その八 蜘蛛
朝の澄んだ大気はごく微小の粒子に変わった夜露を孕み、わずかに肌に湿り気を感じさせてかすかな清涼感を抱かせる。
四方を城壁のごとく聳える灰色の岩壁に覆われて、四角形に切り取られたような青空が天の蓋となる山の民の一派“錬鉄衆”の里も、早朝の大気の心地よさは岩壁の外や山の外の世界とも変わらなかったが、鍛冶衆の集う鍛冶場では陽の登る時刻から炉の中の火が勢い激しく燃え始めていた。
四角い赤茶色の煉瓦に酷似した岩塊は耐火性に富みまた非常に頑健で、その赤茶の煉瓦をいくつも積み重ねて建築された鍛冶場は普通の家屋の五倍は高く造られ、屋根は有事の延焼などを考慮して、燃やした呪符の灰を混ぜた塗料を塗った瓦を敷いてある。
灰にした呪符を塗料として使用することで、業火にあぶられても焦げるだけで済み、また大の男が鉄槌を叩きつけても割る事が出来ないほどの強度を、瓦に付与する事が出来る。
また周囲への危険も考慮してか、ぐるりと水で満たした深く幅の長い掘で鍛冶場を囲い込み、隣家までもたっぷりと距離が取られていた。
鶏が起きだして甲高い声で鳴き、それぞれの家屋で朝餉の為に煮炊きをする気配やもの音がしはじめた時には、すでに鍛冶場では忙しく鉄槌が振るわれ、炉では鋼鉄、銅、錫、鉛のほか、妖哭山特有の金属が高温に熱せられていた。
十人単位で踏み込み炉に空気を送り込む鞴(ふいご)と、見上げるほど巨大な炉が敷地内のほとんどを占める炉場を中心に、錬鉄衆独自の武具防具から農具に至るまでの工程ごとに区分けられた家屋が円周上に配置されている。
凛はその複数の家屋の中でも、猛獣や妖魔の牙、爪、骨、毛皮、臓腑、胆石などを加工する作業場に居た。
死後も妖気を放つ妖魔の肉体を扱うためにとりわけ念入りに清められ、家屋自体も祈祷衆渾身の妖気封じの文言が刻まれた木材で組み上げられており、中の妖気の流出を防ぐ事は言うに及ばず外からの邪気の混入も阻む空間となっている。
三階建ての家屋の真ん中の二階には、板張りの床の上にそれぞれの作業に応じて、毛皮やら茣蓙やら白砂やら砂利やらが敷き詰められていて、仕切り板で大雑把に個室に区切られた中の一つで、凛は夜明け前からある作業に没頭していた。
四畳ほどの空間の四隅に置かれていた蝋燭はとうに溶け果ててかすかに煙をたなびかせるきり。切り出した石台の上に置いた革らしい物体を、凛は千回万回もなめし、裁断し、裁縫する作業をひたすらに繰り返していた。
びっしりと邪気払いの文字を刻んだ板の上には、幾種類もの薬を入れた乳鉢や瓢箪、小壺が置かれていて、それぞれに小さな刷毛や筆が突っ込まれている。
中には厳重に蓋をしたうえで布を何重にも巻いているものもある。内容物が気化して周囲に伝播すれば、好ましくない結果を引き起こすのを防ぐための処置であろうが、それにしては凛の扱いはいささか雑であった。
一心不乱に、それこそなにかの霊に憑かれたかのように、凛は瞳を手元の革に合わせて揺らがせる事はなかった。
火や鉄といった物騒なものを扱う割には小さい凛の手には、黒曜石の様な光沢を放つ大人の男の握り拳ほどの丸石が握られている。
その丸石でもって革をなめしているようだが、時折革と丸石との間に手元の乳鉢からなにやら虹色に輝く砕いた硝子の様な鉱物らしい粉を塗して、磨り潰している。
時には鉱物粉以外にもとろりと水飴の様なゆるさの透明な液体や、青やら赤やら黒やら得体の知れない粉末を革全体に塗している。
ごりごりと硬いものを砕く音を立てながら、凛は額から滴る汗を拭いながら皮をなめす作業を繰り返す。幾種類もの粉末は丸石で潰されて混ざり合ううちに色を失って透明になり、革に艶やかな光沢の層を幾百も積み重ねて行く。
朝から既に数刻に渡って続けた作業もようやくに終わりが見えたらしく、最後に手の甲に血管が浮き上がるほど念入りに力を込めて、革をひとなめして仕上げとし、凛は丸石を傍らの台座に置いて首にかけていた手拭いで首や額の汗の珠を拭う。
その口元には困難な作業をやり遂げた達成感が笑みを浮かばせていた。晴れ晴れとした笑顔で、凛は自分が万回もなめした革を持ちあげて立ち上がる。
