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No.19828の一覧
[0] 少女の愛した狼 第三部完結 (和風ファンタジー)[スペ](2011/12/14 12:47)
[1] 命名編 その一 山に住む狼[スペ](2010/11/01 12:11)
[2] その二 出会う[スペ](2010/11/08 12:17)
[3] その三 暮らす[スペ](2010/10/23 20:58)
[4] その四 おやすみ[スペ](2010/06/28 21:27)
[5] その五 雨のある日[スペ](2010/06/29 21:20)
[6] その六 そうだ山に行こう[スペ](2010/06/30 21:43)
[7] その七 天外という老人[スペ](2010/07/01 20:25)
[8] その八 帰る[スペ](2010/07/03 21:38)
[9] その九 拾う[スペ](2010/07/12 21:50)
[10] その十 鬼無子という女[スペ](2010/11/02 12:13)
[11] その十一 三人の暮らし[スペ](2010/07/07 22:35)
[12] その十二 魔猿襲来[スペ](2010/07/08 21:38)
[13] その十三 名前[スペ](2010/09/11 21:04)
[14] 怨嗟反魂編 その一 黄泉帰り[スペ](2010/11/01 12:11)
[15] その二 戸惑い[スペ](2011/03/07 12:38)
[16] その三 口は災いのもと[スペ](2010/11/08 22:29)
[17] その四 武影妖異[スペ](2010/12/22 08:49)
[18] その五 友[スペ](2010/10/23 20:59)
[19] その六 凛とお婆[スペ](2010/10/23 20:59)
[20] その七 すれ違う[スペ](2010/10/23 20:59)
[21] その八 蜘蛛[スペ](2010/10/23 20:59)
[22] その九 嘆息[スペ](2010/10/23 20:59)
[23] その十 待つ[スペ](2011/03/25 12:38)
[24] その十一 白の悪意再び[スペ](2010/12/01 21:21)
[25] その十二 ある一つの結末[スペ](2010/11/08 12:29)
[26] 屍山血河編 その一 風は朱に染まっているか[スペ](2010/11/04 12:15)
[27] その二 触[スペ](2010/11/09 08:50)
[28] その三 疑惑[スペ](2010/11/13 14:33)
[29] その四 この子何処の子誰の子うちの子[スペ](2010/11/20 00:32)
[30] その五 虚失[スペ](2010/11/22 22:07)
[31] その六 恋心の在り処[スペ](2010/11/29 22:15)
[32] その七 前夜[スペ](2010/12/13 08:54)
[33] その八 外[スペ](2010/12/22 08:50)
[34] その九 幽鬼[スペ](2010/12/27 12:12)
[35] その十 招かざる出会い[スペ](2011/01/03 20:29)
[36] その十一 二人の想い[スペ](2011/01/07 23:39)
[37] その十二 味と唇[スペ](2011/01/16 21:24)
[38] その十三 雪辱[スペ](2011/02/16 12:54)
[39] その十四 魔性剣士[スペ](2011/02/01 22:12)
[40] その十五 血風薫来[スペ](2011/05/25 12:59)
[41] その十六 死戦開幕[スペ](2011/02/24 12:21)
[42] その十七 邂逅[スペ](2011/03/20 20:29)
[43] その十八 妖戦[スペ](2011/03/23 12:38)
[44] その十九 魔弓[スペ](2011/03/31 09:00)
[45] その二十 死生前途[スペ](2011/05/17 08:55)
[46] その二十一 仙人奇怪話[スペ](2011/05/22 21:31)
[47] その二十二 魔狼と魔剣士[スペ](2011/06/05 20:58)
[48] その二十三 真実[スペ](2011/06/20 12:56)
[49] その二十四 別離[スペ](2011/09/02 23:49)
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[19828] その十一 白の悪意再び
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80 前を表示する / 次を表示する
Date: 2010/12/01 21:21
その十一 白の悪意再び

