帰って見れば、既にどこか緊迫した空気がノワールの地下施設全体に張り巡らされていた。
普段とは違う、得体の知れない感覚に一瞬戸惑うが、すぐにその原因を察知する。
「……ヴェスタのやつ。今回は本気だな」
それは、音だった。普通の人間なら認識することもできないような『超音波』ともいうべき振動が、基地の至るところから発信されている――隙間なく、逃げ場がないくらいにまんべんなく、隅々まで、全体に。
それを「認識」できるのは、恐らく戦闘員の中では上級の素体を使っている俺だけだろう。その他の奴らは、この違和感になんとなく気付くだろうが、その原因までは探れない。そしてやがて、意識から外れていく。
戦闘員共通の黒の鎧を身に纏い、グローブを締めながら、俺は歩く速度を緩めない。誰もいない廊下に、コツコツと、俺の焦れるような足音だけが響き渡る。
今頃他の戦闘員たちは、ミッションルームという名の巨大ホールでディアナ将軍による演説という名の決起集会が行われていることだろう。そこには殿下もいて、恐らくは普段は姿を見せないヴェスタも参加していて、士気を高めているに違いない。
……それこそ、物理的にでも。
勿論、本来ならば俺もそこに参加しなければならないのだが、何、戦闘員の数が一人二人足りないところで、誰も気にはとめないだろう。その場にいる戦闘員達は全員お揃いの黒のスーツにドクロの仮面をつけているのだ。誰が誰かなんてわかりゃしない。
だから俺は、集会には端から参加せず、ある目的の場所へと急いでいた。長くくねった無機質な廊下も、この角を曲がれば終点である。
「待たせたな、ナミ子」
「遅いっすよ~、せんぱい」
そこには同じく、全身黒のコーディネイトに身を包んだ少女が、小さく頬を膨らませていた。彼女にも「音」の影響は出ているのだろうに、傍目ではあまり違いが感じられない。
「ナミ子、お前耳鳴りとかしていないのか?」
「ほぇ? あー、そういえばなんとなくさっきからキーンってするような……」
トントンと片耳を叩きながら不思議そうに首をひねっているナミ子。やはり彼女には、あまり影響が出ていないらしい。女の戦闘員はコイツだけだから、もしかしたら素体の性別の差によっても違うのかもしれない。
「すまん、あまり気にしないほうがいい。……それより、例の物は?」
「あー、これっすね」
はい、と気軽にナミ子が差し出してきたのは、銀色に輝く小さなメダルだった。メダルにはノワールのシンボルである紋章が刻まれており、しかしそれ以外は、どこにでもある普通のメダルである。
「……頼んだ俺が言うのもなんだが、よく入手できたな、コレ。研究所に厳重に保管されてただろ」
呆れて受け取る俺に、彼女はあっけらかんと両手を頭の後ろで組みながら、涼しそうな顔で言う。
「ええ。なもんで流石にナミ子一人じゃ荷が重そうだったんで、殿下に話したらとってきてくれました」
「…………あ、そう」
殿下に、ね。
確かにあの人なら、その権限は持っているだろうし、ヴェスタにも内緒にしてくれていることだろう。
俺が死のうと生きようと、あの人には何ら影響はないのだし。
「でもいいんすか? それ、使ったらせんぱいのほうが壊れちゃうんでしょ?」
「まあな」
「ふーん」
彼女は気楽そうに――特に何も感じていない表情で、そうっすかーと小さく笑う。いつものように。いつもと変わらず。
俺は、そんな彼女の頭を軽く撫でてやった。くすぐったそうに目を細めるナミ子。
「ま、そうならないように気合でなんとかするさ。ありがとな、ナミ子」
「へへー、これぐらいラクショーっすよ。ナミ子はせんぱいの言うことは守りますからね~」
そう。彼女は、俺の言葉に忠実であってくれる。
たとえそれが間違っていても、たとえそれで俺がどうなろうとも。
俺の言葉に、絶対的に従う。今はそれを、ありがたいと思うことにしよう。
「じゃ、怒られる前に俺達もしれっと集会に参加することにするか」
「でもせんぱい、本当に……ナミ子は不思議でたまらないっすよ。なんでそこまでするんすか?」
踵を返して歩き出そうとした矢先、ナミ子の言葉に俺は歩みを止める。結果的には背中越しに、彼女の言葉を聴くことになった。