床の上に広げられていた革が凛が立ちあがるのに合わせてするすると引き上げられると、それは人の輪郭をなぞるものであることが分かる。
凛が昨日里に戻ってからすぐに没頭し始めた制作物の正体は、先端が手や足のそれぞれの五指に及び、首元までを覆う白い革の衣服であった。
一つつなぎのそれは背中の真ん中から左右に開く作りになっており、足から入れて全身に纏う着方をするようだ。
寸法の確かさを確かめために、凛は汗を吸ってぐっしょりと重くなっていた着物をするすると脱ぎ始める。
二階の外気を取り込む窓は髪を入れる隙間もないほどぴっしりと密閉されており、二階全体の明かりは天上に灯された橙色の蝋燭だけだが、その橙色の灯りを浴びる凛の全身は汗の珠粒が浮いている事もあって、橙色の真珠を幾万粒も裸身に散りばめたように輝いている。
腰回りこそきゅっとしまって括れを描いているが、胸や尻は起伏と呼べるだけの起伏すら描いておらず本人の密かな劣等感となっているが、引き締められた肉体には野生の躍動を秘めた溌剌とした確かな美しさがある。
凛自身の身体にぴたりとあうように寸法を取ってあるから、その寸法が正確であるのなら、この革服はなんの問題もないはずだ。
両足と両手の指から差しいれて、太もも、腰、胸、肩と通し最後に背中に手を回して開いた部分をぴたりと重ね合わせる。
するとなにか突起を引っ掛けるようなものは見受けられないが、まるで膠(にかわ)で貼り合わせたように衣服の背中がぴたりと張り付いた。ここにも山の民の世の外には無い技術が使われているのだろう。
拳を握っては開き、爪先立ちになって軽く飛び跳ね、膝を曲げては伸ばし、腰に手を当てて大きく左右にねじり、身体の動作に革服が邪魔にならないかを検査する。
革服のどこかがねじれたり、皺が寄ったりといった個所は見受けられず、凛の裸身にぴたりと張り付いたまま離れるような事もない。
また熱気の籠る室内であるというのに、熱が伝わるのも露出しているの凛の顔のみであった。伸縮性、断熱性、ともになんら問題はない。
「よしよし、これでようやく出来上がりだな。あとは……」
と満足げな呟きを零した凛が部屋の一隅に目をやれば、そこには足を折り曲げた金属製の蜘蛛の様な物体が鎮座していた。
形状と大きさは山の中でもよく見かける女郎蜘蛛などまるで問題にならない、大人の男でも一抱えもある、巨大な黒光りする鉄の蜘蛛といったところであろうか。
八つの瞳を持った頭や獲物をからめ捕り、巣となる糸を吐く尻こそないが、それは初見のものであればまず間違いなく蜘蛛を連想したことだろう。
凛がいま纏っている白い革服と、薄闇の中に眠るように鎮座している鉄蜘蛛こそが、凛が先だっての雪輝との決闘に敗れて以来、雪辱を期して作り上げていた特別な品であった。
次の雪輝との決闘まであと十日以上、時間に余裕はあるが色々と複雑な仕掛けを内包する鉄蜘蛛の扱いに凛が慣れるためにも、それくらいの時間的余裕は見こんでおかなければならなかった。
鉄蜘蛛にそろそろと手を伸ばした時、締め切った作業場の入口の外から、銅鑼を思い切り叩いた様な野蛮の見本といった声が凛を呼んだ。
声を聞いただけでも全身を濃い体毛でびっしり埋め尽くし、大岩を大雑把に人型に削ったような大男を誰もが想像するだろう。
声の主を、凛は声を聞く前から悟っていた。この世で最も凛が付き合いの長い男――父親である。
「凛、お婆が呼んでおるぞ。待たせてはならん、さっさと行けい」
腹を空かせた獰猛な熊も、度肝を抜かれてその場から退散するような声である。すぐ傍で話をされたら、鼓膜が音を立てながら裂けて耳から血が溢れだしそうだ。
凛はこの野卑野蛮の見本のような父にも慣れたもので、こちらも負けぬ大声量で怒鳴り返す。活力に溢れてはいるが美少女と評するのに抵抗の無い外見を裏切る怒声である。
「分かってらあ! 親父に言われなくたってお婆の所には顔を出す予定なんだよ!! 誰がすっぽかすもんかい!!!」