 雪輝が鬼無子とひなに一時の別れを告げて樵小屋を退出した後、ひなは言いつけどおりに外出することを控えて、樵小屋の中で出来る作業に没頭して、胸中の不安や心配を紛らわせていた。
 替えの草鞋や笊を編み、土間の隅に保管していた氷の中身を繰り抜いて、野菜の保存室代わりにするなどである。
 言葉を忘れたように小さな口を噤み、黙々と手を動かすひなの姿から、その心の中を簡単に推し量る事が出来た為に、鬼無子はこれは機嫌を直すのは苦労しそうだ、と微苦笑した。
 周囲の地形に対する知識や狼の妖魔である事の特性を考慮すれば、雪輝が山中に彷徨う怨霊たちを見つけ出すことはそう難しい事ではないだろう。
 一両日中には決着をつけてひなの元へと帰ってきて、曲がったひなの臍を直そうと必死になる雪輝の姿を簡単に思い浮かべる事が出来て、鬼無子はひなには申し訳なく思うものの、さほど雪輝に対する心配というものはほとんど抱いていなかった。
 また万に一つも怨霊たちがこの樵小屋を見つけた場合の備えも、既に済ませていた。
 水で薄めた鬼無子の血に浸した髪の毛を特殊な呪文を書き記した呪符に巻きつけ、樵小屋の周囲四方に埋めてある。
 鬼無子が以前の職にあった頃に学んだ、敵性存在を感知し、術者にのみ警鐘を鳴らす種の結界術である。
 基本的には敵意を持った相手であれば無差別に発動する術式を、人間の怨霊に反応するように呪符の文言を書き換えている。
 現在、山の外側に当たるこのあたり一帯で、鬼無子にとって脅威と呼べるだけの力を持った妖物の類は、黄泉から帰参した怨霊たちだけであるから、その他の妖魔は基本的に眼中にはない。
 仮に雪輝が怨霊たちと邂逅するよりも早く、三人の怨霊すべてがこの樵小屋を包囲するように現れた場合は、鬼無子はひなを連れて交戦を徹底的に避けたうえで山を脱出し、麓へと逃げることを決めていた。
 たとえ山を降りようと雪輝の鼻があればいくらでも後を追ってくることはできるだろうし、ひなと鬼無子が逃げている間に雪輝が怨霊たちを仕留める事も不可能ではあるまい。
 それを言うのならば、もともと雪輝と鬼無子とひなで山を下りて、麓の村かどこかにひなの身を隠したうえで、雪輝が山に戻って怨霊たちを狩り回るという選択肢もないではなかった。
 ただ、この場合下山の最中に怨霊たちと遭遇する可能性や、普段なら雪輝を恐れて決して近寄らずにいる妖魔達が、怨霊たちが振りまく暴虐によって血に酔い、襲い掛かってくることも考えられた。
 そうなれば最悪、怨霊達と妖魔達と雪輝達とが入り混じり合う乱戦模様となり、ひなの身を守りながら戦う雪輝達の不利は否めない。
 それに以前の白猿王一派との戦いでは守勢に回って痛恨の失態を演じたことから、雪輝が積極的に攻勢に回り、ひなの目に触れることなく怨霊達を殲滅すると腹の奥で決めていた事もあり、樵小屋でひなと鬼無子が待機することとなっていた。
 鬼無子に危惧する所があるとすれば残る三人の怨霊が知性を有し、手を組んで雪輝と対する事であった。
 いかに上位の妖魔にも肩を並べる力を誇る雪輝であろうとも、一対三の状況に置かれては勝利は危ういものとなろう。
 また雪輝の基本的な戦闘方法は、狼の妖魔である事の俊敏性を活かし、鋼鉄の鎧も薄紙の様に貫き切り裂く牙と爪を用いた一撃離脱戦法だ。
 以前、魚採りの際に妖気を細い針状にして射出したことから不可視の妖気を操作する事によって、多少の遠距離攻撃手段も持ってはいるようだが、獣の姿をした妖魔としてはごく基本的な戦い方が主体であると言える。
 三人の怨霊達すべてが武具を操る武芸者の類の怨霊であるのなら、それでも問題はないが、この中に陰陽師や祈祷師、精霊使いといった者達が居ると、自前の身体能力と妖気で戦う型の雪輝とはいささか相性が悪い。
 特に土、水、火、風、金の五行を操る陰陽師や精霊使いといった人種は、属性に強く依存する種の妖魔や尋常な生物にはあり得ない身体能力を有するだけの妖魔にとっては、分の悪い天敵と言える存在だ。
 雪輝の場合は満遍なく全ての属性を兼ね備えた万能型であるから、五行の属性を用いた攻撃に関してはそこまで厄介というわけではないが、逆を言えばこれといって雪輝から見て有利になる属性もないことになる。
 陰陽術や風水術などを攻撃手段とする以外にも味方の支援や敵への妨害を行える陰陽師と、死人となったことで超人的な身体能力を獲得した武芸者の怨霊が組んで戦う事になると、これは雪輝にとって大いなる強敵となるだろう。
 雪輝の傍らに鬼無子のいる二対三の状況ならそれでも勝利の確立を五分以上に持ち込めると、鬼無子は現在持ちうる情報から判断していたが、ひなの安全を考慮した案を雪輝が最優先することはすでに身に沁みて理解している。
 一番良かったのはひなを凛達山の民の里に預かってもらう事であったが、山の民が最低限必要な交易以外では、極めて排他的な風習の強い事は鬼無子も知っていたから無理強いはできない。
 せっかく敵ばかりのこの妖魔住まう山の中で、数少ない雪輝と友好的な集団なのだから、その関係に暗雲を齎す様な真似はそうそうできない。

「ひな、雪輝殿が戻られた時、あまり怒らないで上げて欲しい。雪輝殿がどれだけひなを大切に思っているかは、それがし以上にひな自身がきちんと分かっておろう。雪輝殿はひなにどれだけ冷たくされても生涯ひなの事を慕うであろうから、あまり冷たくされる様子を見るのは忍びないのだよ」

 なんとか雪輝殿の助けになれればと一点の曇りない鬼無子の想いが、そう口を動かさせていた。
 あの狼のひなに対する好意はほとんど際限がなく、共に過ごす時間の長さに比例して増している。有り得ぬ事ではあるがひなが雪輝と共にある事を拒むような事が起きたら、雪輝は笑ってそれを承諾し、然る後に世界の全てへの絶望から命を絶つくらいの事はしかねない。
 ひなの方もそれは同様であるから無用な心配とは思う物の、ひなに少し冷たくされただけでも失意のどん底に瞬く間に突き落とされるので、見ているこちらの胸がひどく傷んで仕方がない。
 それはある意味でひなが雪輝に対して遠慮をしなくなった表れでもあり、二人の関係がこれまでよりも一層深い段階に至ったという事なのだが、その弊害もまた確かにあった。
 鬼無子の言葉に耳を傾けながら五足目の草履を編む作業に没頭していたひなは、不意にそれまでせわしなく動かしていた指を止めて、少し顔を俯かせた。