「この戦いに意味なんてないっす。みんなはお金のために、あるいは無理やりに戦ってるだけで……なのにせんぱいは、一人だけ勝手に盛り上がっちゃって、あの魔法少女に真っ向から挑もうとしてる。適当にやってればいいのに、死なない程度に遊んでいればいいのに……それとも戦う理由が、せんぱいにはあるんすか?」
ナミ子の声にはまったく熱が入っていない。俺を馬鹿にしているわけでも、止めようとしているわけでもなく、本当に、純粋に、疑問に思ったから訊ねている――そんな感じだった。
そしてその言葉は、正しく的を得ている。
大金のために戦っている連中、死体から蘇って洗脳されて戦っている連中。彼らにはノワールに存在意義がある。目的という名の、そこにいていいだけの、大義名分と役目がある。
けど、俺やナミ子にはそれがない。だから適当に、みんなに合わせて出動して、適当に負けて、そのまま帰ってくる……それを繰り返せばいい。脳さえ無事なら、俺達はそれで事足りる。
死にたくなったら、すぐに脳を殺してもらえばいいだけの話。
だから不思議に思うのは無理もないことだ。俺が、何の目的も見返りもないのに、それこそ命を賭けてまで、あの魔法少女に挑もうとする理由――
「あるさ」
俺は手に持ったメダルに視線を落とす。鈍い輝きを放つそれは、俺を死へと誘う麻薬だ。
「あっちはどう思ってるか知らないけどな――」
腰に備え付けられている仮面を手に取り、俺は静かにそれを顔へと近づける。
皮膚にくっつけた瞬間、それはまるで生きているかのように伸縮し、瞬く間に俺の頭部全体を覆った。
そうなれば、そこに存在するのは、大勢いる戦闘員の一人となった俺だけだ。
仮面越しから聞こえる音声は、仮面をつけた人間でないと正確に聞き取れない。それを知っている上で、俺は自身の言葉を続けた。
いつからそうだったのか、それは俺にも分からない。
初めて出会った時からなのか、アイツの映像を調べまわった頃からなのか、最初にアイツに一泡吹かせた時期からか――思えば最初から、キッカケはあったようにも思う。
だから「いつからか」という曖昧な表現でしか自分を納得させられないけれど……いつからか。
俺は、あの女に――プリンセス・フリージアに。
惹かれていたのだ。
男と女としてではなく。
相対する、敵として。
「――もう、代理戦争じゃないんだよ。俺にとって、アイツとの戦いはな」
御門市のオフィス街ともいえるその場所は、不気味なくらいに人の気配を感じさせなかった。
まだ夕焼けに染まる茜色の時刻だというのに、その周辺だけ、喧騒から切り取ったかのように静寂を保っている。
人の姿は、ない。
……『超エネルギー体』は、出現する時間や場所を選ばない。
だから今日に限らず、人が沢山いる場所と時間帯に出現したこともあったし、その姿を街の人たちに目撃されたことも、何度かある。
しかし翌日にはそのことは街の誰にも知られていないし、ニュースに挙がることもない。
そして『超エネルギー体』が行った破壊活動も、次の日にはまるでなかったかのようにリセットされている。
これらは全て、ノワールではなくルピナスの情報操作によるもの――らしい。
俺らとは違って、魔法という神秘の技術を習得しているルピナス。
ならば漫画やアニメのように、人間の記憶を消したり、こうやって人払いの「結界」のようなものを張るのも、決して不可能ではない……というわけだ。
しかしこれらの能力は、地球人にのみ作用する――すなわち、俺達改造人間には効果がない。
結果的に、おあつらえむきな戦場が、そこに形成されるというわけだ。
『今回の憑依獣は、今までと違い、小型の生命体のようだ。かなりすばしっこく建物内を動き回っているようで、奴らも苦労しているようだな』
憑依獣が逃げ込んだのは、老朽化によって解体することが決定している廃ビルの内部。今ではロッカー一つ置いていないガランドウの建物ということらしい。見た目的にも、むき出しのコンクリートや剥がれきった塗装から、そこが何年も放置されていることが見て取れる。
