コンラートという騎士は、有能ではあったが世渡りの上手いタイプでは無かった。あからさまな侮蔑の視線や罵りを黙らせる話術も無ければ、不和を解消し味方にするような要領の良さも無い。騎士となって十年以上経つ今でも、コンラートの事を侮り妬む者は多い。
そんなコンラートが今まで平穏無事にやってこられたのは、王を始めとする王族や貴族が、彼の剣の腕や人柄を高く評価し、強力な後ろ盾となってくれたからに他ならない
「おお、来たかコンラート」
「召致に応じました……が、お忙しそうですな陛下」
王の執務室へと足を運んだコンラートが最初に目にしたのは、丈夫そうな樫の木の机の上に、所狭しと並べられた紙の群であった。その有様にコンラートは呆気に取られ、思わずといった感じで呟く。それに対し王は皺を深くしながら苦笑を返した。
「よく目を光らせておらんと、何やらよからぬ事を企む輩も多くてな。おぬしもその事は身にしみておろう」
「はい。何度申しても、陛下は私を間者か何かと勘違いしておいでのようなので」
何やらよからぬ噂が聞こえてくれば、その真偽を確かめるよう命じられるのはコンラートであった。無論一介の騎士に過ぎないコンラートにできる事は限られるが、いつの間にか騒動に巻き込まれ、いつの間にか領主の不正を暴いているという事が何度かあった。
全てはコンラートの正義感と強運の成せる業だろう。しかしだからと言って「何かやらかしてくれるかもしれないから、とりあえず送っとけ」という風にあちこち走り回らされては、コンラートとて文句の一つや二つ出てくる。
「そう言うな。そういえばおぬしの従騎士、アルムスター公の倅じゃったな。此度の叙任式に間に合うか?」
「問題無いかと。精神的に未熟な所もありますが、齢を省みれば仕方の無い事。心乱れようとも、体が自ずと動く程度には鍛え上げています」
「そうか。大儀であった」
「ハッ」
返事をしたものの、コンラートは王の言葉に疑問を持った。カールをコンラートに預けたのはあくまでアルムスター公であり、王の意思は介在していない。労いの言葉を受ける理由は無いはずだ。
コンラートの思いを知ってか知らずか、王は頬杖をつくと何も語らなくなった。何を考えているのか時折眉がピクリと動き、次第にその表情は厳しいものへと変わっていく。
一体何事なのか。沈黙と王の様子にコンラートが耐えかね口を開きかけたところで、王の重い声が執務室に響いた。
「コンラート。これから話すこと、おぬしには不快かもしれぬが心して聞いて欲しい」
「……ハッ」
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「――ここに願う。彼らが信仰を胸にあらゆる暴虐に抗い、全ての弱きものの守護者となる事を」
王の前に跪く従騎士の姿を、コンラートは様々な思いを噛み締めながら見つめていた。
王宮のすぐそばに位置する大聖堂には、その日多くの王侯貴族と騎士とが集っていた。ある者は自らの子の晴れ舞台を、ある者は自らの配下となる兵の御披露目を、そしてある者は自らの従騎士が巣立っていく姿を見るために。
「――今まさに騎士とならんとする者よ。道を誤ることなかれ。教会の下祈る人々全ての守護者たれ」
正面のステンドグラスに描かれた女神の姿を通して、光が騎士たちを祝福するように包み込んでいる。その女神の名を、コンラートは知らない。
祭壇の前に立つ王の言葉を、彼らはどれほどの間覚えていられるだろうか。先の戦から十年以上も平和が続き、そしてこれからも続いていく中で、その力を守るはずの人々に向けずにいられるだろうか。
王都から離れた地に暮らす人々は王の名など知らない。神官でない人々は女神の名を知ろうとしない。実感の得られない言葉は時と共に心から零れ落ちていく。
「何辛気臭い顔してんだい。このめでたい席で」
