その三 口は災いのもと
――なんなんだろう、この居心地の悪い空気は……。
それが、用事があって雪輝とひなと鬼無子の住居である樵小屋を訪れた、山の民の少女凛の心境だった。
袖なしの熊皮の上衣や癖っ毛の黒髪を纏める頭の布、腰に手挟んだ山刀といつもと変わらぬ格好の凛は、囲炉裏の前で胡坐をかき、樵小屋の住人達の間に満ちている険悪とはいかぬまでも、それなりに張りつめた空気に太めの眉を顰めていた。
凛にとって雪輝に対してはいまだに複雑な心境を抱いてはいたが、他の二者に対してはっきり好意を抱いている、と自分でも自覚している。
ひなは素直で聞き分けの良い性格をしていて、まるで嫌味の無い娘であるから妹分の様に可愛がっているし、鬼無子の方も村の大人連中から耳にしていた侍という人種にしては屈託のなく、からりと晴れた青空みたいに気持ちの良い好人物で、諸国を旅して廻っていたということから色々な話をしてくれて話をするのが密かな楽しみになっている。
雪輝自身の性情もあわせて考慮すればひなや鬼無子との同居生活に、そうそう暗雲が立ち込めるとは思い難かった。
幼いひなが、善妖と聞いてはいるものの、妖魔との共同生活を送ることへの懸念は、本人は認めないが――お人好しである凛にとっては拭いざるものであったが、最近では順調に精神的交流を交わしていた様子だから安心していた矢先にこれである。
ただ、小屋の中の空気は、雪輝がひなに対して酷い仕打ちをするのでは、という凛の懸念を大きく裏切っていた。
むしろその逆である。ひなの雪輝に対する態度が冬の季節の氷雨のように冷たいのである。
それが尚更、凛の困惑を強くする。
ひなは別に頬を不満げに膨らませているわけでも無く、どこかに怪我を負っている様子もないが、先ほどからひたすら雪輝と目線を合わせる事を避けているのだ。
囲炉裏を挟み凛の真正面に位置するひなからみて右手側に鬼無子がおり、左側に雪輝が陣取っている。
雪輝は先ほどからひなのつれない様子に、それなりの広さがある小屋が狭く感じられる巨体を縮こまらせ、せわしなく耳を不安げにはたりはたりと動かし、視線を動かして鬼無子や凛に助けを求めている。
これまでひなに恐縮される事こそあれ、かように拒絶されるのは初めてのことであり、雪輝はおよそこの場に限って子犬ほども役に立たない木偶の坊に等しかった。
どうしてこうなったのだ、と雪輝は深い懊悩と疑問の渦をひたすら頭の中で渦巻かせながら考え続けていたが、とりあえず原因を探るべく、ひなの様子がおかしかった今朝の事から思い返しはじめる。
昨夜、就寝の床に就くまでの間にひなが機嫌を損ねた様子はなかった。
となれば今朝のうちになにか自分のした事が、ひなの機嫌を損ねる事につながってしまったのであろう。
しかし今日、目を覚ましてから自分のしたことといえば、鬼無子の修練の見学をして毛皮を撫でて貰ったくらいである。
鬼無子に毛皮を思う存分撫でられていた折に、どうやら自分たちを呼びに来ていたらしいひなに気付いて、すぐさまひなの元へ大好きなご主人様に甘える飼い犬よろしく歩み寄ったのだが、普段なら鼻筋一つくらいは撫でてくれるひなが、触れる事に恐怖を覚えたように、顔をそむけて無言で小屋の中に戻ってしまったのである。
鬼無子に毛皮を撫でて貰ったのがよくなかったのか、それとも自分達を呼んでいたひなの事にすぐ気付かなかったのがよくなかったのだろうか。
理由なき憎悪や殺意、食欲をぶつけられる事はいくらでも経験しているが、自分の行いによって好意を寄せる誰かの機嫌を損ねてしまったのは、今回が初めての事とあり雪輝には現状に有効な対処方法というものがこれっぽっちも思い浮かばない。
となれば頼るのは自分と違い人間の集団の中で暮らし、対人関係の構築などの経験を積んでいる鬼無子と凛をおいてほかにない。
無言で朝餉の雑炊を煮ている鉄鍋をかき回しているひなを他所に、雪輝はしつこいくらいに青く濡れそぼった瞳を鬼無子と凛それぞれに、幾度となく向けた。
どうすればよいのだ? という無言の、しかし切実かつ危急な雪輝の問いに、鬼無子と凛も明瞭な答えを出せずにいた。
この中ではひなとの付き合いが最も浅い凛は、ひなの性格から機嫌を損ねた理由を類推することはできないし、そもそもまだこの現場に到着したばかりで事態の推移を把握していないから、雪輝の視線にもお前はなにをやらかしたのだ、と怒りを交えた視線を返している。
鬼無子は、というと雪輝同様にひなが珍しくも怒っている様子におや? と首を傾げてはいるようではあったが、その原因となると思いつかない様子であった。
ましてや、自分がひなの機嫌を損ねた原因であるなどとは露とも思っていないそぶりである。
鬼無子はさてさて、と美貌の表には出さずに思案しながら端の欠けた湯呑を口元に運ぶ。
