バスに閉じ込められて、数時間。
ようやくその密室から開放された俺は、大きく口を開けて深呼吸をした。肺を満たしていく空気が、新鮮に感じられる。
山の空気は、そこにいるだけ普段と違って美味しく思えるものだ。
俺はもう一度深く息を吸い込む。その気持ち良い余韻に浸っていると、隣から唸り声が聞こえた。
学園指定のジャージの上に黒いダウンジャケットを羽織っている田中は、両手で口を抑えていた。
「うぇ……やっぱり、山道はつらいぜ……。何度来ても吐きそうになる……」
「窓側の席でもキツかったのか?」
「風に当たっても、少しだけマシになるだけだぜ。帰りもあるとか地獄じゃねえか……」
乗り始めてからすぐに「トランプやろうぜ!」などと言って騒いでいたから、自業自得ではないだろうか。
しかし、苦しんでいる田中を見るとこれ以上責める気にはなれなかった。
とりあえず俺は合宿場の地図を見ながら、辺りを眺めた。
駐車場からも分かるほど大きな時計。その横には赤色の屋根をした管理棟がある。
夏場には賑わいそうなバーベキュー場。運動広場の中にあるテニスやサッカーのコート。
そして、露天風呂など。様々な施設が合宿場には揃っていた。
幸いなことに合宿場には雪が降っていなかったが、隣の山は白く覆われていた。
「今から貴重品を預かるぞ。終わった者から荷物を宿泊棟に置き、大時計の周りに集合しろ」
教師から号令が掛かり、俺達は管理棟を越えたところにある宿泊棟へ行く。
女子は、男子から遠く離れた宿泊棟に向かった。男女でわざわざ離れた位置にしたのは、教師の配慮だろう。
管理棟を越えると細い道があり、そこを百人近い男たちが列を作って歩く。
「さながら蟻の行列だな」
途中で合流した石川が呟く。顔を見る限り、石川は乗り物酔いとは無縁のようだ。
「酔っているのにまだ歩かせるのかよ……。オレを休ませろ、そうしないと……」
「そうしないと?」
「吐くぜ」
親指を立て、青い顔をして自慢げに彼は言った。額から流れ落ちる汗が、彼の限界を物語っていた。
「残念だがな、田中よ。休みは遠い。これから班での調理実習、その後はウォークラリーが控えているからな。
合宿の日程表、教師の活動表、あらゆる情報を渡しておいたはずだぞ。しっかり把握しておけ」
「……うえ、気分悪くて忘れていたぜ」
「吐くならせめて木の養分にしろ。俺達の前でしでかすなよ」
石川の言葉に、田中は口元を抑えながら頷いた。それでも彼がしでかさないとは言い切れないが。
「我慢しているところ悪いが、田中に頼んでいた班の構成について質問がある」
俺は冬季合宿のしおりを取り出し、その中の活動班の頁を開く。
「何だよ……。言われた通り実行委員に頼み込んで、班決めに細工はしたぜ……。ここだけの話、初めはヤバかったんだぜ」
「田中よ、何がヤバかったのだ?」
「織田の班にヒロインが全員いた」
それは全ヒロインの好感度が最大値に近ければ、ありえる班構成だった。
班と言っても、一日目の調理実習とウォークラリーのみの活動班なので、エンディングに直接影響は出ない。
しかし、この微々たる変化は俺達にとって幸先の良いスタートだった。
それはさておき、俺の気になるところは別にあった。
「俺の班がな……」
「ああ、オレもいるじゃん。石川だけは別の班だけどな」
「お前たちと離れるのは寂しいな。しかし、柴田さんと同じ班にしたことは褒めてやろう」
石川の班はシナリオの中心となる班。つまり、織田伸樹がいる。他にも徳川康弘、織田市代もいる。
「石川が喜んでるなら、これで良かったか。それで、何が気になるんだ?」
「俺たちの班に、斉藤裕がいる」
「実行委員がそう移動させるとは、オレは知らなかったが――」
彼は言葉を濁した後、殴りつけたくなるほどの笑顔で言う。
「頑張ろうぜ!」
▽
正しい主人公の倒し方 第二十七話
~3+1~
▽
