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No.19828の一覧
[0] 少女の愛した狼 第三部完結 (和風ファンタジー)[スペ](2022/01/30 08:17)
[1] 命名編 その一 山に住む狼[スペ](2010/11/01 12:11)
[2] その二 出会う[スペ](2010/11/08 12:17)
[3] その三 暮らす[スペ](2010/10/23 20:58)
[4] その四 おやすみ[スペ](2010/06/28 21:27)
[5] その五 雨のある日[スペ](2010/06/29 21:20)
[6] その六 そうだ山に行こう[スペ](2010/06/30 21:43)
[7] その七 天外という老人[スペ](2010/07/01 20:25)
[8] その八 帰る[スペ](2010/07/03 21:38)
[9] その九 拾う[スペ](2010/07/12 21:50)
[10] その十 鬼無子という女[スペ](2010/11/02 12:13)
[11] その十一 三人の暮らし[スペ](2010/07/07 22:35)
[12] その十二 魔猿襲来[スペ](2010/07/08 21:38)
[13] その十三 名前[スペ](2010/09/11 21:04)
[14] 怨嗟反魂編 その一 黄泉帰り[スペ](2010/11/01 12:11)
[15] その二 戸惑い[スペ](2011/03/07 12:38)
[16] その三 口は災いのもと[スペ](2010/11/08 22:29)
[17] その四 武影妖異[スペ](2010/12/22 08:49)
[18] その五 友[スペ](2010/10/23 20:59)
[19] その六 凛とお婆[スペ](2010/10/23 20:59)
[20] その七 すれ違う[スペ](2010/10/23 20:59)
[21] その八 蜘蛛[スペ](2010/10/23 20:59)
[22] その九 嘆息[スペ](2010/10/23 20:59)
[23] その十 待つ[スペ](2011/03/25 12:38)
[24] その十一 白の悪意再び[スペ](2010/12/01 21:21)
[25] その十二 ある一つの結末[スペ](2010/11/08 12:29)
[26] 屍山血河編 その一 風は朱に染まっているか[スペ](2010/11/04 12:15)
[27] その二 触[スペ](2010/11/09 08:50)
[28] その三 疑惑[スペ](2010/11/13 14:33)
[29] その四 この子何処の子誰の子うちの子[スペ](2010/11/20 00:32)
[30] その五 虚失[スペ](2010/11/22 22:07)
[31] その六 恋心の在り処[スペ](2010/11/29 22:15)
[32] その七 前夜[スペ](2010/12/13 08:54)
[33] その八 外[スペ](2010/12/22 08:50)
[34] その九 幽鬼[スペ](2010/12/27 12:12)
[35] その十 招かざる出会い[スペ](2011/01/03 20:29)
[36] その十一 二人の想い[スペ](2011/01/07 23:39)
[37] その十二 味と唇[スペ](2011/01/16 21:24)
[38] その十三 雪辱[スペ](2011/02/16 12:54)
[39] その十四 魔性剣士[スペ](2011/02/01 22:12)
[40] その十五 血風薫来[スペ](2011/05/25 12:59)
[41] その十六 死戦開幕[スペ](2011/02/24 12:21)
[42] その十七 邂逅[スペ](2011/03/20 20:29)
[43] その十八 妖戦[スペ](2011/03/23 12:38)
[44] その十九 魔弓[スペ](2011/03/31 09:00)
[45] その二十 死生前途[スペ](2011/05/17 08:55)
[46] その二十一 仙人奇怪話[スペ](2011/05/22 21:31)
[47] その二十二 魔狼と魔剣士[スペ](2011/06/05 20:58)
[48] その二十三 真実[スペ](2011/06/20 12:56)
[49] その二十四 別離[スペ](2011/09/02 23:49)
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[19828] その十二 ある一つの結末
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80 前を表示する / 次を表示する
Date: 2010/11/08 12:29
その十二 ある一つの結末


 森羅万象を腐敗させて根幹から瓦解させる忌まわしき瘴気によって、草花の緑も大地の茶も毒々しい黒と紫とに塗れ、風に浸食した腐臭は風そのものを汚し尽くしながら触れるものすべてを糜爛させている。
 自然にはありえざる、物理的にも霊的にも極めて致死性の高い瘴気は、その召喚者の意識が術式から離れてもなお、残留している分だけで加速度的に世界を腐らせていた。
 小川の流れを凍結させた雪輝の体温調節の能力によって氷塊の中に閉じ込められた瘴気塊が、さながら紫水晶を思わせる美しさで周囲に散らばる中、威容を誇る巨躯の狼と左腕を噛み切られた女陰陽師の背に浮かぶ魔猿とが、互いを睨みあい動きを止めていた。
 凝り固まった憎しみを憤怒の鑿で彫刻し、余分な感情を交えない純粋な殺意で磨きあげれば、白銀の狼の前に立つ魔猿の醜く歪んだ容貌と等しい醜悪さとおぞましさを醸す事が出来るだろうか。
 長く伸びた眉や髭、体毛まで余すことなく初雪を思わせる白に染まっていたが、怨嗟の言葉を吐いた口元は黄色く薄汚れた牙の並ぶ歯茎をむき出しにし、深く長く刻まれた皺に覆われている顔は、青白い霊子で構成されてなお負の感情に赤々と染まっている。
 それは、確かに雪輝がその牙で持って腕と首を噛み切り、同胞数十匹を滅殺した猿の妖魔の一派の長である白猿王の容貌に相違ない。
 白猿王の感情に呼応してか、白百合の精が気まぐれに人に化けたのかと思う美貌の女陰陽師の顔にも、白猿王と同等同質の深い憎悪の色が浮かび上がり、鬼女もかくやといわんばかりの凶相に変わっている。
 いまにも全身から憎悪の感情が炎となって激しく噴き出しそうな白猿王と女陰陽師を前に、雪輝は戦闘中でありながら一時困惑に思考を支配されていた。
 ひなを人質に囚われ、鬼無子が殺されたと聞かされてこの世のものと思えぬ喪失感と絶望と後悔に塗れた夜、確かに雪輝は瀕死の体に追い込まれながらも一瞬の隙を縫って白猿王の首を確かな牙応えと共に噛み切ったはずであった。

――怨念に実体を与える妖術を、自分自身に施したのか。いや、ならばなぜ陰陽師に取り憑いている。自身に術を施したわけではない、か?

