ピザン王国とリカム帝国の戦いは、国境のリーメス要塞からピザン王国内へとその戦場を移していた。
リーメスを突破され西と南に撤退したピザン諸侯軍は、それぞれが後方戦力と合流し追撃するリカム軍へと対峙する。
西へ撤退したピザン諸侯軍は、ピザン王国北部のフロッシュ平原にてアルムスター公軍と合流。アルムスター公の子フランツを総指揮官に迎え、鬼将の子ユーリーの率いるリカム軍を迎えうった。
一方南へ逃げたピザン諸侯軍は、ピザン王国北東部のプラッド洞窟城への撤退に成功。しかし迫るリカムの騎士シルキス率いるリカム軍との戦力差は大きく、城主であるデンケン候の指揮の下、篭城を開始する。
リカムとの戦闘が長引き戦域が拡大する中、ドルクフォード王は王弟カイザーの奪還を理由に、ジレント共和国への侵攻を命じる。
魔術師の国への侵攻。無謀とも言えるその戦いに、ロンベルク候を始めとした諸侯が参加。その中には三公の一家、ローエンシュタイン公の子グスタフも含まれていた。
ジレントへの侵攻が始まろうかというその時、新たな問題が起こる。
ピザン王国南東部、ローエンシュタイン公爵領にて、アンデッドの軍団が出現。偶然その場に居合わせた、ゾフィー王女率いる騎士団による討伐が始まった。
夏戦争。
後にそう呼ばれる戦いは、混迷を深めていく。
・
・
・
「フロッシュ平原とは、何とも嫌な場所で戦い始めたものだな」
未だに慣れない広い宿の一室にて、コンラートは呟く。
椅子に腰かけた彼の対面には、クロエが座りピザン王国の現在の状況をかいつまんで説明していた。コンラートの呟きを聞いて、手にしていた紙束から視線を上げる。
「フロッシュは草はともかく木が一本も生えていない、殺風景な場所だと聞きましたが」
「ああ。だが不思議な事に蛙が多い。近くに水辺が無いというのにな」
故にフロッシュ(蛙)平原。安直な名前だが、地名などというのは単純なものが多い。
「軍隊等が通れば、さぞ多くの蛙が踏み潰される事だろう」
「……それは確かに嫌ですね」
潰れた蛙の大群を想像したのか、クロエは僅かに顔をしかめる。
「しかし……この期に及んでジレントを攻め、挙句にアンデッドか」
「……」
再び呟くように言ったコンラートに、クロエは沈黙で答える。コンラートが何を考えているか、付き合いの短いクロエも察しているのだろう。
しかし何も言わない。彼の都合を優先するならば、コンラートを何が何でも引き止めねばならないだろうに、それを口に出そうとしない。本当に出来た少年だと、コンラートは思う。
「俺はピザンへ戻る。戻らねばならぬ」
「……それはそちらの方のためですか?」
クロエが言うと、それまで置物のようにコンラートの背後に控えたままだったツェツィーリエが、すっと視線を上げた。
「厳密には、彼女の妹のためだ。それに……ゾフィー殿下の事、ジレントの事、イクサの事……陛下の事。ここまで来て動かぬ方が俺らしく無いと思う」
「お家騒動は戦後にでもやれば良いでしょうけど、他は一刻を争いますね」
そう言って、クロエは苦笑する。
モニカの、ヘルドルフ家の事を、コンラートは包み隠さずクロエに話した。それがこれまで自身を守護してくれた彼への礼儀だと思ったし、下手に疑われないための打算でもある。
それでも、「巫女」に関する事は一切話さなかったのだから。
あの後コンラートが真っ先にした事は、モニカの髪を染める事であった。
この娘が巫女だと疑われてはならない。巫女だと思われてはならない。その時が来るまで、己の手で庇護しなければならない。そうコンラートはモニカを見た瞬間に感じたのだ。
彼女は間違いなく巫女だと、ただ少し魔術が得意なだけの、盲目の少女を巫女だと確信した。
もしかしたら、あの夢に引きずられているのかもしれない。夢の中に出てきた巫女と、あまりにもモニカの容姿が似ていたから、珍しい白髪と銀の瞳が重なって巫女だと思い込んでいるのかもしれない。
だとしても、巫女を連想させるモニカの姿をそのままにしてはおけなかった。
