ベルベッドと呼ばれる魔術師には謎が多い。
彼の名が最初に歴史の表舞台に現れたのは、ピザンのプルート王が存命の時代に起こった継承戦争の前夜。
兄王子と共に狩りに出かけたドルクフォードであったが、そこで彼は不意に命を狙われる。民衆から人気の高い彼を恐れた兄王子による暗殺であった。
背後から毒矢を射かけられ命からがら逃げだすも、矢は肌をかすめてしまう。
解毒しようにも周りには兄王子の手の者ばかり。当時旅暮らしから戻ったばかりのドルクフォードには信用できる臣下も居ない。
そんな絶体絶命の状況の中。ふらりと現れてドルクフォードを救ったのが、魔術師ベルベッドであったとされる。
その後もベルベッドは大陸の各地に現れては、時に要人の命を救い、時に預言めいた言葉を残したりと不可解な行動を続け、一種の怪人のように扱われた。
そんな彼の名が一躍有名になったのは、第二次キルシュ防衛戦。きっかけは第一次キルシュ防衛戦で義勇兵としてキルシュに与しながら、第二次防衛戦ではリカムへと寝返った魔術師イクサであった。
ベルベッドは彼に対抗するように戦場に現れてはアンデッドたちを殲滅していったのだ。
単独で戦い、他の者との接触を徹底的に回避するベルベッドの正体は謎のままだったが、偶然その姿を捉えたジレントの魔術師フローラによってベルベッドという名だけが判明する。
フローラが何故ベルベッドの名を知っていたかについては、本人が頑なに口を閉ざし語られることはなかったという。
ただ魔法ギルドに所属する魔術師ではないらしい。そんなことだけが分かった。
そしてキルシュ王都の決戦では、ロドリーゴ枢機卿を暗殺するために姿を現したイクサと一騎打ちを繰り広げたが、ついに決着がつくことなく終戦を迎えたという。
アンデッドに対抗したロドリーゴ枢機卿と並び戦局に多大な影響を与えた魔術師。故に彼は正体不明ながらもリーメス二十七将の一人に数えられた。
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ゾフィーの体は未だ治癒していない。そう聞かされたクロエはまるで予想だにしなかったとばかりに目を見開いた。
確かにあれから二年経つのだ。枢機卿クラスの神官を探し出すのは難しいことではあるが、仮にも王族であるゾフィーであれば不可能ではない。
しかしクロエにとって予想外だったのは、女神教会のピザン王国への嫌悪の強さだった。
元々彼は魔術師たちの国であるジレントの人間だ。幼少の頃より世界中を旅した経験もあり、その価値観は一般的な神官からはかなりズレている。
信仰と戒律を重んじる神官たちの頭がそれほど固いとは思ってもみなかったのだろう。
「……これは。何で普通に生活できてるんですか」
「普通ではないぞ。周りに無理をするなと叱られてばかりで、最近は車椅子に座っていることの方が多い」
「女性ならピザン王家の方でも大人しいだろうと思ったのが間違いでした」
「何だその騙されたと言わんばかりの顔は」
そう文句を言うゾフィーだが、クロエは先ほどから彼女の腹部に右手を当てたまま目を閉じている。
それでも内心でそう思っているのは間違いないだろう。何せコンラートもかつて同じことを思ったのだから。
「そのまま動かないでください。――女神よ。憐れんでください。私たちの嘆きと悲しみを聞いてください」
ゾフィーの文句は聞こえなかったかのように、クロエはそのまま祈りの言葉を紡ぎ始めた。
魔術師の使う精霊魔術の詠唱とは違い、神官の使う神聖魔術の詠唱は神への祈りの言葉である。
神へと訴える祈りだからこそ、その言霊には信仰を乗せなければならない。
ただ向いているというだけでなく、混じり気のない信仰を必要とする。故に神聖魔術の使い手は、信仰を体現するものとして他の神官からも敬仰されるのだ。
「――その御手で傷を包んで下さい。打ちのめされた彼らを癒して下さい」
そう言葉を終えると同時に、クロエの手から淡い光が漏れだしゾフィーを包み込んでいく。
「しばらくこのまま我慢してください。私の治癒魔術では完治には至りませんが、体は楽になるはずです」
「む。何だかこそばゆいな。しかしそなたでもこれはどうにもならないのか」
治癒の光が体へと染み渡る感覚に慣れないのだろう。何やらもぞもぞと身じろぎをしながらゾフィーがそう漏らす。
