そこに在ったのは、たった一つの異常だった。
先ほどまで打ち捨てられた骸のように玉座にもたれていたドルクフォード。老いさらばえ、娘に敗れた無様な王。その王が身動ぎをすると、己の体の調子を確かめるように何度かその手を握る。
様子がおかしい。それは誰の目にも明らかだった。
「……これが力か。イクサ」
そう呟くように言うと、ドルクフォードはゆっくりと立ち上がった。
「そうだ。かつて私が欲し、そしておまえが四十年前に拒絶した力だ」
対するイクサは、それまでの狂人めいた笑いが嘘であったかのように、感情を押し殺した、どこか威厳すら感じさせる真剣な顔で答えた。
「運命を踏破するものに与えられる力。今のおまえならば神すらも打倒できよう。さあ、あらゆるものを切り捨てて進むと良い。汝が真の敵を滅ぼすために!」
己の手を眺め、ドルクフォードはゆっくりと頷いた。そして動いた。
「な……」
地を蹴る様子は無かった。足を前に出す予兆すらなかった。だというのに、ドルクフォードは一瞬にして加速し、常人の目に留まらぬ速さで広間を横切る。
「……かせん!」
だがそれを、コンラートは神速の斧槍の一撃でもって押し止めた。ギンと金属の打ち合う音が広間に鳴り響き、火花が宙を彩る。
コンラートは何とかドルクフォードの歩みを止めながらも、目の前の光景に驚愕した。
とっさの事とはいえ、全力で放った斧槍は打ち負け、弾かれた。踊る火花の向こうには、だらりと二振りの剣を持ったドルクフォードの姿。ようやく気付いたとばかりに向けられた視線に、コンラートは背筋が凍る思いをする。
道端の石ころでも見るような、無情な目だった。かつて騎士の位を剥奪された時にも見なかった、己の存在を否定するかのような冷たい瞳。そしてそれ以上の異常がコンラートを釘付けにした。
ピザン王家の人間特有の、アメジストを思わせる紫紺の瞳が消え失せていた。
赤。コンラートの思い人と同じ、ルビーを思わせる赤色がそこにあった。しかし見慣れたはずのその色の何と不吉な事か。
床を濡らす血よりも赤い。この世にこれ以上鮮やかで、見るものを恐れさせる赤色が存在するのだろうか。
「邪魔だ……コンラート!」
「ぬぅっ!?」
跳ね上げるように、無造作に、ドルクフォードは両手にぶらさげた剣をコンラートへと見舞った。避けられないと判断したコンラートは、叩きつけるように斧槍で迎撃するが、結果はまたしても同じ。斧槍は打ち負け弾かれ、当然のように剣を振りきるドルクフォードの姿が合った。
「ぐっ……」
「去ねい!」
さらに放たれる剣戟を、コンラートは必死に持ち直した斧槍で受け流す。否、受け流す事しかできなかった。
片手で振るっているはずの二刀の、何と重いことか。コンラートほどの怪力をもってしても、油断をすれば持っていかれると確信させる。
一体ドルクフォードに何が起こっているのか。ティアを髣髴とさせる人外の如き動きに続き、コンラートを圧倒する力。キルシュ防衛戦で活躍した十五年前でさえ、これほどの力をドルクフォードは持っていなかったはずだ。
いや。そもそも十五年前の時点で、ドルクフォードは齢五十を越えていたのだ。全盛期よりは衰えていたに違いない。もしかすれば、全盛期のドルクフォードはティアの如き速さと、コンラートに比肩する力を持っていたのかもしれない。
しかし、だとしても、何故今のドルクフォードがその力を発揮できているのか。
「陛下! これ以上何をしようというのですか!?」
「カイザーを殺す。邪魔立てするな!」
ドルクフォードが言うや否や、嵐のような剣戟が襲ってきた。瞬く間に放たれた十をゆうに越える斬撃は、外から見れば壁のような質量をもってコンラートへと襲い掛かる。
