エミリオ・デ・ヴィータ。
ローランド王国に占領されたキルシュ王国の第一王子であり、二年前の壊滅戦では指揮官として前線部隊を率いていた青年である。
年齢的にはゾフィーと同年代であり、十七年前のキルシュ防衛戦には当然参加していない。故に二年前の戦いこそが初陣だったのだが、その評価はあまり高いものではない。
しかしリカム帝国を相手にそこそこの戦いをして見せた彼だ。圧倒的に兵の質で劣る黒龍騎士団相手にそこそこの戦いができるだけで彼の有能さが分かるというものだろう。
しかしその有能さとは裏腹に、彼はあまりにも運が悪かった。
ローランド王国の裏切り。
かつての同盟国の軍を、当然こちらの援軍に違いないと国境を素通りさせてしまったのがそもそもの間違いだった。
エミリオがその到来を知りもしやと思った時には手遅れであり、彼はリーメス二十七将の一人ジャンルイージ将軍や多くの兵の犠牲と引き換えに生き延びた。
「その時は僕よりジャンルイージが生き残るべきだと思ったんだけれどね。父上はもちろん叔父上や従弟まで殺されて、今やヴィータ王家の人間は僕だけだ。まったく荷が重い。僕はどう考えても戦に向いた人間ではないというのに」
そう言いながら自嘲するエミリオだったが、その顔に絶望の色はなく、むしろ現状を楽しんでいるような余裕が見えた。
その顔をコンラートは知っている。追い詰められて一皮むけ開き直った、非常に面倒くさい男の顔だ。
なるほど。リカムとローランドはリーメス二十七将の一人を討ち取るという制勝と引き換えに、厄介な人間を生き残らせてしまったらしい。
エミリオに案内されて連れてこられたのは、谷間にぽつりと開いた洞窟の中だった。
開けた場所には机や椅子にベッドといった生活用品まで置かれており、仮の拠点ではなく本当にここを本拠としているらしい。
「そう言う割には先ほども自ら弓をひいていたが?」
「それくらいしかできなくてね。まったく。隻眼のコンラッドはどうして遠近感の掴めない片目で前線で戦えていたのやら」
そう言いながらエミリオが覆った左目には、遠目では分からなかったが黒い眼帯が巻かれていた。
「それは二年前に?」
「ああ。他にも腕やら足やら色々やられてね。目が覚めたのは一年ほど前なんだ。おかげで動けるようになるのにさらに時間がかかったよ」
「よく隠れ通せたものだな」
「ああ。森の魔女殿に助けられてね」
「……魔女?」
エミリオから放たれた言葉に首を傾げるゾフィー。そんなゾフィーを見やると、エミリオは楽し気に語り始める。
「森で一人暮らしをしているというご婦人に助けられたんだ。しかしこちらの事情は根掘り葉掘りと聞く癖に、自分の素性は一切教えてくれないときてる。怪しげな薬も飲まされたから勝手に魔女と呼んでるんだ」
「調べなかったのか?」
「ああ。何せ僕が動けるようになったらジレントから次々と使者がやってきたんだ。深入りしたらまずい、もしかしたら本当に魔女かもしれないじゃないだろう」
「……」
「……私も知りませんよ」
わけがわからないと、首を回して胡乱な瞳をそのまま向けてくるゾフィーに、クロエが無表情に返す。
「そうなのかい? 君の友人であるレインは知っていたようだけれど」
「彼女と私では立場が違います。分かっていて言っていますよね?」
「はは。もちろん。君だってさっき彼女のフルネームを言っちゃってたじゃないか」
そう言われて疲れたように息をつくクロエ。そしてコンラートもまたやはりかと内心で納得する。
レイン・フィール・サンドライト。先ほどクロエはレインの名をそう表した。
その家名を名乗る人物に、コンラートはジレントでの滞在中に会っている。
「彼女は今?」
「先ほど人をやった。そろそろ来る頃だと……」
