『少女の愛した狼 怨嗟反魂編』
その一 黄泉帰り
大地を覆い尽くす緑の葉のすべてに目に見えぬ程度の小さな水の微粒子がまとわりつき、地を這うものを焼き尽くす陽光の過剰なまでの祝福が絶えた、夜の時刻に相応しい夜風も太陽の支配していた時刻のそれと比べれば、心持ちではあるが涼しく感じられる。
遮る雲の影が一つもない夜空には、自らの輝きを誇るかのごとく無数の星が黄金とも白銀とも見える光を放って地を這う者たちを照らし出している。
その星々をまるで我が子を見守るようにして夜空の君主となっている月が、白々ともっとも美しく輝いていた。
どこか紫がかった黒に染まる夜の世界を白く照らし出す月の光を見たとき、人の心は波風一つない湖面のように静まり落ち着きを取り戻すか、あるいは熱病に浮かされたかのとごく陽気の相を顔に浮かべる。
しかし、今宵、地上に蟠る闇の中に蠢く者たちは、月光に照らされる事を由とはしなかっただろう。
見上げるほど大きく天に向かって伸びる幹、空に向かって育つがままに伸ばされた枝、数える事も出来ぬ無数の木々の落とすひと際濃い影の中に、それらはあった。
美しいという事は価値があるという事だ。だが美しいという事は優しいという事ではない。暖かいという事ではない。
美と醜との明瞭な境は醜の側に追いやられた者にとってこの上なく残酷な境となる。美しいという事に価値があるのなら、美しくないという事、すなわち醜いという事は等しく価値がないという事なのだから。
月の光は美しくとも暖かくはなく、その美しさゆえに照らし出される側の存在の美醜を克明に暴き立てる。
自らの醜悪さを知り恥じ入る者にとっては無作法なまでの無慈悲さで、そして自らを醜いと知らぬものにはその厚顔無恥なる事を他者に知らしめてしまう。
なにか作為的なものが働いたのかと思うほど、巨木の広げる枝葉が折り重なる場所が、森の一角にあった。そこに満ちる闇が他の夜闇に閉じ込められ場所よりもはるかに暗く深く見えるほどに。
それは月の光に醜さを暴き立てられて傷つく者がいる事を憐れんだ森の木々が生んだ、慈悲故の暗黒の場所であったかもしれない。
他者の目に移る事を憚る慣性と事情を持つ者たちが、真正の闇の中に身を置いてささくれ立った心と体に休息を許す世界と時間。それが、この森の一角に広がる闇の意味なのだろうか。
しかし心と体を安寧の寝床に沈めた者たちがいつまでもそのままで在るとは限らない。
いずれ闇の寝床を離れて、再び月光と陽光の差し恵む世界へと帰還するものたちもいるだろう。
それら闇の中から立ち上がり歩む者が必ずしもこの世のものばかりとは限らぬが。
月の光さえ入る隙間を見つけられぬほどに闇が肩を寄せ合い溶け合う中で、ほんのりと星も月も太陽も無縁のままに、自ずから輝く何かが、あちらに、こちらに、ほら、そこに、浮かび上がり始めたのは何時の頃からか。
月光の伸ばす慈悲の手を拒絶する闇の中の住人にしかわからぬ事ではあったが、その住人達の目を借りて、それらの事を物語るならば、こうであった。
蛍の光よりも淡く、月光よりも冷たい光は白く輝いて何かに訴えかけているかのよう。それらは仔細に見れば一つ一つが刀であり、槍であり、杖であり、斧であり、矢であり、あるいは鎧兜を光の源としていた。
刃が毀れ落ちて薄紙一つまともに切れなくなった刀や、柄が半ばほどからへし折られ無惨に打ち捨てられた槍、なにか巨大な獣の爪に切り裂かれた鎧、幾重にも並んだ鋭い牙に噛み砕かれた兜。
人の用いる武具のなれの果ての周囲には苔むした巨木や巨岩が無造作に転がっており、さらによく見れば、幾層にも巨木の上に重なった苔や草花の下に人とそれ以外の存在との闘争の痕を見つける事が出来ただろう。
腕自慢の武芸者達が振るい岩をも断った刃の痕、壮絶な槍の一突きによって穿たれた穴、世の理を解き明かし己の手で改変する術師や陰陽師の駆使する奇怪な術によって落とされた雷や炎が造った大穴。
