文化祭の終わりに、私はこの世界が作りものであると言われた。
文化祭2日目の午後。
自習室を後にした私は、今までにないほどの興奮を感じていた。
だって、不思議の手掛かりが、こんなにも私の身近にあるなんて思いもしなかったから。
これだから、不思議を調べることは止められない。
今日聞いた話をノートに書き込みながら、私は廊下を歩く。
まずは佐藤のことを調べる必要がある。
彼が言っていたことが本当に正しいのか、事実の確認をしなければならない。
それと今まで集めた情報も再確認しないといけない。何を見落としているか分からないから。
ふと足を止めて、窓から運動場の様子を見た。楽しそうに後夜祭の準備をしている生徒たち。
祭りが終わり、ひとつの区切りができる。普通なら区切りから区切りまでの間には充電期間がある。
けれども、私の場合はここから何かが始まる気がした。充電している暇なんてないぐらいすぐ何かが起きる予感。
視線をグラウンドから外すと、窓ガラスには私のニヤけている顔が映っていた。
誰かに見られたら恥ずかしいが、この嬉しさを隠せるわけがない。
私はその嬉しさをさらに表現するように、窓に向かってさらにニヤけて見せた。
世界にはまだ不思議が転がっている。それもたくさんあるんだ。
「あの……松永さん?」
「ひゃっ、はい!」
変な声を上げてしまった私は、すぐに声がした方を向いた。
心配そうに声を掛けた男子生徒は、織田君だった。
ああ、変な顔を彼に見られてしまった。
窓ガラスを見なくても、自分の顔がひどいくらい赤くなっていることが分かる。
「だ、大丈夫?」
「へ、平気よ。平気! そうそう、思い出し笑いってあるじゃない?
昔あったどうでもいいことを急に思い出してしまって、笑いのツボに入ってしまうこと。
たまたまさっき思い出しちゃったのよ。傍から見たら間抜けかもしれないけど、人間が笑うことは変なことじゃないのよ。
人間は笑うことで頬の筋肉を鍛えられるし、顔つきも良くなるみたい。今回はタイミングが悪かっただけで、その……忘れてくれる?」
「えっ……うん。分かったよ」
焦ってしまい、捲し立てるような早口になってしまった。
目に見えて織田君が戸惑っている。ああ、顔から火が出てもおかしくない。
「その、なんかごめんね。僕が変な時に声を掛けてしまって」
「いいのよ、織田君が謝る必要はないのよ……」
さきほどまであった高揚感が私の中から消えていく。
合わせて不思議を見つけた嬉しさも半減してしまったが、そのおかげで冷静な思考を取り戻しつつあった。
私は改めて、目の前にいる織田君を見る。
織田信樹、かつて同じクラスにもなった同級生の男子。彼を一言で例えるなら、優しい人だ。
もちろん、その優しいというのには良い意味と悪い意味が含まれている。
一年生の時に同じクラスだったから分かるけど、彼は周りに流されやすい。
自分よりも他者を優先してしまう彼の優しさ。
見る人から見れば、自己主張ができない優柔不断な男だと思われるだろう。
そして佐藤の話と説明書を信じるならば、彼はこの世界の主人公のようだ。
「……松永さん、どうかしたの?」
私の知っている限り彼には特別な能力も才能もないはずだ。
アクション映画やスパイ映画などに出てくるような、超人的な運動能力も頭脳もない。
けれども『School Heart』のジャンルが恋愛だからこそ、彼は主人公らしいと言えるかもしれない。
顔立ちは悪くない。と言うか女子の中でもたまに話題に上がるほどだ。
「何でもないわ。ところで、私に声を掛けてくれたけど何か用事があるのかしら?」
変な顔をしていたから声を掛けたなんて言われた私は死ぬ。
でも、実際のところ織田君が私に声を掛けた理由は違っていた。
「君に謝りたいことがあるんだ。僕は君に嘘をついていた。それを謝りたい」
彼は私が以前に書いたノートの切れ端を取り出して、とんでもないことを口にした。
「『SH』は『School Heart』の頭文字。4月の時に知らないと言ったけど、僕は『School Heart』を知っている」
驚いた私は呼吸を忘れて、再び彼の顔を見る。
どうして彼はこんなことを言うのか。その問いに彼は答えた。
「君の助けが必要なんだ」
▽
正しい主人公の倒し方 第三十話
~少しは素直に~
▽
冷たい夜の風が俺の肌をなぞる。鳥肌が立っているのは、この寒さのせいばかりではない。
松永は自分が織田の協力者であることを認めた。そして彼女は、俺の顔を見つめる。