「分かってます、分かってますけど……。それでもやっぱり、寂しくて悲しくて申し訳なくて、なのに私は雪輝様に当たってしまうのです。雪輝様が受け止めてくれると分かっていて、つい甘えてしまうから」

 鬼無子は柔和に笑み、腰帯に崩塵を差し込みながらひなの傍らに腰を降ろして小さなひなを頭を抱き寄せた。
 小さな体のぬくもりが感じられ、慰めるつもりだった自分の方がどこか安らぎを覚えて、鬼無子はこれでは雪輝殿がひなの傍を離れたがらないのも無理はないと、胸中で零した。

「なになに、ひなに甘えて貰うのは雪輝殿にはなによりの楽しみで喜びであるよ。ただ雪輝殿は素直にすぎる御方ゆえ、ひなに当たられてしまうとどうしてもひなが甘えていると理解するよりもまず、落ち込んでしまう。あの方らしいと言えばらしいのだが困った方でもある」

「私、いまも鬼無子さんに甘えてしまっています」

「ひなのような愛らしい子に甘えられるのなら、幾らでも胸を貸そう。それがしでも雪輝殿の代わりの十分の一くらいは果たせるだろうから」

 鬼無子は黙り込むひなを強く抱きよせて、豊かな乳房に埋めさせた。
 自らの胸の中に抱き寄せたひなの小さな体から伝わるぬくもりが伝わり、鬼無子は自分の心の水面が凪いでいる海の様な静まってゆくのを感じていた。
 どうしてかは分からぬが、この小さな少女と触れ合っていると驚くほど心が安らかな気持ちになる。
 雪輝がひなの傍を離れるのを厭うのは、ひなの身を案じる他にもこの安らぎから離れるのを嫌がっているせいもあるだろう。
 ゆっくりと赤子をあやす様にひなの黒髪に指を差し込み、鬼無子はひなに自分の感じている安らぎを分け与える事が出来るようにと、優しく優しく手櫛でひなの髪を梳く。

「雪輝殿が居られぬと不思議とこの小屋も広く感じられるものだ」

 無論、一般的な狼の妖魔などと比べて巨大な雪輝が空間的に占める割合の事ではなく、その存在感がひなと鬼無子の心にとって大きくあるために、あの白銀の獣が身近にいないという状況は、心に決して小さくはない穴が開いた様な寂寥感を抱かせる。
 まるで息を吸うように当たり前に傍らに存在していた雪輝の不在は、思いのほかひなと鬼無子にとって寂しさを芽生えさせていた様だった。
 鬼無子の何気ないが、その分実感の籠った呟きに心から同意しつつ、ひなは自分の頭を撫でる鬼無子の手と頬を埋もれさせている豊かな双丘に身を委ねた。
無条件に自分を守ってくれる相手が傍に居る事。ましてや自分もその人に好意を寄せているのだ。ひなは雪輝のいない不安を忘れようと、鬼無子の胸に縋りついて目を閉じる。
 雪輝の無事の帰還を、一刻も早くあの方が戻って来られますようにと、深く、強く、切なく想う。想い続ければそれがきっと本当の事になるのだと、そう信じて。