 過日の夜、冷たく美しい月の下、白猿王は自分自身に仮初の肉体を与える術を施すこと出来ないと明言している。
その言葉が嘘偽りのないものと保証できる者は白猿王当人以外は誰も居はしないが、肉体を得てではなく怨霊となった女陰陽師に憑依している様子から、白猿王の妖術による現象ではないのだろう。
 疑問と推測の応酬が一瞬にも満たぬ時間、雪輝の脳裏で繰り広げられ、もう一度止めを刺すまで、と雪輝が判断を下す寸前に、女陰陽師が残った右腕を大きく振い、雪輝との間の地面から紅蓮に燃え盛る炎を噴出させる。
 腕の一振いと囁き程度の呪文だけで発生させた簡易呪術であろうから、派手さはあっても雪輝の妖気の防御膜の防御能力を考えれば、大仰に躱すほどの威力ではなかったろう。
 しかし精神に虚の一点を穿たれていた雪輝は、咄嗟にその場を跳躍して必要以上の回避行動を見せて、時を無為に浪費してしまう。
 その間にも女陰陽師=白猿王は足の裏に張り付けた跳躍力を高める呪符によって、大地を蹴った反発力を驚異的に高め、雪輝との距離を数間ほど開く。
 跳躍の最中、それまであくまで人間らしく振る舞っていた女陰陽師の動作が、途端に猿じみたものへと変わり、憎悪の仮面の下から嘲笑を浮かべた女陰陽師がひどく耳障りな笑い声を立てて、牙を軋らせている雪輝を睨む。
 一度は殺した者と殺された者とが、四季の移ろいの狭間に在る世界で今一度対峙する。
 虚を衝かれて好機を逸した己への憎悪に胸の中を焦がしながら、雪輝は全身から奔出する妖気の質を一段と凶悪なものに変えた。
 ざあ、と音を立てて雪輝の踏みしめる地面が塵と変わる。
 敵意と破壊衝動に任せて放出される雪輝の妖気が、地面の分子の結合を破壊したのだ。
 いまの雪輝は、ただ触れるだけで相手の身体を分子の状態にまで分解する破壊という現象そのものと言って良い。

「ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ、銀色よぉお、わしに留めを刺し損ねた己を呪っておるようだのぅ! この陰陽師の霊魂が千の針に貫かれたような苦しみに見舞われておるわ」

「生き汚いばかりか死に際もまた無用に足掻いて逸するか。忌まわしき老いた猿よ、死に時を誤れば、より凄惨なる滅びを迎えるものと知れい」

 開かれた雪輝の牙からは無色の怒気が零れだし、瘴気に穢された大気を圧する。
 妖魔の妖気をも侵食するはずの瘴気を一時とはいえ弾く雪輝の妖気は、天地が逆さになろうとも許してはならぬ天敵を前にした怒り、殺意、憎悪と言葉では万言を尽くしても語り尽くせぬ感情が満と籠められ、その凶悪性を際限なく高めていた。

「かっかっかっかっか、わしがこうして貴様の言う所の“死に際を誤って”貴様の目の前に立つは、正しく貴様の不手際よ。わしの首を噛み切っただけで気を失った貴様のなぁああ」

 霊魂のみとなった白猿王は、長い舌を唇から零して自分の顔をべろりと舐めあげる。
 怨霊化して強化された女陰陽師の陰陽術と、白猿王自身の妖気の相乗効果でその戦闘能力が飛躍的に増しているのは間違いない。
 女陰陽師だけでも先ほどまで雪輝を瘴気で追いこんでいた事を考えれば、白猿王の憎悪に焦がされながらも余裕を湛えた態度も、無理からん事ではある。

「貴様の首を落とした時、滅ぼせたのは貴様の肉体までだったというわけか」

 わずかな失望とそれに数百倍する己への嫌悪が込められた雪輝の呟きは、不思議と淡々としたものだった。感情の高ぶりが限度を超した時、返って表面には現れにくいものなのかもしれない。

「左様。あの妖魔混じりの女に腕を落とされ、貴様に首を落とされても、わしの魂までは完全に滅することはなかったのよ。貴様が万全であれば跡形もなく消え去っていただろうが、あの時の貴様は死の淵に半身を落としたも同然であったからな。わしの存在を滅ぼすまでにはひとつ足りなんだわ」

「怨霊達が蘇ったのは貴様の仕業か?」

 注意深く、それこそ筋肉の反射程度の動きでも見逃さぬようにと雪輝は瞬きを忘れて白猿王の動きを注視する。
 雪輝は腹の奥底で煮えくりかえる殺意を、心の臓の脈動と共に全身に行き渡らせ、必殺の時を伺う。

「貴様やあの女剣士がわしに止めを刺し損ねたのが僥倖の一つ。二つ目は、この陰陽師をはじめとした連中の募らせた怨念が、堰を破る寸前にまで高められていた事よ。わしの術でこやつらの顕在化を推し進め、思考を操るのはそう難しい事ではなかったぞ、銀色の。放っておいてもそのうち黄泉の坂を遡ってきおったろうがなあ」

 死せる魔猿達の怨念を増幅させて顕在化させる術を操る白猿王にとって、異種である人間の霊魂であっても、甘言を持って耳と目を塞いで惑わし煽動し、操る事はそう難しい事ではなかったということだろう。
 霊魂のみとなっても妖力が衰えるばかりか、むしろ肉体という殻を失い、妖魔にとって存在の中心核となる霊魂が剥き出しにされた事によって、妖力は増しているように雪輝には感じられた。

「槍と鎧を纏った怨霊は囮だな? 大昔に山に、そして大狼に命奪われた人間達が恨みを募らせて黄泉帰っただけだと私達に思い込ませるための。まんまとその通りに私達は思い込んだわけか」

「そぉいうことだなあぁあ? ふほほほ、ならば、ほれ、どうしてこうしてわしと立ち話などしている暇がある? わしは貴様にとって心臓にも等しい者を知っておる。同じ手であっても打ち方を変えれば二度目でも通じるわな」

 雪輝と鬼無子が怨霊達との戦いに際して前提とした、ひなという雪輝にとって生命線そのものと言って良い少女の存在が知られていない、ということが白猿王の存在によって覆されてしまった。
 白猿王自らが雪輝の足止めを行い、その間に残る二人の怨霊達が樵小屋で待っている鬼無子達を強襲し、ひなの身柄を確保するつもりなのだろう。
 女陰陽師を支配した白猿王単体で雪輝を倒す勝機が十二分にあったとしても、勝利を確実にするためにこの老獪な魔猿はひなを人質に使う手段を採択したに違いない。
 ひなを人質にするという手段は、まさしく以前の戦いで雪輝を窮地に追い込んだ手段であったから、雪輝もその様な事態を危惧して今回は攻勢に回って怨霊を狩りたてる選択肢を選んだ。
 だが白猿王は雪輝の性分から今回の様な手段を取ることも予想して、自分を囮にして雪輝を誘いこんだわけだ。
 もっとも自身の身の安全を考えれば、囮にするのには別の怨霊を使えばよかったし、ほかの怨霊達が完全に白猿王の支配下に在るというのなら、三対一の状況に持ち込んで雪輝と戦う方が効率的であったろう。
 そこをあえて自身を囮にしたのは、やはり一度肉体的に殺されたことで精神の箍がずれたことにより、白猿王が自身の手で雪輝を直接殺害したいという欲求に逆らえなかったのだろう。
 より妖魔としての破壊・殺傷本能に心を突き動かされ、雪輝に返り討ちにされる危険性を犯してまで直接対峙し、雪輝の最大の弱点であるひなの身に危険が及ぶ事を告げて、雪輝の動揺する様をこの目で見たいと目論んだのだ。

