薄暗い部屋の中、外套をかけた椅子に背を預け、手すりにもたれかかるように頬杖をつきながら、デニスはぼうと光る水晶玉に目を向けている。水晶球には街の中で暴れる魔物たちの姿が映し出されており、その異様な光景には魔術師の端くれであるデニスも顔を歪めた。
「不満そうだな、デニスよ」
不意に、他に人は居ないはずのその場にしわがれた、聞く者を不快にさせる声が響いた。デニスが声の主へと視線を向ければ、そこには鳥かごに入れられた黒く大きな鳥。
「いえ、そのようなことはありませんよ」
その鳥へと、デニスは顔はそのまま声の調子だけを変えて言う。それに鳥はくちばしを動かしながら、短く「そうか」と言葉を発する。
鳥かごに入れられたその鳥は、魔術によって作られた魔法生物である。魔術によって二つに分けられた、一つの魂を宿す鳥。彼らは二つでありながら一つであり、片割れの聞いた声を瞬時に自らの口から発する。離れた者との対話のためだけに作られた、鳥だったモノの成れの果て。
「どう見ても、一人の魔術師では不可能な召喚である事は、この際良しとしましょう。私は他の魔術師とは違って、過程よりも結果を重視しますしねえ。ですが、この襲撃に何の意味があるのかと、それが分からず悩んでいるのですよ」
デニスが手を翳すと、水晶玉が一瞬白く輝き映る場面が変わる。
自らの倍はあろうかというリザードマンと対峙する、薄い金色の髪の戦士コンラート。かつての同僚であるその戦士が、この程度の魔物に苦戦するはずが無い。そしてデニスの信頼に応えるように、コンラートはリザードマンの剣を両断し、返す刀でその腹部を深々と切り裂いた。
「量で攻めても英雄は討ち取れない、なんて事は言いません。そりゃ戦い続ければいつか疲れてヘマでもしてくれるでしょうがねえ、だったら街中で襲うのは下策でしょう」
魔物を打ち倒しているのはコンラートだけでは無い。もしこれだけの魔物をコンラート一人に向けていれば、彼を殺すこともできたかもしれない。
もっとも、デニスの自信を根元からへし折ったあの少年が居る限り、その可能性はかなり低いものとなるのだが。
「今回の目的はあくまで威力偵察よ。牙を抜かれ腑抜けた魔術師どもが大事に抱える、囚われの王子様もここに居るようであるしな」
「……そういえば先ほどから見覚えのある白い頭がチラホラと。彼女が居るのならば殿下も居るのでしょうが、こんな大騒ぎを起こしたら、別の場所に移動されるのでは?」
「クカッ、それもまた良し。この程度の騒ぎで自ら不落城を捨てるのであれば、むしろ事を運ぶに利となるわ」
喉に何かつまったような、気味の悪い笑い声を聞き、デニスは眉間に皺を寄せる。
立場的には協力者であるが、デニスは鳥の向こうに居る男を欠片も信じてはいない。自国の第二王子である腹黒宰相の方が、まだいくらか信頼にはたるだろう。いつ裏切るとも知れない協力者など、実際に現場で動かなければならない人間には、敵以上に警戒すべき対象でしかない。
「しかしあの少年は何者ですか? 随分とクロエ司教に似ていましたが」
目の前の水晶に映る景色を直接眺めているであろう少年の姿を思い出し、デニスは鳥に向かって問うた。それに鳥は再び奇妙な笑い声を上げると、人の心を逆撫でるような嫌らしい声で言う。
「彼奴らは双子よ。生まれながらにして憎み合う事を運命付けられた、哀れで愛しい歪んだ子供たちだ」
「……ふむ」
何かを考え、納得するようにデニスは息をつく。鳥が言っている事を全て理解することなどできようはずが無い。しかしそれでも、双子がお互いに憎み合っている事は分かった。
「性格が根本から捻じ曲がっているようには感じましたが、中々面白い。己の不幸を呪い、それでも尚、神に縋るのであれば、さぞかし立派な狂信者となるでしょうねえ」