いつか、と呼ばれるような昔にここで誰かと何かが争ったその戦場跡。そこに残されているのは、何かに敗れた誰か達の手足となって戦った武具たちなのだ。
雨風を耐え忍ぶことができず赤茶けた錆に覆われたもの。泥に塗れ蔦に絡まれて墓標の代わりのようになっているもの。いずれも殺された主の無念が籠り、夜陰に乗じて怨嗟の声をあげているのかもしれない。
白く白く、夜の闇の中で淡く輝くそれらにそっと手を伸ばす何かの影が、ある美しい月夜に生まれた事を知る者はいなかった。
刃が毀れ草一つ満足に切る事さえできなくなった、まさに死骸というべき刀に手を伸ばす細くしなやかな、まるで黄金の事を爪弾く奏者にこそふさわしい繊手。
一振りで人間の頭蓋など兜ごと叩きつぶし胴丸ごと貫いた豪槍のなれの果てへと伸びる、岩石の塊を連想させる太くたくましい腕。
半ば土に還りかけていた鎧を、兜を、脚絆を、手甲を持ちあげてよどみない動作で身につけてゆく武芸者の手。
この世の果てる時まで静かに、しかし深く怨嗟の炎に燃え続けるはずだった武具の骸達を手にするこの世に属さぬ影の数は、大地に打ち捨てられた武具と等しかった。
やがて、戦場跡の骸から鎧を剥いで生活の糧とする者たちでも見向きもしない屑同然であった武具を、なにかの影達が拾い終えたとき、彼らは互い互いに顔――と呼べるものはなかったが、人間でいえば顔がある部位を向けあうと頷き合い、闇の蟠りを抜け出して月光の祝福を浴びながらどこかへと姿を消していった。
いまこそ闇の寝床より離れ、彼らの宿願を果たす時。
朽ちた武具を手に生と死の溢れる妖の山へと消えた影達の行く先を知る者は、いまはただ、無情にはるか天空に座す月のみ。
*
「役立たずめ」
藪から棒に罵る言葉が一つ、夜気を震わせた。
まだ年若い青年の声である。
体に流れる熱く若い血潮を世界の心理の解明に費やす学究の徒を思わせるような、知性に溢れながらも若さゆえの情熱を胸の奥で燃やしている青年。その姿を見ずに声を聞いた者がいたなら、そんな人物像を想像するだろう。
だが、その声の主を見たとき、ある者はあっと一声洩らして舌の根を震わせ、ある者は情けないほど呆気なく腰を抜かして尻もちをつき、またある者は恐怖に心蝕まれてもうお終いだと生の終わりを悲嘆するだろう。
青年の声を放ったのは、それはもう見事なまでの体格を有した巨大な狼であった。
腹ばいになり腰を下ろした姿勢であってもその肩高は子供の背丈よりも高い。狼としてはあまりに異様な巨躯は、純銀が色あせて見え誰も踏みしめていない処女雪が黒ずんで見えるほどに眩く輝く白銀の毛並みに覆われていた。
白銀の毛並みは、頂の見えぬ天に角突くような霊峰から地上へと降り注ぐ滝のように長く、異常な巨躯であるにもかかわらず犬族や狼族をはじめとした四足の獣を生みだす際に造物主が見本としたに間違いないほど調和のとれた巨大な狼の肢体の上で輝いている。
立ち上がれば六尺近くになるのではないかという規格外の巨躯、絶世の美姫の艶髪も屑糸になり下がってしまう光沢と滑らかさを併せ持った白銀の毛並み、水底まで見通せる湖の青とも、雲ひとつてなくそのまま魂が吸い上げられてしまいそうなほど晴れ渡った空の青を映し取ったとも見える瞳。
その存在を構築する全ての部位が、この狼が尋常な存在ではないと証明している。
妖哭山(ようこくざん)と近隣の村々の住人達から忌々しさと恐怖を込めて呼ばれる山の、外縁部に位置する森に住まう狼の妖魔“銀狼”改め“雪輝(ゆき)”である。
通常の狼の数倍はあろうかという巨躯を誇るこの狼の妖魔は、その姿形が自然と醸す圧倒的な迫力によって、初対面の者には抗いようのない威圧感を放つが、当の狼自身の性情はというと、温厚かつ大人しいもの。
天地万物の気が寄り集り狼という殻を形作って生じたこの妖魔は、生まれながらに善の性質を持っており、よほど明確に敵意を向けられない限りまず人間に危害を加えるような凶暴邪悪な妖魔ではなかった。