「言われるまでもない」

 耳にした端から鼓膜が凍りつかせてゆくような冷たい雪輝の言葉は、白猿王のすぐ傍らで囁かれた。
 離れていた両者の距離を埋める過程を、ごっそりと切り取ったかのような速さで白猿王と憑かれた女陰陽師の首を狙い、雪輝は真珠色の牙が並ぶ口を開いて最短距離を最速の動きで最大の力を込めて踊りかかっていた。

「ひょははははは! 相変わらずあの小娘の事になると頭に血が上る様だのう。だからこそ、あの小娘が狙われる羽目になるのだ、馬鹿が!!」

 残る女陰陽師の右腕が虚空を舞台にして華麗に舞い踊り、白い光の軌跡を残しながら無数の精緻な文字を描きだす。
 それを青い瞳に映しながら、雪輝は自分の方が速いとあくまで冷静に思考し、女陰陽師の右腕とは別の方角から襲い来た白猿王の巨拳に気づき、咄嗟に身体をねじって無理矢理旋回させて、人間大の岩程度なら豆腐も同然に砕く白猿王の拳を躱す。
 白猿王の拳が抉り抜いた風が雪輝の右頬を叩き、鬼無子が短く切った白銀の毛を数本根元から引き千切る。
 めぐるましく変化する視界の中、更に振り上げられる白猿王の右腕と、攻撃型の陰陽術の指印を組み終えた女陰陽師の右腕を見逃さず視認。
 真上から雪輝の頭を打ち砕きにかかる白猿王の右腕を左に首を捩じってかわしながら、左前肢を振るってその右腕を肘から斬り飛ばしにかかる。
 瞬き一つ許されぬ極短時間の攻防の最中、雪輝の左前肢の爪がわずかに白猿王の右腕の肉に食い込んだ時、雪輝の左脇腹を女陰陽師の右腕から放たれた不可視の衝撃が破城鎚の威力で激突する。
 雪輝の肉体表面を高速で流動する分厚い妖気の防御膜と、鋼鉄と同等かそれ以上の硬度を誇る毛皮が織りなす防御を貫通した衝撃が、雪輝の肋骨を軋ませて臓腑を盛大に揺らす。
 左脇腹を叩く破城鎚の威力に抗う事はせずに、雪輝はその衝撃に押されるまま白猿王の懐まで飛び込んだ位置から、大きく弾き飛ばされる。
 白猿王に関しては怨霊達を支配し操る妖術の行使のみだろうという判断は外れ、白猿王自身も短時間ではあるがどうやら霊魂を物質化することが出来る様だ。
 女陰陽師の術の行使までの間に存在するわずかな時間感覚を狙うのが、雪輝が堅実に勝機を伺う手段だったが、白猿王が近接防御を担う以上はますます雪輝の勝機が小さいものになってしまったようだ。
 雪輝が一蹴した土蛇の様な式神を用いて術の行使の隙を補う高位の女陰陽師が相手という事もあり、懐に飛び込むのには罠が待ち構えてはいないかと、繊細な注意を払わなければならなかったが、ますます神経を鋭敏化させて警戒しなければなるまい。
 ある程度想定した事態の中では、最悪を通り越した現状と言えるかもしれない。
 だが怨霊達の出現の理由が白猿王にあると分かった以上は、この場から離脱してひな達の所へ戻るよりも、白猿王を憑依している女陰陽師ごと今度こそ完全に跡形もなく霊魂を消滅させれば、ひなと鬼無子のもとに向かった怨霊も無力化できるだろう。
 殺す、否、滅ぼす。今度こそ完全に、痕跡を何一つ残さず完璧にこの世から抹消してくれる。
 ひなたちの元へ向かったという怨霊達が彼女らに危害を加えるよりも早く、可及的速やかに。
 新たに五指を躍らせて呪印を切り、呪言を囁く女陰陽師と白猿王を前に、予想外の強敵の出現に対する戸惑いは消えて、代わりと言わんばかりに獰猛なまでの殺意を迸らせる雪輝が一歩を踏み出した。



 不貞腐れてというわけではないけれども、あらかた出来る事をし尽くしたひなは、持て余した時間をどう過ごすかを考えて、囲炉裏の前に正座した姿勢で頭を捻っていた。
 村長の所で養われていた頃は休む暇がまるでないほどありとあらゆる雑務を押し付けられていたし、雪輝のもとに身を寄せてからは時間に余裕ができれば雪輝と触れあうなり、外に出て山中を散策すればいくらでも時間を潰す事が出来た。
 鬼無子に毎夜見て貰っている勉強の続きでもしようかと、居間の傍らに大切に保管している文具一式を取りにとことことひなが歩き出した所で、ひなの向かいに座って瞑目していた鬼無子が立ちあがる。

「少し外の空気を吸ってまいる」

「はい、お気をつけて」

 柔和に微笑む鬼無子の姿に、なにかひなは違和感の様なものを覚えた様だったが、それを口にはせずに同じように微笑み返して、樵小屋を出る鬼無子を見送った。

――やれやれ、ひなの勘も随分と鋭くなっているようだ。

 自分としては上手く演技ができたと鬼無子は思っていたのだが、どうにもひなにはある程度見抜かれていた節がある。
 雪輝にしても鬼無子にしても嘘をつくのが大の苦手の上に下手糞という素直な性分の二人であるから、そもそも人を騙す事には徹頭徹尾向いていないので仕方のない一面もある。
 鹿皮の戸をくぐり、鬼無子は周囲に敷設しておいた探知型の結界の反応した方向に視線を巡らした。
 ぴくりぴくり、と首筋の辺りで青い組紐で括った長髪が二本ほど引かれる感触がすると同時に、風に揺れた風鈴の透き通った音色が鬼無子の脳裏に響き渡っていた。
反応は二つ。どうやら怨霊たち三人の内、最低でも二人が同時に手を組んでこちらに向かっているらしい、と判断し、鬼無子は雪輝の選択が裏目に出た事を悟った。

