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No.19828の一覧
[0] 少女の愛した狼 第三部完結 (和風ファンタジー)[スペ](2022/01/30 08:17)
[1] 命名編 その一 山に住む狼[スペ](2010/11/01 12:11)
[2] その二 出会う[スペ](2010/11/08 12:17)
[3] その三 暮らす[スペ](2010/10/23 20:58)
[4] その四 おやすみ[スペ](2010/06/28 21:27)
[5] その五 雨のある日[スペ](2010/06/29 21:20)
[6] その六 そうだ山に行こう[スペ](2010/06/30 21:43)
[7] その七 天外という老人[スペ](2010/07/01 20:25)
[8] その八 帰る[スペ](2010/07/03 21:38)
[9] その九 拾う[スペ](2010/07/12 21:50)
[10] その十 鬼無子という女[スペ](2010/11/02 12:13)
[11] その十一 三人の暮らし[スペ](2010/07/07 22:35)
[12] その十二 魔猿襲来[スペ](2010/07/08 21:38)
[13] その十三 名前[スペ](2010/09/11 21:04)
[14] 怨嗟反魂編 その一 黄泉帰り[スペ](2010/11/01 12:11)
[15] その二 戸惑い[スペ](2011/03/07 12:38)
[16] その三 口は災いのもと[スペ](2010/11/08 22:29)
[17] その四 武影妖異[スペ](2010/12/22 08:49)
[18] その五 友[スペ](2010/10/23 20:59)
[19] その六 凛とお婆[スペ](2010/10/23 20:59)
[20] その七 すれ違う[スペ](2010/10/23 20:59)
[21] その八 蜘蛛[スペ](2010/10/23 20:59)
[22] その九 嘆息[スペ](2010/10/23 20:59)
[23] その十 待つ[スペ](2011/03/25 12:38)
[24] その十一 白の悪意再び[スペ](2010/12/01 21:21)
[25] その十二 ある一つの結末[スペ](2010/11/08 12:29)
[26] 屍山血河編 その一 風は朱に染まっているか[スペ](2010/11/04 12:15)
[27] その二 触[スペ](2010/11/09 08:50)
[28] その三 疑惑[スペ](2010/11/13 14:33)
[29] その四 この子何処の子誰の子うちの子[スペ](2010/11/20 00:32)
[30] その五 虚失[スペ](2010/11/22 22:07)
[31] その六 恋心の在り処[スペ](2010/11/29 22:15)
[32] その七 前夜[スペ](2010/12/13 08:54)
[33] その八 外[スペ](2010/12/22 08:50)
[34] その九 幽鬼[スペ](2010/12/27 12:12)
[35] その十 招かざる出会い[スペ](2011/01/03 20:29)
[36] その十一 二人の想い[スペ](2011/01/07 23:39)
[37] その十二 味と唇[スペ](2011/01/16 21:24)
[38] その十三 雪辱[スペ](2011/02/16 12:54)
[39] その十四 魔性剣士[スペ](2011/02/01 22:12)
[40] その十五 血風薫来[スペ](2011/05/25 12:59)
[41] その十六 死戦開幕[スペ](2011/02/24 12:21)
[42] その十七 邂逅[スペ](2011/03/20 20:29)
[43] その十八 妖戦[スペ](2011/03/23 12:38)
[44] その十九 魔弓[スペ](2011/03/31 09:00)
[45] その二十 死生前途[スペ](2011/05/17 08:55)
[46] その二十一 仙人奇怪話[スペ](2011/05/22 21:31)
[47] その二十二 魔狼と魔剣士[スペ](2011/06/05 20:58)
[48] その二十三 真実[スペ](2011/06/20 12:56)
[49] その二十四 別離[スペ](2011/09/02 23:49)
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[19828] その五 友
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80 前を表示する / 次を表示する
Date: 2010/10/23 20:59
その五 友


