一九四三年二月一二日 プルリス郊外
『日本軍、マレー半島上陸』の一報を受け、英インド軍ビルマ方面軍と仏陸軍インドシナ方面軍の合同部隊は、すぐさま反攻の動きを見せた。
上陸より僅か三日後には両軍で合計一〇万名にも及ぶ派遣部隊が編制され、日本軍の後背を衝くために即座にマレー半島のプルリス州へ展開を始めた。これ程までに迅速に編制が完了したのは、英軍ではマレーが第一目標になる可能性が高いと睨み、またある程度の暗号解読の成功により判明していたためである。一方の仏軍はインドシナを失うという恐怖から常時戦闘態勢を取っていただけであったりするのだが。
この時、タイ王国は中立を宣言しており、ここ以外に陸路でマレー半島に軍を送ることが出来なかったのである。それでも、合計一〇万もの兵があれば戦局をひっくり返すことも可能だと両軍指揮官は考えていた。日本軍の総兵力は四個師団に数個旅団。侵攻を優先すれば後方の守りは薄くなり突破は容易くなるし、防衛を優先するなら今度は侵攻速度が大幅に低下し、その間にシンガポールの防備を固めることができる。そうなれば、どっちつかずとなった日本軍を、挟撃して殲滅することもできるかもしれない。彼らはそう楽観していたのである。
だが、その楽観は、増援が攻勢を開始してから僅か一週間後には奇麗さっぱり吹き飛んでいた。
どこからか砲声が聞こえる。その直後、前面に展開していたソミュアS35軽戦車六輛の内の一輛の砲塔が吹き飛び、高々と舞い上がった。
「一一時方向、敵の対戦車砲だ!」
後続していた仏陸軍歩兵の誰かが叫ぶ。健在な戦車が砲塔を旋回させる。だが、それが火を噴くよりも早く、別方向からの砲撃が叩きこまれた。隠蔽された対戦車砲の複数方向からの射撃を受け、戦車隊は為す術も無く討ち取られていく。
「くそっ、埒が明かん!小隊、敵の砲を破壊する。ついて……」
業を煮やした士官の一人が部下にそう命じかける。だが、それが最後まで紡がれることは無い。日本軍狙撃兵の放った銃弾が、彼の頭蓋骨を粉砕し、辺りに脳漿を撒き散らしたからだった。それを合図に、凍りつく仏軍兵士に機関銃弾の豪雨が浴びせかけられる。反応の早かった者は素早く伏せることで第一撃を免れたが、そうでなかった者はたちまち肉片へと変貌する。
伏せた者にも、日本軍は攻撃の手を緩めることは無い。今度は短い風切り音を残し、迫撃砲弾と思しき砲弾が彼らの周囲に着弾する。それに今まで沈黙していた野砲部隊も砲門を開いたようだ。運悪く直撃を受けた者は骨の一片すら残さずこの世から消滅し、そうでない者も弾片に身を切り刻まれ、爆風に身を焼かれ、苦悶の声を上げ、或いは絶叫を周囲に振りまきながらゆっくりと死への階段を昇っていく。
こんな光景が何度繰り返されただろうか。彼ら攻撃部隊は大半の者が一〇回を数えたところでそれを考えるのを止めていた。失敗した回数を数えていたところで目の前の日本軍が強固な防御陣地を築いている現実に変わりは無く、それを突破できるわけでもない。
「畜生……空軍は!?砲兵部隊は何をやっているんだ!?」
誰かが自棄になったかのように叫ぶ。だが、いくら叫んだところでそれらが彼らを助けてくれるわけでもない。むしろ、日本軍の攻撃が強まったように思えるくらいだ。彼らは退くことも進むことも出来ず、ただここで朽ちていくだけの存在になりつつあった。
激戦が繰り広げられてる前線から数十キロ離れた地点に、この方面の防衛を担う第一八師団は司令部を構えていた。続々と寄せられる情報を耳にしながら、師団長牟田口廉也中将は幕僚と共に戦域図を取り囲んでいた。
