ピザン王国がキルシュ残党軍と呼ぶ集団を、クロエはキルシュ王国軍と称した。
その呼び名は彼らの自称などではなく、その内情を把握しているジレント共和国が彼らをキルシュ王国の正規軍だと認めており、そしてそれを率いる者がそれを認めさせるほどの正統性を有しているということらしい。
「ジレント共和国はキルシュが敗北したその日の内に、人を送り込んでキルシュの生き残りと接触していたそうです」
キルシュ王国軍の本拠地への案内役を買って出たクロエは、ロードヴァント山へと向かう道すがらそう話した。
クロエという案内人が居るとはいえ、今から向かうのはリカムの大軍へ少数でゲリラ戦を仕掛けるような集団の本拠地である。
あまり大勢で動いて敵に位置を悟られてはまずいし、何よりキルシュ王国軍がこちらに気付いて逃げ出してしまったら意味がない。
故に同行するのはコンラートとゾフィー、そしてカールにトーマスの四人だけであった。
当初騎士団の馬を借りることに難色を示したクロエに、もしかして乗れないのかと同乗も考えたコンラートだったが、そんな心配もよそに今は巧みに馬の手綱を操っている。
では何故あれほど渋っていたのかと不思議に思ったコンラートに、クロエは困ったように言った。
「別に馬に乗らなくても同じ速度で幾らでも走れるんですが、実際にやったら変な目で見られるなあと思って」
それをコンラートにしか聞こえないように言ったクロエの判断は正解だろう。
もしゾフィーに聞かれていたら「是非ともやって見せてくれ」と子供のような笑顔で言われたに違いない。
「表向きはピザンと距離を取っているジレントですが、水面下では議員や役人、軍人たちが日々動き回っています。キルシュが落ちれば次はピザン。ピザンが落ちれば次にジレントと、他人事を気取っていられる時間は短いですからね。ですからキルシュ国内にも、非公式に外交部の人間が何人も出入りしているようです」
外交部とクロエは言ったが、実際に動いているのは以前自分は隠密だと言っていたロッドのような人間だろう。
酒場でそんな情報をポロリと漏らす彼が隠密に向いているかには疑問が残るが、危険地帯に単独で派遣する戦力としてはこれ以上ない逸材であるのは間違いない。
何せ彼は武器を選ばない。時には素手で全身甲冑を纏った兵士を叩き潰したと言われる人間だ。例え風呂や排便の最中でもその身は武装されていると言っても過言ではない。
「なるほど。しかしクロエ。君は魔法ギルドと女神教会、どちらの意向で動いているのだ?」
相変わらず妙に物知りなクロエの話を聞いて、そういえばとコンラートは彼の立場を思い出す。
彼は魔法ギルドの支配するジレント共和国の人間だが、その身は女神に仕える神官だ。
二年前にコンラートを保護した際にも、その両陣営のパワーゲームに巻き込まれて身動きを取れない節があった。
故に今の彼はどういった立場にあるのか気になったわけだが。
「お答えしかねます。ただ近々女神教会で大きな変革が起きるとだけ」
「それは君が関わっているのか?」
「いえ。ですが私個人としては面倒な事態だとだけ言っておきます。どうせいざとなれば教会なんて都合のいい入れ物からは逃げるつもりですが」
「……そうか」
神官らしからぬ言葉を口にするクロエの表情は、今まで見たことのない暗いものだった。
神聖魔術の強力さを見るに彼の信仰は本物だろう。だが彼はその信仰とは別の所に己という人間の根をはり、女神教会という権威に縋る弱さを持っていない。
元々旅暮らしの根無し草だ。いざとなれば何処へでも行ける自由が彼にはある。
それは祖国に忠誠を根付かせたコンラートとは真逆の生き方ではあるが、それを不義と罵る気にはならなかった。
コンラートが騎士として己を立脚したように、クロエにはクロエの生きる理由が既にその身と心を律しているのだろう。
その若さで人としての尊厳を知り貫く彼を、敬いはしても卑下する理由などありはしない。
「ふむ。なら教会に居づらくなったら私の下へ来るか?」
二人の話に割り入るように言葉を挟んだのは、相変わらずコンラートに抱えられるように同乗していたゾフィーだった。
その目は爛々と、面白いものを見つけたとばかりに輝いている。
ああ、確かに。
かつて流浪の魔術師に師事したというこの博識な青年神官は、好奇心旺盛な姫君にとっては未知という未知を詰め込んだ宝箱のようなものに違いない。
ピザン王国では事例が少ないが、キルシュ王国で大臣職を務めていたロドリーゴ枢機卿のように、他国では神官や魔術師と言った学問を治めた人間に政務を任せることも多い。
故にその提案自体は私情が多大に含まれてはいても、それほど奇異なものではないのだが。
「謹んでお断り申し上げます」
クロエはにっこりと、その中世的な顔に笑みを浮かべて拒絶した。
「……何故だ!? というか今そなた笑顔の下で『馬鹿言うなまっぴらごめんだ』と思ったな!?」
「カイザー殿下に友人と認定されただけでも厄介なのに、これ以上頭痛の種を増やしたくないので」
身を乗り出して文句を言うゾフィーに、クロエは先ほどの笑顔を引っ込めてつっけんどんな態度で言った。
カイザーの友人というだけはあり、ピザン王家の人間への対処は嫌という程理解しているらしい。
引けばさらに押される。故に多少の無礼は承知の上で反逆せねばいいように押し切られてしまうのだ。しかしそこでクロエのような反応をしても「おお、正直なやつだな!」と気に入られてしまうので質が悪い。