「手を組む知性があったという事か。真っ直ぐこちらに向かっている事を考えると、ひなを連れてこの場を引いた方がよさそうだな」

 刃を交える事もなく背を向けるような行為には少なからず武人としての矜持が拒否を示すが、自身の命や誇りを置いても守ると決めた少女の安否の方こそが優先されると鬼無子は自身を納得させる。
 あの槍使いの怨霊の様な武芸者であったなら、ぜひとも刃をかわしてみたいという本能的な欲求を抑えるのはそれなりに難事であった。
 白猿王の妖術によって支配下に置かれた残る二体の怨霊は、まだ少年と思しい細面の弓使いと、髭も髪も伸び放題で裾の擦り切れた羽織姿の二本差しの武士の組み合わせだ。
 自分達が猿の妖魔に支配されているという自覚もないまま、耳元で聞こえる白猿王の幻聴に促されて、ひなと鬼無子が雪輝の帰還を待つ樵小屋への山道を疾駆していた。
 途中、襲い来る妖魔どもを血祭りに上げる道行きであったために余計な時間を取られはしたが、一度樵小屋を訪れている白猿王の声なき声による案内があったために、彼らが道に迷うような事はなかった。
 幾重にも折り重なることで青空を遮る枝葉を揺らし、襲い掛かってきた猛禽類に酷似した三つ目の鳥の妖魔を、目もくれずに抜刀した武士が真っ二つに切り裂き、二つに分かれた鳥妖の身体から臓物と血液が零れ落ちて大地に醜い赤い花を咲かせる。
 猛獣の頭蓋を一撃で割る鋼鉄の嘴や爪も、振るうよりも早く斬殺されてはその威力の発揮しようもない。
 まさしく電光のごとき高速の抜き打ちである。
 刀身に付着した鳥妖の血を払う動作がないのは、血の粘着力に対して剣速が上回ったからに他ならない。
 振るう刃の速度は音の速さにも勝るものであったろう。
 怨霊達の怨讐の念と纏う死の気配に触発された山の妖魔達が、半ば気を狂わせて襲い掛かってきたのはこれで十度を数えた。
 生前の精神までは取り戻していない怨霊達は度重なる襲撃を受けても愚痴を零すような事も、体力的な疲労に襲われる事もなく、苛立つ様子は見られない。
 予想だにしなかった白猿王の出現と、最善の策という自身の判断の誤りに気付いた雪輝が焦燥に焦がされているのとは正反対の様子だ。
 足を止めることなく無造作に聳える木々の合間を駆け抜けていた怨霊達が、まず弓使いから武士と順に足を止める。
 成人男性の胸まで届く背の高い茂みの中に腰を落として潜み、弓使いの瞳の無い目が前方に広がる広場の中に立つ樵小屋の姿をとらえていた。
 怨霊達が足を止めた場所から樵小屋まではざっと四半里(約一キロメートル)。襲撃を駆けるのに様子を伺うにしても、遠いという他ない距離である。
 肉体の耐久性という枷を失った怨霊達の身体能力が生前に比べて上昇しているのは確かで、その中に視力の向上も含まれているのもまた事実だ。
 だが、それにしても距離を置き過ぎている、この場に白猿王が居ても訝しく思ったことだろう。
 弓使いの怨霊は足を止めたのみに関わらず次の動きを見せた。肩に掛けていた長弓を構え、背の矢筒から一本の青白い矢を引き抜くやおもむろに弓弦に掛ける。
 弓使いの目が糸の様に細まって、結界の反応に気付いて小屋の外に出た鬼無子の姿をとらえる。
 武芸者の中には猛禽類にも匹敵する異常な視力を誇る者も少なくはないが、それにしても視界を遮るものが数え切れぬほど存在するこの状況下で正確に対象をとらえているのは大したものと言えた。
 ただこれは鬼無子にも言えることで、妖魔の血を引く剣士の視力ならば逆にこの怨霊達の姿を見つけてもおかしくはないし、また雪輝ほどではないにしろ嗅覚も鋭敏に出来ているから、怨霊達の身体に付着している返り討ちにした妖魔達の血の匂いをかぎ取り、大まかな方向と位置を把握することも不可能ではないだろう。
 本来の肉体を失い、霊的な存在への感知能力が高められた怨霊側も樵小屋の前に一部の隙もなく佇む柳腰の美女の血に潜むモノを感じ取り、迂闊に近づく事を恐れていた。
 鬼無子が敷設した結界は敵性存在の接近を探知はするものの、正確な位置を把握するほど精密なものではなく、鬼無子は周囲への警戒の針を全方向に向けてはいたが、いまだに迫る怨霊達の位置を知らずにいた。
 魔を屠る職にあった頃、基本的に最前線で刃を振るう役割に徹していた鬼無子は、陰陽術や占星術をあくまでも補助程度に習得していたに過ぎず、高度な結界の敷設や攻撃性の術を行使することはできない。
 それでも雪輝と過ごすうちに雪輝の妖気に刺激されたのか、体内の妖魔の血が活性化している影響もあって、五感と第六感の働きは自分でも怖くなるほど鋭敏なものになっている。
 百人に矢で射かけられても一本も当たる事もなく躱す事もすべてを切り落とす事も、造作もなく出来そうだ。
 しばらく周囲の気配の変化に過剰なほどの警戒心を抱いて観察を続けていた鬼無子であったが、怨霊達が、逃走が困難になるほど接近してくるよりも早く、ひなを連れてここから離れるべきだ、と判断して体の向きを樵小屋に戻したことで知らぬうちに怨霊達に背を向けた。
 無論、それを見逃す怨霊ではなかった。引き絞られる弓弦の立てる音にも繊細な注意を払っていた弓使いの細めていた目が、鬼無子が背を向けるのを認識した瞬間大きく開かれて、口元は手にする獲物と同じ形に変わる。
 しかし、四半里ほども距離が離れ、両者の間には無数の遮蔽物が存在するこの状況で当てる自信があるという事なのか。
 少なくとも弓矢もまた怨霊達同様に霊子によって構成されており、その殺傷能力は鬼無子の人間としての肉体にも、宿っている妖魔の血肉にも効果的な痛撃を浴びせる事が出来る。
 弓使いの狙いは一点。背後を向いた鬼無子の心臓であった。
 もし弓使いの放つ矢が狙い通りに鬼無子の心臓を貫けば、妖魔の血によって尋常ならざる耐久力と再生能力を持つ鬼無子といえども、即死であろう。
 弓使いの傍らに膝を突いていた武士が、静かに腰の刀に手を伸ばして鯉口を切る。
 万に一つ、矢を回避した鬼無子からの反撃と山の妖魔達の不意の襲撃に備え弓使いを守るためであろう。
 武士の気遣いを要らぬものと嘲笑うように、弓使いの笑みは深まり、その次の瞬間にきりきりと悲鳴のような音を立てながら引き絞られた弓弦が解放の時を迎え、拘束から解き放たれた矢に貫かれた風は甲高く短い悲鳴を上げた。