「歩兵第五五連隊より報告。敵約一個連隊を足止め中とのことです」
「第二独立混成旅団司令部より救援要請。有力な敵部隊が出現した模様。敵は英軍」
「五五連隊は現状を維持。そのまま釘づけにしろ。二独混には三独混(第三独立混成旅団)から一個大隊を救援に向かわせる。三飛師にも航空支援を要請」
昔の牟田口ならば激怒し、部下が敢闘精神に欠けるからだと断じて死守、もしくは突撃を命じるであろう場面だったが、今の彼は違う。集められた情報から、冷静に、どの程度の増援が必要かを把握し、迅速にその穴を塞ぐことができる。更に、敵の砲兵戦力や航空隊を優先して消耗させるという判断も見せていた。
彼がそんな指揮官に変貌したのは、あのノモンハン紛争からだった。増援として送られた急造の旅団の指揮を執っていた彼だったが、敵戦力を軽視し無茶な攻撃を命じた挙句、シベリア軍の猛攻に完膚なきまでに叩きのめされてしまった。その時のショックは凄まじかったらしく、安全な後方に退くことに成功した後も、数週間は呆けていた程だった。
そして、紛争が終結した後、彼の無茶が問題になったのだが、当時の陸海軍にあった身内に甘い流れで特に咎められることは無かった。それからだ。牟田口が以前とは一八〇度真逆になったかのように、無謀な命令を出すことが無くなったのは。その変わり様は、当時の彼を知り、批判していた人物をして「中身が入れ替わったのではないかと疑った」と言わしめたぐらいである。
壊れた物は、叩けば直る、というような時があるが、まさに牟田口はノモンハンにおけるその例の一つだったのである。
「閣下。そろそろ頃合いではないでしょうか」
参謀長の呼びかけに、牟田口は頷いて幕僚を見渡した。誰もが、闘志を露わにして彼の命令を待っている。
「……第五六連隊及び師団戦車隊、三飛師の軽爆隊に反撃許可」
「はっ!」
その命令は、直ちに該当部隊に送られる。それを受け取った一個連隊に若干の戦車隊で構成された部隊が、密かに足止めを食っている英仏軍の背後に回り込み、逆襲を開始した。突然背後から攻撃された英仏軍は浮足立ち、統制が乱れる。その混乱に拍車を掛けるように、三飛師の九九式双発軽爆撃機、九九式襲撃機、更に米国から供給されたA20(日本名“翔龍”)が低空に舞い降り爆弾をばら撒いていく。これを阻止すべく、地上から対空砲火が撃ち上げられ、欧州軍の戦闘機が飛来するが、前者は爆撃機の自衛火器の前に沈黙を余儀なくされ、後者は随伴していた隼や二式単戦“鍾馗”に阻まれ、妨害することすら叶わない。
こうして、挟み撃ちを受けた英仏軍は、這這の体で逃げ出す破目になったのであった。
一九四三年二月一四日 クアンタン マレー攻略軍司令部
「……以上が、我が第一八師団の戦況であります」
総司令部で開かれた作戦会議の場で、一八師団から派遣された参謀が現状を読み上げると、軍司令官山下奉文大将は満足そうに頬を緩めた。
「一八師団は良くやってくれているようだな」
「ええ。彼我の兵力差は四倍から五倍。それをうまく支えています」
それに参謀長鈴木宗作が応じる。実際、上陸前の軍司令部の中では、互いの兵力差から、最悪、後背の戦線は大きく後退することを余儀なくされ、補給路の確保に支障が生じるという悲観的な見方すら生まれていた。そんな予想に反し、一八師団を始めとする防御担当諸隊は一歩も引かず、逆に部分的には逆襲に転じてすらいる。おかげで、攻略部隊の主力は、余計な戦力を割かずに進軍を続けられる。