それをコンラートは斧槍の矛先で弾き、柄で受けてやり過ごす。しかしとても捌ききれる数では無く、致命傷こそさけたものの幾つかの剣戟が浅くコンラートの体を切り裂いた。
「それは……予言とやらが関係しているのですか!?」
「その通りだ。あの子は世界を滅ぼす。故に殺さねばならぬ!」
「そうならぬよう、見守り、導く道もあるはずです!」
「そうするには、わしの時間はあまりにも短い。わしがあの子にできる事は、殺してやる事だけなのだ!」
身勝手な。そう叫ぶ事もできず、コンラートは再び放たれた剣戟の嵐へと立ち向かう。
しかしそれは何と圧倒的な暴力か。とてもではないが、小回りのきかない斧槍では防ぎきれない。
そう判断したコンラートは、斧槍を捨てて腰の長剣を抜き放った。
「それは下策だ。コンラート!」
ドルクフォードが言い放つ。そしてその言葉の通り、コンラートのとった行動は誤りであった。
「なっ……!?」
キィンと澄んだ音をたてて、長剣は半ばから折れた。切れ味は二の次の、頑丈さだけが取り柄の剣は、ドルクフォードの持つ細身の剣にあっさりと打ち負けたのだ。
剣を失い無防備なコンラート。そしてドルクフォードは、そのコンラートへと無慈悲に打ちかかる。
「――打ち砕いて!」
しかしそこへ救いの手が現れる。それまで二人の戦いを見守っていたツェツイーリエが、横合いから魔術を叩き込んだのだ。
言霊に応えて現れたのは、人一人ならばたやすく飲み込むであろう巨岩。それが隕石を思わせる速度でドルクフォードへと襲い掛かる。
「ぬるい!」
目の前の光景に、コンラートとツェツィーリエは目を疑った。
ドルクフォードに迫る巨岩。しかしドルクフォードが剣を振り上げ、振り下ろしたそれだけで、巨岩は真っ二つに割れて標的の側を素通りしてしまったのだ。
魔術を斬る。いくら何でもありえないにも程がある。
「……カッ!」
「きゃあ!?」
「なっ!?」
そして一瞬にしてツェツィーリエへと接近すると、柄で彼女の頭部を殴りつけた。
力なく地面に崩れ落ちるツェツィーリエ。その姿に肝が冷えたが、どうやら気絶しただけらしい。
だが安堵はできない。一流の魔術師であるツェツィーリエは、常時その体を障壁で鎧っているはずだ。殴られた程度で、昏倒するはずが無い。
「……この剣は今では伝説となったドワーフの手によって鍛えられ、我が友にして最高の神官ロドリーゴによって祝福儀礼を施された、現存最強の聖剣。例え魔術師であろうとも、この聖剣ある限りわしは殺せぬ」
ああ確かに。昔まだ小間使いとして城に居た時に、そんな話を聞かされた事があった。
子供相手の戯れだと思っていたのだが、まさか本当だったとは。なるほど我らが王は、思っていた以上に「英雄」だったらしい。
「そしてその槍も、現存する中では最高位の魔槍だ。どこで手に入れたのかは知らぬが、手放したのは失策であったな」
驚く事に、コンラートが先ほどまで振るっていた斧槍も、ただの斧槍では無かったらしい。一体ティアはどこからそんなものを持ってきたのやら。本当に謎だらけの女性だ。
「さて、おぬしの負けだコンラート。敗者は道を開けよ」
「……まだ負けてはおりませぬ」
言ってコンラートは折れた剣を構え、魔槍を拾う隙を窺う。
「……そうか」
だがあっさりと、ドルクフォードはコンラートの内へと踏み入った。
「……が……ふ」
「気付いておらなんだか。己の体がいつもより動く事に。魔槍の補助が無ければ、おぬしはわしと打ち合うことすらできぬ」
気づかぬ内に、ドルクフォードの聖剣が鎧の覆っていない腹部を貫いていた。
