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No.19828の一覧
[0] 少女の愛した狼 第三部完結 (和風ファンタジー)[スペ](2022/01/30 08:17)
[1] 命名編 その一 山に住む狼[スペ](2010/11/01 12:11)
[2] その二 出会う[スペ](2010/11/08 12:17)
[3] その三 暮らす[スペ](2010/10/23 20:58)
[4] その四 おやすみ[スペ](2010/06/28 21:27)
[5] その五 雨のある日[スペ](2010/06/29 21:20)
[6] その六 そうだ山に行こう[スペ](2010/06/30 21:43)
[7] その七 天外という老人[スペ](2010/07/01 20:25)
[8] その八 帰る[スペ](2010/07/03 21:38)
[9] その九 拾う[スペ](2010/07/12 21:50)
[10] その十 鬼無子という女[スペ](2010/11/02 12:13)
[11] その十一 三人の暮らし[スペ](2010/07/07 22:35)
[12] その十二 魔猿襲来[スペ](2010/07/08 21:38)
[13] その十三 名前[スペ](2010/09/11 21:04)
[14] 怨嗟反魂編 その一 黄泉帰り[スペ](2010/11/01 12:11)
[15] その二 戸惑い[スペ](2011/03/07 12:38)
[16] その三 口は災いのもと[スペ](2010/11/08 22:29)
[17] その四 武影妖異[スペ](2010/12/22 08:49)
[18] その五 友[スペ](2010/10/23 20:59)
[19] その六 凛とお婆[スペ](2010/10/23 20:59)
[20] その七 すれ違う[スペ](2010/10/23 20:59)
[21] その八 蜘蛛[スペ](2010/10/23 20:59)
[22] その九 嘆息[スペ](2010/10/23 20:59)
[23] その十 待つ[スペ](2011/03/25 12:38)
[24] その十一 白の悪意再び[スペ](2010/12/01 21:21)
[25] その十二 ある一つの結末[スペ](2010/11/08 12:29)
[26] 屍山血河編 その一 風は朱に染まっているか[スペ](2010/11/04 12:15)
[27] その二 触[スペ](2010/11/09 08:50)
[28] その三 疑惑[スペ](2010/11/13 14:33)
[29] その四 この子何処の子誰の子うちの子[スペ](2010/11/20 00:32)
[30] その五 虚失[スペ](2010/11/22 22:07)
[31] その六 恋心の在り処[スペ](2010/11/29 22:15)
[32] その七 前夜[スペ](2010/12/13 08:54)
[33] その八 外[スペ](2010/12/22 08:50)
[34] その九 幽鬼[スペ](2010/12/27 12:12)
[35] その十 招かざる出会い[スペ](2011/01/03 20:29)
[36] その十一 二人の想い[スペ](2011/01/07 23:39)
[37] その十二 味と唇[スペ](2011/01/16 21:24)
[38] その十三 雪辱[スペ](2011/02/16 12:54)
[39] その十四 魔性剣士[スペ](2011/02/01 22:12)
[40] その十五 血風薫来[スペ](2011/05/25 12:59)
[41] その十六 死戦開幕[スペ](2011/02/24 12:21)
[42] その十七 邂逅[スペ](2011/03/20 20:29)
[43] その十八 妖戦[スペ](2011/03/23 12:38)
[44] その十九 魔弓[スペ](2011/03/31 09:00)
[45] その二十 死生前途[スペ](2011/05/17 08:55)
[46] その二十一 仙人奇怪話[スペ](2011/05/22 21:31)
[47] その二十二 魔狼と魔剣士[スペ](2011/06/05 20:58)
[48] その二十三 真実[スペ](2011/06/20 12:56)
[49] その二十四 別離[スペ](2011/09/02 23:49)
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[19828] その六 凛とお婆
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80 前を表示する / 次を表示する
Date: 2010/10/23 20:59
その六 凛とお婆

