ツェツィーリエ・ケルルという少女にとって、母は世界だった。
ただ一人の肉親であり、常に笑顔で支えてくれた母が、ツェツィーリエは大好きだった。
そんな母の口から「ぼっちゃん」とやらの話題が上るようになったのは、ツェツィーリエの歳が七になるより少し前。
「背は私より高いけど、やっぱりまだ子供だねぇ。伯爵様との稽古の後は、泣くんじゃないかと心配になるよ」
だけどきっと将来大物になるよ。
そういって締めくくられる母の話を、ツェツィーリエは半ば呆れて聞いていた。
なるほど貴族の後ろ盾のある子供なら、出世は有利になるだろう。しかしせいぜい兵士長止まり。大物にはまだ遠い。
母の言う「ぼっちゃん」とは違い、子供らしくない子供であったツェツィーリエは、そう考え母の言を大袈裟だと切り捨てた。
しかしそんなツェツィーリエの予想は、数年の後には裏切られることになる。
敵の突撃を単騎で止めた。
不死であるはずのアンデッドを、容易く行動不能に追い込んだ。
王を守るため無謀な殿をつとめ、イクサ・レイブンと対峙しながらも生き残った。
敵国の将ユーリー・ウォルコフと一騎打ちを行い勝利した。
次々と届けられる報は「ぼっちゃん」が確かに大物であった事を伝えていた。
そしてついには騎士にまで任じられた「ぼっちゃん」に、ツェツィーリエはいつしか羨望を抱くようになる。
母の見立ては正しかったのだと、それだけの事が誇らしかった。
しかし「ぼっちゃん」の凱旋を待たずして、ツェツィーリエは母に連れられて逃げるようにピザンを後にした。
数年後母が死に、わけありにも程がある義妹を育てる事になると、ツェツィーリエは「ぼっちゃん」の事を思い返す余裕すら無くなった。
働きながらも自己錬磨を怠らず、義妹には母がそうしてくれたように愛情をそそいだ。
魔力さえあれば無茶のできる魔術師でなければ、ツェツィーリエは過労で倒れていただろう。
そうして十年以上の時が過ぎ、ジレントの魔術師として生きることに馴染んだ頃に、その噂は大陸を駆け巡った。
白騎士コンラートが騎士の位を剥奪され、ピザンから姿を消した。
最初に浮かんだのは何故という疑問で、次いで沸き上がったのは怒り。
何故英雄とまで呼ばれた彼が、そのような不名誉な烙印を押されねばならないのか。
魔法ギルドの伝手を使い、ツェツィーリエはコンラートの情報を求め続けた。しかし不自然なほどにコンラートの情報は少なく、ピザン王都を離れて以降の足取りは掴めなかった。
そうして数ヶ月が過ぎたときに、それは起こった。
ランライミアに溢れ出た魔物たち。書物でしか見たことのない異形たちが、街を蹂躙した。
そしてさらに現れたのは、小山ほどはあろうかという雷竜。誰もが恐慌し、逃げ惑い、絶望した。
しかしそんな中で雷竜に挑みかかる人影をツェツィーリエは見た。
一人は何度か見かけたことのある、リーメス二十七将の一人「鉄拳」ロッド・バンス。
隣に立つのは、巨漢のロッドが小さく見えるほど長身の戦士。
彼こそがコンラートに違いないと、ツェツィーリエは直感的に理解した。
そして彼は雷竜を殴り飛ばし、魔女の援護があったとは言え、トドメまでさしてみせた。
英雄。彼は確かに英雄に違いないとツェツィーリエは思った。
そして確信した。彼こそが義妹を救ってくれる、赤い騎士の再来だと。
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「蒼槍騎士団を単騎で……さすがコンラート様です」
ピザン王都シュバーンの南に広がる森の中、ツェツィーリエは彼方で繰り広げられる戦の様子を見ながら、つぶやくように言った。
「私としては、この距離で正確に蒼槍騎士団だけ吹き飛ばした貴女も凄いと思いますけど」
呆れたような声に振り返れば、そこには幼さの残る神官――クロエが居た。
「魔力操作には自信があります。クロエ司教には及ばないと思いますが」
「……私は攻撃系は苦手ですから、比べようがありませんよ」
ツェツィーリエの背が女性にしては高いこともあり、自然クロエを見下ろす形になる。
一見無愛想なその顔を、よくよく見てみれば拗ねたようであり、なるほど義妹と同い年というのは本当らしいと今更ながらに納得する。
「改めてお礼を。貴方の助けがなければ、コンラート様には追いつけなかったはずです」
「……もののついでです。私自身は確信が持てるまで、内乱に手を出すなんて事はできませんから……」
「だから私を利用した。という事にしておきましょうか」
ツェツィーリエの言葉に、クロエはますます眉間のしわを深くする。
ツェツィーリエはクロエを噂程度でしか知らないが、少し話を交わしただけでその性格を大体把握していた。
神官であり、深い信仰心と高いモラルを持ちながら、どこか悪ぶった言動が見られる。
要するに反抗期なのだろう。なまじ深い知識と高い知性を有するために、感情的に振る舞うことを良しとせず、皮肉めいた言葉でごまかしている。