「しかし建物内ってのはまずいな……。いつもの人海戦術が狭い場所じゃ使えない」
敵が狭い場所にいるというなら、数が多いほうが有利なのは間違いない。現に俺達はこのビルの全階層に部隊を分けて一挙に送り込んでいる。フリージアと憑依獣がどの階にいても対処できるように、だ。
フリージアによる撃退の報告がある度にビルに戦闘員を補充して行っているが……部隊を分けたことによって戦力は細分化され、更に狭いビル内には送り込める戦闘員の数がどうしても限られてしまい、戦力の心許なさは否めない。
元より、戦闘員が何人いようと、彼女の障害にはなりはしまい。
俺達が先に憑依獣を発見、封印することができれば、フリージアとの距離差によってはそのまま持ち帰ることもできる――結局のところ、今回の作戦はこの半ば運頼みによるものだった。
フリージアと遭遇した場合は全力で足止めし、その間に憑依獣の相手をする。相手は一階分しか見て回れないのに対して、こちらは全ての階を把握できるのだ。
今までにない、圧倒的なまでの有利な条件で戦場は整っている。
『こちら3階! 憑依獣を発見しました!』
『フリージアは!?』
『現在7階で交戦中です!』
『よし、遠い! 今のうちに憑依獣を捕獲、封印せよ!』
『フリージア、移動します!』
『止めろ! なんとしてもその場で足止めさせるんだ! 博士、脳波の出力を上げろ!』
『やれやれ……あまり壊したくはないんだがな』
仮面から聞こえる通信音声では、目まぐるしく変わる戦況の状況が絶えず報告されている。
フリージアがいるのは7階。憑依獣が現在いるのは3階。絶好の好機である。
ただの戦闘員程度じゃ、フリージアを足止めできる時間なんて、ハッキリ言って数秒に満たない。
……そう、それが、今までなら。
今回、全ての戦闘員には、基地で流れていたものと同じ「音」が仮面を通して随時流れている状態にある。それは普段なら使わないある特定の周波で、戦闘員達の感情をコントロールしている。
いわばバーサーカーモードへのスイッチというわけだ。
今回の戦闘員は、一筋縄ではいかない。倒されても、手足がもがれても、脳が音を聞いている限り、限界まで稼動して敵に向かっていくように仕向けられている。数秒でも、彼女の動きを止められればそれでいいのだ。その過程で戦闘員達が壊死しようが、全て結果が優先される。
今まで使わなかったのが、不思議なくらいの処置だ――しかしこれは、まさしく戦闘員しか駒がいない俺達ノワールの切り札ともいえる。その数を減らす覚悟で、この一戦に臨んでいるのだから。
戦争はこの後も続いていくのだから、大きな目で見ればこの手段は非効率的でしかない。だからヴェスタも使わなかった。
けれどそれだけ、この戦いが背水の陣なのだ。
失敗は許されない。
敗北は――認められない。
「さて……」
俺がいるのは、6階――幸か不幸か、目的の目と鼻の先である。
この建物は構造上、階段は通常のそれと非常口しかなく、本来行き来するために使われていたであろうエレベーターは当然動いていない。
となれば――
見上げた先に、足音が近づいてくる。
7階と6階を繋ぐ、階段。その6階フロアに通ずる場所で、俺はゆっくりと手首を回した。
コンクリートの音はやがて振動となり、そこに現れる誰かの出現を告げている。
夕焼けだと思っていた空は、いつのまにか暗がりが刺したようで、ところどころひび割れた窓からフロアに差し込む光も、徐々にその色を薄めている。
音は今なお限界まで近づいていき――やがてぴたりと、それが止まった。
「…………っ」
「…………」
見下ろす視線と、見上げる視線。
彼女の息は、若干上がっているようだった。僅かだが、肩で息をしている。元より憑依獣を追ってビル内を駆け回っていたことに加え、戦闘員達の執拗な妨害を受けていたのだ。それも当然の姿といえた。
「……まったく。次から次に……今日はいつにも増してしつこいわよ、あんた達」
「そう言うなよ。今日はこちとらも都合でね。今回ばっかりは素直に譲ってくれないか?」
相手に聞こえていないのをわかっていて、俺は彼女に向かって話しかける。
