アルムスター公と初めて会ったのがいつだったのか、コンラートは覚えていない。
キルシュ防衛戦の折、一人突出したコンラートが、背後から斬られた事がある。何とか致命傷は免れたが、敵は当然手を緩めず、コンラートは死を覚悟した。
そんな時に現れてコンラートを助けたのが、アルムスター公その人であった。
「借りは返したぞ」
そう言って去っていくアルムスター公に、コンラートは困惑するしかなかった。後で聞いた話には、コンラート自身も気づかぬ内にアルムスター公の危機を救った事があったらしい。
しかしそんな記憶の無いコンラートは、むしろ自分が借りを返さなければなるまいと、同じ戦場にアルムスター公が居れば気にするようになっていた。
そうやってコンラートが借りを返したと思えば、今度はアルムスター公が借りができたと思い返そうとする。そんな奇妙なやり取りが続き、やがて二人は歳の離れた友人のような関係になっていた。
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いつかティアと出会った高台へと、コンラートは来ていた。どこぞで草刈でもしているか、濃い草の香りが漂ってくる。
その香りを乗せてくる風は、夏も間近だというのに冷たかった。まだピザンに居た頃にも、春にしては寒いと思っていたのだから、今年は全体的に季節の巡りが遅いのかもしれない。
「わあ、良い風」
傍らで言う声がして、コンラートは視線をそちらへ向ける。
真っ白な布で目隠しをした、黒い髪の少女がそこに居た。髪を染め、その双眸を隠したモニカである。
魔術で髪の色を変えたのでは、魔術に通じた者にはばれるかもしれない。故にコンラートは、故郷の村の老婆から聞いたおぼろげな知識を引っ張り出し、とある植物を用いてモニカの髪を染めた。
常に瞼を閉じていたとしても、何かの拍子に瞳の色を見られるかもしれない。故に布で覆って隠した。
姿を偽るような真似をさせる事に、コンラートは申し訳なくなった。しかし当のモニカは、母が黒髪だったと知ると、お揃いだと言って喜んでいた。もしかしたら、あまりにもコンラートが申し訳無さそうだったので、気を遣ったのかもしれない。
「街の中でも、こんなに精霊の集まる場所があるのね。まるで踊っているみたい」
「そうですか。私にはとんと分かりませぬが」
精霊につられたのか、それこそ踊るような足取りで回ってみせるモニカに、コンラートは自然と笑みを浮かべた。
コンラートには、まったく魔術の才能が無い。そのこと事態を残念に思った事は無いが、目の前の少女と世界を共有できないのは、少しだけ残念かもしれない。
もっとも、モニカほど精霊に好かれる人間もまた珍しいと、ツェツィーリエは言っていたが。
精霊魔術の行使に精霊の力が必要な以上、精霊に好かれるというのはそれだけで才能と言える。もしこのまま目が見えないままでも、モニカはそれを苦としない程の大魔術師となるかもしれない。
「とっ。お嬢様。あまりそちらに近付いては危ない」
「あ……。ごめんなさいコンラート」
崖の側に立てられた柵にぶつかりそうになり、コンラートは慌てて手を伸ばす。するとモニカは驚いたように眉を上げたが、すぐにコンラートの言葉の意味に気付くと、沈んだ声で謝罪する。
「コンラート。何かあったの? 元気が無いみたい」
見上げるように顔を向けてくるモニカに、コンラートは意表をつかれた。目が見えていないはずなのに、その仕種はそれを感じさせない。
「……恩のある方が亡くなりましてな。一度亡くなりかけた所を生き延びたというのに、人の生き死にというのはままなりませぬ」
魔女から貰った薬で生き延びた時間で、アルムスター公は未練を払拭できたのだろうか。死者と話す術が無い以上、それを確かめる事はできない。
ただアルムスター公が生きた時間。彼が稼いでくれた時間を無駄にする事だけは、あってはならないと思う。
「お嬢様。私は一足先にピザンへと戻ります」
「……戦いに行くの?」
不安そうに聞くモニカに、コンラートはふっと笑うと肩膝をついて顔の高さを合わせる。そして彼女の手を包み込むように握ると、なるべく優しい声で言った。