それどころか例え命を狙われるにしても、それが誤解の為であったり、雪輝自身が納得のゆく理由がもとである場合においてはまるで気にせず、何ら遺恨を残さぬという良くも悪くも寛大な、あるいは自身の生命に頓着しない性格である。
であるからこそ、温和な性格である雪輝が相手を面罵する言葉に心底からの想いを込めて吐くというのは、これは滅多にある事ではなかった。
雪輝が相手を罵る以外に用いられる事のない悪い言葉を、躊躇なく口にしたのは森の広場に建てられた樵小屋の中である。
とある縁から周囲の村の一つから差し出された生贄の少女を養う事に決めた雪輝が、当面の生活の場として選んだ場所だ。
かつて使っていた樵は既にここを引き払って長く、幸いにして生贄の少女が暮らしてゆくのに必要そうな生活用具を取りそろえる伝手が雪輝にあったため、小屋の中には水甕、布団、箪笥、鍬、鎌、蓑をはじめとした生活用具や農具が揃っている。
すでに小屋の周囲はことさらに深い夜の闇に閉ざされた時刻であるから、小屋の中の光源は囲炉裏の中で爆ぜている炎だけだ。
揺れ燃える炎の照り返しを受けて、誰もが見惚れるほど美しい白銀の毛並みを紅蓮に染めた雪輝が、もう一度、悪言をふたたび、全く同じ調子で流暢に人間の言葉を狼の口から発する。
「役立たず」
言葉と等しく冷たい雪輝の眼差しを浴びれば、一角の武人でさえも顔色の一つどころか、米神や頬、首筋、掌にと場所を問わずに氷のように冷たい汗を流して肝を萎縮させる。
雪輝自身の気性がいかに温厚篤実なもので、本質的な性質の一つが善であっても、彼は妖魔同士の闘争が果てなく続く妖哭山に生を受けた妖魔という事実は変わらない。
他者に向ける感情に黒いものが混じれば、たちまちのうちに雪輝が自然と発する妖気はその悪意の矛先となった対象へ、それが命ある者であれ、命なき者であれ害をなし災いとなるべく押し寄せてしまう。
ゆえに、雪輝に面と向かわれて役立たずの誹りと、雪輝自身は無自覚の敵意を孕んだ妖気を浴びせられた者は、体温が急速に低下し健康に異常をきたす程度の事態に見舞われてもおかしくはない。
であるにも関わらず雪輝の誹りを受けた相手は、というと萎びた実野菜に似た鷲鼻に指を突っ込み、白い鼻毛を数本まとめて引き抜いたきりだった。
「いて」
皺に覆い尽くされていたのは鼻ばかりでなく鼻毛を引き抜いた指も、襤褸同然の濃紺の服から覗く胸元に首まで数える事を即座に蜂起したくなるほどの無数の皺が深く刻まれている。
木乃伊かなにかというよりはむしろ皺まみれの人間の皮を剥いで、骨に張り付けただけという方が、雪輝の視線を向けられた老人の姿を現すのには正しい表現であったかもしれない。
妖哭山の内部に居を構える自称仙人の天外(てんがい)である。洒脱というよりは奇妙奇天烈な性格をしたこの老人を、雪輝は毛嫌いと苦手を足して割らない相手と考えている。
そのために普段から天外に対しての言動は、彼にしては珍しく辛辣なものを含む事が多かったが、今回の役立たずという発言はことのほか厳しい。
無論、山の外側と内側にそれぞれ居を構える雪輝と天外はおいそれと顔を突き合わして話をするのはそう気軽にできる事ではない。
以前、天外の元を訪れたときに預けられた遠距離間での連絡を取る事が可能となる不可思議な鏡を介して両者は会話していた。
樵小屋の壁に立てかけた材質もわからない鏡の向こうで、天外は引きぬいた鼻毛にふっと息を吹きかけ、目の端に浮かんだ涙を拭いながら大口を開き、ふあ、と欠伸をひとつ。
会話をする相手の神経を逆なでするどころかまとめて引き抜きかねないふざけた事極まりない態度である。流石に雪輝の堪忍袋の緒が人と比べてもかなり頑丈かつ太めに出来ているとはいえ、不愉快気な表情を露わにする。
