ピザンにおいて武の名門と言えば、三公の一つであるローエンシュタイン家。ピザンの盾と称えられたローデンバルト家。
そして剣と称えられたヘルドルフ家があげられる。
そのローデンバルト家をコンラートが継承することは貴族のみならず民の間でも大いに話柄となったが、それと同等に話に上ったのが、ヘルドルフ家の新たな当主であった。
戦場で非業の死を遂げたリーメス二十七将の一人マクシミリアン・フォン・ヘルドルフの子供。
悪い噂の絶えなかった前ヘルドルフ伯であるマリオンの後釜にかの英雄の子供が就くばかりか、盲目でありながらそこらの魔術師にも劣らぬ魔術の才を持つという。
さらにそれがまだ年端もいかない少女だというのだから、噂を食べて生きているような者たちの間で話題にならぬはずがない。
しかし当のモニカは、魔術と本で学んだこと以外は何も知らない、箱入りと呼ぶに相応しい少女である。他の貴族たち、特に適齢期を迎えながら伴侶のいない男共にはさぞ上等な餌に見えたことだろう。
貴族にとって横のつながりも重要な以上、その流れは必然でもある。故に新たなヘルドルフ伯がどこぞの貴族に押し切られ、政略結婚へと至るのは時間の問題かと思われた。
「わしの目の黒いうちは、半端な男をモニカの婿と認めん」
そう言って待ったをかけたのは、コンラートに家督を譲り隠居したはずのマルティンだった。
夏戦争のあと暇ができたマルティンは、コンラートを後継として受け入れる準備をしながらも、かつての戦友の娘であるモニカをいたく気に入り孫同然に可愛がっていたのだ。
隠居したとはいえ、半ば生ける伝説と化したマルティンに異を唱えることなどできるはずがない。
さらに正式に伯爵となったコンラートに「複雑な生い立ちのお方故、もう少し時間を下さらないか」と頭を下げられては、殆どの貴族は黙るしかなかった。
こうして新旧ローデンバルト家当主の守りを得た新たなヘルドルフ家は、異様な存在感を持ちながら誰も手出しできない妙な立ち位置へと収まった。
その顛末を見守っていた義姉がほっと胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。
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しばしの休暇を得たコンラートは、今では馴染みの愛馬となった栗毛の馬を走らせて、モニカの待つヘルドルフ家の屋敷へと向かっていた。
他の多くの諸侯とは異なり、ヘルドルフ伯であるモニカは戦線には出ず未だ領地の掌握に専念している。
これは本人が望んだことも大きいが、実際にそうしないと領地が立ち行かなかったというのが紛れもない事実だからでもある。
何せ前当主であるマリオンはお世辞にも立派な領主ではなかったし、税を余分に取り立てて賄賂を贈るという悪い領主のお手本のような真似までしていた。
しかも夏戦争の末期には、少しでも多くの兵を雇いジレントへと連れていくためさらに重税を課していたのだ。
そのため新たに領主になったモニカとツェツィーリエが最初にしたことは、屋敷にあった無駄に豪華な家財や装飾品を売り払うことだったというのだから笑えない。
案外モニカが帰還しなくとも、反乱なり暗殺なりでマリオンはどのみち退場していたかもしれない。
「いやー、この辺は緑が多いですね。土地が肥えてるのかな?」
「そうだな。近くに大きな川が流れているだろう。あれが上流の山から栄養の多い土と水を運んでくるそうだ」
唐突に周りの景色を指して言う声に、コンラートは昔親代わりであったマクシミリアンが自慢げに話していたことを思い出して言う。
「へえ。なるほど。川は水だけじゃなくて土とか栄養まで運んでくるんですね。そういうことまで考えたことはなかったな」
そんなコンラートの説明に素直に感心して頷いているのは、しなやかな体躯の黒馬にまたがったカールだ。
ここ二年で背が少し伸び、顔つきや体つきも角ばったものになり大人びてきている。
