“――――――”
“期日”。
天は澄み渡るように晴れ、日輪は容赦なく熱を撃ち落とす。
唸りを上げる大群は、荒野を疾走し、広大な大地を津波のように蹂躙していた。狼煙のように逆巻く砂塵は天を割り、地を揺さぶる。
あるいは怒号とも感じる蹂躙の騒音は新たな道を切り開くかのように大地を砕き、尚も総てを飲み込んでいく。
大群の正体は異形の群れだった。
ひと突きで岩盤さえも打ち抜く強固な角を尖らす四足の獣。屈強な野太い体躯を持つ地を這う竜。巨大な顔の耳の位置に足を生やしただけの姿の奇妙な悪魔。毒性を強く孕んだどす黒い体毛を有する巨大で不気味な芋虫。甲冑を纏うように鉄で身体を包んだ蜥蜴。魂さえも刈り取るような鎌を両手に掲げる半透明な気体。
そして。
それらの異形を従え怒涛の前進の最前線を張る水色の液体生物。
街はおろか国すら滅ぼす大群は、一直線に高がひとつの村を目指す。
天変地異すら軽々と跳ね退けるほどの軍勢の狙いは『ターゲット』。
この地―――タンガタンザは、現在戦争の節目を迎えていた。
数多の人間の鋭意の結晶である街を幾千も滅ぼし、国を砕き、それでも止まらぬ魔族軍の脅威が更なる猛威を振るう極限点。
今よりこの場は地獄と化す。
全軍に、その地点が見えてきた。
『聖地』ガルドパルナ。
村の周囲に生い茂る樹海には世界でも屈指の巨獣ガルドリアが生息している。
しかし、この期日のみに姿を現す軍勢の前では脅威に成り得ない。
あの場総ては、これより煉獄の業火に包まれる。
「―――、」
そこで。
ピリ、と。霊的な直感を液状の魔物は感じた。
連れ立つ異形の群れには存在しない―――“賢い者のみが得られる危機管理能力”が、確かに警鐘を鳴らす。
液体生物は村の背後にそびえる岩山に視線を向けた。
何も感じない。
以前この地に赴いたときに感じた、“二代目勇者”―――ラグリオ=フォルス=ゴードの威光と錯覚したが、違うようだ。
「―――、」
そこで察し、再度岩山を睨む。
“何も感じない”。
あのときは確かに感じた、膨大な魔力の波動とも言える脅威が、あの岩山からは消え失せている。
警鐘が鳴り続ける。
ならばその脅威は―――岩山からどこに動いたのか。
どこに―――“縄張りを移したのか”。
「よう―――」
声が、確かに聞こえた。
暴れ回るかのように大地を揺さぶる爆音の中、しかしその声は確かに届く。
同時、全軍の足が緩んだ。
危機管理能力が無くとも、生物が元来的に有する防衛本能が全軍の動きを鈍らせる。
遠方に見える樹海の狭間。
村へ向かう小道の前。
そこにひとつの影が見えた。
全軍に比し、あまりに矮小なその影は、あざけるように顎を上げ、脅威の猛軍を見下すように睨みつけてくる。
そして笑う。あるいは、嗤う。
人の域を軽々しく超え、確固たる世界を創り上げているかのように、全軍をその縄張りで荒々しく拒んでいた。
「随分奮発してんなぁ、おい」
超えねばならない。
あの縄張りを超えなければ、『ターゲット』に到達することは叶わない。
液状の魔物が指令を飛ばさずとも、魔物の群れは即座に理解した。
そして最警戒対象を強く捉える。
数に任せて突撃しても、決して塗り潰すことなどできはしない。
全戦闘能力を駆使し、総力をもって、あの存在を狙わねば、即座にあの世界に取りこまれる。
『ターゲット』撃破を命じられたはずの魔物たちは、いつしかそれを塗り潰されていた。
「はっ―――」
人としては些か巨大な影は、その身とほぼ同等の巨大な『剣』を掲げ、やはり笑う。
その存在を、人は、災厄と呼んだ。
「―――てめぇらに最悪をくれてやる」
――――――
おんりーらぶ!?
――――――
“―――***―――”
「まず、鼻をつまむ」
「こ、こうか?」
「んで、こう、力を入れる」
「……、……?」
「あ、いや、そうじゃなくて、えっと、鼻から息を出す、っていうのかな」
「だが、鼻を塞いでいるんだぞ?」
「んー、って」
「んー?」
ちょっと面白いかもしれない。
ヒダマリ=アキラは隣に座る少女に対面し、正しい(?)耳詰まり解決法を伝授していた。
目の前で鼻を詰まんでいるのは、常に冷静沈着である―――旅を通してその認識は徐々に変わってきたのだが―――サクことミツルギ=サクラ。
愛用の長刀を担ぐように立て、その凛々しい顔立ちを―――なんとも間抜けな状態にしていた。
「アキラ、ちっとも変わらないんだが」
「いやいけるって。だからもうちょい頑張ってくれよ。悩みを抱えた、そんな姿のお前を見ているのは俺としても物凄く面白い―――じゃないですごめんなさい」
「もういい。自力で何とかする」
サクはぷいと顔を背け、自己の耳を手のひらで覆い始めた。
やはり気持ちが悪いのだろう、この―――“飛行機”の中での耳詰まりは。
ゴォォォオオオ、と、外ではそんな音が響いているであろう。
座席が精々十席ほどの狭い機内に、ふたつほど設置された窓の外には、輝くような雲海が広がっていた。
ヒダマリ=アキラとミツルギ=サクラがタンガタンザを訪れておよそ2ヶ月。
現在、“ゲーム”の最終日の3日前。
今年のタンガタンザの命運を分ける『ターゲット』―――リンダ=リュースの守護を行うべく、アキラたちはミツルギ家から“飛び立ち”、遥か西方の僻地を目指していた。
この、飛行機。
聞いた話では、この世界において飛行物体の製造は“しきたり”によって強く禁じられているらしい。
そんな物体を軽々しく持ち出してきたのは、まさに神をも恐れる男―――ミツルギ=サイガ。サイガは今、コクピットとも呼べる部屋にこもり、操縦を行っている。
あのふざけた男が真面目に運転するとは考えにくく、それ以上に精密機械が存在しないであろうこの世界において手造りの飛行機に乗るのは強い抵抗があったのだが、元の世界で数度飛行機に乗ったことがあるアキラとしては他の面々の手前取り乱せなかった。今こそ、勇者は語ることすら難しい不憫な事故に遭わないというご都合主義を強く信じたい。独自の技術のみで飛行機を製造したミツルギ家の力に、素直に感動しておこう。
そこでサクに正しい搭乗手順を教えていたのだが、どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。
以前―――といっても、サクは覚えていないはずだが―――召喚獣に乗って似たような高さに昇ったことも幾度かあったはずだが、そのときはどうしたのだろうか。生憎と、あのときの記憶はアキラも曖昧だったりする。
ともあれ、自分たちは高速で目的地へ向かっているはずだ。
本日中に到着し、身体を休め、戦争に臨むことになる。
この剣と共に。
「……あれ?」
視線を向けた先に、剣が無かった。
アキラは目を丸くし、立てかけておいた座席をくまなく探す。
しかし、無い。
一瞬血の気が失せたが、即座にその場に思い至り、前の座席に身を乗り出した。
そこでは、淡く薄らげな女性が、剣を抱えて目を閉じていた。
「アステラ……さん? ……何をしてるんですか?」
「ん?」
感情が欠落したような声に、疑問符が乗ってきた。
アキラを見上げる小柄な女性は剣に手を当てたまま、薄らげな瞳をアキラに向けてくる。
「どうした?」
「いや、その剣、何か問題でもあるのか?」
アステラ=ルード=ヴォルスが抱えている剣は、刃渡り80センチメートル程度の白銀の剣だった。
両刃の一般的な形状。アキラの身体にはやや長めではあるが、とりあえずそれが使用できる“魔力の原石”を使用した最も理想的な形状であるそうだ。
元があの錆の塊だとはにわかには信じがたく、それを作成したのが目の前の華奢で吹けば飛ぶような体格のアステラだとはもっと信じられない。
だが、その剣ならばヒダマリ=アキラを、もっと言えば旅の道中財布を最も苦しめた問題を解決できるそうだ。
アキラにとっては自身初の、自分のためだけの剣だ。
胸躍るものがある。
「問題? ……、……どうしても聞きたいか?」
それなのに、その製作主様はそんなことを仰った。