「最後の定期報告会になるけど、いつもみたいに互いの近況報告をしてから妨害方法を検証してみる?」
松永と二人でしていた定期報告会。一学期の放課後に、俺達は織田を倒すための方法を語り合っていた。
その頃と変わらない素振りで、松永は俺に話しかけてくる。
「二学期になってから新しく仕入れた情報もあるわよ。もしかしたら妨害の時に役立つかもしれないわ」
「……『最後』ってなんだよ」
「私と佐藤の関係は、この報告会をもって終わり。パートナー契約は終了。晴れて私たちは、ただの同級生という関係に戻るわ」
「そんな……」
「それとも佐藤は裏切った相手と関係をまだ持っていたのかしら? 本当にお人好しね」
馬鹿にしたようにクスクスと笑う松永を見ると、怒りではなく悔しさが湧いた。
「俺はまだ信じられていないんだ。お前が本当に協力者だったなんて……」
「あなたは真実に辿り着いたはずよ。それに織田君の協力者である私自身が認めているんだから、素直に受け取ればいいのよ」
「……」
「人は一面で判断することはできない。あなたが見ていた一面からは、私の全てが見えなかっただけのことよ」
「それでも俺はお前と一緒にいた。全てが演技だったとは信じられないんだ」
「……あなたと過ごした時間全てが演技なんかじゃないわ」
松永はそれ以上語らず「聞きたいことある?」と促した。
どうやら彼女は自身が協力者であることを前提に話を続けたいらしい。俺は諦めて、松永に疑問をぶつけることにした。
「……どうして織田と協力しているんだ」
「織田君にあなたの妨害を教える見返りに『School Heart』の情報をもらっていたのよ」
「情報をもらっていた?」
「ええ、そうよ。私にとって、あなたの妨害が成功することも、織田君がハーレムルートに行くことも、どうでもいいことだった。
ゲームの情報さえ手に入ればそれで良かったのよ」
たかが情報と思うかもしれないが、松永なら有り得る理由だった。元々松永が俺とパートナーを組んでいた理由も、情報を得るためだ。
だから、情報のために織田と手を組んでいても何の不思議もない。そうやって納得ができてしまう自分が嫌になる。
「織田の協力者は何人いるんだ?」
「私以外いないんじゃないかしら。織田君が私に内緒で協力者を募っていたなら別だけど」
「本当か?」
「疑うならどうぞご自由に。ここで私が嘘をついてもメリットにならないことも考えてほしいわ」
「嘘の情報を流して、俺を油断させるというメリットがある」
「そうだったわね。でもね、あなたは私の言葉を聞く以外ないわ。それしか情報がないんだから」
「……協力と言ってもどんなことをしていたんだ?」
「妨害の情報を伝えていただけよ。場所や時間だけでも織田君はあなたの妨害を予測できたみたい」
「織田はゲームを持っていたから、イベント内容から妨害を予測はできるだろうな。ゲームはプレイしたことあるか?」
「ないわよ。織田君が持っているのは知っていたけど、一度も触らせてくれなかったわ」
松永は「他には?」と聞いてくるが、質問はなかなか思いつかない。
ここまできても松永が協力者であることを認めたくない気持ちが、自分の中に残っている。
だから、織田と松永の関係ではなく俺と松永の関係を聞くことにした。
「何故俺とも手を組んだ?」
「ゲームを進行させようとする者、止めようとする者。そのどちらからも私は観察できる立場だった。情報を得るためなら最適な立場でしょ?」
「二学期の腐った俺を励ましたのも情報を得るためか?」
「その通りよ」
「勿体無いな……」
「何が?」
「それだったら、何故協力者であることを認めたんだ。今後一切、俺からの情報は入らなくなるぞ」
松永はわざらしい大きな溜息をついてから、眼鏡のブリッジを中指で持ち上げた。
「気の迷いよ。信じるものを無くして死にそうなあなたの顔を見たら……どうでも良くなったのよ」
少しだけ見せた隙。どうでも良いなんて、情報に拘る彼女にしては可笑しな心変わりだった。
「本当にそうなのか?」
「……う、五月蝿いわね。本当にどうでも良くなったのよ」
一瞬だけ松永の言葉が詰まった。
「俺が協力者だったら、明日に妨害をしようとする奴に自分の正体は明かさないぞ?」
「だから、気の迷いって言ってるじゃない。あなたは私が眼鏡を掛けていることを知らなかった。それと同じよ。
あなたの知らない私の考えがあっても変なことじゃないわよ。それとも何? あなたは人の考えが読めるとでも言うの?