「牟田口師団長に伝えてくれ。貴官らの奮戦に感謝する、とな。何か不足している物資は無いだろうか」
「は……それなのですが、弾薬、特に重砲用の榴弾が底を尽きかけています。また、野砲や迫撃砲も重砲程深刻ではありませんが、同様です。後は、現在と同じ規模の航空支援を受けられれば、数か月は持ち堪えてみせる、と師団長はおっしゃっていました」
善戦する一八師団らの唯一の問題点。それが弾薬の問題だった。数に勝る敵を押し止めるには多数の火砲による集中砲火が効果的だが、当然、弾薬消費量も桁違いとなる。
「ふむ……」
山下は何か思案するような顔つきになった後、戦務参謀に顔を向けた。
「余剰の砲弾を一八師団に送ったとして、これから先の戦闘で不便なことは無いかね?」
「……現状、砲兵隊が大々的に必要とされる局面は出てきておりませんので、砲弾については問題ないかと思います。ですが、航空隊を引き抜かれるのは厳しいかと。特に軽爆や襲撃機は砲兵と同様に重要です」
「航空支援については、海軍の基地航空隊に協力を要請してはいかがでしょう?」
戦務参謀の答えに、鈴木が横から口を挟む。
「もしくは空母機動部隊の艦上機に支援を要請するという手段も有ります。現在、マレー半島東部海域の制海権は我が方にあるということでしたので」
そう言いながら、彼はカーキ色の軍服の中で、唯一海軍の第一種軍装に身を包んだ男に視線を向けた。彼──陸軍との連絡将校を務める相沢芳樹中佐は鈴木の視線に頷いて見せる。
「本日までにマレー半島に展開しているのは第一航空艦隊からの航空隊計一〇個。うち五個が戦闘機、二個が陸攻、三個が艦上爆撃機となっています。特に艦爆隊は九九襲と同様の運用が出来るため、代役程度ならば務まるかと」
彼の答えに、山下はしばらく瞑目して思案していたようだったが、やがて目を開けると一八師団の参謀と相沢に向かって口を開いた。
「では、海軍の助力を得ることとしよう。一八師団には今まで通り三飛師の支援を継続させる。相沢中佐、済まないが我々の要望を古賀長官に伝えてくれないか?」
「ありがとうございます」
「分かりました。古賀長官も陸海の協調の重要性は理解しておられます。良い返事を頂けるかと」
参謀と相沢はそれぞれ答える。その後、作戦会議は進撃の詳細に移っていった。
一九四三年二月二五日 シンガポール南岸
耳をつんざくような轟音が海岸線の陣地に満ち溢れる。大口径の砲が銃先を並べ、盛大に沖合の艦隊に砲撃をかけている。艦上に閃光が走り、何か黒い塊が海面に落下する。艦隊からも反撃の砲火が放たれるが、その精度はこちら側より劣る。
「いいぞ!ジャップのボロ船なんぞ、全部漁礁に変えちまえ!」
上官が狂ったように砲兵隊に叫ぶのを聞き、シンガポール守備隊のフィリップ・クラーク上等兵は周囲を見て僅かに首を振った。周りの上官や同僚も、その空気に染まったかのように歓声や下品な叫びを上げている。
二月一九日より始まったシンガポール攻略作戦は、香港の時と同じく大規模な重爆と陸攻による空爆で幕を開けた。香港攻略作戦はこの時の為の予行演習のようなものだったのだ。約一週間に渡って繰り広げられた航空戦の結果、英軍守備隊約六万名は少なくない損害を被った他、防空能力を大幅に低下させていた。
そして、それを見計らったかのように、この日、日本艦隊が姿を現したのだ。その中には、パラオで目撃された“化物”が二隻も含まれていた。