 雪輝は格子の様に重なり合い壁となっているかのような樹木の間をするりするりと、さながら風の様な身のこなしですり抜けて、山の中を駆け巡っていた。
 濃厚な緑の臭いを孕み、緑の色に染まっている様な風の中に、ゆっくりとしかし確実に近付きつつある秋の足音が混じり始め、世界は陽光燃え滾る夏から実り豊かな秋へと移ろう下準備を始めている。
 耳を澄ませばそよ風に揺られる緑葉や色とりどりの花弁のささやきのかすかな響きの違いや、唱和する虫達の鳴き声の変化を聞き取ることは難しくはない。
 山という世界とそれを構成する無数の命達が、世界の変容を敏感に感じ取り、変わりゆく世界に適した姿と心に変わりつつあるのだ。
 大地を濡らす血、風を汚す断末魔、空を汚す呪いの渦、山という世界を構成するのが数多の邪悪なる妖魔であろうとも、この妖の哭く声の絶えぬ山にも四季の移ろいは分け隔てなく訪れる。
 萎れる花が最後に風に託す花粉の粒子や生命の終わりを飾るべく一層激しく強く啼く蝉の声。
 幾度も過ごした山の夏の終わりと秋の始まりの気配を満身に感じながら、雪輝の関心は四季の移ろいには露ほども向けられてはいなかった。
 波濤が岩礁にぶつかって飛沫を散らすが如く、雪輝の通った後には夏の終わりを嘆くかのように緑葉がひらひらと舞い散る。
 雪輝が大狼を滅ぼしてより主な生活の範囲としてきた周囲の山林の中で、山腹から鬼の角の様に突き出している丘がある。
 風の運ぶ万物の臭いと耳に届く万象の響きの中から、求める怨霊達の情報の欠片も逃さぬように意識を裂きながら、雪輝はまず角の形をした丘を目指した。
 酔いどれた三日月が誤って大地に突き刺さったように縦に弧を描き、天空を貫かんとばかりに鋭い先端を上向きにしている岩のある、奇妙な丘である。
 鬼の角とも三日月とも見える巨大な岩石を中心に、背の低い草が丘一面を覆い尽くし、ぽつりぽつりと無造作に岩石が転がっているきり。
 四角形を描く山の外と内側の境界線代わりの山頂を除けば、外側一帯の奥を眼下に展望できる場所であった。
 雪輝が足を運ぶ機会のほとんどない場所であったが、耳と鼻以外にも五感の全てが同種の狼の妖魔と比較しても図抜けて鋭敏な雪輝の視覚を活かすために、選んだ場所である。
 大の大人でも昇りきった時には大粒の汗を顔中に浮かべて息を荒くする急勾配の丘の頂点に、角とも三日月とも見える岩が突き刺さっている。
 雪輝は青の瞳にその岩を映すと、五十尺(約十五メートル)近い岩の鋭い頂点へと、ほんの一跳びで飛び乗る。
 研ぎ済まされた刀の切っ先を連想させる岩の頂点部分は事実、刃に等しい鋭さを兼ね備え、不用意に羽を休めに止まる鳥類の足を無惨に斬り落としてきた。
 その名残の赤黒い染みがべっとりと広がる岩の頂点部分の上で、雪輝は落下の恐怖もわずかに重心を狂わせばこちらの身体を切り裂く鋭すぎる岩の造形も感じておらぬようで、空の青も褪せて見せる瞳を、はるか彼方にまで広がる樹木の海に向けている。
 凛と鬼無子の語る所によれば蘇った怨霊達は大狼をはじめとした山の妖魔達への怨恨によって突き動かされ、果てにはすべての生命へ憎悪と怨讐の刃を向ける悪鬼羅刹と化しているという。
 であれば蘇ってからどれだけの日数が経過しているかまでは雪輝の知らぬ所であったが、山中を徘徊する中で獣や妖魔達と否応なしに遭遇するはずだ。
 そして出会えば最後、怨霊達は目の前の生命を摘み取るべく、死したことによって増した己らの武威を振るい、妖哭山に新鮮な血の臭いと死の断末魔を振りまくはず。
 くん、と鼻を鳴らし、ぴくり、と耳をはためかせ、雪輝は双眸に移るいかなるものも見逃さぬべく、首を巡らして世界の変化を緻密に観察し続ける。
 雪輝に懸念があるとすれば、第一にひな、第二に鬼無子の身の安全であるが、それを置いておくとするならば、怨霊達が生前同様に知恵を巡らし、知性を持って行動することであった。
 ただ闇雲に山中を徘徊してすでにこの世にない大狼を討つべく無差別の虐殺を振りまくだけであるなら、発見も容易で不意を突いて一息に討ち取ることもできただろう。
 しかし怨霊達が個々に生前の知性や知識を取り戻し、逆に雪輝を確実に滅ぼすべく罠を張り巡らせていたとしたならば、これは雪輝にとって慎重にならざるを得ず、場合によっては数日間に及ぶ長期戦も視野の内に入れておかなければならない。
 自身の不在がひなの精神的均衡に悪影響を及ぼすことはなんとなしに雪輝は察しており、そのために日を跨ぐような長期の戦いを行うつもりはなかった。
 日の沈むよりも早く黄泉帰りの怨霊達の首を全て噛み千切り、すぐさまひなの元へと駆るつもりであった。
 ひなが雪輝の不在に心を千々に乱して悲しみを寂しさに暮れるように、自覚のないままに雪輝は傍らにひなが居ない事に苛立ちをうっすらと心の片隅に澱の様に積み重ねている。
 この狼はこの世に生じた時からひなと出会う以前までは親も兄弟もない暮らしを当然のことと受け入れて、孤独に心を傷つけることもなかったが、傍らに誰かのいる事のぬくもりと安らぎを覚えた為に、それを失う事への恐怖を我知らず覚えていた。
 恐怖は憎悪と憤怒を伴いかつて白猿王にひなを人質に取られた時には、白銀の毛並みを憎悪の黒と憤怒の赤に染めかねぬほどの激情を炎のごとく表出させたが、今回の場合はそれが焦燥へと繋がっている。