「だったらわしに急かされんようにさっさと行かぬか!!」
比喩でも何でもなく家屋全体が振動に襲われたほどの、落雷を思わせる途方もない凛の父・鋼造の怒声が凛の怒声を押しつぶした。
別の個室で作業をしていた何人かが、鋼造の叫びに驚いて手元を誤らせて、ぎゃあ、だのうげえ、だの潰れた悲鳴を上げる。
凛は幼少の頃、外を出歩いていた時に襲いかかってきた猪の妖魔が、あらん限りに声を振り絞って鋼造が放った叫びを正面から受けて、嵐の最中の落葉の様に吹き飛んで岩に激突して死んだ事を思い出した。
殺す気か、糞親父めと悪態をつきながら、凛は手早く自分が工作していた品々を手近の木箱に詰め込んでから、全身を覆い隠す白い革服の上に小袖を着こみ、さっさと個室を後にした。
今日は、まずお婆に昨日の占いの内容を確認した後、報告がてらにひな達の樵小屋に顔を出し、それから来る雪輝との決闘に備えて新しい道具の動作確認をする予定である。
「朝から親父の声なんか聞かされて、鼓膜が破れたらどうするつもりだってんだ。まあいいや、今日は色々と予定が立て込んでるし、さっさとお婆の所に行くかね」
建物を出た凛は父にうるさく言われたという事もあるが、やや小走りに足を動かし始める。
まずは昨日も訪れた山の民の里の中でも極めて特異な場所である祈祷場に顔を出し、凛は昨日頼んだ通りの答えを出してくれたお婆に礼を一つ告げて、そそくさと退出する。
雪輝はともかくとして鬼無子とひなに危難が及ぶ事を考えれば、なるべく早くお婆に教えて貰った事を伝えてやりたいという想いが、凛の足を速めていた。
ところがお婆の祈祷場を離れて数歩と行かぬうちに、ぐう、と凛の腹の虫が鳴る。革服作りの作業前に、握り飯を二つ、茶で胃に流しこんだきり、何も口にはしていなかった。
ぐうぐうと鳴り止まぬ腹をさすり、凛は予定の変更を余儀なくされた事を悟る。
「まずは腹ごなしだな」
凛の足はそそくさと実家の方へと向きを変える。なに、さっさと飯を腹に流し込めばさしたる時間はかからないさ、と凛は自分に言い聞かせた。
行く先を実家の方へと変えてまもなく、狭い里の中であるからさして時間もかからずに凛は実家へとたどり着いていた。軒先に野獣の生首やら斬りおとされた四肢、頭蓋骨を抜いた妖魔の干し首などがぶら下がっている事に目を瞑れば、一見、普通の家屋である。
開きっぱなしの戸をくぐり、凛は実家に足を踏み入れて開口一番
「ただいま! 母ちゃん、朝飯!」
とのたまった。男勝りという言葉では足りぬ伝法な凛に慣れた家族は、このような礼儀もへったくれもない凛の挨拶にも、おう、お帰り、と気楽な調子で返したきりである。
履いていた草履を乱雑に脱ぐと、凛はただいまの一言で済ませて兄弟をかき分けて無理矢理隙間を作ってどっかと音を立てて腰かけて、母の差しだした椀を受け取って朝飯の雑炊を啜りだした。
親を前にしての凛の態度には父親の方ならば黙って握り拳を振り上げて、凛に拳骨を食らわすところであるが、この母はといえばにこりと笑んで元気な様子で胃の腑を満たそうとする我が子を見守っている。
月光の下でしか蕾を開かぬ花を思わせる美しい笑みであった。
凛の母はあの父によくもまあ、と里の誰もが、それこそ子である自分たちでさえ思う眩むような色香の匂い立つ美女である。
四十を間近に控えてさすがに目尻や口元に小さな皺が刻まれているが、牡丹の花を思わせる紅色の口元にぽつんと一つ浮かぶ黒子や、涼しげに流れる目元、小袖を押し上げる豊満な事極まりない身体つきといい、山の民でなく外の者達に生を受けていればいくらでも『女』で在る事を利用して栄達を極められただろう。
紫紺地に笹の葉を散らした小袖姿は、流れる様な黒い髪に輝く簪などなくとも、花街の花魁もはっと色褪せる様な華やかなまでの艶美姿である。
よる年並みも寄せ付けぬ美貌もさることながら、山菜や茸の採取、兎や鹿、猪狩りから炊事・洗濯・子供の躾に至るまで万事をこなし、刀や槍を持たせれば同じ里の男連中がたちまちのうちに打ちのめされて重なり小山を作る力量を誇る。