これを迎え撃つのは、沿岸砲台の一二インチ砲一二門と一五インチ砲六門。火力では不利に思われるが、沿岸砲台と艦艇が撃ち合えば、砲台が当然のように勝つと、クラークは同期の砲兵から教わっていた。そして今、その言葉通りの光景が広がっている。敵の“化物”は二隻とも多数の大口径弾を被弾し、所々から黒煙を噴き上げている。対する英軍側は一二インチ砲二門、一五インチ砲一門が破壊されただけだ。
「よお、フィリップ!辛気臭い顔してんじゃねえよ!何か気に入らないことでもあるのか?」
同期が陽気な声をかけてくるのに、クラークは苦笑して肩を竦めた。
「いや、そういうわけじゃないさ。けど、こんなに簡単に追いつめられるものなのかな、と思ってさ」
「おお、そういうことか。けどよ、この調子でいけば、あの“化物”も、後ろの『キイ』クラスもあっという間に吹っ飛ばしてくれるぜ!」
「ああ、そうだな……」
楽観的な同僚に表向きは同意しつつ、クラークは違和感を覚えていた。あの東洋艦隊に勝利するような彼らが、たかが沿岸砲台如きにこうも一方的に撃たれっぱなしでいるか?という疑問を抱いていたのだ。敵の戦艦五隻と重巡三隻が、未だに全門斉射に移っていないことも気がかりだったが、それをこの雰囲気で言うのは躊躇われた。
日本艦は相変わらず撃ち負けているように見える。気のせいだろう、と彼は感じた違和感を振り払おうとしたが、不意に微かに何かを聞きつけた。顔を上げ、周囲の雑音の中からその音の正体を拾おうと神経を集中する。
「おい、どうかしたのか?」
「悪い、少し黙ってくれ」
怪訝そうな表情で問いかけてきた同僚に、クラークは素っ気なく答える。隣の彼がむっとした雰囲気を感じるが、彼はそれどころではなかった。音は段々こちらに近づいてくるようにも感じられる。
(これは……航空機のエンジン音か?)
そう目星を付けたところで、彼は何かに気づいて視線を敵艦に向けた。今も尚、被弾と発砲の閃光を絶え間なく光らせている巨艦、その艦橋を何かが飛び越していった。
「……!?」
クラークは目を見開いてそれを見つめた。その影に気づいた誰かが、絶叫をその喉から迸らせる。
「ジ……彗星(ジュディ)!」
その声に、誰もが上空を見上げる。一旦急上昇した機体は、陽光を反射させながら機首を地上に向ける。その様子は、さながら獲物を見つけた猛禽のようだ。その目標を悟り、誰がが絶望の叫びを上げた。
「まずい!奴ら……」
その言葉がいい終わらないうちに、数十機のジュディは何の抵抗も受けずに急降下していく。その先には──尚も砲撃を続ける砲兵の姿があった。
彼らのうち、感のいい者は急降下してくる音で気づいたのか、泡を食ったように逃げ出す。だが、その他の不運な兵らは、それに気づいたのは投弾する直前だった。
ジュディの編隊は一本の線のように連なって降下し続ける。その腹から、黒い塊が切り離される。投下された爆弾は砲台の周囲に着弾し、逆円錐形状に爆炎と土砂を噴き上げる。
やがて、砲自体にも命中弾が出始める。砲架を直撃した物は、それを鉄屑に変え、支えを失った砲が地面に転がり落ちる。砲身に直撃した物は閃光を発すると同時に、それを大きく捻じ曲げるか欠損させる。各砲台の砲は空襲があった時破壊されるのを避けるため引き込めるようになっているが、それはレーダーで早期に探知出来ればの話だ。今では間に合わない。
だが、そんな物とは比べ物にならない程の悲劇が発生する。あるジュディが投下した爆弾。それがある物の上に落下するのを、クラークはやけにゆっくりと見ていた。そして、それがそのままの速度でその物体にぶち当たるのを見た瞬間、彼は咄嗟に塹壕に身を伏せていた。