本当に、普通の王家や貴族の人間ならば考えられないような方々である。
「おのれカイザー。戻ってきたら覚悟しておけ」
そして折角の好意を袖にされたゾフィーは、その悔しみを年下の叔父に向けることにしたらしい。
カイザーもピザン王家の人間なのだから、その未来を予知してさらに帰還が遅れるのだろうなと、コンラートは他人事のように思った。
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キルシュ王国軍が本拠地を置くのは、木々に覆われたロードヴァント山の麓近い谷間の中であった。
その谷間の入口は折れてしなり垂れ下がった木々と枝葉に遮られており、クロエの案内がなければ到底見つけ出すことなどできなかっただろう。
もっとも、クロエ自身も初めて訪れるその場所を見つけ出すのに少々手間取ってしまったと恐縮していたが。
「いや、むしろ始めてきたのによく分かったね。僕にはさっぱりだったよ」
「周囲を注意深く見ればヒントはありますよ。今回の場合は、周囲の枝の折れ具合と風の臭いを見て、何人もこちらの方向に歩いていった形跡を辿ったんです」
「……君本当に神官?」
「さて。旅暮らしが長いと多芸になるものですよ」
いつの間に仲良くなったのか、先頭を歩くクロエの隣をカールが話しかけながら歩いていた。
負けん気の強いカールがクロエに突っかかるのではないかと心配していたのだが、意外にうまくいっているらしい。
もっとも仮にカールが突っかかったとしても、クロエの方が何枚も上手なので相手にされなかっただろうが。
「……殿下。団長」
「む? どうした?」
不意に一番後ろを歩いていたトーマスに声をかけられ、コンラートとゾフィーは足を緩めた。
「あの神官は本当に信用できるんですか? こんな場所、確かに隠れるにはうってつけかもしれませんが、いざ襲われたら逃げ場が限られます」
「……確かに」
トーマスの言う通り、狭い谷間の底は足場が悪く、立地もとても守りに適した場所ではない。
もし谷の上から矢でも射かけられたならば、隠れることもできずにハリネズミにされるだろう。
だがしかしだ。クロエがわざわざ罠にはめるような真似をするとも思えない。
「申し訳ありません。しかし私はあの神官のことをよく知りませんから」
「いや。むしろよく進言してくれた」
確かにコンラートはクロエに近しすぎる。彼が何かを企んでいても、疑いたくないという気持ちがあれば見逃してしまうかもしれない。
「いや。大丈夫だろう」
そう思いトーマスに礼を言ったコンラートだったが、一方のゾフィーは楽観的とすら言える軽さでそう言ってのけた。
「また勘ですか?」
「違う。そなた私が全部勘で決めていると思っていないか?」
呆れたように言うトーマスに、ゾフィーは心外だとばかりに憮然としながら返す。
「……レインの友人だからな」
「はい?」
「……」
呟かれた言葉に、トーマスは呆気にとられたような声をだし、コンラートはやはりかと納得した。
ゾフィーはレインと面識がある。そしてレインはジレントの中でも特別な立場にある少女なのだろう。
思えばジレントの人間の多くは、彼女を「レイン様」と貴人のように扱っていた。ジレントの中でも有力な魔術師や議員の家系の出である可能性は高い。
そう思いコンラートは納得したのだが。
「動くな!」
「やっぱり!」
突然放たれた警告に、トーマスがほら見たことかとばかりに声をあげた。
「落ち着けトーマス。あちらとしても予想外の事態のようだ。あまり刺激はするな」
そうトーマスに言いながら、コンラートは周囲を警戒しゾフィーを庇うように前に出た。
前を歩いていたクロエたちのさらに前方。二十人ほどの武装した男たちが弓に矢をつがえてこちらに狙いを定めていた。
もし罠に嵌められたのだとしたら、四方を囲まれていなくては片手落ちだ。立ち位置からして、こちらの接近に気付いて慌てて防備に出たといった所だろう。
「私はクロエ・クライン。そちらでお世話になっているレイン・フィール・サンドライトの友人です」
「友人? 神官の君がか?」
クロエの言葉に、どうやら指揮官らしい青年が訝しむように聞き返した。
それも当然だろう。魔術師と神官が不仲であるのは神官と縁が浅いピザン王国ですら常識だ。ロドリーゴ枢機卿のような神官を国の中枢に迎え入れていたキルシュの人間ならば、とても信じられるものではないに違いない。
「信じられないとおっしゃるならば、私を拘束していただいても構いません。どうかレインに言伝を……」
「いや。その必要はない」
「? ……ゾフィー殿下?」
自らの身をもって潔白を訴えるクロエ。しかしそんな彼を制するように、それまで沈黙を守っていたゾフィーがコンラートの影から前へと進み出る。
「何とも私は運がいい。貴方が居て私が居る。これほど話が早いことはない」
「……なるほど。話を聞いてまさかと思っていたが、本当に君がここに来るとは」
意味深に笑うゾフィーに、指揮官らしき若草色の髪の青年が弓を下しながら言う。
「お久しぶりですエミリオ殿下。ご健勝のようで何よりです」
「そういう君は相変わらず元気すぎるようだね。ゾフィー王女」
そう言うと青年――キルシュ王国第一王子エミリオ・デ・ヴィータは楽しげに、不敵な笑みを返した。