アルベルト・フォン・クレヴィングは、とても慎重でとても臆病な男だ。
彼も最初から今のような性格だったわけでは無い。クレヴィング家はピザンでも有数の力を持つ三公の一つ。その跡取り息子として生を受けた彼が、卑屈でなどあろうはずが無い。
しかし彼の悲劇は、己を知らぬ事にあった。
彼の父は、幼い彼が何かを成すと、どのような事でも大げさに驚き、賞賛して見せた。それは一人息子に自信をつけさせるためだったのだろうが、結果それは良くない方向へと働いた。
己は天才だと、アルベルト少年は信じて疑わなかった。
父が突然亡くなり、公爵家を継がなくてはならなくなったときも、己ならば全て上手くいくに違いないと確信していた。
しかし現実はそれほど甘くなかった。
己の出した政策が、次々と失敗していく事に、クレヴィング公は焦った。そして焦って仕事をする彼に、部下たちは休めと何度も言った。それが「仕事をするな」という意味である事に、それなりに頭が回る彼はすぐに気付いた。
誰しも失敗する事はある。次で挽回すれば良い。実際にそうすればクレヴィング公は自信を取り戻していたかもしれない。しかし父の欺瞞に守られていた彼は、初めての挫折に打ちのめされ、臆病になっていた。
自分は何をやっても上手くいかないのだと、そう考えた。そうして以後クレヴィング公は、仕事を部下に任せ、深い部分に自ら触れようとしなくなった。
適材適所。部下に見合った仕事を回すという意味では、クレヴィング公は領主として及第点を取れる程度にはなっていた。しかしそれでも、失敗を恐れるクレヴィング公は臆病なままだったのである。
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「私は正面から攻めるつもりは無い」
クレヴィング公軍と合流し、軍議を始めるなり、ゾフィーはそう言い放った。
「はあ、王家しか知らない抜け道でもあるんですか?」
長机の前に対面する形で座っている騎士たちが、揃って首を傾げている中、カールは冗談めかしてそう言った。
「よく分かったなカール」
「ってあるんですかい!?」
さらりと答えるゾフィーに、年かさの騎士が驚いたように聞き直す。そんなものがあったとしても、そう簡単に話していいものでは無いだろう。そんな周囲の気持ちに気付いたのか、ゾフィーは一度咳払いをすると、己の考えを話し始める。
「勿論そう簡単に知らせて良いものでは無い。よって私に同行するのは、私が信頼できる数名という事になる」
その言葉に、クレヴィング公と配下の騎士たちは顔をしかめる。
数名での侵入となると、当然危険が伴う。結果ゾフィーが殺害、あるいは捕らえられては意味がない。
さらに信頼できる数名となれば、その判断基準に実力の良し悪しを反映させる事も難しい。危険な賭けとも言えるその作戦を、王女自ら行うのはリスクが高すぎる。
「正面から戦われた方がよろしいのでは?」
「それでは被害が大きくなる。リカムが攻め込んできているというのに、内乱で兵力を損なうのは馬鹿げていよう」
「……左様で」
迷い無く言うゾフィーに、クレヴィング公は何かを諦めたように吐息を漏らした。
この王女殿下は勝つことを前提に、いや勝つことが当然であると確信してさらなる未来を見据えている。それは間違いなくドルクフォード王譲りの気質であり、クレヴィング公には絶対に理解できない剛胆さであった。
「私たちが父上を確保するまでの間、クレヴィング公には正門で敵の陽動をしてもらう。そういう意味では、他の誰でも無いクレヴィング公が来てくれたのは幸いだった」
「恐縮です」
ゾフィーの言葉に、クレヴィング公は苦笑しつつ頭を下げた。
クレヴィング公は、慎重にして臆病な男であると知られている。攻め手を緩めたり、突然兵を引いたりしても、相手方は怖気づいたと思い陽動を疑われにくいだろう。
「しかし問題もあるかと。陛下も当然抜け道を知っているはず。ならばこちらにゾフィー殿下の姿が無ければ、すぐに意図を悟られるかと」
クレヴィング公の指摘に、騎士たちはもっともだと頷く。しかし当のゾフィーはむしろその指摘を待っていたとばかりに、不適な笑みを浮かべて見せた。
「それならば問題無い。出番だアンナ」
「……え?」