炸裂した爆弾、その弾片がその物体──弾薬が満載された木箱を貫き、砲弾すら貫通する。その擦過熱で化学反応を起こし、火薬が誘爆。それが連鎖的に起こり、巨大な火柱を噴き上げた。それによって撒き散らされた弾片や破片が、呆然としていた将兵を薙ぎ倒す。無事だったのは、クラークのように本能で生き延びることができた一握りの人間のみだった。
爆風が過ぎ去り、彼は恐る恐る顔を突き出し──絶句した。周辺には大砲の残骸やミンチ状態となった人体が散らばっていた。彼は喉元に苦い物がこみ上げてくるのを感じていた。
不意に、後方からこれまでに聞いたことのないような轟音が轟いてきた。彼はのろのろとそちらに振り向き、再び目を見開くこととなった。
沖合の戦艦群は、何事も無かったかのように斉射に移行していた。あの“化物”も、数十発の砲弾を受けていたはずなのに、それを感じさせないかのように砲撃を繰り返している。飛翔音が続けて近づき、海岸線に続けて弾着した。だが、クラークはその様子を全く見ていなかった。彼の目は、二隻の巨艦に釘付けとなっていた。
「この、“化物”め……!」
彼の口からそんな呻き声が漏れ出た。彼は、この瞬間、その戦艦がそう呼ばれる意味を理解したのだ。その直後、飛翔音が間近になり、彼の佇む塹壕を直撃した。視界が真っ赤に染まり、激痛を感じたのを最後に、彼の肉体は四散した。
「……敵沿岸砲台の沈黙を確認。次より、目標を海岸線陣地へ変更します」
戦艦『尾張』の艦橋に砲術長の淡々とした声が響く。多数の砲弾を受け業火に包まれるシンガポール南岸を双眼鏡越しに見つめ、『尾張』艦長木下三雄大佐は周りの人間に知られないよう溜息をついた。あの爆炎の下の地獄を想像し、憂鬱な気分になったのだ。
「友軍機、離脱します!」
見張員の報告と同時に、『尾張』上空を多数の爆音が通り過ぎていった。彼ら──第四艦隊の艦爆隊は歓声を送る水兵らに翼をバンクして応え、東に飛び去っていった。
シンガポール攻略に際し、海軍は香港と同様に水上艦艇による艦砲射撃を目論んでいた。だが、そこには一つの問題があった。香港には無く、シンガポールにはあるもの。それが沿岸砲台だった。
常識的に考えれば、砲台と艦艇では前者の方に分がある。そのため、日本海軍でも最大の防御力を誇る第一、第二の両戦隊が攻略艦隊の主軸に選ばれた。この他、第八戦隊の『妙高』型重巡三隻と、再建なった第二水雷戦隊が護衛として随伴している。
だが、万が一のことを考え、南遣艦隊司令部は第四艦隊にも支援命令を下していた。そして、四艦隊司令部から提示されたのが、艦爆隊を低空でギリギリまで接近させ、直前で急上昇、そのまま急降下爆撃に移るというプランだった。
通常通り高高度を飛行していけば、復旧しているかもしれない敵のレーダーに捉えられ、手前で迎撃を受けるかもしれない。彼らは度重なる空爆で弱体化したとはいえ、シンガポールの防空体制を甘く見てはいなかった。また、早期に発見されては敵砲兵が気付き、砲を引きこんでしまうかもしれないとも考えていた。ここで沿岸砲台は殲滅しなければ意味が無いのだ。
こうして、戦艦を目隠しに、艦爆で敵砲台を撃滅するという作戦は承認された。効力射が可能となっても、交互撃ち方のままだったのも、艦爆隊が発する爆音を限界まで悟られないようにするためであった。今、その制限を取り払われた五隻の戦艦は、鬱憤を晴らすかのように巨弾を叩きつけていた。
(どうだ、英軍。『扶桑』の仇討ちは、こんなものでは済まされないぞ)
木下は、かつての乗艦の無念を想いながら、戦艦群が砲撃する様を仁王立ちになって見つめていた。