白銀色の眉間には深い皺が一筋二筋と刻まれ、口蓋がかすかに開かれる。敵対者以外に見せるのは珍しい雪輝の軽度の怒りの相である。
わざと雪輝の機嫌を損ねているとしか思えない天外は、片膝を立てながら胡坐をかいた姿勢で、おざなりに謝罪の言葉を吐いた。
「分かっておるわい。猿どもの襲撃やらなんやらわしは役に立たなかったものな。しかしの、お前さん達の傷を治した薬はわしのやったものじゃろうが。まったく役に立っておらぬわけではないわい」
雪輝の役立たず発言は、先日雪輝とその庇護下に在る少女ひな、女剣士鬼無子を襲った猿の妖魔達の襲撃に際し、天外がまったく関与せぬままに終わった為であろう。
ただし天外の発言通り、魔猿達との戦いで瀕死の重傷を負った雪輝と鬼無子の命を救う一助を果たしたのは天外から譲り受けた薬だから、全く何の役にも立たなかった、というのはいささか言いすぎだ。
天外の言う事は分かってはいるが、それでも雪輝はこのいまにもぽっくりと逝ってしまってもなんらおかしくない老人の実力が、底知れぬ不気味なものである事を何となく察しており、助力があったならひなが白猿王なぞに人質に取られる事がなかったと考えると、処理しきれぬ感情の靄が胸の内に生じてしまい、雪輝自身情けなくはあるが、つい八つ当たりをしてしまった。
その自覚があるために、雪輝はそれ以上天外に文句を言うでもなくそっぽを向いて苛立たしげに長い尾で床を叩いている。
それを見やる天外はと言えば、顎髭を扱きながら興味深げに雪輝の様子を観察する。以前は、そう、あのひなという少女を拾うまでは、この銀色の阿呆みたいに大きい狼はこうも感情を豊かに表現することはなかった。
ひなという少女を保護し手元に置くまでの間は、たった一頭きりの存在という事で同胞もなく、かといって他の妖魔達と善性を帯びて生まれた雪輝とでは到底水も合わず、群れの一員に加わる事もなかった。
そのために他者と平和的に接する経験が極端に乏しく、生まれ持った感情を育む機会に恵まれてはこなかった雪輝は、生来持ち合わせた知識によって成熟した青年に相当する人格を形成していたが、ひなと過ごすうちに未発達であった感情が急速に豊かになり、最近では幼い子供じみた言動を取る事が増えている。
天外がひなを連れた雪輝と会った時、以前に比べれば随分と幼い印象を受ける言動をするようになったと思っていたが、今こうして改めて会話をしただけでもたった数日でさらに感情を隠さぬ子供めいた言動をするように変わってしまっている。
基本的に温厚で落ち着いた面は変わってはいないのだが、それ以上に稚気を抑えきれない子供じみた所が前面に出ている。こんな様を見ようものなら一部の者が崇敬している山の民など、あんぐりと大口を開けて驚きかねない。
雪輝に執心している狼の妖魔の雌長がこの事を知ったなら、ひな共々ろくな目に合わないだろう。
いや、むしろ子供っぽくなったという点に関すれば、口八丁で誤魔化しやすくなったと考える事もできるから、より積極的に雪輝に対して言いよる可能性も馬鹿にはできない。
まあ、色恋沙汰は当人同士が好きと勝手にすればよい話だ。
そっぽを向いたままの雪輝であったが、天外から見て横から伸びてきた小さな手に鼻筋を撫でられると、これは二重人格かと勘違いしそうな身代わりの速さで眉間の皺を解放し、床を叩いていた尻尾はゆっくりと左右に揺れ始める。
感情を抑えるという事を知らぬ以上に、イヌ科の生き物としての生物的特性を色濃く持っている雪輝は、喜びを感じている時は知らぬうちに尻尾が揺れてしまうのだ。もっともこの雪輝の場合は喜びの感情を隠すなどという発想が、そもそも頭の中に無い。
雪輝の鼻筋を優しい手つきで撫でる紅葉の葉の様に小さな手の主は、雪輝の庇護下に在る人間の少女、ひなだ。雪輝の精神に変貌を促した最大の理由である。
強力な妖魔である雪輝が、ちっぽけというほかない女童との出会いでこうも心を変えた事実は、天外からするとなかなか興味深い実例であった。