 雪輝と女陰陽師、白猿王とが交戦する一帯は、わずかな時間に大きくその光景を変えていた。
 女陰陽師が天を指す腕を振り下ろせば、どこまでも高く晴れ渡った青空から漆黒の雷が、龍の長駆のごとく降り注いで天地を揺らし、雷の雨の間を縫った雪輝が放つ妖気の弾丸は、瘴気を凍らせた冷気を孕んで飛翔しながら大気を氷結させる。
 もとはひなや鬼無子が過ごしやすくなるようにと考え付いた雪輝の異能であったが、本人の意図せぬ所でこれは強力な攻撃手段であったことを、敵対者である白猿王が雪輝よりも深く理解していた。
 本来物理的現象では侵食と腐敗を阻む術の無い瘴気を凍らせたことからして、雪輝の冷却能力が単純な物理的現象ではなく、概念的にも凍結現象を引き起こす機能も併せ持っていると推察される。
 氷の破片を撒き散らしながら飛翔する極低温の妖気の塊を、女陰陽師が水干の襟から取り出した呪符を撒き散らすや、それぞれの呪符から伸びた蜘蛛の巣の様な光の糸が雪輝の妖弾を全てからめ捕り塵に変える。
 既に凍結された氷と妖気であったから防御する事も出来たが、これが凍結現象そのものを放たれていたら、こうも簡単には行かなかっただろう。
 雪輝自身が凍結能力を戦闘に用いるのが初めてのこととあって、今一つ制御がうまくいっていない様子から、思う様に扱えておらず、攻撃方法は以前どおり爪と牙を主軸に置いているようだ。
 あくまで牽制のつもりで放った妖気が消失するのに目もくれず、女陰陽師の背後を取る雪輝を迎え撃つのは、白猿王である。
 術の行使後の硬直に見舞われている女陰陽師が生む隙を完璧に把握し、そこを狙う雪輝に対しても俊敏に迎撃行動を取っている。
 白猿王の上半身から上だけが、まるで女陰陽師の背中に寄生しているかのような奇妙な状態で物体化し、雪輝へ巨拳を振り下ろす。
 放つ速度も引き戻す速度も恐ろしく早く、心肺機能が悲鳴を上げる事もない白猿王の拳は、休むことを忘れて雪輝をめがけて振るわれる。
 軽妙な四肢の連動が生む体捌きでそれらを躱す雪輝ではあったが、回避行動に神経を集中させられて、効率的な反撃行動に移れず、明らかに歯咬みしている様子がうかがえる。
 同時に振り下ろされた白猿王の巨拳の合間を縫い、雪輝が女陰陽師の背中と白猿王の顔面に肉薄する。
 ようやく見出した攻勢への転機であった。
 慎重であることよりも大胆に挑む事を選んだ雪輝は、思考する暇も惜しいとばかりに踏み込む。
 白猿王ごと女陰陽師の首を噛み切らんと大顎を開く雪輝を、術後の硬直から解き放たれた女陰陽師が行使した術が捉えた。
 風に働きかけ、先端の尖った螺旋運動を高速かつ連続で行わせて対象を穿つ風属の術だ。
 風を媒介とする為に、無色かつ実体が存在せず、肉眼では捉える事が出来ず、単独の相手に使用するのには有効な攻撃手段といえる。
 この一撃を受けるか否か、雪輝が下した判断は回避行動と同時に攻撃行動を置こうものであった。
 雪輝の左前肢の付け根を真横から貫く位置に生じた風の螺旋槍を、雪輝はその場で縦方向に回転する跳躍で回避する。
 仰け反る様にして頭を後方に思い切り引き上げて回転し、一瞬前まで雪輝の肉体が存在していた空間を風の螺旋槍が虚しく貫き、せめてもの成果に雪輝の体毛を数本微塵に切裂く。
 後方に向けての回転跳躍の最中、雪輝の両前肢から伸びた十の爪が、妖気による切断力の強化を受けて白猿王の胸部を切り裂いた。
 白猿王の分厚い左右の胸板から肩にかけてまで真っ直ぐに十本の直線が深く刻まれて、白猿王に凄まじい激痛を齎す。
 濃密な雪輝の殺意が込められた爪の十撃は、相手が霊魂であろうとも構うことなく傷跡に残留して更に傷跡を広げる。
 やや後方に着地した雪輝が、さらに追撃をと狙った時、こちらを振り向いた女陰陽師の右手が動いていた。
 それを見つめた途端、ぐん、と見えない巨人の真上から押さえつけられたように雪輝の身体に途方もない重量が圧し掛かり、全身の筋肉や骨格、内臓に至るまで満遍なく押し潰さんと大地に押し付けてくる。
 体の外側だけでなく内側も重い。
 雪輝が周囲に視線を巡らせば、白銀の狼のみならずその周囲の地面もすり鉢状に陥没している。
 崩折れそうになる四肢を必死に支え、雪輝は思い切り噛み合わせた牙の間から苦しげな声を零す。

「重さまで操れるとはっ」

 この時点で雪輝には重力や引力といった知識はなかったが、初めて体験するこの自重が増す現象が、単純に炎や稲妻、風を操る能力よりもはるかに厄介なものと体を持って思い知らされる。

「くぁああああ、潰れるがいい、銀色ぉおおお!!!」

 痛みを訴えるよりも雪輝への敵意に変えて白猿王は吼え、掌を下に向けて五指を広げられていた女陰陽師の右手が、勢いよく振り下ろされると同時に、雪輝の全身の外から内から襲う重圧が加速度的に増す。
 破砕音を轟かせて雪輝を中心とした陥没が周囲に広がり、必死に堪える雪輝の四肢が震えに襲われていよいよ崩折れそうになる。
 このままほとんど厚みがないくらい薄く雪輝が押し潰されるのも時間の問題であろう。
 あの小娘を人質に使うまでもなかったかと、白猿王が眼前で押し潰されそうになっている雪輝の醜態を前に笑む。