囁くように呼びかける声があって、コンラートは少しだけ首と視線を横へと動かす。そこには金色の髪を肩口で切りそろえた、女騎士の横顔があった。女の名はリアといい、コンラートと同じ平民上がりの騎士である。
コンラートから見える右目は、何かを睨むように薄く開いている。しかしその目は意図したものでは無く、それ以上開かないのだという事をコンラートは知っていた。彼女が誰にも話そうとしない、原因となった怪我の理由も知っている。その程度には、コンラートとリアは付き合いが長かった。
「独りで居た時期が長かったからな。家族が居なくなるようで寂しいのかもしれん」
「だったら嫁さんでも貰いなよ。騎士だって言うだけで、十以上も年下の女だって寄ってくるだろうに」
叙任式は未だ終わっていないため、二人の声は自然と小さなものになっていた。それに反応するように、周囲の目が二人へと集まり始める。
しかしその視線に咎めるような色は無く、むしろ興味深げに見ているものが多い。それに気付いたリアが、楽しそうに唇の端を持ち上げる。
「平民騎士が並んでると目を引くね。その平民騎士に息子を預けた物好きは、アルムスター公爵だっけ?」
「ああ。俺を気にかけるだけでなく、よほど信頼してくれているらしい」
コンラートがそう答えたところで、人々から小さな声が漏れた。何事かと視線を祭壇へと戻すと、カールが退いた王の前に一人の赤毛の少年が跪くところが見える。
王の髪も赤いが、少年のそれはいささか赤さの度合いが違う。王が炎ならば少年は血。人によっては不気味に感じるほど、見慣れない髪色だ。
「あれが王弟殿下ね。名前は……何だっけ?」
「ヴィルヘルム・フリードリヒ・カイザー・フォン・ピザン。第二王子と名が重なっているため、カイザー殿下とお呼びするのが適当だ」
王侯貴族特有の長い名前を聞き、リアは「あっそ」と興味を欠片も示さず流す。
「まだ十四歳だろ。例え王族でも騎士は飾りじゃ無いんだ。ちゃんとやってけるのかね」
「やっていけると判断した故の今だろう。並程度にも育っていないならば、責任者の首が飛ぶ。万が一飾りにしかならぬなら、物理的な意味でも飛ぶだろう」
「あいつの首が飛ぶのかい? そりゃ見てみたいね。私はあいつが死ぬとこなんて想像もできないよ」
「俺にもできんさ。それ以前に、彼女の教え子が並程度で終わる事も想像できん」
「それもそうだ」
そう言い合って、二人は声を出さずに笑った。
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叙任式が終わった後には、新人騎士たちは賜ったばかりの武器や防具を身に着けて、騎馬試合に臨むのが通例であった。騎馬試合といえば団体戦が主となるのだが、新人騎士たちに連携を求めるのも酷であるため、基本的には一騎打ちのみが行われる。
「我が名はカール・フォン・アルムスター! 我こそはと思うものは名乗りをあげろ!」
普段は騎士たちが訓練に使う、王宮の一角にある広場。人でできた生垣の中心で、騎乗したカールが吼えるように声をあげる。そしてそれに応えた若い騎士が、悠然と人の群の中から進み出る。
誰かが名乗りをあげ、誰かがそれに応える。例え試合であっても、一騎打ちの際にはこのやり取りが不可欠とされている。
「またアルムスターの息子が勝ったぞ!」
二人の騎士がすれ違った瞬間、片方の騎士が体勢を崩し馬から落ちる。敗者となった騎士は相手の攻撃を盾で防いだが、勝者であるカールの槍の一撃は重く防ぎきれなかったらしい。
「さすがはアルムスター公のご子息だな」
「師は白騎士コンラートか。ならばあの技量と胆力も納得だ」
「何を馬鹿な。カール殿の才あっての事だろう」