 太陽を覆う鉛色の雲など、この世のどこを探した所で見つけられず、天候を司る神に奪い去られたような晴れ渡った空が広がっている。
 蒼穹、と空の青を例える言葉があるが、この昼の空を見上げれば青ではなく照りつける太陽の黄金の色を思い浮かべることだろう。
 数年来山の外の世界を襲う旱魃を作りだした陽光が、忘れていたとばかりに妖魔の住まう山にも降り注いでいるのかもしれない。
 十歩と歩かぬうちにたちまち額から足の爪先に至るまで汗の珠で濡らして、恥も外聞もなく舌を出して暑さに喘ぎそうなものなのに、その女人はまるで春の風を満身に浴びているように、夏の陽光を気にも留めず颯爽と歩いていた。
 栗色の髪が在るか無きかの風にかすかにゆら、と揺れる。
 質素なつくりではあるが品の良い青色の組紐をつかい、首の付け根のあたりで大雑把に結えられているだけだが、吹き抜けた風は髪から薫る甘い香りに陶然とした心持であったろう。
 風雪を遮るもののない長旅に耐えて襟や裾の擦り切れた野袴姿であるが、それに身を包む肢体は、色街の太夫が息を呑んで羨むほどに艶めかしい豊かさだ。
 衣服の粗末さに比べて、それを纏う人間は煌びやかに着飾った都の貴人達とはまた趣を異にする気品が、目に見えぬ霧のように美貌の周囲に漂っている。
 鍛えた個所などどこにも見受けられない手弱女然とした姿であるが、腰に帯びた鉄鞘に納められた三尺二寸三分の刀と、体の中心線に鋼鉄の杭が打たれているように揺らがぬ体の重心と足運びを見れば、一角の武芸者であると同じ人種にはわかるだろう。
 御伽草子の中の姫君の如き美貌に、一騎当千の武力を秘めた妖剣士・四方木鬼無子である。
 人間を襲う事に何の躊躇いも抱かぬ野獣達や、人間の体に流れる暖かい血潮や湯気の立ち上る臓腑を好む妖魔の住まう妖哭山の山中に、ぽつねんと建つ樵小屋の前に鬼無子はおり、手を伸ばせば小屋の戸板代わりになっている鹿皮に触れられる距離で足をとめた。
 何時の頃から戸板の代わりに使われていたのかは分からないが、幾年月もの雨風を容赦なく浴びせられてきた鹿皮は、よほど巧みになめされたのか、目の前に立つ自分の顔が映りそうなほどの光沢をいまだに誇示している。
 滾る湯の中に落とされたのかと思いたくなるほどの熱に満ちた季節には、風通しの良いこの皮戸の方が都合がよいのか、鬼無子を含めた樵小屋の住人達に取り変えようという意思は見られない。、
 傷一つなく見事になめしあげられた鹿皮を改めて眺め、仕留めた猟師の腕前は相当なものだっただろう、と鬼無子はふむ、とひとつ良く意味のわからない呟きを零す。
 凛を山の民の集落への帰り路の途中まで送り届け、ここ数年来でもっとも心に安らぎを覚える場所になった樵小屋へと戻ってきた鬼無子は、鹿皮をくぐってからおや? と黒瑪瑙を象眼しても、こうまで美しくは造れまいと世の万人が感嘆する瞳を丸くした。
 常ならば、昼を済ませた後にはすぐに行動に移る活動的なひなが、細い腕を思い切り広げて白銀色に輝く毛並みの塊に頬擦りをしていたのである。
 ひなの体は、栄養失調による生育不足を数年来経験した為に、同年代の童達と比べても一回り小さい。
 その小さな体は柔らかな白銀の毛並みにほとんどすべてを埋もれさせていた。
 都の貴人たちの間で珍重される絹を夜色に染めたような髪に、幼さを十分に残す丸みを帯びた顔の輪郭、小さな体の中に一杯に詰まった活力が一目でわかる溌剌とした雰囲気と、将来の成長を見越して唾を着けようとする男には困らぬ器量を持った少女だが、夢心地と言わんばかりに頬を赤らめながら緩め、白銀の毛並みに顔を埋もれている様子からは、年相応の童女としか見えない。
 一方でひなに抱きしめられている相手は、というとこれは言わずもがな通常の狼の数倍の巨躯と、目にも眩い白銀の毛並みを持って生まれた狼の妖魔・雪輝である。
 ひなが雪輝の事を父の様に兄の様に慕うように、雪輝もまたひなのことを娘の様に妹の様に、そしてまた時には姉の様に慕っているから、ひなの細腕に思い切り抱きしめられても嫌な顔一つするわけもない。
 ひなをぱくりと丸呑みにできる大きな狼面にも明らかに雪輝は目尻をだらしなく弛緩させ、二等辺三角形の両耳や長く伸びた尾はぷらぷらと動かしながら、この狼の心情を嘘偽りなく証明している。
 一人と一頭がこの上なく幸せそうにしており、見ているこちらも微笑ましい気分になる構図であったので、気遣いのできる女剣士は声をかける事をごく自然と控える。
 雪輝は朝から彼にとって最も大切な存在であるひなの機嫌を損ねて口を利いてもらえず、ひなの機嫌が直ったと思えば今度は自業自得の感があるとはいえ、凛に容赦ない拳骨をもらうなど、良い事が無かった。
 なら、ひなの存在を全身で感じ取れるいまの状況は、雪輝にとって今日一日の内にあった嫌なことすべてを忘れる事のできる幸福が、現実になったも同然だろう。
 さて、これはもうしばらく外で待つべきか否か、しかし、あの様子では明け方までああしていてもおかしくはないか、と鬼無子が白蠟のように滑らかな眉間に思案の皺を刻んだ時、たまたまこちらを向いたひなの瞳が悩む女剣士の姿をとらえた。
 見知った姿にひなの笑んでいた顔がさらに明るく弾けた。雪輝の事はもちろん、鬼無子の事もひなは大好きなのである。

「鬼無子さん、お帰りなさい!」

 この樵小屋に戻ってくるたびに自分を迎えてくれる暖かい言葉に、意識する事もなく鬼無子の口元は弧を描き、笑みを形作る。
 無償のぬくもりと優しさで自分を迎えてくれるひなの存在が、心から愛おしい。
 ひなと雪輝に拾われて、この樵小屋で世話になる以前、お帰りなさいと言われたのは果たして何時ぶりの事になるだろう。
 鬼無子は今も鮮明に思い出す事が出来る。己の命と名と受け継いだ崩塵以外のすべてを失ったあの日の事を。
絶望と悔恨と恐怖と憤激と後悔と、あらゆる感情の渦に放り込まれて血の涙さえ流した忘れ得ぬあの夜を。
 この島国の南方を支配する朝廷の都が、夜の闇さえ焦がさんばかりに滾る炎に包まれて、炎の海の中を逃げ惑う無力でちっぽけな人々を、老若男女の区別なく平等に殺戮すべく襲いかかる異形の群れ。
 かつてこの国を統一し、月の大女神の血を引くとされる神門にして帝の首級を奪うべく、神聖不可侵の皇宮へと攻め入る反逆者達と、彼らの挙げる大気を震わせる咆哮の嵐。
 帝を、そしてこの国に生きる人々を、あらゆる人間の欲望と妖魔の脅威、異国の神々から守り抜いた矜持を捨てた憎むべき同胞。
 以前は誰よりも頼もしく愛おしかった同胞たちを迎え撃つのは、神血守護を担う最精鋭の欺衛士と、鬼無子と四方木家の所属していた討魔省の妖滅士達。
 各々が手にした刀槍を閃かせ、百年千年の研鑽によって磨き抜かれた呪術が数多の命を奪い、奪われた、あの修羅道と都が繋がったかのような闘争地獄。
 血の繋がりの全てを失い、家を失い、妖滅士としての誇りも未来も失った。残されたわずかな武人としての誇りだけに縋りつき、諸国を渡り歩いて生きたが、それは『生きている』とは言い難い日々の連続。
 なまじ妖魔の血を引き、人ならぬ異形との戦いを生き抜いた技量から、並みの達人では真剣を持って刃を交えてさえ物足りなく、持てる技量の全てを尽くす高揚さえめったに味わうことはできなかった。
 稀に出会う真のもののふとの戦いでわずかに心を慰めたとて、それも刹那に等しいごく短い一時の事。高揚が心と体から離れれば、襲い来るのは目を逸らそうとも消えてはくれぬ虚無。