ゲームが元になっていると言っても『School Heart』には、魔法や超能力なんて出てこないはずよ。そんなものを持っていたら、あなたはモブなんて寂しい立場じゃないわよ」
「読まれたくない考えでもあるのか?」
「……あるわけないじゃない。どうして笑っているのよ?」
松永は、焦ったり緊張したりすると喋って誤魔化す癖がある。
きっと俺に知られたくない考えを松永は持っていて、それは松永が心変わりをした理由でもあるはずだ。
一緒と過ごした時間の全てが演技じゃないなら、それだけで十分だ。俺は彼女の全てを知らなくても、一面は知っている。
「いや、何でもない。笑ってなんかいないさ」
「はあ……大きな勘違いをしているのにそんな顔していられるなんて余裕ね」
「大きな勘違い?」
「その勘違いしたまま、私が協力者であることに気づけたんだから大したものよ」
「俺は何を勘違いしているんだ?」
「そんなの自分で気づきなさいよ。ヒントは、私と織田君の関係」
松永と織田の関係? ゲームであるなら主人公とサブヒロインだ。
松永が攻略されることはないはずだが、ここで聞いてくるということは、それなりの関係があるのだろう。
「松永は、織田の6人目の恋人なのか?」
「違うわよ馬鹿。もっと真面目に考えて」
こちらをじっと見てくる松永。どうやら茶化す場面ではなかったようだ。
この流れで関係してくることは、妨害のこと以外有り得ないだろう。
松永は織田に妨害の情報を流していた。そして受け取った織田は、俺の妨害を上手く避けていた。
しかし、今日のウォークラリーで妨害は成功をした。それは松永が織田に情報を渡していなかったからだが、俺たちが妨害する可能性ぐらいは伝えられたはずだ。
このタイミングで協力者であることを打ち明けて、織田との関係を聞いてきた。そんなことをわざわざ聞いてくるということは……。
「もしかしたら……今は織田と協力していないのか?」
「正解よ。今日、私は織田君に情報を渡していない。今までだったらどんな些細なことでも伝えていたわ」
「トラブルでもあったのか?」
「そんなところね。正解したから言うけど、私は二学期に入ってから織田君と協力していないわ」
「だいぶ前からだな。協力しなくなった理由は?」
「……言えないわ。大丈夫、そんなに大した理由じゃないから」
話してくれないと余計に聞きたくなるが、その衝動をぐっと抑えた。
肝心なところで質問をはぐらかす松永。俺は彼女がどうしたいのかイマイチ掴めずにいた。
彼女から聞いた情報を頭で整理していると、矛盾があることに気づいた。
「それならどうして風呂の妨害が失敗したんだ。協力していないなら、妨害は成功するはずじゃないか」
「さあ? 妨害を素直に受けるほど織田君も馬鹿じゃない。大方風呂のイベントが起きないように細工でもしたんじゃないかしら?」
「イベントを起こさせないようにすることができるのか?」
「簡単よ。織田君が登場人物に接触しなければ、イベントそのものは発生しないわ」
「待ってくれ。俺はヒロインを誘導して織田と会わせないように妨害したことがあったぞ」
「一学期の頃、私が妨害内容を織田君に伝えていたことを忘れたの?」
確かにそうだ。一学期の頃の俺は、松永に妨害の情報を馬鹿正直に伝えていた。
「そうだったな……。でも、イベントを発生させない方法があるなら、明日の妨害でも使えるんじゃないのか」
「残念だけど、この方法は全ての時に通用するものではないの。そのポイントは2つあるわ。
1つ目はその場に代役がいた場合。台詞や行動も、その人でなければならない理由がない限り、代わりの誰かで済んでしまう。
2つ目は重要なイベントだった場合。小さなイベントなら大丈夫だけど、ストーリーに関わるようなものだったらまず無理。