 あまりにか弱く弱小の妖魔や獣にすら簡単に命を奪われてしまう様な少女の存在が、この狼の妖魔の心に大きな楔を打ち込み、否応にも変化を強要していた。
 雪輝は求める獲物の姿を探す狩人と同じようにただただ静かに、怨霊達の行方を知る手掛かりとなる情報を求めて、耳を、目を、鼻を、皮膚を、直感を研ぎ澄まして待つ。
 獲物を見つけたその時に爆発する激情は、おぞましいまでの妖気を伴って雪輝を一個の悪意の塊と変えるだろう。
 やがて陽は中天に座し、秋の気配を感じさせつつもまだ夏の世界だと宣言するようにして、山の稜線の彼方に至るまで白々と照らしている。
 何重にも枝葉が折り重なり、天然の天蓋を為す原生林はそれでも薄暗がりをそこそこに作っているだろうが、剥き出しの丘の上に屹立する岩の上に立つ雪輝には、まるで容赦のない陽光の雨が降り注ぐ。
 本物の銀を加工したような輝きを放つ銀毛を纏う雪輝の姿は、地上に小さいがもう一つの太陽が生まれたかの如く陽光を跳ね返しながら輝きを放つ。
 遮る物の無い場所に立つ雪輝の姿はこの時山の中で最も目立つ物の一つであり、大狼と間違えた雪輝を付け狙う怨霊達にとっては、まさしく死という厳然たる事実を乗り越えてまで求めた目的を果たす格好の好機であろう。
 雪輝にとって生命の危機であると同時に、それは雪輝にとっても好機であった。
 怨霊が雪輝の生命を狙うように雪輝もまた怨霊達の存在の抹消を図って、生涯共に過ごしたいと願う少女の傍を離れてまで、この場に在るのだから。
 ひときわ強い風が、雪輝の全身を飾る白銀の毛並みを揺らめかせる。
 秋穂の黄金の畑が、波のように揺らぐのとをよく似て、白銀の海を思わせた。
 心地よい風である。
 まだまだ暑さを忘れ得ぬ夏の日に、これほど心地よい風は二つとないだろう。
 しかし、雪輝はその風の中に心地よいものを感じはしなかった。
 ただ夜天を彩る青い満月を思わせる瞳を細め、真珠の光沢と色合いを持った鋭い歯列をむき出しにする。
 ぐぅるるるるる、とひなには決して聞かせた事のない、そしてこれからも聞かせる事のない敵意だけが満ちた唸り声が雪輝の喉の奥から零れ出て、全身から物質と変わってもおかしくないほど濃密な妖気が堰を切って溢れだす。
 風には狼の妖魔に対する絶対の憎悪が混じっていた。
 秋と夏と、二つの季節が混ざった風に吹き散らされた緑葉と花弁が数枚、粛然と岩の上に立つ雪輝の傍らを吹き流れてゆく。
 その瞬間、雪輝は足場としていた岩を蹴った。視線の先に討つべき怨霊の姿を認めた――からではなかった。
 自分を取り囲むようにして風に乗った花弁や木々の葉に、かすかな怨念と殺意を感じ取ったからだ。
 加えて天地万物の気をもって肉体を構成する雪輝には、色鮮やかな花弁や緑の深い葉に宿る気の総量が異常である事が、手に取るように感じ取る事が出来、直感的にこれが自分を狙った攻撃であると判断する。
 雪輝の直感と感覚の正しさは、跳躍後間もなく証明された。
 雪輝の身体が空中に舞い踊るのにわずかに遅れて、数十枚の花弁と緑葉は紫電をまき散らしながら、丘を埋め尽くして刹那の間、太陽の光を世界から奪い去る。
 おそらくは花弁の一枚一枚に稲妻を発生させる呪言が緻密に書き込まれていたのだろう。
 幸いにして追尾性までは付加されていなかった紫電は、雪輝を追う事もなくほんの数秒ほど角型の岩や丘の地形を変えて消失する。
 紫電の高熱によって焦げた大気の臭いが雪輝の肺腑に届く寸前で、雪輝はようやく大地に着地し、露わになった殺意へと視線を向けていた。
 乱立する木々が織りなす木立の中に、水干を纏う乱れ髪の人の姿が映る。
 距離はざっと百間(約百八十メートル)。雪輝ならば呼吸する間に無に変えられる距離である。
 鬼無子や凛が遭遇した怨霊達よりもくっきりと目鼻の造作がしており、荒れ果てた平原に住まう人食いの鬼女を思わせる乱れた髪の下の顔は、あどけなささえ残す若い女の顔であった。
 妖魔の蠢く山で死ぬにはあまりに惜しい、と万人が嘆く白百合の様な青白い美貌の瞳には、轟々と燃え盛る憎悪の黒炎が揺らめいていた。
 この少女もまた山に惑わされて妖魔の牙にかかり命を散らした哀れな犠牲者か。
 そしていま、悪鬼羅刹にも等しい復讐者となって蘇ったのか。
 抉り取った心臓から溢れる鮮血を刷いたように赤い唇は深い奈落をのぞかせる亀裂のごとく吊りあがり、ばりばりと、音をたてんばかりに噛み合わされた米粒の様に白い歯が覗いている。
 もとは陰陽師と知れる風体の怨霊は、左手で右手首を掴み、右人差し指と中指をそろえて伸ばし残りの指を握り込む。
 艶やかだがそれ以上に狂気の気配を纏う唇が短い言葉を紡ぐ。
 雪輝の足が踏み込んだ地面を爆発させて跳躍力に変えるのと、ほぼ同時であった。
 そしてまた、雪輝の左前肢が二歩目を緑の芝生に刻むのと、その地面を中心に土で構成された十匹あまりの蛇が鎌首をもたげて襲い掛かるのもまた同時であった。
 女陰陽師が一瞬の時間で造り出した生ける土蛇は、限界まで顎を開いて精巧に再現された牙を覗かせて雪輝の身体に襲い掛かる。
 敏感に周囲の気の変化を感知した雪輝は、土蛇の半身がまだただの土だった時から敵の第二波を悟り、一旦突進を止めて土蛇の迎撃に思考を切り替えていた。