薄い茶色の水面にゆらりと小さな波紋が起きて、鬼無子の紅色の唇へと吸い込まれてゆく。
白磁の頬が窄み、艶やかと言ってよい唇の動きは思わず股間の疼きを覚えかねない淫靡さがあった。その身に流れる妖魔の血の影響であろうか。
本人が意識することなく纏う淫らさは別として、啜り方や湯呑の持ち方一つとっても上品な所作であり、没落したという生家は元はそれなりに格のある名家であったのかもしれない。
湯呑の中身はひなが、白湯と水ばかりで味気ないかな、と暇を見つけては干したり蒸して作っている自家製のお茶の一つである。
以前の凛と雪輝の賭け試合の戦利品の一つである麦を、鉄鍋で炒って軽く焦がしてから、薄い麻の袋に包み、お湯を注いで作った麦茶だ。
大量に作ったそれを壺に分け入れて冷したもので、凛の前にも同じものが出されている。
ふむ、と内心で息を吐いて鬼無子も雪輝と同じように今朝から今に至るまでの行動を思い返す。
やはり自分が雪輝の毛皮を撫でている現場を目撃したことくらいしか思いつく当てがない。もし、それが原因であると言うならば、存外ひなは独占欲の強い娘であったということだろう。
(いや、ひなの生い立ちを考えれば両親と死別して以来、自分を案じてくれたのは雪輝殿が初めてとのこと。なれば否応にも雪輝殿への依存や執心を抱くのも無理からんことであろう)
その推測が間違っていないのなら、いまのひなは怒っているというほどではなく、せいぜい気になる男の子が、他の女の子と遊んでいるのを見て拗ねている、という子供らしい癇癪程度だろう。
それならそう時を置かずしてひなの気分も落ち着くだろうが、それにしても雪輝の動揺ぶりが、傍から見ていて滑稽なほどに激しい。
溺れる者は藁にも縋ると言うが、いまの雪輝はまさにその言葉の通りの慌てようだ。心がかき乱されている事を表に出さないようにしているようだが、耳と尻尾が見事に裏切って、先ほどからぱたぱたと床の上で乱れる尻尾の音が絶える間がない。
なんともはや、自分の目の前に居るのが妖魔である事をつい忘れてしまう微笑ましさに、鬼無子は湯呑を啜る奥の口元を笑みの形に吊りあげてしまう。
長い事諸国を一人で旅してきた所為で人肌の恋しさを覚えてはいたが、よもや妖魔との同居暮らしで安寧を覚えることになるとは。
「人生、先が分からぬものだ」
しみじみと呟く鬼無子に、雪輝と凛は何を言っているんだこの侍は、と揃って疑問を宿した瞳を向ける。
なにやら思案している様子だったから、雪輝達の疑問に対する答えを明示するか妙案を思いついてくれるのかと淡い期待を抱いていたのに、蓋を開ければこれだ。
たしかにひなを怒らせてしまうとは夢にも思わなかったが、と雪輝の言外に非難するような視線に気づいて、これは失言、と鬼無子があくまでも落ち着き払った仕草で湯呑を置いた。
内心で漏らした言葉とは裏腹に、自分の失言に慌てる様子は欠片もない。
「そういえば凛殿、今日はいかな用事があって参られたのですかな。なんでしたら朝餉を共にしてはいかが?」
と、雪輝の期待を裏切るような方向の提案をしてのけた。下手にひなに声をかけて機嫌をこじらせるよりは普段通りに過ごした方がよい、と鬼無子なりに判断したのである。
しかし読心の術を会得しているわけもなく、人の感情や思考を読む術にまるで長けていない雪輝は、両耳をピンと立たせて裏切られた、という顔をする。
知性ばかりは大人だが、感性や人格の熟成ぶりではひなよりも幼い所を見せる雪輝にすれば、十全の信頼を寄せる鬼無子のその反応には、それなりに傷心したかもしれない。
鬼無子に話を振られた凛も、ええと、といささか反応に困った様子ではあったが、さりとて繕う言葉をとっさに出せるほど弁舌には長けておらず、正直に答える以外に方策を思いつかなかった。
「ああ、いや、村の連中がこれを見っけてさ、鬼無子さんのじゃないかと思って持ってきたんだ」
そう言って凛が腰に提げている包みの中から取り出したのは、これまた油紙に包まれた柳の葉に似た形状の投げ刃である。よく油が塗ってあるようで小屋の中に沁み入る陽光に、黒い刃面が鈍く輝いている。
三枚重ねられたそれらは、長さ三寸(約九センチ)、幅一寸(約一センチ)。一枚の厚みはやや肉厚の木の葉程度だ。刃は鋭く研ぎ澄まされ、不要に触れた指が鮮やかな血を迸らせながらぼとりと芋虫のように切断されてしまうだろう。
凛の小さな掌の上に載せられた品を見て、鬼無子は首肯した。間違いなく自分が愛用している飛び道具である。
「おお、これはありがたい。それがしのものに間違いありません。雪輝殿達に拾われる前、猿どもに追いかけ回された時に、いくつか投げたっきりになってしまっていたものです。受け取ってもよろしいか?」
おお、と頷く凛の手に伸ばし、鬼無子は久方ぶりに手にした愛用の獲物を弄ぶように隅々まで吟味する。
