ランライミアの中心街へと至る橋の終わりには、関所のような門がそびえ立っている。そこでは数人の役人と兵が出入りする人間を監視し、各個人が門を通った時刻までほぼ正確に記録している。
「……はい、結構です。お通りください。次の方どうぞ」
橋のたもとに建てられた、小さな小屋の窓口で、役人は国から発行された通行許可証の提示を求め、それを基に出入りの記録をしていく。しかし半ば流れ作業と化している業務の最中に、この街では有名人である少年の名前を見つけ、手元に落としていた視線を上げると会釈した。それに少年も応えると、通行許可証を受け取り門を抜ける。
「あれ? クロエじゃない」
門を背にしばらく歩いた所で、少年は聞き覚えのある少女の声に呼ばれ足を止めた。
「……なんだ、レインか」
「なんだ、じゃないわよ」
歩み寄って来るレインを見るなり、無表情に言う少年。その反応にレインはムッとして眉を寄せ、そしてどこか呆れたような声で話し始める。
「どこ行ってたの。いくら中心街の警備が厳重だからって、間諜の類を完全に防ぐ事はできないんだから、あまりコンラートさんのそばを離れない方が良いんじゃない?」
「言われなくても分かってる。だけどコンラートさんだって一流の戦士だ。俺が居なくてもそう簡単にやられたりはしないだろう」
「相変わらず可愛くないわね。先生に倣ってお仕置きしちゃおうかしら」
そう言うと同時。レインが杖の先端を軽く蹴り上げると、杖はその勢いのまま彼女の手を基点に弧を描き、少年の首へ吸い付くように動き静止した。杖の先端には透き通った氷の刃。それを見た少年に驚く素振りは無く、むしろどこか感心したような様子を見せる。
「魔力付加の一種か。無詠唱でこの速度とは、成長著しいな。だけど冗談にしちゃやりすぎだ」
「あら、ありがとう。だけど冗談じゃ無いからやりすぎでは無いわね」
刃と同じ温度で放たれた言葉に、少年は訝しげに眉をひそめる。対する少女はニコリと、どこか寒気のする笑みを浮かべた。
「クロエったら神官になってからやけに気取っててね。私やカイと話すときはタメ口だけど、それでも一人称は『私』のままなの。『俺』なんて誰が相手でも言わなくなったわ」
「……そうだったか? 自分では自覚が無かったんだが」
少年は呆気にとられたように目を見開き、次いで不思議そうな顔をする。その様子に嘘は見られない。だがそれでもレインの目は凍てついたままであり、杖に宿る刃をとく気配も無い。
「いい加減にしろレイン」
「そっちこそ観念しなさい。確信がなきゃ、街中でこんな事するわけ無いでしょう」
「だから、その確信の理由は何だ?」
「女の勘よ!」
堂々と、迷い無く放たれた言葉に、少年は今度こそ本気で呆気に取られたように、目も口も開きっぱなしになった。そのまましばらく二人は動かず、騒ぎを聞きつけ様子を見ていた兵たちも、手が出せず困ったようにお互いを見やる。
「……くく、クアッハッハッハ! 女の勘か。それは素敵だ」
「あら、諦めたの。クロエはそんな笑い方しないわ」
可笑しくてたまらない。そんな風に笑う少年。
一方のレインは、手にした杖をいつでもその喉下へ滑り込ませる事ができるよう手に力を込めた。周囲に集まった兵たちはその数を増し、二人を包囲するように立ち並び剣や杖を油断無く構える。
「ハッハ……。流石姉さんの弟子だ。徐々に言動が似てきてる」
「姉さん……? アンタまさか!?」
レインが相手の正体に気付き、僅かに気を反らした瞬間、少年の右手が氷の刃に覆われた杖を掴んだ。一見無謀なその行動は、対人戦の経験の少ないレインには効果的であった。相手を傷つけることに一瞬の躊躇いを見せたその隙に、少年の体が密着するほど接近し、そのままレインは抵抗する暇も無く、左手と襟を掴まれ投げ飛ばされる。そしてさらに、少年は振り回すようにレインの体に勢いを持たせ、地面へと仰向けに叩きつけた。