その成長をコンラートは感慨深く眺めながら、できれば父であるアルムスター公にもお見せしたかったと少しだけ残念に思う。
「しかしよかったのかカール? せっかくの休暇だというのに俺に付いて来て」
「だって王都に残っても、男所帯に囲まれて毎日酒盛りに付き合わされるだけですよ。かと言って実家に戻っても兄にこき使われますし、マスターに付いていくのが一番マシってもんです」
そう言ってため気をつくカールの姿は、見る者が見れば若い頃のコンラートそっくりだと言ったかもしれない。
師弟というのはやはり似るものなのだろうか。
コンラートが赤剣騎士団の団長となることが決まり、一番喜んだのは間違いなくカールだろう。
二度と会えないかもしれないとすら思った尊敬する師が直属の上司になるのだ。これで喜ばないはずがない。
そしてそんなカールの態度は、赤剣騎士団内でもコンラートをよく知らない人間にいい影響を与えた。
アルムスター公爵家の人間があれほど尊敬しているのだ。やはりコンラートという騎士はそれほどの男なのだろうと。
もっともカール自身にはそんな意図など欠片もなかったのだろうが。
「フランツ殿は抜け目のない方だからない。恐らくは閣下の教育の賜物だろう」
「えーえー、それは僕が一番よーく知ってますよ。ですから僕に公爵家を継がせるのは諦めろと、マスターからも言ってやってくれませんか?」
「……まだ諦めていないのか」
新たなアルムスター公が有能であることは満場一致で認められることだろうが、同時にその変わり者ぶりでも有名になっている。
曰く、どこの舞台役者を連れてきた。
貴族ならば身形を気にするのは当然ではあるが、フランツのそれは行き過ぎというに相応しいものだった。
さらに彼を有名にしたのが、その極端なまでのフェミニストぶりだ。
もはや女性崇拝とすら言えるほどまでに至ったその矛先は、この国で最も高貴な女性であるゾフィーにも向けられており「貴女が望むのならば、私は領地も爵位も投げ捨てて貴女だけの騎士となります」と宣言までしてみせた程だ。
当然実際に投げ捨てられたら困るので、ゾフィーは笑顔を引きつらせながら辞退した。
あの遅れてきた英雄と名高いグスタフすら振り回すお姫様がドン引きするのだから、その変人ぶりが知れるだろう。
「あの入れ込みっぷりは異常ですよ。『まったくカールは羨ましいなあ。アッハッハ』って、まったく笑ってない所か殺意込めた目で見てくるんですよ!?」
「なら分かるだろう。残念ながら俺もその殺意を向けられる筆頭だ」
現在ゾフィーに一番近しい男は、護衛役だったマルティンの座をそのまま引き継いだに等しいコンラートだ。
フランツにとってコンラートは怨敵と言っても過言ではない。
「大体ゾフィー様は確かに美人ですけど、そこまで執着するほどの人ですかね。僕はもっと大人しい子がいいですよ」
「なるほど。殿下にしっかりと報告しておこう」
「ごめんなさい! 不敬でした!」
馬上で頭を下げるカールに、コンラートはやれやれと首をふった。
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「ややあ? ぼっちゃんじゃないですか!」
ヘルドルフ家の屋敷の入口に立っていた兵士が、コンラートの顔を見るなり驚きの声を漏らした。
その懐かしい呼ばれ方を聞き、コンラートは仕方ないなと苦笑する。
「久しいなオットー。ぼっちゃんはやめないか?」
「いや、すいません。どうしてもぼっちゃんの顔を見てると昔を思い出して」
そう言って笑う兵士の顔の皺は深く、もう老人と言っていい年齢だ。
どんなに偉い人間も、老人と肝の据わった中年女性には勝てないものだと相場が決まっている。故にコンラートも苦言を漏らすのは一度だけで、素直にその懐かしい呼び名を受け入れた。
「お嬢様はいらっしゃるだろうか?」
「ええ。ぼっちゃんが来られると聞いて、朝からそわそわとされてましたよ。馬と馬具は私が預かりますので、どうぞそのまま中に」