「恥ずかしながら私は治癒魔術は苦手なので。解呪自体はそう難しいものではありませんから、あとは治癒魔術の得意な人間が居れば完治も可能です」
「……なんともアンバランスだな」
かのネクロマンサーの呪いの解呪をそう難しいものではないと言ってのける人間など、目の前の青年を含めて大陸に数人しか居ないだろう。
同時にその力を頼もしくも思う。
彼にとってイクサの力は対抗できるレベルのものだということに他ならないのだから。
「どうせ動けないのならば先ほどの続きといくか。そなたの師がベルベッドだという話だが」
「はい。しかし私も師が何者かと聞かれると答えに困ります。どこの国の出で、どのように生きてきたのか、師から聞いたことはありませんから」
表情を変えずに告げられた言葉が事実か否か知る由もないが、本当ならば弟子にとってもベルベッドという人間は謎の存在だったということだろうか。
兄弟子であるというロッドも、半年ほど鍛えられたということ以外は口にしなかった。
もしかすれば師弟関係以上の、人間としての繋がりはなかったのかもしれない。
「ただドルクフォード王のアシカ船団に参加していたという話は聞いたことがあります」
「アシカ船団?」
「ドルクフォード陛下が若い時分に他大陸を巡ったという船団ですな。船団長を務めた陛下自ら命名したという話です」
「よく知っているなコンラート。娘の私も船団の名は初耳だぞ」
「私が王都に来たばかりの頃は、吟遊詩人がよく酒場で詠っていましたので。そういえばキルシュ防衛戦が終わってからは流行が移ったらしく、とんと聞かなくなりましたな」
「なるほど。それでは私が聞いた事がないのも道理か」
当時のゾフィーはまだ二つ三つという年頃だろう。いくらお転婆なお姫様でも、さすがに酒場まで遊びに行ったことはないに違いない。
「師によると、そのアシカ船団には後に英雄と呼ばれる人間が何人も参加していたそうです。キルシュのロドリーゴ枢機卿も参加していたとか」
「なるほど。父上とロドリーゴ枢機卿が友人だと言っていたのはその繋がりか」
生前の父からはまったく聞いたことのなかった交友関係の謎が解け、ゾフィーは納得いったとばかりに頷いた。
「ロドリーゴ枢機卿と言えば……これをお返ししなければなりませんね」
思い出したようにそう言うと、クロエは治療の手を止め腰の帯に下げていた聖剣の片割れを鞘ごと引き抜く。
そしてゾフィーの前に騎士のように跪くと、両の手で恭しくそれを掲げた。
「この聖剣があったからこそ、私は神の威光すら届かない闇の中でも光を見失わず、混迷の西大陸でも生き残ることができました。言葉では言い尽くせぬ感謝と共に、父君の形見をお返しします」
「……うむ。そなたの勇名は公に知られることはないであろうが、私の胸に深く刻もう。大儀であった」
そう言ってゾフィーは掲げられた聖剣に手を伸ばすと――。
「……殿下?」
――すぐにその手を引き戻しクスリと笑った。
「しかし私はこの通りの体だし、そもそも二刀を使う術など心得ていない。その聖剣は引き続きそなたに預けておこう」
「何故私などに? 配下の騎士に下賜された方が余程使い物になるでしょう」
「そうは言っても、それをくれてやりたい騎士は既にもっと上等な聖剣を持っている」
そう言いながら胡乱な目を向けてくるゾフィーに、コンラートは肩をすくめて苦笑する。
この聖剣とて一度ゾフィーの手に渡ってからコンラートに託されたものなのだが、元々見つけてきたのがカイザーなのでどうにも納得がいかないのだろう。
「それに昨夜そなたが浄化魔術を使った時、聖剣を触媒にして効果を高めていただろう。それこそただの剣士が持つよりも、そなたの方が余程うまく使い物にしてくれるに違いない」
「……そういえばゾフィー殿下は魔術の心得がおありでしたね」
そういった方面から言いくるめられるとは思っていなかったのだろう。クロエは妙に納得したように頷くと、もう一度瞑目し頭を下げて聖剣を腰へと戻した。
「では、その信頼にお応えするため、今殿下が一番必要としているであろう情報をお伝えします」
「む? 何だ?」
「キルシュ王国軍……皆さんが残党軍と呼んでいる方々の本拠地です」
「……何?」
予想外の言葉に呆気にとられるゾフィー主従に対し、クロエは悪戯が上手くいった子供のようににこりと笑って見せた。