「少し聞き分けの悪い者共を成敗に行くだけです。すぐにお嬢様とツェツィーリエを迎えに参ります」
「……心配です。コンラートは優しいもの。本当は戦いたくないんでしょう?」
モニカの言葉に、コンラートは息を飲む。
己の弱さを、コンラートは他人に漏らした事は無い。それは新兵ならばともかく、コンラートのような古強者ならば、とっくの昔に克服しておくべき葛藤だからだ。
コンラートは復讐のために剣を取り、憎しみの刃で敵を殺した。しかしそんな刃は、あっという間に折れてコンラート自身を傷つける事になった。
初めて殺した相手が、驚愕に目を見開いたまま倒れて動かなくなっていく光景を、コンラートは未だに覚えている。むせ返るような血の臭いを、断末魔の悲鳴を、今でも覚えている。
自分が殺したのは、どこかで生きる人が愛する「誰か」なのかもしれない。
自分が殺した相手にも、大切に思う「誰か」が居たのかもしれない。
自分が故郷の人々を殺され泣き、憎しみを抱いたように、誰かが己の手で殺めた人を思い悲しみ、憎むのだろう。
そんな事に、コンラートは手遅れになってから気付いたのだ。
しかし彼は戦士だった。敵は殺さなければならない。ならばそれに迷う事はあってはならない。
己の迷いが無意味であると知りながら、コンラートはそれを捨てる事ができなかった。それを捨て去るという事は、己の中の一部を捨てるのと同義な気がしたのだ。
そうしてコンラートは迷いを心の奥へと押し込めたまま、戦場に立ち続けた。
「モニカ様。私は騎士です。戦いを恐れ疎んじても、使命のために必ず勝利します」
「でも前にもう騎士じゃ無いって……」
「騎士とは、信仰を胸にあらゆる暴虐に抗い、全ての弱き者の守護者となる者。ならば私は、間違いなく騎士なのでしょう」
己を卑下し、歩き出さない言い訳をするのはやめよう。
騎士では無いと嘯いて、己の性根を曲げて生きるのはやめよう。
「このコンラート、力には勿論幸運にも恵まれております。必ず生きてお嬢様の下へ戻りますとも」
そうコンラートが言い切ると、モニカは安心したように微笑んだ。それを見て、コンラートはこの少女を守るという決意を新たにする。
彼女がマクシミリアンの娘だからというだけでは無い。彼女が襤褸に身を包んだ、浮浪児のような姿で現れたとしても、コンラートはこの娘を守られねばならないという天啓を受けただろう。
かつて赤い騎士は、巫女の側に立つ事よりも、その前を歩く事を選んだ。道を切り開き踏み固める、先駆けの騎士として巫女を守った。
己が赤い騎士の再来であると、自惚れた事を思ってはいない。しかしその真似事程度はできるだろう。伝説とはなれずとも、伝説の先触れとなろう。
コンラート・シュティルフリート。
かつて英雄の一人に数えられた男は、この時自らの意思で英雄となる事を決意した。
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アルベルト・フォン・クレヴィング公が挙兵。ゾフィー王女の支持を表明し、ドルクフォード王へ退陣を迫る。
よく言えば慎重、悪く言えば臆病であったクレヴィング公の突然の宣言に、ピザン諸侯は驚く。
それとほぼ時を同じくして、アルムスター公の死によりその地位を継いだフランツ・フォン・アルムスター公も、ゾフィー王女への支持を表明する。
一度はリカム軍を退けたものの、未だリカム軍との睨み合いが続く彼の側には、他の諸侯や援軍に訪れたクラウディオ王子が居た。彼らもまたその表明を支持し、周囲への圧力を強めていく。
少し遅れて同じくゾフィー王女支持を表明したのは、未だプラッド城にて篭城を続けていたデンケン候とアルダー候であった。
リカムの激しい攻め手の中篭城しているのに、何故情勢を把握しているのかと周囲は疑問に思ったが、プラッド城の秘密を知る一部の者は苦笑したという。
これらに続き、残りの選定候――アングリフ候とインハルト候もゾフィー王女の支持を表明した。王国全体にゾフィー王女を王にと求める気運が高まる。