細腕には下手な妖魔など素手でくびり殺す膂力と技量を併せ持ちながら、所作は楚々とした慎ましさで男を立てる事を忘れず、良妻賢母という言葉が人間になった様なおよそ欠点の見当たらぬ女性だ。
凛は微笑を浮かべながら鍋をかき混ぜる母をじっと見つめた。より具体的には着物の線を崩す盛り上がった乳房を、である。
なぜこの母から生まれた自分はこうなのか、鬼無子と出会ってからすっかり胸の内に大きく巣食うようになった想いに臍を噛んでいた。
母・たつ――たつとは龍の事に違いない、という口にする者が多い――とは、血の繋がっているとは到底見えない娘が、自分の胸を凝視しているなど露知らず、次々と差し出される椀にかわりをよそっている。
さて凛とは似ても似つかぬ母であったが、その息子達はというと三男を除いた二人の兄は、母娘とは異なりまっこと良く似た父と息子達である。
三人の兄全員が六尺を超す岩山の様な威圧感を持った体躯の主で、一番上の二十二になる剛造など、父親の若い頃瓜二つと言われているくらいだ。
唯一の例外は末弟の、凛の二つ年上の兄である三男・風太で、背丈こそ六尺越えの巨漢であるが、肉の山を思わせる兄達に比べて鞭の様に引き絞られた肉体を持ち、服を着込めば柳の様にしなやかなに映る。おまけに細面の色白い女顔ときた。
長じるにつれて女とも見紛う美貌を開花させる風太に、この子だけ父が違うのではないか、と口さがないものが本人に面と向って云った時、この風太はまだ十であったのに自分の倍もでかい大人を素手でぶちのめした気性の主である。
風太にぶちのめされた相手はその後、子らが初めて目にしたほどの怒りを見せた母たつに直談判を受けて、二度と風太を悪く言う事はなくなった。
なお鋼造も怒り心頭したのだが、自分よりもはるかに怒りを見せた妻の姿を見て、心ない言葉に落ち込む風太を慰めていた。
繊細な所があるものの、腕力を振るう事を厭わぬ烈火の如き激情を秘めた風太は、妹相手にも本気で喧嘩をし、殴る蹴る引っ掻く噛みつく頭突きと遠慮する事なく喧嘩してきた兄で、凛も一番懐いていた。
黙々と山菜の塩漬けと椎茸に干した猪肉が具になっている雑炊を啜る凛に、たつがあくまで優しい声で語りかけた。凛が急いでいる様子であるのは一目で気づいていただろうが、あくまで穏やかな母の声を聞くと、凛ももう少し話をしていたい気分になる。
「凛、今日も狼様の所へ行くの?」
夏の涼風に鳴った風鈴を思わせる澄んだ母の声に、なぜ、この母が父と一緒になる事を選んだのかと、凛は永年の疑問に首を傾げながら応じた。
父が無理に手籠めにしたんではなかろうかと、時折悩んでいるのは誰にも打ち明けた事のない凛の秘密である。
「うん。あいつに一つ忠告してやらにゃならんことがあってさ。それと母ちゃん、あいつを様付けすることなんてないって。雪輝とか狼とか銀色で十分だってば」
父に対する態度とは真逆の凛の態度であるが山の民であっても、父に対して反抗期の娘とは母を慕うものなのかもしれない。
凛は、実際には間の抜けた所があり、胸の大小を比べるなどという真似をしくさった雪輝の事を、尊敬し慕う母が様付けし敬意を表にする事が気に食わない様子。
とはいえ雪輝の本性というか、以前と比べて変化した性格を知っているのは凛だけで、他の山の民は以前の威厳溢れる雪輝のことしか知らないために、いまだにたつと同じように畏敬の念を示している。
「ふふ、そう。それにしても凛のその格好、狼様との力比べはまだ先でしょう?」
乱暴に着込んだ小袖から覗くあの白い革服を見た上でのたつの台詞に、凛はしれっと返答する。雪輝と決闘するに際して交わした約条は、里長達にも認められたものでこれを破る事は里の中で重罪とみなされる。
義理がたい娘の性格を知悉する母は、その約条を娘が違えるとは砂粒一つほども思ってはいなかったが、一応釘を刺さずにはいられなかったようである。
「その力比べに向けての準備」
ぺろりと雑炊を平らげて、凛は空になった椀と箸を返すと例の鋼鉄製の蜘蛛を収納した木箱をひっつかみ、来た時と同様に取り付く島もなしに家を後にする。