椅子に座らず、天幕の隅っこに控えていたアンナが、何のことでしょうとばかりに驚いてみせる。しかし本当はゾフィーの考えを把握しているのだろう。「私驚いてます」と言わんばかりの顔には汗が浮かび、口元は盛大に引きつっていた。
「そこに居るアンナは、もの心つく前からの私の従者であり親友でな。背も私と変わらぬし、カツラでもかぶせておけば遠目には私と区別がつかぬだろう」
「ひ、ひ、ひ、姫様? さ、流石に今回ばかりは、私には荷が重すぎると思うのですけど!?」
アンナの言葉に、その場に居る誰もがそれはそうだと同意した。
背は確かにゾフィーと同じくらいだし、顔つきもよく見てみれば似てなくも無い。
しかしその立ち振る舞いが、あまりにも似ていなかった。こんな挙動不審なゾフィーなど、誰も見た事が無い。
「問題無い。私が誰よりもアンナの事を理解しているように、アンナも私の事を誰よりも理解してくれている。ならば私になりきるなど朝飯前のはずだ!」
「いや、無理でしょ」
何やら握り拳を作って力説するゾフィーに、カールが律儀につっこみをいれる。
「はい! 私以上にゾフィー様を理解している人間など居ません! 必ずやりきって見せます!」
「ああ……できるんだ」
女の子って分からないなあ。
盛り上がる女二人をよそに、天幕の中の騎士たちは無言で心を一つにしていた。
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「大丈夫なんですかねえ」
「それはアンナの事か? それともこちらか?」
「両方ですよ」
カールがそんな事を漏らすと、前を歩いていたゾフィーが苦笑しながら振り向いた。それにつられてカンテラの灯りが揺れ、影法師たちも踊るように揺らぐ。
城内に通じているという洞窟は、屈まなければ進めないほど低く、狭かった。ゾフィー付きの騎士であり、騎士団の最大戦力であるマルティンを連れてこなかったことに納得してしまう。
あの巨体がここを進もうとすれば、間違いなく途中で詰まっていたことだろう。
「先も言ったが、アンナは常に私とともに居た。勉学に付き合わせたし、騎士修行にも付き合わせた。私にできることは、全てとは言わないが大概アンナにもできる。自慢の侍女だ」
それはもはや侍女ではない。そうカールは指摘しそうになるが、ゾフィーの顔を見て止めた。
カンテラの灯りに照らされた顔は、本当に誇らしげであり、曇らせるのは無粋に思えたのだ。
「でも確かに僕も心配ではあります。アンナは能力はありますが、性格的には姫様と逆で大人しい子ですから」
「トムもか。……うむ。一度アンナの本気を見せるべきか」
栗毛の騎士の言葉に、ゾフィーは一人納得し何やら考え始めた。
この王女の事だ。次に飛び出す言葉はこちらを驚かせるものに違いない。
「しかしトーマスさんやルドルフさんたちはともかく、何故僕を連れてきたんですか?」
ふと気になり、カールはゾフィーに問いかけた。
年かさの騎士ルドルフや栗毛の騎士トーマスを始めとした騎士たちは、ゾフィーとそれなりに付き合いが長く、確かな信頼が見て取れた。だがカールはゾフィーに仕える人間の中では新参、騎士としても頭の見習いが取れたばかりのひよっこだ。信頼などあろうはずがない。
「将来有望で実力もある。何よりそなたはあのコンラートの愛弟子だ。信頼しない理由がどこにある?」
あっさりと言うゾフィーにカールは目を瞬かせた。
信頼されていたのも意外だが、その理由に師であるコンラートの名前が出てきたのだ。カールには不意打ちに等しく、金槌で頭を殴られたような気分である。
しかし考えてみれば当然。コンラートの処遇によってカールが不利益を被ったように、カールの評価がコンラートへの評価となるのもまた当然だ。
己が不甲斐ない真似をすれば、コンラートの顔に泥を塗ることになる。今更ながらそれに気づいたカールは、この大役を任された機会、一層奮起せねばと決意を新たにした。
もしこの時ゾフィーがニンマリと笑っているのを見ていれば、カールは己が上手く乗せられた事に気付いただろう。
しかし現時点でも今後もゾフィーの方が何枚も上手であった。
「カールは素直だな。グスタフも、もう少し殊勝な男ならば良かったのだが」
分不相応な野望を持ったことが、あの男の不幸であり限界だろう。
敵対する事となった男を思い、ゾフィーは静に吐息をついた。