しかしその中で、未だゾフィー王女支持を表明しない選定候が居た。ローエンシュタイン公爵の位を継いだグスタフ・フォン・ローエンシュタイン公である。
彼がゾフィー王女を支持しなかった理由は、ドルクフォード王への忠義を通した、ゾフィー王女が父を殺したと勘違いした等諸説ある。しかしその内実がどのようなものであったか、公になる事は無かった。
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クレヴィング公の挙兵とそれに続く選定候たちの動きを、ゾフィーは王都へと戻る道すがら聞く事となった。アルムスター公が死に、次に頼りになりそうなデンケン候が篭城の最中にあるため、選定候の動きをあまり気にしていなかったゾフィーは、良い意味で期待を裏切られる事になる。
「大義名分は得た。後は父上がどう動くかだが」
天幕の中で、ゾフィーは集めた騎士たちを前にして言った。
騎士団とは言っても、その全てが騎士の位を持っているわけでは無く、多くは平兵士だ。何とか千名余りを集めたゾフィーの騎士団も、今この場に集められた騎士は十数人に過ぎない。
しかもこのような事態を予想していなかったため、椅子や机も用意できず各々が思い思いの場所に立っているという有様だ。一部の騎士は、落ち着かないのか視線をうろうろと彷徨わせている。
「六人の選定候による退陣要求に、陛下は沈黙を守っています。これに対し選定候たちは実力行使……には出れずに、リカムの進撃を抑えています」
栗色の髪の騎士の説明に、他の騎士から「そりゃそうだ」と合いの手が入る。逆にリカム軍を放置して、王都に向かわれても困る。
「ただクレヴィング公は違いますね。挙兵とほぼ同時に王都へ向けて行軍を開始していますから、下手をすれば我々よりも早く到達するかもしれません」
「それはありがたいな。できればこちらと足並みを揃えるように、伝令を頼む」
「何でです? 近衛程度なら俺たちだけでも十分でしょう」
ゾフィーの言葉に、集められた中でも年かさの騎士が不満そうに聞く。
「蒼槍騎士団の一部が、クラウディオ殿下の命令を無視して王都に残っているんですよ」
答えたのは、ゾフィーでは無く栗色の髪の騎士だった。
「まず間違いなく、陛下の命で残ったのでしょう。数は二百程です」
「二百か……」
その数に、騎士たちは皆不安げな顔をする。
高々二百と思われそうだが、蒼槍騎士団は末端の兵まで精強な王国最強の騎士団だ。頭の騎士はともかく、その下の兵が寄せ集めな騎士団五百では、数の差をひっくり返される可能性もある。
「加えて、グスタフ殿……ローエンシュタイン公の率いる軍が王都に。どうやら陛下に呼び戻されたようです」
「あー、そりゃクレヴィング公に手伝ってもらわないと、まずいっすな」
「そういう事だ。ここで無理をする必要も無い。自分の騎士団の手綱を握れていない兄上には後で苦言を呈するとして、宮廷魔術師たちはどうしている?」
ゾフィーの質問に、騎士たちの顔が聞きたくないとばかりに歪む。仮に動かれたら、こちらの被害は甚大だ。文字通りの全滅の危険性もありえる。
「一人は行方知れずで、残りも既に王都を離れています。全員魔法ギルドの党員ですから、ジレント攻めの時点で陛下を見離しているでしょう」
「デニスは? あいつは近衛の所属でしょう。しかもはぐれ魔術師だ」
長い金髪の騎士の言葉に、全員がそういえばと思い出す。軍属の数少ない魔術師。しかも魔法ギルドに所属していないため、戒律に縛られていない厄介者だ。
「まったく動きが掴めません。この状況で敵に回るほど馬鹿じゃない事を祈りましょう」
「あいつは馬鹿じゃ無いけど、言動がウザイんだよ」
年かさの騎士の言葉に、何人かの騎士が同調するように、嫌そうな顔で頷く。一体何をやらかせば、これほど嫌われるのだろうか。
「とにかく、我々はこのまま王都へ向かう。……どうやら頼もしい援軍も来るようだ」
ゾフィーの言葉に、騎士たちは不思議そうに顔を見合わせる。援軍に来るのはクレヴィング公だが、お世辞にも頼りにはなりそうにない。