「ッ――!?」
背中を石畳に強か打ちつけ、レインは呼吸もできず咳き込むように呼気を漏らした。今までに経験した事のない種の痛みに、整った顔が歪む。
「あいつと同じだな。経験の少なさが、才を殺している」
「レイン様!?」
静かに告げる少年に向け、周囲の兵が一斉に飛び出し、密かに詠唱を終えていた者は炎や氷のつぶてをレインに当たらぬよう加減して放つ。しかしそれらを、少年は手を振っただけで埃のように跳ね除けた。そして剣を構えた兵が斬りかかれば、人間離れした跳躍で背後にあった建物の上へと退避してしまう。
「チッ。入り口を抜けた瞬間にばれたのは予想外だったが、強引にでもやる事はやらせてもらう」
「追え! そちらの二人は各部に向けて伝令。急げよ!」
少年が建物の上を跳んで逃げるのを、数人の兵が同様に人間離れした動きで追っていく。その頃になってようやく立ち上がったレインへと、他の兵に命令を出していた中年の兵が走り寄る。
「レイン様。ご無事で?」
「無事よ。はらわたが煮えくり返りそうだけど」
駆け寄った兵が思わず後退るほど、愛らしい顔を台無しにする憤怒の顔でレインは呟く。
殺す事も人質にする事もできたのに、見逃された。あっさりと無力化された事と合わせてレインにはかつてない失態であり、強さというものにコンプレックスに近いプライドを持つ彼女には許容できない屈辱であった。
「あいつが私の知ってる奴なら、並みの魔術師じゃ歯が立たない。ロッドさんなりミーメ先生なりに、早めに援軍要請をした方がいいわ」
「それは承知しましたが、レイン様はどちらへ?」
立ち上がるなり何処かへと歩き出すレインに、兵がどこか心配そうに問いかける。先ほどの曲者を追うつもりならば、何が何でも止めなければならないと、兵は緊張した様子で答えを待つ。
「命令系統に組み込まれてない私が、あまり勝手をするわけにもいかないでしょう。本物のクロエがうろつかないように、見張りに行ってくるわ」
先ほどの怒りに満ちた表情はどこへやら。不貞腐れたような顔でそう言うと、レインはヒラヒラと手を振ってその場から去っていった。
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図書館での調べ物を終え、コンラートは宿への帰路へとついていた。ふと建物に隠れていない左手を見れば、太陽が彼方に見える山の谷間へ収まるように沈み始めている。
狩人も唸るであろう視力を誇るコンラートの目には、湖の岸辺の街を歩く人すら見える。家路へ急いでいるのか、あるいは一仕事終え酒場へとくりだすのか。ともかく一つ言えるのは、活気という点だけ見れば、中心街よりも外街の方が勝るという事だ。
それも中心街の重要性を考えれば仕方の無い事なのだろう。完全に国の管理下にある中心街では、店を出すにも厳しい審査をされ、道端に露天を出す事すら許されない。宿は勿論の事酒場や食事所一つをとっても、庶民には近寄りがたい洗練された店構えのものばかりだ。
どちらの方が良いかは人それぞれだろう。だがコンラート個人は、悩む事無く外街の方が居心地が良いと言う。性に合わない中心街から、己に相応しい外街を眺める。それがコンラートにはどこか座りが悪かった。
「む?」
横切った通りの向こうに、見覚えのある白い髪が見えた気がして、コンラートは立ち止まった。
何故今まで思い出さなかったのだろうか。このジレントにカイザーが居るのは間違いない。ならば彼女もカイザーのそばに、ジレントに居るのは必然だというのに。
「っと、失礼!」
走り出そうとして、通りを歩いていた婦人とぶつかりそうになる。頭を下げ一言詫びている間に、彼方に見えた白い髪は消えていた。