周囲から漏れ聞こえる声は、カールの力を褒め称えるものもあれば、指導者であるコンラートを持ち上げるものまで様々であった。先ほどから試合がカールの独壇場である事を考えれば、その称賛は当然のものだと言える。
惜しむらくはカールの父であるアルムスター公がこの場に居ない事だが、この様子ならば胸をはって彼の人の前に立てそうだとコンラートは内心で安堵する。
「我はカール・フォン・アルムスター。我こそはと思うものは名乗りを上げよ」
もう六度目となるカールの名乗りに、応える者は居ない。連戦で体力を消耗している以上挑む側が有利なはずなのだが、それでも挑戦者が現れないのは、カールの実力が此度に叙任を受けた騎士たちの中では飛び抜けているためだろう。
このままでは、誰かが大人気ない真似をする事になるかもしれない。そう思われたところに、一人の少年騎士が騎乗してカールの前へと進み出た。それを見た人々の間から、驚きと好奇を含んだ声が上がる。
「我はカイザー・フォン・ピザン。お相手する」
王弟殿下の静かな名乗りに、周囲の者たちは喝采を上げる。
十四になったばかりのカイザーの身長は、新人騎士たちの中でも頭一つ低い。そんな体で連勝中のカールに勝てるのかという疑問と、もしかしたらという期待が人々の中で湧き上がる。
ほぼ同時に二人の馬が走り出し、広場の中心で交差する。すれ違うたびに打ち合い、再び距離をとると反転し相手目がけて馬を走らせる。それは一般的な一騎打ちの光景だったが、一つだけ奇妙な事があった。
カールの突きを、カイザーは苦も無く槍で弾いている。カールの槍の力の流れを変えて受け流しているだけの事だが、十四歳の少年がさも簡単そうにやってのけるものでは無い。
カイザーの才と努力が並では無いのか、それとも師が良かったのか。どちらにせよこのままではカールは負けるだろう。
「クッ!」
焦れたカールが槍を持ち直し、カイザーの体目がけて薙ぎ払う。突きは通じないと判断しての行動であったが、それは裏目に出る。渾身の一撃はあっさりとカイザーの槍で打ち上げられ、次の瞬間には体を大きく傾けて馬から滑り落ちていた。
相手の攻撃を弾いた後、石突で体を押す。カイザーがやった事は言葉にすればそれだけの事だが、二つの動作は流れるように無駄が無く、鮮やかだった。
「み、身代金が……」
肩を落とし、馬を引きながらコンラートの所へやってくるカール。その様子に思わず笑ってしまったのは仕方ないだろう。
騎馬試合の勝者は、敗者に「身代金」を要求する権利が与えられる。それは名前の通りに金はもちろん、武器や防具あるいは馬まで対象になる。
金銭の場合は敗者の身分で金額が決まる。公爵家の人間であるカールは、買った時の収入より負けた時の支出が多くなる場合が殆どだ。一度の敗北でも手痛いものになったのは間違いない。
「残念だったな。しかし相手が悪い。正に神童と言うほか無いな」
「いえ、僕も調子に乗ってました。戦場に出たら歳なんて関係ないし、殿下みたいなのがたくさん居るんだから精進しないと」
あんなのがたくさんいてたまるか。そうコンラートは思ったが、せっかくやる気になっているのに水をさす事も無いと思い口をつぐむ。
「……さすがにあれを見て挑もうとする者も居ないか」
カールとカイザーの居なくなった広場は、新たな戦士の登場を待ちうけているが、誰も進み出ようとしない。カイザー自身が名乗りを上げていないとはいえ、今出れば呼応するのはカイザーである可能性が高い。皆尻込みしているのだろう。
ただの腕試しならともかく、試合で負ければ身代金をとられてしまう。無謀な挑戦をする者は居ない。
「……」
カイザーの方へコンラートが視線を向けると、それを見つめ返す瞳があった。カイザーのそばに控える小麦色の肌の騎士。遠目からでも目立つ赤い瞳が、コンラートを見つめていた。
「カール。槍を貸してくれ」
「え? ……まさかカイザー殿下と戦うつもりですか?」
