「それでお前はいつ滝川さんに告白するんだ?」
「へっ?」
腕を回していた田中の動きがピタリと止まった。
雲ひとつない青空の下、グラウンドには多くの生徒が集まっている。
そして、俺は今日の主役とも言える石川のストレッチを手伝っていた。
背中を押されている石川も興味深そうに田中の顔を覗く。
「……お、俺のことは関係ねえだろ! お前達こそどうなんだよ」
「ふん、俺なら大丈夫だ。なにせ今日は柴田さんを賭けた勝負をするからな」
自信たっぷりに田中を見返す石川。今日の彼はイベントの中心にいる。
俺がどう足掻いても辿り着けなかった場所に、彼はいる。
▽
正しい主人公の倒し方 第十九話
~日陰者の叫び~
▽
事の始まりは、織田と石川の言い争いからだった。
その日の昼休み、彼ら二人は睨み合っていた。
どちらが柴田さんに相応しいのかという不毛な会話、それは口喧嘩まで発展した。
織田は幼なじみとして、石川は意中の相手として、どちらにも譲れないものがあった。
だから、勝負で決めようとした。勝者こそ柴田さんの隣に立つ権利がある。男達は勝手に協定を結び、勝手に争おうとしていた。
「ち、ちょっと待ってよ! 私はそんな事を知らない!」
そこで止めに入ったのが、柴田さん本人だった。彼女からすれば、知らないうちに話が進んでいたのだから迷惑な話だ。
一度、柴田さんはその勝負を止めるよう命じた。だが、勝負がなくなれば男達のメンツとプライドは潰れてしまう。
そこで一つの提案が出た。勝負内容は二百メートル走。三人の中で一番になった人の言うことを聞く。
男二人は運動が得意であり、柴田さんは陸上部所属。誰が勝ってもおかしくない勝負。
これが俺の覚えているイベントの始まりだ。
「はーい、誰が勝つか賭けてみないかー。一口五百円だよ」
当日、その噂を聞きつけた生徒たちがグラウンドに集まっていた。
織田の姿はまだ見えなかったが、体操服姿の柴田さんがグラウンドの隅で友達と準備運動をしていた。
この学園の女子体操服は、ゲームよろしく紺色のブルマである。
そして、柴田さんのブルマから覗かせる小麦色のしなやかな足は、見蕩れてしまうほど綺麗だった。
隣にいる田中も周りの目を気にすることなく見蕩れている。
柴田さんが、石川の姿に気づいたようでこちらに手を振ってきた。
「ほら石川、柴田さんだぜ。そんな空ばかり見てないで、手ぐらい振ってあげろよ」
「……遠慮する。今日の彼女は敵だ」
「ふーん、いつもだったらオレたちと話している時でも柴田さんのところに行くのにな」
石川は昨日からずっと「柴田さんは敵、柴田さんは敵」と不気味に呟いていた。
馬鹿みたいに一直線で一方的な愛情表現しかできない男だ。だからこそ、今日の勝負で彼が手を抜くことは有り得ない。
元々何事にも真剣に取り組む性格だから、なおさらだろう。
ストレッチが一段落すると、石川が申し訳なさそうにこちらを見てきた。
「すまない、緊張して喉が渇いた。何か飲み物を買ってきてくれないか」
「ああ、いいぞ」
俺がグラウンドを離れようとすると、不思議そうに田中がこちらを見つめてくる。
「どうして佐藤まで緊張したような顔してんだよ? 何かあったのか?」
「なんでもないさ。それよりポカリでいいか?」
「ああ、助かる」
俺はグラウンドから離れて、昇降口に向かった。
人通りの少ない下駄箱に着いた時、俺は静かに深い溜息をついた。
手が微かに震えていた。
この先に起こることを想像しただけで、冷や汗が出てきた。
この世界で俺だけが、このイベントの結末を知っている。
しかし、その中に石川が勝つ結末は無かった。
分岐は二通り。織田が一着か、柴田さんが一着か。
どちらにせよ、俺の友人が一着になる分岐は存在しなかった。
だから、俺にはいくら想像しても石川の負ける姿しか浮かばない。
このイベントが起こることを知ってから、何度妨害しようと考えたことか。
けれども、俺は妨害を実行できずにいた。
本気で挑もうとする石川を、俺は近くで見ている。
卑怯を嫌うあいつが、妨害なんて許すはずも喜ぶはずもない。
友人の支えになりたいと思うが邪魔だけはしたくない。だが、この勝負が終われば石川は……。
葛藤は今だに続いている。
ふと辺りを見渡すと、織田の靴箱が目に入った。
まだ彼はグラウンドに出ていないようだ。
「俺に出来ること……。織田を倒すこと……」
右手が織田の運動靴に触れていた。
例えば、この運動靴に刃物を仕込む。購買に行けば、カッターでも画鋲でもある。