「うん、良く研いであるし、わざわざ手入れをしていただいたようだ。そういえば以前に山の民の方々が猿どもの死体を見つけたと御忠告してくださいましたな。その時に見つかったものですか」
「そうだよ。猿どもの死体に埋没しているのやら、何匹かの体を貫通して木の幹にぶっ刺さってたのを見っけたんだ。正直、人間技じゃないよ。熊が投げたってこうはいかない」
「百人力が父祖の代からの我が家の取り柄ゆえ、あれくらいは朝飯前。父など投げ刃で巨木三本を貫いてその先に居る妖魔の頭を吹き飛ばしたもの」
少し照れたように視線を俯かせつつ、鬼無子は投げ刃を懐紙や油紙で包むでもなく、そのまま袖の中に仕舞いこんだ。
鞘に納めるでもなく抜き身のままだから、少し動くだけで腕が血塗れになってしまいそうだが、それを忘れたというのではなくごく自然とした動作である。
袖の中に留め具あるのか、あるいは刃をむき出しにしたままでも腕や指に傷一つ負うことなく操る技量があるということだろう。
投げ刃を受け取った鬼無子は、そうだとばかりに一つ大きく頷いて、つんと澄ました顔のままのひなと、どうすればいいのかわからない、と顔面に大きく書いている雪輝にこう提案した。
「私ごとで恐縮ですが、それがしの散逸した荷を拾い集めてこようかと思うのですが、よろしければ道案内を頼めませんでしょうか? それがし一人では山の道に迷ってしまうでしょうからな。なに、荷と言っても女一人の旅荷ですからさしたる量ではありませぬ。出来ればこれまでの道中日記と投げ刃の残りを。叶うならば財布や薬を入れておいた印籠を見つけたいところですな」
鬼無子の身体能力と剣技を合わせれば山の外側の妖魔など徒党を組んでも歯が立たないが、山の道行きばかりは如何ともしがたい。
鬼無子一人では山そのものに化かされたように当所もなく彷徨い歩いた果てに、飢えと疲れに塗れて動けなくなるだけだろう。
となれば鬼無子を一人で行かせる選択肢が、雪輝とひなにあるはずもない。ひなは無言のまま、雪輝も首を縦に動かしてから、おそるおそるひなに行動の許可を問うた。
まるで頭の上がらない亭主が、肝っ玉の太い妻に許しを乞うような様子であったから、鬼無子は思わず噴き出しそうになるのを必死で堪える他なかった。
*
どうしようかな、とひなは心中で一つ、溜息と共に零した。
麦藁で編んだ帽子の下で良く陽に焼けた肌の上を、夜の闇から紡いだように深い黒の髪が、一筋二筋さらりと流れて落ちた。
雑炊と塩漬け胡瓜、茸と野草の味噌汁の朝食を済ませ、鬼無子の提案に従って山中に散逸した鬼無子の荷を拾い集めに出向いている最中の事である。
水をいっぱいに入れた竹の水筒と握った麦飯を入れた袋を腰帯に吊るし、道中で茸や木の実を入れるための籐籠を背負い、前後を雪輝と鬼無子、凛に挟まれながらとぼとぼと歩いている。
すっかり歩きなれた濃厚な緑の匂いに包まれながら、先頭を行く雪輝がかき分け踏みしめて作った山道を歩き、ひなもまた滴るように濃い朝陽を浴びながら、雪輝同様に途方に暮れていた。
鬼無子が雪輝を撫でくり回す光景を目撃してからずっと、口にはし難い感情が宿り木の様にひなの胸中に芽生えて、それを呑み込む事も無視する事も出来ずに今に至っている。
ひなとても雪輝を困らせたくて困らせているわけではなく、むしろ普段通りに振るまって安心させてあげたいとは思っているのである。
いつもどおりに声をかけて、いつもどおりにその毛並みを撫でて、いつもどおりに甘えて、いつもどおりにあのぬくもりに包まれたいと、切に心から願っている。これは紛れもなくひなの本音だ。
しかしいつもどおりに接しようとするたびに朝の光景が鮮明に思い出されてしまい、伸ばした手は凍ったように動く事をやめ、開いた唇は言葉を紡ぎ出すのよりも早く閉ざされてしまう。
許そうと――いや、そもそも自分は何を許そうと言うのだろう。雪輝様はただ好意で鬼無子さんに撫でさせていただけの事で、そこに自分がこんな態度を取るような理由は何一つないはず。
どうして自分はこうも機嫌が悪いのか。
それを解消するためにはどうすればよいのか。
ひなもまた自分自身、かつてない経験にどう対処する事が正解であるのか、分からないのであった。
表はつんと澄ましながらも途方に暮れていたひなにとって、鬼無子の外出の提案はいまの気まずい状況を変える切っ掛けになるかもしれないと期待を寄せるに値するものだった。
だから、雪輝が機嫌を伺うようにひなに対して、行ってもよいと思うのだが、と恐る恐る聞いてきた時もそうですね、と答えたのだ。
自分でも驚くほど冷たい言い方になってはしまったが。
ひなの冷えた声音を聞いた時の雪輝の萎れた花の様な元気のない様子を思い出し、ひなは胸を痛める。
本当に、どうしてあんな言い方をしてしまったのだろう。
私は、いったい自分を、雪輝様を、鬼無子さんをどうしたいのだろう?