なるほど。イクサの使い魔の動きがやけによく見えたり、ドルクフォードの人外めいた動きを見切れたりと、やけに冴えているとは思っていたが、まさか魔槍のおかげだったとは。
「私は……いつも……肝心な所で足りませぬな……」
「……眠れ、コンラート。ここからの戦いに、供は要らぬ」
そう言うと、ゆっくりと聖剣が腹から引き抜かれた。
・
・
・
「……クソッ!」
苦戦するコンラートを見て思わず漏れた弱音に、クロエは内で己を罵倒した。
コンラートを守ると誓いながら、まったく守れてなどいない。傷付いた人々を助けたくとも、己の治癒魔術では足りない。
もし騎士たちを見捨てて参戦したとしても、その時はイクサが動くだろう。イクサと自分では、いくらやりあってもあいこで終わりだ。現状を打破するには至らない。
治癒魔術を苦手とする。神官としては致命的とすら言えるその欠点を、クロエは類稀な結界の腕と格闘術で補ってきた。だがそんなものは、今は毛ほどにも必要とされていない。
何故自分はいつも足りないのだろう。いくら頑張っても、必要とされるものは手に入らない。他人の力を借りなければ歩く事すらままならない。
いっそ才など無ければよかった。そうすれば、夢の残骸を抱えて平凡な生を送れただろう。
だがそうするには、クロエは賢しすぎ、弱すぎて、頑固だった。
今更変える道など己には無い。歩みを止める事など、最初から許されていない。
やるしかない。例え無理だと分かっていても、道理を蹴倒して進むしかない。
「……随分とはりつめた顔をしているな」
不意に聞こえて来た声に、クロエはハッとして視線を向けた。
「子供の内は、もっと気楽に生きた方が良い。失敗した責任など、大人がとるものだ」
意識を失っていたはずのゾフィーが、仰向けに倒れたままクロエを見つめていた。しかしその発言に、思わずクロエはムッとしてしまう。
「私はもう十五です。そうでなくとも、神官として認められ、司教に任命された責任がある」
「カイザーの一つ上か。あの子に見習わせたい勤勉さだな。上辺だけで、あの子は本質が暢気すぎる」
確かに。そう思いクロエは一連の騒動に巻き込まれるきっかけとなった少年を思う。
あのお気楽王子の事だから、今頃面倒事は他人に押し付けて、自分は紅茶を片手に甘味を貪っている事だろう。そう考えると、友人と認めていても腹が立ってくる。
「……貴女が王になったならば、カイザー殿下には地獄すら生温い激務をお与えください」
「そのつもりだ。手綱をよく握っておかないと、うちの男共は揃って働かぬ。……ヴィルヘルム兄様は別だが、あの人は別の部分に問題がありすぎる」
そう言って笑うゾフィーだが、その顔には少なからぬ苦悶が混じっていた。怪我の度合いを考えれば、話しているだけでも苦痛だろう。
「単刀直入に聞く。私は助かるか?」
「……人間内臓が一つ二つ無くても生きていけます」
「……そうか」
要は内臓を一つ二つは諦めろという事だろう。どこが駄目なのかは分からないが、クロエの思いつめた顔からして軽いものではあるまい。
「……クライン司教だったか。一つ頼みがある」
そう言うと、ゾフィーは一振りの剣を手繰り寄せた。
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ざあざあと音がする。
雨か、波か、それとも風に揺れて擦れ合う木の葉の音だろうか。ざあざあと寄せては引いていく音は、次第に遠くなっている気がする。
ふと己が己である事に気付いた。
自身の手すら見えない闇の中、ぽつんと一人立っている自分が居た。
ここは何処だろうか。こんな所で立ち止まっている暇は無い。早く行かなければ。
――何処に?