「すまぬな。では行くかカール」
「はい」
二頭の馬を引いて厩舎へと向かう老兵をちらちらと気にするカールを促してコンラートは足を進める。
気持ちは分かる。あの栗毛の馬はその大きさでも圧倒されるが、見た目通り中々に気性が荒い。あんな枯れ木のような老人に任せて、もしものときに大丈夫なのかと心配なのだろう。
しかしあの馬を預けるのは今回が初めてではなく、どういうわけかこの屋敷の人間の前では大人しく、お上品に振る舞っているのだ。
もしかしたら主であるコンラートが信頼する人たちだからと、彼女なりに感じ取り気を遣っているのかもしれない。
「それにしても。天下の赤剣騎士団の団長をぼっちゃんだなんて呼ぶのはここくらいですね」
「子供の時分に世話になったからな。こういう関係は年が経っても案外変わらぬものだ」
面白そうに笑うカールに、コンラートも笑みで返す。
今のヘルドルフ家の屋敷には、マクシミリアンが当主だった時代に仕えていた者たちが多い。
マリオンが投獄されその臣下も居なくなり、さてどうしようかと考えていたところに是非とも雇って欲しいと集まってきたのが彼らなのだ。
先ほどの老兵のようにもう現役は辛いだろうという歳の者も多いのに、マクシミリアンと夫人に受けた恩を返したいと集まった。そんな彼らをモニカは喜んで受け入れた。
高齢の者ばかりだったが、逆に言えばその道のベテランたちだ。新しい当主を迎えたばかりの屋敷は上手く回った。
最近では若い者も増えてきて、その教育にも力を入れてくれている。
まったく頭が上がらないと、ツェツィーリエも安心したように言っていた。
もっともそのツェツィーリエも、メイドをしていたシレーネの娘だと知れてからは、まるで親戚の娘のように扱われるのでどう対応したものかと困っている様子だが。
「コンラート!」
そうして勝手知ったる他人の家とばかりに邸内を歩いていたところに、不意に鈴を転がすような声がして軽やかに跳ねるような足音が響いてくる。
「いらっしゃいコンラート!」
「おっと。お邪魔しておりますモニカ様」
廊下の向こうから助走をつけて飛び込んできた少女を、コンラートは軽々と受け止める。
ふわりと腰にまで届く黒髪が広がり、花のような香りが届く。
「しかしモニカ様。年頃の淑女がそう気安く男に肌を触れさせるものではありませんぞ」
「でもコンラートは私のお兄様みたいなものでしょう? 兄妹ならこれくらい当たり前だと思うのだけれど」
「兄というよりはお父さんといった見た目ですけどね」
「カール……」
しみじみといった様子で呟くカールに、コンラートは胡乱な目を向ける。
もっともコンラートとモニカの間には十五の年齢差があるのだから、親子でもおかしくはない。お爺ちゃんと言われなかっただけマシだろう。
「お邪魔してますモニカ様。相変わらずお美しい」
「ありがとうカール。ごめんなさい挨拶が遅れて」
カールの挨拶に合わせて淑女の礼をするモニカ。それにカールは騎士の礼を返しながら、デレデレと分かりやすく顔を緩めている。
カールが言ったことはお世辞などではなく、モニカの母譲りの容姿は人目をひくものだ。盲目ゆえに瞼はいつも閉じられているが、それすらもどこか神秘的な魅力を彼女に与えている。
カールが相好を崩すのも道理だろう。その上カールが苦手とする気の強い女性とは対極に位置するような、周囲を安心させる気質の少女だ。
コンラートも、カールにならばモニカを任せても大丈夫かもしれないとは思ってはいる。
もっとも、今のままでは少々不安なので、本当にその気があるなら直々に鍛え直してやるつもりではあるが。
「私には見えないけれど、そんなにコンラートはおじさんに見えるのかしら?」
「そりゃあもう。あ、でもそれはそれで渋くてカッコいいって人気があるんですよ。僕の同年代の女の子たちだって、コンラート様みたいな方なら歳が離れてても気にしないって子は多いんですから」
とってつけたようなフォローは嘘というわけではないだろう。