だから、イベントを起こさせないこの方法は明日のスキーだと無理だと思うわ。あなたが何度も体験した修正力によってね」
そう簡単に事は進まないか。
「結局、また修正力とやらに振り回されるのか」
「仕方ないじゃない。これまで調べてきた結論から言うと、この世界には決められたルールや修正力が存在しているんだから」
「分かりきっていたことだが、そんなものが存在しているなんてふざけているな……。欠点でもあれば助かるんだが」
「欠点ならあるわよ。修正力が存在する意味を考えれば分かるわ」
言われたように存在する意味を考えてみるが、答えは見つからない。答えを聞こうと松永の顔を見ると、彼女は頬んだ。
自分の知識を誇らしげに話そうとする、いつも見ていたあの笑顔だ。
「修正力は『シナリオを正常に進行させる』ために存在していると思うの。
イベントが発生した場合、どんなことをしても中断することはできないルールなんて、一番良い例になるわね。
登場人物をゲームのシナリオ通りに動かすことが、修正力が存在している意味なのよ」
「それのどこに欠点があるんだ」
「一見完璧にも見えるかもしれないけど、そこにはシナリオの方向性を保証していないという欠点があるわ。
現にウォークラリーではシナリオが悪い方向に進んでも、修正力がかかることはなかったはず。あなたも気づいていたはずだけど、修正力は主人公さえも操れない力。
それはあなたが思っているよりも不確実で、適当で、結構いい加減なものよ」
いい加減なものならもう少し働きを抑えて、明日の妨害を成功させてほしいところだ。
「むしろ登場人物はゲーム通りに動かないといけなくなるから、修正とはニュアンスが違うかもしれないわ。強制の方が正しいかも」
ゲーム通りのシナリオになるよう様々な事が強制される。不自由なのは十分承知しているが、この縛りを無理矢理解く必要はないだろう。
俺の目的は主人公を倒すことなのだ。むしろ、織田すら完全に操作できない力なのであれば、こちらにとって好都合ではないか。
俺はちょっとだけ息を吐いて、気持ちを落ち着かせた。明日のために考えなくちゃいけないことは山ほどある。でも、ここに来てようやく余裕が生まれた。
改めて眼の前にいる松永を見る。彼女が裏切っていたことを知らなかった。眼鏡を掛けていることを知らなかった。修正力の意味と欠点を知らなかった。
世の中には知らないことだらけだし、俺の知らないことなんてまだ山ほどあるだろう。
「ありがとな」
笑顔でそう言ったことが自分でも分かった。松永は目を見開いてこちらを見てくる。
そりゃ、いきなり前後を無視して感謝の言葉を言われたら驚くのは当たり前だ。
けれども、今しか言えない。明日のイベントに松永はいない。だから、俺は言う。
「苦しかった時期もあったが一人で妨害をしていたら、きっとここまで辿り着けなかったと思う」
「突然何を言い出すかと思えば……違うわよ。あなたは私がいなくてもここまで来れたはず」
「そんなことはない。松永は俺の知らないことを知っていった。それを基にして行動することができたんだ」
「やめて……」
「今しか言えないんだ。言わせてくれ」
「やめてって言ってるじゃない!!」
松永は俺の言葉を否定した。それまで溜め込んでいたものを弾けさせるような大声だった。ここまで感情を表した彼女を見るのは、初めてのことだった。
肩をわなわなと震わせて、目尻には涙が見えた。けれども、その涙は決して落ちることなく堪えているようだった。それはゲームの中でも一度として見せたことのない姿だった。
「どうして急にそんな事を言うのよ。あなたが言うべき言葉はそれじゃない!
私がいなかったら、妨害のどれかは成功していた! 織田君に妨害の情報が漏れることもなかった! 私はあなたを駄目にしたきっかけの一つなのよ!