浮かんだ疑問は、己の存在を揺るがす毒であった。
何処へ行けばいい。何をすればいい。何を成せばいい。
――どうせいつかは死んでしまうのに。
「……おれは」
己の名を呼ぼう。己の道を思い返そう。
そうすれば、見えてくる道があるはずだ。
そう誰かが言った気がした。
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コンラートという男の最初の記憶は時計塔だった。
山奥の、寂れた村には不似合いな、首が痛くなるほど見上げてようやく頂上の見える、石造りの時計塔。それを眺めながら、農具の手入れを手伝っていたのが最初の記憶。
コンラートに親は居ない。ふらりと村に現れた男が、知り合いだという村の老婆に頼んで置いていった、何処の子とも知れぬ孤児。その事をコンラートは不幸だと思った事は無いし、己を捨てたのであろう親を恨んだ事も無い。
村の人々は純朴で、優しかった。年老いた老婆には子供の世話はきつかろうと、皆でコンラートの世話を焼き、生きる術を教えた。
元々寂れた村には大人しか居らず、一番若い隣人の青年も三十を越えていた。だからコンラートは、村の皆から可愛がられ、期待された。
痩せた土地しかない村ではろくな作物が取れず、日々の糧は痩せた土地でも育つ味気無い豆と、時折大人たちが狩ってくる兎や鹿といった肉であった。
コンラートは幼い頃から弓を引き、罠のはり方を覚えて村のために働いた。幼いコンラートは獣の気配を気取るのが上手く、すぐさま村一番の狩人となった。そんなコンラートを見て、大人達はこの子は森の妖精から授けられたに違いないと言い、コンラートもその言葉をまんざらでも無い思いで聞いていた。
しかしそんな日々を、炎が焼き尽くした。
リカムとキルシュの戦争が始まって間も無い頃、村をリカムの兵たちが襲った。
どうやら傭兵、しかも敗残兵であったらしい彼らは村を襲い、略奪し、それだけではあきたらず火をつけた。
逃げ惑う人々は嗜虐の笑みを浮かべた傭兵達に殺され、立ち向かった男たちも皆殺された。
幼いコンラートは、その時には大人と遜色無い体格となっていたが、相手は戦いの専門家であり、何より数で勝った。
手斧を片手に傭兵達に襲い掛かったコンラートは、二、三人の傭兵を殴り倒したところで、あっさりと切り伏せられて地に伏せた。
コンラートの記憶はそこで途切れている。次に目覚めたときには、コンラートは見た事も無い真っ白なシーツに包まれて、これまた触った事のない柔らかなベッドの上で寝かされていた。
周囲の人に話を聞けば、どうやらそこはピザン王国の王都シュヴァーンの修道院らしい。何やらやたらと気をつかって説明してくれる神官にコンラートは首を傾げたが、しばらくして自分を助けたという人が現れて神官の挙動不審ぶりは最高潮に達した。
「ふむ。目が覚めたか」
現れたのは、赤い髪に口髭を生やした初老の男だった。どうやら偉い人らしく、着ているものの生地は上等なもので、穏やかな態度の中にも気品のようなものが感じられた。
「すまなかったな。もう少し早く行ければ、村の他の者達も助けられたかもしれんのだが」
そう言って謝る男を、コンラートはただぼうっと見ていた。
「折角助けたのだ。生活の目処が立つまでは私が面倒を見よう。その先どうするかは、ゆっくりと考えると良い」
そう言って去っていった男が、この国の王子様だと知ったのはそれからすぐの事だった。
王子様の割には老けてるな。コンラートが最初に思ったのはそんな事だった。
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生家は代々続く騎士の家系だった。だがそれをありがたいと思った事は一度も無いし、貴族の義務とやらには辟易していた。
俺は頭はそれほど回るわけではなかったが、こと戦いに関しては天賦の才を天から与えられたらしい。同年代の子供の剣など止まって見えたし、国一番の騎士とやらの剣も、体が追いつけば避けられそうだなと、子供ながらなめた事を考えていた。
しかしその武を誇る機会には恵まれなかった。
初めての試合。父が俺に命じたのは「わざと負けろ」という一言だった。