止めてくれとアキラは心の中で叫ぶ。
今まで制約のある中で戦ってきたのだ。実は制約がありました、なんてことになればいい加減フラストレーションで精神が崩壊するかもしれない。
「この剣は以前話したスライク=キース=ガイロードの剣と違って大きなハンディがある。君たちが所持していた魔力の原石は空も同然。太古から蓄えられた膨大な金曜属性の魔力が無いのだから、脆い」
「…………」
「…………」
「…………」
「……?」
「ちくしょう」
淡々と告げるような彼女の口調が今ほど恨めしかったことも無い。
何だ、結局制約有りか。
アキラがそんな恨みの乗った視線を送ったところで、アステラは―――珍しい、のだろう―――ため息を吐いた。
「何も問題は無い。君の症状は自分の魔術で自分の剣を破壊してしまっていたことだ。スライク=キース=ガイロードは自分の筋力で破壊していた。症状は近くても、解決策は別なんだよ」
おぼろげに、アキラは魔力の原石の特徴を思い起こす。
魔力の原石とは。
魔力を蓄え、魔術には強い抵抗を持つ、と。
スライクは物理的に剣が耐えられないから、膨大な金曜属性の魔力を剣に蓄えさせた。
一方アキラの症状は、魔術に剣が耐えられないというものだ。それならば、魔力の原石を使っている時点でアキラの問題はクリアしているということになる。
アキラは頭を掻く。
実のところ、アキラは魔力の原石の特性をそこまで理解したわけでは無かった。
というか、良く分からない。
淡々としたアステラの口調のせいか、結局おぼろげに理解したのは今の2つの特徴だけ。
せめて自分で使ったことがあればもっとよく理解できたのであろうが、結局完成は随分伸びて出発時間寸前、つまりはつい先ほどようやく手に渡ったばかりだ。
「問題無い」
不安そうなアキラの顔を見て、アステラは再度繰り返した。
「スライク=キース=ガイロードの剣には当然及ばないが、金曜属性の魔力なら時間が許す限り込めた。すでにこの剣は、君が今まで使っていた剣を遥かに超す強度になっている」
そう信じたいのだが、当のアステラは剣に魔力を込め続けているようだ。
不安は尽きないが、疑いの眼差しを向け続けるのもはばかれる。
アキラは座席に腰を下ろし、ちらりと隣のサクに視線を向けた。
恐らく新たな剣は、アキラの力が増すたびに、金曜属性の魔力を込める必要があるのであろう。となれば適任者はサクだ。しかし、彼女にそれを依頼すると、再び表に出ろと言われる気がする。今言われたら洒落では済まない。
ただ、そのサクは、うずくまるように顔を背け、鼻を詰まんでいた。
「……あ、直った。直ったぞ! やっ…………ぁ」
よっぽど耳詰まりが不快だったのか、サクは跳ねるように晴れやかな笑みを浮かべ、アキラの視線に気づいて再び顔を背けた。
見てはならないものを見た気がする。
ともあれ、サクも調子は良いようだ。
“例の話”をアステラから共に聞いたあと、僅かに様子がおかしかったが、最終戦前には整えてきたのは流石と言うべきか。
一方。最終戦に近付くたびに、様子が変わっていった者もいる。
「……ようやく、だな」
「ああ。ようやくだ」
アキラが声をかけた男は、鋭い視線を飛行機の床に突き刺していた。
まだ見ぬ戦地を睨みつけているかのような男はグリース=ラングル。
アキラと同年代のようだが体格が良く、短髪に鉢巻きのような布がトレードマークのその男は、『ターゲット』のリンダ=リュースと深い繋がりがある。
この2ヶ月―――いや、彼にとっては3ヶ月か―――の準備期間、一心不乱に鍛錬に打ち込んでいたグリースは、驚異的な成長率を誇っていた。
ただ、精神的には、やはり厳しいものがあるのだろう。
彼に対して、問題無いなどと、無責任な言葉は吐けない。
あるいはタンガタンザ以上に、彼はこの戦争に深くのめり込んでいる。
―――惜しいな。
アキラはふと、そんなことを思った。
互いに因縁のある仲であったが、この2ヶ月、グリース=ラングルという人間を良く見てきた。
彼の想いは真摯で、一途で、眩しいとさえ感じる。
彼が既存のメンバーと重複する水曜属性で無ければ、共に魔王を討とうと言っていたかもしれない。
そう思うと、最早七曜の魔術師の条件を軽視しても良いような気がしてくる。
リンダ=リュースをも引きつれて、さらに仲間を増やし、世界中を練り歩くことができれば、それはきっと楽しい旅になるだろう。
おぼろげに、そんな未来予想図を浮かべてみるが―――総ては、この戦争に勝利を収めてからだ。
今年。
ミツルギ家は本気だ。
アステラに聞いた2年前とは違い、ミツルギ=サイガはこの戦争に秘密兵器まで投入してきた。
どうあっても勝利を収めなければならない。
アキラはゆっくりと、グリースの隣で船を漕いでいる少女にも視線を送る。
ミツルギ=ツバキ。団子に結わった髪と、僅かに褐色の健康色の肌を持つ―――負と負をかけ合わせた結果の正。
彼女の主君―――クロック=クロウは今、ミツルギ=サイガと共にコクピットにいる。
この機体には、2年前の戦争の経験者が“スライク=キース=ガイロードを除いて全員”乗っている。
必ず勝利を収めよう。
今度こそ―――何の犠牲も払わずに。
“――――――”
「始まった……か」
エニシ=マキナは震える足で、しかし確かに大地を踏みしめ、ガルドパルナ聖堂の入口付近に立っていた。
魔族側が提示している『ターゲット』の行動範囲の定義に基づけば、戦争の範囲となるのはガルドパルナという小さな村の全域。
ミツルギ家不在の今年の作戦では、村の奥にあるガルドパルナ聖堂と名付けられた岩山が『ターゲット』護衛個所となっており、マキナはいつでも駆け込めるようにこの場で待機しているのだが―――村の外で行われている戦争の轟音はここまで届いていた。
きっと今、この村を攻めようとしていた魔物の大群は、“不幸な事故”に遭っているのだろう。
「一応、言っておこう」
自分では想像もできないほどの戦争を思い描こうとしていたマキナに、渋い声が届いた。
黒いマントを羽織り、銀縁の眼鏡を帽子の下で光らせる出で立ちの男―――クロック=クロウ。ミツルギ家の人間であるそうだが、何のつもりかこの戦争に助力してくれる人物だ。
「スライク=キース=ガイロードが如何なる力を振るおうとも、必ず討ち漏らしが出る。奴らは『ターゲット』破壊を全力で狙ってくるのだからな。お前が創り出した剣は見事だったが、過信せず、いつでも逃げ込めるようにしておけ」
それが、ミツルギ家で戦争を経験している者の言葉だった。
今の時刻は昼を過ぎた辺り。
それから日が沈み、さらに日が昇るまで生存するのが『ターゲット』に与えられた任務だ。
そんな長期間、ひとりの人間が想像することも難しい魔物の大群を総て止められるとは思えない。
スライク=キース=ガイロードの力も想像を絶するものではあるが、これはあくまで多対多の“戦争”。
漏れは必ず出るだろう。
マキナはガルドパルナ聖堂の入口の位置に、しきりに視線を送っていた。
「すでに森の一本道には罠を設置してある。聖堂の中も同様だ。逃げ込むとき、注意をしてくれ。もっとも、人間であれば十分に回避可能のはずだ」
そんなマキナに、薄らぐような声で注意がかけられた。
アステラ=ルード=ヴォルス。
この轟音の中ではすでに認識するのが不可能とさえ思えるほど淡く薄い小柄な女性は、この大一番の中でも表情を変えずにいた。
現在村にいるのはこの3人のみ。
他の住人は退去命令に従い、村を離れている。
決して数は多くない無人の建物が並ぶこの村は、ゴーストタウンと化していた。
残酷なほど孤独だった。
多対多とは名ばかりの、少対多の戦い。
生まれた頃からそばにあり、それでいて遠かった戦場は、こんなにも非情なものだとは―――想像を、超えていた。
身が凍え、気が遠くなる。
しかし村の外で響く轟音に呼び覚まされ、あとはその繰り返しだ。
聞いた話では、クロック=クロウもアステラ=ルード=ヴォルスも非戦闘要員であるそうだ。