少女は――燃えるような髪と瞳を携えた、プリンセス・フリージアは、その正義の炎を胸に絶やすことなく、今日も美しく、可憐で、それでいてただ、正しく――悪の前に、敵として姿を現した。
「ファイヤー・アロー!」
フリージアの持つ杖から放たれる火炎の矢をすんでのところでかわし、距離を詰める。彼女もまた、その攻撃を直撃させる気はなかったのか、すぐに次の予備動作に移っていた。
回転し、遠心力を伴った強力な蹴りが眼前で放たれる。
避けなければ、直撃したその箇所は壊死するだろう。もう使い物にはならない。
「――それがなんだってんだ!」
「っ!? きゃっ……!」
俺は迷わず左手を盾にして彼女の蹴りを受け止め、軸にしていたもう片方の足を転ばせた。可愛らしい悲鳴と共に体勢を崩すフリージアの腹部に、右手をねじこませる。
しかし彼女の白いボディスーツに触れる寸前、俺とフリージアの間には赤い壁のような物がはりめぐらされ、その一撃が届くことはなかった。反動のように壁から強い力で押し返され、後方に吹き飛ばされる。
「……ちぃっ……!」
「……くうっ……!」
互いに受身を取り、膝を突いたまま、俺達は距離を開けて対峙する。
「……やるじゃない。“アンタ”が、“アイツ”ね」
「変な日本語、使ってんじゃねえ、よ」
よろけながらも、立ち上がる。左手はだらんと力なく下げられたままだ。もう、俺の命令も聞いてくれない。
フリージアは杖を構え、こちらから視線を外さない。同様に俺もまた、彼女の一挙一動を見極めようと、その全神経を集中させている。
仮面からの通信は、先ほど切断している。この戦いを、誰にも邪魔されたくはなかった。
電気の通らない暗いフロアで、俺とフリージアは、窓から入るわずかな光を頼りに、真正面から相対していた。
「…………」
「…………」
少女の敵意を向けた瞳が、実に心地良い。彼女の引き締まった表情も、硬く結んだ唇も、今この瞬間、全て俺だけが独占しているからだ。
右手首を、軽く回す。それが合図だったのだろう。
フリージアは杖の先を、力強く床にたたきつけた。刹那、複雑な図と文様の描かれた赤の魔方陣が彼女の足元に展開される。
「――深紅なる炎の源よ」
少女の詠唱が始まる。……まずい、あの呪文は!
俺はすぐさま駆け出す。しかしあの時とは違い、相手との距離が開きすぎている!
俺の戦闘員としての全速力をもってしても、彼女の呪文が完成するほうが圧倒的に早かった。
「我が意思、我が望みと共に敵を討て――」
巨大に膨れ上がった炎の渦が、フリージアを中心にして、魔方陣からうねりをあげて放出されていく。荒れ狂うその姿は、まるで龍を彷彿とさせた。
少女の魔法が完成しても、俺の脚は止まらない。いやむしろ、更なる速度を求めんとばかりに加速を強めていく。
フリージアの面持ちは変わらない。完成した魔法を、圧倒的な威力という名の破壊を、静かな面持ちで俺へと指し示した。
「――終わりよ、変態。バーニング――!」
少女の詠唱が終わる。その津波ともいうべき絶対不可避の巨大な火炎が、上から覆いかぶさるように俺へと襲い掛かる――その間際。
彼女の足元で、小さな破裂音が連続して炸裂した。
「な、なにっ!?」
驚いたように足元を見るフリージアが、しかしすぐに、ハッ!としたようにこちらに視線を戻す。……だが!
その数秒で、俺達の距離を埋めるには――俺が勝つには、充分だ!
遅い!
『――……ですか、……様。……を使っ……魔法には、絶対……な法則があ……すの』
魔法を放つには、エテルにそれぞれの術式をもって指向性を示さなければならない。バリアならバリアの術式、火炎なら火炎魔法の術式にエテルを通して、初めて魔法が完成する。これらは全て術者の意思で行わなくてはならず、自動化することはできない。
しかし術式を構築している最中は、術者の意識が全てそちらに集中するため、別の術式にエテルを通すという作業と並列化させることは極めて難しい。
だから、相手が術を発動させる前、いや、その瞬間に仕掛ければ、事前に術式を準備しているバリアでも、エテルを通さなくては発動できない!