「クカカカカッ!」
デニスの言葉がつぼに入ったのか、鳥が狂ったように笑い声を上げる。そのあまりの不気味さ、異様さに、デニスは思わず椅子を引いて鳥から距離をとった。
直接対峙しているわけでも無いのに、鳥の向こうに居る男の持つ気に呑まれそうになる。この男は正気なのか。浮かんだ疑念は、すぐに正気であるはずがないという結論に変わった。
「こんな狂人と直接やりあって、よく生き残りましたねえコンラート殿」
鳥には聞こえぬよう小さく呟きながら、デニスは水晶に映る男の姿を眺めた。
・
・
・
見慣れぬ、畏怖すら感じさせる魔物たちの襲撃は、確かにランライミアを守るジレントの兵士たちに衝撃と焦りを与えた。しかし時が経ち、魔物にも兵にも被害が出始めれば、次第に状況は人間側に有利なものとなる。
魔術師たちがリザードマンを燃やし、凍らせ、稲妻で打ち倒せば、それまで逃げ腰になりながらも侵攻を阻止していた兵士たちは奮い立つ。そしてその中でも年長の、冷静なベテランたちが己の力と技のみで巨大な魔物を討ち取れば、若い兵も恐怖を忘れて気勢を上げた。
ある者は街を守る使命に駆られ、ある者は手柄を立てんと奮起し、ある者は仲間の仇を討たんと昂奮する。兵たちの気迫はうねりとなって街を包み込み、最初暴虐にふるまっていた魔物たちは、その波に押されて逃げ出すものすら出始めていた。
「――貫け! ……よし! 残りは一匹だ、囲んで一気に殲滅しろ!」
兵たちの隙間を抜け、橋の方へと逃げようとしていた小さなゴブリンを魔術によって生み出した炎の弾丸で撃ち抜くと、中年の兵は部下たちに命じてリザードマンを取り囲んだ。
門番長を務めるその男の名はマリウス。見た目は冴えないが、十五年前のキルシュ防衛戦にも参加した歴戦の兵であり、初歩的なものではあるが魔術も使える逸材である。
元々傭兵であった彼は、キルシュ防衛戦の後には大規模な戦も無く、職にあぶれ流浪する身でしかなかった。そんな彼をジレントへと誘ったのは、かつての戦友であり、リーメス二十七将にも数えられるフローラ・F・サンドライトであった。
魔法ギルド党首の娘である彼女は、戦後故国に戻ると議会の一員となり、実戦経験のある兵を自国に引き入れる計画を推進した。その計画にてマリウスはジレントへと招かれ、不安定な傭兵家業を辞め、国を守る兵士としての道を歩む事となる。
「俺が注意を引く! その隙に一斉にかかれ!」
そう言うなり、マリウスはリザードマンに正面から挑みかかる。それを迎撃しようと振り下ろされたリザードマンの剣は、マリウスの剣によって反らされるとそのまま地面へと突き刺さった。そしてその剣を再び振り上げる前に、リザードマンは四方から伸びた剣と槍とに貫かれ、絞められた鳥のような声を上げてのけぞり、そのまま後ろへと倒れる。そのままリザードマンはピクリとも動かなくなり、淡い光を放ちながら空気に溶けるように消えていった。
「……こちらの被害は?」
「二名が重傷。戦闘に影響があるほど怪我を負ったものはそれだけです」
「怪我人はあちらの小屋に運んで治療してやれ。他はこのまま待機だ」
「応援に行かなくてよろしいのですか?」
副長を務める青年の言葉に、マリウスは「ほう?」と感心した声を出した。
鎧に身を包みつつも、頭に銀色のサークレットを身に着けた青年は、魔法ギルドの一員でもあり魔術師である。他国での特権階級といえば、貴族と神官が当てはまるが、ジレントにおいては魔術師が彼らに代わり特権階級に居ると言って良い。
要するに、マリウスの副長を勤める青年は、将来を約束されたエリートだ。そんなお坊っちゃんが初めての実戦をそつ無くこなし、あまつさえ上官に意見までしてくるとは、意外に頼りになるらしい。