ひなは旱魃に見舞われて飢餓に襲われた村の身寄りのない少女であったが、雪輝の元に引き取られてからは食糧事情の劇的な改善と、精神的に余裕のある生活を送れていることから、いまは溌剌とした生命力に満ちた健康的な姿を取り戻している。
日ごろの野良仕事で肌は褐色の色に焼け、細い指は水仕事や土いじりで荒れて小さな傷が多いが、ほんの一月前は骨にわずかな肉と皮を張り付けた程度の有様であった事を考えれば、まるで別人の指である。
肉をげっそりと殺げ落したようだった頬も、幼さに相応しいふっくらとした弾力を取り戻していて、笑顔を浮かべれば見た者がつられて笑い返す太陽の様な陽性に満ちた笑みを浮かべることができるだろう。
すっかり夜も更けた時刻であるため簡素な寝間着姿で、普段は布で纏めている流れるような黒髪はそのまま背中に流している。
見上げるような巨躯と声を聞けば大人と分かる雪輝に対して、弟を宥めすかす姉の様な、あるいは癇癪を起した愛し子を慈しむ母のように語りかける。
「雪輝様、天外様をそのようにお責めになってはいけませんよ。頂いたお薬が無かったら、まだお怪我が治ってなかったかもしれないのですから」
「あの匂いのひどい薬などなくとも私ならもう治っていたさ」
「雪輝様が大変頑丈で傷の治りもお早いとは以前にも伺いましたけれど、あまり私を心配させないでください。お怪我が治るまで、胸が張り裂けそうだったのですよ?」
心持ち眉根を寄せて悲しげに言うひなに、雪輝はなにも返す言葉が見つからないらしく、二等辺三角形の耳をぺたりと倒し、纏う雰囲気に申し訳なさをふんだんにまぶす。
出会った当初、ひなが言う事なすことすべて雪輝に従っていた頃と比べて、本人達は気付いているのかいないのかは別だが、まるっきり力関係が逆転している。
いまならひながお手といえば喜々として雪輝は前肢を差し出し、お座りと言われれば電光石火の速さで座ることだろう。
とにかくひなに構ってもらうのが嬉しく、ひなにじゃれついていたいのである。母犬に甘える子犬というのが、現在のひなと雪輝の関係を例えるのに一番近いものであるかもしれない。
「すまない」
くぅん、と甘えるような声を一つ出しながら、雪輝は安らぐ匂いの薫るひなの首筋に鼻先を埋め、数度首を振りながらやや湿った黒いぽっちみたいな鼻先をひなの肌に押しつけて匂いを嗅ぐ。
ひななど簡単に丸呑みにできる雪輝がそのようにしている光景を、一人と一匹の関係を知らぬものが見たら、巨大な狼がいたいけな少女を無慈悲にも餓えた腹を満たすために食べようとしているようにしか見えない。
もっとも、もし食べるものが無く、ひなが餓えるような事になれば、我が身を食らえと差し出すのが雪輝であるから、そのような事態には万に一つもなりえない。
自分に甘えてくる雪輝に対する愛おしさから、ひなはよしよしと自分の数倍以上もある雪輝の首筋に小さな手を回し、極上の手触りを伝えてくる雪輝の白銀の毛並みをあやすように撫でる。
もとからふわふわもふもふとした毛並みを持つ雪輝であるが、とくに首周りから胸にかけては、まるで獅子のたてがみのように一回り大きく盛り上がっており、その周囲の毛並みの手触りは一層柔らかく心地がよい。
ひなのほっそりとした手が自分の毛皮を撫でるたびに、雪輝は自身の胸中の暗い感情がつぎつぎと洗い流されてゆくのを感じて、心地よさに身を感じて目を細めながらひなにゆっくりと体重を預ける。
赤子が自分を傷つける事がないと分かっている母の胸で穏やかに眠るように、雪輝はひなの手のぬくもりと匂いに包まれてぐるぐると喉の奥を鳴らし、気持ちいいとひなに伝える。
「ふふ」
雪輝の耳が満足そうにぴくぴく震えているのを見て、ひなもまた雪輝の気持ちを宥め、気持ち良くなってもらえた事が嬉しくて、小さな笑みを漏らした。