それはこの世の何よりも答えを出すことの難しい問いの様に、ひなには思われてならなかった。
自分の後ろを歩くひなの、どこか元気のない足音やかすかに零れて聞こえるため息を耳にするたびに、雪輝ははらはらとする自分の胸の鼓動を聞かざるを得なかった。
現在、雪輝一行が歩いているのは雪輝の縄張りといっても過言ではない領域であるから、まずひなに危険が及ぶようなことはないが、それ以上に雪輝が心を砕いているのはひなの機嫌を良くすることである。
だから、時折食卓に並ぶ茸や山菜を鼻と目で見つけては欠かさずその存在を告げ、夏の光を満身に浴びて咲いている花や、木の枝の上で団栗を齧る栗鼠の姿などを教えて何とか機嫌を取りつくろうべく、この図体ばかりが大きい狼なりに努力していた。
そんな雪輝の様子を、最後尾を歩く鬼無子は童の様に手探りで何とかしようと努力する雪輝を、実に微笑ましく思いながら見守り、凛は口をへの字に曲げてみている。
自分がさんざか執着し、鍛冶衆として受け継いだ技術と持てる技量や知恵の粋を凝らして戦った狼がこれか、と過去の自分がどうにも滑稽というか哀れというか、憤懣やるかたない気分にさせられるからだ。
「うちのさ、連中の何人かはあのでかい狼の事をちょっと崇拝しているんだけどさ」
「ふむ」
鬼無子は一つ頷いて続きを促した。愚痴の一つも零したくなるのだろう、と同情しているらしかった。山の民と雪輝との関係については既に耳にしている。
「いまのあの馬鹿は見せられないよ。いやむしろ現実を見せて眼を覚まさせた方が後々為になるのかもしれないけれど、なんだか、ね」
「なに、いざとなればとても頼りになる方であるのは間違いない。それがしも色々な剣士や呪術士は言うに及ばず、妖魔、怨霊と目にしてきたが雪輝殿は上から数えた方が早い。そのような方が人間に好意的であるというのは、僥倖であろうよ」
「まあねえ。前に居た狼の妖魔が性悪ったらありゃしなかったからねえ、その分、村の皆もお人好――お狼好しっていうのか、あいつの事を好意的に見てんだけどさぁ」
「雪輝殿からすればただ在るように在るだけゆえ、どう評価されてもご本人の性情は変わらないだろう。いまさらそれらしく振る舞えと言った所で変わる方でもあるまい」
「気にするだけ損か……」
はあ、と大きく息を吐く凛の左肩を軽く叩いて、鬼無子はあっはっはっは、と笑う。聞かされる方の気分も晴れるような元気のよい笑い声であった。
つくづく陽性な気質に生まれついているらしい。得な性分というほかない。
山など険しい環境の中を歩くときは、もっとも歩みの遅い人物に合わせるという鉄則を知っているのかいないのか、雪輝の歩行速度はひなに合わせている。
しきりにひなに声をかけ、体調の変化や見つけた山菜の報告に余念のない雪輝は、これ以上ないというくらいに甲斐甲斐しく、世話女房という言葉を世話狼に変えねばならないというほど、細やかな配慮を見せた。
小屋に籠ったままでは腫れものに触れるような扱いでしかひなに接しないままであったろうから、鬼無子の提案もまるで間違いだったというわけではないようだ。
そんな雪輝の様子を見るに、ひなも心中で蟠りよりもそこまでさせてしまっている申し訳なさの方が勝ってきたようで、少しずつ態度を軟化させる前兆の様なものも見受けられ始める。
もともとひなとて雪輝の事を大切に思っているのだから、その相手にこうまで丁重に扱われれば、固くなっていた心の一部を軟化させるのに大して時間はかからない。
そうして歩いているうちに、鬼無子が魔猿との闘争行を行っていた一帯に到着し、仔細に周囲を見渡せば魔猿達の血痕や激闘の名残が、ちらほらと見受けられるようになる。
両手を広げた大人が三人がかりでようやく囲めるくらいの巨木や、苔むして緑色に変わった岩石の一部に、黒く変色した血や千切れた魔猿達の黒い毛、鋭い爪跡や叩き込んだ巨拳の痕がむざむざと残されている。
流石に死体はすべて片づけられ、その妖気籠る毛皮や骨、牙を山の民が加工して自分達の武具や防具に変えているのだろう。
雪輝が鼻をすんすんと鳴らし、森のどこかに残る鬼無子の残り香を嗅ぎはじめる。既に日が経ち、草花や石木、兎や猪に鹿といった獣の匂いが立ち込める中、どこまで雪輝の嗅覚が役に立つかどうか。
鬼無子としては本来、雪輝とひなの間に走っている緊張をほぐす事を目的として今回の探索行を提案したので、別に荷物が見つからなくても構わないと思っている。