「ぬうっ!?」

 その足元に起きた異変に白猿王が気づいたのは、自身の感覚というよりも天地の理に敏感であらなければならない陰陽師である怨霊が異変に気付いたからこそであった。
 白猿王の憑依する女陰陽師を中心に半径一間ほどの地面が見る間に赤く灼熱し始め、一つ息を吸い込む間を置いて白猿王と女陰陽師を大地から噴き上げた紅蓮の炎が襲う。
 猿の妖魔らしい俊敏さで女陰陽師の身体が宙を舞い、炎は巨大な柱となって天高く伸び、無数の火の粉を満天の星空のごとく散らす。

「貴様、炎も操るか!!」

 以前、雪輝に殺された時には備えていなかったはずの、二つめの異能を前にして、白猿王は驚愕を隠す事が出来なかった。
 白猿王達を奇襲した炎は確かに雪輝の意思が発生させたものである。
 物体や大気を冷やす事が出来るのなら、逆に加熱する事も出来るのではないかという雪輝の咄嗟の思い付きが功を奏した形であろう。
 厳密にいえば炎を発生させたのではなく地面を通して白猿王らの足元まで雪輝自身の妖気を浸透させ、足元でそれを一気に過熱させたのである。
 雪輝をしても果たして可能かどうか分からなかった行為であるが、その威力のほどは赤熱した地面が液体状になるほどの高熱を帯び、さながら極めて局所的な噴火でも起きた様に変わっていることから推察できる。
 火の粉のみならず融点を越えて加熱させられてから噴き上げられた地面までが降り注ぎ、白猿王は女陰陽師を右に左とせわしなく動かさなければならなかった。
 思わぬ反撃によって女陰陽師の集中が切れて、雪輝を拘束していた重圧殺の術が解けた事もそうだが、白猿王が形成の逆転とまで行かぬが不利を感じる要因が別にあった。
 先ほど雪輝によって与えられた胸から肩にかけての攻撃によって、白猿王の霊魂が著しく消耗された事によって、怨霊達を支配している術の支配力が徐々に弱まりつつあるのだ。
 憎悪の念に指向性を持たせて増幅させたことで白猿王は怨霊達を操っているが、このままさらに衰弱すれば、術の支配も及ばなくなるだろう。
 そうなればいま白猿王が手足のごとく扱っている怨霊達は、その憎悪の矛先を白猿王にも向けるのは明白である。
 これ以上の白猿王自身の消耗は、たとえ雪輝を滅殺することが出来たとしても、その後に災いの種を残しかねない。
 白猿王が悪態を吐いた所で、すり鉢状に陥没した底から雪輝が跳躍してようやく脱出に成功し、穴の縁よりやや外側に跳躍すると、雪輝はそのまま着地した大地を爆発させるほどの勢いで大地を疾駆した。
 距離の離れた白猿王を目指して虚を織り交ぜない実のみの直線的な軌道で迫る。
 疾風も追い越す雪輝の姿を白猿王が認識したのは、雪輝の牙から逃れるにはわずかに遅れ、その遅れは取り返しのつかぬものとなる。
 白猿王が気づいた時には既に雪輝の牙が女陰陽師の頸動脈に深々と突き刺さっていた。
 雪輝の動きこそ直線そのものであったが、舞い散る溶岩や火の粉が白猿王の視界と警戒を遮る遮蔽物となり、反応が遅れたのである。
 ぞぶり、と一息に牙を噛み合わせ、雪輝は女陰陽師の首を噛み千切る。
 胴から離れて放物線を描きながら落下してゆく女陰陽師の顔は、二度目の死に対する恐怖と自分を殺した雪輝に対する憎悪に満ち満ちて、永劫に負の感情に囚われて救われぬだろうことを如実に表していた。
 かすかに雪輝の眉が寄せられる。女陰陽師に対する憐憫がそこに込められていた。
 朝霧が朝陽によって消えて行く様に急速に消失してゆく女陰陽師から、青白く発光する巨大な猿の影が離れてゆく。
 白猿王の魂だ。
 かすかな油断を突かれて女陰陽師を倒されたことと、以前に比べて強大になっている雪輝に対する驚きを顔面に浮かべながら、逃走を図るべく雑木林を目指して逃げ出す。
 雪輝はその姿に侮蔑の気持ちを抱くのと同時に、おそらくは放った怨霊達がいまだにひな達を人質に取れていないだろうことが予測できた。
 白猿王の性分を考えれば遠く離れていようとも術の支配下に在る怨霊達と相互に連絡が取れるようにしてあるのは、容易に想像がつく。
 その賢しい白猿王がこの窮地に至ってもひなの名を使わぬ以上、まだひなと鬼無子は無事に違いない。
 ならば一刻といわず少しでも早く白猿王を完全に滅ぼすと雪輝が決意を新たにするのは当然の流れであった。
 雪輝と白猿王達の戦闘によって周囲の大地はあちこちが陥没や隆起を起こし、木々は根こそぎ吹き飛び、あちらこちらに上下を逆に突き刺さっている。
 その中を青白く輝く魂だけとなった白猿王は一心不乱に逃げ続ける。
 肉体を失い、今度雪輝の牙にかかって魂が滅ぼされれば、白猿王はその存在を完璧にこの世から消滅させられることになる。
 雪輝への復讐の念と共に、完全にこの世から消え去ることへの恐怖が、白猿王の心を支配していた。
 空中を飛翔して逃走に徹する白猿王であったが、林に逃げ込むのとほとんど時を同じくして、その前に立ちふさがる人影があった。
 野放図に伸びた髭と髪、擦り切れた羽織や袴の裾に腰に差した大小の刀。
 彫りの深い顔立ちは生まれおちてから死ぬまで苦行に身を投じたかのように、険しく引き締められている。
 白猿王が支配下に置いたはずの武士の怨霊に相違ない。
 三十代後半から四十代初めごろの、武芸者として全盛期をいくぶんか過ぎた頃の顔には、怨嗟に焦がれる醜さは見受けられない。
 本来であれば下僕のごとく操れるはずの武士を前にして、しかし、白猿王がその猿面に浮かべたのは、雪輝に対するのとそう変りの無い感情である。
 武士の姿を認めてすわ新たな敵の出現に、どういうことだと訝しんでいた雪輝も、武士を前にして足を止めた白猿王の行動に、疑問符を浮かべる。
 武士は、霊魂を晒す白猿王を前にしてゆったりとした動作で腰の鞘から白刃を抜いた。銀色の三日月が天に昇るのを連想させる、静かな動作の中に目に見えぬ迫力を満と湛えた動作であった。
 刀など見たことも触ったこともない素人でも、相対するだけではっきりと分かるほどの達人だ。
 雪輝の感想としては、鬼無子とほぼ同等。
 木刀や竹刀を振るって技を磨いた類のではない。戦場に出続け、肉と骨を切り裂いて刃を磨き、こびり付いた血脂肪を新たな血で洗い流して戦い抜いた、戦場で過ごした時間の方が長い類の兵法者であろう。
 右手一本で抜き放った刀の柄尻に左手を添え、切っ先は右下段に流れ大地を指す。
 武士の殺気が自分ではなく白猿王に向けられている事に気付いた雪輝は、状況の把握に戸惑い、白猿王の後方で足を止める。
 これが自分から逃げるための白猿王の芝居であろうか、という疑問は雪輝の胸の内にはあったが、それにしては武士の放つ殺意はあまりに純粋なものであった。
 雪輝の脳裏に、ひとつの単語が閃く。

――仲間割れ、か?

