世界が滅ぶ。
おとぎ話でしか聞かないようなその危機は、実のところ幾度も世界を襲っている。
五百年以上にも渡り戦乱が続き、女神教会も影響力を発揮できない西大陸。そこでは邪神や悪魔を崇拝する邪教徒たちが暗躍し、幾度も彼らの信仰する魔を現世に呼び出さんと儀式を繰り返している。
遊牧民族が暮らし、大きな争いもなく平穏そのものの東大陸。その東大陸を東西に分断する黄泉の翼と呼ばれる断層は、七百年ほど前に邪神が蘇りかけた際の傷痕だという。
そしてほんの数ヶ月前。南大陸はジレント共和国とカンタバイレ王国の国境にまたがる沈黙の森にて、神殺しの神具を巡り一組の兄弟が殺し合うという事態を女神教会並びに魔法ギルドが確認している。
世界の危機は常にある。ならば何故それは今まで現実のものとならなかったのだろうか。
闇があれば光がある。悪を行う者がいれば正義を成す者が居る。
いつの時代、どんな場所にも、悪が蔓延ればそれを滅する勇者は現れる。そして彼らは、決して偶然その場に誕生するわけではない。
調停者。
神の使徒であるとされる彼らは、賢者や預言者として勇者に道を示し、時に様々な形で力を与える。
世界が悪へと傾かぬよう働きかける、天秤の計り手。道に惑う人々を導く世界の牧者。
だか一部の高位の魔術師、神官は彼らをこう呼ぶ。
――運命に縛られし者、と。
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「カイザーが世界を滅ぼす?」
訝しげな声はゾフィーのもの。彼女だけではない。後ろに並び立つ騎士たちもまた、揃って戸惑いの色を浮かべていた。
その様子を見てドルクフォードはククと小さな笑いを漏らす。
「信じられぬか」
「……はい。むしろ父上の正気を改めて疑っています」
気遣いも何もない娘の言葉に、今度こそドルクフォードは声をあげて笑う。その姿に人がよく聡明な王の面影はない。
狂気。それがドルクフォードを蝕んでいるのは明らかであった。
「そうだろうとも。誰も、信じまい。だからわしはここまで追いつめられた。
――命限りある者。そのなんと愚かなことか」
唐突に紡がれた言葉。聞き覚えのあるそれに、ゾフィーはまゆをひそめる。
「それは」
「歌劇に登場する妖精の言葉じゃが、なるほど限りある命はわしを愚かにした。
わしは恐い。わしが死ねば誰もカイザーを本心から疑わぬだろう。残り少ない生の中で、己の使命を受け継ぐ者の居ないこの焦燥。未だ若いぬしらには分かるまい」
ゾフィーは言葉に詰まる。未来など、運命など変えてみせると今のゾフィーならば豪語できる。十年後、二十年後に多くの経験を積み、現実という重みを理解しても言い切る自信はある。
しかし、死の間際に希望の欠片も掴めない状態で、己の手の届かない未来に希望を抱けるだろうか。
「……そも、カイザーが世界を滅ぼすというのが馬鹿げています。あの子にそんな力があるはずが無い」
「ハッ、果たしてそうかな。わしはあの子が恐ろしくてたまらないぞ」
ククと笑いながら、王は言う。
そして徐に立ち上がる。話は終わったとばかりに、どこからか取り出した二振りの剣を手に、玉座から降りてくる。
「ゾフィーよ。なるほどわしは狂うておるのかもしれぬ。だが止められぬ。この狂気を止めるには、もはやカイザーを殺すより他に無いのだ。あの子を殺さねば、わしは安らかに眠ることすらできぬ」
そして現れる黒騎士たち。王の影から、柱の影から、黒い絵具が染み出すように滲み出でる。
「アンデッド。父上、やはりあなたはリカムに……イクサに国を売ったのですか!?」
「それで世界を救えるならば、わしは祖国を質に出そう」
「黙れ! もはやあなたは王ではない!」
激昂し、ゾフィーは剣を抜いた。
「全員抜刀! 死に損ないどもを駆逐せよ!」
「了解!」
主の命を受け、それまで事の成り行きを見守っていた騎士たちがゾフィーに並び立つ。
「父上。あなたの狂気はここで止める!」
ゾフィーが叫ぶと同時、広間を風が支配した。
原因はドルクフォードへ向けて駆け出したゾフィー。地がはぜたのかと思わせる勢いで走り出した彼女は、そのまま空間を切り裂きドルクフォードへと肉迫する。
風すらも後に従う刹那の進撃。それにドルクフォードは、老いた英雄は、当然のように反応してみせる。
しかし疾風の一撃は、守りを容易く凌駕した。
「ぐぬぅっ!?」
苦悶の声を漏らしたのはドルクフォード。防いだはずの剣戟は、ドルクフォードの剣を押し返し、体はぬいつけられたかのように地面へと固定される。
「ハアッ!」
「ぬぅ!?」
動きを封じられたドルクフォード。そこへゾフィーは容赦なく追撃を加えていく。
それにドルクフォードは遅れることなく反応してみせる。しかしその体はやはり老いたもの。重すぎる一撃に体が圧され、徐々に崩れていく体勢。
「おのれ!」
しかし探求王の名は伊達ではない。左の剣で攻撃をいなしながらの右の連撃。二剣を使ってのお手本のように研ぎ澄まされた技術がゾフィーを襲う。
「遅い!」
だが相手は探求王の娘。老獪なる王の技巧の結晶ともいえる一撃を、魔力で強化された力と速さで打ち落とす。