一九四三年三月三日 シンガポール市街
最早恒例となった空爆が始まる。四発機の大群が空を覆い尽くし、死の羽音で上空が充満する。それを迎え撃つ翼はない。度重なる防空戦は、空軍の戦力を大幅に消耗させ、迎撃を不可能にしていたのだ。
高射砲部隊が一矢報いんと砲撃を始める。湧き立つ爆煙が空を黒く染め、数機が機体を傾かせ落伍し、或いは直撃や至近弾で四散する。だが、全てを阻止するには到底足りなかった。
やがて、その腹が開き、無数の爆弾が投下される。不気味な風切り音を響かせながらそれらは市街地のあちこちに落下し、爆炎を噴き上げた。建物の破片が、自動車の残骸が、元はヒトだったものの形容しがたい何かが区別なく等しく舞い上げられる。
それに呼応するかのように、北岸から複数の砲声が轟く。敵の日本軍の重砲部隊が準備砲撃を行っているのだろう。これに対抗する術はない。大半の火砲はマレー半島の攻防で失われ、唯一の希望だった一五インチ砲も、先日の敵艦隊迎撃で全門が破壊されている。あるのは射程の短い旧式の野砲が十数門のみだ。
それらは一発一発は空爆よりはおとなしいが、長時間持続し英軍守備隊の神経を消耗させる。更に、時折他を圧倒するような砲声が対岸のこちらにも響き渡り、戦艦の艦砲に値するような爆炎を噴き上げる。砲撃が行われる度、守備隊の士気は少しずつ下がっていった。
やがて、爆煙を切り裂いて日本の戦車部隊が現れた。その後方には、多数の歩兵部隊が続いている。彼らはシンガポールに続く土手道を渡りきると、その周辺に橋頭堡を築き始めた。
──その様子を、忌々しげに見つめる一対の視線があった。陣地構築の様子を監視していた男は、隠れていたビルから足早に出ると裏通りに出る。その脇道には、シートで偽装された数輛の戦車があった。男はそのシートの中に入り、上官の少佐に報告する。
「敵部隊、橋頭堡を築き始めました。どうします?」
そう問われた少佐は、顎髭の伸び放題になった顎を擦り、天井を見上げて考え込む。
「……しばらく待とう。奴らが奥深くに入り込んできた時が反撃の時だ」
「了解しました。では、他部隊にも伝えてきます」
男は見事な敬礼をしてみせると、上空を気にしながら勢いよく飛び出していった。その後ろ姿を見送る少佐に、副官が話しかける。
「今更呑気に橋頭堡の確保とは……奴ら、勝った気でいるようですな」
その一言に、少佐は先程は見せなかった獰猛な笑みを浮かべた。
「そのようだな……では、戦争を教育してやろうじゃないか」
そう言って見上げた先には、彼の操る戦車が、砲身を鈍く光らせて出撃の時を待っていた。
一九四三年三月一二日 シンガポール市街地
日本陸軍主力部隊がシンガポールに侵攻してから九日が経った。旺盛な航空支援の下、各部隊は順調に制圧を進めていた。また、海軍の海兵二個旅団が海岸線より上陸。マレー半島上陸作戦時の戦訓から徹底的な面制圧をかけられ、海兵旅団は何の抵抗も無く上陸に成功し、陸軍と挟撃をかけていた。
「いやー、暇っていいもんですね、中隊長」
砲手の沢崎軍曹の呑気な声に、小早川は苦笑を禁じ得なかった。確かに、彼ら機甲旅団は劣勢な味方の救援を主任務としていたが、シンガポールに上陸してからは一回しか戦っていない。歩兵の脅威となるような堅固な陣地や戦車は、粗方空爆と陸軍飛行師団の近接航空支援で吹き飛んでいる。
「まあ、あまり油断するなよ。未だに東南アジアじゃ最大級の拠点なんだから」
「けど……それにしては変じゃないですか?」
小早川が笑ってたしなめると、操縦手席から浦月が疑問の声を上げた。
「変?何がだ?」