しまったと思い、通りを歩く人々を縫うように急ぐが、大柄なコンラートはどうしても小回りがきかない。できる限り急ぎ、しかし他の者の迷惑にならぬよう歩いたのでは、目的の人は既にどこかへ行ってしまっただろう。半ばその事を確信し、そして予想通りに曲がり角の先に探し人が居ない事を確認すると、コンラートは落胆し吐息を漏らした。
しかし踵を返し戻ろうとしたところで、視界の端を翻る白髪が掠めた。
それを認めたコンラートの反応は早かった。今度こそ逃がしてなるかと、先程より人通りの少ない路地であった事もあり、周囲の人間が思わず視線を向ける勢いで駆ける。
そして路地を抜け、少し大きな道へと躍り出た所で、右方向の曲がり角に消えていく白髪のしっぽを捉えた。
それを追い角を曲がり、そして再び白いしっぽを見つける。そんな事を何度か繰り返しながら、コンラートは街中を走り続ける。
「……まさか、わざとやっているのか?」
普通に歩いているのならば、とうの昔に追いついている。逃げようとしているのならば、到底追いつけないだろう。
誘われているのか踊らされているのか。どちらにせよ彼女らしいと思い、笑う。
彼女は真面目そうに見え、滅多な事では笑わないというのに、極稀に、気まぐれのように、ちょっとした茶目っ気を見せるのだ。
最初にその洗礼を受けたのはリアだった。長雨の続くある日、どこからか迷い込んできた大きな蛙をジッと見て、そして唐突にそばに居たリアの頭に乗せた。
普通の女性ならば悲鳴の一つもあげたであろうが、リアは血と泥に塗れて生きてきた元傭兵。その程度で怯むはずも無く、むしろ突然の友人の奇行に唖然としていた。一連の光景を見ていたコンラートが何をやっているのかと尋ねても、何をやっているのだろうと真顔で問い返す始末。
その日を境に、思い出したように子供の悪戯のような真似を始めたのは、彼女なりに友人相手に気を抜いた結果だったのだろうか。
「ハッハッ……」
軽く息がきれてきた所で、通りがかった建物の隙間の先に白髪の後姿が見えた。後姿とは言え、ようやく完全に捉えたその姿を見失わぬよう、コンラートは肩を壁にぶつけながらも狭い隙間を走り抜ける。
しかしそんなコンラートから逃げるように、建物に切り取られた細い景色から、彼女の姿は消えうせた。
「ティア!」
いつかと同じように、泣いているような情けない声で、コンラートは愛する女性の名を呼んだ。直後に建物の隙間を抜け、視界が開ける。
いつの間にそれほど走ったのか、コンラートが辿り着いたのは中心街の入り口から離れた、議事堂の建てられた高台の一部だった。申し訳程度に柵の立てられた崖のそばへと歩み寄れば、赤く染まる街並みと、陽光を反射して煌く湖が目に入る。
「良い眺めでしょう」
不意に声をかけられ振り向けば、そこには捜し求めていた女性が佇んでいた。
「殿下が教えてくれました。街から出なければ好きにして良いと言われた次の日には、地元の人間だって知らないような場所を探し当てるのだから、流石は陛下の弟と言ったところでしょうか」
「そうか……。俺としては、流石はクラウディオ殿下の叔父だという感想だが」
逃亡も、戦いも、別れも、再会も無かったように自然に話しかけてきたティアに、コンラートも素直に思ったことを口に出していた。不思議とそれが当然のように思えたのは、久方ぶりに見た彼女に変わった様子が無いからだろうか。
「……」
そんなティアから視線を反らし、コンラートは眼下に広がる街並みを見つめた。ティアもまた隣に立つと、コンラートに倣うように柵の向こう側へと目を向ける。
どちらも言葉を発する事はしなかった。ただ静かに並び立ち、街の喧騒をどこか遠く聞いていた。
話したい事があった。しかし実際に会ってみると、それを口にする事ができなかった。
納得したはずだ。あの日、ティアと戦い負けた時に、何も聞かないと決めたはずだ。
恐らくはティアもコンラートも、あの時が今生の別れだと思っていたはずだった。しかし二人は出会った。いや、恐らくは会いたかったから会えたのだ。