小屋の中に居るのがこの一人と一匹だけであったなら、ひなに睡魔の手が伸びるまでこうして時の流れるままに過ごしていただろうが、あいにくとつい先ほどまで雪輝と会話をしていた天外がこの場には残っていた。
また、こいつらは一人と一匹の世界に入り込みよったわ、と胸中で吐き捨てる。天外の住まいを訪れて簡単に文字を教えた時もそうだったが、この一人と一匹はどうも過ごす時間が長くなればなるほど、他者の目というものを忘れてお互いの事だけしか見えなくなってしまうらしい。
「獣の分際でまー小生意気なやっちゃなあ。おい、主ら、いい加減わしとそこな剣士殿の事を思い出さんかい」
「まあまあ、天外殿。ひなと雪輝殿の気が済むまで好きにしてさしあげましょう」
「夜が明けるまでこうしていかねんが、それでよいならの」
仙人というにはあまりにも俗な反応で不貞腐れる天外を取りなしたのは、囲炉裏を挟んで雪輝とひな達の反対に座している四方木鬼無子(よもぎきなこ)である。
ひなが狼の妖魔の生贄に捧げられたと近隣の村で耳にし、孤剣一振りを手に救出に向かった熱い血の流れる廻国武者修行中の素浪人の女剣士は、魔猿達との死闘を終えたのちもしばらくはひな達と行動を共にするつもりなのか、いまだに小屋に逗留していた。
自前の筒袖を脱ぎ、ひなから借りた丈の合っていない寝間着姿である。着飾り黙して目を伏していれば、蝶よ花よと掌中の珠のごとく育てられた姫君にも見える気品あふれる美貌の主で、質素な衣服をまとい栗色の髪を飾る事もなく流していても不思議と絵画に描かれた貴人のように見える。
ただこの貴人は刀を持てば人を鉄の鎧と骨込めに切断する刀剣の技を振るい、素手でも大熊とがっぷり四つ組み合っても容易く組みふせて首をねじ切る膂力の主である。
完全に調子が戻ったわけではないようで、白魚の様な指は薬湯を注いだ湯呑を持ち、苦笑を作る紅を刷いたように赤い艶やかな唇に湯呑を運んだ。
品よく薬湯を啜る鬼無子の咽喉がこくりこくりと動くと、ようやくひなと雪輝は天外と鬼無子達からの視線に気づいたようで、申し訳なさそうな表情をそれぞれが形作る。
「すまんな、鬼無子」
「ごめんなさい」
とはいうものの、雪輝の鼻先こそひなから離れたが、雪輝の首回りを撫でるひなの手は動く事を止めていないし、雪輝もそれ以上はひなから離れようとはしていない。
短い付き合いではあるが共に過ごした時間が濃厚であったため、鬼無子の方もひなと雪輝の絆を理解しており、特に何か言うようなことはなかったが、多少やれやれと思わないでもない。他人の惚気ほど、見ていて鬱陶しいものはそうはないのだから。
「しかしまあよ。お前さんの名前も決まったようでなによりだの。雪輝、か。まあお前さんの毛の色を考えりゃわりと良い名前かの。お前さんの真名(まな)を隠す意味でもその名前を使うのは良いか」
「真名?」
問うたのは左の耳を倒して小首というか大首をひねった雪輝である。自分に関わりのある事らしいが、聞いた覚えのない単語であったらしく、聞き返す狼面には純粋な疑問の色だけが浮かび上がっている。
「ご存じないのですか?」
鬼無子がやや驚いた風に雪輝に聞く。名人の筆が繊細かつ大胆に引いたように美しい眉が、片方ぴくんと上がっている。
天外のみならず彼女もまた妖魔の真名について知識があるらしいが、その身に妖魔の血を宿す特異な血族の末裔である事を考えれば、むしろその知識は雪輝よりも多く深いものであるだろう。
天外は――おそらくは面倒だったからだろうが――説明の機会を鬼無子に譲る気らしく、鏡の向こうで腕を組んで黙ったままだ。
「ええ。その者の真実の名前です。これを他者に知られる事は極めて大きな意味を持つのですよ。一概には言えませんが、互いの存在の格が格段に離れていればともかく、真名を使って命じられるとまず逆らう事が出来なくなります。
有象無象の名もない妖魔であればそもそも真名を持つ知性やそこに至るまでの力を持ち得ませんが、雪輝殿ほどであれば十中八九お持ちのはずなのですが……」