かつて経験した戦争では、クロックはミツルギ家当主に次ぐ軍師として、アステラは調達係や医療班として関わったに過ぎないらしい。
戦争の拠り所となるのは、表で戦うスライクと、クロックやアステラが調達した爆薬やトラップの物資のみ。
その総てを注ぎ込んだところで、今聞こえている爆音の一部を奏でられる程度であろう。
あまりに―――非情だ。
今もスライクが討ち漏らした魔物が村の入口から現れないかと身を削られている。
作戦自体が無謀なのだ。
自分たちの作戦は単なる籠城戦。時間が稼げなければそれまでだ。
そのため、もうすでに“仕事”を終えたアステラすらも、僅かな時間稼ぎのためにこの場に残っている。
マキナはそれについても拳が震える。
自分を守る人数は多い方が良いが―――それだけ、犠牲も増えてしまうのだから。
自分で納得できる最高峰の剣を作成したときの高揚は欠落し、再びマキナに絶望が襲ってきた。
が。
「む」
意識が朦朧とし、覚醒し、それを繰り返していたマキナに、クロックの唸り声が聞こえた。魔物が現れたのかと一瞬身構えるも、クロックは爆薬に近付くことも無く、ただ唸るだけだ。
「な、なんだよ」
「いや……。……うむ」
言葉を紡ごうとし、失敗したのかクロックはそのまま押し黙る。
この状況でそういうことをされると精神が機敏になっているマキナにとって堪えるのだが、クロックは何も言わなかった。
どれほどそうしていただろう。
いつしか日は傾き始め、徐々に空は朱に染まり始める。
それほどの長時間。
クロックは、唸り、そして沈黙を繰り返していた。
そこで。
マキナも気づいた。
このあまりにも不自然な―――“奇跡”を。
マキナが察したと同時、クロックはようやく意味のある言葉を吐き出した。
そしてふつふつと、マキナにも希望が湧き上がってくる。
ありえない。
作戦自体が無謀。
数がものを言う戦争において、そんなことは起こり得ない。
だが、確かに今、起こっている。
そんな異常が―――“普通”を塗り潰す異常が、聖域ガルドパルナに舞い降りていた。
「“魔物が来ない”」
――――――
暴風が、そのひと振りの元に吹き荒れた。
「―――かっ」
『剣』が吐き捨てるような言葉を乗せて振るった『力』は、それだけで、天変地異を巻き起こす。
正面の醜い面の障害を斬り裂き、さらにその奥の巨獣さえも吹き飛ばす。
そこで爆風のように背後に疾走し、樹海の入口に差しかかった群れを纏めて斬り飛ばした。
再び爆走。隙を縫って進撃しようとしていた全軍を牽制し、必殺の一閃を走らせた。
戦場を縦横無尽に駆け抜ける『剣』は、無限とも言える勢力を荒々しく削り続ける。
荒れた大地に過ぎない辺ぴな空間で―――“神話”が、再現されていた。
「ガァァァアアアーーーッッッ!!!!」
地獄の底から響き渡るような咆哮は、最早人のそれでは無い。
スライク=キース=ガイロードは、戦場のただ中にいた。
僅かな判断ミスが死亡にも、そして戦争の敗北にも直結する極限地帯を、その脅威の戦闘能力で押し潰す。
破壊の衝動に任せて巨大な魔物の足を掴み上げ、そのまま魔物の群れに投げ入れた。
爆音。
動きの鈍った虫のような魔物を蹴り飛ばす。
不気味な色の体液が足に付着した。カッと足が暑くなる。だが、問題無い。この毒性ならば、日輪属性の者にとっては致死量には届かない。
スライクは即座に戦況を把握する。
太陽が頂点から傾き、沈みかけ、夜の帳が訪れ始めてなお、未だに世界を埋め尽くすような魔物の勢力は変わっていないようにも見えた。
だが―――“50%”。
スライクには、正確な進捗率が見えていた。
戦況をかぎ取るセンスが、あるいは世界の裏側から降りてくるような感覚が、総ての情報をスライクの脳に直接落とす。
危険なのは竜種や悪魔を模した魔物たちだ。
“幻想獣型”。
自然淘汰の中存在しなかった空想の中だけの生物たちは、“既存の生物たちが夢焦がれた究極体”を意味している。
そして、毒性を持つ芋虫のような魔物が次点に上がる。
少量ならば日輪属性のスキルで克服できるが、身体中に浴びるとなると話は別だ。
密集地帯には極力近づかず、大型の魔物を戦闘不能にして投げ入れることで対処する。
敵の布陣にも注意を向ける必要がある。
向こうの軍もこちらが問題視している点を分かっているようで、幻想獣型や毒性を持つ魔物はある程度数が揃うまでスライクに近づこうとしない。
統制の取れた難攻不落の魔物たち。
ひとりの人間が立ち向かうにはあまりに無謀なその大群を、スライクひとりで対抗できているのは当然理由があった。
例えば“魔物が僅かに賢いこと”。
恐怖にはある程度怯み、爆風からは身を避ける。
配置の穴埋めや指示を仰ぐこともあり、全軍が同時に特攻を試みない。
そうなれば、スライクはその隙に付け込むことができる。
例えば“戦闘不能の魔物は爆ぜること”。
別に総ての魔物を撃破する必要はない。
大型の魔物を倒せば、その爆風で周囲が吹き飛び、その連鎖で被害が拡大する。
今でも幾度か、魔物の群れが縦一閃に割れることがあるほどだ。
例えば“日輪属性のスキル”。
千里眼とまではいかないまでも、“世界の裏側”は、戦場を真上から捉えるように情報を降ろしてくる。
魔物の正体、進行状況、次に何を狙うのか。それらが総て降り立ち、不可能を可能に変えていく。
回復スキルも尋常ではない。木曜属性の力に極限まで特化したスライクは、周囲に漂う魔力すらをも己が力に還元し、脅威のタフネスを手に入れた。
そして―――振るう神話の物品。
“二代目勇者”―――ラグリオ=フォルス=ゴードが残した物品を、エニシ=マキナが復元したこの究極の一品を手にしたスライクが、最初に思ったことがある。
この剣は、この2メートルを超す脅威の物品は―――ナマクラだ。
鋭利性など微塵も無く、身に抱いて寝ても殺傷沙汰にはならないだろう。
鉄板とでも言えば最も相応しいだろうか。
ずしりと重く、小回りも利かない―――“永遠にそのままである剣”。
しかし。
それをスライク=キース=ガイロードが振るえば新たな神話を創り上げる。
「―――、」
ブッッッ!! と大気が割れた。
空間すらも斬り裂く一閃は、まだ見ぬ魔物すらも巻き込み世界を洗う。やや遅れ、連鎖爆風。しかしそれさえも断絶した。
脅威の重量を持つ物体は、スライクの剛腕によって軽々しく振るわれ、高速の世界で剣に変貌する。
スライクは僅かに笑った。
何が“永遠にそのままである剣”なのか。
この物体は、戦場に在って、限られた人間が振るった場合のみ、始めて剣に姿を変える。
名前倒れもいい所だ。
本当に―――いい仕事をする。
「はっ―――」
魔物の進行が止まり、スライクは距離をとって嗤った。
呼吸は僅かに乱れている。
どれだけの魔物を滅ぼしただろう。数えることはとうの昔に止めていた。必要ならばと世界の裏側から何かが降りようとしていたが、スライクはそれらを切り捨て、正面を睨んだ。
「なんだ。ようやくてめぇか?」
爆風か何かで吹き飛んでいれば儲けものと思っていたが、“情報通り”、難を逃れていたようだ。
魔物の群れの正面の地面。爆風に掘り返され、荒れ爛れた大地に染みが広がり、そこから滑らかに、液状の物体が姿を現す。
「私は驚愕した」
深海から響くような声が、まるでそんな感情を気取らせないような口調でそう言った。
“無機物型”の“言葉持ち”。
2ヶ月ほど前出遭ったその魔物は、全軍を率いていた長だ。
そして、スライクの中で最警戒対象に当たる。
無機物型とは、幻想獣型とはまるで違う。
幻想型は空想上の理想的な姿をしているが、あくまでそれは現実の生物が思い描いた世界の生物に過ぎない。
その空想型の生物が自然界に属している以上、その想像は、自然界の物体を基礎として想像される。
幻想獣型の魔物の世界にも、自然淘汰を取り巻く環境は必然的に、世界そのものとして存在するのだ。
ゆえに。