「貴方がこの街に居る事は知っていましたが、先ほど偶然見かけたときは迷いました」
「俺とは会いたくなかったか?」
「いいえ。ただ、迷っただけです。だからちょっとした賭けをすることにしました」
「賭け?」
「ええ。ちょっとだけ本気を出して逃げても、貴方が追いつけば会うことにしようと」
それを聞いたコンラートは、下手な言い訳に笑うしかなかった。
確かにティアは少しだけ本気を出したのだろう。しかしそれならば、曲がり角の度に都合よく翻った白髪の先だけ見えるはずが無い。彼女はコンラートに追いついて欲しかったから、わざと見つかるように動いたのだ。
「それで、賭けに勝った俺に何か賞品はあるのだろうか?」
「そうですね。一つ面白い昔話をしましょうか」
そう言って目を閉じるティアの顔には、どこか自嘲するような表情が浮かんでいた。
・
・
・
「ううー」
「……」
宿の一室にて、クロエはコンラートの帰りを待ちつつ、ミーメが新たに執筆した論文に目を通していた。
普通の神官にとってジレントは忌むべき国である。しかし魔女を姉にもつクロエにそんな感情は無く、むしろ自らを利用しようとする他の神官が居ないために、居心地が良いほどだ。
「ううー」
コンラートの護衛についても、街への侵入自体が難しいため気を張る必要が無い。
「ううー」
そのためリラックスして趣味と実益を兼ねた読書に興じていたのだが、先ほどから訴えるような、抗議するような、不満そうな唸り声が聞こえてきて、まったく手元の文書に集中できずにいた。
「……唸るな。言いたい事があるなら喋れ」
「聞いてくれるの? クロエは優しいなあ」
「私が優しいなら、世界は優しさで溢れかえっているな」
クロエが文書をテーブルに置き視線を向ければ、カイザーが満面の笑みを浮かべていた。尻尾でもあれば勢いよく振っていそうなその姿に、クロエはもう一度吐息を漏らす。
一見頭が温そうに見えるカイザーだが、決して馬鹿では無い。世間知らずではあっても、世間に善人しかいないなどとは思っていないし、むしろこれまでの狭い世界の中では油断なら無い人間との付き合いの方が多かっただろう。
それでもこの少年は幼い子供のように無邪気だ。きっとそれは本人の強さと、そばに居てくれる人への信頼のためだろう。そのどちらもが、クロエには羨ましくて仕方が無かった。
「今ミーメ先生に魔法物理学っていうのを習っててね、課題に問題集みたいなのを渡されたんだけど、難しくてさ」
「もう少し頑張れ。姉さんはあれで教え方が上手いし、本人が理解できてないような課題は出さないぞ」
「うん。理屈は何となく分かるんだけど、数字と記号の羅列を見てると脳が働くのを拒否するんだよね。それに理解できなくても魔術は一応発動するし」
「……典型的な魔力馬鹿だなおまえは」
痛む頭をほぐすように、クロエは眉間をグリグリと押す。
たまに居るのだ。理論なんて大体分かってれば良いじゃ無いかと、ノリで魔術を使ってしまう輩が。無論そんな事では魔術の構成に綻びが出るのだが、カイザーのように馬鹿げた魔力を持っていれば並以上の効果は出せる。
クロエも魔力自体は馬鹿の仲魔だが、幼い頃にミーメに教育されたためか、神官でありながら魔術師以上に魔法理論に精通している。そうでなければ、魔術の中でも構築と維持が難しい結界の類を得意とはしなかっただろう。
「ねえ。クロエたちのお師匠さんってどんな人だったの?」
「毎度の事だが、唐突だなおまえの質問は」
クロエは眉間から手を離すと、カイザーを見やり苦笑する。
「子供がそのまま大人になったみたいな、いい加減な預言者だよ」
「自称預言者?」
「いや。私も最近まで半信半疑だったが、本物だったらしい。歴史の大きな節目に現れ、時の権力者や英雄に様々な助言や道具を与え導く、世界の天秤の計り手。女神教会にも『青の調停者』として認定されている」