相手は父の上司の子。恥をかかせるわけにはいかないと、己の子供に親の都合を押し付けた。
結論から言うと、俺は負けてなどやらなかった。
結果俺は父に意識を失うほどボコボコに殴られ、他の貴族から白い目で見られることとなった。慣習を守れない愚物。そんな所らしい。
それから俺は腐った。生魚もビックリな速度で腐り果てた。
強くなろうと努力しても、その成果を見せてはならないとなれば、何のために強くなれというのか。もし戦になったとしても、俺はあんな理解不能な連中と轡を並べ、越え太った無能な王様のために戦わなければならないのだ。そこにどんな栄光があるというのか。
そうやって腐ったまま大人になり、妹が正式に家を継ぐ事になると、俺への嘲笑は強まった。
それでも良かった。妹は真面目で頑固な所があったが、俺と違って我慢すべき所は我慢できる「大人」だった。面倒臭い立場を押し付けた申し訳なさはあったが、俺にはできないことだと言い訳した。
そしてその戦は起こった。
悪魔と契約した狂王が、世界を相手に戦争をしかけた。各国は愚かな王を誅伐せんと、一斉に兵を差し向けた。
結果は惨敗。魔王と化した王の配下たる魔物たちに、軍はことごとく敗れ去った。
そして凡愚な俺は最前線に向けられた。皮肉な事に性根が腐っても才は腐らなかったらしく、俺は戦いの中で戦技を磨き、生き残った。最前線の、壊滅した部隊の中で生き残ったのだ。
そんな絶望的な状況の中だった。
あいつと出会ったのは。
……って、オイ。
これはおまえじゃ無くて俺の記憶じゃねえか。
・
・
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誰かに呼ばれて、コンラートは我に帰った。
そして惑う。己は一体誰なのかと。
「まったく。あっさり死にかけるからそんな事になんだよ」
誰も居ないはずの闇の中、誰かの声がした。
振り向けば、一人の男が居た。赤い髪に紫紺の瞳。甲冑を身に纏い装飾の施された剣をぶら下げた、誰かに似た騎士。
「貴方……は?」
「誰だって? 俺と違ってそれなりに頭回るんだから、気付いてんじゃねえのか?」
そう言って騎士は不適に笑った。
確かに、予想はついている。しかしそれはありえない。ありえてはならないのだ。
「それは置いといて。何気ぃ失ってんだおまえは。このままあいつを行かせる気か」
「……しかし」
「気を張れ。落ちる意識を根性で無理矢理繋ぎとめろ。最期にトチ狂ったが、良い王様だったんだろう? だったら止めてやらねえと駄目だ」
言い聞かせるように、羨むように騎士は言う。
「ほら、構えろ。『俺たちの剣』が来るぜ」
そう言うと、赤い騎士はコンラートの背をトンと押した。
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・
「コンラートさん!」
聞き慣れた、中性的な声がコンラートの意識を引き戻した。
同時にコンラートは折れた剣を捨て、右手を無造作に、確信を持って伸ばす。
飛来するのはS字型の鍔のついた、幅広の剣。クロエが投げたその剣は、まるで最初からそこにあるのが正しかったかのように、コンラートの手の中へと吸い寄せられた。
「その剣は!?」
正面に立つドルクフォードの顔が驚愕に染まる。しかしそれも一瞬。死に損ないにトドメをささんと、嵐の如き剣戟の群が襲い掛かる。
「ふぅ――」
その剣戟をコンラートは見据える。
見えている。先ほどまで壁にしか見えなかったその剣戟の一つ一つが見える。
故に、打ち払う事も不可能では無い。
「――ハアッ!」
剣を振るう。上から、横から、下から襲い掛かる剣戟に合わせて、我武者羅に剣を振る。
「なッ……ぬぅ!?」
驚愕は一瞬。すぐに冷静さを取り戻したドルクフォードが距離を取る。
だが行かせない。これ以上はやらせない。
コンラートは右手に剣を握り締め、己が全力でをもって駆けた。
貫かれたはずの腹に力がこもる。腹だけでは無い。右手に握り締めた剣を通して、全身に燃えるような力が漲るのを感じる。
まるで剣に宿る英霊たちが力を貸してくれているように、コンラートはこの瞬間人を越えた者と並び立った。
「オオオオォォォォッ!!」