「俺たちはあくまで門番だ。上から命令があれば動くが、そうでない限りはここを死守する事を第一に考えろ」
「しかしこの場の敵は撃退しました。他に戦力を回しても良いのでは?」
「敵の増援が来ないとも限らん。それについては、俺よりも魔術師寄りなおまえが危惧すべきことだろう」
そう言われて、青年はハッとして周囲を見渡すと、無言でマリウスに頭を下げた。
相手が召喚によって魔物を引き入れた以上、どこから何が飛び出してくるか分からない。この場を安全だと判断して戦力を他にやった所で、狙ったように新たな魔物が現れるとも限らないのだ。命令無しの自己判断で動くなとは言わないが、自らの責務を疎かにしてまで余計な事をする必要は無い。
「すいません。しかし相手が召喚師ならば、誰かが元を叩かないと……」
「それは俺たちが考える事じゃ無い。おまえが考え付く事くらい、お偉いさんも考えてるさ。命令が来ないって事は、大元を叩く大仕事は他の奴がやるって事だ」
「……大丈夫でしょうか」
「心配性だな。まあ生き残るのなら、おまえくらい臆病な方が……」
言いかけて、マリウスは目を見開き言葉を止めた。自分と対面に居る副長の遥か後方の大通りに、巨大な魔方陣が浮かび上がり光を放つ。そして光が治まった後に現れたそれが信じられず、マリウスは呆けたように口を開けたまま動けなくなる。
他国の首都にも劣らない広さの大通り。その大通りを占拠するように、緑色の巨体が横たわっている。その体はリザードマンと同じく鱗に覆われているが、太陽の光を受けて輝くそれは美しくすらあり、金属に勝る頑強さを感じさせた。
ゆっくりと巨体を持ち上げた手足は馬の胴体よりも幅があり、その先には兵たちの手にする剣が針に見えるほど太く鋭い爪が生えている。そして街を見下ろすように天へと伸びる首の先には、狼とも獅子とも言えない見たことの無い顔(少なくとも蛇や蜥蜴のような可愛いものでは無い)が鮫の歯のような牙の並んだ口を開け、地鳴りのような声を漏らしている。
「ど、どどどドラゴン!?」
兵の一人が、震える声で言う。できれば見間違いであって欲しかったそれは、確かにそこに存在するらしい。現実逃避をやめたマリウスは、しかし空想の世界以外のどこに逃げれば良いのかと、目の前の絶望的な存在に頭を抱えたくなった。
ドラゴンの鱗はダイヤよりも硬く、爪は山をも削り、咆哮は大地を震わせ、様々な属性のブレスを口から吐き、知能の高いものは人語を解し魔術すら使う。神以外に神に並びうる存在。それほど高位の生命体なのだ。
「隊長……逃げた方が良いのでは?」
青ざめた顔で、小鹿のように足をガクガクと震わせながら言った副長は、さぞ将来大成するだろうとマリウスは思った。幾度も死線を越え、棺桶に片足を突っ込んできたマリウスですら、今すぐに回れ右をして駆け出したいのだ。他の兵たちが腰を抜かしているのと比べれば、立派だとすら言える。
「そうしたいのは山々だけどな、奴さんこっちをガン見してる」
長い首をグルリと回して周囲を見渡したドラゴンは、いかなる理由かマリウスたちを細長い目でジッと見つめていた。たったそれだけで、マリウスたちを冬の寒気をも上回る寒気が襲い、十人ほど居た部隊の半数が気絶してしまった。
知識としてドラゴンの脅威を知らずとも、生物の本能が彼らに教えてくれた。あれには勝てないし、逃げきる事もできない。自分たちはあの巨体がこちらに興味を示した時点で、死の未来を決定付けられたのだと。
「ん?」
悠然と、万物の支配者であるかのごとく見下ろしていたドラゴンが、首をのけぞらせるように天へと向けた。それなりの距離があるというのに、聞こえてくる音は、洞窟を抜ける風の音のよう。
「まずい! 結界を張れ!」