無機物型は、幻想獣型以上に未知数な存在である。
「スライク=キース=ガイロードの戦力を勘案した結果、全軍の3割ほどの損害で『ターゲット』破壊を開始できるはずだった。アグリナオルス様もそう言った」
「かぁ、一々面倒な野郎だ。いいから来いよ。それともなんだ? 休憩時間でもくれんのか?」
言って、スライクは無機物型の魔物を捉えていなかった。
捉えているのは未だ数の衰えぬ魔物の群れ。
見たところ、絶対数は激減しているが、魔物の種類の比率という面では変わっていない。
やはり戦争というものを幾度も経験しているのであろう。各々が持つ役割を明確に意識し、決して欠けることが無い。
戦闘は拮抗しているが、いつ崩れるかは分からない。
その後に備え、魔物の群れは、その布陣を保ち続ける。
相手にすると面倒だが、理に叶っている。
そしてあの“言葉持ち”も、恐らくは背後の魔物をゆうに超す戦闘能力を保有しているのに、スライクと戦闘を行わない。
それも、司令塔という役割を意識しているからだ。
―――ただ。
「……てめぇらよ。真面目に勝つ気あんのか?」
スライクは、出て来るなり目の前で漂い続ける液状の魔物に、挑発ではなくただの疑問としてそう言った。
戦闘を開始してから、いや、あるいは最初に液状の魔物に襲われたときから、妙な違和感を覚えるのだ。
例えば―――“理に叶っていないこと”。
ひとつ。何故最初にここに訪れたときに、『ターゲット』を破壊しなかったのか。
客観的にあのときの戦力を考えれば、スライクの認識上、この大群の10%程度で『ターゲット』を破壊できていたであろう。例えスライク自身が無事だとしても、数を前に抜かれていた可能性が高い。
そして、ふたつ。何故、魔物の数を無駄に増やしてきたのか。
“魔物は爆ぜる”。その特性がある以上、魔物の戦力と数は純粋には比例しない。魔物は数を増やすごとに戦力が伸び悩むのだ。スライクひとりでこの場を守れる理由通り、魔物は隣の魔物の爆風に巻き込まれ、あとは連鎖爆風が発生する。そして強大な魔物ほど爆破の被害は酷い。ここまで強力な魔物を揃えた以上、数を増やすことはその他の魔物の無駄死に直結する。一瞬、連鎖爆風は想定外なのかと思ったが、それは違うだろう。あの液状の魔物はスライク=キース=ガイロードの力を知っているはずなのだから。スライク自身、例えこの大剣が無かったとしても、しばらくは戦い続けていたと思えるほど、お粗末な布陣だ。
しかし、その一方で、各自は各自の役割を意識し、相対数を守ろうとする。
本当に―――奇妙な大群だった。
「勿論ある」
液状の魔物の響くような声は、スライクの思考を知ってか知らずか、そう返してきた。
「今年の戦争は、私に全権が付与されている。アグリナオルス様は私に言った。ミツルギ家が参加しないのであれば、強い自我が目覚めたばかりのお前に任せてみようか、と」
スライクはうんざりしたように肩を鳴らし、僅か思考する。
あの夜出遭った鋼の魔族―――アグリナオルス=ノア。
この液状の魔物の話を聞く限り、随分と組織立って行動するのを好むようだ。そしてその上で、後継者を作り出すことを目論んでいるのかもしれない。
ミツルギ家の参加しない今年の戦争を、練習として、この液状の魔物に任せたのであろう。
となると、敵の行動の理由も分かってきた。
統制された軍に、無能な将。
その矛盾した組織は、むしろたちが悪く、スライクひとりに止められるという悲惨な現状を作り出しているのであろう。
随分と奇妙な戦争で―――そして、随分と奇妙な魔族だった。
「ゆえに私は作戦を実行する。このまま攻め続ければ、あと数時間でスライク=キース=ガイロードを突破できる」
液状の魔物の分析は的確で―――そして、的外れだった。
液状の魔物は意図していないであろう。確かにあと数時間で、魔物数は“調和がとれる”。連鎖爆風に巻き込まれにくくなり、相対数も絶妙で、村へ魔物の侵入を許してしまう頃だろう。確かに、数時間後が正念場だ。
だが、スライクに、この大群を村へ侵入させるつもりは微塵も無い。
沈みかけた日が完全に落ち、星が世界を照らし出し、そしてまた日が昇るまで。この大群を滅ぼし続けるだけだ。
だから。
「……!!」
その“音”に、最も驚愕したのは液状の魔物だった。
大気が揺れ、大地を揺さぶるような轟音がガルドパルナの樹海を襲い始めた。
それに連動するように、甲高いそれで地鳴りのような悲鳴が幾度も響き渡る。
スライクは、振り返ることもなく、軽く舌打ちした。
この時間帯まで“出現”が伸びたのは僥倖だが―――ガルドパルナの方はいち早く正念場を迎えるようだ。
想定はできていた。
スライクが抑えるこの村への一本道。そこさえ死守すれば、魔物の侵入を許さない“わけではない”ことを。
人間にとっては村への唯一の通路であっても―――樹海の巨獣、ガルドリアを超えるものならば侵入口は無数にある。
「アグリナオルス様は私に言った。私に全てを任せると。ならば何故―――“トラゴエル”が……? ……そうか」
どうやら樹海を特攻しているのは、あの夜に見た岩の“知恵持ち”らしい。
スライクは、すでにおぼろげになっている魔物の存在を追憶していると、液状の魔物は笑うような仕草をした。
「アグリナオルス様は私に言った。全権は任せるが、私がスライク=キース=ガイロードを定刻までに突破できない場合、順次干渉していくと。今がその定刻か」
笑いは、歓喜のものではなく、自虐のようなものだった。
信頼に応えることができなかったか悔恨のように、任を全うできなかった自己嫌悪のように、液状のスライムは笑うような仕草をする。
その、あまりの人間らしい―――魔族らしい、とでも言うべきか―――挙動に、スライクは嘲るように睨みながら、再度、肩を鳴らした。
「ともあれ。これで『ターゲット』の破壊は確実なものとなった。スライク=キース=ガイロードがこの場にいる以上、『ターゲット』側にトラゴエルを攻略できる者はいない」
「そうだなぁ、それじゃあとっととてめぇら斬り割かねぇとな」
言って、スライクは眼を再び鋭くしていく。
敵戦力数の確認。無駄話でさらに回復した自己の体力。未知数な液状の魔物の戦闘能力を勘案し、“今まで通りに戦った場合の殲滅終了時刻を割り出す”。
戦い方を変えるつもりはなかった。
焦りは―――無い。
あの岩の知恵持ちは、スライクにとって取るに足らない存在だが、確かに村に残った面々では厳しいものがあるだろう。
だがそれでも。
彼らはそこに―――『ターゲット』を守るためにいる。
それはスライク=キース=ガイロードの世界でこう変換される―――“ならば『ターゲット』は守られるのだ”、と。
彼らは。
そして、自分も。
役割を遂行するために、その場にいるのだから。
――――――
何が起きているのかはすぐに分かった。
村の入口方面から聞こえる爆音や騒音。それらとは全く違う、大木が倒れ何かが砕けるような轟音は、まるで別方向から聞こえてくる。
何かがこの樹海に、特攻を仕掛けていた。
「アグリナオルスの指示だな」
日が沈んだガルドパルナ。
先ほどアステラに渡された光源を握り締めながら、クロック=クロウが苦々しく呟いた。
アグリナオルスという名を聞いて、マキナが思い起こすのは何をおいてもあの“選定”の日だ。
全身が鋼で造られ、その総てが鋭く尖った凶器の魔族。
貫くような指を差されたあのときから、自分の運命は大きく暗礁に乗り上げた。
「おそらく知恵持ち……、あるいは言葉持ちを特攻させているのだろう。サイガから聞いたことがある。侵入経路が限られた閉鎖空間が戦地である場合、アグリナオルスはこうした特攻を指示すると」
そうすることで、“道”を作り出すのだろう。
マキナは震えながら、轟音を聞いていた。
樹海は広い。どこから聞こえているのか正確には分からなかった。ゴーストタウンと化した村に不穏な響きが轟いている。
そして何よりも恐ろしいのは、音の主が、あの樹海の巨獣をものともせずに突き進んでいることだった。