俺と斉藤裕の関係は「ただのクラスメイト」しか過ぎない。
そして文化祭が終わってからは、彼女との間には苦い思い出しかない。
こうして調理台に二人並んで立っているが、どこかぎこちない緊張がある。
数分だけ野菜を切っていればいいのだが、俺はこの空気に耐え切れそうになかった。
他の班は、賑やかで楽しそうに調理実習をしている。一方、俺達の調理台では会話の一つもなされていない。
田中は俺と斉藤さんの関係を知っているはずだ。それなのに、どうして俺と斉藤さんを調理場に置いたのかと嘆きたくなる。
だが、逃げだしたところで先がない。それに、明日には最後の妨害を仕掛ける男が何を弱気になっているのか。
自分に喝を入れ、野菜を切る作業を始める。
洗ったニンジンを手に取り、薄く皮を剥く。ヘタを切り落とし、一口のほどの大きさに乱切りをする。
俺はしばらくの間、無心でニンジンを切り続けた。
4本目のニンジンを切ろうとした時、右から玉ねぎが転がってきた。
「あっ……」
俺は玉ねぎを拾い、顔を横へ向ける。水玉のエプロンを着た斉藤さんが俺を見ていた。
1学期の始め、俺はヒロインと関わる度にゲームのイベントCGを思い出してきた。
最近また『School Heart』をプレイしたことによって、悪夢のようなそれが蘇る。
俺は無言で斉藤さんに手渡した。
「ありがとう……」
その言葉に頷き返した。
『そういう佐藤は斉藤さんと秀実ちゃんに拘るじゃんか』
ゲームをしていた時に田中から言われた言葉を思い出す。やはり気持ちの片隅には心残りがある。
笑って話しかけることもできない後悔。彼女との距離はだいぶ離れてしまっている。その距離を埋めるには、もう遅いのだ。
「痛ッ」
包丁の先が柔らかいものに触れた。
刃物を持っているのに、集中していなかったせいだ。左の人差し指から血が出た。
大した痛みではないが、真っ赤な血が傷口から流れ落ちる。
「大丈夫!?」
「……大したことはない」
痛みを顔に出さないようにし、蛇口の水で洗い流す。
血を洗い終わると、斉藤さんが心配そうにこちらを見ていた。
俺は彼女を無視して野菜を切ろうとするが、横から腕を掴まれた。
「傷、見せて」
「浅いから問題ない。野菜にも当たらないようにするから」
「駄目、じっとしてて。すぐに終わるから」
斉藤さんはポケットから絆創膏を取り出し、俺の傷口にそっと当てた。
その間、俺はどこを見ていたらいいのかも分からず、ただ視線を彷徨わせていた。
周りの班の進行を見て、切り残された野菜を見て、そして最後は斉藤さんに戻る。
一学期の頃と比べて、少し髪が伸びたのかもしれない。調理実習のためか、トレードマークのヘアピンはされていない。
柔らかそうになびく彼女の髪。空いている右手が、それを撫でようと自然に動いた。
「どうしたのかな?」
「……いや、何でもない。気にしないでくれ」
「そうなんだ。はい、終わり」
結局、髪に触れることなく腕を下ろした。
左の人差し指には、きつくもゆるくもない丁度良い感じに絆創膏が貼られていた。
「ありがとな。ええっと……――」
「どういたしまして。うん、その……――」
互いに言葉が見つからず、また気不味い雰囲気に戻る。
酷いくらい距離が開いてしまっていることを実感する。
無理をして言葉を続けようとしても、途中で分解してしまいそうな、そんな気さえした。
「……それじゃあ、残りの野菜を切ろうか」
「うん。そうだね」
これ以上場が悪くなる前に、俺たちは顔を背けた。
再び野菜を切り始めるが、どうも落ち着かない。
俺は彼女の横顔をチラリと盗み見た。すると、彼女は泣いていた。
「ど、どうしたんだ?」
「えっ!? ……あ、ごめん。玉ねぎが染みて」
斉藤さんの手元には、みじん切りされた玉ねぎがあった。
彼女は手の甲でゴシゴシと目を擦るが、余計に涙が流れ落ちていく。
何度も目をぱちくりさせても、効果はいまひとつのようだ。