ドラゴンが何をしようとしているのか予期し、マリウスが叫ぶ。しかしそれに反応できたのは副長だけであり、張られた結界は下位の魔術ですら十も防げるか怪しい頼りないものでしかなかった。
ドラゴンの首がしなり、反動をつけて前へと出された口から吐き出されたのは、光を放つ球状の塊。どのような理屈でそうなっているのか、ボールのようなそれは雷を圧縮したものであるらしく、バチバチと音を立てて放電しながらマリウスたちの居る門へと落ちてくる。
ああ、これは死んだな。
マリウスは自分でも驚くほど冷静にそう判断し、半ば無意識に駆け出していた。
・
・
・
「うわああああっ!?」
「逃げ、逃げろ!」
中心街の入り口から離れた大通りを守っていた兵士たちは、突如目の前に現れたドラゴンの姿に混乱し、完全に恐慌状態へと陥っていた。何せ首が痛くなるほど見上げて、ようやく全貌が把握できる巨大さだ。この化物が少し身動ぎしただけで、そばに居た者は踏み潰され絶命し、離れた門へと放たれた雷のブレスの余波だけで体が動かなくなる者まで居た。
僅かな希望にすがり、ドラゴンへと攻撃を加える勇敢なものも居たが、剣は弾かれ歪み折れ、魔術によって生み出された炎や氷、雷、かまいたちもろもろは、鱗を僅かに傷つけただけで霧散した。仮に鱗の下の肉体を傷付けられたとしても、この巨体。致命傷を与えられるわけが無い。
これに挑むのは無茶、無理、無謀だ。頭の螺子の飛んだ馬鹿でなければ、逃げるのが当然であり、人として正しい。
「全員退け! アレは人間に太刀打ちできる相手じゃ無い!」
そんな中で、声をはりあげて部下たちに撤退を命じる男が居た。しかし男自身はその場に留まったままであり、逃げるどころか剣を抜いて徐々に前へと進み出ていた。
勝てるはずが無いと分かっている。相手が相手だ。逃げても罰せられる事は無いかもしれない。
故に部下には退避を命じたが、自身がそれをする気にはなれなかった。勝てずとも、あれの注意を引けば少しは被害が減るかもしれない。そんな脆弱な希望と正義感から、男は命を投げ捨てる決意をした。
「せめて時間稼ぎだけでも……」
「ふむ。ならば俺が行こう」
「なっ!?」
玉砕覚悟でドラゴンへと挑もうとしたその時、男の肩を誰かが叩くと、そのままズイと男を庇うように前に進み出た。
その背はそれなりに体格の良い男でも見上げるほど高く、引き締まった筋肉のついた手足は逞しいが、並以上の長さがあるためにどこかひょろりと長い印象を受ける。
「おう。それなら俺も混ぜてもらうか」
「は、はあ!?」
そしてさらにもう一人、男が一人進み出て並び立った。
背は先に進み出た男より少し小さいが、盛り上がった筋肉は鎧のようであり、男の体自体が一つの肉の塊のように見える。
誰もが恐怖におののき逃げ惑う中進み出た二人の男。彼らはお互いに気付くと一方は穏かに、もう一方はニヤリと笑い、少しも気負いの無い様子で話し始める。
「武器ももっておらぬようだが、それでアレと戦うつもりか?」
「そういうおまえさんこそ、そんな貧弱な鎧じゃ着るだけ無駄だぜ。一発でお陀仏だ」
お互いに言うと、男たちは笑い合った。自分たちがどれほど馬鹿であるか、語るまでも無い。
「俺はロッド。巷じゃ鉄拳だのゴリラだの言われてる」
「ほう、そなたがあのリーメス二十七将の一人の……。俺はコンラート。元ピザン王国の騎士だ」
「へえ、おまえさんがあの白騎士コンラートか」
「生憎と、今はただのコンラートだ」
そう言うと、コンラートは抜き身のままの剣を握り直す。目の前の死の予兆に、手が微かに震える。初陣の時も、初めてアンデッドと戦ったときも、イクサとたった一人で対峙した時も、これほど死というものを明確な形で感じた事は無かった。
だが何故か、どうにかなるのではと、楽観的な思いが湧き上がり、それが無責任に背中を押す。