神官の中には、神に仕えているとは思えない俗な人間が居る。そういった連中に利用されるような事があれば、モニカは間違いなく不幸になるだろう。
だからクロエにも話せなかった。今後誰にも、クラウディオやゾフィーにも話せないだろう。
もしかすれば、クラウディオやゾフィーならば、何時か話す時が来るかもしれない。
そしてクロエには、間違いなく何時か知られる事になるという確信がある。
彼は巫女の側に侍った、女神の盾と呼ばれた神官の末裔だ。自分と同じように、理屈など超越した直感で、モニカが巫女であると確信するだろう。
それは予測でも予想でも無い。運命というのだろうか、大きな力のうねりをコンラートは感じていた。
「まあ私も次の任務を仰せつかっていますから、コンラートさんには丁度良かったのかもしれません」
「次の任務?」
「ええ、これがまた荒唐無稽なんですが……」
荒唐無稽。クロエがそう語った任務の内容に、コンラートはますます運命というものの存在を感じとらずにはいられなかった。
・
・
・
カールという少年は、決して真面目とは言い難い性格であったし、お調子者という評価がこの上なく当てはまる少年であった。
騎士の修行が始まるときも、やる気など微塵も無く、むしろ面倒だとしか思わなかった。しかも師事する相手は、平民上がりながらリーメス二十七将に数えられた白騎士コンラート。さぞ辛い修行になるだろうと、憂鬱にならざるを得なかった。
顔中に不満を貼り付けたカールを見て、コンラートは苦笑していた。貴族のどら息子を押し付けられて、さぞ困っているのだろうと、カールは他人事のように思った。しかし次の発言には、久方ぶりに度肝を抜かれた。
「失礼ながら閣下。ご子息は騎士に向かぬかと」
本人を前にして、遠慮なく言い切った。
この場合、頭に「失礼ながら」と付けているのは、何の慰めにもならないだろう。言葉通りに失礼だと発言者が理解しているだけで、まったく配慮などありはしない。
しかしそれに応えた父に、カールはまたしても驚く事になる。
「だが領主にはなお向かぬ」
こちらも遠慮が無かった。身内だから当然の事であろう。
かくして向かないと太鼓判を押されたまま、カールはコンラートの従騎士となる。しかし当初のカールは、今ほどコンラートの事を尊敬してはいなかったし、むしろ反発する事の方が多かった。
コンラートは噂で聞いた以上に義理堅く、穏やかな人間だった。それこそ罠にでもかければ、あっさりとかかってくれそうな程に純朴な男だったのだ。
実際には罠にかかるほど間抜けでは無いだろう。しかし当事捻くれていたカールには、自分の倍近く生きている人間が、何故これほど真っ直ぐに生きられるのか不思議でならなかった。
「周囲は卑怯者ばかりだ。何故自分も卑怯な手を使ってはならないのか」
そう問うたカールに、コンラートは迷わず返した。
「例え傷付き馬鹿を見ようとも、俺は正直者でありたい。俺を信じてくれている人たちのためにも、俺は俺を囲む世界に真摯でありたい。それが愚かな事だと言うのなら、俺は愚か者で結構だ」
そう言い切ったコンラートの瞳は力強かった。それに見惚れて、カールは気付いた。自分はこの人のように生きたかったのだと、己の内心に燻る火に気付く。
なんてことはない。お調子者のカール・フォン・アルムスターは、自分で思っていた以上に根が素直な愚か者だったのだ。
・
・
・
「初陣がアンデッドだなんて、ついてないよなあ僕も」
ローエンシュタインの屋敷から逃げ出し、騎士団が借り切っていた宿まで辿り着くと、ようやく王女の護衛という重すぎる任務を終えたカールは、ソファーに倒れこむようにして背を預けた。
愚痴を漏らしてから、そういえばこれが初陣では無かったと思い出す。しかしその初陣の相手の狼も、アンデッドであった事に思い至り、ふっと吐息をついた。
何故これほどアンデッドと縁があるのか。師であるコンラートの因縁がうつったのだろうか。
「お疲れ様です」