 中天にかかる太陽の雄大さと美しさは、夏に相応しい力強さと熱を孕んでいた。黄金の陽光を浴びて、一頭の巨大な狼の全身は燃え盛る松明の様に輝いている。
 凶悪な妖魔同士の抗争が果てどなく続き、妖の哭く声が絶えぬとして近隣の村々から妖哭山と恐れられる山に住まう狼の妖魔、雪輝である。
 川縁をびっしりと埋める石砂利を踏みしめながらも、石同士がこすれ合い軋む音一つ立てぬのは、足裏の肉球と全身を構成する筋繊維が驚くほど柔軟なのであろう。
 山の主とも称される威容を誇る雪輝の背には、この魔の住まう山には相応しくない人間の姿が一つ。
 のらりくらりと物見遊山でもしているかのようにゆるりと歩む雪輝の背に跨り、やや赤く腫れた目元を晒す、美貌という他ない白い顔立ちの剣士四方木鬼無子だ。
 雪輝の背でひとしきり涙を流し、自身の心情に一区切りを付けたようでその表には晴れやかな笑みが浮かんでいる。
 鬼無子の心に何かがあったと、精神的な成熟がいまだしの雪輝にも察する事は出来たが、鬼無子の心に要らぬ傷を作らずにそれを聞きだす事は到底できないという自覚があった為、これまで一言も鬼無子に言葉をかけずに、好きなようにさせていた。
 普段通りの鬼無子の様子に戻った事を考えれば、その選択は正しかったと言えるだろう。
 およそ他者の感情を察する事に関しては甚だ力不足の雪輝にとっては、命を拾ったのに等しい安堵感が胸中に湧きおこっていた。
 この狼が自分自身の命を極端に軽んじているのもそうだが、命を狙われる以外の経験の積み重ねがいまだに精々一、二歳の子供くらいなものだから、感情の動きが理性を容易く圧してその思考を左右するほどに大きいせいだ。
 後一年、あるいは半年ほどひなや鬼無子と暮らしていけば、人格の基礎骨格自体は出来上がっているのだから、声の響きや時折見せる老成した雰囲気に相応しい精神を形作る事も出来るだろうが、現状、雪輝はほとんど幼子と変わらない部分が精神のほとんどを占めている。
 不意に雪輝は、そういえば、鬼無子がつい先ほどまでうつ伏せのような姿勢で自分の背に倒れていた時に感じられたひどく柔らかな感触が、今は無くなっている事に気付いた。
 はて、あの二つの感触は何だったのだろうか、と頭の片隅で疑問に思う雪輝であったが、その正体にすぐにたどり着く。
 鬼無子がからりと晴れた空の様な笑みを浮かべながら体を起こしたことで、自分が“大”と評した鬼無子の豊かな乳房が離れたのだ。
 雪輝の背に倒れ込むようにして鬼無子が身を預けていた時は、ちょうど雪輝の背中と鬼無子の体の間に、豊かさも肌の張りもその形のまろびやかさにも文句のつけどころの無い乳房が挟まれて、逃げ場のない乳肉がぷにぷにと雪輝の背に押しつけられていたのである。
 鬼無子が身を起こしたことで柔らかな白い肉の双丘が離れたせいで、雪輝の背中に押しつけられていた確かな質量と柔らかさを備えた感触が失われたという事だ。
 改めて考えてみるに程よい人肌のぬくもりの乳房が押しつけられる感触はなかなかに心地よく、雪輝は気持ち良かったのにな、と心の中で残念に思わずにはいられなかったが、それを口にするとまた怒られそうな気がしたので口を噤む事を選ぶ。
 もっとも押し付けられている間は、鬼無子の様子が妙であったことから乳房の弾力を楽しむ余裕など欠片もなく、鬼無子が落ち着き払ったように見える今だからこそその様にのほほんと考える余裕もあるのだが。
 雪輝はさてなんと声をかけるかと思案する。鬼無子の胸が離れてやや物寂しいなどと素直に口にしなかっただけ、この狼も学習はしているようだ。
 乳房の大きさについて言及して凛の怒りを買ったことから、女性に対して胸の大小を口にするのは、禁句であると凛の鉄拳と怒りを引き換えにその記憶に刻みつけたのであろう。
 さて、鬼無子自身も意図したわけではなかったろうが、雪輝に対して自身の胸元で揺れる性的な魅力に溢れた乳房を押し付けるのをやめて、普段とそう変わらぬ様子に戻った鬼無子に対して、そろそろ声をかけても平気か、と恐る恐る雪輝は迷いながらも決断した。
 その視線と歩む方向は変わらず前を向いたままではあるが、病床から離れられぬ色白の貴公子を思わせる青年の声が、鬼無子の耳朶を震わせる。
 常よりも雪輝の声に力が無いのは、鬼無子の精神状態を正確に推し量る事が出来ず、要らぬ不興を買うのではないかという不安の為である。
この時、雪輝の思考の大部分を、自分のせいで機嫌を損ねた飼い主に恐る恐る近づ く飼い犬のような慎重さが占めていた。

「落ち着いたか?」

 自分の毛並みがわずかに濡れていることから、どういうわけでか鬼無子が涙を流していた、とは雪輝にも分かってはいたが、鬼無子に要らぬ気づかいをさせずに涙の理由を問うことなど到底できないこの狼は、砂で出来た橋を渡る様に少しずつ言葉を重ねる以外に、自分にできる事が思い付かなかった。

「お恥ずかしい限りです。雪輝殿、いまのこと、ひなには内緒にしておいてくだされ」

 目元ばかりでなく白磁の頬もうっすらと羞恥の桜色に染めた鬼無子の言葉に、雪輝は安堵を感じた事がぬか喜びで無かったと、大きめの溜息をそろそろと吐く。
 わずかに恥ずかしがり、口元を袖で隠しながら告げる鬼無子の様子はいささか年齢よりもあどけない仕草であったが、生まれ持った美貌と相まって艶やかな雰囲気を纏っている。
 ただしそれを向ける相手が狼の妖魔一頭きりとあっては、宝の持ち腐れというものであろう。

「恥ずかしがるような事とも思えぬが、鬼無子がそのように望むのであれば私の胸にしまい、重く蓋を重ねておくこととしようか」

「それがしにも恥を感じる心は残っております故、そうしていただけると助かりもうす」

 川のせせらぎを時折時交えながらかわされる一人と一頭の会話は、終始和やかな調子で進められた。
 生と存在を証明するようにせわしなく鳴き続ける虫の声を満身で感じながら、鬼無子が言葉を続ける。

「雪輝殿、もう疲れも取れましたので、そろそろお背中から降りようかと思いまする。足を止めていただいても構いませぬか?」

 自ら提案したものの、雪輝の毛並みに対しては大いに後ろ髪を引かれているようで、鬼無子の指は名残惜しさしかないとばかりに、白銀の毛をいじり回している。
 夜闇を映しているかのように深い黒の瞳は、涙の滴がまだ残っているのかわずかに潤み、想い人を遠くから見つめる乙女のように熱を帯び視線を雪輝の背中に向けている。
 この侍、よほど白銀の狼の毛並みに魅入られているようだ。
 そんな鬼無子の事情など露知らず。
 他者が負う苦労を気にかける事はあっても、他者の為の自分の苦労を弄う事のない雪輝は、一旦肢を止めて鬼無子への気遣いのみで満たされた青い満月を思わせる瞳を、背後を振り返って鬼無子へと向ける。