「う~、痛いよう。家ではこんなことなかったのに……」
呆れながらも、大事ではなかったことに安堵した。少し濡らしたハンカチを斉藤さんに手渡す。
彼女はお礼を言いながら受け取った。目の周りを優しく拭く。ハンカチを折り畳み、しばらくそれを見ていた。
「……前にも佐藤くんからハンカチ借りたことあったよね」
「そう言えば、そんなこともあったな」
「あれからずっと持っていてごめんね。なかなか渡せる機会がなかったから。今度洗って返すね」
「いや、そんなことしなくてもいい」
「でも、ずっと借りていたからお詫びもしないと……」
「いいんだ。前のも適当な時に机に入れておいてくれ」
俺は首を横に振った。
「君がそんなことをする必要はないんだ」
彼女を心配させないように、少しだけ笑顔を作る。
そして、彼女が握っていたハンカチを取り、ポケットへねじ込んだ。
「俺はニンジンを切り終えたから、鍋に持って行くよ」
「……うん、分かったよ」
「それと、あの時はごめんな。怯えさせるつもりは無かったんだ」
野菜を入れたカゴを持ち調理場から離れようとすると、服の後ろを掴まれた。
「あ、あのね、私も……」
その手は弱いが、離れそうにない。きっと彼女は謝ろうとしている。でも、彼女が謝る必要なんてこれっぽちもない。
俺は何事もなかったように、一歩踏み出した。服から彼女の手が離れる。
後ろから聞こえた溜息のような短い言葉を、俺は聞こえなかったふりをしてその場を後にした。
▽
外カマドでは、田中が他の班員と一緒に火の番をしていた。顔色はだいぶ良くなったようだ。
「ようやく野菜が登場したぜ。それじゃあ、鍋に入れていくか」
「そうだな。普通なら玉ねぎが先だが、こういう時は火が通りにくいニンジンからした方がいい」
「佐藤が言うなら間違いないか。……それで、どうだったんだ? 喋ってはいたみたいだけど」
「正直なところ、分からないな。彼女とどう接すればいいのか分からない。それと、心配するなら田中が始めから調理場にいてほしかった」
「はは、悪かったぜ」
「笑って誤魔化すなよ……」
溜息をつきながら、油を引いた鍋にニンジンを入れていく。
鍋に火は伝わっているが、コンロで調理している時と比べてやはり火が弱い。
「やっぱり、火足りてないか?」
「大丈夫だと思うが、芯まで火が通るのに時間が掛かるだろうな」
「それなら新聞紙と太い薪を持ってきてくれないか? 鍋はオレが見とくから」
「了解、すぐに持ってくる」
俺は早歩きで薪置き場まで向かい、そこで適当に4本ほど薪を見繕った。
新聞紙を持っている人は、夏休みの妨害で俺を羽交い絞めにした平手という教師だったので、受け取った時に苦い顔をされた。
必然的に俺も苦い顔を返してしまう。何も桜の木を燃やそうとしているわけではないのに。
そう思ったところで、こちらには問題を起こした事実があるので何も言えない。
両手が薪と新聞紙で埋まり、落とさないようにしっかり抱える。
他の班も火が弱かったのか、薪置き場からカマドまでの道が混み始めてきた。
俺は遠回りになるが、薪置き場の裏側から戻ることにした。
この合宿場の特徴とも言うべきか、広い道は駐車場から大時計までしか繋がっていない。
後は、枝分かれしたように細い道がいくつかある。その細い道は先程歩いたように舗装されていない山道だ。
当然、足つきも悪くなってしまう。石や根っこに足を取られないように地面を見ながら進む。
人の少ない道を選んだつもりだったが、途中誰かとぶつかりそうになった。
「おっと、すみませ……」
謝ろうとしたが、言葉が止まる。
そこにいたのは、松永だった。彼女も薪を貰いに来たのだろう。
松永は俺の顔をジロジロと見た後、ポツリと言う。
「へえ、いい顔になったじゃない」
「……そうか?」
「どちらかと言えば、浮かれ顔ね。この前までのあなたじゃないみたい」