「そうは言われても私は親もなく生まれた妖魔だ。名を与えられもしなかったし、自分で考えたこともなかったがね」
「ふうむ。妖魔の種族によっては修業場所などがあり一定の階位にいたり名を送られる事でそれを真名とする場合もありますが、雪輝殿はいわば始祖に当たる原初の妖魔でありますから、その様な事はありますまいし、自分の真名を知らぬというのはなんともおかしな話ですね」
鬼無子にとっても初めて耳にする話の様で、こちらも美貌を傾げるばかり。鬼無子の知識と記憶に在るこの国の妖魔達と比較しても、先日交戦した猿の妖魔達や目の前の巨狼の妖魔としての格は上位に名を連ねるものだ。
流石に単独で一国を滅ぼすような伝説級の妖魔には及ばぬが、並みの退魔士では徒党を組んでも雪輝を害することはできまい。
それほどの強力な妖魔が真名を持たずに在るというのは、鬼無子がいまは無くなってしまった実家で見聞した書物や話の中にもない。高位の妖魔が自分の真名を知られぬように偽りの名を名乗る話ならいくらでもあったが。
首をひねり合う獣と美女の姿が面白かったのか、天外はくく、と人の悪いことこの上ない笑声を咽喉の奥で上げてから、口を開いた。枯れ果てた老人としか見えない外見を裏切る精気に満ちた声であった。
「まあ、真名の有無はここで論じても始まるまいよ。本人も知らぬのなら真名を忘れたか、例外として生来持ち合わせておらぬのかもしれぬ。雪輝という名前が真名となるかどうかは知らぬが、多少なりともその名前の影響を受けているのも事実だしの。どうなるかはこれから様子を見た方がよかろうよ」
天外の言葉の中に聞き逃せぬものを聞き取り、右の耳の先端をぴくぴく動かしながら雪輝が口を開いた。
「私の“雪輝”という名が、何か問題でもあるのか?」
ちら、と名前を与えてくれた小さな少女を横目に見ながら、雪輝が問う。自分が名前を与えたせいで何か悪い影響があるのかと、ひなは気が気でない様子である。
この狼と少女、自分が相手に迷惑をかける事を極端に嫌う傾向にある。
雪輝の場合は友好的に接して話し相手になってくれたひなは、新しい自分をいくつも発見させてくれた特別な存在であるし、ひなからすれば惨めというほかない村の暮らしから自分を解放し、今は亡き父母と同じよう慈しんでくれる雪輝への慕情がある。
とくにひなの場合は人生の半分近くを過ごした村長の家での生活の中で、少しでも役に立たぬようなら容赦なく罵詈雑言と暴力を振るわれる環境で過ごした所為で、誰かの迷惑になるという事に恐怖さえ抱いている節がある。
そこまで正確にひなの心中を読み取ったわけではないが、雪輝は天外に下手な事を抜かすようなら首を噛み切るぞ、と視線で警告を発していた。
恫喝の意識を秘めた雪輝の青い視線を受けても、天外は軽く肩をすくめるきりである。
本当に仙人かどうかは極めて不明瞭であるが、深い知識と不可思議な力を持っているのは事実であるし、妖気のこもる雪輝の視線を受けて平然とした態度を取る胆力といい、妖魔の住まう山の中心部に近い場所に居を構えている事といい、やはり尋常な人間ではない。
「お前さんの白銀の毛並みもそうだが、雪の一文字が入った名前の影響でお前さんの水気が増しておる。水気は金気によって活力を得、土気に弱く、木気に活力を与え、火気に強い。
今のお前さんは銀狼と名乗っておった時よりもいくらか水気よりの妖魔になったという事じゃよ。大雑把にいえば火気と金気の妖魔に強くなり土気と木気の妖魔がちと苦手という事だの」
「ふうん。水に関連する一字を戴いたから水気が増したという事か? あまり自覚はないが、あと私の毛の色も何か意味があるのか?」
「水、金、土、木、火の五属にそれぞれ対応する色があっての。それが一致すればするほどその気の強い妖魔という事になる。水気の妖魔であるなら、青、白、銀あたりで、お前さんは見事にまあ的中しておるじゃろ?