 正確にいえば白猿王と怨霊達は利用する者とされる者の関係であり、断じて仲間などではなかったが、いずれにせよこの状況は雪輝にとっては好転したとも悪化したとも言い難い。
 事態の推移を静観する事に決めた雪輝の目の前で、白猿王は背後の脅威への警戒を怠らぬまま、武士へ
憎悪の視線を注ぎ続ける。
 雪輝にはわからぬことであったが、目の前の武士はまさに白猿王の危惧した事態が現実となったものであった。
 白猿王の負傷と妖力の消耗によって怨霊達を支配していた術の効果が無効になったのだ。

「おのれ、貴様らは大狼に殺されたのであろうが!? ならばわしではなく後ろの狼をまず何よりも滅ぼせ、奴は大狼の同族ぞ!!」

 余計な事を口にする、と雪輝が大狼と同族扱いされた事に瞬間的に怒りを燃え上がらせるが、白猿王の言葉を受けた武士の反応は雪輝と白猿王の予想を裏切るものであった。

「おれを……殺し……たのは……狼ではない。貴……様だ」

 武士が流暢に言葉を操った事もそうだが、なによりも冷徹な殺意を白猿王に向ける理由が白猿王を硬直させ、雪輝はなるほどと得心する。
 まさに進退極まったというしかない白猿王に選びうる選択肢はなかった。
 前門を塞ぐ武士か。後門を塞ぐ雪輝か。
 どちらに挑み、そして―――滅ぼされるか。
 ただそれだけしか。
 白猿王が虚空を駆け、鋭く尖らせた杭を思わせる牙が並ぶ口を開き、鉤爪のごとく折り曲げた五指を開いて飛びかかる。
 銀月のごとき刃を握る武士へと。
 雪輝の瞳に映ったのは武士の刀が虚空に描いた下弦の月。
 何時の間に振り抜いたのか武士の刀の切っ先が天を指し、いまだ空中にある白猿王の巨体の左腰から右肩にかけて黒い線が走るや、それは青白い霊子を血流代わりに奔出させながら二つに分かれる。
 この山に住まう妖魔の中でも俊敏性や危機回避能力では屈指であろう白猿王に、なんの反応も許さなかった武士の一刀の凄まじさに、流石の雪輝も感嘆の唸り声を零す。

「おれの仇……取らせて……もらったぞ」

 言葉の無い様の割には響きの中には相応しい感情がまるで込められていない。
 ただ事実を淡々と述べているだけだと、人の感情の機微に疎い雪輝にさえわかる。
 肉体を失って霊魂となってまで雪輝を苦しめた魔猿の長は、自らの支配下に置いたはずの怨霊の手によって、呆気なくその存在を完全に消滅させられた。
 以前の様に意識混濁した状態ではないために、雪輝には白猿王が完全に消滅した事が分かる。これで白猿王は魂が冥府に行き、罪を裁かれた後輪廻の輪に加わることもない。
 振り抜いた刀をだらりと下げる武士に、雪輝が話しかけた。
 白猿王に向けていた殺気はぴたりと止まり、まるで石像のごとき静謐な気配を纏っている。いまならその肩に小鳥が止まって疲れた羽を休めてもおかしくはなさそうだ。

「もう一人、死人が居たはずだが貴方が手を下したのか?」

 武士は細めた眼を雪輝に向けてこう答えた。

「斬った。おれは……何人も殺した……が、童と女を手に掛け……た事はない」

「ありがたい」

 鬼無子とひなの無事を、奇妙な形ではあるが知る事が出来て、雪輝の全身から緊張と不安の塊がごっそりと溶け消える。
 雪輝が生命を賭してまで戦う理由の無事が確認できたのだ。雪輝が緊張の糸をほぐしたとしてもそれは当然の反応であったろう。
 安堵の度合いを示す様に、雪輝は大きく安堵の吐息を洩らし、そして背筋を貫いた殺気の針に体が反応した。
 水に沈むようにして身を伏せた雪輝のわずか一寸上を、白銀の軌跡が過ぎ去り、攻撃を受けた事を雪輝が自覚するのと同時に、思い切り頭突きをする要領で目の前に踏み込んでいた武士の胴に頭を叩きこんだ。
 低い声を洩らしながら雪輝の頭突きを受けた武士が後方に飛び、両者の距離を開いた。
 数本の毛が舞う中、雪輝は自分に対して刃を振るった武士に警戒の色を深くする。
 既に白猿王を自身の手で打ち果たし、さらには白猿王の術自体も完全に効力を失ったはずなのに、武士がいまだにはっきりと存在していることに気付く。
 いや、白猿王は言ったではないか。自分が手を下さずともそのうち黄泉帰っただろう、と。
 ならばいま、雪輝の目の前に立っている武士は、完全に己の怨念だけで死の底から復活を果たした真の怨霊に他ならないのではないか。