まあ、道中日記くらいは見つけたいのが本音ではある。
鼻を四方に動かしていた雪輝が、不意に左前方の巨木の根が絡まり合って瘤状になっている場所まで歩き出す。
鬼無子の匂いがそこからするということに違いない。
「これは、確か印籠というものだったか?」
根のあたりに顔を突っ込んでいた雪輝が口に咥えて持ってきたのは黒い漆塗りに赤い下げ緒の可愛らしい印籠である。
多少土に汚れてはいたが蓋が外れるような事もなく、下げ緒が半ばから千切れているだけで済んでいる。
雪輝の口から印籠を受け取り、鬼無子は早速見つかった事に対して、意外そうな顔を拵えた。
「ええ、確かに。いやいや、よもやこれほどあっさりと見つかるとは。雪輝殿の鼻をいささか侮っていたようですね。ありがとうございます」
嬉しそうに印籠を眺めていた鬼無子は、懐に印籠を入れるや小さく頭を下げて雪輝に謝意を述べた。
人の役に立つ、というのが嬉しいらしく、これまでしょぼくれていた雪輝の尻尾が、ぱたぱたと左右に揺れた。相も変わらず感情を隠さぬ素直な狼である。
「匂いが薄れてはいるが、なんとかなる。まだいくつか匂いがするから拾い集めに行こう」
すん、と一つ鼻を鳴らし、雪輝が周囲をぐるりと首を巡らして見回して、黒松露をはじめとした茸類、山菜でいっぱいになった籠を背負っているひなで視線を止める。
ひなの返事を待っているという事なのだろうが、その内心は、初めての恋を告げる少年のような不安に襲われているのだろう。
じぃっと真摯な青い瞳で自分を見つめる雪輝を見つめ返し、ひなはふっと肩の力を抜いた。
小屋を出てからずっと自分に構い通しだった雪輝の懸命な姿を見ていると、改めて自分がどれだけ大切に思われているかという事が、身に沁みてよく理解でき、それに対して自分が雪輝に対して取っていた態度が、なんとも愚かしく思える。
こんなに私を大切にしてくださる方に、私はなんてことをしていたのだろう。
出会った時など、食べられる覚悟さえしていたというのに、自分が構ってもらえず鬼無子とじゃれ合っていたからと言って、なにを不満に思う事があるのか。
ようやくそう思う事が出来たひなは、雪輝へ謝罪の意識も込めて彼の好きな笑みを浮かべながら、返事をした。
「はい、雪輝様」
「!」
春の訪れを待っていた蕾も、思わずつられて花を咲かせるような暖かなひなの笑みと声に、雪輝は瞬時に反応を示した。
ようやくいつもどおりに返ってきた返事をたっぷり数秒かけて耳の中で反芻させてから、尻尾が根元から千切れてしまいそうな勢いで左右に振り振り、浮足立つような歩き方でひなのすぐ傍まで寄る。
この世の幸せという幸せに身を浸しているような浮かれ具合である。それだけ、ひなの事が大切なのだ。
「うむ、足元には気を付けるのだよ」
「はい」
鼻先を寄せてきた雪輝の頬や首筋を赤子をあやす様に撫でながら、ひなは本当に申し訳ないと、目元を伏せた。
「申し訳ありません、雪輝様。私、自分でもどうしてあんな風に雪輝様に冷たく接してしまったのか、分からなくて」
「いや、ひなに落ち度はあるまい。私も何が理由であったか今一つ分かっておらぬのだが、これからはひなの機嫌を損ねるようなことはせぬように心掛けよう。だから、もう謝りなどしないでおくれ」
はい、と返事をしながら、ひなは雪輝の白銀の毛に包まれた首筋に顔を埋めた。
何もしなくても汗が滲み、珠を結ぶ季節であったが、言ってしまえば毛むくじゃらである雪輝に抱きついても不思議と熱さを感じるようなことはなく、むしろ夏の熱気が退いて程よく過ごしやすい具合になる。
そうして昨夜以来の雪輝のぬくもりと存在をじっくり全身で確かめてから、ひなはゆっくりと身体を放した。その顔からこれまでの強張りや冷たさの影が綺麗に消えている。
ひなの三倍、四倍はあろうかという巨大な狼が、自分の腹にも届かないような少女の心次第でこうも機嫌を上下させる様子に、口を噤んで見守っていた鬼無子と凛は顔を見合わせて肩を竦めるきりだった。
ひなの機嫌が元に戻り、こちらも機嫌をよくした雪輝はそれはもう張り切った。
とても張り切って鬼無子の荷物捜しに精を出し、鬼無子が到底見つかるまいな、と諦めていた品々を次々と探り当てて見せたのである。
薄汚れて読めない所のある道中日記や、幸い無事であった財布、魔猿どもを牽制し殺傷するのに使用した投げ刃などなど。
