸の大きさ一つとっても素晴らしいものを備える鬼無子であるが、それ以外の身体を構成する個々の部分を見ても同性の女人達が、深く強い嫉妬と等量の憧憬を覚える見事さだ。
傍に居る大人の身体つきをした女性が鬼無子だけという環境もあってか、ひなの中での美人や胸の大きさの基準というものは、世間一般に比べて数段高くなっていた。
その自身の美貌にまるで自覚の無い鬼無子はと言うと、自分の予想とはまるで別方向だったひなの質問に対して、ようやく思考の回転を取り戻して、形の良いおへそから下を湯に沈めながら腕を組んで黙りこんだ。
その組んだ腕の間から、突き立てのお餅の様な弾力と柔らかさを併せ持った白い乳房が零れ出る。
ひなが髪を洗ってもらっている間も、時折ひなの後頭部に触れていた柔らかさと張りを兼ね備え、芸術品といってもよい乳房にひなの視線は釘づけにされていた。
どう見比べた所でようやく膨らみかけといった程度のひなの胸と、円やかな曲線を描いている鬼無子の胸とでは、本当に同じ生物なのかというくらいに圧倒的な差がある。
椛の葉を思わせるひなの小さな手だと、片手では持ち上げる事も出来ず両手を揃えて持ち上げても、まだ掌から零れる位に大きいのにわずかも垂れておらず形が崩れてもいない鬼無子の乳房を、ひなは羨ましそうに見るばかり。
鬼無子はさてなんと答えればよいのか分からず、ううむ、と小さく唸っている。
「まあ、なんだ。雪輝殿はひなの髪の毛の一本から指先一つ一つに至るまで余すことなくまるっと全てを大切に思い、尚且つ好いておられる。胸の大小など雪輝殿からすれば些事に過ぎぬ事であろうから、ひなは気にしなくてもよいとそれがしは思う。
そもそも雪輝殿は狼であるし、あまり人間である我らの外見の事は気にされぬと思うよ。無論、ひなはとても可愛らしいし、その外見と心のどちらも雪輝殿同様にそれがしにとっても好ましい。今のひなの心と体になんら恥じる所などありはせぬさ。むしろ誇ってよいくらいであろう」
「そこまで言って頂けるとなんだかとても恥ずかしいです」
どうやら的を外した事を言わずに済んだ様だ、と鬼無子は表には出さずに内心で安堵の息を吐いた。
鬼無子が普段から思っている事に過ぎなかったが、褒め言葉の連続を受けてひなは温まってうっすらと桜色を帯びていた頬に、更に赤みを指して恥じらいの笑みを浮かべる。
そういった所作の一つ一つを取ってもまず可愛らしいし、もしひなが市井で普通に暮らし成長していたなら、将来この娘を妻にと求める男どもが後を絶たなかった事だろうと鬼無子は心から思う。
その鬼無子自身も刀を置いて着飾れば同様であるが。
さて二人が仲の良い様子でそんな会話をしている頃、主の帰りを待つ忠犬よろしく小屋の外で腰を降ろしていた雪輝はというと、まだかな、と一つ呟いて夜空の女王として君臨する月を見上げていた。
格段に冷たさを増す秋の夜風は、まだ朱に染まってはいなかった。
<続>
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ところですこしでも皆様の目を引くようにとタイトルを変えてみましたが、正直いかがでしょうか。あまりしっくりこないような気もしているのですが、ご意見賜りたく、感想や誤字脱字のご指摘などと合わせてご意見お寄せいただけると幸いです。
追記:変更したタイトルですが元に戻しました。