「そんなわけが無いだろう」
言外に「大人気ない」というカールに、コンラートは苦笑しながら兜をかぶる。そして騎乗してカールから木槍を受け取る頃には、目当ての人物も木槍を片手に馬上の人となっていた。
申し合わせたように、二人の騎士が広場の中央へと進み出る。いつの間にか周囲は静寂に包まれ、一挙手一投足を見守るように二人に注目していた。
「我は白の騎士コンラート。一騎打ちを申し込む」
「同じく白の騎士ティア・レスト・ナノク。謹んでお受けします」
二人の名乗りが静寂を破り、それからしばらくして人々の間から沸き立つように声が上がった。
白騎士といえば国でも上位の実力者だ。平民でありながら、その腕だけで騎士という地位を勝ち取った者たち。その白騎士同士の戦いに興味が湧かないわけが無い。
「ハアッ!」
「フッ!」
一騎打ちは、まるで先ほどの教え子たちの攻防を焼きなおしたようだった。正面から馬を走らせ、交差する瞬間にコンラートが槍を振るい、ティアがそれを受け流す。
一つ違う所があるとすれば、ティアが攻撃を流しながら反撃をしている事。しかしそれもコンラートの槍に受け止められ、決定打にはならない。
幾度かの交差の後、攻防に変化が表れた。ティアの乗っている馬が嘶き、その場に止まってしまったのだ。するとコンラートも馬を制止し、二人の馬は並び立つかっこうになる。
その体勢のままコンラートは槍を繰り出し、ティアはそれを受け流すと即座に反撃した。
突き、払い、打ちつける。二人の攻防は武の心得の無いものからすれば神速であり、多少なりとも腕に覚えのあるものはその絶技に舌を巻いた。賑わっていたはずの人々は息をする事すら忘れ、決着がつくのを固唾をのんで見守っていた。
「むっ!?」
突き出した槍を絡め取られ、コンラートは呻くように声を漏らした。武器を落とせばその時点で敗北が決まる。コンラートを馬から落とすのは無理だと悟り、槍に狙いを絞ったのだろう。
しかしそれはコンラートからしても望むところであった。
「ハアッ!」
「!?」
奪われそうになった槍を、渾身の力で引き戻し相手の槍ごと持ち上げる。そのような強引な返し方をされるとは思わなかったのか、ティアは腕ごと打ち上げられた槍を手放してしまっていた。
万歳のように両手を上げた状態のティアのそばに、木槍が軽い音をたてて転がる。それを確認するように視線を向けたティアは、呆れたように兜の下で吐息を漏らした。
「勝負あった!」
「コンラートの勝ちだ!」
静止していた時が動き出したように、人々の間から声が上がり始める。それを合図にして、コンラートとティアは馬から下りると兜を脱いでお互いを見やった。
「参りました。槍では貴方に敵いませんね」
「いや、馬上では俺に利があるからな。これが試合でなければ、馬から引き摺り下ろされて俺が負けるだろう」
それは紛れも無い事実。コンラートは槍や馬上での戦いが得意というわけではないが、ティアはその二つを苦手としている。
何よりも彼女の最大の武器は、四つ足の獣もかくやというほどの瞬発力にある。馬上ではその武器を封じられてしまい、逆に弱くなると言う妙な騎士なのだ。
「しかし負けは負けです。「身代金」はどうしますか?」
「そうだな……そのリボンなどはどうだ?」
問われて返したコンラートの言葉に、ティアは目を丸くした。
装飾品を要求する事は、少ないが前例はある。しかし首の後ろで髪をまとめたリボンは、ありふれた物であり金銭的な価値は無いに等しい。それでも求められたのだから、ティアは微笑みながら長い髪をまとめていたリボンを解いた。雪のように白い髪が、風向きをなぞるように靡く。
「相変わらず欲が無いですね。それとも私に気をつかったのですか?」
「金には不自由してないのでな。それに君が身に着けていたというだけで、俺にとっては純金にも等しい価値がある」