相変わらず感の鋭い女だ。
「男子三日会わざれば刮目して見よって言葉があるだろ。愚図ってばかりじゃ先に進めないからな」
「言うようになったじゃない。でも、その三日の間に私は一人で情報収集していたけどね」
「収穫は何か有ったか? もしあるんだったら、教えて欲しい」
「嫌よ。膨れ上がった利子の一つも貸してもらってないんだから」
「それなら丁度いいな……ようやくお前に利子ぐらい返せそうだ」
「良いことだわ。どうやって支払ってくれるの?」
「織田に最後の妨害を仕掛けるつもりだ」
それを聞いた松永は、ひどく不機嫌そうな表情を浮かべた。
クリスマスの朝、靴下を覗いたら自分の欲しくないものが入っていた子供のようだ。
松永の反応が想像したものと違い、俺は焦る。唯一の協力者だった彼女が、そんな素振りを見せるだけで、堪らなく不安になる。
「なあ、松永。俺はお前の気に障るようなことを言ってしまったのか?」
「……べつに」
「それとも、今はまだ妨害を仕掛ける時じゃないのか?」
「……妨害は関係ないわ」
突然、松永が俺の肩に手を乗せながら、寄りかかってきた。
「私はね、あなたのパートナーになりたかったのよ。それが私の望んでいた支払い方」
「ちょっと待ってくれ。俺達は確かにパートナーだ。利害関係が一致したから組んだんだろう?」
「違う。利害とかそんなものは要らない」
「それなら何が――」
「私が欲しかったのは、あなた。本当の意味でパートナーになりたかったのよ。
あの時、落ち込んでいるあなたに声を掛けたのもそういう理由。私をずるい女だと思う?」
松永は顔を伏せて、少しずつ俺に体重を掛ける。両手が塞がっている俺は、振り払うことができない。
明るい金色の髪から、林檎のような甘い匂いがほのかに漂う。思わず唾を飲み込んだ。
「ねえ、答えてよ……」
「こ、ここは人が通るかもしれない。誤解されないように離れた方がいいんじゃないか」
「大丈夫。誤解されたって、気にしないから」
松永の予想外の行動に、俺の思考が止まりかけた。
思わず薪と新聞紙を落としそうになるが、なんとかして止めた。
それでも、顔の火照りだけは止められそうにない。
これまで意識していなかった相手だったからこそ、逆に意識しすぎてしまう。
「ふふふっ……」
胸の下から、含みのある笑いが聞こえてきた。
「あははははっ、引っかかったわね! あー、スッキリしたわ」
顔を上げた松永は、それまで見たこともないほど晴れやかな顔だった。
笑いすぎたためか、目尻には涙が溜まっている。
俺は数秒間抜けなほど口を開けてしまっていた。
「それで? 妨害は何をするつもりなのかしら?」
松永は涙を手で擦りながら、訊ねてきた。
「お、お前はどういうつもりで―-」
「はい、ストップ。騙してごめんなさい。でもね、こんなことに引っ掛かっているようでは駄目よ。
実際、あなたは羽柴秀実に騙されたそうじゃない。妨害をしても、生半可な気持ちでは失敗する。
言葉、態度、行動。全てのものを疑いなさい。それから隙を見つける。あなたが織田君に勝つためには、そうするしかないじゃない」
言い返すことができず、悔しさと怒りを喉元に押し止める。
彼女が述べたことは正しい。仲間を得て、目標が決まって、幸先良い始まりに浮かれていた。
俺が織田を倒すためには、少しの迷いもミスもあってはいけない。冷静に物事を見なければいけない。
「……本当にずるい女だよ、お前は」
「褒め言葉ありがとう。それでどうするのかしら?」
「明日のスキーで本格的な妨害をする予定だ。田中は、今日の風呂で覗きイベントに介入できないかとか言っていたけどな」
「田中ってあなたの友達よね?」
「そうだ、その田中だ。お前に言ってなかったけど、石川にも『School Heart』のことを話した」
松永は少し考え込んだ後「少し待ってて」と言い、薪置き場に向かった。
