表向き東方戦線への援軍として招集された赤剣騎士団は、迅速にキルシュ国内へと行軍を進めた。
ピザン王国とキルシュ王国の間にはロードヴァントと呼ばれる山脈が横たわっている。キルシュ防衛戦の最中に一度は撤退路に使われた山ではあるが、山道と呼べるようなものはろくになく、軍勢が越えるのは無謀だとされるような悪路だ。
故にキルシュへの行軍はロードヴァントを南に迂回しての遠回りになるわけだが、それでも彼らが素早く移動できたのは、既にキルシュ入りしていたローエンシュタイン公であるグスタフの功績が大きい。
傲岸不遜と呼ぶに相応しいグスタフではあるが、その戦場構築は実に模範的であり慎重であった。
特に補給線には細心の注意を払っており、万が一にも敵による妨害や分断が行われないよう少しずつ戦線を押し上げていた。
それを追いかける形となった赤剣騎士団は、補給の心配をすることなく身軽なまま進軍を行うことができたのである。
「……」
左手をゆっくりと流れていくロードヴァント山脈と、麓に広がる森を視界に収めながら、コンラートは馬上にて非常に居心地の悪い思いをしていた。
馬の調子が悪いわけではない。休暇中も少々働かせてしまったが、むしろ丁度いい暇つぶしだったとばかりに元気いっぱいだ。
故にこの居心地の悪さは、コンラート自身や馬に由来するものではなく、予想外のイレギュラーによるものである。
「どうしたコンラート? 眉間に皺が寄っているぞ?」
「……いえ。何でもありませぬ」
顔のすぐ下から声が聞こえて、コンラートはゆっくりと視線を向けながら答えた。
「そうか。無理はしてくれるなよ。もうそなた一人の身ではないのだからな」
そう言って前を向いた赤い頭には聞こえないよう、コンラートは大きく息をついた。
手綱を握るコンラートの腕の中には、ちょんと納まるようにゾフィーが座っている。
それに照れるような歳ではないが、相手が主であり未婚の女性となれば話は別だ。気を遣わないわけがないし、むしろ気を遣わない方がおかしい。
何故こうなったかと言えば、実はグスタフが補給線を完全に、完璧に構築してしまったことが理由の一つだったりする。
補給を現地で受けられるならば、運ぶ物資は最低限で済む。故に身軽となった軍は通常では考えられない速度で行軍ができるわけだ。
だったら馬車などという悠長なものは使わず、馬に乗った方が早く到着できるな。
そうこのお姫様は考えちゃったわけである。
今のゾフィーに遠乗りをさせるなど、コンラートはもちろん兄であるクラウディオもヴィルヘルムも、クレヴィング公もアルムスター公もインハルト候も――とにかく誰も認めないだろう。
予想外に多くの人間から反対され困り果てたゾフィーであったが、あまりに多くの人間に小言をこんこんと重ねられて意地になった。
そして「なら誰かの馬に同乗すればいいのだろう!」と自棄気味に言いだしたわけである。
行軍を早めたいから馬車を使わないのに、同乗して馬を疲弊させたのでは本末転倒である。
故に却下されるはずだったその計画は、しかしクレヴィング公が思い出したように放った一言で現実味が出てしまった。
「コンラート……シュティルフリート卿の馬ならば殿下を乗せても問題ないのでは?」
そう。コンラートの愛馬である。
パトリシアと名付けられたその栗毛の馬は、雌とは思えぬほどに体が大きく力も強くて疲れ知らずだ。ゾフィー一人どころか、五、六人ほど無造作にその背に乗せても気にせず走ることだろう。
問題はあの気性の荒い馬が素直にゾフィーをその背に乗せるか。しかしやはり彼女は空気の読める馬らしく、実に大人しく主の主であるゾフィーを受け入れてみせたのだ。
「うむ。見た目のわりに可愛いやつだな。まるでコンラートのようだ」
ふー緊張したとばかりにもそもそと馬草を頬張るパトリシアの鼻先を撫でながら、そんな感想を漏らすゾフィー。
まるでということは、ゾフィーはこの髭の生えたくたびれた男を可愛いと思っているのか。
そんな疑問を抱いたコンラートだが、口に出したら実にいい笑顔で肯定されそうなので聞かなかったことにした。