――自分は何のために生きているのか、何のために生まれ、そして何を成して死ぬのか、自分が生きた証拠を、なにかの形にしてこの世に残すことはできないのか。

 月明かりだけが頼りの夜の闇の中をひとり彷徨い、眠りに落ちる寸前に襲い来る存在理由への疑問。緩やかに、しかし防ぎようのない毒の様に心を犯す寂寥に、やがて鬼無子の心は荒み、生に倦んで疲れていた。
 苗場村を訪れ、山の妖魔に村の少女が――ひなのことだが――人身御供に捧げられたと聞いた時も、幼い少女が犠牲となる事への義憤を感じはしたが、それ以上に自分の死に場所を見つける事が出来たという奇妙な安堵が心を満たしていた。
 倦んだ心を抱えたままでこれ以上生きる事には耐えられなかった。父母やかつての仲間達が先に逝った冥天へ行けば、この寂寥と虚無に別れを告げる事も出来るだろう。
 そんな考えばかりが山中を行く鬼無子の心を満たしていた事を、鬼無子は雪輝にもひなにも語るつもりはない。
 ひなを救うため大狼を討つべく妖哭山を登った時、鬼無子が真に望んでいたのは、幼い少女の救出でも残虐非道の妖魔を討つ事でもなく、自らの生の終焉だったのだから。
 しかし蓋を開けてみれば、というべきなのか、十七年の生の終わりが妖魔との戦いによるものならば、退魔を生業とした家に産まれた自分には相応しいと、揺らがぬはずの覚悟と共に山を登ったというのに、現実を振り返れば自分を迎えてくれる小さな少女がいる。
 自分の存在を無条件に受け入れてくれ、暖かな笑みを向けてくれる小さな、けれども何よりも愛おしく感じられるひな。
 人が生まれ背負った運命の何たる不可思議な事であろう。鬼無子は我が身を待ち受けていた運命の不可思議が用意していた出会いを、いまは喜びと共に受け入れていた。

「ああ、ただいま」

 お帰りなさい、と言ってくれる相手がいる事の幸福を噛み締めつつ、鬼無子は薄く笑みを浮かべて答える。
 ひなが鬼無子の事を慕っているように、鬼無子もまたひなの事を実の家族同然に愛していた。
 鬼無子の言葉に込められた愛情をひしひしと感じ、受け入れているのであろう。ただいまと言われたひなの顔にも、鬼無子同様に喜色が広がる。
 ひなの笑みが太陽の様に明るく光輝く魅力を持っているのならば、鬼無子の笑みは透き通る月光のような魅力を持ち、陽光の中にひっそりと輝いていた。
 雪輝はひなが鬼無子に声をかけるまで鬼無子の帰還に気付いていなかったのか、驚いたような調子で草鞋を脱ぐ作業に入った鬼無子に顔を向ける。
 ひなとの出会いも奇縁といえば奇縁であるが、それ以上にこの狼の妖魔との出会いは奇妙を通り越して珍妙とさえいえるだろう、と鬼無子は思う。
 この善良な狼に対する感情を、鬼無子はかなり好意的なものであると自覚してはいたが、明確にどんなものであるか、と問われるとこれは返答に窮するものになる。
 最初の邂逅で大狼と勘違いして刃を振るった事を笑って許す寛容さ、時折見せる知性に富み老成した雰囲気、かと思えばひなよりも幼いように思われる無垢な言動の数々。
 共に過ごした短い時間の間に、鬼無子は雪輝に対して十全以上の信頼を抱いているが、弱音を吐いた事もあってかどうにも彼に対して好意的である自分に気づいていた。
 これほど誰かに対して急速に好意的になるというのは、鬼無子にとって極めて珍しい経験であり、彼女自身も自分の心の変化に若干戸惑っている部分があった。
 流石に人間の異性に向ける恋愛の慕情ではあるまいとは思うのだが。
 とはいえその心の変化でなにか鬼無子に不都合な事が起きたというわけではない。鬼無子は戸惑いを表には出さずに、ひなに向けたのと同じ笑みで雪輝に向かい合う。白銀の狼はどこか消沈した面持ちであった。

「戻っていたのか、お帰り。しかし気付けなかったとは、これは私の失態だな」

 ひなに構ってもらっている最中だというのに、骨の抜けたような腑抜けた声で無い事が鬼無子には意外だった。
 雪輝はひなにじゃれつかれていたり、抱きつかれていると大好きな飼い主に甘える子犬の様になり、これのどこが山の妖魔だとつい疑ってしまうほど人畜無害な生き物と化す。
 しかし、雪輝は腑抜けたどころか、ひどく強張った声を出していた。
 鬼無子にはその理由が容易に察せられた。
 普段ならば雪輝が居るだけで、凶悪な山の妖魔もこの樵小屋を中心とした一帯に近寄る事さえ避けるが、いまは雪輝を狙う武芸者の怨霊が山の中を跳梁跋扈している。
 であるのに、心を許した同居人である鬼無子相手とはいえ、小屋に近づく者の気配に気付けなかった事は雪輝にとって、無かった事にする事の出来ない大きな失態であり、雪輝自身が口にした通りに自分自身で受け取っている。
 隠しようもない落胆の様子を見せる雪輝を、鬼無子は生真面目な所のある方だな、と好意的に解釈し、また同時にこうも素直な性分をしていると感情の起伏が忙しくて、気の休まる事が無いだろうと雪輝に同情する。
 なにしろその場その時に雪輝が抱いている感情がどんなものであるか、狼相手であるにもかかわらず、表情と耳と尻尾を見ればおおむね把握できるほど、この狼は良くも悪くも感情の表現を惜しまない。