数分後に彼女は、薪を両手に抱えて走ってきた。そして俺達は横に並びながら、山道を歩いた。
「あなたは何も知らなかった人を、こちら側に引き込んだ。私の場合、謎は好奇心へと変わる。
けれども、彼らは? 謎が恐怖へと変わる場合だってあるのよ。本当に良かったのかしら?」
「……分からない。けれども俺がここにいられるのも、アイツらのおかげなんだ。責任は必ず取る」
「へえ、何もできない男が責任をね」
茶化す松永に、俺は平然として答えた。
「一人だと何もできないからだ。だから、松永。俺にはお前が必要だ」
「……!」
「どうしたんだ? 何か可笑しかったのか?」
「う、五月蝿いわね、馬鹿! ああ、落ち込んでいた時のアンタの方が、こっちが冷静に話せたわ。
おちょくられたことの仕返しをして満足していた私が阿呆みたいじゃない。どうして私がアンタに……」
「おい、急に走るなよ」
「付いて来ないでよ!」
「向かう先は同じだろ!」
早歩きになった松永の後を追いながら、外カマドに向かった。
▽
調理実習は無事に終わり、目の前には出来立てのカレーがある。
「どうしてこのテーブルには、他の班員が混じっているんだ?」
四人席のテーブルに座っている松永と石川を見ながら言った。
二人とも、何を馬鹿なことを聞いているんだと言わんばかりの視線を送ってきた。
ちなみに、斉藤さんは別のテーブルで昼食を取っている。
「だって、田中君と石川君は『School Heart』知っているんでしょ? 作戦会議するなら私も混ぜなさいよ」
「俺は織田妹のカレー、もとい毒物から逃げてきたのだ。腹が減っては戦はできないからな」
隣に座っていた田中は、二人に聞こえないように小声で話しかけてきた。
「なあ、佐藤。この松永さんは信用できるのか?」
田中が松永を疑うのは、仕方がない。ゲームでの松永は、知的でどこか冷めた印象のあるキャラクターだ。
田中の場合はこうして松永と話すのは初めてらしく、ゲームでの印象が強いようだ。
けれども、俺は知っている。現実の松永はそればかりではなく、ゲームは一側面でしかないことを。
「大丈夫だ。俺が一学期に妨害をしていた時、頼りにしていた奴だ」
「そうか……。それなら心配いらねえか」
田中は納得してくれたようで、わずかに緊張しながら松永に話しかけた。
「松永さん。そういえば、自己紹介がまだだったな。オレは田中亮介っていうだ、よろしく」
「あなたのことは佐藤からよく聞いているわ。私は松永久恵。こちらこそよろしくお願いね」
「それならこの石川本一の自己紹介もしなければいけないな。俺は――」
「石川君はいいわよ。同じクラスなんだから」
「ぐっ、せっかく人が……」
落ち込む様子を見せる石川を置いて、松永は俺と田中の顔を見た。
「早速本題に入らせてもらうけど、妨害はどうする予定なの?」
「今のところ、明日のスキーで仕掛けるつもりだ。今日のウォークラリーと風呂に関しては迷っている。準備が間に合わなかったからな」
「風呂の妨害は、覗くつもりなのかしら。田中君が発案したって聞いたけど本当にするの?」
「佐藤! てめえ、オレが考えたみたいに伝えただろ。妨害方法を話した時は、お前たちも乗り気だったはずだぜ」
「田中よ、何を言っているんだ。俺がそのような低俗な妨害に賛同するはずがないであろう」
「全くだ。田中がどうしてもやりたいと言っていたから、俺は候補として挙げただけだ」
「お前ら……裏切るのかよ……」
松永は俺たちの下らないやり取りを見て、クスりと笑った。
「佐藤がどうして立ち直れたのか、分かった気がしたわ。良い友達を持てたわね」
「お陰様で諦めることができなくなったがな」
「いいじゃない。今のあなたの方が佐藤らしいわ。塞ぎ込んでいるなんてらしくなかったわよ」
佐藤らしいか。俺が俺らしくいるためには、今回の妨害で良い結果を出さなければいけないな。