「小屋まで乗せて行っても私は一向に構わぬが」

「いえ、それではまたひなが機嫌を損ねかねませぬ。雪輝殿にとってそれは非常にまずいのではありませんかな?」

 どこか悪戯を仕掛けている最中の子供の様な笑みを浮かべる鬼無子に、雪輝は何を言われているのか今一つ理解しかねているようで、巨木の幹ほどもありそうな首を捻りながら素直に疑問を口にする。

「それはそうだが、なぜ鬼無子を背に乗せているとひなの機嫌を損ねるというのかね?」

 ひなに機嫌を損ねられる、というのは雪輝にとって白猿王の一派すべてを一頭のみで相手にすることよりも、はるかに恐るべき危難に等しい。
 ましてやそこから損ねた機嫌を取り直さねばならぬとなれば、これはもう雪輝に死ねと言っているのと同じくらいの難事である。
 その事をなによりも自分自身が理解している雪輝は、このままではどういうわけでかは皆目見当もつかぬが、一日のうちに二度もひなの機嫌を損ねる事態だけは何が何でも避けねばと、実に熱意を込めて鬼無子の瞳を覗きこむ。
 あまりに真剣な瞳を向けられて、鬼無子は珍しく狼狽したように視線をあたふたと虚空に彷徨わせた。
 かような態度は、鬼無子の自分の秘しておきたい弱い所を露呈した事や、共に過ごした穏やかな日々が、妖魔の血を引く女剣士の雪輝に対する感情に、さらなる好意的な変化を齎している証明の一端であろう。
 あるいは、鬼無子の中の妖魔の血肉が強力な妖気を放つ同胞である雪輝に対して魅かれるものがあったのだろうか。

「まあ、ひなの気性であればそれがしが負傷したか、あるいは疲労していたというならば納得はしましょうから、万が一という程度の可能性ですよ。ひながなぜ機嫌を損ねるかもしれない、という問いの答え、こればかりは雪輝殿がご自身で答えを見出さねば意味がありませぬ」

「私には千人の賢者を集めても答えを得られぬような難問に思える」

「ふふ、そうですな、今の生活を続ければそのうちに意識せずとも理解できるようになりますよ」

 鬼無子がそう保証してはくれたものの、雪輝にとっては言葉通りの難問と感じているようで、声音には幾分かの諦めと途方もない難行を前にした憂鬱とが混じっている。
 これ以上鬼無子とひなの機嫌に関しての話題を続けても自分には、自身が望む答えを見出すことは不可能だろう、と雪輝は不毛と判断した。
 ため息にも似たものを一つ小さく吐いて、雪輝が鬼無子に声をかける。

「とりあえず鬼無子を降ろすとする。降りる時に足など捻らぬようにな」

「それがしの身を慮っていただけるのはありがたいのですが、さすがにそれがしもそこまで迂闊にはできておりませぬよ」

 雪輝は背の鬼無子に極力揺れを伝えぬように、細心の注意を払いながら肢を折ってその巨躯を腹ばいの姿勢に変える。
 一方的な母の愛にも似た暴力的な陽光を浴びて熱せられた石の上に腹を着けても、雪輝には特に熱を感じた様子は見られない。
 鬼無子に伝えたように寒暖を感じる前に、美麗な色彩の総身から発している妖気を用いて、自然と周囲の気温を吸収・排除して調節している可能性も馬鹿にはできない。
 御免、とひとつ断り雪輝の背から降り立つ鬼無子の動作は、仮に川面に揺れる船の上に降り立ったとしても、羽ばたく事に疲労を覚えた蝶が船縁で羽を休めた程度にしか、船を揺らすことはないだろうと思えるほどに軽やかだ。
 雪輝の傍らに降り立って、鬼無子は体の調子を確かめるように手足を数度動かしてから、雪輝に声をかけた。

「雪輝殿もそうですが、ひなもまだまだ自身の感情と折り合いをつける事に不慣れな様子。すれ違いや勘違いのせいで幾度か失敗をする事もありますでしょう。けれどもお互いがお互いを想い合っている事を忘れなければ、お二人が仲を違える事はありますまい」

「そこまで鬼無子に言ってもらえるのならば心強い事だ。もうひなの方は昼の支度を終えているようであるし、小屋に戻ったら動いた分を腹に入れておくと良いだろう」

 やや顔を上向かせた雪輝の鼻先が一、二度ひくりと動いて風を友として流れてきた匂いを捉えた。
 雪輝も良く慣れ親しんだ土と緑と石と虫……と山の中に満ちている生命達が醸す幾重にも折り重なりあった複雑な匂いの中に、樵小屋の中で煮炊きされている粟や稗、朝に採っておいた黒松露を刻んで入れた雑炊などの匂いが混じっている。
 雪輝が樵小屋を後にしてから、鬼無子の様に武芸者の死霊に襲われた、というような最悪の展開は避けられたようである。
 ひなと比べて身体が成熟している事もあるだろうが、ずいぶんと食べる傾向のある鬼無子の事を考えて、ひなは相当量を用意していることだろう。
 雪輝の背筋の辺りを右手で撫でていた鬼無子も、自分の腹具合に今気付いたようで、また恥じらいを一つ白皙の美貌に上塗りして、微笑する。
 腹の虫が鳴かなくて良かったと、鬼無子が心中で零した事を雪輝は知らぬ。