「ぬはぁ!?」
そして攻めも守りも突破したゾフィーの剣が、老いた王の体を玉座の下まで吹き飛ばす。誰の目から見ても、勝敗の行く末は明らかであった。
「もはやあなたは私一人すら卸しえない。……認めてください、父上。」
命じるような、懇願するような、様々な思いののった言葉だった。
ゾフィーにとって父は全てにおいて完璧な人だった。王として、人として、父として、尊敬の念を抱かない方がおかしい英雄だった。そんな父が、自分のような小娘に膝を屈している。
自分などに負けないでほしかった。
最後まで完璧な王で居てほしかった。
勝手な願いとはいえ、ゾフィーは父の姿に失望せずにいられなかった。
「……やっぱり強すぎる」
一方カールはドルクフォードを容易く圧倒したゾフィーに、改めて畏敬の念を強めていた。
師であるコンラートも底の見えない強さであったが、カールは彼が本気で戦うところを見たことがない。果たして全力ならばどちらの方が強いのか。
ありえない妄想を、顔に出さず内心で笑う。コンラートとゾフィーが全力で戦うことなどまずないだろう。コンラートは既にゾフィーに剣を捧げることを誓っているのだから。
王が屈し、呼び出された四体のアンデッドも数に押されて倒れ始めた。カールが出しゃばらずとも、戦いはそう経たない内に終わるだろう。
戦いは呆気なく終わった。
そして始まったのは、一方的な蹂躙であった。
「え?」
黒い影が視界を横切った。
沼の底からさらいだしてきた泥のようなそれは、尾を引きながら鳥のように中空を飛び回っている。その影がカールの体をすり抜けた。
「うわ!?」
突然のそれに反応すらできず、遅れてカールは自分の体を確認する。しかし行動を起こす前に、カールは膝から崩れ落ちた。
「あ……?」
自分の足を見下ろして、カールは間の抜けた声を漏らした。
崩れ落ちた膝は、そこから先が無かった。足甲は万力で挟まれたみたいにひしゃげていて、その中身はもっと酷い。
裂けた肉は潰れた柘榴みたいで、突き出した骨はささくれだった枝のよう。獣だってもう少し上品に食いちぎるだろう。そう思わせるほどぐちゃぐちゃだった。
「あ……ぎぃ、ああああーーーー!?」
そんな惨状を目のあたりにして、ようやく気づいたみたいに痛みが押し寄せてきた。
痛い。痛くてたまらない。なのにその痛みが強すぎて、どこが痛いのかすら分からない。
「き゛ゃああ!?」
「腕が!? う、腕ーーーー!?」
気づけば広間は血に染まっていた。先ほどまでアンデッドを駆逐していた盛強な騎士たちが、手足を失い人形みたいに転がっている。
しかしそんな血の海の中に立つ人影を見つけ、カールは涙で濡れた視界でそれを見た。
「……」
剣を構え、ゾフィーが一人影と対峙していた。襲いかかる影を剣で打ち落とし、払い、避けている。
なすすべもなく倒れた騎士たちを思ってか、歯を食いしばりながら、ゾフィーは影に向けて剣を振り続ける。
何でそんなわけのわからないものに立ち向かってるんですか。
普通逃げるでしょ。
もういいから逃げてください。
そう言いたいのに、口から漏れるのは意味をなさない呻きだけ。
痛みで流れた涙に悔しさが混じる。
幾度打ち合ったのか、ゾフィーの剣が甲高い悲鳴みたいな音をたてる。限界を越えた剣は根元から折れて弾き飛ばされ、ゾフィーを守る盾が無くなる。
だがそれでもゾフィーは諦めなかった。折れた剣を捨て、体勢を低くすると襲いかかる影を避ける。
避ける避ける避ける避ける避ける。
牛を手玉にとるマタドールのように、紙一重で影の突進から逃れ続ける。
しかし限界はすぐにきた。もとより甲冑を着た状態で、燕を思わせる影を避け続けたのが異常だったのだ。
壁際に追い込まれ、体勢を崩し、身動きがとれなくなったところで、ゾフィーの体を影が貫く。悲鳴もあげずに、ゾフィーは穴の空いた自らの体を押さえながら倒れた。
「ゾフィー様!?」
瞬間、役目を放棄していた喉が叫びをあげていた。
何かを考える前に、無事な腕を使って血の海の中を這っていた。
足が無い? それがどうした。
ゾフィーは体のど真ん中を抉られたのだ。どう考えたって致命傷だ。
早く、早く助けなければ。足なんてくれてやる。だから、だから何としてもゾフィー様を。
「……ほう。新兵が、恐慌をおこして当然の状況で、自らの命より主を案じるか」
聞こえてきた声に、カールは体が鉛のように重くなるのを感じた。
カールだけではない。広間全体が海の底にでも沈んだみたいに、圧迫と息苦しさを感じさせる。
「まるであの時の小僧のようではないか。クカッ。つまらぬ童を弟子にとったと思うていたが、なるほど見る目がないのはわしの方であったか」
知っている。知らないけど知っている。
カールは知らない。知っているはずがない。
だけどまともな人間なら本能で知っている。
――この男が悪であると。
「だがな童。無茶無理無謀で他者を救えるのは、英雄だけだ。おまえには何も救えぬよ。わしが手を振るだけで、貴様は蟻のように潰れて死ぬのだから。クカカカカカッ!」
そう笑いながら、声は影を振り下ろした。