「もらった――!」
高揚して昂ぶった感情が、あらゆる刺激を与えてくる。ある種の充実感、達成感のような物が、脳を通して全身に駆け巡っていた。握る右手に、力が篭る。震える指をなんとか抑えつけて拳の形を作り、俺は驚愕の表情を浮かべるフリージアへと、まず間違いない、不可避にして確実なる一撃を渾身の力と共に振りかぶり――
ぱしゅん、と。
ともすれば間抜けな、空気の抜けるような軽い風切り音がして、俺の右足を緑の光が貫いた。
「なっ……!?」
絶句する。がくんと体勢が崩れ、俺の火薬を仕込んだ右手は彼女に触れることなく、虚しく空を切る。体が崩れ落ちる瞬間、確かに俺には見えていた。
窓の向こう側、この建物の向かいにある、丁度この階と高さ的にほぼ並列しているマンションの屋上に――巨大な弓をつがえた、翠の魔法少女の姿が。
◆◆◆
「サ、サイネリアだとっ!?」
ノワールの地下施設、その作戦室。
巨大なスクリーンに映った第二の魔法少女の姿に、ディアナは思わず身を乗り出して叫んでいた。
作戦は順調にいくと思われていた。あの戦闘員160号がプリンセス・フリージアを足止めし、それどころか、ついにその身に一撃を加えようとしていたのだ。その瞬間、ディアナはほとんど勝利を疑わなかった。
あの、乱入者が現れるまでは。
「なんということだ……! よりにもよって、この日に出てくるとは……!」
唇を噛み、悔しさに我を忘れて激昂する。普段は戦場に出てこない癖して、今日に限って……!
「ほう。あれが二人目のガーディアン・プリンセスか。確か報告では、ほとんど戦闘に参加しないとあったはずじゃが?」
「……ええ。積極的にフリージアの戦いに介入してきたのは、今回が初めてとなります」
自身の立場と、隣に誰がいるのかを思い出し、ディアナは我に返った。やや羞恥で頬を朱色に染めながら、通信機に向かって声を荒げる。
「160号! おい、聞こえるか160号!」
「無駄だ、将軍。あの馬鹿、フリージアとの戦闘前にこちらとの回線を切断している」
本来ならばこのような場所にいるべき存在ではないのだが、今回はヴェスタもミッション中の作戦室に足を運んでいた。皇女アルシャムスの隣に腰掛け、やや冷ややかな面持ちでスクリーンを見据えている。その表情には、普段の彼女にはない焦りの色が確かに浮かんでいた。
『包囲網突破! 憑依獣は6階に移動した模様!』
『サイネリアもビルを飛び移り、こちらに移動しています!』
『……憑依獣の封印反応を確認!』
「残っている全部隊を6階に集中させろ! 誰か一人でもいい、カードを奪取するんだ!」
その作戦が無理なことは、ディアナにも、そしてヴェスタにも分かっていた。
戦闘員160号は、今なおスクリーンに映し出され、うつ伏せに倒れている。恐らくは連続した無理な行動がたたって意識を失っているのだろう。彼に期待することはできない。
そう、唯一の望みであったあの男がいなくては、この戦いに勝利はないのだ。
……終わったか。
その絶望的な言葉が、ディアナの脳裏によぎる。皇女殿下の前での無様な失態……報告されれば、地球作戦指揮の剥奪は逃れようもなかった。
恐る恐る、アルシャムスのほうへと視線を向ける。
「……殿下……」
視界の先。
ディアナが見たのは、不敵に口元を釣り上げている、アルシャムスだった。
「……殿下?」
「どうした、何を諦めておる? 作戦指揮のお前がそんなことでどうする。少なくとも――あやつは、まだ何かやるようじゃぞ」
愉快そうに嗤う少女の目は、ディアナのことなど一瞥もくれず、ただひたすらに、スクリーンの映像に釘付けだった。
◆◆◆
……混濁した意識が、徐々に回復していく。
ぼやけた視界が戻った時に声をあげなかったのは、賞賛してもいいだろう。
まだ、目の前に……二人の魔法少女が、存在していたからだ。
「これ……爆竹? 手の込んだマネするかと思ったら、子供の悪戯レベルねぇ……」
しゃがみこみ、摘んだ燃えカスをその辺に投げ捨てながら、やれやれとフリージアは肩を竦めた。