「ただいま戻りました。それがしに気付けなかった事はあまりお気に悔みますな。敵意を発する相手にならば、雪輝殿が気を鈍らすこともありますまい。にしても、ひな、どうかしたのか? 雪輝殿に抱きついているのは珍しくはないが、昼の最中からとは珍しい」

「実は、さっき雪輝様に触れたらとってもひんやりしていて気持ち良かったんです。だからついこうしてしまって」

 ぎゅう、とまた雪輝を抱きしめる腕に力を込めて、ひなが全身を使って雪輝の存在を感じ取るように抱きつく。幼子が精いっぱいに甘えるその仕草に、鬼無子と雪輝の口元に同時に微笑が浮かび上がる。
 一人と一頭が、この少女の事を心から愛していると、一目で誰にでも理解できる笑みであった。
 思わず浮かべてしまった笑みをそのままに、鬼無子は話の矛先を雪輝に向け直して単刀直入に問う。疑問に対する答えを持っていれば誤魔化す事なく答える狼であるから、状況の把握には、雪輝に聞くのが手っ取り早い。

「ひんやり? 雪輝殿、ひなになにかなさったのですか」

「特別に何かをしたという意識はないが、川を歩いていた時に君と私が暑いも寒いもさほど感じないと話をしたのを憶えているかね?」

「ええ、お話いたしましたな。ということはひょっとしていまは涼しいようにと念じているとか?」

「左様だ。あまりひなが暑そうにしていたので涼しくしてあげられると良いのに、と考えていたのだが、功を奏したようであるな。私自身はあまり変化を感じぬのだが、いまの私はひなが言う所の“ひんやり”としているらしい」

 夏の季節にもかかわらず長い白銀の毛並みをふんわりと広げる雪輝の姿から、ひんやりと涼しげな言葉を連想するのはいささか難しい。
 この国に住まう狼と比べると雪輝の毛の一本一本はずいぶんと長く伸びており、それがまた空気をたっぷりと孕んでことさらにもふもふとした感触を生んでいるのだろうが、何もしなくても汗の珠が肌の上に結ばれるこの季節では、見ているだけでも暑苦しさを覚えてしまう。
 つい今朝がた、雪輝の毛並みの素晴らしさに魅了されたばかりの鬼無子は、これは良い口実を得たとばかりに、篝火に引き寄せられる蛾のようにふらふらと歩きだし、雪輝に抱きつくひなの反対側に回り込み、そろそろと手を伸ばす。
 雪輝の体表のみならず周囲にも気温低下の影響が及んでいるようで、雪輝に近づくにつれて気温が下がり徐々に過ごしやすいものに変わる。
 まだ誰も足跡を残していない雪原の様な白銀の毛並みを梳くように指を差し入れると、なるほど確かにひんやりとした感触だ。氷や雪というほど冷たいわけではなく、体を壊さずに夏場を過ごすのにはちょうど良い。

「ふむん、いやいや雪輝殿の毛並みの素晴らしさは相変わらずですが、このひんやり具合はまたたまりませぬな。ひなの言うとおりひんやりとしていて、夏が過ごしやすくなります」

「私自身はまり実感が無いのだが、鬼無子もそういうのならそうなのだろう。もう少し冷してみるかね」

「おっ?」

 ひなばかりでなく鬼無子にもひんやりとしていると保障された事と、毛並みを撫でて貰える事が嬉しいようで、気を良くした雪輝はさらに自身の周囲の気温を下げてみようかと試みる。
 具体的に何かをするわけではなく、単純に涼しくなれ、冷たくなれ、と重ねて念じるだけである。
 雪輝に抱きついていたひなと鬼無子はあっという間に冷えて行く雪輝の体に、口を丸くして驚いている。

「わわ、雪輝様、どんどん冷たくなってゆきますね。お身体は大丈夫ですか?」

 あまり急速に冷えるものだから、雪輝の身体に無理が生じてはいないかと案じるひなの言葉に、雪輝はなんでもないとのほほんと返す。

「私は何ともないよ。さてもう少し冷すかね」

 ぐん、とまた一段も二段も雪輝の身体が冷えて、周囲の熱を奪い去る。雪輝という名に相応しい北国の雪妖を思わせる勢いで、雪輝の身体は氷の彫像と変わったように冷たくなる。

「ゆ、雪輝殿、冷やし過ぎです。これではまるで氷です」

「ん? 加減を間違えたか。どれ」

 あまり勢いがありすぎて、肌が張り付いてしまいそうなほどに冷たくなりだした雪輝を、慌てて鬼無子が制止する。
 雪輝自身があまり暑さや寒さを体感した経験がないせいで、人間にとってどの程度の温度が心地よいものか、正確に把握できていないせいだろう。
 再び抱きつきだした頃と同じ程度に戻った温度に、やれやれとばかりに鬼無子とひながそろって安堵の息を吐いた。もう少し雪輝の体が冷え続けたままだったら、ひなの指など霜焼けを起こしていたかもしれない。

「これくらいがちょうどよいですな。しかし、ただでさえ雪輝殿の毛触りはなんとも言い難い心地よさだというのに、その上このように夏の暑さを忘れられるとあっては、離れられなくなってしまいまする」