これには鬼無子も目を丸くして、ひなに構ってもらえた時の雪輝殿は侮れん、と妙な方向に感心しきっている。
あらかた鬼無子の荷物が見つかり、周囲の茸なども取り尽くしてひなの籠が一杯になった事もあり、雪輝は鼻をひくつかせる作業を止めた。
「鬼無子の匂いはもう無さそうだが、もう少し捜すかね?」
持ってきた風呂敷に荷物を包み、片手に提げた鬼無子は風呂敷を掲げてうっすら笑みを浮かべながら首肯する。
探索行は提案者である鬼無子の予想を大きく上回る成果を上げていた。これ以上欲張る必要はないと思うには十分だ。
「いえ、もう十分でございますよ。わざわざご足労を戴き、鼻まで貸していただいた甲斐があったというもの。まこと、感謝に堪えませぬ」
「大仰な物言いだな。そこまで言われると照れてしまう」
と喜びの感情を隠さず目元を細める雪輝の様子に、鬼無子はひなとの仲直りの方も思った以上にうまくいったものだと、ほっと安堵の息を一つ。
その後ろで、ひなと一緒に家族への土産代りに山菜取りに精を出していた凛が、暑いな、と熊皮の胸元を開いては閉じて風を入れているのと、汗の珠を浮かべてふう、と息を吐くひなの様子に気づいた雪輝が口を開いた。
「この先に滝壺があるから、そこでひとまず汗を流し涼んではどうだ? ここらの地脈の溜まり場の一つでね、ただいるだけでも英気を養う事が出来る。昔は私もよく足を運んだものだ」
妖魔の血を宿す体質ゆえか、鬼無子は汗を流す様子も疲れも見せてはいなかったが、そこは武に生きるものとは言え女性なのか、雪輝の提案に賛同する。
「それはいい。それがしは諸手を挙げるとしましょう」
「ふーん、ここらは昔っから大狼がいたせいであたしらもよく知らんからな、ちょうどよい機会かな。案内されてやるぞ」
と胸を張りつつどこか偉そうに凛が言えば
「雪輝様のお気に入りの場所ですか? 私、行ってみたいです」
ひなが汗を流すよりも雪輝のお気に入りの場所を知っておきたい、といういじらしい様子で賛同する。
「では満場一致ということで、行くか」
提案が了承されて、よかったよかったと内心で何度も首を振りつつ、雪輝が肢の向きを変えて歩き出した。
*
雪輝が案内した滝壺は幅三間(約五・五メートル)、高さ五間(約九・一メートル)ほどで流れ落ちる最中、突き出た岩にぶつかってあちらこちらで大きな白い牙を剥き、雪の様に白い水飛沫が霧となって辺りに漂い、幽玄の趣をかもし出している。
辺りに轟く音は落雷を思わせるほど強く、大きく、そして重い。
轟々と流れ落ちる水流のど真ん中には岩が突き出ている事もなく、流れが緩和されていない。その遮る物の無い叩きつけるかのような水流を浴びる人影が一つ。
鬼無子である。
頭上から勢いをわずかも損ねることなく流れ落ちてくる水流を、目をつむり臍の前で指を組みながら全身で浴びている。水の打撃はゆうに六十斤(約百キロ)を超しているだろう。
水垢離の修行の様相ではあるが、その全身に叩きつけられている水の質量を考えればこれがいかに凄まじい荒行かが分かるというもの。
その身には愛刀崩塵はもちろん寸鉄も帯びておらず、筒袖や野袴はおろか下履きも身につけていない全裸姿であった。
白い裸身には妖魔を討つ職にあったという前歴にも関わらず戦傷ひとつなく、また女の一人旅という危険な旅路を長く歩んできたにもかかわらず、淫らなまでに豊かな身体を覆っている凝肌は、自ら輝くかのように眩い光沢を持った絹を肌と変えたかのようだ。
大口を開けて頬張ってもまだ足りぬほど育った乳房の張りは、ただ若さに支えられているというだけではないだろう。
大滝の洗礼を一身に浴びながらも形が潰れる事も垂れる事もなくツンと上を向いて、その豊かさを誇っているかのようだ。
余す事なく濡れそぼった栗色の髪は淫魔の伸ばす腕のごとく、ぬらりと白い雌脂を滲ませる白桃の様にまろびやかな曲線を描く尻にも、乳房と尻を支えるには頼りないほど華奢な腰にも絡みつき、苛烈な修行に挑む鬼無子は、人ならぬ妖が気まぐれに姿を見せているかのような幻想的な妖美さであった。
紅唇を一文字に結び、言葉を紡ぐでもなく滝行に身を置く鬼無子の前方では、鬼無子同様に生まれたままの姿を惜しげもなく晒しているひなと凛の姿がある。
二十歳にもならぬ若さにもかかわらず、男の欲望を幾人も受け止めてきた熟れた女の様な肢体を誇る鬼無子に比べると、こちらの二人はいかにも年相応の起伏に乏しい線を描く細身である。