何を馬鹿なと、コンラートは己の愚かさに苦笑した。自分にそんな大層な力は無い。夢の中の彼のように、ドラゴンと戦いそれを打ち倒すような、神話の時代の英雄のような真似などできようはずがない。
そもそもコンラートには、この街を守る理由はあれど、守らなければならない義務は無い。本来この街を守るべき兵士や魔術師たちが逃げ惑う中、自らも逃げて誰が責めようか。
「ブレスを吐かれたら厄介だ。一気に懐に踏み込むぜ!」
「承知!」
だがコンラートを押し止めようとした微かな迷いは、隣に立つ男の言葉によってかき消された。
同じ二十七将に数えられては居るが、コンラートとロッドに面識は無い。それでもロッドの言葉が後押しとなったのは、僅かなやり取りだけで彼が一流の戦士だと感じられたからだ。彼と二人ならば、例え相手が万の軍勢に匹敵する相手でも、勝てはせずとも善戦はできるだろうと確信させる力強さがあった。
二人が駆け出したのに気付いたのか、ドラゴンが見ただけで危機感を煽る爪の生えた前足をゆっくりと持ち上げる。振り下ろされるそれは、頑強な砦の城壁すら一撃で打ち崩すだろう。
「ウオオオオォッ!!」
しかしコンラートは足を止めず、雄叫びを上げながら走り続けた。
恐怖はある。恐くないはずがない。もしあれを人間が受ければ、爪で引き裂かれるか、それとも地面に叩きつけられ潰れるか。胸を突かれるだとか頭を割られるだとか、そんな最期がマシに見えるほど凄惨な死を迎えるのは間違いない。
そんな予測を、叫び声で打ち消した。
考えるな。失敗の後を予測し対処するのは大切だが、失敗の後が無いのならば考えるだけ無駄だ。
ただ我武者羅に、あの断頭台の刃を越えて、あの怪物へと一撃くれてやる事だけを考えろ。
「クアッ!?」
自らへ目がけて振り下ろされたドラゴンの前足を、コンラートはすんでの所で転がるように潜りぬけた。そして地面へとドラゴンの足が着弾すると、ガアンと岩同士がぶつかるような音がして、地面が二度三度軋みを上げて揺れた。砕け、弾けた石畳の欠片がコンラートの背へと襲いかかり、鎧にぶつかり軽快な音を立てる。
気休めにもならないはずの鎧は、予想外の所でその役目を果たしたらしい。その事に何故か得意になりながら、コンラートはそのまま前へと転がり続けそうな体を何とか押し止め、半ば屈んだ体勢のまま体を反転させると、その勢いのままに長剣を横薙ぎにドラゴンの前足へと振りぬいた。
「グウッ!?」
手に伝わる手応えは、相手が本当に生物であるのか疑いたくなるものだった。岩を叩いたとしても、これほど腕が痺れはすまい。現にガーゴイルを斬ったときは、殴ったに等しい結果ではあれ破壊に成功しているのだ。
しかしその結果にも怯まず、コンラートは弾かれた長剣の勢いを利用するように、今度は反対方向に体を回転させると、そのままの勢いで再び長剣を前足へと叩きつける。
「なっ!?」
だが衝撃を予想していた手に、頼りない空を切るような感触が伝わった。改めて確かめるまでも無く、手の中の長剣は根本から折れてほぼ柄だけの状態となっている。
岩すらも砕く頑丈さだけが売りの長剣も、ドラゴンの鱗には勝てなかったのか、傷一つつける事もできすその役割を終えてしまっていた。
「ガハッ!?」
しかし呆然としている暇など無かった。目の前の前足が虫でも払うように振り回され、偶然胸に当たっただけのそれに、コンラートは馬にでもはねられたように吹き飛び仰向けに地面に叩きつけられる。
「ぐ……」
「危ねえ!?」
「むっ!?」
コンラートが起き上がろうとした所を、ロッドが引き摺るように駆け抜けた。遅れてその場所に在ったのは、先ほどまで振り回されていたドラゴンの前足。