「いえ……最大級の拠点と言われる割には、航空機の数はそこまで多く無かったみたいですし、何より、こちらはこうやって艦隊まで駆り出しているってのに、それを打ち破るための行動を全然取っていないじゃないですか」
「うん……」
言われてみればそうだ。シンガポールのような重要拠点に救援を送らないというのは確かに変だ。だが、それを彼が考えたところで状況が変化するわけでもない。
「きっと、海軍さんがやっつけたんでまだ回復していないんですよ。じゃなきゃ、援軍が間に合わなかったとか」
「そうかなあ……?」
飯塚伍長の楽観的な意見に、浦月は尚も首を傾げる。と、無線機が着信を報せた。飯塚は真顔に戻り、交信している。それが終わり彼が振り向いた時、小早川は何か良くない事態が起こっていることを悟った。
「二キロ前方で第一四師団の一部が有力な戦車部隊と交戦中。かなり苦戦しているようです」
「了解。“白菊”各車、ついてこい!」
「全速前進、友軍を助けるぞ!」
飯塚の報告に小早川は即座に意識を切り替えると矢継ぎ早に命ずる。各車から応答が返り、浦月がギアを入れて二式を前進させる。車載歩兵を後方に続かせ、彼らは友軍の元へと急行しようとしていた。
「飯塚伍長、敵情は?」
小早川の問いに、彼は無線機をいじっていたが、やがて暗い顔つきで答えた。
「かなりまずいことになっています。敵は新型戦車を繰り出してきたようです。『一式でも簡単にやられている』という声が飛び交ってます」
「一式でも劣勢、か……」
それが本当なら、それよりも強力な二式を擁する彼ら一二一中隊がますます必要となる。若干の焦りを感じ、彼はハッチから半身を乗り出し道路の先を見つめた。
しばらくすると、砲声が近付き前方で友軍の戦車部隊が撃ち合っている場面に出くわした。いきなり、一輛の一式が砲塔を跳ね飛ばされるのが見えた。
「……!」
小早川は絶句した。一式は傾斜をつけたそれなりの厚さの装甲を有している。その最も分厚い正面装甲が破られたのだ。彼は焦りを抑えて麾下車輛の命じる。
「二、三小隊はここで援護射撃、一小隊と随伴歩兵の半分は中隊本部と敵戦車を撃破しに行くぞ」
『一小隊了解。我々が先に出ます』
彼の命令に第一小隊の皆川栄治中尉が応じ、三輛の二式が中隊本部を追い越していく。彼らは後退する友軍の一式と入れ替わるように最前線に出る。敵戦車はマチルダ歩兵戦車と外見はそう大差ない。砲を新型に換装しているのかもしれない、と小早川は思った。
「一小隊は敵戦車を攻撃。慎重に行け。随伴歩兵一個分隊はその側面援護」
『了解。小隊、前へ!』
後退を始めた一式の一群に代わり、第一小隊の二式が前に進み出る。敵戦車も新たな敵を見つけたと思ったのだろう。一式には目もくれず、一小隊に砲口を向ける。
発砲は二式の方が早かった。轟音と共に吐き出された三発の八八ミリ弾はそれぞれ敵戦車の正面装甲に突き刺さる。一瞬の後、うち一輛が砲塔を高々と舞い上げられた。残りの二輛は履帯を破損し、動きを止める。残りの戦車は怖気づいたように後退を始めた。二式もそれを追撃すべく前進を掛ける。
(……何かおかしい)
敵戦車の下がり方を不審に思った小早川は、皆川に指示を与えるべく無線を繋ごうとした。だが、それは一足遅かった。不意に瓦礫の中から閃光が走り、直後、二式の側面装甲に火花が走った。
『なっ……!?』
「対戦車砲だ!一小隊、追撃止め、後退しろ!中隊本部、及び二、三小隊は応戦するぞ!」
絶句する皆川の言葉に覆いかぶせるように小早川は叫ぶ。中隊本部の二式の砲口が瓦礫を指向する。