山の獣や妖魔との命がけの戦いや鍛冶衆として火を扱い、鎚を振るう力仕事に幼いころから従事しているせいか、凛の身体にはそここそに白い線と変わった切り傷や治りきる直前の小さな火傷の痕などが見受けられる。
掌にすっぽりと収まる程度に膨らんだ控えめな乳房から、慎ましいへそを経由してカモシカの様に引き締まり伸びるしなやかな太ももからきゅっとすぼまった足首に至るまで、見惚れるような流麗な線が描かれている。
気を抜く事を許されぬ厳しい山の生活の日々は、凛の二の腕や腹筋にうっすらと筋肉の筋を浮かび上がらせ、この少女の体が野生の獣のように鍛え抜かれたものであることを言葉なしに物語っていた。
凛が伸ばした両手を掴んで、ひなはぱしゃぱしゃと両足で水を蹴っていた。凛の手を借りて泳ぐ練習をしているようだった。
凛が臍まで透き通る水の中に沈めて、慎重に滝底のぬめりを帯びた石に足を取られぬように気を使いながら、ゆっくりと後ずさってひなを引っ張っている。
普通の村娘でも近くの沼や川で水遊びの一つもしていれば、泳ぎくらいは覚えていたかもしれないが、ひなの場合、その様に遊ぶ余裕などない生活を送っていたし、近年襲い来た旱魃の影響でそもそも遊び場となる沼や川が残らず干上がってしまったために、泳ぐ機会に恵まれなかったのだ。
恥ずかしげに泳げません、と告白するひなに、あははは、と笑いながら凛は快く泳ぎ方を教えてやると告げて、こうして手を引いているのである。
ひなの背の半ばまで届く漆のように深い黒髪は、滝の流れに揺られて一筋二筋と束になりながら、ゆらゆらと川面に揺れている。
普段野良着や小袖の布地に隠れて陽を浴びていないお腹や太ももと、露出している顔や腕とが綺麗に色分けされていて、実に健康的である。
もっとも、当のひなは白黒はっきりと分かれて日焼けしている自分の体を恥ずかしがったようではあったが。
片手で簡単に掴めるようないかにも青い果実を思わせる小さな尻と膝から先を、時折川面に浮かばせながら、ひなは必死に顔を出して息を吸いながら足を動かす。
「そんなに急いで足を動かさなくていいぞ。あたしが引っ張ってるから沈んだりはしないんだから、まずはゆっくりと足を動かして浮く事を考えな」
言葉にして返事をする余裕がないようで、ひなは小さく顎を上下させるので精いっぱいの様だった。村の年下の子と遊ぶのと同じ要領で、よくひなの面倒を見ている凛の様子を、残る雪輝が眼を細めながら見守っていた。
青い月光を凝縮したかと見紛う美しい瞳は、愛娘や可愛くて仕方のない妹を見守る父か兄のようであった。
滝壺の周囲はおよそ五十坪ほどの平坦な空間が広がっており、そこから先は牢獄の格子の様に整然と織りなすブナや楢といった巨木が広がっている。
白銀の巨狼は滝壺の淵にある大岩の上に蹲って、三人が思い思いに水遊びを楽しんでいる様子を見守っていた。
直径三間、高さ二間(約三・六メートル)ほどの花崗岩らしい巨岩である。
近隣の地脈の溜まり場の一つ、と雪輝が口にしたように妖哭山に点在する地脈の力が噴き出す場所の一つであり、天地の気を血肉とする雪にとっては食事場所と言い換える事もできる。
巨岩の上で蹲っているだけでも細胞の一つ一つに天地万物の気が充溢されてゆき、雪輝の全身に力が漲ってゆく。
ひな達が気分良く水遊びに興じている様を見守り、心身ともに満足のゆく状況に、雪輝の緊張の糸は緩みに緩んでだらけ始めていた。
「おーし、曲がるぞー」
こくこく、と頷くひな。端までたどり着いた凛がゆっくりと弧を描いて反転し始める。と、そこに横合いから良く冷えた水がばしゃりとかけられて、凛とひなを全身濡れ鼠にした。
「うわっ!?」
「わわ!」
慌てた凛が手を放し、ひなが頭の中を混乱させながら必死に溺れまいと手足をばたつかせる向こうで、いつのまにやら滝行を切りあげていた鬼無子が、両手を大きく広げた体勢でにやりと笑う。
横合いから凛たちを襲った水は、鬼無子が掛けたものだったらしい。
普段の凛然とした様子は影を潜めて、今年十七になるという少女らしい遊び心を前面に出した顔をしていた。
手足をばたつかせたものの落ち着けばちゃんと足が立つと気付いたひなと、このぉ、と生来の負けん気を出した凛が果敢に反撃に出た。
二人がかりで計四本の腕を精いっぱい動かして、鬼無子に水飛沫の反撃を開始しはじめる。
三人の少女の弾むような声が滝壺に木霊し始めるのに、さほど時間はいらなかった。