「でも助かったわ、サイネリア。今回はマジでちょっとヤバかったかも。……ま、一対一じゃなかったのは気に入らないけどね」
「ご、ごめんなさい……」
「あー、いいっていいって! 私が油断したのが悪いんだし、今回の作戦はカトレア長官のアイディアでしょ? はー、だめだわ。もっと強くなって、サイネリアの出番がこないようにしなくちゃね」
談笑する、二人の少女。こうやってみると、そのイカれた格好がなければ、普通の女子学生の会話みたいだ。実際、そのくらいの年齢なのだろう、彼女達は。
(……さて……右手、動く……よな)
彼女達との距離は数十メートルは離れていて、二人は完全に俺を背にしている。敗北して倒れ伏せている奴が少しくらい動いても、気付かないだろう。
そう、二人はもう、この戦いが終わったものだと処理している。
これ以上ないくらいの、絶好な――チャンスだった。
何もかも悪くない。最初の発動にしては、もってこいの、タイミングである。
カードは、フリージアが手に持っている。それだけ認識できれば、十分だった。
左手と右足は動かない。だがそれさえも、枷にさえならない。
ナミ子にはああ言ったものの、できれば使いたくなかったが……やはり、使う運命にあったのだろう。
ぐぐぐ、と彼女達に気づかれないよう細心の注意を払いながら、俺は右手を、地面についている腹部へと持っていく。力が入らない。全身の虚脱感が肉体を支配している。それでも腕を地面にこすりつけながら、ゆっくり、ゆっくりと、ベルトへと手を伸ばした。
バックルの端にあるスイッチを掴めば、カチッ、という音がしてバックルが展開し、中心に円型の空洞を生み出す。
……もう、後戻りはできない。
あとは、賭けるしかない。このメダルに……俺の、運命を。
表が出るか、裏が出るか――
(賭けようじゃねえか、ヴェスタ……。お前の技術と――俺の悪運に!)
その時俺は、ガチガチに凝り固まった頬の筋肉を無理やり動かして、確かに……笑っていた。
◆◆◆
「……なっ!? あ、あれはファントム・メダル……! 馬鹿な、何故アイツが……!」
突然、何かに気付いたように叫んだヴェスタが、ぎょっとした表情で勢いよく隣をあおぐ。
そこでは、少女が、変わらず笑顔で、変わらぬ嘲け笑いで、ただニヤニヤと、愉しそうに画面を凝視していた。
その瞳が、赤い殺戮の瞳が、静かに弓なりに細まる。
「――さあ、我に魅せてくれ戦闘員160号。お前が――踏み外す、その瞬間を」
◆◆◆
《――PHANTOM・SPIDER!》
それは、突然の出来事だった。
背後で機械音のようなものがして、ほぼ反射的に振り返ろうとした、その刹那……
「きゃあっ!?」
目の前でつい今まで笑いあっていたサイネリアが、視界から消えたのだ。
慌てて彼女が消えた方向を見れば、サイネリアは全身を何か白い泡だった液体のようなものと共に壁に叩きつけられ、そのまま固定されていた。
「……っ!?」
驚く隙はなかった。自身の類まれなる本能ともいうべきセンスが、すぐ近くに迫り来る脅威を察していたからだ。
フリージアは迷わなかった。すぐさま強烈な印象を残すサイネリアから目を逸らし、彼女を吹き飛ばした「何か」が飛んできた方角へと身体ごと振り返る。
――そこに、今まさに、自分にとびかかろうとする存在を目視した。
「……ひっ!」
術式を発動させる隙も、そもそもそんな余裕さえなかった。ただがむしゃらに振り向きに合わせて右足を繰り出す。空中にいる「それ」は避ける手段がなく、蹴りはそいつに確実に命中する――はずだった。
しゅるる、と「それ」は左手の先から白い糸のようなものを吐き出し、天井に張り付け、その糸に手繰り寄せられるように高速で上昇していく。そのまま天井まで張り付くと――四肢をまるで地面にいるかのように、天井で這い蹲らせた。
だらん、と。
それの顔が、天井から、ぶらんと重力に従って垂れ下がる。
逆さになった、ドクロの仮面。
……そう、暗くてよく見えなかったそれは、それは、間違いなく……!