 鬼無子に聞いた式神か、と雪輝は土蛇の正体を推察する。
 この国において式神とは陰陽師がその呪術を持って作りだす偽りの生命を指す言葉だ。
 日常生活の雑用から吉凶の占いや、天候の読みなど専門的な呪法の補助まで行うものから、罪人や敵国の人間をはじめ妖魔や魑魅魍魎を退治するのに用いられることもある。
 雪輝に対して放たれた土蛇たちは、おそらくは即興であるにしても十分な殺傷能力を有した戦闘用の式神である事は簡単に察せられる。
 死の門戸をくぐり、いままた生への道を逆上り現界に舞い戻ってきた女陰陽師の呪力は、生前とは段違いに強大なものになっているはずであるから、生み出す式神もまた強力なものであるだろう。
 緑の斑を散らした茶褐色の土蛇十匹がその牙を雪輝の白銀の巨躯に届かせる直前、雪輝は前方への跳躍の力を柔軟かつ頑強な筋肉で吸収し、旋回へと変えた。
 白銀色の旋風と化す中、雪輝は右前肢を振り上げるやそこに莫大な妖気を注ぎ殺傷能力を劇的に強化する。
 鎧兜で固めた武者の上半身を泡玉のように爆散させる破壊力の込められた雪輝の一撃は、直接触れずとも攻撃的な妖気の混じる豪風が、雪輝の描く旋回半径の外側に居た土蛇たちもまとめて元の土塊へと変える。
 妖気混じりの旋風が周囲の木々を根こそぎ吹き飛ばして空中高く舞いあげる中、雪輝は再び正面に捉えた女陰陽師に青い視線を据える。
 女陰陽師は足を止めており、距離を詰めんとする雪輝を持てる呪術で迎え撃つ腹積もりであるのだろう。
 はたして怨霊達がどれだけ生前の知性を備えているのかは不明であったが、膨大な知識を必要とする陰陽術をこうして駆使している以上、ある程度の知性は取り戻していると考えて然るべきだ。
 あるいは目の前の陰陽師は囮で他の怨霊達が周囲に伏せっているのかもしれない。
 雪輝は目の前の陰陽師以外からの奇襲にも備えながら、全身の細胞を活性化させてより一層身体能力を強化する。
 今の雪輝ならば、堅牢な城砦を守る鋼鉄の城門も障子の紙程度の障害に過ぎず、また風よりも早く俊敏に地を駆ける事が出来る。
 土蛇がただの土塊へと変えるのにわずかに遅れて、女陰陽師が次の動きを見せていた。
 剣指を維持したまま空中に五つの角を持った図形を描き、空いた左手の五指はそれぞれが独立した思考を持った生き物のように異なる動きを見せている。
 現実世界の自然現象と密接に繋がった精霊と意思を交わす精霊使いなどと異なり、陰陽師は世界の構成そのものを術者自身が読み解き、世界の在りようにわずかに干渉することによって望む現象を起こす。
 女陰陽師が独特の調子で足を動かし、右の剣指を雪輝へと向ける。
 わずかに雪輝の毛並みが逆立つ。
 極近未来に襲い来る脅威に対する本能的な警戒の表れだ。
 脳裏に響く警鐘の音に従った雪輝がその場から左方に跳躍するのに遅れて、女陰陽師から雪輝が直前までいた空間を、不可視の巨大な斬撃が駆け抜ける。
 見上げるほど巨大な巨人が全力を込めて大刀を振り下ろしたように、大地には深い斬痕が刻まれ、その衝撃の余波によってさらに周囲の木々を根こそぎへし折って辺りの光景を一変させる。
 斬空と呼ばれる陰陽師が扱う呪法である。
 ごく短時間の間だけ存在する不可視の巨人型式神による見えざる一撃を加える者で、術者の力量如何によって式神が制限なく巨大化するために、高位の陰陽師ともなれば斬空の術式一つで砦程度なら陥落させることも可能とされる。
 先ほど丘の上で炸裂した紫電の呪術に数倍する轟音と衝撃波によって、空中を跳躍中の雪輝は体勢を崩されて、大きく吹き飛ばされていた。
 天地が攪拌されているかのように上下左右が絶え間なく変化する中、雪輝は四肢の先に自身の妖気で足場を形成し、それを踏んで大地へと舞い降りる。
 下手に跳躍して身動きのとり辛い空中で攻撃を受けては、万に一つも手傷を負わされかねない。
 四足を備えた獣の形状をしている以上、やはり大地を駆ける方が雪輝にとっては本領を発揮できる。
 しかし、足場を整えて大地に足を付けるまでの時間は、女陰陽師に次の手を打たせるには十分すぎる時間だった。
 女陰陽師の左手が五指を揃えた貫手の形で雪輝めがけて突き出されると、傷一つない象牙細工を思わせる繊指の先から、紫色の煙が勢いよく噴出する。
 あらゆる元素を腐敗させる“瘴気”である。
 一部の妖魔や邪教の徒が好んで使用する極めて毒性の高い煙状の気で、物理的な存在のみならず霊的な存在にまでも害を及ぼす。
 あらゆる存在に対して有効な攻撃手段ではあったが高い残留性を持っており、一度瘴気を浴びた空間には強い毒が残って、尋常な生物や霊魂が近寄る事も出来ない死の世界へと変えてしまう。
 一部の霊薬や高位の神職に在る物でもなければ浄化する事が出来ず、世界そのものを根幹から脅かす危険性が高く、たとえ命がけの実戦であっても実際に用いられることは滅多にない。
 女陰陽師が呼びだした瘴気はまるで意思を持った生物であるかのように、拡散せずにひと塊りとなって雪輝めがけて襲い掛かる。
 瘴気に触れる端から風は淀み大地は腐り、降り注いでいた陽光は陰りを帯びて空間は穢れた。
 清浄な天地の気で肉体を為す雪輝からすればまさに致命毒となる危険極まりない攻撃であった。