「本当に、鬼無子さんの言うとおりですね」

 ぎゅうっと自分を抱きしめてくる二人に、雪輝はますます機嫌を良くして目を心地よさそうに細める。雪輝もひなも鬼無子も、三人にとってこの上なく幸福な一時であったろう。
 どこまでも自分達を包み込む柔らかな感触と夏の熱気を忘れられるひやりとした冷気を堪能しているうちに眠気が走ったのか、ひながうとうとと瞼を重たそうにし始めた、と鬼無子と雪輝が思った時にはすぐにすやすやと小さな寝息が零れ始める。
 一人と一頭はひなの立てる健やかな寝息を耳にしながら、互いの顔を見合わせてくすりと小さく笑い、そのまま動くでもなく言葉を交わすでもなく静かに時を過ごした。
 雪輝の生命を狙う怨嗟に突き動かされた怨霊が付近を跋扈しているなど、悪い夢の中の出来事のように、穏やかな時が二人と一頭の間で流れていた。
 雪輝と二度と離れないようにと強く白銀の毛並みを握りしめながら、睡魔の誘惑に溺れたひなが目を覚ましたのは、斜陽が世界を朱色をうっすらと混ぜた黄金の色で染め始めた時刻であった。
 ゆっくりと水の底から浮上してゆくような浮遊感と、心地よさを伴いながら目を覚ますと、ひなは樵小屋の中の陽の入り具合から自分がどれだけ眠っていたのかに気付き、はわ、と珍妙な声を一つ零して身体を起こした。
 ただでさえ寝心地の良さが度を過ぎて、抱きしめていると瞬く間に眠気を誘う雪輝の身体が、夏の熱風などどこ吹く風と忘れられる冷気を備えるとあって、ひな自身が気づく間もなく眠ってしまっていたようだ。

「あ、私、眠ってしまいましたか?」

「寝つき良く、な」

「あぅ」

 恥ずかしげに頬を自分の手で挟むひなに、雪輝は愛娘を見守る父の様に慈愛に満ちたまなざしを向けている。
 目に入れても痛くない、という喩える言葉があるが、雪輝の場合は眼球を抉られても痛くないと豪語しかねぬほど、ひなを溺愛していると、その眼差し一つで良く分かる。
 くっくっ、と咽喉の奥で小さく笑う雪輝を、ひなは珍しくも恨みがましそうに見つめる。おもしろげに笑われているこの状況は、雪輝に対してどこまでも従順な所のあるひなでも、歓迎せざるものであったよう。
 ぷくっと可愛らしく桜色の頬を膨らませるひなを見て、雪輝はますます笑みを深くし、同じようにひなもまたむぅ、と不機嫌な吐息を零す。
 このまま終わりを迎える事はなく、延々とこのやり取りを繰り返しそうになった時、雪輝の身体を挟んでひなの反対側から、うみゅ、とひだまりでまどろんでいた猫が不意に踏みつけられたような、気の抜けた妙な声が一つ零れる。
 ひなが一定の間隔で零す寝息に誘われて、すぐ後を追って同じく夢の国の住人となっていた鬼無子が一人と一頭のやりとりを耳にして目を覚ましたようだ。
 雪輝が咽喉の奥で忍び笑いを洩らす度に、鬼無子がもたれかかっていた白銀の毛におおわれた大きなお腹も揺れるから、それも鬼無子の目を覚まさせる一助を果たしていただろう。
 目を覚ました鬼無子はやや思考を寝惚けさせたままではあったが、笑みを浮かべる雪輝と頬を膨らませて拗ねるひなの様子に気付くと、即座に状況を理解したのかぱちりと瞬き一つをして、雪輝と同じように小さな笑いを零した。

「鬼無子さんまで!」

「いやはや、仲がよろしいようでなによりと思ったまでのこと。んん、しかし雪輝殿はまことに心地よいお身体ですな。これはもう雪輝殿の身体以外では眠れなくなってしまいそうで恐ろしい」

 そう口にしながらも鬼無子の腕は変わらず雪輝の身体を抱きしめており、白魚も黒ずんで見える指先は、別の生き物に変わったように白銀の毛並みをいじり続けている。
 雪輝ばかりか鬼無子にまで笑われてしまって、ますますひなは頬を膨らませて拗ねる。まったくもってこの状況はひなにとって不本意極まりないものであった。
 その一方で雪輝は、鬼無子に抱きしめられるとふよんとした柔らかい感触がするのに、ひなに抱きつかれているとひどく平べったいものが押しつけられるな、などと考えていた。
 ほんの六、七年ほど長く生きているだけでよくもこれだけ身体に変化が起きるものだと、雪輝は生命の神秘について思いをはせる。
 ただ、今考えるべきはひなと鬼無子の身体的特徴の相違などではない事を、雪輝はかろうじて理解していた。

「あまりむくれてくれるな、ひな。少しからかってしまっただけなのだからね」

 流石にこれ以上からかって機嫌を損ねては面白くない事になると、雪輝にも分かったのかひなの機嫌を取りに動いて、膨らんだひなの頬を雪輝の長い舌が舐め、次いで鼻先を寄せて慰めるために頬擦りを重ねる。
 そうまでされては、ひなも機嫌を損ね続けるのは難しく、すぐさま相好を崩して苦笑を浮かべ、頬擦りしてくる雪輝の顔を愛おしげに撫でる。