「また勘ですか?」
「うむ。とびっきりの援軍が来る予感がする」
カールの言葉に、ゾフィーは目を閉じて大仰に頷いてみせる。
その姿に若い騎士たちは首を傾げ、一部歳のいった騎士たちはどこか呆れたように納得していた。
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前アルムスター公を排し、ジレントへの足がかりを得たピザン諸侯軍であったが、クレヴィング公の動きに対するためローエンシュタイン公軍が撤退。大きく戦力を削がれる。
しかし諸侯は進軍を取りやめず、ついにジレントとの国境に位置するシュレー平原へと到達していた。
「いや、ようやくあの高慢な魔術師どもに鉄槌を下せると思うと、気が高ぶりますなあロンベルク候」
「……そうだな」
馴れ馴れしく話しかけてくるヘルドルフ伯に呆れながら、ロンベルク候は己の不運を嘆かずにはいられなかった。
馬上から眺める平原の先には、ジレントの玄関口ヴェスタの街並みが見える。ジレントが街中への侵攻を許すとは思えない。ここからは見えないが、既にあちらも迎撃の準備は済ませており、こちらが動けばすぐにでも兵と魔術師たちが姿を現すだろう。
ロンベルク候は、このジレント攻めに反対だった。しかし彼はピザン王国の滅亡を確信しており、その後の事を考えある男に媚を売っておかねばならなかった。
その結果が、ジレントへの侵攻という無理難題だ。どちらにせよ己の身が破滅するならば、いっそ祖国のために死ぬべきだったかと今更ながら後悔し始めていた。
「報告! 騎馬が一騎こちらへ向かっております!」
「何? 降伏の使者かもしれん。通せ」
ヘルドルフ伯が勝手に指示を出すのを、ロンベルク候は呆れながら聞いていた。一体どんな頭をしていれば、ジレントが降伏するなどと考えられるのだろうか。
リーメス二十七将の一人、埋葬フローラ・F・サンドライト。彼女が全力で魔術を行使すれば、千を越える兵が一瞬で葬られかねない。
さらに前アルムスター公の病を治したという、フローラに匹敵する魔術師、魔女ミーメ・クライン。彼女が同時に出てくる事があれば、ロンベルク候は最早貴族の地位も捨てて全力で大陸の外まで逃げるだろう。
その他大勢の魔術師たちも、その数が百や二百になれば、一瞬で数千程度の兵が犠牲になる。普通魔術師は百も二百も集まらないのだが、それを集めてしまうのがジレントという国なのだ。
長きに渡り利用され、ぶちキレた魔術師が作った国は伊達じゃ無い。彼らが戦いもせずに降伏する事は、万が一にもありえないだろう。
「……おい……あれ……」
「……ラート……」
騎馬が近付くにつれ、兵士たちがざわつき始める。不思議に思い目を凝らせば、その理由はすぐに分かった。
こちらへ近付いてくるのは、ジレントの兵とは思えない重装備の騎士であった。一般的なものの倍はあろうかという長剣を帯び、背中には斧槍を背負っている。
そして何より、その騎士に誰もが見覚えがあった。
「……コンラート」
ピザン国内にリーメス二十七将に数えられた者は数人居れど、中でも平民上がりの騎士として民衆の人気を集める巨人コンラート。
国王に罷免され、姿を消したはずの男がそこに居た。
「貴様! 何故ジレントから出てきた!?」
ヘルドルフ伯が怒鳴るように問うと、すぐそこまで近付いていたコンラートの馬が足を止める。その上に乗るコンラートは、一瞬ヘルドルフ伯を見て眉をひそめたが、すぐにそれを隠してロンベルク候へと向き直った。
「ロンベルク候。貴方がこの軍の指揮者ですかな?」
「……いかにも」
コンラートの問いに、ロンベルク候は平静を装って答える。横でヘルドルフ伯が何やら喚いているが、聞く気もなれない。
「すぐにジレントへの侵攻を取りやめて頂きたい。無駄な死者が出るだけだと、お分かりのはずだ」
「……それは、私の一存ではできん」
できるならば、とっくにやっている。
何らかの事情があり、ロンベルク候が引けないと察したのか、コンラートは困ったように髭を擦ると再び口を開く。
「ならば、私をこのまま通してほしい。私は急ぎ王都へと行かねばなりませぬ」