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「何ともビックリ箱のような神官だな。まさかキルシュの残党と接触予定だったとは」
「確かに。彼自身が有能なのもあるのでしょうが、周りの人間が放っておかないのでしょう」
クロエが去った室内で、驚きを通り越し呆れた様子で話すゾフィーを見て、コンラートは苦笑しながら相槌を打った。
その境遇も生まれも、知られれば利用しようとする者が甘汁に群がる蟻のように集まるに違いない。
それでいて最強の庇護者とも言える姉の下を離れて行動しているのだから、ただ利用されるような甘い人間ではないのだろう。
二年前もその片鱗はあったが、さらに単身西大陸に飛ばされて生き延びたのだ。さぞ強かに成長したに違いない。
「確かに最初に見たときは別人なのかと思った。男子三日会わざればとは言うが、年頃の男子というのはあれほど背が伸びるものなのか?」
「彼は元々小柄でしたので、余計にそう見えたのでしょう。案外カイザー殿下もゾフィー殿下より高くなっているかもしれませんぞ」
「それはいかん。相手を見上げて叱るなど格好がつかない」
年下の叔父を見上げている自分を想像したのだろう。ゾフィーは何やら苦い顔をする。
しかしすぐにその興味は別の者に移ったのか、傍に控えていたコンラートを見上げると「そういえば」と語りかけてくる。
「父上の船団のことといい、そなた希にぽろりと聞いたこともないような情報を漏らすが、まだまだ私をわくわくさせるようなネタを隠していないだろうな?」
「さて、どうでしょうか」
耳年増というわけでもないコンラートでも、様々なことを調べているうちに自然と小耳に挟んだ噂話のようなものは多い。
しかしだからと言って、言えと言われてぽんと浮かんでくるものでもない。
「そうだ。そもそもそなたから他の二十七将の話を聞いたことすらなかった。これはうっかりしていたな」
「そう言われましても。私はずっとピザン王国軍に居たわけですから、他の陣営の二十七将のことなど知りませんが」
「ではあれだ。不動のクラウス。彼のことなら知っているだろう。ある意味そなたと同じ白騎士だ」
「本当にある意味ですな」
クラウス・ヴァレンシュタイン。
キルシュ防衛戦で活躍し二十七将の一人に数えられた彼は、戦時徴用で騎士に任じられた一人であり、確かにある意味コンラートの同類である。
しかし彼は元々祖父の代に爵位を剥奪された没落貴族の家系であり、平民騎士とは言い難い。白騎士の由来である空白の紋章を使うまでもなく、ヴァレンシュタイン家の紋章は存在するのだから。
「彼の方が幾分か歳は上でしたが、私のようなものにまで礼を尽くす律儀な男でした。ただ家の再興のためと気張りすぎるきらいがあり、故の不動の渾名です。退くということを知らぬかのような戦いぶりでした」
「それは何とも扱いづらそうな男だな。それでも生き延びるあたりは流石というべきだが」
「はい。ですがかの鬼将イヴァン・ウォルコフが相手では分が悪かった。私は息子のユーリー・ウォルコフの相手をしていたので直接見たわけではありませぬが、片手片足を失っても槍を手に立ちはだかる姿は壮絶なものだったそうです」
「ロードヴァント逃亡戦か。だが結果的にその奮闘によってウォルコフに手傷を負わせ勝利へと繋げたのだから、見事な執念だ」
「ええ。しかしクラウディオ陛下はたいそうお怒りで後が大変でした」
誰がそこまでしろと言ったと、クラウディオはクラウスの遺体の前で地面を殴りながら嘆き叫んでいた。
元々身分の差というものを考えない王子ではあったが、友人と言えるほどに身近に接していた故にその死をただの部下の死と割り切れなかったのだろう。
それを見たコンラートはクラウディオと距離を置くべきだと思ったのだが、むしろあちらがそれまで以上に執着を始めた。
他の貴族たちがコンラートを初めとした白騎士をさらに険しい目で見るようになったのは言うまでもない。
「思えばクラウディオ陛下が戦場で無茶をするようになったのはあれからです。今大人しく玉座に座ってくれているのは、我らのような古株からすれば奇跡のように思えるほどに」
「流石の兄上も歳を重ねて自重を覚えたのだろう。……最後の最後に盛大にやらかしてくれる予感はするが」
最後にぼそりと付け加えられた不吉な言葉。
それを高い聴力で逃すことなく拾ったコンラートは、ああこれは現実になりそうだなと諦めながら思った。