ジェロームの命を受け逃げたシドニーではあったが、一体どこへ逃げるべきかと迷っていた。
王宮や付近に潜んでいたローランド軍は壊滅状態。王宮へと向かって来ていたピザン軍は論外だろう。竜の被害により混乱している彼らに話を聞く余裕などない。
かと言ってその背後にいるであろう本隊へ向かおうにも、市街地は崩壊しているし迂回しようにも瓦礫の山で辺りは迷路とかしている。
せめて瓦礫のない場所まで出られればと思い走り回るが、彼女は知るよしもないが瓦礫は王都の周囲の平原にまで及び大地はえぐれ、とてもか弱い女の足で抜け出せる距離ではない。
「ッ……」
それでもシドニーは歯を食いしばり、走るのにはとても適さない踵の高い靴で駆け続けた。
状況はとても理解できたものではない。今胸に抱いている奇妙な短剣も、託されただけでその重要性など知りはしない。
それでもシドニーは弱音を吐かず走り続ける。
あの伯父がやれと言ったのだ。ならばそれが間違いであるはずがない。
何より自ら時間稼ぎをしているジェロームの覚悟を無駄にはできない。
祖国が滅んだのも、伯父が死を選んだことも、とても現実感がなくて夢の中のように地を蹴る足も頼りない。
だけど生き残っているからにはやらなければならないことがある。ここまできて全てが台無しになるなんて嘘だ。
「よう。意外に足が速いなお嬢さん」
だというのに。そいつは待ちくたびれたとばかりにシドニーの行く手の瓦礫にくつろいだ様子で腰かけていた。
「貴方は……」
「アーストだ。まあ覚えなくてもいい。どうせイクサの手駒の一つだ」
「ッ!?」
ニヤリと口を歪めて笑うその姿に、シドニーは本能的な恐怖を感じて踵を返した。
「……え?」
しかしその行く手を、羽の生えた悪魔のような人型が阻んだ。
「おっと動くなよ。妙な動きをすれば食っていいと命令してある」
それだけではない。
黒い体躯の巨人だの、空を飛ぶ悪魔だの、トカゲのような亜人だの。
神話の時代の物語の中でしか見られないような異形たちがシドニーを取り囲んでいた。
「素直にそれを渡すなら見逃してやる。……どうせアンタが生き延びるのは予定調和だしな」
付け加えられた呟きはシドニーには聞こえていないことだろう。
――ローランドは一人の姫を残して滅びる。
それがベルベッドの、彼らの師が残した預言の一つであった。
その預言にどれほどの意味と拘束力があるのかアーストは知らない。
既にキルシュへの預言――王子は戦場にて流れ矢で死に、その後王もまた刃に倒れるというのは外れているのだ。
このままではピザンの王が二度変われば滅ぶという預言も実現するか怪しいだろう。
「伯父様は……陛下はどうしたのですか?」
「ん? 言わなきゃ分からないほど血の巡りが悪いのか? さあ素直に渡せ。あの意外にお優しい王様なら、アンタに命をかけてまでそれを守れとは言わないだろう」
「……ッ」
アーストの言葉にシドニーは唇を引き結び声を押し殺した。
それを見てアーストは「ああこれはダメそうだ」と他人事のように思う。
お偉いさんというのはこと自分が生き延びる術には通じているものだ。そうやって美味しいところだけを食いつくす故に、彼らは偉い人間でいられるのだから。
無論そんな人間ばかりではないと人は言うだろう。
しかしアーストはそんな人間ばかりだから絶望の底へと叩き込まれたのだ。
だと言うのに。
「お断りします。私は伯父上の素直じゃない言葉には従わないと決めたのだから」
何故世界は今頃になって人の上に立つ者の矜持などというものを見せつけるのだろうか。
「……そうか」
ともあれ、ローランドへの預言もこれで外れることになりそうだ。
この絶体絶命の状況の中、一人残された姫は自ら死を選んだのだから。
「いい覚悟だ。そして残念だ。アンタみたいな己を知る真っ当な人間ほど早死にするんだからな」
そう言うとアーストは刑の執行を宣言するように右手を掲げた。あとは一声命じれば、異形たちは目の前の姫を引き裂き、食らい、蹂躙しつくすだろう。
だというのに、シドニーは死を前にしてなお心だけは負けるものかと気丈にアーストを睨み続けていた。
だがそれだけだ。
覚悟だけでは誰も救えないし救われない。故にアーストという青年はここまで堕ちたのだ。
だからもしこの少女が救われるとしたら、それは覚悟のおかげなどではなく、完全にただの偶然だったのだろう。