実際婚姻相手としてコンラートの人気は高い。元平民とはいえ伯爵だ。余程の問題がなければ黙っていても女は寄って来るだろう。
さらに一部の人間たちに人気な理由は、三十路を迎えながら独身だという点だ。
二十歳を越えて久しい、嫁ぎ遅れと呼ばれる女性たちにとっても比較的気後れせずに話ができるに違いない。これを逃せば後がない。そんな貴族令嬢たちから熱烈なラブコールを受けていたりする。
モニカへの政略結婚は押しのけたコンラートではあるが、自身へのそれはにべにもできず、ほとほと困り果てている。
今更恋愛結婚などできるとは思っていないが、下手な女を迎え入れて浪費されたり家を乗っ取られたりしてはたまったものではない。
ゾフィーやマルティンに相談しながら時間を稼いでいるものの、いつか押しの強いどこぞの令嬢に押し切られるかもしれない。
「それにモニカ様だって……」
「おお! よく来たなコンラート!」
「……げ」
続いてモニカを口説こうとしたのであろうカールの言葉を遮ったのは、のっしのっしと歩いてくるマルティンだった。
コンラートを後継に迎え隠居したマルティンは、コンラートに代わり領地の仕事を片付けながらも、モニカのことを気にかけよく様子を見に来ている。
今日もそのためにこの屋敷を訪れていたのだろう。あるいはコンラートが来ると聞いて時期を合わせたのかもしれない。
「ご無沙汰しております義父上」
「うむ。おぬしも健勝のようだな」
マルティンを父と呼ぶことに最初は違和感を拭えなかったコンラートだったが、この二年ですっかり慣れた。
まあ呼称が変わっただけでその関係性はあまり変わっていないので当たり前かもしれない。
ローデンバルト家を継いだコンラートではあるが、その名はコンラート・フォン・シュティルフリート=ローデンバルトという複合姓となっている。
複合姓というのは貴族には珍しいものではなく、例えば他家に嫁いだ女性の実家が名家であった場合は、嫁ぎ先と実家の家名を同時に名乗ることが多い。
アルムスター公に賜った姓を捨てるのは忍びないだろうと、マルティンの方から提案してきたのだ。
その上で子にはローデンバルト姓を継がせなくてもいいと言うのだから、本当に当初は爵位を返上し領地も王家に献上するつもりだったのだろう。
「それに……何やら見慣れた顔があるな」
「は、はは。お久しぶりですマルティン様」
マルティンの姿を確認するなり、そろりそろりと距離をとっていたカールだったが、当然見逃されるはずがなく何やら剣呑な視線を向けられる。
「そなたの事もよーっく聞いておるぞ。師であるコンラートや実家の威光に驕ることなく己を磨き、戦場でも若手とは思えぬ活躍だとな」
「い、いえ。私などはまだまだで」
「うむうむ。その謙虚さ。若いころのコンラートを思い出す。故にわしが少々鍛えてやろう」
「何でそうなるんですか!?」
マルティンの申し出に驚いて声をあげるカール。
冗談のようなやり取りだが、マルティンの目は一度狙った獲物は逃がさんとばかりに真剣そのものだ。
「さて。久方ぶりに体を動かすか」
「た、助けてー!」
そうしてどすどすと去っていくマルティンと、首根っこを掴まれ引きずられていくカール。
止める間もないあっという間の出来事であった。
「……マル爺はカールのことが気に入っているのかしら?」
「そういうことですな」
どこかズレているように見えるモニカの認識だが、事実マルティンがカールを扱くのは見込みがあるからだろう。
可愛い孫も同然の娘にまとわりつく悪い虫というだけならば、近づくことすら許さないはずだ。
「まあ義父上もさすがに歳ですからな。そう長くはかからぬでしょう」
「そうね。じゃあお茶でも準備して待ってましょうか。庭で採れたベリーを使って焼き菓子を作ってみたの」
「ほほう。それは楽しみだ」
モニカの小さな手に引かれ、コンラートは邸内を歩き出す。
かつて過ごした屋敷が、以前と同じ暖かい空気に包まれているのに安堵しながら。