「……はい。もう、あまりからかわないでくださいね」

「うむ」

 雪輝殿とひなはこの調子で仲違いと仲直りを繰り返すのだろうな、とこの光景を眺めていた鬼無子はなんとはなしに確信していた。なんとも微笑ましい組み合わせである。



 ひなと鬼無子と雪輝とがまったりと心地よい時間を過ごしていた頃、凛は生まれ育った集落への帰路に在った。
 毒花魔草の生い茂る巨木の立ち並ぶ森の中を進み、あくまで自然の配置と見える岩や倒木が形作る迷宮を越えると、山の民が知恵を凝らして巧妙に罠を隠し里への入口を隠ぺいした一帯に入る。
 足元を埋め尽くす緑の敷布は唐突に絶えて、首を直角にして見上げなければならないほど直角に切り立った岩壁が待ち受けている。
 細く長い蔦が岩壁の表面を二重三重に覆い尽くし、絢爛な花の滝を描きだす光景は、初めて目にするのものならば思わず足を止めて、詩のひとつもしたためたい衝動にかられることだろう。
 岩壁の両端はびっしりと幹に苔を生やして緑の柱と変わった巨木の群れの中に飲み込まれ、回り込むのも飛び越えるのも到底不可能ではあるまいかと思われる。
 しかるに、凛は周囲に見る者の気配がない事を確かめてから、慣れた調子で岩壁の根元に咲いている一輪の紫陽花を目指して歩き、茹だる熱を持った風に揺れる紫陽花の根元に埋もれるようにして頭を覗かせている石をそっと押した。
 凛の人差し指が石を押し、土の下のどこかでかちり、と小さな音がするのと同時に、岩と岩とが擦れる音が低く重く響くと、凛の右手側一間の所に、縦横一丈ほどの切れ目が走りって左右に割れた。
 山の民だけが伝える奇怪な技術によって、岩壁の中に隠匿された里への入り口となる岩戸である。
 山の妖魔の豪力を持っても砕けず、また岩壁を覆う花の香りによって人間の匂いを隠匿している。一度閉じればいかように目を凝らした所で継ぎ目を見つける事は出来なくなり、山の民でもなければまず見つける事は出来ない幻の出入り口となるのだ。
 山の外の民が見れば驚嘆に目を見張る仕組みも、凛にとってはごく慣れ親しんだものにすぎず、気負う調子もなく開かれた岩戸の中に足を進めてからしばらくして、岩戸は開いた時と同様にかすかな音だけを立てて閉ざされた。
 外の岩戸が閉ざされるのと同時に岩壁の中に穿たれた通路の左右に用意された明かりに火が着いて、薄暗闇をぽうっと照らしあげる。
 皿の中に油と短く切った縄を放りいれてあるだけの簡素極まりない明かりであったが、人が足を踏み入れると勝手に火が着き、またどこからともなく油が補充され、火が着いた縄は凛の知る限り一度も交換された事が無いにもかかわらず、何の問題もなく火を灯している。
 このどこにでもあるような明かり一つをとっても、山の民の育み守り続けた技術が外の世界の物とは隔絶されたものであることは確かであった。
 どれほどの巨大さなのかまるで想像もできぬ巨大な岩を掘り抜いて造られた通路は、時に登り階段となり時に下り階段となり、螺旋を描く階段は足を進めるうちに、果たして自分が上に向かっているのか地下へと下っているのかさえ分からなくさせる。
 足を止めて注視しても分からない程度のわずかな傾斜やそこそこに蟠る薄闇などが方向感覚をゆっくりと狂わせて、道の順序を知らぬものを永劫にも彷徨わせて餓死させる迷宮を形成しているのだ。
 外からの人間の侵略者はもちろん、山に住まう数多の妖魔や猛獣の侵入をも考慮に入れて、蝙蝠のように自ら発した超音波の反響によって位置を察する妖魔に対する対抗策も備えた難攻不落の岩城でもあった。
 山の民に近しい技を持つ忍びのものや、探索に長けた呪術士を用意すればともかく、ただの雑兵や騎馬で揃えられた人間の軍勢では、一万人が十年をかけても攻略することはできまい。
 はたして幅一町、高さは三間にも届く広大な通路は、一体何を通すためにこれほど大きく採寸を取られたのか、山の民の中にも知る者は少なく、原初の祖先に問わねばその真の目的を知ることはできない。
 凛とてどうしてここまで幅も高さも、大きく余裕を持たせているのか、その理由を知らなかった。
 通路の左右に灯る頼りない明かりだけを光源にした道行きは唐突に終わりを迎えた。
 ふと気づけば静謐ばかりが満たしていた通路は突如一辺三町ほどの正方形の空間に繋がり、真正面には地上へと繋がる石造りの階段が伸びている。
 その先には外側の岩戸と同じように、仕掛けによってのみ開閉する入口兼出口となる岩戸が待ち構えている。最近諸国で流通している大砲を撃ち込んでも罅一つ入りそうにない重厚な分厚さだ。
 階段を上りきった先の岩戸の横側に置かれているいくつかの丸石を所定の手順で置き換えると、かすかに地鳴りの様な音を立てて再び岩戸が開かれて、真っ白い光が洪水のように入り込み薄暗い通路の中を暴き立てる。
 暗闇から光へと転じる変化に、一瞬目を細めて視覚が慣れるのを待ってから、凛は意気揚々と一歩を踏み出す。
 岩戸の外は里の端にある長方形の岩の内部へと繋がっていた。凛の鼻孔を濃厚な緑の匂いが満たし、風にそよぐ枝葉のしなる音、小鳥たちの交わす囀りが耳朶を震わせる。
 閉鎖空間であるにも関わらず、澄み切った空気の流れる岩壁内の通路の中には匂いというものが無かったが、生まれた時から親しんだ山の匂いを嗅ぐたびに凛は安堵をおぼえて、薄い胸中を満たす。
 思い切り腕を伸ばし、肺の中を新鮮な山気で満たすと、まるで生き返ったように新鮮な気分になる。
 見果てぬ深さの漆黒の闇と、無機質な岩壁の肩に圧し掛かってくるような重さに囲まれる通路は、山の生命力の塊の様な凛にとってはどうしても沈鬱な気持ちにならざるを得ない空間であり、そこから解放された喜びがたしかに心の中にあった。