「聞いてるだけで嘘くさいんだけど」
「まあ嘘の方が良いだろうな。十五年前に、おまえの国について予言したらしいし」
クロエの言葉が予想外だったのか、それまで緩んでいたカイザーの顔が、真剣なものに変わる。
「僕は聞いた事が無いけど?」
「内容が内容だからな。……十五年前の戦争の終結後、リカムに抵抗した連合三国の王の前に青の調停者は現れ、幾つかの予言をした。
ローランドは長きに渡る繁栄の代償に、緩やかな衰退の後に一人の姫を遺して滅び、キルシュは戦場にて王子が流れ矢により死した後に、一年の時を待たずして王もまた凶刃に斃れ滅ぶ。そしてピザンは二度王が変わりし後に終わりを迎える。
ローラン王国を祖とする三国の滅びの予言は、その場で聞いた者たちの胸の内に秘められ、他言される事はほぼ無かった。直接聞いた人間の中で健在なのは、ドルクフォード王を含めて数人だけだろう」
特にピザンの国王であるドルクフォードは、その内容を下手に漏らす事はできなかっただろう。他の二国と違い、ピザンは王が二度変われば滅ぶと、具体的な時期まで予言されている。周囲の不安を煽らぬためにも、黙っているしかない。
「……もしかして、クラウディオ兄様じゃ無くてゾフィー姉様が後継者になったのって、その予言のせいかな。兄上の次の王の治世が長く続けば、それだけ予言の時は遠ざかるって事だし」
「可能性としてはあるだろう。しかし『探求王』とまで呼ばれたドルクフォード王が、そんな消極的な策だけで終わるとは思えないけどな」
何せ若い時分には、城を無断で飛び出して冒険の旅に出たという、規格外の王様だ。有り余った行動力で、何とか予言を回避しようと、足掻いて足掻いて足掻き続けるに違いない。
「クロエ!!」
どちらも話す事が無くなり、自然と沈黙が続いていた所に、一人の少女が叫びながら乱入して来た。余程急いでいたのか、乱れた金髪と息を整える少女を見て、クロエは呆れたような声で言う。
「相変わらず落ち着きが無いなレイン。少しは姉さんを見習え」
「黙りなさいシスコン。確かに先生は素晴らしい人だけど、アンタは美化しすぎなのよ」
半目になって睨めつけるレインと、それに対し無表情に、しかし不満そうな雰囲気で視線を返すクロエ。そしてその二人を、カイザーはにこやかに眺める。
二人はカイザーが城を出るまでの知り合いには居なかったタイプだ。自分と歳が近く、人に敬われる立場にあるにもかかわらず、歳相応に笑い合い喧嘩もする。
クロエには半ば強制したとはいえ、カイザーの正体を知っても自然に接してくれる。そんな二人が、カイザーは好きだった。
「ミーメ先生の素晴らしさは置いておいて、何かあったんじゃないのレイン?」
「何かあったなんてもんじゃ無いわよ。クロエと瓜二つの奴が、偽造許可証使って門を正面突破してきたわ」
「なんだって?」
詳しく話を聞こうとクロエが腰を浮かせかける。しかし動き出す前に、空気が張り詰めるのを感じとり、クロエとレインは動きを止めた。
「……やられたわ。本気でこの街に単独で挑むつもり?」
「どうしたの?」
「外を見てみろ。刺激的な事になってるぞ」
言われたとおりに窓辺へと移動し街を見下ろし、カイザーは予想外の光景に固まった。
格子のように規則正しく敷かれた街路を、見た事も無い異形が闊歩している。二足歩行するそれは立ち並ぶ建物の二階に頭が届くほど巨大で、肌は鱗に覆われ手には鋭い爪が生え、顔は爬虫類のそれであった。
リザードマン。そう呼ばれる魔物は群を成し、我が物顔で道を行き、人々は悲鳴をあげ逃げ惑っている。
さらに視線を上げれば、鉛色の羽が生えた人型が飛び回っていた。人型ではあるが、その両の目は赤く不吉な色を放ち、姿形は人々が想像する悪魔のそれに近い。
「ガーゴイル……だな。あいつの十八番の召喚だ」
「あれが……」