「ていうか、本当に知恵持ちとかなんだろうな? あの魔族自身が攻めてきてんじゃねぇのかよ」
「それは分からん。だが、何が来るにせよ、真っ向からでは太刀打ちできんだろう。お前は今すぐ奥へ逃げ込め。私は様子を見てくる」
クロックには音源が正確につかめているのか、足元に詰まれた箱から手のひらほどの爆薬をいくらか掴み、村の西部へ駆けていった。音源はあちらの方角だったようだ。
マキナも心細さから爆薬を数個ほど掴んでガルドパルナ聖堂へ入ろうとし―――そこで、呆然と立つ女性に目が止まった。
「アステラ? どうしたんだよ」
「……」
彼女が無言でいると、本当に世界の中に消えいっているような気さえする。
我ながらよく気づけたものだと思いながらも、マキナはアステラの腕を掴んだ。
ギョっとするほど、彼女の腕は細かった。
「アステラ?」
「……すまない。少し、余計なことを考えていた」
「は?」
「いや、あの森に入れる存在が他にいるとは―――思いたくなくて」
「そりゃそうだけどさ」
あの巨獣の群れに飛び込める存在がいるとは、マキナだって思いたくない。
「それにだ。はっきり言って、私はいつも以上に、何をすればいいのか分からない。エニシ=マキナには気の毒なことだが、私が現状この場に留まる意味は薄い」
そう言うアステラは、沈んだように見えて、しかし声には変わらず感情が無い。
マキナは、そんなアステラこそ―――気の毒だと思う。
「いつもは裏方だが、今初めて痛感できた。これが―――戦争か」
戦争。それはあまりに非情なものだ。
死や絶望をもたらす場であり―――そして、“個”の無力さを察してしまう場所でもある。
大地を揺るがすほどの大群を相手にしているであろうスライク=キース=ガイロードを有していても、結局村への侵入を許そうとしているのだ。
絶大な力を持ったとしても、それが“個”ならばいくらでも崩せる。
矮小な力しかないとしても、それが“多”ならばいくらでも上回る。
どの道―――“個”は。
世界の広さを知るのだろう。
「だったらそれを、伝えりゃいいんじゃないか」
「?」
マキナは、目を細め、空を見上げた。
この場で構え続けたこの一日。いつしか日は沈み切り、星々が姿を現している。
次に自分は、太陽を見ることができるのだろうか。
「俺だってあの剣を創り上げた以上、もう何の役にも立たねぇよ。魔族はおろか魔物が目の前に現れたら、十秒もたない自信がある」
それは、哀しいほど―――事実だ。
現に3ヶ月前、魔物がただ剣を振るっただけで命を失いかけた。それ以前に、ただの人間にすら誘拐される始末だ。
エニシ=マキナは、本当に、矮小な存在なのだ。決して過去に思い描いた主人公の自分では無い。月日が過ぎるごとに、その予想図と現実は乖離していった。
そして過ぎ去った月日は、決してもう―――取り戻せない。
「だからさ、もう俺らはきっと、託すしかないんだよ。子供のときに未来の自分をいろいろ思い浮かべたけど、結局俺はこんなんだ。自分に戦闘の才能が無いからって、俺は勝手に諦めた」
これは、ペナルティのようなものだ。
未来から見てしまえば、過去の自分の諦めは、なんと滑稽なことか。
だから、最後まで自分を信じられなかった者は、哀しいことに、誰かに託すことしかできない。
「だから俺は、このときの無力さを、誰かに伝える。未来の誰かが、自分と同じように悔やまないために、誰かに託したいと思う」
勝手に諦めておいて、結局は誰かに任せるしかない。自分勝手なことかもしれないが、それは哀しいことかもしれないが、無力な自分が成し遂げることは、きっと無いのだろうから。
「は……」
マキナは言葉を紡ぎ、目を伏せた。
口から出てきた言葉で、思ったより自分が“割り切っている”と実感してしまう。
分かり切っていたことだ。自分が何かを成し遂げることの無い存在だというのは。
数多の武具を創り上げたところで、結局自分は、その武具がどのような物語を紡ぐのかは知らないのだから。
だけど、分かり切っているのに―――きっと自分は今、とても哀しい顔をしているだろう。
「まあ、でも。俺はお前と一緒に武器を創れて嬉しかったよ。お前なら、少なくとも俺の技術は真似できるだろ? お前が知らないことを、俺はお前に伝えられた」
これで―――自分の『何も無い世界』は、少しだけ変わるだろうか。
変わって欲しい。自分以外の何かが、自分の世界から何かを得ていくことは、少なくとも、幸せなことなのだと思う。
マキナはアステラの手を離し、背を向けた。
「だからお前も、誰かに伝えてくれ。今は何もできない俺たちだけど、戦争が終わったら、きっと誰かに伝えよう」
「……私では難しいと思うが」
「それでもさ。お前が伝えたいと思ったときに、伝えてくれりゃあいい。単なる事実だけじゃなく、お前自身の感想をさ。―――なんだったら、今からでも、上手く逃げてくれよ」
そんな想いは―――未来に繋がる導となる。そう、信じたい。
「分かった。善処する」
ズズズ、と背後から音が聞こえた。
振り返ると、アステラは爆薬の入った箱を開け、中から奇妙な物体を手持ちの袋に入れていた。
「アステラ? 何やってんだよ?」
「装備の補充だ。一応ミツルギ家の特別製だ。手榴弾に投げナイフ。あとは、小型化した銃もある。数十頭程度なら足止めできるが、この岩山が崩れないかが不安だ」
「…………」
「やはり全ては運べそうにない。思ったより多く用意してしまったようだ。クロック=クロウが補充に来るかもしれないから少量は残すが、残りはトラップに改造した方が良いだろう。聖堂内には罠もあるから、持ち運ぶ分にはこの程度にしておいた方が……どうした?」
「そうだよね。アステラちゃんは何でもできるんだもんね、俺と違って。ごめんね、鍛冶しかできない俺みたいなクズと同列に扱って」
「?」
マキナはアステラの準備を待たず、ガルドパルナ聖堂にふらふらと入った。
そして面白くなさそうに、渡された光源で洞窟内を照らす。
そこで、立て札が目に入った。
「アステラ。この立て札には何て書いてあんだ? 良く分からない」
「『これは罠です』と書いてある。分からないか、それは困った」
ちなみに、ご丁寧に矢印付きだ。
それを追うと、地面が不自然に盛り上がっていた。
「あれを踏むと爆発が発生する。この奥には、他にも足止め用の罠がいくつかあるが、全て人間には分かるようになっている。先ほども言った通りに」
「そういう感じで分かるようになってんのかよ!? さっきは我慢したけど今結構シリアスな感じでいこうと思ってたんだぞ!! どうしてくれんだ俺の気配り!!」
「だが、魔物相手には十分だと思うが」
「的を射ているだけに腹立たしい」
確かにこの表記があれば、被害を受けるのは魔物くらいであろう。
だが、いかに魔物といえど、矢印くらいは認識出来そうな気がする。
マキナは頭を掻きながら罠を避けると、アステラを引き連れてさらに奥に進む。
そして、今度は。
「あっ、あっ、あ!! 降ろして下さい!! お墓参りに行こうとしたら、何か足元から網が出てきて!!」
唖然とした。アホな子供がネットに引き上げられ、宙釣りになっている。
入口は自分たちが固めていたから、もしかすると彼女はかつて剣が刺さっていた間にいたのだろうか。
村人総てが魔族の脅威に震え退去命令が無くとも逃げ出したと言うのに、彼女は、己がルールのままにこの村に残ってしまっていた。
「ミツルギ=ツバキ。退去命令が出ていたはずだが、残っていたのか。しかし失念していた。この立て札の反対側には、注意書きをしていない」
「注意書き? いや、それよりも降ろして下さい!! 急がないと間に合わないです!!」
爆薬の方にかからなかったのは幸運と思った方が良いのだろう。
とりあえず、今日の墓参りは諦めてもらうしかないが、それ以前に―――このガキの頭に拳でも叩きつけなければ気が済まない。