「そうですな。しかし、野良仕事を手伝うだけで三食寝床が保証されている生活では、それがしの腹に余分な肉がつきそうで恐ろしいものです」

 と、鬼無子は本気なのか冗談なのか分からぬ口ぶりで自分のほっそりとした腰のあたりに手を添えた。
 くっきりとくびれを描く女性の腰を蜂腰というが、まさに鬼無子の腰が描く線がそれだ。衣服ごしにも滑らかな曲線を描く鬼無子の艶めかしい身体つきを見れば、世の多くの女性が羨望と嫉妬の視線を向ける事はまず間違いない。
 その本当に内臓が詰まっているのかどうかさえ怪しい細腰に、よくもまあ、あれだけの食物が入るものだと、雪輝は半ば呆れながら食事のたびに感心している。
 この時代、この国においては平民や武士階級でも下位の者では、基本的に朝と夕方の一日二食である。昼に何か口にするにしても、精々朝食の残りか漬物の品を変えるか一品足す程度が精々といったところである。
 そういった一般的な食糧事情に対し、ひなと鬼無子の食生活はというと、人身御供に差しだされた少女と才覚を捧ぐ主を持たぬ素浪人という身の上を考えれば、ずいぶんと恵まれたものとなっている。
 もし食事をするとしたならもっとも多量に食物摂取を必要とするであろう雪輝が、一切食料を必要としない事もあるが、凛と雪輝との賭け試合で得られた粟や稗などの雑穀、米、塩、味噌といった食料が多量にあり、また一ヶ月後の再試合に雪輝が勝利すれば再び手に入れられるとあって、ひなが食材をケチらないのだ。
 近くの川では雪輝と沢爺の協力でいくらでも新鮮な川魚が手に入るし、山はどこを歩いても採取しきれないほど山菜や茸が足元を埋め尽くし、季節の果実が重く枝をしならせている。
 樵小屋のある広場を耕して作ったひなと雪輝合作の畑の方も、手入れが程よく行き届く広さに留めてあるが、小麦、大麦、米、粟、稗、茗荷、胡瓜、茄子、赤茄子、玉蜀黍がゆくゆくは実りを迎えることとあって、食糧事情の先行きは明るいものといってよい。
 ひなが内心で思い描いている食料確保の計画は、雪輝が凛との賭け試合に勝ち続ける事が前提である為、念のためにひなはそう遠くないうちに畑の規模を広げて、雑穀なり米なりを拡充して完全に自給できるようにしなければと考えていた。
 負傷の快癒した鬼無子も下手な農民の五人や十人にも匹敵する体力と膂力の主とあって、本人の謙遜とは別に畑仕事や野良仕事などに大いに役立っている。
 諸国を回る中、雨宿りをする為に農家の軒先を借りた時や、食べ物を恵んでもらう時にたびたび農作業を手伝った経験があるそうで、鍬を振るい、種を蒔く鬼無子の手際はなかなかのものだった。

「痩せ細っているよりもいくぶんかふくよかな方が健康的であると私は思うが、人間はそうでもないのかね?」

「一度付いた余分な肉はなかなか落ちませぬから、気にする者は気にするのですよ。雪輝殿、よいですか。ひなに対して痩せたか、と問うのは構いませぬが太ったか、と聞いてはなりませぬ。凛殿に対しても無論ですし、できればそれがしもその様な事を口にされるのは心外ですので、ご遠慮願いたい。少なくとも今日、これ以上ひなの機嫌を損ねたくないのであればしっかと肝にご命じあれ」

 痩せたか? と聞くのは良く、太ったか? と聞いてはならない理由は、雪輝にとってこの後も長く頭を悩ます新たな疑問となるのだが、鬼無子の口調が至って真剣に雪輝に忠告する様子だったので、この時は反論も質問もする事なく首を縦に振った。
 こういった場面ではまっこと素直な狼である。

「人間とは難しいものよな」

 理解できぬよ、とばかりに首を横に振るう雪輝を慰めるように鬼無子は軽く雪輝の首筋の毛並みを叩いた。
 たっぷりと空気を含んでふんわりとした感触の雪輝の毛並みは、慰めの為に叩いた方の鬼無子が逆に慰められるかのようでさえある。
 鬼無子の頬が毛並みの感触に緩む。

「とりわけおなごは、同じ人間の男であってもその心の動きを推し量るのは難しきこと。ひなの事を理解したいという雪輝殿のお気持ちはお察しいたしますが、焦っても良き結果にはなかなか繋がりませぬ。今後も雪輝殿はひなと共に長い時間を過ごす事でしょうから、木々が育つようにゆるりと互いを理解し合うのがよろしいかと、それがしは愚考する次第です」

 鬼無子の言うとおりに事を急いで頭を働かせた所で、所詮妖魔に過ぎないこの身に人の心を理解するという難事に対して、一筋の光明を見出すことでさえ容易でないのは事実だろう。
 であればやはり時間をかけてひなと自分とがお互いを少しずつ理解し合い、お互いの心を酌み、想えるようになってゆくしかないのかもしれない。
 雪輝にとってひなとの暮らしを始めてから、お互いがお互いの事を想い、歩み寄って理解しあってゆくことへの喜びは何物にも代えがたいものであるから、考え方を変えれば望む所でもあった。