嵐の様にやってきては去ってゆく凛を、母と兄達は忙しい奴だな、と笑いながら見送った。母は娘を、兄達は妹の事を深く愛しているのだと分かる笑みであった。
*
岩壁迷宮を出て歩き慣れた山の中に足を踏み出してしばらく、凛は山の民か妖魔でもなければ気付けぬ様な、かすかな変化に気づき眼を細めて足運びを慎重なものにした。
たっぷりと水を吸い、陽光を浴びて育った木々は雄々しく枝を伸ばし、茂る緑は深いが、流れる風の中に湯気を立てるような新鮮な血潮と、既に乾いて固まった古い血の匂いが混じっている。
大ぶりの枝と枝とが重なり合って晴天を塞ぐ天蓋となっており、昼であっても山中は意外と暗い。その暗がりの中に赤く煙った風が吹いたのかと勘違いしそうなほど、濃厚な血の臭いであった。
凛とて妖魔蔓延るこの妖哭山に生まれて育った山の民の一人だ。目の前で妖魔同士の凄惨な殺し合いがはじまっても、いまさら縮こまる様な肝の持ち主ではなく、まだ足を竦ませるような臆病ものではなかったが、ふとした気の緩みが容易に死に繋がる世界で生きた経験が、凛に臆病なほど慎重になる事を強いていた。
まだ新しい足跡が柔らかな土草に点々と残り、ちょうど人間の背丈の位置で幾本かの枝が折れている。山に慣れた者が足を踏み入れたのではあるまい。
「山に慣れちゃあいないが腕は立つな」
折れた枝に隠れるように斬り伏せられていた死骸を見て凛は判断した。死骸は山のあちこちに咲き誇っている魔花が、月の明るい晩に産み落とす邪妖精の一種だ。
背丈は二尺ほどで、金色に輝く単眼、赤銅色の肌、背には蝶の羽を生やし、腰布を纏い手には刀や鉈を持つ。
邪妖精を生みおとして周囲に殺戮を振りまく魔花は、幾種類も存在しているが、この種の邪妖精は青銅の硬度を持った皮膚と、大の大人にも匹敵する膂力に背の羽によって思いもかけぬ動きを見せる難敵だ。
それが十数匹で襲いかかってくるから、並大抵の妖魔や猛獣ではまるで歯が立たない。しかし、背骨や緑色の臓腑を纏めて斬り下ろされて、紫色の血液をまき散らした姿はどうだ。
周囲に目をやれば同じように首をはねられ、胴を断たれ、零れだした長い小腸を木の枝にぶら下げている醜い死に様を晒している者がいくらもいる。
夜半に集団で襲いかかり、朝方近くまで死闘を繰り広げて力及ばずに敢え無く皆殺しの憂き目にあったということだろう。
まだ新しい血の匂いがしているという事は、ひょっとしたらまだどこかで斬り合いをしている可能性もある。
断面から滔々と血を流している生首を蹴り飛ばし、凛は耳と目と鼻と皮膚の四感覚を研ぎ澄まし、彼方の異変であろうともすぐさま感知できるよう気を張りめぐらす。
「鬼無子さんなら同じ芸当もできるだろうけど、あの人はもちっと綺麗に斬るからな。こーいう憎たらしくて仕方がないっていう心根の暗い斬り方は、心の荒んだやつの仕業だ」
そう呟いた時には、邪妖精を斬り殺した相手の正体は、凛の中でほとんど特定されていた。邪妖精の群れをことごとく斬殺せしめた力量に加えて生ある者すべてに対するかのような、切り口に残る凄まじい怨嗟の念。
大狼への恨みを募らせて現世へと帰還した怨霊たちに違いあるまい。素人目には判断のつかない斬痕の特徴からして、下手人である怨霊は同一人物と凛はあたりをつけた。
雪輝達の暮らしている樵小屋まではまだ距離のある位置だが、当所もなく彷徨うにしても数日のうちにひなや雪輝と遭遇してもおかしくない。
「これは放っておけないわな」
我ながらお人好しな、と凛が頬を歪ませて苦笑を浮かび上がらせるのと、その背後から草木の揺れる音と激しく入り乱れる剣戟の喧騒が耳朶を震わせたのは同時であった。
生き残りの邪妖精と怨霊との最後の死闘であろう。
凛はすぐに生い茂る草木の中に身を紛れ込ませる。怨霊に嗅覚があるのかは不明であったが、里を出るときに幾種類もの草花から抽出した臭い消しの薬液を全身に塗布してあるから、匂いでは見つかるまい。