「さてと、まずはお婆の所に顔を出すかな」

 ぴしゃりと頬を叩いて、凛は再び足を動かし始める。鬼無子と約束した、黄泉帰った怨霊たちの数や所在を、里の祈祷師であるお爺やお婆連中に問うためである。
この山の民の少女も実に律儀な性格をしている。
 妖哭山に住まう山の民“錬鉄衆”の里は、直径半里ほどの面積を巨大な岩壁に囲まれている。
 いわば菱形の山脈で内側と外側の隔離を成している妖哭山の形状を、そのまま縮小して当てはめた形になる。
 水源はこんこんと豊富な湧水を供給する泉や沼、また地下を流れる水脈によって賄われており、狭隘な面積を活かすために設けられた棚田には米はもちろんあらゆる種類の作物が実っている。
 ちょうど隔壁となって四方を囲む岩壁から里の中央に向かって窪む地形をしており、凛の居る出口からは里の全容を望む事が出来た。
 数十戸ほどの家々が建ち並び、凛の仕事場である鍛冶衆の家屋や鍛冶場が纏めて並ぶ一角では、黒煙が絶えず噴き上がっており凛が居ぬ間も鉄を叩く鎚は休むことを知らず、炉を燃やす鞴(ふいご)を踏む足も、働く事を忘れていないようだ。
 一人前とみなすだけの能力があれば十歳の頃から成人とみなされる錬鉄衆の中では、幼い頃から鉄の扱いに才覚を見せた凛は、既に十分以上の能力を兼ね備えた貴重な人材である。
 ひなを伴った雪輝との決闘以降なにかにつけて用件を見つけては、樵小屋を訪れているが、実父であり上司でもある鍛冶衆筆頭の鋼造(こうぞう)からは渋い顔をされている。
 何の変哲もない生垣や椿、桔梗、楡、ブナ、松と檜とあらゆる種類の木々や花が家の合間合間や道に生えて枝を伸ばしているが、それらもまた緻密な計算の上に配置されている。
 なんの考えもなしに足を踏み入れても、木々がそれぞれを遮り隠し合い、家の藁ぶき屋根が見えているのに、数十歩を重ねればたどり着ける筈の家にたどり着けず堂々巡りを繰り返す事になる。
 岩壁の通路も、通路を抜けた先に広がる里の道も、家々を囲む梢や生け垣もまた等しく不用意に足を踏み入れたもの全てを迷わす幻惑の迷路であった。
 しかしそれも初めて足を踏み入れる不作法者に限ればの話。凛からすれば目を瞑っていても迷うことなく里の全ての家を訪ねる事が出来る。

「おー、凛姉ちゃん。お帰りなさい」

「また狼様の所に出かけていたのー?」

「んー、ただいまぁ。おお、あの銀色ンとこだよ。相変わらず無駄にでかかったぞー」

 ぼろ布を丸めた手製の蹴鞠を蹴り飛ばして遊んでいた子供達が、凛の姿に気づいて元気よく声を張り上げる。
 性格的なものもあるだろうが、凛は里の子供たちにとって良き姉貴分と兄貴分を兼ねているようだ。
 適当に手を振り、言葉を返しながら、凛はまっすぐに道を間違えることなく祈祷師のお婆達の籠る御堂へと向かう。御堂とはいえ造りはそこらの農家とも異なっており、大人の手で二抱えもある瑠璃色の円柱に支えられた奇妙な家屋であった。
 屋根は瓦でも藁でもなく、かといって切り出した石材というわけでもない。ひどく艶やかな表面の、山の民の誰も知らぬ素材が四角錐の形で円柱の上に配置されている。
 他の山の民の家屋や鍛冶場が山の外側の民達のものとそう変わらないものであるのに対し、この祈祷場だけが特別であった。里長の伝える所によればこの祈祷場こそが里の最古の建物であり中心地であるともいう。
 唯一の入口として開かれている朱色の戸口に吊るされた板と木鎚をカンカンカン、と小気味よく凛は叩く。
 小さな頃から好奇心と行動力の塊で、里のあちこちはもちろん山の隅々にまで足を伸ばした凛にとっては、里の畏怖を集めるこの祈祷場も伺いを立てずにずかずかと足を踏み入れても問題はないのだが、それなりに年を取った今では一応、礼儀というものを考えるようになっていた。

「お婆ー、凛だよ~。入るぞ、お伺いは立てたからなあ。入るぞ、入ったぞお」

 なんともはや無作法の極まりの様な凛の言い草である。来訪を告げるや否や戸口を開いてさっさと祈祷場の中へと足を踏み入れて行く。
 祈祷場の中は記憶の物と変わらぬ青い光に包まれていた。壁どころか仕切り板や戸ひとつもない、がらんとした空間である。
 雪洞や灯篭、蝋燭があるわけでもないのに十分な光量が得られているのは、円柱や壁、床、天井を構成する構造材そのものに発光物質が含まれているからなのだろう。
 昼も夜も、また嵐が来ても雪が降っても常にこの祈祷場を包む青い光を浴びるたび、凛は身体の中の不純物や淀んだ気が浄化されたような気持ちになり、体が軽くなる。
 直径二丈ほどもある大鏡を背に、金糸銀糸のみに留まらず極彩色の糸で刺繍の施された座布団の上に、小さな小さな影が座っている。
 座布団同様に絢爛豪奢な刺繍が施された紫染めの絹衣を幾重にも纏い、鼻から下を同じ絹衣で覆った老婆である。
 糸の様に細められた瞳に、かすかに頭巾の内側に零れる白い髪の毛、膝の上で重ねられる皺に覆われた小さな手。
 背は曲がり正座していることもあって、幼子の背丈にも届かず、ともすれば置物のようにも見える。
 しかし、この今にも永劫の眠りについて昇天してしまいそうな老婆こそが、里の祈祷師衆の総帥であり、里長以上の影響力を持った大人物であった。
 凛の祖母が乳飲み子だった頃からもうこの姿で、ただ“お婆”と呼ばれていた老婆へ、凛は何を気負う事もなく呑気な調子で近づいてゆく。
 多くの里の者が無限の畏怖を向ける老婆も、凛にとっては面白い話をたくさん聞かせてくれる大好きなお婆であった。