エミリオの言葉に呼ばれたように、洞窟の奥から慌ただしい、しかし軽やかな足音が響いてくる。
「エミリオ様! クロエが来たって……」
駆け込んできた少女はエミリオの名を呼ぶと周囲を見渡し、そして目的の人物の顔を見つけると大きく目を見開いた。
「ああ。友人が訪ねてきているよ。君に神官の知り合いがいるとは思わなか……」
「……クロエ!」
エミリオの言葉も聞かず、少女は歩みを進める。
そして夢遊病者のようなおぼつかない足取りでクロエの前まで来ると、そのまま倒れ込むように彼の胸元に飛び込んだ。
「……」
予想外の光景に、誰も言葉を発することができなかった。
縋りつかれたクロエも、ただ困った様子で少女の肩を抱いている。
「申し訳ありません。話は後程」
しかしこの状況はまずいと判断したのか、一言謝ると少女を抱き上げ洞窟から出て行った。
誰一人止めることもできない見事な逃亡であった。
「……はて。一体彼らはどういう関係かな?」
「クライン司教は二年前から行方不明になっていたので、そのせいだろう。まあ確かにそれだけではなさそうだが」
そう言って王子と王女は人の悪そうな笑みを浮かべる。
二人が結婚を約束しているというのは、言わない方がいいだろう。そうコンラートは判断し友人の未来に幸があることを祈った。
「まあしばらくはそっとしておこう。最近はレインも休みなしだったからね」
「やはりこき使っていたのか。魔法ギルドの姫君を」
「……えぇ?」
魔法ギルドの姫君。
それを聞いたカールが小さく驚きの声を漏らし、慌てて口をつぐんだ。
サンドライト家。
リーメス二十七将の一人埋葬フローラの生家であり、魔法ギルドの党首を代々務めている一族の名だ。
ジレントに身分制度はないとはいえ、その血筋と国内での立場は他国での王族に等しい。
「人聞きが悪いな。彼女が望んだことだよ。魔法ギルドの党首であるミリア様からの願いでもある」
「まあ姉のフローラがキルシュ防衛戦に供もつけずに参加していたのだから今更か。そしてジレントはキルシュへの援助にかなり積極的だと」
「ああ。物資に人員、情報なんかも融通してくれてね。正直なところ、僕だけでは散り散りになった兵たちを探し出して、こうして軍を組織するなんて不可能だったよ。いやはや、これはもうジレントには足を向けて寝られないね」
「なるほど。ここぞとばかりに恩を売られまくったと」
「仕方ないだろう。意地を張っても人も物も生えてこない」
言外に情けなくはないかと言うゾフィーに、エミリオは素直に認めつつも拗ねたように視線をそらした。
「大体ピザンがさっさと援軍を寄越してくれればまだやりようがあったんだ。あんなタイミングでお家騒動を起こすとか何を考えてるんだ君は」
「仕方あるまい。イクサに嵌められたのだから」
しかし今度はこちらの痛いところを突かれ、今度はゾフィーが視線をそらす。
その二人を見てコンラートが一つため息をつくと、それまでエミリオの後ろに控えていた兵士も合わせたように息を吐いた。
なるほど。あちらの王子様も中々曲者らしい。
「……やめだやめ。過去の失敗を嘆いても始まらん」
「……確かに。今は未来のことを話すべきだね」
そしてしばらくすると、合わせたように意見を合わせる二人。
面識はあれど付き合いは浅いはずだが、息は中々あっているらしい。
「そもそもピザンの援軍をあてにしていたのなら、何故素直に表に出てこなかった? おかげで私が兄上の名代として直接確認と交渉に来る羽目になったのだが」
「率直に言うと信用ができなかった。もしピザンがキルシュをローランドに代わり支配するつもりなら、僕は居ない方が都合がいいはずだ」