「鬼無子の言葉は何時も傾聴に値する。私の心に重く留め置くとしよう」

 雪輝の言葉には心の底から鬼無子の言葉を頼みにしている事への感謝と、心強さが感じられて、鬼無子は、いやはやと妙な答えを返しながら、照れくささに鼻の頭を一つ掻いた。
 時折見せる所作には武家の生まれというには民草とそう変わらぬ伝法なものが混じっているが、この美女が行うとどことなく気品の様なものが感じられ、それが正式な作法であるかのように感じられるのだから不思議だ。
 一頭と一人は歩くのを再開するが、新たに話題となったのは鬼無子が相対した死霊についてであった。出来れば凛もこの場に居り、まとめて説明していた方が手っ取り早くはあったろうが、これは仕方がない。
 人間の死霊とは牙を交えたがことが無いという雪輝の為に、鬼無子は自身の経験と一族が収集した人間の死霊の実例などを上げて、対処法などを伝授する。
 両鎌槍を携えた死霊の直接の狙いが雪輝に在ったことは確かであったが、それを邪魔するものがあれば容赦なく兇刃を振るう見境のなさを備えているのもまた事実。
 ひなが巻き込まれる可能性は、白猿王との戦いの時よりは低いとはいえ、在る程度の知恵を残した個体がいて、ひなの存在に気づいて人質にしないとも限らないのが悩みの種だ。
 自身だけに被害が及ぶのならともかく、ひなや鬼無子にまで害が及ぶかもしれぬとあって、鬼無子の言葉に耳を傾ける雪輝の様子は常よりも真剣なもの。

「かつてこの山で大狼に返り討ちにあった武芸者のすべてが死霊と化したとは思えませぬ。人間の霊魂が憎悪や怨恨に塗れた死霊へと堕落するには、それこそ何百人分もの恨みが一つに凝縮されるか幾十、幾百年もの歳月を経るのが一般的なのです。この山が妖魔の気と豊潤な天地の気に満ち溢れており、魑魅魍魎の類を生みだしやすいとはいえ人間をそうやすやすと怨霊に変える事はできますまい」

「しかし、私が大狼を滅ぼすまでの間にどれだけの人間が大狼の牙に命を奪われたのか分からぬ。ひながここ十年は山に登った人間はいなかったと言っていたが、それでも過去に相当数の命知らず達がこの山に挑んだはずだ」

 ひなや鬼無子は雪輝の庇護下に在る為、さほど実感してはいないが、妖哭山外縁部に位置するこの周囲でさえ、通常の野犬や熊などを数割上回る巨躯を誇る野獣どもが闊歩し、また人間の二の腕くらいある吸血蛭の大群や一丈(約三メートル)ほどの大百足に、脚の長さが三間に達する有毒の大蜘蛛などの魔虫がひしめいている。
 昆虫や動物ばかりでなく、可憐に咲き誇って見える花々の中には夜になれば黄金の花粉を風に流し、吸い込んだ獣の体内で蕾を根を巡らせて、獲物の体液を吸い取り花を開かせる吸精花などの人間をも餌食とする食人の草花や木も存在する。
 ある種の花は月光を浴びている時にだけ、その花弁から花の化身たる邪妖精を生みだして、自らの糧となる獲物を襲わせる。
 この身長一尺ほどの邪妖精たちは手に手に槍や刀を携えて、紫色の肌と鋭い牙に色鮮やかな蝶の羽を持つ。
 風に揺れる花弁の子宮より生まれ出た彼らは、夜行性の動物たちや眠っている獲物に襲いかかってまずはその息の根を止めてから血を啜り、肉を骨から剥いで咀嚼し、残る骨や毛皮も余すことなく胃の腑に収め、生まれ出た花に戻る時にその花の栄養とするのだ。
 山の外の世界であれば、家の中で一抹の寂寥を慰める華やかな色彩となり、あるいは黒髪に挿された可憐な髪飾りともなる花ひとつをとっても、この山では生命を脅かす侮れぬ脅威なのである。
 魔を退け滅する職に在った鬼無子や、母の腹の中に居た頃からこの山に住む凛はともかくとして、おそらくこの山の中でも最底辺に近い非力なひなが、五体満足に暮らしてゆく事が出来るのは、その身に雪輝の妖気が染みついているのと、雪輝の行動範囲の中に危険な妖魔や獣が入ろうとしない為だ。
 善性を帯びて生まれ、また食事を必要とせず、発生してから一度も兎や鹿、猪の類に牙を突き立てた事のない雪輝であったが、強力な妖気と狼の容姿が相まって、野の獣のみならず外側の妖魔達からは極力目にする事すら避けられている。
 その雪輝の妖気を全身に纏っているのだから、いかに見た目が無力で美味そうな人間の童女とはいえ、内側の凶悪極まる妖魔連中ならともかく、外側の妖魔程度では雪輝と敵対する危険を冒してまで、ひなに悪意を向ける種はまずいない。
 故に、ひなにとってこの山は腹を満たす事や咽喉を潤す事には困らぬ恵みの山なのだが、そうではなかった過去の武芸者達にとってみれば、討つべき大狼以外にも昼夜を問わず襲い来る妖魔や、他の土地の個体に比べ巨大化凶暴化している野獣との戦いは熾烈を極め、落命した者もさぞや多かったことだろう。
 おそらくは本命である大狼と対峙することなく命運尽き果てた猛者も少なくはないはずだ。
 そういった事情を鬼無子は在る程度理解しているようで、雪輝に対してこう答えた。

「大狼に殺された者たちだけが怨霊と化しているのならば、まだ数は少のうございましょうが、山そのものに殺された者達まで含めるとなると、ずいぶんと多くなる事でしょう」

 おそらくは、鬼無子のこれまでの人生の中でこの山のように人間の住む世界から外れた暗黒と恐怖に彩られた妖魔の領土となった深山幽谷や、得体の知れぬ怪異の満ちる土地などに足を踏み入れた事があるのだろう。
 山そのものに殺された、と語る鬼無子の口調には確かな実感が伴っている。