その境遇からは考えられないほど天真爛漫なモニカとは、正反対と言って良い。正反対故に、会わせてやれば案外仲良くなるかもしれない。
もっとも神官であるクロエにモニカに会わせるのは、現時点ではリスクが高すぎる故に実現しないだろうが。
「雑談はここまでにしましょう。コンラートさんが城に突入しついきます……また単騎で」
クロエに言われてツェツィーリエが視線を木々の向こうへやると、そこにはまたしても常識外れな光景が繰り広げられていた。
巨馬が攻城兵器を足場にして跳躍し、さらにコンラートがその背を蹴って城壁の上へと登ってしまう。
当然守勢の兵が殺到したが、斧槍の一振りで十人ほどが木の葉のように吹き飛ばされ、誰も近づこうとしなくなってしまった。
「私たちも行きましょうか。転移はできますか?」
「お送りはしますけど、私は行きませんよ。この戦いがただの内乱でないという確証が無い限り、立場上手出しはできない」
「なるほど。相変わらずぬるいですねぇ」
「!?」
不意に聞こえてきた第三者の声。
それに二人が振り返る前に、近くにあった木々が爆ぜた。
同時に咲いたのは炎の花。それは瞬く間に木々や草花に燃え移り、最初に飛び散った木片が地面に落ちる頃には、森は炎の海に飲まれ蹂躙されつくしていた。
「我ながら見事な炎ですねぇ。ですが、詠唱を破棄した半端な魔術では足りない。そうでしょう司教?」
燃え盛る炎を従えて現れたのは、ピザンの魔術師デニス。確信を持って語りかける口元には、軽薄な笑みが浮かんでいる。
「――地を穿ち、駆け抜けよ!」
「――不可視の盾よ」
返答は女の声と、地面を突き破って現れた石の槍だった。人の胴ほどの太さのある石槍は、解き放たれた矢のようにデニスを強襲したが、顕現した魔力の盾に阻まれ砕け散った。
「……無粋。私たちの宿縁を、二流魔術師が踏み荒らすとは」
「文字通り横やりをいれたのですが、気にいりませんでしたか」
炎の幕が開け、クロエとツェツィーリエが姿を見せる。
背後を守るように杖を横向に構えるクロエ。その後ろから、ツェツィーリエが魔力を受けて鈍く光る鉄杖を突き出していた。
それぞれの顔に、苛立ちと上品な笑みが浮かぶ。
「……そもそも、私とおまえの間には、いかなる縁も存在しない」
「おや、つれないですねぇ。私はあなたの可愛らしい顔が歪む度に、並ならぬ愉悦を覚えているというのに」
デニスが笑い、クロエが苛立ちに歯を剥く。
「おまえはっ!!」
「来なさい。私は此処に、敵は此処に、倒すべき悪は此処に在る。ならばどうだ。どうする貴方は。クロエ・クライン司教!」
「私は女神の盾。誓いは此処に、女神の僕たる私が、悪の尖兵たるおまえを討つ!」
クロエが絡みつく炎を散らすように杖を振り、デニスが蛇のような陰湿な笑みを浮かべて剣を抜き放つ。
二度目の殺し合い。お互いの手を知る故に、はなから全力。加減も油断も無い。
しかしその戦いに、前回とは異なる役者が紛れ込む。
「……ツェツィーリエさん?」
クロエの隣に、あたかもそれが当然の事であるかのように、一人の魔術師が並び立っていた。
「あなたの送迎はここまでです。あとは自力でコンラートさんを助けてください」
「それは重畳。しかしここにあなたを一人残していくつもりはありません」
予期せぬ返答に、クロエは戸惑いツェツィーリエを見上げる。
するとツェツィーリエは、どこか馴染みのある笑みを浮かべて見せた。
「魔女様に、あなたを助けてほしいと頼まれました。見ていないとすぐ無茶をすると」
「……過保護な」
「それが姉というものです」
クスリと笑いを漏らすツェツィーリエに、クロエは疲れたように吐息をつく。
「保護者同伴とは、やはりまだまだ子供」
「黙れ外道に墜ちた魔術師。ツェツィーリエさんが残った時点で、おまえの命運は潰えた」
クロエの宣言に、デニスは眉をひそめた。聞こえる声に今までの激情は無い。しかし込められた殺意は質量を増しており、炎にまかれているというのに背を冷たいものが走った。
「私は女神の盾。仲間と共にある時こそ、私の真価は発揮される。――女神よ。私は求め、訴えます」
「――火の精霊よ、古の契約に従い、我が声に応えよ」
「――土の精霊よ、古の契約に下、我が声に応えよ」
クロエが詠唱を始めると同時に、デニスとツェツィーリエの詠唱が重なり旋律を奏でる。
「――弱者が泣き、強者は笑い、敗者が打ち捨てられ、勝者は謡う。
だけど私は知っています。信じる私と、救いを求める人々を、あなたが決してお見捨てにならない事を!」
「――揺らぐ炎は呵々と笑い、奇禍は渦動し嚥下する。
ほふり奪えその身にて、皆乍に飲み尽くせ!」
「――岩頭は落着し雪崩落ち、奔流となりて蹂躙する。
汝は知る。迫る大過を逃れる術無き事を!」
三者の詠唱が終わると同時、炎の渦が巻き起こり、岩が雪崩のように木々をなぎ倒し、光が周囲を覆い尽くした。