「ああ、それはない。まったくない。少なくとも今のピザンの中枢にいる人間はキルシュを占領するつもりはない」
「へえ。表向き正当な支配者を失った土地をわざわざ解放してむざむざ手放すと?」
「ああ。何せ今のピザンに領土を広げる体力はない。適当な者を領主にしたところで、今はよくとも数年も経てば独立されかねん」
「臣下を信用していないのかい?」
「信用できるのならば、我が国はイクサなどに好き勝手はされなかった」
そう忌々し気に言い放ったゾフィーに、それまで穏やかな対応をしていたエミリオも笑みを消した。
「クラウディオ陛下では国は治まらないか」
「それは兄上を見損ないすぎだ。むしろ父上が偉大過ぎた。何せ一度は割れかけた国を繋ぎとめた王だ。だが個人によって繋ぎ止められた国の末路など知れているだろう」
「むしろ英雄であるクラウディオ陛下でなければ割れていたか。いやはや。そこにいる白騎士殿のように忠義に生きる臣下ばかりなら楽だろうにね」
「楽なわけがないだろう。繋ぎ止めるべき臣下がこちらを繋ぎ止める鎖に変わるだけだ」
「……」
ゾフィーの言い様に、コンラートは何も言えず苦笑した。
あんまりな言い様だが、要は臣下を律する必要がなくとも自身を律することができなければ結果は同じということだろう。
統治者としては色々と自由すぎるピザン王家の人間には、コンラートのような糞がつくほど真面目な人間が側に控えている方がいいのかもしれない。
「では、こちらに占領の意思がないならば、今後は同盟を結ぶということで構わないか」
「もちろん。実を言うと君が来なければ、そちらの王都への進行に合わせて勝手に参戦させてもらうつもりだったしね」
「漁夫の利狙いか」
「当然だろう。王都の奪還を人任せにしておきながら、後からのこのこ出て行ったところで誰が付いてくる? 大体文句ばかり言われる筋合いはないよ。ピザン王国がローランドとの戦いに専念できたのは、僕たちがリカムからの援軍の相手をしていたからと言っても過言ではないのだから」
「なるほど。そうやって恩を売っておいて黙らせるつもりだったと」
「もちろん。まあヴィルヘルム閣下が本気でキルシュを潰すつもりだったら、こんな小賢しい駆け引きなんて無意味だろうけれどね」
そう言って肩をすくめて見せるエミリオだが、さすがのヴィルヘルムもそこまで極悪ではないと踏んでいるのだろう。
だが同時に彼を警戒しているのは間違いない。クラウディオという新王が混迷の中で国をまとめられているのは、間違いなく弟であり宰相であるヴィルヘルムの力があってこそのことなのだから。
「しかしそんな心配は杞憂だったわけだ。細かいところは後でつめるとして、同盟については了解したよ。もっとも、こちらが壊滅なんてしていなければ確認するまでもない関係だったわけだけれどね」
「確かに。だが僥倖だ。ピザン一国で戦い続けれなければならないと思っていたのだから、キルシュ王国の旗が未だ折れていないというのは大きい」
「油断すればすぐさま折られそうな旗だけれどね」
そんな卑屈な物言いとは裏腹に、エミリオは少しも悲観している様子などない、むしろ戦を前にして気を高ぶらせる武人のように笑った。
・
・
・
「……」
声も漏らさず泣くレインを、クロエは手ごろな岩に腰掛けてずっと抱き続けていた。
洞窟を出て、谷間をその異様な脚力で飛び越えてまで人気のないところまで来たのは、誰にも邪魔されたくなかったというのもあるが、周囲の視線が痛かったからだ。
レインはこのキルシュ王国軍の兵士たちと余程良好な関係を築いていたらしい。何せレインを抱き上げて移動するクロエを、まるで親の仇ですらまだマシだという勢いで睨めつけてくるのだから。
ある程度の事情は伝わっていたのだろうが、そうでなければその場で袋叩きにでもされていたかもしれない。