「どういうつもりだ?」

 念には念を入れて問いかける雪輝に武士は答えた。

「斬りたいのだ。おれは、まだ……剣の道を、極め……ていない。もっと、多くの者を、斬らねば、剣の道の頂きには……たどり着けぬ」

 武士の言葉に、雪輝は諦めの息を吐いて首を左右に振る。同じ侍という人種でも、鬼無子とはまるで大違いだ。

「私の知る剣士はその様な事を口にした事はなかったがな。なんと厄介な男が生ける死人となったことか」

「狼の妖魔、面白い。斬らせて……もらうぞ。おれは……伏刃影流・蒼城典膳(ふせばかげりゅう・そうぎてんぜん)」

「命を求める外道であっても名を名乗る矜持はあるか。心根正しくあればこのような山で朽ちる様な事もなかったろうに。私は雪輝、御覧の通り狼の妖魔だ」

 律儀に応える辺り、この狼の妖魔のお人好しも救い難い。
 雪輝が戦う意思を固めたとさとり、典膳の口元にありがたいと言わんばかりの笑みが浮かびあがる。
 白猿王と女陰陽師との戦いでの消耗が、雪輝の全身に鉛を含んだ様な疲労を残していたが、加減してくれる相手ではなさそうだった。
 はやくひなの顔が見たい。
 雪輝は切実に願った。
 ひなと離れてから半日と経ってはいなかったが、それだけですでに雪輝の心は狂おしいまでにひなの存在を求めていた。
 典膳が動いた。地を踏む音が雪輝の耳に届いた時、既に雪輝は典膳の間合いの内に居た。
 速さと巧さ、この二つが高い水準で両立されていなければ到底不可能な動き。
 それを雪輝は狼の妖魔たれば可能であったろう信じられぬほど敏捷な動きで空を切らせるや、真横一文字を描いた典膳の右腕を根元から落とすべく左前肢を振るう。
 真珠色の雪輝の爪が陽光を燦然と弾き返して、空中に眩い光芒を放つ。
 地面に液体が散る。それは二種存在した。
 浅く切り裂かれた典膳の右肩から零れ落ちた液体状の霊子。
 そして雪輝の抉られた右肩から零れた真紅の血液。
 確かに雪輝は典膳の第一刀を躱す事には成功した。しかし反撃の一手を加えようとしたその瞬間に、いつの間にか刀から離れていた典膳の左手が抜いていた脇差しの一突きが、深く雪輝の肉を貫いていた。
 片手に握る刀の影に伏せたもう一刀で敵を斬る。
 伏刃影流とは、いやはやなんとも恐ろしく正直な名を付けたものだと、雪輝は場違いな感想を抱いていた。
 数打ちの刀では斬りつける端から刃零れを起こす雪輝の毛皮と肉体を、意図も簡単に貫いたのは、まさしく典膳の技量が成せる武技の凄絶さゆえ。
 骨まで達したかもしれぬ一撃に、雪輝はちらと傷口を一瞥したきりだ。
 まったく、死んだかと思った白猿王が出てきただけでも十分なほど驚かされたというのに、さらにこのような半狂人の剣客と一戦交えねばならぬとは。
 自身の毛皮を染める赤の領土が広がるにつれ、雪輝の身体からあっという間に活力が奪われてゆく。
 典膳の一刀の凄まじさが故か、それとも怨念のみをもって構成する存在からの一撃だったためか、雪輝の肉体は再生能力を発揮せずにいた。
 互いの一撃が共に痛打を浴びせてから一拍を置き、一人と一頭は同時に後方に跳躍し、両者の間に三間の距離が開く。

「人を待たせている。次で終わりにさせて貰おう」

「おれも……この傷では全力で刀を振るえるのは、一度きり……だろう。刃に伏せた影の刃に斬られるか。影と見せて実の刃に斬られるか。楽しませろ……妖魔よ」

「人にも色々いるというわけか」

 今まで出会った凛やひな、鬼無子といった人間達と元は同じ生き物だったとは信じられぬ典膳の性情と言葉に、雪輝はそれだけ呟くや身を沈めて全力の跳躍の構えを取る。
 典膳は右に刀を、左に脇差しを構えて、翼を広げる魔鳥のごとく構えた。
 わずか二振りの刃を夢幻自在に操り敵を葬る恐るべき剣客であった。
 両者の間に満ちる緊張に、時が流れる事を忘れた様な沈黙と張りつめた雰囲気が生まれ、雪輝と典膳は予め約条を交わしていた様に不動。
 居合わせた者が呼吸を忘れるどころか心臓の鼓動も止める静止した世界は、太陽が流れてきた白雲によって隠された瞬間、再び時を刻みだした。
 わずかに世界が暗くなった時、雪輝と典膳は共に動いた。
 互いの脇を駆け抜ける動きを見せた一頭と一人が交差した瞬間を、太陽は雲に遮られて目撃する事が叶わなかった。
 お互いを背の方向に置いて、必殺の一撃を叩き込みあった両者は、数瞬の間再び動きを止める。
 雲が風に流されて太陽が再びその顔を覗かせた時、重いモノが大地に倒れ伏す音が響いた。
 それは典膳か、雪輝か。今度こそ太陽はその結末を見届けんとしたに違いない。



 妙だな、と鬼無子は樵小屋の外に出たまま心中で首を捻る思いだった。
 一度は警鐘結界の内側にまで接近していた怨霊達が、突如結界の外側に向かって動き出し、遂には結界から抜け出したのである。
 しかも途中で二つあった反応が一つに減っている。
 結界の存在に気付き、気配を完全に隠蔽したのだろうか。
 もしそうであるのならば、次の瞬間にも突然の奇襲があってもおかしくはない。

「さて、この場を離れるべきか雪輝殿を待つべきか」

 どちらにせよ、雪輝が必ず勝利して帰ってくると信じることには変わらぬか、と鬼無子は小さく笑んだ。
 早く戻ってこないとひながますます臍を曲げてしまい、怨霊達と戦う以上の苦労を雪輝がする事になると考えると、申し訳なくあるがつい微笑ましいものが込み上げてくる。
 鬼無子が外に出たままなかなか戻ってこないのを、ひなは多少訝しくは思ったが、自分になにか言って来ない以上、まだ危険ではないと判断しているのは間違いがないだろう。
 鬼無子に対してあらゆる面で全幅の信頼を置いているひなは、動きを止めた筆を再度動かし始め、昨夜の復習を再開する。
 そこには、これまで教わった文字で、何度も同じ単語が幾枚も幾枚も記されていた。

「雪輝様、喜んでくださるかしら」

 書きとり用の紙に何十回も何百回も繰り返し書かれていたのは、『雪輝』の二文字であった。
ひなはいつか雪輝に見せて驚かそうと密かに考えて、この二文字を鬼無子から教わっていたのだった。
 雪輝の名前を書いて見せて、少しでも雪輝が喜んでくれるのなら、これはひなにとって至上の喜びに等しい。
 ひなは再び雪輝の名前を紙に記しながらぽつりとつぶやいた。

「雪輝様、早く帰ってきて下さらないかな」

 雪輝は、まだ、帰ってこない。

<終>

以上で今回はおしまいです。少しでも皆様に楽しんでいただけたようでしたら幸いです。誤字脱字がありましたらぜひお教えくださいませ。では、長のおつきあいありがとうございました。

ヨシヲさま

そうですよねぇ、またかと言ってしまうのも当然の事。事実私も思いついたときにまたかよ、と自分に突っ込んだものです。














「ただいま」

<真終>


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