「んだからてめぇらシリアスでいくって言ってんだろぉぉぉおおおっっっ!!!! ねえ!! 何で言うこと聞いてくんないの!?」
――――――
クロック=クロウはガルドパルナの最北部に辿り着いた。
特に民家が密集しているこの場所は、1階建ての家屋が規則正しく建ち並び、村で唯一迷い込んでしまうような無表情な空間だった。無人であることも手伝って、月下に照らされた建物たちは墓標のようにも見える。
ガルドリアの闊歩にも耐えきったその建物たちは、今、激しく倒壊を始めていた。
「……」
来るか。
建物の陰に身を潜め、クロックは乾き切った唇を舐めた。
努めて冷静にマントの中に手を入れ、拳大ほどの爆弾を取り出す。
威力だけなら背を預けている建物ひとつは消し飛ばせるだろう。
これだけ小型でそれだけ強烈な爆発を起こす物体を製造しているミツルギ家に背筋を冷やしつつも、クロックは身構える。
戦闘経験は、無いに等しい。このタンガタンザの大地を踏む最低条件として、若い頃にかじった程度だ。
敵を討ち滅ぼすことよりも、温かな場所を作り出すことを志し、そしてそのためだけに捧げてきた人生だ。
そしてそれを成し遂げた自分を、胸を張って誇れる。それは不遜では無いと言えもする。
自分の道は、確かに何かを成し遂げた、正しき道なのだと確信できる。
しかし、思ってしまう。
自分に戦う力があれば、自分の村は、もしかしたらあんな結末にならなかったかもしれないと。共に同じ場所を目指した同志は、この世を去ることは無かったのかもしれない。
自分の甘言に惑わされなければ、自分のいるべき場所で慎ましくも幸せな人生を歩めた者もいただろう。
クロックは、彼らの全員が、夢を手に入れ、迷い無く逝ったとは思えないし、言えもしない。
きっと彼らは恨んでいる。
結局のうのうと生き延び、村を滅ぼした当事者であるミツルギ家に従事している自分自身を。
クロックは自虐気味に笑った。
何だ、結局そうだったのか。
ツバキのためだなどと言っておいて―――自分は、彼らの恨みに耐えきれず、死に場所を探していたのだ。
そこに村への想いが存在していれば、彼らの恨みが薄らぐと信じたくて。
バッ!! とタンガタンザでは聞き慣れた爆音が轟いた。
僅かな追憶をしていたクロックの意識は鼓膜の激痛と共に呼び覚まされる。
腹の底から響くような激震に交じり、樹木が軋み、倒れる音が聞こえる。
吹き飛ばされたのはクロックが身を隠していた建物の2つほど先の民家だった。
飛び散る家屋の欠片は壁や大地に突き刺さり、凶器のように尖っている。
クロックは、もう1度、唇を舐めた。
砕かれた家屋に僅かに目を細め、建物を一撃の元に破壊し切った“その存在”を隠れて覗う。
狂うように取り乱さない程度に場数を踏んでいるつもりだが―――流石に、戦慄した。
“森から岩石が飛び出ていた”。
クロックの身丈より遥かに巨大な岩が、その上で連なり、樹海の深部から伸びている。
森を突き進んできたのか、岩は葉や苔で緑に汚れ、所々ひびが入っている。
これは―――何だ。
クロックは、即座にミツルギ家で収集していた警戒対象の魔物を頭の中で並べ立てる。
敵は樹海から岩を投げ入れられるほど強力な力を持ち、その上で、“ガルドリアを突破できる”。
彼我の力は絶対的だ。勝ち目は無い。
クロックは息を潜めることに全力を傾け、闇に閉ざされた樹海を窺う。
すると、パキリ、と。
家屋を砕いたときの衝撃からか、ヒビだらけの岩が砕ける。
そして、ズ、と。
砕けた岩の“次の岩”から、ゆったりと、鎌首をもたげるように、上がっていた。
脅威の光景に、クロックは呆然としながら息を呑む。
投げ入れられたものでは無かった岩は、夜空を突くように上がる岩は、いや、“岩たち”は、意思を持っているように連なり何かの形を成していた。
『蛇』。
形状から言ってしまえば、それは岩で造られた『蛇』だった。
玩具のようにも見えるそれは、しかし子供にはあまりに不釣り合いなほど巨大過ぎた。
樹海の高さを超え、ガルドリアの背丈すらも遥か超え、突きに牙を立てる程に高い。
あれほどの位置から見下ろせば、建物に身を隠しているクロックすら視界に収めることができるであろう。
―――トラゴエル。
アステラからの情報にあった、『ターゲット』たちが遭遇した“知恵持ち”。
奴は、このガルドリアがひしめく樹海を、強引に突き破って見せたのだ。
そして防衛線が始まる。
クロックは慌ててトラゴエルの身の“直線上”を避けた。
次の瞬間、村に落ちていた影が巨大になる。
駆けながら振り返れば、案の定、トラゴエルはその身体をまっすぐ村へ倒してきた。
直後、大地が砕けるほどの震災。
腹ばいになって倒れてきたトラゴエルは、クロックが隠れていた家屋を巻き込み、村を見事に二分した。
正しく落石のような破壊は、村の形を変えたであろう。
クロックの位置からは『蛇』の腹部とでも言うべき位置しか見えない。頭は恐らく、村の反対側だ。トラゴエルは、このまま村に幾度となくのしかかり、村を更地に変えるであろう。
クロックの村の破壊などとは比較にならない、魔族側の本軍の攻撃。
続けられたら、日の出など拝めない。
「ふんっ」
クロックは身をひるがえしてトラゴエルに接近し、爆弾を投げつけた。
目を焼くように夜の闇に爆ぜた爆弾は、『蛇』の腹部を消し飛ばし、トラゴエルの身体を二分した。
脆い。
耳と目を塞いで爆風をやり過ごしたクロックは、トラゴエルの身体に注視した。
3つほど岩石が吹き飛び、『蛇』の身体は千切れている。
その身体は、強大な魔物にしては脆すぎた。
ただの一撃で、致命的な傷を負わすことができたのだ。
ただそれは、相手が生物であった場合に限る。
「……!!」
砕けた岩の、端と端。
爆撃が届かなかった無傷の岩が、車輪のように回り、互いに近付いていく。
クロックが唖然としている中、ついに岩たちは結合。
再びトラゴエルは鎌首をもたげ、夜空の遥か高くに持ち上がる。
相手がただの『蛇』ならば、今の一撃で決まっていたと言うのに。
「……、」
“無機物型”。
ミツルギ=サイガが集めていた資料に、そんな情報が載っていた。
この広大なタンガタンザを百年程度で更地に変えた“魔族”―――アグリナオルス=ノアが使役する“言葉持ち”、あるいは“知恵持ち”には、そうした魔物が多いらしい。
生物という枠組みを外れた魔物たちは、人が想定できる限界を遥か超え、あらゆる防衛策を突破してきたと言う。
トラゴエルという魔物も、“岩石”という“無機物型”の魔物なのだろう。
だが一体、どのような理屈なのだろうか。
クロックは次なる爆弾を握り締め、生唾を飲み込む。
無限を思わせるほど高く積まれたあの岩石。
砕いて見せても、トラゴエルはすぐに修復してみせた。
クロックはさらに思考を進める。
相手がいかに奇妙な存在だとしても、目の前に存在している以上、自分が想定できるロジックで動く。そこは決して変わらない。何故なら無機物型の魔物も、“思考を持つ魔族によって作り出された存在なのだから”。
かつて神族の加護を受け、魔族を世界から退けた人間ならば、その思考に近付くことは必ずできる。
つまり―――“セオリー”。
人間が想定できる、“高が岩の怪物”を滅する手段は必ずある。
トラゴエルは、無限の岩を持つ魔物。
いや、岩石は有限だ。現に、砕けた岩は動く気配を見せない。あの身体は、先ほど見たときよりも岩石が少なくなっているのだ。
だが、残った岩で、問題無くトラゴエルは活動している。
そうなると、“想定できるロジック”はふたつある。
ひとつはあの岩の中に、“トラゴエルの本体”があること。
他の岩はあくまで自然物に過ぎず、それぞれが魔力によって結合している可能性。
物体を結合する魔力の存在はいくつも知っている。
水曜属性ならばここの岩石を制御して活動させることが可能なはずだし、金曜属性でも土曜属性でもそれぞれの特徴を生かし、似たようなことができる。