コンラートの言葉に、ティアは微笑を返す。差し出した腕の手首にティアがリボンを結びつけるのを眺めながら、コンラートは苦笑するしかなかった。
最初に求婚したのは、まだ二十歳にもなっていない若造の時分だったろうか。明確な拒絶の言葉を発しない彼女を相手に、コンラートは何度も愛を囁き続けている。そしてその度に、ティアは返事もせずに微笑みかけてくるのだ。その曖昧な態度こそが答えという事なのかもしれない。
しかしはっきりとした答えを貰うまで、コンラートは粘り続けるだろう。それは意地というより、単なる慣れなのかもしれない。
「さあ、早く逃げた方が良いですよコンラート。大人気ない人が襲ってきますから」
「何?」
リボンを結んだ手を軽く叩くと、ティアは馬を引いて去っていく。そしてそれと入れ替わるように、青い鎧を着た騎士が黒馬に乗ってコンラートの方へと駆け寄って来た。
その姿を見てコンラートは吐息を漏らす。ああ確かに大人気ない人が来た。
「我は蒼槍騎士団団長クラウディオ・フォン・ピザン! 白騎士コンラートに一騎打ちを申し込む!」
慣例を無視した名指しの挑戦状に、コンラートは呆れつつも兜をかぶりなおす。
ピザンという姓からも分かるこの王族の男は、王弟の年上の甥であり、現王の息子である第一王子だ。逃げる事などできないし、逃がしてくれるわけが無い。
「白の騎士コンラート。全力でお相手する」
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騎馬試合が終わった後は、新たな騎士の誕生を祝い宴が催される。今回の叙任式には王族や有力貴族の多くが参加し、宴も他に類を見ない大規模なものであったが、コンラートがそれに出席する事は無かった。
「いや、中々見物だったよ、一人の女を巡って一騎打ち。同じ女としてティアが羨ましいねえ」
安物の葡萄酒片手に上機嫌に話すリア。コンラートはその言いように苦笑を返すと、硬いチーズを口へと放り込んだ。その手にティアのリボンは無い。嫉妬に猛る王子様に「身代金」として奪われてしまった。
宴を抜け出して二人が来たのは、城下町にある酒場。ただし上流社会の人間が訪れるような所では無く、平民たちが仕事の疲れを癒すために訪れるような安酒場だ。まだ昼間ではあるが、食事を取りにきた人間でそれなりに賑わっている。
「やはりここの炙り肉は美味いな。パンに挟んで食べるのが一段と良いというのに、城の奴らは信じようとしないから困ったものだ」
そんな中に、一人場違いな人物が居た。癖のついた赤い髪を、無造作に後ろへ流した男。着ているものこそ庶民と変わらないが、内面から滲み出る空気は明らかに他と違っている。
そして何より目を引くのは、無骨な手には似合わない黄色いリボン。言うまでも無くコンラートが思い人から奪い、恋敵に奪い取られたそれであった。
「……クラウディオ殿下。何故ここに?」
「ここは俺の行きつけの店だ。別に表に「王族お断り」と書いているわけで無し、来て何が悪い?」
「主に宰相閣下の胃に悪いかと」
当然のようにコンラートとリアのテーブルへ腰かける第一王子に、コンラートは苦言を呈すると吐息を漏らした。
クラウディオの奇行が始まったのは昨日今日の事では無い。しかし目の前でこうも頓着無い様子を見せられると、臣下の一人としては頭が痛くなってくる。
「何だその目は? それにそっちに居るのはグラナート夫人だろう。俺にばかり文句を言うな」
「うちのは私に甘いから平気ですよ。この程度で文句言われるなら、その前に騎士を辞めさせられてるし」
そう言ってスープにパンをひたして食べる彼女を、一体誰が伯爵夫人だと信じるだろうか。クラウディオとは違い、見た目から雰囲気まで完全に場に溶け込んでいる。