あのまま悠長に倒れていたら、コンラートは潰れたトマトのような末路を辿っていただろう。背筋が冷えるのを感じ、コンラートは思わず唾を飲んだ。
「……すまぬ。助かった」
「良いってことよ。しかし参ったな、鱗に傷すらつけらんねえとは」
「剣も折れた。今の俺たちでは蚊にも劣るな」
倒せるとは思っていなかったが、まさか傷一つつけられないとも思っていなかった。
「普段は武器には頼らねえんだが、今回ばかりは伝説級の武器でも欲しいぜ」
「……伝説の剣か」
ロッドにつられるように呟き思い出したのは、赤い騎士の持つ騎士の剣。夢の中の赤い騎士のように、ドラゴンの鱗すら貫ける剣があれば、あるいはこの怪物に一矢報いる事もできるのだろうか。
「む?」
「なんだぁ!?」
進退窮まった二人から離れた場所に、突如長い何かが飛来し突き立った。重量を感じさせるそれは二つあり、それぞれが柄の長い斧と斧槍であった。
「あれは……ティアか!?」
二つが飛来した方へと目をやれば、カイザーの下へと戻ったはずのティアが居た。
何故と問う暇は無い。ドラゴンが再び前足を振り上げるのを確認したコンラートとロッドは、合図も無く同時に駆け出す。そしてロッドが斧を、コンラートが斧槍をぶつかるようにその手に抱え、地に着いたままの前足へと駆ける。
「コンラート! 同時に行くぞ!」
「承知!」
踏み込んだのは同時。石畳を踏み抜くのではないかという勢いで下ろされた足は、根でも生えたかのように二人の体を地へと固定する。
「オオオオォッ!!」
「ぜりゃあぁっ!!」
そして踏み込んだ勢い全てを乗せるように、斧と斧槍がドラゴンの前足へと叩きつけられる。
金属同士が擦れるような耳障りな音がして、ドラゴンの前足が動いた。斧と斧槍とが叩きつけられたそこから鱗が何枚か弾け飛び、削がれた肉の間から血が噴出す。
「やりやがった!」
「あの二人本当に人間か!?」
何もできず、だが逃げる事も良しとせず留まっていた兵たちが、目の前の光景に驚き、呆れ、喝采を上げた。
この場で初めて人間によって負わせたドラゴンへの傷。しかしそれ以上に見ていた者たちを驚かせたのは、ドラゴンの前足が殴られた勢いもそのままに、付け根を基点にして振り子のように宙へと舞っていた事だ。
「と、危ねえ!?」
片方の前足を上げた状態で、地に着けていた前足を殴り飛ばされたドラゴンは、体勢を崩し倒れこむ。咄嗟にコンラートとロッドはその場から離れようとするが、その二人の腕を何者かが取り、ドラゴンの体の下から引っ張り出すように跳躍した。
「ティア!?」
「動かないでください」
自らの手を掴む相手を見れば、そこにはティアが居た。いつの間にこれほど近付いたのかという疑問は、ティアの常識外れな速さを考えれば抱く方が間違っている。しかし大の男二人を引き摺って、ドラゴンから家三件分は距離をとるのだから、その力も並ではなかったらしい。
「――不可視の盾よ!」
「――巡る風、境界となりて我らを覆え!」
そんなティアへの驚きもよそに、コンラートたちを待ち構えるように詠唱を行っていた魔術師たちが、障壁と結界とを複数展開する。何故とコンラートは問いかけたが、ティアの視線を追えばその疑問の答えがそこにあった。
ドラゴンの体の向こう。大通りの彼方にある石造りの大きな門。その上に一人、白いドレスのような衣装を纏った女性が佇んでいた。
・
・
・
「魔術の補助無しでドラゴンを殴り飛ばすなんて。ロッドさんはともかく、コンラートさんも人類の常識に喧嘩を売っているのかしら」
中心街の入り口。橋のたもとに立つ門の上で、ミーメはドラゴンが体勢を崩すのを半ば呆れながら見ていた。
自身も魔術師である時点で、常識に喧嘩を売っているのは自覚しているが、だからこそ魔術無しで魔術師を越える戦いぶりを見せた二人に、驚きよりも呆れが先に浮かぶ。