あらかじめ全ての岩石に魔力を込めておけば―――それでも、膨大な魔力が必要だが―――手段はいくらでもある。
ふたつ目は、“あの岩総てがトラゴエル”。
だからどの岩が砕かれようが、それぞれが独立して動き、元の姿を形作ることができる。
はっきり言って、そっちの可能性は最悪だ。
この場合、あの岩総てを破壊しなければトラゴエルは止まらない。
だが―――この可能性は、低い。
前にアステラが、トラゴエルは最初人の形を模した状態で姿を現したらしい。つまり、自在に姿を変えることができるのだ。
“それならばこの村はとっくの昔に殲滅されている”。
あの岩総てが活動可能ならば、戦力を分散し、この村を岩の大群で襲うことができるはずなのだから。
相手が“知恵持ち”ならば、その手段には即座に辿り着く。
つまり―――ひとつ目。
あの岩の中に、トラゴエルの本体がいる。
クロックは夜空を見上げた。
同時、先頭の岩に穴が空き、意思を持つ者の光を灯す。
月下に光る、トラゴエルの先頭の岩石。
あの貌が、トラゴエルの本体だ。
「―――、」
口の無い岩石の『蛇』が、蠢いた。
「―――!!」
揺れ動く地面と強烈な危機感がクロックを襲った。
即座に察し、クロックは身を隠していた家屋から離れる。
直後、樹海から再び突くように現れた岩石が家屋を氷のように打ち砕いた。
“尾”。
トラゴエルは、身体を立たせる樹海から、今度は尾で村をついてきた。
巨大な槍のように走る一撃をクロックは辛うじて回避するが、ブッ!! と爆音と共に襲った風圧に吹き飛ばされる。
「ぐっ、つ」
背中を強く打ち据えるもクロックは立ち上がった。
経験したことも無いような激痛が、肩から腰にかけて湧き上がる。
冗談ではない。
対処法が想定できたところで、それは遥か上空の話。
一方こちらはトラゴエルが身をよじるだけで吹き飛ばされる。
話に聞いていただけだが、“知恵持ち”とはここまで危険な存在だというのか。
“知恵持ち”とは、知性が芽生えるほど長くこの世界に留まり、経験を積んでいる存在でもある。となれば当然、経験値という面でも人間を凌駕しているのだろう。
ミツルギ=サイガがかつて言っていた、“知恵持ちがいれば戦況は逆転する”という意味が今ようやく分かった。
だが。
「ふんっ!!」
クロックは飛び出た尾に向けて、爆弾を投げつけた。
爆音。
トラゴエルの岩石は砕け、弾け飛ぶ。
諦めるつもりは毛頭無い。
あの岩石を破壊し続ければ、いずれは本体が届く場所に降りてくるはずだ。
ここで死ねば、自分は何も成し遂げられない。
自分は死に場所を求めているのだから。
「……!!」
尾を吹き飛ばされたトラゴエルが、縮みこむように樹海に身を隠した。同時に尾も樹海に姿を消す。
トラゴエルが身を地に落としたと思われる轟音。そして樹海が次々なぎ倒される不気味な音が夜の闇に響く。
何のつもりだ。
クロックは目を光らせ、樹海の奥を注視する。
すると、バンッ!! と、村の入口から爆音が響いた。
村の入口に設置していたトラップだ。
一瞬、村の防衛線が突破されたのかと勘繰ったが、違う。
あれは、“トラゴエルがその場所を通過したのだ”。
「!!」
再び響く地鳴り。トラゴエルは罠をものともせずに動きを続けている。
クロックは、即座に“その攻撃”を察した。
トラゴエルは恐らく、村を覆うように岩の身体を設置した。
そしてその状態から、鋏のように―――身体を閉じる。
村の総てを巻き込んで。
「!!」
察した直後、クロックの眼前に、岩石の壁が姿を現した。
車輪のように回転し、途中で巻き込んだ樹木や建物を轢き殺し、高速で接近してくる。
爆弾はもう、間に合わない。
――――――
「……村は原形留めてんだろうな?」
思ったよりも、軽口は空虚に響いた。
度重なる爆音に深刻な表情を浮かべ、マキナはそれぞれの顔を見渡した。
ここは“かつて”、ラグリオ=フォルス=ゴードの剛剣が突き刺さっていた奥の間。
『ターゲット』たるマキナはこの日の翌朝、つまりは日の出までこの場所で待機することになる。
この場所には、ほとんど何も無かった。
奥の大穴を封じるバリケードはそのままだが、この部屋の主役である剣はすでに無い。
背筋が凍るほど、何も無い世界だ。
身体は、いつに無く震えていた。
外の爆音が、徐々にこの場に近付いてくるような錯覚をし、それが目に見えるタイムリミットのように感じ、戦慄を繰り返す。
終わることが、この上なく、恐かった。
無表情なアステラも、しかしどこか顔を俯かせている。
まだ見ぬ魔族軍の襲撃に怯えているのならば可愛いものだが、しかし彼女はきっと、自分が実行可能な行動をシミュレートしているのだろう。
結局のところ、戦場には、怯える者か、真剣な者しかいないのだろう。
そして怯える者から消えていく。
分かっていても、本当に、どこまでも、怖かった。
「ひひゃいです……」
ただ、むしろこのガキの行動の方が戦慄した。
何も無いこの奥の間に、簡単な寝袋を設置し。
戦場の中でも、“外れた”自分のままでい続ける少女。
ミツルギ=ツバキ。
彼女は、頬をさすり、部屋の隅でめそめそと泣いていた。
先ほどマキナが、恐らく子供に使う次元を超えて、両頬を力の限りひねり上げた影響だろう。
「なあ、ツバキよ」
「な、何ですか……?」
「お前本当に、自分が何したか分かってんのか?」
「はい……、反省してます」
戦場にいる、子供。
ツバキは頬をさすりながら、多分、心の底からそう言っていた。
だがそれは、きっと、今だけのものなのだろう。
「お前。この前、村に強制退去命令出たこと覚えているか?」
「はい。そうでした……」
覚えてもらっていなければ困る。
何せあの日、村に残っていた唯一の退去対象者は、ミツルギ=ツバキだけだったのだから。
そのときも、彼女は心の底から、話の内容を理解していた―――はずだった。
「じゃあ何でここにいんだよ!?」
荒だった心境そのままにマキナはツバキに怒鳴りつけた。
ツバキは身体をびくりと震わせ、縮こまる。
現状、仲間内で争っている場合では無い。それは分かる。
だが何故か、目の前のツバキだけは許せなかった。
だってお前は―――逃げれば生き延びられるじゃないか。
「でも……、その。おとーさんとおかーさんのお墓参りがありますから」
プッ、と何かが切れた。
妙な奴だとは思っていたが、まさか“ここまで”とは。
この期に及んで、まだそれを全うしようと言うのか。
しかも―――だ。
ツバキは、腫れた頬を、僅かに膨らませていた。
それは―――“ただ大人が子供を叱っているだけのような光景だった”。
「お前理解してんのかよ。これは戦争だ。遊びじゃ無くて、ガチで死ぬ。勝ち負け以前に、“その経過でさえ”死ぬ奴がいるんだぞ」
「理解してます」
「そうは思えねぇんだよ!!」
「理解しています。だからおとーさんとおかーさんが、家にいないんだから」
「っ―――」
一瞬言葉に詰まったが、マキナはツバキの頭を殴りつけたい衝動にかられた。
“それ”を理解しているのに、その行動は許せない。
「エニシ=マキナ」
「んだよ」
「あまり大きな声を出すな。所在が知れる」
この時ばかりはアステラの口調も癇に障った。
彼女も彼女で、ミツルギ=ツバキを責めようともせず、ただ静かに座っているだけ。
彼女にとって、子供がここにいるという異常事態は、精々ツバキのせいで罠がひとつ無くなった程度のことなのだろう。
“非情”。
その言葉が何度も浮かぶ。
きっと彼らは、マキナに終わりが訪れても、そのままで在り続けるだろう。だがそれについてだけは、マキナは許容できる。あくまで赤の他人の自分の終わりに、心塞がれても嘘臭い。当たり前のことだ。
問題は、その“当たり前の光景にさえ”到達できないことを、彼らが自覚していないことだった。
「ふざけんなよ……マジで」
マキナは握った拳を地に打ち据え、ぎらつく視線をふたりに突き刺した。
一体何なんだ、こいつらは。
どうしてその“権利”を捨てられる?