「……」
しかし予想外だったのはレインの態度だ。
今までどこで何をしていたと、怒鳴り散らされ殴られるくらいは覚悟していたというのに、まさか泣き縋られるとは思わなかった。
いや、本当はクロエにも分かっている。この少女の強気な態度はコンプレックスの裏返しだ。その内ではいつも孤独に怯えて震えている。
誰かに必要とされたい。そんな一念で努力を続け、こんな誰もが無謀と呼ぶ戦いに身を投じてしまった。
そしてその孤独をより強くしてしまったのはきっとクロエだ。
もしクロエが行方不明などになっておらず、変わらずレインのそばにあったならば、ここまで無茶な真似はしなかっただろう。
「……クロエ」
「うん?」
「ごめん。もう少しこのままでいさせて」
「いいよ。私もごめん。ずっと連絡もできなくて」
ある程度落ち着いたが、恥ずかしくて顔を上げられないらしい。
そう察してクロエはレインの頭を気にしなくていいと撫でる。
同時に自分にこんな優しい声を出せたのかと内心驚いた。二年前のように憎まれ口が出ると思ったのだが、少しは大人になれたということだろうか。
「……怒らないの?」
「何を? むしろ私が怒られると思ってたんだけど」
「だって……いつも先生と一緒になって言ってたじゃない。レインは戦いには向いてないんだから無理するなって」
「ああ。でも最終的に決めるのはレイン本人だしなあ」
むしろ師であるミーメはまだしも、昔の自分はよくもまあ仮にも年上の少女相手にそんな生意気な口をきいていたものだと苦笑する。
それに理解もできるのだ。戦う力を持っていながら、いや例え戦う力がなかったとしても、ただ待つだけなのは辛いに違いないと。
「それにこうしてキルシュ王国軍が健在で、ピザン王国と同盟を組めるところまでこれたのなら、レインはやり遂げたということだろう。私の心配なんて余計なお世話だったってことだ」
「でも……姉さんならもっとうまくやれたもの」
「だから何だ? 実際に体を張って成し遂げたのは、フローラさんでも姉さんでも俺でもないおまえだ。やればできるに意味なんてない。そんな戯言のたまうやつらなぞ、私がやってやったんだと笑顔で見下ろしてやればいい」
そう慰めながらクロエはレインを優しく抱擁する。
レインは非凡な才を持った魔術師だ。しかしそれを誇るには、姉であるフローラの影があまりにも大きすぎた。
加えて親子ほども離れた年齢差は、姉妹に競い合う舞台すら用意させなかった。
才能の差はそれほどでもなかったのだろうが、経験の差は埋めがたいほどに大きい。いっそ本当に親ならば素直に誇れたのだろうが、レインにとってフローラはあくまでも姉であり、周囲も姉に劣る妹としてレインを見ていた。
自分より劣る者たちに、姉の劣化品であるとレッテルを貼られる。それはどれほどの屈辱だっただろうか。
だからレインには心許せる友などいなかった。
己を見下す人間に笑顔で対応できるほど器用な人間ではなかったのだ。
「レイン・フィール・サンドライトはキルシュ王国を救った偉大な魔術師だ。これからおまえはそうやって称えられる。いやそんなことはどうだっていい。例え誰かがおまえを貶めたとしても、私はおまえを誇りに思う。私はレインが大好きだからな」
「……ッ」
クロエの言葉に、レインは言葉に詰まったように息を漏らし、そして軽く彼の胸板を叩いた。
「ようやく泣き止んだのに……また泣かせるようなこと言うんじゃないわよ」
「それは光栄だ。いつも意地っ張りだったレインが素直になってくれるなんて」
「もう!」
顔を伏せたまま、拗ねてポカポカと殴ってくるレインをクロエは苦笑しながら包み込む。
ああ、ようやく本当に意味で帰って来られたのだと。