不意に労いの言葉をかけられ、カールはピンと背筋を伸ばした。いつの間に近付いていたのか、そこには金色の髪の少女が一人。微笑みながら紅茶の入ったカップを差し出していた。
「ありがとうアンナさん」
「いえ。こちらこそお礼を。ゾフィー様は無茶をする方ですから、心配していたんです」
その言葉に、カールはなるほどと思いながら紅茶を受け取る。
アンナという少女は、王女の騎士団に随行してはいるが、騎士の位を持っているわけでは無く、兵士ですらない。あくまで王女個人に仕える侍女。それが彼女の公の身分である。
しかしながら、行軍には苦も無く着いて来るし、剣の腕もそこらの男顔負けときている。それでも常の彼女は侍女らしいというか、大人しく淑やかな少女だ。それだけで、最近強い女性とばかり縁のあるカールにとっては、オアシスとも言える癒しの対象であった。
「戻ってくるまでに、何度か襲われたんだけどねえ。もっぱら殿下が追い詰めて、僕はトドメさすだけだったよ」
最初はゾフィーも宣言通り守られるつもりだったらしいが、我慢できなかったのかカールが頼りなかったのか、戦闘が始まって十秒経つ頃には剣を抜いていた。
アンデッドを倒せる銀の短剣をカールが持っている以上、役割分担としては間違っていない。しかしもしカールが銀の短剣を持っていなければ、完全に活躍の場を奪われていた事だろう。
カールは改めてゾフィーもピザン王家の人間だと認識する。父の言う通り、ピザン王家の人間は、自分で戦いたがる上に守られる気が無い。これほど困る主はそう居ないだろう。
「クラウディオ様に比べれば大人しいものだと、マルティン様はおっしゃっていましたよ」
「それは比べる相手が間違ってるよ。あれじゃ嫁の貰い手が無いんじゃないかと、心配になるね」
「生憎と、婿を貰う予定は無いのでな。その心配は杞憂だ」
話題の人の声が聞こえて、カールは笑みを浮かべたまま固まった。すると悪戯に成功した子供のように、ニヤリといった感じの笑みのゾフィーが階上から降りてくる。
「……それは何とも勿体無い。ゾフィー様ほどの器量良しが独り身で通すなんて」
「調子が良いなカール」
「それが性分なもので」
ようやく再起動を果たしたカールは、これ以上取り繕っても無駄だと開き直る。ゾフィーに続いてやって来たマルティンは顔をしかめていたが、注意をするほどでは無いと判断したのか口を開こうとしない。
「それで、どうするおつもりですか?」
今後の方針を問うカールに、ゾフィーは隣のソファーに腰かけると、アンナから紅茶を受け取りつつ答える。
「この地のアンデッドの処理は、騎士団の半数に任せ、我々は王都へ戻る。……最悪の状況を考え、行動せねばなるまい」
「……はい」
ローエンシュタイン公の最期の言葉が真実ならば、イクサの手はピザン王国の深くまで届いている事だろう。もしかしたら、一連の戦い自体が、イクサの手の上で踊らされていただけなのかもしれない。
「ひ、姫様! 大変です!」
「どうした?」
一人の騎士が、慌てて駆け込んでくる。カールは名を知らないが、ゾフィーとそれなりに付き合いの長い、騎士団の中核の一人だ。
息を整えると、栗毛色の髪を額に張り付かせ、汗に塗れたまま口を開く。
「アルムスター公が、ジレントへと向かっていた諸侯の軍の立ち入りを拒否。改めてジレントへの侵攻を非難したとの事」
「ほう。やってくれるなアルムスター公も」
そう言いながらゾフィーが視線を向けてくるので、カールは得意になって胸を張ってみせる。
しかし続く言葉に、言葉を失った。
「陛下はこれを裏切りと断じ、アルムスター公の討伐を指示。グスタフ・フォン・ローエンシュタインの手で、アルムスター公は討ち取られました」
この男は今何と言ったのか。
カールは意味が理解できなかったし、したくなかった。しかし事実という名の刃は瞬く間に彼の芯に達し、否が応でも理解せざるを得なかった。
「カール……」
気遣うように、ゾフィーが名を呼ぶ。
ああ、父よ。確かに自分は騎士になど向いてはいなかった。だがそれでも、主君に、何より女性に気を遣われるなど、情けなくて仕方が無い。