「榴弾装填!」
「了解、装填よし!」
「てっ!」
沢崎と瀬山の間できびきびしたやり取りが交わされ、号令と共に小早川の二式から砲弾が吐き出された。同様に、他の戦車からも砲弾が放たれ、瓦礫の山に弾着が相次ぐ。更に随伴歩兵の一部が慎重に近寄り、手榴弾を投げ込んだ。爆発が連続して起こり、対戦車砲が沈黙する。その間に、敵戦車は後退を完了していた。
「……各隊損害報告」
静寂を取り戻した戦場で、小早川は一息つくとそう命じた。程なくして、各小隊長から報告が上げられる。
『……第一小隊、被弾一輛。対戦車砲に撃ち抜かれたようです。乗員は全員戦死』
『第二小隊、損害なし』
『第三小隊、同じく』
『随伴歩兵小隊、戦死三名、負傷五名。うち二名は重傷』
「二式でもやられるか……」
次々と寄せられた報告に、彼はもう一度深く溜息をついた。二式重戦車はその主砲の威力の高さと装甲の厚さが売りだが、装甲に関して言えば正面のみが万全と言える。重量を少しでも軽減するために、側面、背面装甲は中戦車並みに抑えられているのだ。今回のような至近距離からの奇襲には、とても耐えられるものでは無かった。無敵にも思われる二式の、意外な弱点が露見した。
「中隊長、大隊本部より通信です」
唐突に、そう言って飯塚がレシーバーを手渡してくる。小早川は暗澹な気分のままそれを耳に押し当てた。雑音混じりの中、大隊長の声が聞こえる。
『……“竜胆”より全中隊。現時刻を持って、一切の戦闘行動を一時中断せよ。繰り返す、戦闘行動は一時中止!』
いきなりの命令に小早川は眉を顰めた。何を言っているのか、理解が遅れたのだ。
「こちら“白菊”。それはどういう意味でしょうか?」
『どうしたも何も……英軍側から休戦が申し込まれたんだ。あちらも手を出すつもりは無いはずだ。こちらからは決して手出しをしないよう、各級指揮官は部下に厳命してくれ』
「……“白菊”了解」
釈然としない思いを抱きながらも、彼はそう返答した。もう少し早ければ貴重な経験を積んだ部下と未だ配備数の少ない二式を無為に失うことは無かったのに、とは思うが、これ以上失うリスクを冒すわけにもいかない。何よりも、上官の命令に従うのが軍人の常識だ。
彼は呼吸を整えると、麾下の全員に休戦を徹底させるべく、飯塚に指示し無線を繋いだ。
一九四三年三月一四日、シンガポール守備隊降伏。
当初は徹底抗戦の構えを見せていたアーサー・パーシヴァル陸軍中将以下の英軍守備隊だったが、制空権・制海権を日本側に握られ、繰り返し徹底的な空爆と艦砲射撃を受けたため、次第に戦意を失っていった。更に、北からは日本陸軍の大群が、南からは海軍の支援の下、海兵旅団が侵攻し、圧力を加えていった。
そして、日本軍マレー攻略軍のシンガポール上陸から九日が経過し、欧州軍による救援の見込みが無くなった、もしくは間に合わないことを悟ったパーシヴァル中将は、マレー攻略軍に休戦を申し込んだ。その二日後、正式に降伏することが決まったのである。
司令部が降伏を決定してからも、それを不服とする一部将兵がゲリラ戦を展開していたものの、直に鎮圧出来ると判断され、大本営は第一次反攻作戦の終了を宣言。続く第二次反攻作戦に向け、陸海軍とも準備を始めるのであった。
後書きめいた何か
シンガポール攻略戦、さらっと終了。ちなみに、最近三話、碌な海戦描写無し……海戦何処行った。次は否応なしにあるのですが。
次回ははっちゃけます。何、今までもそうだったって?こまけえこたぁ(ry
……では、次回もお楽しみいただけると幸いです。