何でもいい。織田の妨害をすれば石川が一着になれるかもしれない。石川の知らないところで妨害をすればいいだけだ。
口の中に溜まっていた唾を飲み込み、ここ数日の出来事を思い返した。
織田のイベントを阻止するため、俺は様々な妨害をした。
キーアイテムになりそうな物を先取りする。ヒロインと接触して他の場所に誘導する。織田の邪魔をして、イベントの発生を遅らせる。
それらは、どれも失敗に終わった。敗因は不自然なまでの偶然。
突然代わりになる物が現れたり、ドアの立て付けが悪くなって開かなくなったりするなど。
これまで一度として織田のイベントを妨害できていない。
しかし、もっと直接的な事をすれば成功するかもしれない。
考えて見れば、織田を倒す機会なんてどこにでも転がっているじゃないか。
こんなセコい真似をしなくとも、もっと直接的に――。
「……違う」
伸ばした手を力なく下ろした。
「こんなことは誰も望んでいない」
靴箱から立ち去ろうとしていた俺を、一人の女の子が見ていた。
彼女が首を傾げると、ピンで留めていない前髪が軽くなびく。
斉藤裕は俺を不思議そうに見つめていた。
「何をしていたの?」
「……何もしていないさ。それより織田の応援に行かなくていいのか?」
「まだ始まっていないし、大丈夫だと思うよ」
行くことを否定しない。当たり前か。
「ねえ、佐藤くん。今大丈夫かな?」
「少しぐらいなら大丈夫だ」
「佐藤くんに話したいことがあるんだよ」
「……何だ?」
「最近私たちお喋りしていないよね。……君が私を避けているように思えるんだ」
俺は返事をせず、ただ黙っていた。
彼女の言う通りだ。妨害を決めたあの日から、俺は意識して彼女を避けていた。
そして、彼女のイベントに対する妨害だけは一度もしていない。妨害をすれば彼女が織田と一緒にいるところを否応なく見ることになるからだ。
臆病なのは分かっている。情けない男だと言われても仕方ない。俺は怖かった。
「それに教室でよく暗い顔しているよね。前にしていた難しそうな顔とはまた違う。
重たいものをいつも引きずっているようで苦しそうだよ。クラスメイトなんだからもっと私を頼ってほしいな」
彼女は優しく手を差し出してきた。俺が好きだったあの表情で、そう言ってきた。
彼女の手に自分の手を重ねたら、前みたいにちょっとしたことで笑い合える関係に戻れるかもしれない。そんな甘い幻想を抱いてしまう。
けれども、俺の手はどうしようもないほど動かない。
「……それは無理な相談だ。ごめん」
ここで手を取ってしまったら、その程度の関係で終わってしまう気がする。
ヒロインとモブの差をこの先も抱えたまま、学園生活を過ごすことになる。
それができないから、俺は妨害することにしたのだ。ここまできて今更引き返すことはできない。
「……私が悪いことしたからかな。だから、君は頼ってくれないんだよね」
「それだけじゃないんだ。自分で決めたことだから」
「あ、あのね……ほんとうにごめんね。なんでこうなっちゃったんだろう……。悪いのは私なのに」
「違う! それは――」
彼女の悲しそうな顔を見たくなかったから、俺は大声で言った。だが、続く言葉を喉へ押し戻す。
彼女のせいではない。これは、なるようになったとしか言えない。しかし、説明するのは難しい。
無言が重く伸し掛かり、彼女から顔を背けた。
俺は居心地の悪さを感じて、逃げるように自動販売機に向かおうとした。
「待って!」
彼女の鋭い声に、俺は立ち止まった。
振り返ると、彼女は眉をひそめて心配そうな顔をしていた。
なんで俺のためにそんな表情をしてくれるんだ。
「質問をします。君はコップに半分入った水を見て何を思う?」
彼女の口から出たのは哲学めいたことだった。
「ただの半分しかない水だろ? 何を考えればいいのかも分からない」
「君は水を半分しか入っていないと思うんだね?」
「ああ、半分しかない水だと思う。それがどうかしたんだ?」
「やっぱりそう思うよね……。でもね、この質問で聞きたかったのは『半分しかない』とするか『半分もある』とするかの違いだったんだよ」
「そんなの大半の人が――」
彼女は腕を組んでうんうんと頷いた。
納得した時、思うようにいった時に彼女が見せる仕草。
無理して笑顔を作っているのが分かったが、久しぶりにそれを見た俺はなぜだか安心してしまった。
「そうだね。大半の人が『半分しかない』と思う。私もそう思うし、それは当たり前のことだよ。
私のことを頼りにしなくてもいい、避けてもいい。でもね、君には『半分もある』と思える人でいてほしいんだ。それが私からのお願いです」