「――氷の精霊よ、古の契約に従い、我が声に応えよ」
しかし呆けている場合では無い。ドラゴンが動きを止め、周囲から人も退いた。このチャンスをみすみす見逃すわけにはいかない。
「――其は雲根より出でし雹霰の使徒。寒月に惑い冷渋し、白圭となりて集散する」
唱えるは、ミーメの扱える中でも五指に入る威力を持つ大魔術。ドラゴンを打ち倒すには少し足りないかもしれないが、これ以上の大魔術は街が壊滅しかねない。今使おうとしている魔術でも、ドラゴンの周囲に居るものには被害が出るかもしれないが、そこは運が悪かったと諦めてもらうしかない。
そう内心で思い笑うミーメを見る者が居れば、魔女と罵りの意味で呼んだだろう。
「――琳琅と、霜威となりて降り注げ」
冷気を操る事を最も得意とする氷の魔女は、躊躇う事無く詠唱を完了し、終わりの言葉を口にした。
・
・
・
目も口も開きっぱなしにして、コンラートは目の前の光景を驚愕と共に見つめていた。
突如ドラゴンの頭上に現れたのは、城を支える大黒柱を思わせる巨大な氷の柱。その氷の柱は下の方にいくにつれて細くなっており、その鋭さはつららのようだと言うよりも、氷の槍だと言う方がしっくりきた。
そんな氷柱がドラゴンの頭上に幾つも、数えてみれば十三も浮かんでいる。そしてそれらは、門の上に立つミーメが腕を振り下ろすと、指揮された軍隊のように一斉にドラゴンへと襲いかかった。
氷柱はドラゴンの足を、尻尾を、胴体を、砂の山でも穿つように貫いた。そして貫かれたそばから、ドラゴンの体表を侵食するように氷付けにし、その生命力を奪っていく。
「くうっ!」
「くそ! ――巡る風よ、我らを覆え!」
「――不可視の盾よ」
その衝撃の余波を受けて、障壁を展開していた魔術師は呻き声を上げ、結界を展開していた魔術師はそれを維持しきれず再構築を余儀なくされ、それに気づいたティアも障壁を展開してその時間を稼ぐ。
魔術師たちの奮闘に、コンラートはミーメ一人が行使した魔術にそれほどの威力があるのかと震撼した。
コンラートには分かるはずも無いが、あの氷柱一つでも、小屋程度ならば跡形も無く吹き飛ばし、小さな湖であれば完全に凍らせる程の力を秘めている。その氷柱が十三。少し効果範囲を工夫すれば、一軍すらも滅ぼせるであろう大魔術。例え一流と呼ばれる魔術師であっても、その余波ですら防ぐのに全力を注ぐ必要があった。
「やったか!?」
「流石は魔女様だ!」
一際大きな氷柱に首を貫かれ、ドラゴンの頭が力なく地面へと横たわった。誰もが突然の大魔術の発動に驚いたが、その結果を見れば驚きはすぐに消え去り、歓喜と安堵の声を上げる。
「ふいー。ミーメの奴俺らごと殺す気か。何にせよ助かったぜ」
「……」
「ん? どうしたコンラート?」
「いや……」
声をかけられても、コンラートは生返事しか返せなかった。視線の先には横たわるドラゴン。確かにドラゴンは身動き一つしないが、未だその巨体を大通りに晒している。
召喚された生物は、死ねば仮初の肉体を消失させ在るべき場所へ還るはずだ。にもかかわらずドラゴンの体が在り続けるという事は、ドラゴンが死んでいない事を意味する。
「オイ!?」
「コンラート?」
知りもしないはずの知識でそう判断したコンラートは、他の者が驚く声も置き去りに駆け出していた。そしてドラゴンがそれに気付いたように、体を横たえたまま口だけを動かし、大きく息を吸い込み始めた。そして集められる空気の量に比例するように、その口の奥で雷の固まりが形成されていく。
「させません!」
しかしその雷が解放される寸前で、コンラートよりも遅く駆け出したはずのティアが、ドラゴンの左目を切り裂いた。