古の時代に人々に脅威を与え、とうの昔に姿を消した魔物たち。それらが大陸で最も安全であるはずの街を蹂躙していくのを、カイザーは唖然としながら見ていた。
街を守る魔術師や兵士たちが魔物たちに挑むが、いくら訓練を重ねた彼らも魔物との戦いの経験は皆無だ。人間以上の耐久力と力を持つ敵に、戸惑い手間取り少しずつ被害を出してしまっている。
このままでは取り返しがつかなくなるのでは。そう思い焦るカイザーの頭に、ポンと誰かが手を置いた。
「大丈夫だ。奴らは強いが頭が弱い。時間が経って慣れれば、魔術の使えない兵だけでも対処できる」
「……本当に?」
確認するように問うたカイザーの頭を、クロエは安心しろとでも言うように二度叩いて手を離した。
「……クロエ。悪いけれどアンタは」
「まぎらわしいから動くな……だろ。代わりにコンラートさんの事は何とかしてくれ」
「言われなくても、優先的に動いているでしょう」
ジレントの兵は実戦経験が少ないが、それを補うように経験豊富な傭兵を指揮下に組み込んでいる。優秀さという点においては、心配する必要も無い。
クロエは動じる事無く窓辺から離れ椅子へと腰かける。その姿は落ち着いた、老齢の指揮官のような余裕すら見えた。
「良いの? あいつを放っておいて?」
「下手に動いて下を混乱させるわけにもいかないだろう。それにあいつの狙いが分からない。カイが狙いの可能性もある上にティアさんがこの場に居ない以上、私はここに居た方が良いだろう」
そう言いながらも、クロエはどこか冷めた目で窓へと視線を向ける。
「……身内の始末は自分でつけたいけどな」
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「何事だ……これは?」
眼下に広がる街に、降って湧いたように現れた異形の群を、コンラートは呆然と見つめていた。
街路を歩き回り、身幅の広い剣を振り回すトカゲ人間。その足元をチョロチョロと走り回り、棍棒を叩きつけ街を破壊する醜い小人。そして空を跳び回る、石のような体の悪魔。
伝説の中で語られ、余程の秘境にでも赴かなければ見ることのできない異形の魔物たち。しかし何故だろうか。見たことの無い、そのはずの異形に、見覚えがあるのは。
「コンラート! ガーゴイルがこちらに来ます!」
「むぅ!?」
ティアが警告を発するとほぼ同時。柵の向こうの崖から五体のガーゴイルが飛び出し、二人目かけて鋭い爪を突きたてんと襲いかかって来た。それをコンラートは跳び退って避けると、いつの間にか周囲を取り囲んでいたガーゴイルを威嚇するように睨み付けた。
「コンラート。やはり貴方は運が悪い。ランライミアが襲撃を受ける、歴史的な瞬間に立ち会うなんて」
コンラートと同じくガーゴイルの攻撃を苦も無くかわし、背中合わせに立ったティアが静かに言った。
だがコンラートは笑った。運が悪い。万人に聞けば誰もがそう言うであろうこの状況で、彼は笑ったのだ。
「いや、悪いことばかりでは無いさ。初めて君に背中を預ける事ができる」
そう言いながら長剣を抜く背後で、ティアが呆気に取られているのが分かった。しかしそのティアも、コンラートの言いたいことを理解すると、笑いながらサーベルを抜く。
「確かに。長い付き合いですが、貴方と共闘するのは初めてですね」
背中合わせに剣を構え、ガーゴイルたちと対峙する二人。その二人を警戒するように飛ぶガーゴイル。そしてすぐに二体のガーゴイルが、焦れたように二人に襲いかかる。
「コンラート、彼らの体は石です。全力で叩き斬って下さい!」
「承知! 君のように上品にはいかないが、やってみよう!」
二人は同時に駆けだすと、それぞれが襲いかかって来たガーゴイルへと剣を振る。
そしてティアのサーベルがガーゴイルの胴体を二つに両断し、コンラートの長剣が頭部を殴り飛ばし粉砕した。