「貴様! さっきから好き勝手を言いおって、さてはジレントに寝返ったな!」
コンラートの言葉に、ヘルドルフ伯が怒鳴り散らす。実際この状況では、コンラートがジレントに味方する者だと思われても仕方が無いだろう。
しかしロンベルク候は、ここに来て己の失敗を悟った。
コンラートとの距離は短い。仮にこの男がここで暴れ出したなら、兵など蹴散らして指揮官である自分を討ち取ることもできる距離だ。隣にいるのは武名で知られるヘルドルフ伯家の人間だが、現当主のマリオンはそれほど腕が立つわけでは無い。
「こいつを捕らえろ!」
ヘルドルフ伯の命令を聞き、兵士がコンラートを取り囲む。しかし兵士たちはコンラートを囲んだ所で動かなくなり、お互いを窺うようにチラチラと視線を揺らし始めた。
彼らとてコンラートの武勇は知っている。自分たちがかかっても、返り討ちになると分かっているのだ。
「……どいていただきたい」
「何を! おまえたち早くかからんか!」
コンラートが静かに言うのに、ヘルドルフ伯は苛立ちを増したように怒鳴り散らす。
俯いたコンラートの表情は見えない。もしかしたら己の祖国に失望しているのだろうかと、ロンベルク候は自分の立場も忘れて哀れに思った。
「どけと言っている」
「な……にを……」
再び発せられた言葉に、ヘルドルフ伯の勢いが削がれる。それは小さな声であるのに、地を揺らすかのような力があった。
コンラートの馬が少しずつ進み始める。どっしりと大きい栗毛の馬は、人間の都合など知った事かとばかりに、悠然とその足を踏み鳴らす。
「どけえっ!!」
放たれた怒号に、空気が震えた。籠められた力に、兵士たちはその身を震え上がらせた。
ドサッと何かが落ちる音がする。誰もがコンラートから目を離せず、その原因を確認する事ができなかったが、どうやらヘルドルフ伯が落馬したらしい。
「……御免!」
凍りついたように動かなくなったピザン兵たちをすり抜け、コンラートを乗せた馬は駆け出した。
その背を追う者は居なかった。誰もが呆然としたままその姿を見送り、ついに見えなくなるまで、誰一人動く事はできなかった。
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ドルクフォード王は玉座に座り、ずっと目を閉じていた。
周囲に人は居ない。居たとしたら、この状況下で動こうとしない王に、何らかの進言でもしていただろうか。
「クカッ。寂しいなあ、ドルク」
誰も居ないはずの空間に声が響いた。ドルクフォードの声では無い。しわがれた、老人のような声だ。
「玉座は窮屈そうだな。おぬしには似合わぬと、皆で笑ったというのに」
いつの間に現れたのか、黒いローブに身を包んだ老人がドルクフォードの前に立っていた。哀れみと、嘲りの混じった顔で、ドルクフォードを見下ろしている。
しかし話しかけられたドルクフォードは、反応も見せず目を閉じ続けている。まるで眠っているかの様に。
「懐かしいなあ、皆で過ごしたあの時間が。私とロドリーゴと、ミリアにベルベッド。イリアスとライアンに、そしてティア。あれほどの人物が揃ったのは、間違いなくおぬしの人柄故よ」
友に対するように、老人は語りかける。だがその顔には、相変わらず悲しみと喜びが混在した、狂気の色が浮かんでいた。
「あの日。あの場所で。我らは本当の神と出会った。そこで知った、運命というものを。だがそんなものは変えてみせると、我らは笑って言ったのだったな」
そこまで言うと、老人の顔から笑みが消える。同時にその顔から狂気の色は消え、残ったのは無。
生気を感じさせない。感情も見えない。ただ顔の形をした面だけがそこにあった。
「あの女も笑っていたな。今にして思えばあれは嘲笑だったのか。運命は変えられぬと、誰よりもその身で知っていたのだから」
そう言って、老人は喉がつまったような奇妙な笑い声を上げた。何も宿していない面が、醜い笑みの形に歪む。
「クカッ。最期だドルク。……武運を、友よ」
そう言うと、現れたときと同じように、前触れも無く老人の姿は消えた。