「また、それがしが刃を交えた御仁は相当な腕前でしたが、近しい技量の武芸者が多人数、この山の中を闊歩しているとあればこれは由々しき事態となりましょう」

 あの槍を携えた怨霊を、“御仁”と評したのは鬼無子なりに敬意を払っての事であろう。たとえ汚れた怨霊に堕ち果てた相手であっても、生前は自分と同じ武の道に生きた先達に対する礼儀に相違ない。

「数日は様子を見るのが最善――とまではいかぬがそれなりの好手であるかもしれんな。私を探し求め兇刃を振るう事を厭わぬ凶悪な性と変わっているのならば、山の妖魔どもと一戦交えずに済ますことはできまい。早ければ一日と立たぬうちに断末魔が私の耳に、血風が私の鼻に届く事であろうよ」

「それがしとしましても雪輝殿の聴覚と嗅覚には全幅の信頼を抱いておりますが、そういえば天外殿はこの事態を把握していらっしゃるのでしょうか? 仙道の中には千里眼という千里の果てまで見通す術を会得している方もおられるとか。そうでなくとも今後の吉凶を占って頂くのもよいのではありませぬか」

 数日ぶりに耳にした天外という単語に、雪輝は狼面にも明らかな嫌そうな顔をした。これほど雪輝が他者に対して苦手意識を出すのは天外だけだから、その感情を隠さぬ童子の様な所作に、鬼無子はくすくすと小さな鈴を転がしたような笑みを零す。
 雪輝自身も、自分の態度がそのような物笑いの種になってしまう事への自覚はあるのだが、いかんせん、明確に意識を持って初めて接触した相手である天外に、在らぬ事を吹きこまれ、騙くらかされた記憶が拭えず苦いものが顔に出てしまうの抑えられない。

「アレがそれほど高尚な存在とは思えぬな。それにあ奴の関心は専ら山の内側に在る。仮に外側の山と森が全て炎の海に飲まれようとアレが関わろうとするとは思えぬ」

「しかし、天外殿は雪輝殿には良くも悪くも、ではありまするが、関わりをお持ちでいらっしゃいます。その雪輝殿の生死に関わる一事であるならばなにがしかの動きを取られるのではないですか?」

「どうだろうな。これ幸いとばかりに私の毛皮を敷きものにして内蔵や肉を鍋にでもするのではないかと私は踏んでいる」

「牡丹鍋や桜鍋ならそれがしも知ってはいますが、狼鍋ですか……」

 鬼無子の頭の中では巨大な鍋の中に四肢をぶつ切りにされた雪輝の生首が、野菜や茸、豆腐と白滝やらと一緒に煮込まれている想像図が描かれていた。
ひながそんなものを目撃しようものなら、その場で卒倒して、目を覚ましたら即座に雪輝の後を追って自殺しかねない。
 雪輝は割と冗談ではなく本気でそう思っている節が見られるが、いくらなんでも、と鬼無子は思う……のだが、あの皺まみれの皮膚だけで全身を形作っているような自称仙人の老人には本当に実行しかねないと思わせる、負の方向での人徳めいたものがある。
 もしそうなったら、恩人――というべきか恩狼というべきか――である雪輝の為にも、また実の妹の様に可愛がっているひなの為にも、鬼無子は一命を賭して天外と剣を交えるしかない。
 鬼無子がその様な不吉な未来予想図を描き、非壮といえば非壮なのだが若干ずれた覚悟を抱いているとは知らず、雪輝は常々天外に対して抱いていた疑問を口にしていた。
 
「あ奴は生臭も躊躇いなく口にするからな。仙道とは霞みだけを食べるのではないのか?」

「はて。時に酒や茶を好む方もいると耳にはしましたが……。仙道を自称する妖怪変化の場合には人肉などを好む事もあるようですが、人間の仙人や道士が獣肉を口にするとはとんと耳にした記憶はありませぬ」

 いわゆる仙人・道士は大別して人間が修業を経て至るものと、石木や獣などが歳月を経て至る二種が存在する。
 人間から至った者は往々にして世俗の欲望を拭いきれぬものや、酒、色、賭けごとに溺れて堕落する者がおり、妖怪変化から仙道に至った者には至る以前の本能や衝動を抑えきれず、血肉を好む者や性情が冷酷である者が多いという傾向が存在している。
 世俗とは隔絶された存在である仙道の詳しい事情までは、流石に博識と言えるだけの知識を持つ鬼無子でも知らぬ所ではあったが、天外の性格や行動が一般的な仙道の言動や在り方から著しく外れているのだけは確かであった。