お調子者にだって意地がある。何よりも、近付きたい背中があり、憧れた生き方がある。
「……大丈夫です。王都に戻りましょう殿下。そしてこんな戦い、終わらせてやりましょう」
そう言って顔を上げたカールの顔は、お調子者のそれでは無く、固い意志を秘めた騎士のそれであった。
・
・
・
三公の一人に数えられるクレヴィング公は、王宮の中を逃げるようにして歩いていた。
王宮の中は、不安になるほどの静けさに包まれている。いや、もしかしたら彼自身の内心がそう思わせているのかもしれない。
ローエンシュタイン公が死に、アルムスター公が討たれた今、正式な三公は自分だけ。自分の動きが、ピザン王国全体へ大きな影響を与える事になる。
ゾフィー王女が、玉座を欲し選定候たちの支持を求めている事を、他ならぬ選定候の一人である彼は知っていた。
家柄に似合わぬ、小心者だと自覚しているクレヴィング公は、明確な答えを出さず悩み続けた。下手をすれば内乱になりかねぬ状況下、どちらに付くべきかと。
だが事態は動き、悩む時間は無くなった。
「……ヴィルヘルム殿下」
見張りの兵を遠ざけ、クレヴィング公は小さな声で言った。
王宮の地下。すえた臭いの充満した、本来罪人の入れられる牢の前で、居ないはずの、居てはならない人の名を呼んだ。
すると暗がりの奥で蹲っていた影が、ゆっくりと顔を上げる。
「これは……クレヴィング公。何故このような場所に?」
「ぅ……殿下」
ヴィルヘルムの姿を見て、クレヴィング公は処理しきれない感情にもまれて涙を零しそうになる。
牢に入れられるときに暴行を受けたのか、所々は血に塗れていた。血の気の引いた顔は、病弱だった幼い頃の彼を思い起こさせた。
王族であるヴィルヘルムへのあまりに酷い仕打ちに、クレヴィング公はただただ悲しくなった。
「何故……何故このような事に?」
「父上によると、私は国家転覆を謀った大罪人だとか。まあまったくの誤解というわけでもありませんが、情けも容赦もありませんね父上も」
「ッ……」
そう言ってヴィルヘルムは笑ったが、無理をしていると分かるそれがより痛々しく、クレヴィング公は声をつまらせる。
王は情の深い人だった。厳しくはあっても優しい方だった。
それなのに何故このような事になってしまったのか。
「私が……私がもっと早く決断していれば」
「その場合は、私が牢に入れられるのが早まっただけかもしれません。明確な証拠も出さずにこの有様ですので」
自分に逆らう者は容赦しない。執政者としては必要な要素だが、ここまで来ると恐怖政治だ。
「私に……私に何かできる事は?」
「命が惜しければ、一刻も早く私と話すのを止めて、王宮から逃げ出しなさい」
「できる事は!?」
珍しい、記憶にある限り初めてのクレヴィング公の怒声に、ヴィルヘルムは呆気に取られた。
涙に濡れ、充血した目が見つめてくる。その何と力強い事か。
「……領地に戻り、ゾフィーへの支持を表明し挙兵してください。貴方が動けば、他の選定候も動くでしょう。そうなれば、直属の兵が少ない父上は、自ら玉座を降りざるをえなくなる。それでも父上が諦めなかった時は……」
実力行使しかない。それを理解すると、クレヴィング公はゆっくりと頷いた。
「今の会話も聞かれているかもしれません。すぐに動いてください」
「御意!」
返事と同時に、クレヴィング公は踵を返した。その後姿を眺めながら、ヴィルヘルムは背を壁に預けると、疲れを吐息に乗せて吐き出す。
幼い頃ならいざ知れず、今のヴィルヘルムに忠義の心を持っている者は少ない。何せ他者に厳しく腹が黒い、恐い恐い宰相様だ。疎まれるとまではいかないが、厄介な人だと思われているのは確かだろう。
そんなヴィルヘルムを思い、クレヴィング公は泣いてくれたのだ。
「まったく、この国は人材に恵まれている。たっぷりとこき使ってやりなさいゾフィー」
呆れ、しかしどこか嬉しそうに、ヴィルヘルムは届かないと知りながら妹へと呼びかけた。