雄叫びを上げながら追いすがり、コンラートは剣を振り下ろす。
ドルクフォードの聖剣がそれを阻む。しかし聖剣はコンラートの剣に打ち負け、高い音を立てて地に転がった。
・
・
・
――静寂。
広間は沈黙に満たされ、ただ息をつくコンラートだけが音を発しているようだった。
「……その剣が、何故ここにある?」
静寂の中、ドルクフォードがコンラートの手の中を見て言った。
「……この剣は、カイザー殿下から託されたものです」
「そうか。このような形で、わしを越えるか……カイザー」
コンラートの答えに、ドルクフォードはふっと息をついた。
その体を走る傷は深い。どうあっても、助かることは無いだろう。
「前言を撤回しよう。その剣は騎士の剣。持ち主が公正にして高潔なる騎士である限り、折れる事も欠けることも無い……神話の時代から受け継がれた、現存最高の聖剣」
「これが……」
「おぬしがその聖剣の主となるか。なるほど、因果とはかくも……」
「陛下!?」
膝をついたドルクフォードにコンラートは駆け寄る。しかしドルクフォードは片手を上げてそれを制した。
「他の剣ならばまだしも、その剣で斬られたならば我が身を滅ぼすのに余りある。口惜しい。カイザーの事だけが心残りだったというのに」
「……私が居ります」
コンラートの言葉に、ドルクフォードはゆっくりと顔を上げる。
「私だけでありませぬ。陛下にはゾフィー殿下。クラウディオ殿下とヴィルヘルム閣下。優秀なお子が三人も居られるではありませぬか。カイザー殿下一人、卸しきれぬはずがない」
「……そうか。そうであったな。老いては子に従え。ただそれだけの事であった」
何を一人から回っていたのかと、ドルクフォードは笑う。
「しかし人とは欲張りよな。カイザー以外にも、もう一つ心残りがあることに気付いた」
「何か?」
「親馬鹿と言われるかも知れぬが、どんなに優秀でも親は子が心配なのだ。我が子らは、これからの世を生きぬけるであろうか」
言いながら、ドルクフォードは視線をコンラートへと向ける。それでけで言いたい事を察したコンラートは、膝をつき笑って言った。
「私がお支えします。私だけでなく、この国は多くの臣下に恵まれております」
「……そうさな。アルムスターの倅たちは先が楽しみであるし、クレヴィングもここぞという所で目を開きおった。ローエンシュタインはちと心配ではあるが、デンケン候が居ればそう悪い事にはなるまい。まこと頼りになる者たちばかりだ」
そこまで言うと、ドルクフォードはジッとコンラートを見つめる。
「その中でも、わしが最も頼りとした騎士がおぬしだった」
「陛下……?」
ふとコンラートは異常に気付いた。
ドルクフォードの体が透けていく。まるで氷が水に溶けていくように、徐々にその姿は薄くなっていく。
「陛下!?」
「うろたえるな。これが堕ちた者の末路。死体など遺す意味も無い」
「イクサですか? やつが陛下の体を!?」
コンラートの言葉に、ドルクフォードは首を振った。
「アンデッドになぞ、死んでもなってやるものか。――命限りある者、その何と愚かな事か。だが限りあるからこそ命は尊い。限りあるからこそ人は足掻く」
「父上……」
いつの間にか、ゾフィーがコンラートの隣に立っていた。傷付いた体に息をきらせながら、父の最期に目を揺らがせている。
「ゾフィー……わしは王としては無難にやってきたつもりだが、果たして父として良い親であったのか」
「……他の誰かが父ならば、私はこれほど自由に生きられませんでした。貴方は最高の王であり、自慢の父です」
その言葉を聞いて、ドルクフォードはくしゃりと顔を歪めて笑った。
「ハハ……自由か。やはりまだまだ視野が狭い。世界は広く、多くの驚きに満ちている。この広大な大陸ですら、世界の一部でしかない。その一部を見る事ができたのは、わしの人生の宝だ」
それはかつて世界を旅した探求王の本心だろう。男なら、男でなくとも冒険に憧れるもの。それをこの老人は成し、紆余曲折の果てに王となった。
「王になど……なるものでは無い。……可愛い娘よ。もしも許されるのならば……王では無く人として……」
それは王としてでは無く、父としての願い。
娘へ叶わぬ願いを告げながら、探求王はこの世から姿を消した。