「ちいっ!」

 鬼無子に教えてもらった知識と、自身の天敵にも等しい現象であると本能で理解した雪輝は、厄介なと言わんばかりに舌打ちを一つ打って、迫りくる紫の魔煙を躱す。
 妖魔の放つ妖気さえ腐敗させる瘴気が相手では、雪輝ではいかんとも相手がし難い。
 これが鬼無子であったならば豊富な知識と戦闘経験から、瘴気に対するある程度の耐性を肉体に付加させるか、崩塵の浄化能力を増幅させて瘴気に抗する事も出来ただろう。
 回避した雪輝を極上の餌と認識した餓鬼のごとく瘴気は行く先を変えて、銀風となって疾駆する雪輝の後を追う。
 幸いにして女陰陽師の意識は瘴気の操作に集中しており、同時に別の術を行使することはできないようだった。
 瘴気の生成と操作にはそれだけの集中力と繊細な神経が必要とされるという事だろう。
 視界の端に映した女陰陽師の様子から、まずは追い迫る瘴気の対処を優先、と雪輝は判断していかなる手段を用いれば、防ぐなり封じるなりできるかと思考を巡らす。
 しかして雪輝の取りうる選択肢という物は、今回もまた少ないものであった。
残念ながら雪輝に出来る事といえば妖気によって全身の細胞を強化することと、前述したが無尽蔵に近い妖気になんらかの形状を付加して、不可視の飛獲物として放つ事だ。

――参ったな、私は随分と不器用にできているらしい。

 それが素直な雪輝の気持であったが、それでもひなの元へと帰るためには諦めるという選択肢を選び得るわけもなく、雪輝は始原の記憶にまで遡り自分自身の事で見落としている事がないか、記憶の棚を一つ残らず検閲する。
 雪輝にとっての幸運は、女陰陽師が瘴気を操りながら別の術を行使する事が出来なかった事に加えてもう一つ存在した。
 発生した瘴気の操作はあくまでも女陰陽師の意識に基づくものであり、高速で周囲を駆けまわる雪輝の動きを完全には追いきれていないのだ。
 しかし瘴気の通った道筋は尽く汚染されて、腐敗した風は吸い込むだけで鼻孔から肺腑までを酸で焼かれた様な痛みを強い、瘴気に侵されていない安全地帯は見る見るうちに消えて行く。
 この場を退いて場所を変えて改めて女陰陽師と交戦に踏み切るべきか。
 既に雪輝は女陰陽師の匂いを覚えている。梅の香りに似た良い匂いだ。
女陰陽師を撒いた後に、この匂いを頼りに隙を伺って何かをする暇も与えずに一撃で葬ることもできよう。
 雪崩のように上方から襲い掛かってきた瘴気を躱した雪輝が、焦燥の焔に精神を炙られつつも、あくまで冷静に思案を巡らしていた時、まだ清浄な地を踏んだ肢の外側に強烈な電撃が走った。
 瞬時に全身をめぐる強烈な痛みに驚愕しながらも、雪輝は瘴気の位置を忘れずに別方向へと十間ほど跳躍する。
 右前肢の外側の白銀の毛のいくらかが無惨に黒焦げて、その下の肉も焼いて香ばしい匂いを漂わせている。
 自分の身体が焼ける匂いを嗅いで、雪輝は眉間と目元を険しく細める。