「まあ、天外の事は極力宛てにせぬよう心掛けておいた方がよいだろう」

「そうですな」

 結局、そういう結論に落ち着いた。
 天外ははなはだ信頼されていなかった。



「上手に炊けました!」

 というのが、樵小屋に戻った雪輝と鬼無子に告げられたひなの元気良い第一声であった。
 鬼無子の荷物捜しをしていた時に籠が一杯になるくらいに取って黒松露をふんだんに使った茸雑炊と、茸汁、炙った山女、それに塩漬け胡瓜と赤茄子が食卓に並べられ、湯気を立ち上らせている。
 無言のうちにひなの護衛を引き受けていた凛は、腹の虫が先ほどから盛大になっているらしく、黒松露の濃厚な匂いに鼻孔をくすぐられて食欲を大いに刺激されており、はやく食べたいと顔いっぱいに書いてある。
 ひなの浮かべる満面の笑みからして食材の火の通り具合は満身の出来なのであろう。雪輝はなにも口にせず見守るだけなのだが、ひなの嬉しそうな様子を見ただけで喜びでお腹を一杯にする。
 鬼無子も天賦の才を磨いた画人が入魂の筆で描いたような美貌を裏切る大食いであるため、舌と腹と胃の腑を楽しませてくれる味を想像して、今にも大輪の牡丹を思わせる艶やかな唇を舌なめずりしそうな様子。
 鬼無子は腰に手挟んだ崩塵を黒鉄の鞘ごと抜き、草鞋と足袋を脱いで予めひなが用意しておいた水の張られた桶に足を着けて拭う間も、茸雑炊の事を考えているらしく、一連の動作は急かされるような忙しさだった。

「なんとも魅力的な香りですな。黒松露と言えばやや時期は過ぎておりますが、一寸ほどの大きさでも高値で取引される食材。いやあ、よもや山暮らしでこれほど大量に口にできるとはそれがし、思いもよりませなんだ」

「ほう。この黒いのがか。このくらいの大きさではさして腹も膨れまいに」

 掌の上で簡単に転がせる程度の大きさの黒松露が、価値あるものとして高値で取引される事が、雪輝には不思議なようだ。

「そうそう手には入りませぬし、量ではなく香りを楽しむ食材なのですよ。それにこれを欲するような方は餓える事とは無縁の身分の方々ばかりですし」

 鬼無子の説明に山の外の世界に対する知識が欠乏している凛は、へえ、と口を丸くする。
 この山では簡単に見つけられる食材の一つに過ぎず、春から初夏にかけて頻繁に口にする機会に恵まれているので、価値があると言われてもピンとこないのである。

「需要に対して供給が追い付いておらぬという事か。麦や米の様な主食ではなく嗜好品の類であるのかな。そのうち、暇を見つけて麓の村にでも売りに行くのも良いかもしれぬ」

 山生まれの山暮らしである雪輝や凛にはいまひとつ実感しがたいのであるが、彼らがしょっちゅう目にしては手に取る薬草や果実の中には、外の世界で極めて希少なために価値のある品が多く、雪輝の半ば冗談の提案も実際にはそれなりに有用な提案であった。

「あんまり派手にはやるなよ。あたしらだって外の連中と取引していろいろ生活の役に立つモン手に入れてんだからな」

 と、凛が一応山の民としての自覚から、雪輝に釘を刺す。山の環境では得難い塩や海産物、絹や麻、木綿といった衣料のほか、山の民が外の世界から得ている物品はそれなりにある。
 雪輝達だけではさしたる取引量にもならぬであろうが、念には念を入れて注意くらいはしておいた方がよいだろう、という凛の判断だ。

「雪輝様、凛さん、鬼無子さん、お話はそれくらいにして早く召し上がってくださいな」

 せっかく会心の出来の料理が冷めてしまいそうで、ひなが慌てて話し込み始めた二人と一頭を取りなした。
 ひなとしてはいまの暮らしに対してなんら不満が無いため、外の世界との取引で何かを欲するという発想が出てこず、雪輝の提案にもさして意見はない様子であった。
 この時の雪輝の提案を真剣に考えるようになるのは、ひなの体が成長期を迎え、今の着物などが合わなくなり始めてからのことになるだろう。
 腹を空かせているのは雪輝以外全員の共通項であるので、自分達の空腹を思い出して、即座に雑炊の鍋が掛けられている囲炉裏の周囲に腰を下ろした。

「腹が減っては戦はできぬと古人も言っておりまする」

「早く食おうぜ」

 いっそ気持ちの良いくらいの鬼無子と凛の切り替えの速さであった。
黄泉より帰参した死霊たちへの危惧など欠片もない様子に、雪輝はまあなんとかなるだろう、と気楽に構えている。
 雪輝の能天気さは死んでも直らぬかもしれぬが、それにしても当面の危機よりも食欲を優先する鬼無子と凛もまたお気楽というべきか、豪胆というべきなのか、なんとも判じ難い所である。



 鍋の中が綺麗に空になるまでたっぷりと平らげた凛は、当初の投げ刃を鬼無子に返却するという用事も済んだとあって、昼飯の礼を告げて樵小屋を後にする旨を告げた。

「ではそれがしが途中までお送りいたそう。これからも時々研ぎを頼むやもしれませぬし」

 そう口にして鬼無子は、傍らに置いていた崩塵を鉄鞘ごと再び腰に差して立ち上がる。
 筒袖の腹のあたりが膨れてもおかしくないくらいに雑炊を胃の腑に収めたはずなのだが、外から見る分には何の変化もない。
 おそらくいくら食べても太らず、またどれだけ鍛え上げても体の線が変わらない体質なのであろう。
 物語の中の姫武者の如き凛とした美貌もさることながら、その体質でも世の女人の恨みを買いそうな鬼無子であった。

「大したおもてなしもできずに済みません」

 と頭を下げるひなに、凛はひらひらと手を振る。

「なあに、腹いっぱい食べさせてもらって文句なんかあるはずないだろ。それにひなの作る飯は不思議とうまいからなあ。戻ったら鍛冶仕事に精が出るってもんさ。またなにか用が出来たら足を運ぶから、その時はよろしくな」