「団長。もう少しで国境を越えます。一度休憩をとった方がよろしいのでは?」
「うむ。もう少し進んで森の切れ目を越えれば小川があるはずだ。そこで休むとしよう」
「了解」
そう言って乗り出していた身を引いたのは、色素の薄い肌と銀色の髪が印象的な青年だ。背はそこらの騎士よりも余程高く胸板も厚いが、彫像のように整った顔、特に切れ長な目が冷たい印象を見る者に与える。
彼こそがこの赤剣騎士団の副団長であり、名をコルネリウス・フォン・インハルトという。
次期インハルト候。要するにあの選帝侯の一人であるヴィルヘルミナ・フォン・インハルトの息子である。
最初その話を聞いた社交界に疎い若手の騎士や兵士たちは、あの美女にこんなでかい息子がいるのかと大いに驚き騒いだ。
何せインハルト候は見た目だけなら三十そこそこだ。老け気味の二十代だと聞けば納得する者すらいるだろう。
もっとも、インハルト候を巡って争った男たちはその騒いでいる若造たちの親世代なのだから、その実年齢も少し考えれば分かりそうなものなのだが。
そんな母親譲りの美貌を持つコルネリウスは、自分の母のことを面白おかしく噂する団員たちをただ静かに見つめていた。
それに一人が気付き口をつぐみ、それを見てどうしたのかと視線を追った者も口を閉じる。そうして他の一部の騎士たちが顔をしかめていた騒ぎは、僅かな時間で収束した。
不快だっただろうに、声をあげることもなく視線だけで場を治めたコルネリウスをコンラートは称賛した。
それにコルネリウスは相変わらず表情を変えずに瞑目すると、意外に低い声で「いえ」とだけ言って頭を下げる。
なるほど。中々気難しい若者のようだとコンラートは判断した。
身分を問わず集められた集団だ。規律維持のためには彼のような者が副団長には適任だろう。
そう不愛想な態度も気にせず評価したコンラートに、コルネリウスはただ無言で視線を返していた。
後から思えば、あれは内心で困っていたのかもしれない。
その母譲りの容姿とは裏腹に、彼の性格はむしろ母にこき使われる父にこそ似ていたのだから。
「しかし、インハルト候もよく跡継ぎを騎士団に入れる気になったな。あれほど優秀ならば、是が非でも生き残らせて家を継がせたいだろうに」
「まあ当主になっても戦となれば危険は避けられませんからな。それにこの騎士団の将来性を買って、箔が付くと判断したのでは?」
そう一般論を言うコンラートだが、インハルト候の意図についてはほぼ予想はついている。
彼女はゾフィーを守るため、自身が最も信頼する人材を……息子を差し出しだのだ。跡継ぎを失う危険よりも、主君の命を取った。
恐らくゾフィーはインハルト候がそこまで自分に入れ込んでいるとは思ってもいないだろう。事実王位を逃した王女に未だそれほどまでの忠誠を抱いていることは異常ですらある。
そうなるといよいよあの噂、ゾフィーの母がインハルト候だという話に真実味が出てくるが、さすがのドルクフォードもそこまでやらかしてはいないだろう。
そう信頼するコンラートだが、今は亡きアルムスター公を初めとした古株に聞けば「いや、昔のあいつならやりかねない」と断言したことだろう。
若い頃のドルクフォードに振り回された忠臣たちは、自分の主をある意味完璧に信頼していた。
「あれが先ほど言っていた小川か?」
手綱を握ったまま考え事をしていると、じっと前を見つめていたゾフィーの声に引き戻された。
見れば確かに、左前方に広がっていた森が途切れ、その向こう側から小さな水の流れが確認できる。
「はい。あの川を越えしばらく行けば、キルシュに属する小さな村が見えてくるはずです」
「ということはすでにこの辺りはキルシュ国内ということか。さて、一体何が待っているのか」
そう呟くゾフィーの顔は見えないが、きっと祭りを前にした子供のように口を歪めて笑っているのだろうなと思った。
そして彼女が笑っている限り、自分たちが窮地に陥ることがあっても絶望に落ちることはない。
そうコンラートは確信した。