「お婆~」

「おう、よう来たね、凛。おいで」

 どこまでも穏やかな、どんな悪たれ小僧も笑顔を浮かべて膝に顔を埋める慈愛に満ちたお婆の声であった。この声に宥められるとどんなに頭に血が上っていても、穏やかな気持ちになって心が凪ぐことを、凛は良く知っていた。
 かすかに首を上げたお婆の招きに応じて、凛はいつのまにかお婆の目の前に置かれていた座布団にどっかと腰を下ろす。
 お婆から目を離さずにいたというのに、いつ、どこから出現したのかまるで分からぬ座布団の不可思議な出現も、すでに嫌というほど体験した為に、凛は驚きの声一つ上げなかった。
 ふと鼻をくすぐる匂いに気付き、凛は眼下を見下ろせばそこには湯気を立ち上らせる湯呑が一つ。
 座布団と同様にいつどこから出現されたのか、まるでわからぬ唐突な出現の仕方である。ましてやこの祈祷場には炊事場もなく、水瓶や竈はおろか鉄釜も鍋も火種すらない。
 お婆の祈祷場を訪れるたびに供される御茶や茶菓子は、いつも目を離した隙にとつぜん自分達の手元に現れる。
一体どうやってこの御茶を用意したものか、凛はずいぶん昔に答えを考える事をやめていた。
 いくら考えても答えが得られそうにないし、出された御茶や菓子が毎度毎度ほっぺが落ちてしまいそうなほど美味しいので、まあいいかと考えるようにしたのである。
 山道と岩壁迷宮を歩きとおした凛の事を考えてか、御茶は一息に飲み干せる程度の温さで、凛はお婆の心遣いに頭の下がる思いだった。湯呑に口を着けてぐびぐびと喉を鳴らす。

「また雪輝んところに顔を出してきたよ、お婆。猿どもの騒動が終わったと思ったら、あいつ、また面倒事に巻き来れてさ」

「そうかい。狼さんは奇運を背負ってこの世に“来た”からねえ。どうしたって平穏静謐に暮らすことはできないんだよ。きっと狼さんは静かに暮らしたいんだろうけど、可哀そうに」

 そういうやお婆は、凛の気づかぬうちに用意していた自分の湯呑を口元に運び、顔の下半分を隠す口布の下に湯呑を運び、品よく一口すする。
 ふと凛は、口布に隠されたお婆の素顔を見た事が無い事に気付いた。それは凛だけでなく里の皆が同じであろう。

「ふうん。それでさ、お婆、一つ頼みがあるんだよ。聞いてくれないかな?」

「なんだい、凛の事だから狼さんと女の子と剣士さんの為のお願いかしら」

 ぱん、と両手を合わせて頭を下げる凛に、すべてお見通しよ、とばかりにお婆は布の奥の口元に三日月の笑みを浮かべて答える。

「お婆にはなんでも見抜かれているな。雪輝の奴、昔、大狼に殺された外の連中の死霊に命を狙われちまったみたいでさ。その死霊をあたしらが倒す義理はないけど、どれくらいその死霊が居るかくらいは教えてやってもいいと思うんだよね」

「ほっほっほ、凛は優しい子に育ったねえ。お婆は嬉しいよ。なら、そのお願いを聞いてあげないとねえ」

「本当? やった、お婆大好き!」

 お婆の言葉に、凛は諸手を上げて喜びを身体全体で表現する。雪輝やひなの目の前では決して見せない子供のような凛の言動である。よほどこの祈祷師のお婆に対して心を許しているのだろう。

「また星に聞くのかい?」

「さあてねえ、風に聞こうか大地に聞こうか、水に聞こうか火に聞こうか、月に聞こうか太陽に聞こうかねえ。狼さんの運命は、読むのが難しいからね。今日一晩かかるから、凛は鍛冶場にお戻り。いまごろ鋼造が顔を顰めて待っているよ」

「うへえ、親父め、相変わらず融通のきかない頑固頭だなあ。じゃあ、お婆、面倒事を頼んでごめんな。よろしくお願いします」

 座布団からぱっと立ちあがるや、凛は深く腰を折って頭を下げて念入りにお婆に頼み込んだと思ったら、さっと踵を返して祈祷場を後にする。
 すでに一人前とみなされているとはいえ、いやだからこそ鍛冶場衆筆頭である父のお叱りは容赦がないことを、凛は体験から良く知っているのだ。
 自由気ままに吹く風の様にぱっと来てはさっと居なくなる凛を、お婆は心底愛おしげに瞳を細めて見送った。あの元気の塊のような少女は、この里の者たち皆から山を愛するように慕われている。

「さて、と」

 一つ呟いてお婆はくるりと背後の大鏡へと、座布団の上で何一つ動いた様子は見られないのに、まるで氷の上を滑るようにして背後を振り返った。
 お婆の視線を受けて大鏡の鏡面に突如波紋が広がる。いや、大鏡と見えたそれは鏡ではなかった。
 波紋はうねりと共に鏡面全体に伝播し、波のように寄せては返す事を繰り返し、風の強い海の様に、大鏡の鏡面はざわざわと潮騒の様な音をたてて乱れ始める。
 まるで銀の光沢を持った水の様に流動する液体金属が、祈祷場に設置された大鏡の正体であった。
 お婆は手を伸ばすでもなく口を動かすでもなく大鏡を見つめているだけだが、それでも大鏡はなにがしかの指令を受けているのか、徐々に鏡面の乱れを鎮めて元の銀一色の平坦なものへと戻り始める。

「天外ちゃんが狼さんに変な事をしたせいで、狼さんも色々と忘れてしまっているみたいだし、これからも苦労してしまいそうね」

 この老婆、どうやら山の内側に居を構えるあの怪しい事極まりない仙人と、それなりに深い付き合いがあるらしい。ましてやその口ぶりは雪輝自身も知らぬ彼の秘密を天外と共に共有しているようでさえある。

「でも頑張ってね、狼さん。貴方の事を大好きな女の子と剣士さんの為にも、貴方はまだまだ長生きしないと駄目なんだから」

 お婆の呟きが祈祷場を満たす青い光に飲まれて消えた時、静寂の水面と変わった大鏡の中心にゆるやかに、何か人型の様な影が結像してゆき、凛の求める答えを映しだし始める。
 さあ、あとはそれをお婆が正確に読み取るだけだ。お婆は、老骨に鞭を入れなきゃね、と外見とはまるで違うおしゃまな女の子の様に自分を励ました。

<続>

感想や誤字脱字の指摘、ご助言などお待ちしております。よろしくお願い致します。


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