「結界か。天外の遮断式とは異なる雷属の攻性結界とは厄介な」

 結界とは外と内とを隔てる単なる地理上の境界や宗教観に基づく形式的なものから、霊的な力によって構成される遮断壁まで幅広く指す。
 雪輝が口にした通りに、天外が庵の周囲に張り巡らせている結界は、単純に妖魔の侵入をある一定の範囲内から拒むだけの機能しか持ち合わせていないが、女陰陽師が事前に張り巡らせたのだろうこの結界はずいぶんと趣を異なるものだ。
 外からの侵入を拒むのではなく、内側に閉じ込めた存在の脱出を封じ込める内部閉鎖結界。
 しかも離脱を試みた者が結界の境界に触れれば高電圧の雷撃で持って内部へと弾き返す攻撃性も備えている。
 鬼無子と自分が事前に想定した以上に厄介な能力を兼ね備えた敵を相手にしている事を、雪輝はいまさらながらに痛感させられる思いであった。
 単独であっても勝利の困難な恐るべき強敵。
 凛や鬼無子の戦った武芸者達と比較しても明らかに一段、二段上の強敵と言えるだろう。
 雪輝は焦がされた右前肢の機能が特に支障を来していないことを確認する。
既に炭化した皮膚はぼろぼろと剥がれ落ち、再生した薄桃色の肉は白銀の産毛に覆われつつある。
 身体細胞の強化によって可能となる強力な再生能力の発動であった。
 山の妖魔を相手にして傷を負えば相手の悪意が込められた妖気が傷に残り、再生を阻害するが、幸いにして結界には妖魔の再生能力を阻害させる術式は組み込まれていなかったようだ。
 単純な術式ほど構成が容易なためにその効果を高めやすく、多機能を持たせた結界は多くの事態に対応しやすいが、一つ一つの機能は単独機能型の結界には劣る傾向にある。
 内部の妖魔を封じ脱出を雷撃でもって防ぐこの閉鎖結界には、そこまでの機能を持たせることはできなかったのだろう。
 しかしこの場を離脱して女陰陽師の隙を伺うという選択肢も失われたのは間違いない。
 もっとも離脱の選択肢は時間がかかり過ぎる可能性があり、捨てるしかないものではあった。
 この現状ではまだ二人の怨霊が残っているが、ここは相討ちも覚悟で腹を括るしかないのかもしれない。
 悲壮な決意と共にそこまで考えた雪輝の脳裏にふと閃くものがあった。
 妖魔の中でも強靭な自分の身体能力と妖気操作のほかにも、まだ自分にできる事があったとつい最近知ったばかりではなかったか。
 問題はその“できる事”がどこまで現状の打破に役立つかどうか、未知数である事だがこのまま逃げ惑い続けてもじりじりと焦がされるようにして追いつめられて、瘴気に飲み込まれて魂魄と肉体を蝕まれるのは明白。
 ある種の決意を秘めた雪輝は、再び襲い掛かってくる瘴気を何度か避けた後に、着地したある場所で足を止めて四肢を伸ばし、頭を下げて前傾姿勢を取る。
 それを玉砕覚悟の吶喊であると女陰陽師は判断したのか、瘴気の動きを一時止めると新たに呪力を注ぎ込み、瘴気の量を倍に膨れ上がらせる。
 小山と呼んでもおかしくない大きさにまで膨れ上がった瘴気は、女陰陽師の怨念を食らってより禍々しさを増して、空間それ自体に対する汚染の度合いを増してゆく。
 もはや戦場となったこの辺り一帯はたとえ妖魔であっても百年は済む事の出来ない汚染地帯となるだろう。
 雪輝の四肢が大地を蹴るのと瘴気が大地を飲み込む大津波のごとく襲い掛かるのとは、図ったようにまったくの同時であった。
 見た瞬間に網膜を腐敗させるようなおどろおどろしい瘴気は触れる地面のみならず風さえも黒く変色させて腐敗させながら、神速の跳躍を見せた雪輝を呆気ないほど簡単に飲み込む。
 女陰陽師は、こう判断したことだろう。
 あの狼は可能な限り妖気を身に纏って瘴気の侵食を抑え込んで瘴気を突破するつもりなのだ、と。浅はかな獣の浅知恵、と嘲りを隠さずに。
 女陰陽師が細く尖らせた唇から左手の指先に息を吹きかけると、瘴気はその濃度を増すべく雪輝を中心に球形状に渦を巻いて、雪輝の身体を完全に飲み込み覆い尽くす。
 妖気による防御を施した所で、ものの数分とかからず毛皮と言わず肉と言わず骨と言わず腐敗させ、生命を奪うに十分すぎる凶悪なまでの瘴気であった。
 死の底から舞い戻ってまで果たさんとした復讐の結実に、女陰陽師の口元にははっきりと分かる笑みが浮かびあがっていた。
 だが、もしこの場に第三者の目があったなら、その女陰陽師の浮かべた笑みが凍る様はさぞや見物であったろう。
 女陰陽師の笑みを凍らせたのは、内側から凍りついてゆく瘴気の姿。
 瘴気塊の中心部に飲まれた雪輝から伝播した冷気が、瞬きをするよりも早く瘴気塊の表面に至るまでを凍結させて、透き通った氷の中に閉じ込めたのだ。
 目の前の理解の及ばぬ現実を前に、愚かにも動きを止める女陰陽師の目の前で、瘴気塊を覆い尽くした氷に一斉に大小様々な罅が走り、黒みがかった紫の気体を中に閉じ込めた数千の氷片へと砕け散るその中心部から、口蓋をめくり上げて真珠色の牙を開いた雪輝が女陰陽師へと襲い掛かる。
 内側から凍らせた瘴気塊から飛び出た直後に、妖気で構成した新たな足場を作り、雪輝は一気に加速する。
 音の速さにも届かんばかりの雪輝の強襲に、女陰陽師は明確な反撃の一手を打つ事を放棄し、回避のみに専念していた。
 がちんと雪輝の牙が噛み合った時、青白い霊子の飛沫を撒き散らしながら空中を待ったのは、女陰陽師の左腕であった。
 空中を舞う女陰陽師の左腕に、つい最近同じ光景を見た様な既視感に襲われて、雪輝は一瞬訝しい思いに見舞われたが、その隙は相手に好機を与えるばかりと即座に第二撃でもって華奢な細首を噛み千切らんとし――

「おのれええ、再びわしの腕を奪うか、銀色よおおおおおおおお!!!!!!」

 女陰陽師の背に浮かびあがる白毛の年老いた猿の醜悪な面と、憎しみだけが込められた声に、目を見張って愚かしくも動きを止めた。

「馬鹿な……。また貴様か、白猿王!?」

 冷たく美しい月の下、確かに雪輝がその首を噛み切ったはずの魔猿の長が、今一度、雪輝の目の前に現れていた。
 そしてそれは、黄泉帰りを果たした怨霊達が、ひなという雪輝が自身よりも優先する存在を知らないという大前提が、崩壊した瞬間でもあった。


<続>
瘴気が凍った理由などは次回で。次かその次で終ります。
ご感想ご指摘ご忠告そのほかもろもろお待ちしております。よろしくお願い致します。

10/15 誤字を修正しました。まだ有るようでしたらぜひお教えくださいませ。

遅れてしまいましたが前回の文のご感想のお返事を。

>>いかれ帽子屋様

 ちょこちょこ残念なところを見せるのが鬼無子という女性の個性です。本人は至ってまじめですが、精神のネジのの一部の閉め方が常人とはちょっと違うのですね。そして誤字のご指摘ありがとうございました。これからもよろしくお願い致します。



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