玉の輿というある意味女の夢を実現したこの女性と、コンラートは付き合いが長い。しかし結婚前と後とで、彼女に変わった様子などありはしない。それは本人の性格もあるが、夫の放任主義も原因の一つなのだろう。
「しかしティアはさすがに抜け出せないか。久しぶりに三人で飲みたかったんだけどね」
心底残念そうに言うリア。それにコンラートも黙って頷き返す。
コンラートとリア、そしてティア。事情は違えど平民上がりの三人は、よく一緒に行動し周囲からも一括りに見られていた。もっとも平民上がりの上に女性という二人ばかりが注目され、コンラートはおまけのように扱われるのが常であったが。
その三人の集まりに変化が起きたのは、ティアが当時生まれたばかりの王弟殿下の専任騎士に選ばれた時であった。
「ティアはカイザーにべったりだからな。おかげで俺は叔父相手に嫉妬を燃やさねばならん」
「さすがに四六時中供をしているわけでは無いでしょう。城内で寝泊りをしては居ますが」
「詳しいね。やっぱ気になる?」
茶化すような言葉に、コンラートは複雑な思いを抱いた。気にならないと言えば嘘になるが、コンラートが詳しいのはそれが理由では無い。
「近々ティアが王弟殿下の指南役から外されるらしい」
「は? 騎士になったって言ってもまだ世話役はいるだろ。まだ子供だよ?」
「後任に俺の名が上がっている」
「ごめん。まったく経緯が理解できないんだけど」
「もしやあの噂か? ティアがカイザーを誑かしているという与太話」
横から放たれたクラウディオの言葉に、リアはあからさまに眉をひそめる。
当然だろうとコンラートは思う。そんな下らない噂を流す者もそうだが、それを真に受けたかのようにティアを王弟から遠ざけるのもふざけている。
「何処の馬鹿が流した噂だいそれ。赤ん坊の頃から世話してんだから、母親みたいに懐いてるだけじゃないか」
「俺もそう思う。しかし他ならぬティアが受け入れてしまってはどうしようもない。もっとも、後任に俺の名を出すあたり納得はしていないらしいが」
「まあ少なからず「平民のくせに」って空気はあったしね。代わりにアンタを指名したのは、最後の嫌がらせってわけか」
リアは納得したとばかりに頷く。自由奔放なほうでいて、彼女は人の心の機微に鋭い。以前から王宮に内在する不満に、気付いていたのかもしれない。
「ほう。するとティアは暇ができ、コンラートはカイザーの世話に忙殺されるわけだ。口説き落とす良い機だな」
「どうぞご自由に。時間ができた程度で口説き落とせるならば、御互いに十年以上も粘っていないでしょう」
冗談めかして言うクラウディオに、コンラートは笑って返す。心の底では分かっているのだ。彼女は誰にも心を許しはしないと。
初めて出会ったとき、ティアはコンラートより年上だと思われた。しかし今ではコンラートのほうが年上に見える。これはコンラートが歳より老けているというだけでは無い。
おかしいと感じたのは、コンラートの頭髪に白いものが混じり、リアが小皺を気にし始めた時であった。ティア変わっていない。成長する事もなければ老いる事も無い。出会った時と同じ姿のまま、出会った時と同じ声で、出会った時と同じ微笑をずっとコンラートに向けている。
もしかしたらティアは不老なのではないか。そんな突拍子も無い妄想が、年を経るごとに現実味をおびていく。そしていつか逃げるように目の前から居なくなるのではと、そんな根拠の無い不安が、コンラートの中で膨らみ続けている。
「まあ、彼女の期待に応えられるよう、王弟殿下にも気張ってもらうとしよう」
「これ以上頑張らせるのかい。どこまで強くなるかねえ」
「王国最強くらいにはなって欲しいものだな」
不安を払うように先を考えるコンラートに、リアとクラウディオも笑って応じる。
しかしコンラートが王弟殿下の指南役になるという未来が、現実になる事は無かった。