瞳は青く毛は銀だしの。とはいえお前さんは天地万物の気がほぼ同じ割合で混じり合って生まれた妖魔であるから、極端に水気が強くなったというわけでもないの。気持ち水気が増した程度よ」
天外の説明を補足するように、鬼無子もまた口を開いた。
「有名な所で水気の強い妖魔といえば、やはり水辺に住まう生き物が年を経て妖魔になったものなどですね。あとは河童や龍神、魚人、人魚、玄武、雪女などもそうです。
雪女などは総じて白か銀の髪を持ちますが、これで瞳の色が先ほど天外殿の挙げられた三色であれば、ほぼ間違いなく最高位に近い力を持つ雪女でしょう。雪輝殿の場合はそのお名前といえども水妖というほど水気が強いわけではありませんよ。
真名というわけではありませんが、雪輝殿を妖魔としてなにか名付けて呼ぶとしたならそうですね、銀毛青眼一尾狼(ぎんもうせいがんいちびのおおかみ)といった所ですか」
「銀毛なんとかいうのは、妖魔の容貌をあらわす言葉かね?」
「ええ。人間が妖魔の容姿をあらわすのに便宜的に用いる事もあれば、修業先や血縁のある妖魔から尊号として贈られる場合もあります。これで在る程度相手の力量を測る目安になる事もありますよ。伝説的な妖魔に近い尊号を送られていれば、それだけ血統か力量が近いという事になりますからね」
「血統は私には無縁だし、そのように長い名前を名乗る気にはなれんな。しかし、名前一つでずいぶんと色々あるものなのだね」
雪輝は新たに仕入れた知識にしきりと感心している風だ。己の知らなかった事を受け入れるのに何の抵抗もないようで、自分の無知を少しでも埋める事にはむしろ積極的なようだった。
「左様で。いまさら隠しても仕方がありませんが、たとえば某の“鬼無子”という名は鬼の無い子と書きますが、これは四方木家に流れる妖魔の血肉を少しでも抑え、人間として生きられるようにする意味も込められています。
他にも我が四方木家の宝刀“崩塵”にしても、これは尋常な方法では死に難い妖魔を“塵と崩れるまで殺し尽くす”という言葉が語源となっているのですよ」
「言葉には力があるという事か。私は雪輝という名前を気に入っているし、ひなのくれた名前だからこれを生涯名乗るつもりだけれどね」
「ふふ、それがよろしいかと存じます。雪輝殿の事を一番に考えるひなが考えた名ですから、雪輝殿にとってもこれ以上良い名前はないでしょうから」
「うむ、鬼無子の言うとおりだな」
「私も雪輝様が気に入ってくださったのならとても嬉しいです。えへへ」
すっかり見慣れた狼面でもはっきりと分かる満面の笑顔に感謝の気持ちを込めて、雪輝はひなを振り返る。雪輝にも負けない可愛らしい笑みを浮かべて、ひなも雪輝をまっすぐに見つめ返し、再びその首回りや咽喉をゆっくりと愛しさを込めて撫でる。
くぅん、とまた一つ甘えるような、いや、甘えきった鳴き声が、ぱちりと火の粉が爆ぜるのに紛れながら、雪輝の喉奥から零れた。
同じ夜空の下、黄泉路より舞い戻った何者か達の足音はまだはるか彼方に在った。
<続>
命名編完結でのたくさんのご感想ありがとうございます。今回は書き溜めているわけではないので更新は遅くなってしまいますが、どうかお付き合いをお願い致します。ご指摘ご感想ご忠告をお待ちしております。よろしくお願い致します。