「明日のスキーで妨害するのよね……それなら、一度情報を整理しない?」
「おっ、いいぜ。オレたちは一学期の 佐藤が何をしていたのか把握できないからな」
「あら、田中君たちにはあなたの失敗伝を語っていないの?」
「詳しくは言っていない。その、失敗を語るほど恥ずかしいことはないからな……」
「はあ、しようがないわね。それじゃあ、確認の意味を込めて私が調べたことを言うわね」
田中と石川は一度スプーンを置いて、姿勢を正して松永の方を向いた。
「まずは前提条件から。この世界はゲーム『School Heart』に沿って進行している」
「それはオレも体感したぜ。前にHRがゲーム通りに進みすぎて、気持ち悪くなっちまったよ」
「私は説明書しか持っていないから分からないけど、ゲームでのイベントはどの程度現実に反映していたのかしら?」
「う~ん、100%同じだと思うぜ。オレん時はそうだったからな」
「田中よ。台詞が微妙に異なる時があった。登場人物の立ち位置も時によって違ったぞ」
石川が言う通り、台詞や動作がゲームと全く同じとは言えない時があった。100%同じとはいえないが、それでもイベントの本筋が変わることはなかった。
例えば体育倉庫から体育館倉庫に移った妨害の時のように、イベントが起きても場所が変わるケースもある。
ゲームに沿っていると言っても、細かいところでは多少の違いは出てくるのだろう。
「次はヒロイン。ゲームの最終目標がヒロインとのグッドエンディングであるように、彼女らの存在は重要。
佐藤が何もしていなかった二学期の間も、織田君とヒロインの仲は順調だったわ」
「ヒロイン以外にも織田が積極的に接触している女子はいるのか?」
「ほぼいないわね。例外として、説明書に書かれていた人物、私と滝川さんは少しだけ交流があるわ。けれども、メインヒロインと比べるとごく僅か」
「そりゃあ、そうだぜ。無駄にサブキャラに会っていたらハーレムルートなんて入れなかったからな」
「なるほどね。石川君に質問があるわ。あなたは二学期の途中までどうして休学をしていたのかしら?」
「それは己自身を見直すために修行をしていただけだ。俺は織田に負けて、自分の不甲斐なさを悔やんだからな」
「本当にあなたの意思で?」
「無論」
「誰かに勧められたりしていない?」
「くどいな。俺が決めたことだ」
「そう、それなら本当に厄介なことになるかもね……」
「厄介? 自身が決めたことが何故厄介となるのだ?」
「ええっと、それを話す前にイベントについて話しましょう。イベントの内容は『School Heart』とほぼ同じ。
けれども、それを妨害しようとしても上手くいかない。織田君の主人公補正、あるいはシナリオの修正力というべきかしら。
とにかく何かしらの力が働いていると私は思っているわ」
俺は同意を示すように、大きく頷いた。
『School Heart』のシナリオに沿うために、俺の妨害は尽く失敗した。
それは、不自然なまでの偶然によって引き起こされたものばかりだった。
「私が前に『開かない教室』を調べようとしたことがあったんだけども、あれも修正力の一種だと思うのよ。
扉が開かなくなるのは、そこがイベントに関係する場所だったから。そんな風に考えることもできるわ」
「松永よ。その修正力は如何なる時に発動するのだ?」
「具体的には分からないけど、そうね―-」
「イベントが発生した場合、どんなことをしても中断することはできない。それがこの世界のルールだ」
松永が答えるよりも先に、俺は秀実ちゃんから言われた言葉を被せた。
「俺の考えになるが、イベント中は修正力が働くと思う。ただ、どの時点から修正力が発生するのかは詳しく分かっていない。
織田がイベントを選択する前からなのか、それともイベント中の選択肢を選んだ後なのか」
「ふむ。そこは検討する必要がありそうだな」