何も言えなかった。俺は彼女の意図することを読みきれなかった。
しかし、彼女が俺を励ましてくれていることだけは分かった気がした。
それだけで、俺は嬉しかった。そして、また迷いが生まれた。
「じゃあ、また会おうね」
彼女は靴を取り出し外へ向かった。
その後ろ姿を見送り、俺は自動販売機へ向かった。
▽
勝負が始まる前、グラウンドは多くの生徒で埋まっていた。
俺と田中も最前線を陣取り、始まりを待つ。
三人の選手はスタートラインからやや離れたところで、それぞれ最後のチェックをしていた。
柴田さんは、ふくらはぎを入念にマッサージ。
織田は、手を動かしフォームの確認。
そして石川は、何もせず目を瞑ってスタートを待っていた。
「それでは、スタートラインに来て下さい」
三人が動くと、グラウンドは大きな歓声で包まれた。
それぞれが応援する人へ激励を送る。俺たちも石川へ向けて声援を送る。
石川は俺達の姿を見つけると、少しだけ口元を上げた。
三人がスタートラインに立つ。不思議と歓声は止んだ。
静かな空間の中、陸上部員が雷管を上げて引鉄に指を乗せた。
緊張がグラウンドに広がり、全ての視線が三人の選手へと注がれる。
五秒ほど静かな時間が流れる。
そして、雷管が音を鳴らす。
三人とも綺麗に揃って一歩目を踏み出した。
静寂が破れ、再び湧き上がる歓声。
俺も田中も声を張り上げて、石川を応援する。
勝負は平行線。誰かが優勢なのかは一切分からないほどの熱戦。
石川が俺たちの前を通り過ぎた。彼はゴールテープしか見ていない。
もしかすると……。そんな期待を抱いてしまうほど勝負の行方は分からなかった。
だが、残り50メートル、期待は不安に変化した。
石川の足の回転が一度だけズレた。何が原因かは分からない。
外れたリズム、一瞬だけ速度が落ちた。持ち直すことができない。
ついに脱落者が現れた。それは俺の親友だった。
呆気無いほど一瞬。しかし、その一瞬で勝負は決まってしまった。
俺は静かに目を閉じた。たった数秒の出来事だ。
すぐに、ひときわ大きな歓声があがった。
目を開けた先には、涙を流しながらも笑っている女、観客に囲まれて戸惑う男、そして空を見上げている男の姿があった。
俺と田中は、親友の元へ向かった。彼は俺達を見ると、自嘲気味に呟いた。
「俺はまた負けた」
「……」
「努力も才能も全てが足りないのか……」
「……そんなことないぜ。お前はよく頑張った。オレが保証する」
「頑張ったところで、結果が伴わなければ意味が無い」
「……それじゃあ、もう柴田さんのことを諦めちまうのかよ」
「分からん」
「おいおい、そこはいつものように『諦めるはずは無かろう!』とか言うのがお約束だぜ。そんな答え、お前らしくねえぜ」
石川は何も答えず、憎たらしいほど晴れている空を見上げた。
遠くから場違いな笑い声が聞こえてきた。
それは徳川の笑い声だった。彼は織田を肩車して、にこやかな顔をしていた。
親友の勝利を祝福する。当たり前のことだが、今の俺達には見せつけられているようで悔しかった。
それから石川は怒ることなく、悲しむことなく口を開いた。
「佐藤、田中。お前たちに言いたいことがある。俺は明日から――」
「学校から居なくなるなんて言うなよ」
俺は石川の言葉を消すように被せた。驚いている石川を無視して続ける。
「自分を見つめ直すためにどこか行くつもりなんだろう。止めろ。そんなことをしても答えは見つからない。お前が何もしていない間に織田は柴田さんと一緒にいられるんだ。
お前はそれを許せるのか? それを許すのは負けを認めることじゃないのか?それに……今の俺にはお前が必要なんだ」
石川がシナリオに関わる人物だからという理由もある。
だが、一番大きな理由は友人としてコイツと一緒にいたいからだ。
この世界で得た数少ない友達。ここで彼がいなくなれば俺は絶対後悔する。俺の言葉を聞いて、石川は笑った。
「ああ、お前の言うとおりかもしれんな」
「それなら――」
「だがな、俺は強くなければいけないのだ。財閥を引き継ぐためにも、俺が俺であるためにも、俺は強者でなければならない。
何もせずに運が悪かったと嘆いているだけの俺を、お前は必要とするのか?」
言い返せなかった。
人は眼を見れば本気かどうかが分かる。
彼の眼には映るのは、何を言われても変わることのない決意。
俺は口を閉じた。しかし、それまで黙っていた田中が石川の肩を掴んだ。
「……突然でよく分からねえけどよ、本当にどっか行くつもりなのかよ?」