獲物を狙う猫科の生き物に似た仕草で細められた凛の瞳に、死骸となって転がっているのと同じ種類の邪妖精の姿が三つと、それらに囲まれている鎧武者の姿が映る。
邪妖精は同胞を目の前で斬殺されたろうにもかかわらず怯えた様子は欠片もなく、ただただ金色の単眼には殺戮の欲望と無尽蔵の憎悪ばかりが渦を巻いている。
三匹ともが長さ三尺ほどの短槍を構えて、鈍い銀色に輝く穂先を鎧武者に油断なく向けて、隙あらば心の臓を抉るべく好機を伺っている。
三匹の憎悪の視線を浴びる鎧武者は、昨日鬼無子が対峙した槍使いの怨霊同様に全身から青白い光を発しながら、明滅を繰り返している。
その中で、纏った札状に重ね合わせた古めかしい鎧だけが黒光りし、確かな質感を持っている。顔には塗装の剥げ落ちた面頬を着けて素顔の造作を伺う事は出来ない。
右手に握る刃長四尺に及ぶ長刀身の野太刀からは、邪妖精たちの紫色の血液が滴り、血液の層が幾重にも折り重なっている事がわかる。鍔元から切っ先に至るまで紫に濡れて、一夜で数え切れぬ命を啜った事を誇っているかのようだ。
鎧の大狼の牙によって穿たれた穴や、爪で裂かれた裂け目から青白い光を零しながら、鎧武者がだらりと地に向けて下げていた野太刀の切っ先に弧を描かせて、半月を描いた切っ先が天を指した所でぴたりと止まる。
大地に根を張ったかの如き重厚な構えであった。
凡百の剣士であっても彼我の力量差から、無暗に攻め立てても難攻不落の防塁のごとき鉄壁の守りの前に敢え無く弾かれ、振り下ろされた刃で呆気なく真っ二つにされる己を想起することができただろう。
鎧武者の全身から発する不可視の憎悪が猛々しさを増し、霊子で構成される霊体の放つ青白い光は戦闘への意識を集中するかのように発光の勢いを弱めて、解放の時を待つかのよう。
風がひときわ強く吹き、周囲の木々を揺らして折り重なるように広がっていた枝葉がざわ、と耳障りな音を立てた。
地に投げかけられた邪妖精の影が動いた。
一匹は背の羽をはばたかせて空を翔け、残る二匹は地を踏み鎧武者の左右より別個に襲いかかる。
短槍というもおこがましい小振りな槍であったが、構えた邪妖精たちの醸す雰囲気は百戦錬磨の猛者のそれだ。三匹三様に襲いかかり、突き出した穂先は風を抉る速さで鎧武者を貫きにかかった。
凛が思わず、おっと一つ零したほど流れるような動きから放たれた一突きであった。分厚い毛皮と脂肪で守られた巨熊の胴も、楽々と貫く事が出来るに違いない。邪妖精の中でも相当の年月を生き抜いた古強者たちなのだろう。
邪妖精達と鎧武者の動きを一瞬たりとも見逃さぬようにと、凝と見つめる凛の瞳の中で銀の星が無数に瞬いた。
右八双の構えからの鎧武者の一刀が、空を翔けた邪妖精の突き出した槍ごと左頸部から右腰までを斜めに断ち、二つにされた邪妖精の胴体から血潮が零れ落ちるよりも早く、大地すれすれで切っ先が翻る。
飛燕の軌跡を描いて斜め下方から切り上げられた野太刀の刃が、鎧武者から見て右方より突きかかってきた邪妖精の顔面を、顎先から額に至るまで単眼を横断して斬痕を刻む。
邪妖精の頭蓋に大した抵抗を感じる事もなく野太刀は額から抜けて、虚空に紫の血飛沫を無数に飛散させる。
一つ数え終える前に斬り殺された同胞二匹に動じる事もなく、三匹目の邪妖精は容赦なく槍を突きこんで鎧武者の左脇腹を抉りにかかった。
びょう、と風を貫く音を立てた槍の穂先は一直線に狙いを過つことなく、鎧武者の左脇腹を貫いた。いや、と凛は口中で自分の考えを否定した。
貫いたと見えたのは、疾風の穂先を鎧武者がその左脇腹に抱え込んだためだ。そのまま牛の首も簡単に捻れる剛力が鎧武者の左腕に満ち、抱え込んだ短槍をぎしりと締めつけて解放を許さない。
獲物を奪われた事に邪妖精が動揺したのは一瞬の事であった。なまじ武器の扱いに長けたがために、武器に拘泥して手放す判断を下すのが遅れたのだ。
たとえ習熟した扱いを見せる短槍を失ったとしても、邪妖精の手には凶悪なまでに鋭い鉤爪が伸び、一撫でで人間の首など半ばまで切裂ける。
しかしこの場合の一瞬とは生死を明確に分けるには十分にすぎる時間であった。