私はあなたをずっと騙していた。だから、感謝される筋合いはないのよ! どうして罵声や恨み事の一つも言わないのよ!」
そう言われると、俺は松永に対して怒ったり恨んだりしていないないことに気がついた。
裏切られていたことはショックだが、それは悔しさの方が大きかった。勿論、その悔しさも自分に向けられているものだ。
「どうしてだろうな?」
「どうしてって……私は殴られることも覚悟していたのに」
「多分だけど、気持ちが全て自分の方へ向けられているんだと思う。裏切られたことの悔しさも、何も信じられなくなった情けなさも、俺自身が気づけなかったせいだから」
「それでも――」
「それでも俺は松永に感謝しているんだよ。怒りも悔しさも、お前がいてくれて、知らないことを知れたことに比べたら小さい。
裏切っていたとしても、情報収集とか熱心に手伝ってくれたじゃないか。もう一度言うけど、お前がいなかったら俺はここまで辿り着けなかったと思う」
言葉を遮って、自分の言いたかったことだけを並べた。本音だからこそ、詰まること無く言える。
それを聞いた松永は口を開けたり閉じたりして、何を言うべきか迷っているようだった。
「それだと私が納得できないのよ……。裏切っていた責任はどうするのよ?」
「俺は納得している。誰も責任を取る必要なんてない」
「……やっぱり私を殴って」
「おい、冗談だろ」
「こんな時に冗談は言わないわよ」
『School Heart』のバッドエンディングの一つにも、こんなシーンがあったことを思い出した。
織田がヒロインに平手打ちしてくれと頼むもの。言葉だけ聞けば奇妙なシーンだが、あのシーンの織田と今の松永の気持ちは分かる。
見える形での謝罪が欲しいから、こんなことを頼んでいるんだ。
「殴ってくれたら、私の気が済むから」
俺の気持ちを無視して、松永は勝手に目を閉じてじっと待っていた。彼女の顔には、一筋だけ流れ落ちた涙の跡が見えた。
「……早くしなさいよ」
俺は右腕を開いて、彼女の頬に狙いを定めた。
松永と組んでいたパートナーという関係は居心地が良かった。
裏切られていた事実がそこにあったとしても、俺にとっては大切な関係だった。そう思ってしまう自分は甘いのかもしれない。
でも、それでいいじゃないか。織田がみんなを幸せにするためにハーレムを作ったというなら、俺も自分のために行動をする。
振り払おうとする右手を、彼女の頬に当たる寸前で止めた。俺の冷たい右手が彼女の温かな頬に少しだけ触れる。
「えっ、これだけ……?」
「これだけだ。膨れ上がった利子があるから、これで清算。もう貸し借りは無しだ」
「……へたれ」
「女の顔を思いっきり殴れるかよ。なあ、松永。お前が織田に協力した理由に、恋愛感情は含まれていたのか?」
「さあね、あったかもしれないし、なかったのかもしれない。今となっては分からないわ。……そろそろ宿泊棟にいないと怒られるから、私は戻るわね」
腕時計で時刻を確認すると、9時を指そうとしていた。就寝時間までに宿舎へ戻らないと、教師に目を付けられて明日の妨害にも影響が出てしまうかもしれない。
「待ってくれ!」
去ろうとしていた松永の背中に向かって、俺は声を出した。
「お前は最高のパートナーだったよ」
「……」
「お前に会えて良かった」
「そういう言葉は好きな子に言うべきよ」
「好きだから言ってんだよ。ただし、パートナーとしてだけどな」
「ええ、私もあなたのことが好きよ。ただし、パートナーとしてだけどね」
最後まで俺達は捻くれたやり取りをしてしまう。
「今まで騙していてごめんなさい。そしてさようなら、パートナー。良い結果を期待しているから」
▽
夏休みに入ってから佐藤と連絡が取れなくなり、織田君からは「ルートが決まった」と連絡を受けた。
不安を抱えながら夏休みを終えると、佐藤が謹慎処分を受けていたことが分かった。
彼が復学したと聞いて、私はすぐに彼に会いに行く。
「だから、俺に期待するな」
彼は変わってしまっていた。いくら言葉を掛けても、彼は立ち直ろうとしなかった。
「……この意気地なしーー!!」
自習室を去る彼の背中に向かって、思いっきり叫んでしまった。
こんなことをしたかったわけじゃないのに、彼の態度が気に入らなかった。
そもそも私は何のために彼に会いに行ったの? 裏切っていたことを正直に話すつもりだったの?