「如何にも。あてのない武者修行も良いかもしれないな」
「ふざけんなよッ! たかが勝負に負けたからって逃げるのかよ!? 武者修業? 笑わせてくれるぜ、譲れねえもんを見失ってんじゃねえか!?」
「貴様に何が分かる。圧倒的な者が前にいる不安、焦り、苛立ち。告白すら出来ず、いつまでも同じ場所でウジウジ這い回っている貴様に俺の心が分かってたまるか!」
「て、テメェッ――」
田中の肩が震えていることに気がついた。固められていく拳。
次の瞬間、田中の拳が石川へと向かう。
俺は急いで自分の体をその間に割り込ませる。
右肩に重い一発。ずしりと来る痛みで、田中の本気具合が分かった。
――マジで石川に一発食らわさそうとしていたんだな、コイツ。
「え……。おい、なんでだよ……」
幸いなことに二発目は来ない。
腕を下ろした田中は、怒りとも後悔とも取れる表情でいた
しばらくして、自分がしたことを理解したのだろうか。
顔を伏せて、右手で自分の髪をワシャワシャを掻き回した。
「わりい、マジでわりい……二人とも」
「すまん田中よ、俺こそ言葉が過ぎた」
「ちげえよ……。オレが手出しちまったんだ。駄目だオレ。頭冷やしてくるわ」
頭を下げて謝っている石川を無視して、田中は昇降口へと向かった。
運動場の賑わいも無くなりつつあり、残っているのは運動部か俺達ぐらいになった。
突然、石川は笑い出した。けれども、目も口も笑っていない。
「自分は他者より優れた存在である。そう思い込んでいることが、俺の短所だ」
「どうしたんだ?」
「虚勢を張る事だけで精一杯、張子の虎より劣る存在。いつ化けの皮が剥がれるか不安に駆られながら生きていた。
それを続けてきた結果がこれだ。俺は勝負に敗れ、友も失った」
「まだ大丈夫だ。やり直しは効く」
「いや、今の俺ではまた同じ過ちを繰り返すだけだ。勝負になれば、自信だけがあって本当の実力を見失う。
感情的になれば、再び言葉を誤って誰かを傷つけてしまう。兎にも角にも、今の俺は屑だ」
意外だった。石川の口から自分を否定する言葉が出てくるなんて。
「なればこそ、必要なのは俺自身を変えることだ。俺は修行に行くぞ、佐藤よ。お前たちの横にいられる存在になるためにもな」
「……」
「田中によろしく頼む」
「……ああ、分かった。頑張ってこいよ」
背を向けた石川は気障ったらしく手を上げて答えた。
校舎に向かう彼の後ろ姿に迷いは無い。
しかし、彼が再びこの学園に戻ってくるのは二学期以降になるだろう。
俺の勝負は夏休みまでには終わってしまう。彼が修行から帰ってきた時に、俺を取り巻く環境はどう変わっているのか。
石川の背中が見えなくなるまで、俺は一人取り残されたように校庭に残っていた。
しばらく何もせず立っていると、校舎にある大時計がカチリと進み、昼休み終了のチャイムが鳴った。
時間が解決してくれるものは多い。失恋の痛みも、体の傷も、時間が経てば自然に気にならなくなる。
それなら、この喪失感もきっといつしか気にならなくなるはずだ。
そう思ったはずなのに、足元がぐらついて、そのまま地面が抜け落ちてしまうような不安が襲う。
気がつけば、俺の足は勝手に動き出していた。着いた先は屋上。
フェンスに寄りかかって、校舎を見渡した。
どの教室でも普段と変わらず授業が行われていた。
下手な字で板書をする教師。ノートを必死に取る生徒もいれば、教科書を立てて寝ている生徒もいる。
平穏な日常の1コマを表したような光景。けれども、今の俺にはレンズ越しと言うべきか、もう一枚何かしらの壁が挟んであるように見えた。
どうしてそう思えるのか数分ほど考えて、ようやく気づいた。
「ごめん、石川。俺は……間違えたんだ」
俺はフェンスが歪むほど強く握った。
何もしなかったから、こんな結末になった。こうなることぐらい予想できたはずなのに、何もできずに愚図っていた。
不甲斐ない自分に対する怒りと後悔。自分を責める言葉はいくらでも浮かんだ。だから、1分間だけその言葉を受け止める。
責め終えた後は大きく息を吸い込み、その余分な感情を抑えるために叫ぶ。
今までの俺ならここで耐え切れず、諦めていたかもしれない。だが、あいつのように俺自身も変わらなければならない。
「諦めてたまるかあぁぁーーー!」
叫び声が青い空に吸い込まれる。
フェンスから離した手に赤い線が付いていた。指をしまいこんで、拳を作る。
諦めない、諦めたくない。もう一度、空に向かって叫ぶ。
「足掻いてやる……この糞ったれで不平等な世界で足掻ききってやる!」