刀剣の部位の中でも特に切れ味の鈍る刃の根元の部分が、ようやく短槍を手放す決断をした邪妖精の額を膂力のみを頼りに二つに割り、青色の脳味噌へと深く食い込んで豆腐を踏み潰すかのように呆気なく崩壊させる。
一撃で絶命した邪妖精の頭蓋から野太刀を引き抜き、脇に抱えた短槍を手放した鎧武者はそれでもまだ足りぬとばかりに、地に転がる邪妖精の死体に野太刀の切っ先を何度も何度も突き立て始めた。
紫の血液に塗れた桃色の臓物を飽きることなく野太刀は貫き、掻き回し、捻り、ぶつぶつと切断の音が絶え間なく周囲の虚空を埋める。
酸鼻な解体作業が開始される中、凛は舌を巻く思いであった。昨今勢力を増している対人間を想定した剣法の場合、邪妖精の様な人の腹にも届かない小さな対象を相手取るには向かない。
人間を相手に想定した場合、精々が胸の下部か腹程度までが精々だ。それゆえに頭頂が太ももに届くのがようやくといった小さな妖魔などは想定の外にあり、対人間剣法を学んだ剣士は往々にして小物の妖魔に遅れを取る事が多い。
まるでそのような様子を見せない鎧武者の戦いぶりに、凛は対妖魔戦闘を主眼とした古武者の強さをまざまざと見せつけられた思いであった。
凛が口中で苦いものを噛み潰している間、鎧武者は邪妖精の臓物を一しきり刻み、四肢を付け根から斬りおとし、それらを更に寸断する作業に移り始めた。
周囲の敵意が完全に消えた事で、鎧武者が長年にわたって蓄えた怨恨を、存分に心行くまま晴らし始めたのであろう。
おぞましい水音と生肉を千切るかのような切断音、硬い骨を丁寧に砕く音との三重奏が延々と続き、獣の解体など見慣れた凛にしても、喉奥から込み上げてくる酸味づいたものを堪えねばならなかった。
刻んだ邪妖精の死骸を念入りに踏み潰して脚甲を紫色に濡らしていた鎧武者が、錆びついた鉄の様な動きで首を巡らして、草木に紛れた凛を視線で射抜いた。
くそったれと吐きそうになった唾を呑みこんだ音か、あるいはわずかに乱れた凛の気配を敏感に察知したのだろう。
朱色の面頬の奥で光る青白い火の玉状の眼玉に、ゆらりと凶悪なものがよぎる。
肌を焦がすような灼熱を帯びた憎悪の念に、内心でうへえ、と舌を出しながら、凛はあくまでも平静の仮面を被り、鎧武者がどう動くのか息を殺しながら手足の動きの微細な変化に至るまでを観察し続ける。
仮に鎧武者の怨恨の向かう先が妖魔にのみ限られるのであれば、正真正銘の人間である凛を前にしても害を加えてくる事はないかもしれないが、それは極めて都合のよい希望的観測である。
ましてや凛の存在に気付いた鎧武者が視線と共に放射してくる怨恨に打たれて、凛は骨の髄から理解させられた。妖魔どころか数多の野の獣から大地を彩る花々、緑を茂らせる草木に至るまでこの世のすべてに対して、この怨霊の憎悪が向けられている事を。
いまはまだ自身の落命の原因となった大狼とその同類である妖魔を優先しているだけで、次に待っているのはありとあらゆる生命に対して振るわれる殺戮と暴虐だ。
こいつらを野放しにすれば雪輝やひな、鬼無子の身に留まらず山の民にたいしても大いなる災いとなる事を理解し、凛は闘争心という名の炉に次々と薪をくべて目の前の鎧武者への滅殺の意思を業と燃やす。
鎧武者が野太刀を一振りし、刃を濡らす紫の血潮を払う。びしゃりと多量の血液が大地に叩きつけられて、緑と茶の広がる大地に吐き気を催す紫の斑模様を描かせた。
右下段に野太刀の切っ先を下げながら、鎧武者は甲冑同士が触れ合う耳障りな音を立てて凛の潜む場所へと歩み出す。
向こうも殺る気だ、と分かり凛の心から躊躇や迷いといった、戦いにおいて邪魔となる感情が一切排除される。迅速な意識の入れ換えはこの山で生きるのに必須な技能の一つであった。
小さな貝殻の様な凛の唇を割って伸びた舌がちろりと唇を舐めて濡らした。
既に鎧武者と凛との距離は二間(約三・七メートル)を割っている。両者ともに一足飛びで互いの首を刈り取りに行ける距離。
先手を取ったのは凛であった。