自分自身でさえも分からず、苛つくばかりだった。
「もうなんなのよ……」
その日の放課後、私は織田君と話すことした。文化祭の終わりに協力関係を結んでから、織田君とは頻繁に顔を合わせている。
それでもその協力関係とは、情報を交換するだけのとてもドライなものだ。私が佐藤の妨害や学校で起きている情報を伝える代わりに、ゲームに関する情報を貰う。
そんな関係だからこそ、今でも私は織田君の目的が分からないでいた。口癖のように呟く『皆を幸せにする』という言葉だけが、彼の意志を感じる唯一のものだった。
生徒が少なくなる時間帯を見計らい、織田君の教室で二人っきりになったのを確認してから本題を切り出す。
「織田君、あなたは『皆を幸せにする』って言ったじゃない。あれは嘘だったの?」
「嘘じゃないよ」
「それじゃあ、何で佐藤があんな風になっちゃたのよ! 皆の中に佐藤は含まれていないの?」
その質問に、織田君は答えを出さなかった。
「……君の助けはもう要らない」
「えっ?」
「今までありがとう。ここからは僕の我儘になるから」
「どうしてあなたまでそんなことを言うのよ……!」
彼は口を固く噤んで、真実を語らないようにしている。
苛つく。本当に苛つく。
急にこんなことを言い出した織田君に、塞ぎこんでしまった佐藤に、そして理由も分からず迷っている私自身にも。
その苛つきが私の頭の中で、ノイズとなり思考を妨害してくる。
「せいぜいハーレムごっこでも楽しんでればいいのよ!」
教室に響いた罵声。自分自身でも驚くくらい大声を出していた。
私は息を切らせながら織田君を睨みつけ、そしてすぐさま教室を出た。
本当に馬鹿みたい。誰が? 私自身に決まっている。
なんで私は、こんな結末になることを予測できなかったのだ。こうなった原因が私にあるのに、誰も私を責めない。それが辛い。
廊下を歩いていると、手に痛みを感じた。立ち止まって、手の平を見ると爪が食い込んだ跡があった。
顔を上げて窓を見ると、そこには今にも泣きそうになっている不細工な顔が映っていた。
気持ち悪いほど潤んでいる瞳。無理やり口角を上げて笑顔を作る。手の痛みも胸の痛みも気にしないようにする。
でも、駄目だ。笑顔なんて作れやしない。今日の私は、本当にどうかしている。
「ああ……分かったわ。今日、どうして佐藤に会いに行ったのか。そして何を言いたかったのかも」
裏切ってあんな風してしまったことを謝りたかった。それから惨めな私を叱って欲しかった。
佐藤が立ち直って妨害を再開するという淡い期待。それがあったから私は彼に会いに行ったのだ。
けれども、もし彼が立ち直れたなら協力者の存在に気づき、必ず私を疑うはずだ。
そうなったら、今までのようにパートナーの関係を続けていけるだろうか。
いや、できない。もう手遅れなのだ。
それは佐藤とパートナーを組んだ時から分かっていたこと。今まで彼を裏切っていた報い。
だから、彼が私を裏切り者だと気づくその瞬間まで、私は彼のパートナーであり続けよう。
そして、その時が来たら――
「私はどうしたらいいんだろう……」
窓の向こうに校舎から出て行く生徒たちが見えた。その中に佐藤の後ろ姿があった。
大きな体格のはずなのに、彼の背中は随分と小さく見えた。きっと私の背中も彼のように小さくなっているはずだ。
結局、私は不思議を解き明かせなかった。私が本当に欲しかったものは何? この世界の不思議に関する答え? 謎を解き明かしていく興奮?
それは欲しかったものだけど、本当に求めていたものではない。
知らないから不安になって、分からないから怖くなる。自分の弱い心を見ないようにするために、私は調べていた。
裏切ってまで手に入れたものは、後悔だけ。がらくたよりも使い道のない最悪な代物。
それを捨てるために私はどうしたらいいのだろうか。
「……少しは素直になってみようかしら」
私は、自分自身を納得させるように独り言を呟いた。