柳の木のようにしなやかな鬼無子の腕が動くたびに、鞠のように大きく揺れ弾む乳房を、ささやかに震える掌大の凛の胸を、そして全く揺れる余地のない気持ちの良い平原の様なひなの胸元を見比べつつ、雪輝はふうむ、といかにも感心しています、という調子で頷く。
千人万人の賢者が挑んで解き明かせなかった謎を解き明かしたような、感心の仕方である。この狼、わりとどうでもよい事をまるで世界に誇れる偉業の様に受け取る傾向にあるから、まあ大した事に感心したのではないのだろう。
ひとしきり水を掛け合って十分に楽しんだ三人が、ふと、なにやらうむうむ頷いている雪輝の姿に気づいて、三人そろって視線を雪輝に集中させた。
代表してひなが口を開く。素朴な疑問といった口調である。
「雪輝様、どうかなさいましたか?」
「うむ、見ていて思ったのだが、まず、大」
と口にしながら鬼無子を見る。ぴしり、と鬼無子の美貌に罅が走った。
「そして、中、小」
続いて凛、ひな、と順番に見つめながら口にする。大中小と鬼無子・凛・ひなの順になるらしい。
背丈の事か、とひなと凛が自分たち三人を見比べて納得する中、ぱしゃ、という水音が二人の背後でして、波紋が二人の身体に触れた。
背後を振り返れば鬼無子が両腕で乳房を隠しながら首まで水の中に沈ませていた。両腕を使ってはいるが、乳房が大きすぎて隠しきれず白い乳肉がはみ出している。
夏場でも冷たく感じられる水に体を沈めているにも関わらず、鬼無子は首から耳まで朱に染めてどこか扇情的な艶姿に変わっている。
鬼無子のその反応に、凛がんん? と眉を顰めた。背丈の話というにはどうにも鬼無子の反応はおかしい。
同性である凛から見ても感嘆するほかない大きさと張りと形のよさを誇る胸を、隠しきれていないがそれでも隠そうとしているのはなぜだ?
とそこまで考えてから、稲妻の様な衝撃が凛の脳裏を走る。大中小と口にした時に雪輝が見ていたのは、はたして自分達の全身を見てのことだったろうか。
いや、あの阿呆狼が見ていたのは――
「っ!!」
瞬時に怒りを頭に上らせた凛は、自分も鬼無子にならって鬼無子と比較すると悲しくて仕方がない胸を隠しながら、水の中に体を沈める。
ひなは何が何だか分かっていない様子で突っ立っていたので、右腕を掴んで引きずりこむように水の中に引っ張り込む。
ひなが顔に疑問符をいくらも浮かべていたが、それには構わずに凛は大声で雪輝を怒鳴りつけた。一瞬、滝壺の轟音もかき消されたかと錯覚するほど迫力に満ちた一声であった。
「おい!!!」
雪輝は、明らかに怒りを――それも特上の――込めて自分を怒鳴りつけた凛に、丸く見開いた目を向ける。雪輝は凛の背後に紅蓮に燃ゆる炎を幻視した。
私はまたなにかやらかしたのか? と雪輝は凛と鬼無子が妙な反応をしている事に気付き、尻尾を丸めた。
今朝がたひなの機嫌を損ねたばかりだというのに、同じような過ちを起こした自分が情けないやら悔しいやらで、雪輝は申し訳なさを全身から漂わせる。
雪輝にとってせめてもの救いはひなが凛の様に怒っているわけではないことだろう。
「なんだ?」
言葉短く凛に問う雪輝の言葉は弱々しい。自分の立場が極めて危ういものであると理屈では分からなくても、本能的に理解していたからだろう。
「おおお前、ちょ、ちょっとこっち来い」
果てしなく嫌な予感が雪輝の胸中で擡げていたが、あまりの怒りに震える凛の声の迫力には逆らえず、雪輝は素直に寝そべっていた巨岩からひらりと舞い降り、毛皮が濡れるのも構わず水の中に足を進めて行く。
ざぶざぶと水をかき分ける音は、一歩一歩の歩幅が大きいせいかそう長くは続かなかった。凛の手前で足をとめた雪輝を見上げながら、凛はこめかみと頬を引くつかせながら口を開く。
「目ぇ……瞑れ」
これはただでは済まんな、と雪輝は覚悟を決めた。ひなは凛の漂わせる怒りの気に飲まれて、おろおろとするばかりだし、鬼無子は凛と同意見なのか首まで水に沈めたまま事の推移を見守っている。
凛の言葉に従って瞼を下ろして目を瞑った次の瞬間、雪輝の脳天を強い衝撃が襲った。凛が振り上げた右の拳を、全力で雪輝の脳天に叩きこんだのである。
雪輝は、ぎゃん、とイヌ科の生き物らしい声を一つ上げて痛みに耐えた。
<続>
PV20000突破ありがとうございます。暑い季節が続いていますが、皆さんお体にはお気をつけ下さいね。それではまた次回。感想をいただけるとありがたいです。