顎先が地面に触れるほど低く腰を落とし曲げた姿勢から、凛は小袖の裾から掌に落とした小柄を、手首の動きだけで投じた。
凛の技量ならば二間の距離が開いていても、軽く杉の板の二、三枚なら貫き、百発百中の精度を誇る。
投じられた小柄は刀身を緑に塗り潰されていた。
緑色に塗装されているのは、木々に隠れた状態や舞落ちる落葉に紛れ込ませて投じることで、山を埋め尽くす緑の中に隠蔽して狙った相手に小柄の存在を気づかれにくくするための処置であった。
他にも星や月の陰った夜に用いる為に刃を黒く塗り潰した物や、予め土中に紛れ込ませて誘いこんだ相手の不意を突くために土色に塗装した物など使用する状況に応じて彩色したものを、山の民は使用している。
投じられた視認困難な処置の施された小柄を、鎧武者は虚を衝かれた様子もなく左手の手甲を左右に振っただけで呆気なく弾いた。
ききん、と連続した金属音に遅れて小柄が地面に落ちるよりも早く、凛は撓めた両足に溜め込んだ力を解放し、木の葉を散らして鎧武者の頭上へと飛びあがった。
両手を左右に開き鎧武者へと襲いかかる凛の姿は、さながらはるか頭上の高みより襲い掛かる魔性の猛禽類を思わせた。
頭上を取ったとはいえ手に何も持たぬ凛と、長刀身の野太刀を携えた鎧武者とでは鎧武者の方が有利。それに気づかぬ凛ではないはずだ。その証拠に鎧武者に飛びかかる凛の口元には必殺の意識が変じた様な好戦的な笑みがくっきりと浮かび上がっている。
白い革服に包まれているはずの凛の指先に、いつの間にか眼に見えぬほど細い糸と繋げっている指輪がはめられていた。両手の十の指先すべてに填められている指輪から伸びる糸は、小袖の内側を通じて凛の背中へと続いている。
切っ先で地を擦り、歪な三日月を描いて鎧武者の野太刀が舞い降り来る凛の下腹部を縦に割るべく天へと伸びる。
手に携える武器の無い凛にこれを防ぐ手段はない。真に凛が無手のままに無防備な姿を晒したのであったのなら。
凛の意外に細く長い指が柔らかな動きを見せるや、凛の小袖の背中が内側から弾け飛ぶように開き、そこからわずかな木漏れ日を弾く六本の足が飛び出る。
一本あたりの長さが優に八尺(約二・四メートル)にも届く、いくつもの関節を持った金属製の蜘蛛の足を思わせる物体である。その先端は人間の首をも大根の様に簡単に輪切りにできる鋭い鎌の刃を備えていた。
凛が幾日もかけて制作した新たな試作武具“刃蜘蛛(はぐも)”である。
傀儡人形を操る操り糸のように刃蜘蛛に繋がる指先の糸を、繊細極まる両方の指十本の動きの組み合わせ手によって、さながら生物のごとき動きを見せて相手を斬殺する危険極まりない仕込み武具だ。
舞い降りた猛禽が突如、切れ味凄まじい爪を備えた蜘蛛に変わる瞬間を前にしても、鎧武者は動じた様子はなく、太刀筋を揺るがすことなく野太刀を振う事に傾注していた。
「もう一回死んどきなっ!!」
自分の下半身を縦に斬断すべく迫る野太刀の脅威をしかと目に刻みつつも、凛は鎧武者の斬殺に闘志を燃やし、背から伸びる刃蜘蛛の六本足を一気呵成とばかりに鎧武者へと振り下ろした。
一つと六つと、合わせて七つの銀光と殺意とが交差する――した。
<続>
ヨシヲ様
お互い相思相愛な狼と少女なので、そう感じ取っていただけるように描写できているのなら幸いです。今後もご愛顧をよろしくお願いします。
taisa様
冷暖房兼番狼兼愛玩動物といったところでしょうか。雪輝はひなや鬼無子の役に立てて心から喜んでいるので、まったく問題は無いのです。体温が変化できるのだから、確かに体の形を変えられてもおかしくはありませんね。その内お言葉通りの段階にまで至るかもしれません(笑)
ご感想ありがとうございました。誤字脱字やこうsればより面白くなるのではなどご助言ご指摘をお待ちしております。よろしくお願い致します。
追記
いかれ帽子屋様にご指摘いただいた誤字を修正いたしました。ありがとうございます。
たつみ様にご指摘いただいた誤字を修正しました。ありがとうございます。
頂いた感想へのお返事は次話にてさせていただきたくぞんじます。