鱗は硬くとも、眼球はそれほどの強度はなかったのか、ドラゴンは片目を失い、氷に貫かれ凍りついた体をよじらせる。
「ハアァッ!!」
そしてなおも雷のブレスを放とうとするドラゴンの右目に、コンラートは斧槍を突進するままに突き立てた。斧槍はドラゴンの眼球を引き裂き、貫きながら深くその身を埋めて行く。
両目を奪われたドラゴンは、斧槍を右目に突き刺したまま、唯一自由になる首を狂乱したように振り回した。腹の底に響くような悲鳴は地を揺らし、先ほどまで勝利に浮かれていた者たちの背筋を凍らせた。
どれほどの時間が経ったのか、誰も言葉を発する事ができない中で、ドラゴンは空を仰ぐように首を伸ばすとピクリとも動かなくなった。地鳴りのような鳴き声も止まり、辺りは痛いほどの静寂に包まれる。
動かなくなったドラゴンの首が、ゆっくりと地面へ倒れていく。周囲に居たものはその太い首が倒れる衝撃に備えたが、予想していたそれは訪れなかった。ドラゴンの首が倒れるのに合わせるように、ゆっくりとその体が透けていく。
そしてドラゴンの姿が完全に消えうせると、そこには十三の氷柱と、凍った石畳と建物だけが残された。
・
・
・
今度こそドラゴンを倒し、命を拾った者たちは快哉を叫んだ。その喜びようはまるで百年に渡る戦を終えたようであり、よくぞアレと戦ってくれたと讃えられるコンラートやロッド、ティアを困惑させるほどであった。
そんな様子を、街の中でも一層高い建物の上から、つまらなそうに眺める少年が居た。
「まだ戦いは終わってないのに、暢気なもんだ」
そう言い捨てる少年の周囲には、何人かの兵士と魔術師が倒れている。その体は例外なく血に塗れており、地面はまるで最初からそうであったように赤く染まっていた。
確かめるまでも無く全員息絶えている。
「まあ残りの魔物も殆どやられたみたいだし、でもこのまま逃げるのも面白くない」
もう一体ドラゴンを召喚すれば、うかれた奴らはどのような顔をするだろうか。
そんな事を考え、少年はゆっくりと右手を振った。すると地面を染め上げていた血が流れるように動き、複雑な幾何学模様の描かれた魔法陣のようなものを形成する。
「――我は黒き血に連なりし者。境界の此方より彼方へと命ずる」
「やめよ、アースト」
召喚のための詠唱を始めた所へ、かすれた声が制止をかけた。
いつの間に現れたのか、アーストと呼ばれた少年の肩に黒い鳥がとまっていた。それだけで声の主を悟ったアーストは、忌々しげに顔をしかめながらも言う。
「何故だ? もう一度ドラゴンを召喚して、俺がミーメを抑えれば、コンラート・シュティルフリートは確実に殺せる」
「魔女を甘く見るな。元身内だからこそ、ぬしは奴の本当の恐ろしさに気付けぬ。それにその街には、魔女に匹敵する魔術師であるフローラ・F・サンドライトも居る」
「それぐらい俺なら」
「自惚れるでないわ! 未だジレント軍も魔法ギルドも全戦力を投入しておらぬ。そもそもぬしの弟が出張らぬ時点で、ジレントが追い込まれておらぬは確実。慢心し状況も把握できぬとは、ぬしも腑抜けた魔術師に毒されたか!?」
「ぐ……」
反論できず、アーストは悔しげに口をつぐんだ。
初めて中心街へと大規模な攻勢を受けたというのに、ジレントは明らかに戦力を出し惜しんでいる。後に備えているのか、それともこれが威力偵察である事に気付いているのか。
どちらにせよ、これ以上長居すれば、アーストは逃げる機を逃して捉えられかねない。
「分かった。混乱している内に脱出する」
「良い子だ」
子供を褒めるように、嫌らしい声で鳥が言う。そして離れていくそれを、アーストは睨むように見送った。
「臆病者の糞爺め。いつまでも穴倉の中に居られると思うなよ」
誰に言うでもなく、吐き捨てるように言うと、アーストはその場から姿を消した。