「それと扉が開かなくなるの修正力の一例で、他にもキーアイテムと言ってもコッペパンや鍵だが、それらの再出現もあった。
もっとも、厄介なところはこれらだけではなく――」
「感情の操作があるかもしれないことよ」
今度は松永が、俺の言葉に被せるように言ってきた。松永の顔を見ると、彼女は得意気にこちらを見返してきた。
「さっき私が厄介だと言ったのは、このことよ。
ヒロインの明智美鶴は、思い出の品を湖に投げ込んだ。サブキャラの石川本一は、自分を見直すために休学をした。
そして、モブキャラの 佐藤尚輔は桜の木を燃やそうとして謹慎処分を受けることになった。
どれも選択肢によっては確定しているイベント。しかも明智先輩の場合は本来の意思とは、逆の行動を取ってしまった。
石川君は自分で選んだみたいだけど、シナリオに沿うために自然と感情が操作されている可能性があるのよ」
「そんなことが……いや、しかし俺は……」
「心配しないで、石川君。人の感情が操作されているのは、あくまで可能性。私たちの行動が一々操作されているなんて馬鹿げているわ。
私たちはこうして自分たちの意思で集まって喋っている。イベントを阻止しようとしてどんな時でも修正力が掛かるなら、まずはこの話し合いすらできないでしょ?
もしかしたら、感情の操作は修正力の最終手段かもしれないわ」
感情の操作は、イベントのキーとなる行動を起こすためだけ行われるのだと俺は考えている。
それと感情の操作は、最終手段ではない。真の最終手段は『存在の抹消』だ。
文化祭で俺を刺した人物が消えたように、シナリオから大きく外れた場合に存在の抹消は発動する。
だが、無駄に不安を煽る必要はないのでこの事については話さないことにした。
「だー! 頭痛えよっ! 結局、オレたちはどうすればいいんだ?」
それまで、黙ってカレーを食べていた田中が急に叫んだ。
「馬鹿ッ、声が大きいわよ。織田君に聞こえたらどうするのよ」
「すまねえ。でもよ、オレたちは妨害をするためにここに来てんだぜ。感情の操作があるとか、一体全体どうすればいいんだよ?」
「そうね……。ありきたりかもしれないけど、強い意志を持つことかしら」
「強い意思? 何だか打ち切り間近の少年漫画で出てきそうな言葉が聞こえたぜ。もう一度言ってくれない?」
「私だって恥ずかしいんだから、聞き返さないでよ。根拠もなんにもないけど、具体的な対策が取れない現状では、それぐらいしか思いつかないのよ」
「わりい、悪気があって聞き返したわけじゃねえんだ。なるほどなー、強い意志か……」
田中は腕を組んで、ふむふむと頷いた。
「食べ終わった者からウォークラリーの準備をしろー。食器の後片付けも忘れるなよ」
遠くから教師の声が聞こえてきた。
「それじゃあ、私は班に戻るわね。また時間ができたら話しましょう」
「ああ、了解した」
松永は皿とスプーンを持って、洗い場の方へ向かった。
俺が明日の妨害について考えようとすると、田中がニヤっと白い歯を見せるように笑った。
「どうしたんだ田中、急にそんな顔をして?」
「いやー、何だかオレたちが挑もうとしているのは途方も無いことだって実感してよ」
「それはそうだ。もしかして怖気づいたのか」
「いんや、むしろ燃えてきた。だからさ、ウォークラリーで妨害をしようぜ」
「急だな……。準備も何もできてないぞ」
「だけど、何もやらずにいたらそこで終わりだぜ。オレは後悔はしたくねえ主義だからさ。やらないよりやって駄目な方が諦めもつく方なんだよ」
「面白い、俺も田中の意見に同意だ。修行を終えた俺には鋼の肉体と精神がある。修正力如きに負けはせんさ」
二人の視線が俺に集まる。迷ったのは、ほんの数秒だけ。俺は二人を見ながら言う。
「そうだな、妨害を仕掛けよう」
合宿初日の昼、俺達三人はウォークラリーで妨害を仕掛けることにした。