「ひ、ひ……」
先ほどまで自分が相手をしていた、あの、憎き戦闘員の一人だった。
……いや、あの姿を、もはや「人」として認識していいのだろうか?
敵であるノワールの戦闘員達は、皆人間で、人間の格好をしていて、人間の姿で、人間の基準で襲い掛かってきた。だからフリージアも正義の味方として、正々堂々と戦ってきたのだ。
そう、それはあるいは、スポーツのような認識だったのかもしれない。絶対的な能力を持つ自分が優越感を浸れる、対等なる条件でのカードをめぐった戦いという名のスポーツ――
だが、あれはなんだ? 今目の前で、天井を這い、四肢を獣のように四つんばいにさせ、法則なく動き回るアレを……人と、呼んでいいのだろうか?
違う。
これでは違う。
話が違う。
アレとは戦えない。だってアレは、人間なのに、人間の姿をしているのに、アレではまるで……
「……ば、化物……っ!」
競い合うというカテゴリーから逸脱してしまっている。
もはやアレは、対等なる存在なんかじゃない。
……いや、正義の味方とは、化物と戦うことなんじゃないか?
でもあんなの、どう、戦えって!?
人間なら幾らでも対処の仕様がある。憑依獣のような規格外のモンスターなら魔法で戦えばいい。
でもアレは……アレは……「人間」としても、「魔法少女」としても、戦うべき土俵にあがれない。
ルールから、外れてしまっている。
私達の戦ってきたルールに……あんな奴はいなかったのに!
「う、ううう、わああああああああっ!!」
恐怖という膨れ上がった感情が、無差別に魔法を発動させる。いや、恐怖などという認識さえ今の彼女にはなかっただろう。ただ目の前に現れた、「説明のつかないモノ」を処理できず、とにかく意識から消そうと必死だった。
軌道も威力もマチマチな火球を、しかし「それ」は奇妙な……あえて表現するならば、蜘蛛のような動きで天井を移動し、全てを回避していく。
やがてフリージアが息を切らしたのを見計らったかのように、その蜘蛛はあの白い糸を右手から吐き出してきた。咄嗟に避けようとするが、足がもつれる――戦いにおいて、ここまで動揺したことがなかったフリージアにとって、それはあまりに予想外で、未知な出来事だった。
何かできるわけでもなく、まるでか弱い少女のようにぺたんとお尻を地面につけたフリージアの手から、蜘蛛が放った糸が精密な動きでカードに巻きつき、あっさりと奪い取ってしまった。
「あ……」
力なく言葉が漏れるが、もはや、立ち上がれない。
人の形をした蜘蛛は、そのカードを手に取った瞬間、ぶらんと糸を長めに引いて空中に停滞すると、振り子のように自身を揺さぶり、威勢がついたところで、その勢いのまま天井の糸を離した。
ガシャァンという大きな音と共に窓が割れ、黒い肢体が外へと躍り出る。
追わなきゃ、という感情はあった。けれど決して、その気持ちに身体が追いつくことはなかった。
だから、フリージアは。
正義の味方として、はじめて、敵を見逃した。
◆◆◆
ぱちん、という音がして、ベルトのバックルからメダルが外れる。
5分経てば強制的に排出されるように設定されていたのだ。
そのままメダルと共に、黒い鎧姿の人影が地面に崩れ落ちる。
メダルはころころと転がっていき……やがて何かにぶつかり、その回転を止めた。
それは、倒れた人影とまったく同じ姿をした者の、足だった。
ゆっくりと、近くに転がっていたメダルを拾い上げ――倒れ伏せる男に、彼女は優しく微笑みかけた。
「お疲れっす、せんぱい」
――こうして、一つの戦いが終わる。
※次回、総集編。
怪奇、蜘蛛男現るの巻。
ところで8話あたりでホームページがどうのと言っていましたが、今現在トップペーが何かの更新の時に消してしまったみたいで見れない状態です。
しかしあのサイトにここ以外のSSは一切掲載しておりませんでしたので、存在は全然無視していただいて結構です。
短編とかは、書くとしてもこちらに掲載するようにしますので。