「はい。明日でも明後日でも、いつでも歓迎いたします」

「ひなは本当にできた子だよ」

 よしよしと凛はひなの頭を優しく撫でる。特別な手入れをしているわけではないだろうが、凛の指に触れるひなの黒髪は驚くほど滑らかな感触だ。
 板張りの床に腹と肢を降ろしていた雪輝も顔を向けて、凛に別れのあいさつを口にする。とはいってもなにかと用を見つけては、凛がここに顔を見せるので、さほど別れという気にはならない。

「お前なら万が一ということもあるまいが、気をつけて戻るように」

 鬼無子が刃を交えた怨霊の狙いが雪輝である以上は、凛に害が及ぶ可能性は少ないはずではあったが、怨恨に塗れた怨霊の思考など正確に推し量れるわけもなく、凛と怨霊が激突しないとは言い切れない。
 純粋に凛の身を安堵しての雪輝の言葉ではあったが、滝壺の一件がどうにも凛の中で尾を引いていたようで、雪輝に返されたのは歯を剥く凛の形相であった。
 腹が膨れて凛の機嫌も治まっただろう、と油断していたから雪輝はううむ、と唸る。そこまで怒らなくても、と思うのだが悪いのは自分であると鬼無子にも言われているので反論のしようもない。
 しょぼくれる雪輝の事は放っておいて、小屋の外に出る凛の後に続き鬼無子も苦笑を浮かべながら

「では、すぐ戻って参りまする」

 と一つ言い置いて踵を返した。
 鬼無子を待たずに足を進めていた凛の小さな背に、ほどなく鬼無子は追い付いて肩を並べる。
 それにしても年齢が一つしか変わらないにしては、背丈や乳房、尻の生育具合にあまりに差のある二人であった。
 出る所は出て凹む所は凹む鬼無子に対して、凛の体つきはといえばほとんど起伏の見られない平坦なものである。鬼無子はこれでも晒布を巻いて、刀を振るう時邪魔になる豊乳を押さえつけているというのにも関わらずだ。
 これでは互いの体つきを比べるなという方に無理があるだろう。
 少なくとも鬼無子の方はお互いの身体つきの哀れなほどの違いを意識した様子はないが、自分の傍らを歩く鬼無子の横姿をちらりと盗み見る凛の顔は、渋柿を思い切り頬張ったよう。
 誰かの目が無かったら、自分の胸に手を置いて山を描き、その落差に嘆きをたっぷりと貯め込んだ溜息を吐いていたかもしれない。

「食い物の違いか? それとも侍と山の民は違うのか? いやしかし、胸の大きい女は村にもいるし……」

 新しい武具の発想が思い付かない時と同じくらいに深刻な様子で悩み、ぶつぶつと漏らす凛の姿に、さすがに鬼無子も訝しんだようで、凛の顔を覗き込むように首を傾げる。

「いかがされた、凛殿?」

「へ、いや、なんでもないよ。ああ、それよりも滝壺で感じた殺気、ありゃなんだったんだい?」

「うむ。あれは人間の死霊であった。おそらくは大狼に殺された過去の武芸者であろうが、恐るべき腕前。問題なのははたして何人が怨霊と化しているのか分からぬ事。ただ狙いは雪輝殿であり、他の者は邪魔立てせぬ限りはなんとかなるだろう。集落に戻られたら凛殿の口から皆にそうお伝え願えるか?」

「ふう、ん。人間の怨霊ね。あの狼が狙いか。つくづくあいつは大狼に祟られているんだな」

「それがしも過ちを犯してしまったしな。雪輝殿にはまこと災難と申し上げる他あるまい」

 雪輝の災難の一つになってしまった自分を恥じ入る鬼無子に、同類の凛も眉間にしわを寄せて気まずげな様子を見せる。

「過去の武芸者の死霊か。たぶん村の皆に聞けば大雑把に数は把握できると思うから、後で伝えに行くよ。そうすりゃ最悪でも倒す数の上限は判断できるからね」

「そうしてもらえると助かる。それがしの経験から言うと両手の指ほどは居ないと思うのだが、この山はいささか妖気が強い。どれほど怨霊と化すか、正確な予想が出来ぬのだ」

「お安いご用さ。もうここまででいいよ。鬼無子さんも雪輝の面倒に巻き込まれて大変だろうけど、肩に力を入れ過ぎない程度にね」

「面倒などではないよ。命を救ってくださった方には命を持って御恩をお返しするのが礼儀というもの」

 思いのほか、凛の言葉に返ってきた鬼無子の言葉は真摯なものだった。凛は、そんな鬼無子に問う。

「お武家さんの生き方ってやつかい?」

「それもあるが、それ以上にそれがしがそう望んでいるからだ。雪輝殿と凛の為にならこの命、惜しむものではない」

 何の迷いもなく、また偽りの影もなく告げる鬼無子に、凛は小さく笑って肩をすくめた。心の底からと分かる鬼無子の言葉を、なぜだか凛は喜んでいるらしい自分に、驚いていた。

「鬼無子さんを助けたのは、あの狼にとっちゃ大きな幸運だったかもね。じゃあ、また」

「うむ、また」

 そう言って別れの言葉を口にする二人の少女の口元には、薄くではあるが確かな笑みが浮かんでいた。親しい友との一時の別れの時に浮かべるのが似合う、そんな笑みであった。

<続>

松露
 ショウロ科の食用キノコ。
 本作における黒松露とはクロアミメセイヨウショウロの事で、夏トリュフの事。
 ひな達のお昼の献立は焼き魚と漬物、夏トリュフの雑炊、夏トリュフ汁。
 豪華なのか貧相なのか良く分からない献立。

 誤字脱字がございましたらご指摘ください。出来るかぎり早く修正します。


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