「なっ!?」
一陣の旋風が、異形たちの間を駆け抜けた。
「相変わらず、貴様の召喚する魔物は美しくないですね」
「……アンタは」
その声に聞き覚えがあった。
あって当然だ。
何せどういうわけか憎き弟に肩入れし、自らの敗北の原因となった人間の一人なのだから。
「……ティア・レスト・ナノク」
サーベルを構えシドニーを守るように立ちはだかったのは、今はジレントに居るはずのカイザーの護衛騎士であるティアであった。
そしてそれは一体どれほどの早業であったのか、彼女とシドニーの周囲に居た異形たちは気付けば八つ裂きにされ、存在を維持できず空気に溶け始めている。
「……何故だ? 何故このタイミングでおまえが出てくる!?」
理不尽だ。あり得ない。
元々得体の知れない女ではあるが、その行動原理は今は亡き主君である王太后とその忘れ形見であるカイザーに依存しているはずだ。
クロエに味方したのとて、カイザーの友人だからというただそれだけのこと。今この場でシドニーに味方する理由などないはず。
「そして何より、相変わらず引き際を心得ていない」
余裕を失い取り乱すアーストを無視して、ティアはサーベルの切っ先を向ける。
「せいぜい逃げ惑いなさい。私は貴方のお姉さんやクロエさんとは違って容赦はしませんよ」
そう言って微笑むティアの顔は、圧倒的な強者のそれであった。
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・
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私に考えがあります。
そう告げたツェツィーリエの出した案を常人が聞いたなら「そんな無茶な」と呆れたことだろう。
「何それ面白そう」
「確かに」
だが生憎と、この場に居るお姫様二人は一般的なそれとはかけ離れた非常識の塊であった。
片方は妙案だと納得し、もう片方は面白そうに目を輝かせている。
元より片方は王女でありながら騎士修行をこなした武闘派であり、片方は魔術師という常識外れの存在だ。
当然と言えば当然の反応とも言える。
「では、準備はいいですか」
「OKよ。やっちゃって!」
「では――土の聖霊よ。古の契約の下我が声に応えよ」
準備万端。そう言いながらも詠唱を始めたのではレインではなくツェツィーリエの方であった。
一体何を始める気なのか。もしこの場を見ている第三者が居たならばそう訝しんだことだろう。
「――其は地の勢威を知るもの。隆々と、盛り立てよ!」
唱えられたのは地の中位魔術。それ自体は地中から石柱を出現させる。せいぜい相手の意表をつくていどの大した威力のない魔術でしかない。
「キャアっ!」
しかしそれもツェツィーリエのような高位の魔術師が用いれば、顕現する石柱の高さは天へと届かんとばかりに遥かなものとなる。
その先端に立たされたレインは、予想してはいてもやはりその勢いに驚かされたらしく、悲鳴をあげながらバランスを取り天高くへと跳ね上げられる。
「――氷の聖霊よ。古の契約に従い我が声に応えよ」
そして瓦礫の山よりも遥かな高みに至ったところで、レインは開けた視界の中に現れた九頭竜へと手を翳し詠唱を始めた。
瓦礫が邪魔ならば瓦礫のない高さまで行けばいい。
何とも単純で、何とも無謀な行いである。
「――其は天を支配する者。我は根源の理を欲する者。汝は無涯の果てに至る者」
幸いというべきか、竜は突如現れたレインには目もくれず、揃ってクロエの障壁を焼き尽くさんとブレスを吐き続けている。
ああよかった。あのブレスと正面から撃ちあって威力を削がれる心配はないわけだ。
そう今まさにそのブレスと正面から対峙している神官のことなど心配もせずに、レインは己が知る中で最上位の魔術を発動させる。
「――嗚呼(ああ)終焉は此処に訪れた。極光よ。皆尽く弥終(いやはて)へと誘(いざな)え!」
詠唱が終わると同時に、レインの前方に展開された巨大な魔法陣から光が放たれた。
いや。それは極限にまで圧縮された冷気の塊であった。
空を走るそれは空気中の塵や僅かな水分すら氷漬けにし、未だブレスを吐き続ける竜へと突き進む。
「いっけー!」
ありったけの魔力を術式に注ぎ込みながらレインは叫ぶ。
そして極光は空を穿ち、九頭竜の命を刈り取らんと襲いかかった。