アステラたちが助力してくれるのは嬉しかったが、その一方で、マキナは彼らが恨めしくも、羨ましくもあった。人の汚い部分で、どうしても思ってしまう。
何故なら彼らは、逃げれば助かるのだ。
マキナは思う。もし自分が、『ターゲット』などでは無く、ただの鍛冶職人としてこの戦争に参加していたら何をしていたかと。
きっと、剣を創り上げた後、早々にタンガタンザの地を去っただろう。この大陸はあまりに死に近過ぎる。
当事者に成って、死に直面して、初めて分かった。この大陸は恐いのだと。
そしてそれを、誰かに伝える。
その恐怖を、誰かに活かしてもらいたかった。
それでも彼らはここにいる。
もし自分が定刻前に死ぬようなことがあれば、“戦争の続行”。すなわちこの場にいる人々は戦火に巻き込まれることになるのだ。
自分の恐怖は、誰に伝わることも無く、そのまま途切れてしまうだろう。
頼むから―――誰かこの非情を伝えてくれ。
マキナは震えながらそう思う。
「どの道、だ」
マキナの表情をじっと見ていたアステラは、相変わらず抑揚の無い声で言った。
「ミツルギ=ツバキはこの場で保護する他無い。この岩山から出れば、即座にそこは戦場だ」
それはその通りだった。
マキナは入口を鋭くしたままの瞳で睨む。
この奥の広間までの道は一本。僅かばかりくねっているせいで外の様子は分からないが、それでもすぐに外へ繋がる。
外では現在、クロック=クロウが戦っている。そしてさらに村の外では、スライク=キース=ガイロードが魔物の大群と相対しているのだ。樹海の経路は言うに及ばずガルドリアが支配している。
完全に密室だ。人間が出られる余裕は全く無い。
すなわちツバキは、アステラ同様、マキナと運命を共にすることになる。
器用なアステラなら逃げおおせることができるかもしれないが、ツバキは不可能だ。何せ、人間ならば分かるであろう罠に平気でかかるほどなのだから。
そもそも、アステラがこの場にいることからしてなのだ、自分は。
「……この洞窟、どっか安全な場所は無いのかよ?」
「無い。だが一応、敵と『ターゲット』を結ぶ線上から逃れる場所はひとつだけある」
「……だけか」
マキナもその場所は知っていた。
このガルドパルナ聖堂は、入口から奥の間まで、曲がりくねっているとはいえほぼ1本道だ。
だが唯一、そのルートから逸れて向かう場所がある。
入口付近の横道に入り、その直後に広がる大広間。
戦火によってこの世を去った、数多くのタンガタンザの民が眠る墓地だ。
広さはガルドパルナの村さえ超えるほどの巨大空間。がっぽりと空いたその空洞は、多くの墓標で埋め尽くされている。百年戦争によって失われた多くの村の想いが沈められている場所だ。ツバキが足しげく通う理由もそこにある。
しかし、あの場所は危険だ。
当初、この奥の間と墓地のどちらに潜むべきか検討されたが、入口に入ってすぐに目に入る道の先にいるのは躊躇われる。
魔物の大群が押し寄せたとき、墓地の広間で大量展開されれば終わりだ。ならば細長い道に罠でも張っていた方が守りやすい。
であれば、危険と判断した墓地にツバキを避難させることはできない。
「いいかツバキ。お前はとにかくじっとしてろ。『ターゲット』の近くにいるのがすでに正気じゃないが、冷静なままでいろよ」
「は、はい。分かりました」
素直な返事。ツバキは本当に、自分の言葉を理解しているのだろう。
だが、マキナは思う。
この子供は、きっとそれを忘れる。
どこぞの当主様とは違い、口先だけでは無く、本心から頷いてはいる。しかし状況が僅かにでも変われば、この子供はそれを記憶から放り投げ、リセットされた状態で己の本能に従って行動をするのだ。
マキナは皺を寄せた。
何故、こんなことになった。
自分は、ただ悪意ある人間に誘拐されただけだ。
それが始まり。
しかしその後、人間の悪意など一笑に付す化物が現れ、自分は指を差された。
総てが変わってしまったあの夜を過ぎ、気づけば自分は戦争の中心に立っていた。
その上女子供を巻き込んで、魔族の脅威にさらされている。
不幸すぎる。
あまりに―――優しさが無い。
魔族に傷さえ負わせられないであろう自分が、間近で戦闘が起こっているのに身を振るわせることしかできない自分が、何故こんな物語に巻き込まれたのだろう。
マキナは顔を伏せ、泣きそうな顔でアステラとツバキを眺めた。
救ってやるとも言えず、守ってやるとも言えない自分が、ただただ恥ずかしくて、悔しかった。
そこで。
骨髄を吹き飛ばすほどの衝撃が聖堂を襲った。
――――――
『蛇』の身体は閉じられた。
ガルドパルナを囲むように回した身体の輪を狭め、村をすり潰したトラゴエルの一撃は、完膚なきまでに全ての建物を大破させた。
『聖域』ガルドパルナは最早再起不能であろう。
建物は廃材に変わり果て、箒で払われるように村の中心に集約されている。
畑は吹き飛び植物は引き千切られ、数か月前まで人が栄えていた空間が、一瞬の内にタンガタンザの荒野となった。
災害。
意思のある者が介入したとは思えないその光景は、正しく災害の痕だった。
しかし。
1点だけ、僅かに破壊から免れた地点があった。
箒の先の隙間に身を滑り込ましたように、巨神の御手を免れた空間が、確かにあった。
「……はーっ、はーっ、はーっ」
クロック=クロウは、両手を突き出した姿勢のまま、恐る恐る目を開けた。
震える両手を握り絞め、震える足を無理矢理立たせ、ゆっくりと振り返る。
背後には、比較的破壊が緩やかな村。
その先には巨大な蛇が鋏のように閉じられており、そして、それだけが座していた。
村の全ては無に帰した。
そんなことはすぐに分かる。
あの『蛇』の身体が閉じられている以上、ガルドパルナは事実上消滅したことになる。
クロックは、歯をギリと噛み、しばし余計な思考に時を費やした。
ツバキが好きと言った家は、もう、この世には無いのだろう。
「……これでは、墓標が増える理由も分かる」
クロックは、帽子を目深に被り、ギロリと『蛇』の身体を睨みつけた。
『蛇』の身体はふたつ折りに閉じられているが、1点だけ、損失している部分がある。
クロックをすり潰そうとした地点だ。
その場所を担当していた岩石は今、クロックの足元で粉々に砕けている。どう見ても、普通の岩だった。
自分の属性ならば砕けて当然。
若い頃にかじった程度の魔術であったが、存外、自分は戦闘に向いているのかもしれない。
「さあ来い化物。そういう攻撃ならば用意がある」
クロックが睨みつける先の、『蛇』の身体が千切れた場所。そこは再び無事な岩石が結合し、『蛇』の身体はひとつに戻った。
やはり―――そういうことか。
クロックは目を細め、マントに手を突き入れる。
また―――岩を減らす作業が始まる。
「―――!!」
『蛇』の身体が、今度は展開し始めた。
再び村を拭い去るような岩石の猛激が放たれる。
クロックは“壁”が近付く前に、爆薬を投げ放った。
鼓膜を打ち破るような爆音。
次いで落石のような破壊音が轟き、クロックの左右を千切れた『蛇』の身体が通過した。
「!!」
しかし、流石は知恵持ちと言うべきか。
先ほど凌がれた無駄な攻撃とは違い、岩の身体はクロックの背後で急停止。高速で結合を行い、そして『蛇』の身体は閉じられる。
再び、爆弾が間に合わない距離に『蛇』の壁。
クロックは両手を突き出し、手のひらに魔力を集中させる。
月明かりが照らすのみの暗闇の世界。
そこに、赤い光が灯った。
「―――ふっ」
この魔術の名前は忘れてしまった。
詠唱もできない、何かの魔術。
だが自分は、この魔術を気に入っていた気がする。
自分の属性が、破壊力の頂点に君臨する危険な力であることが分かった日。
それとは別に、分かったこともある。
運命を打ち破り、突き進むことができる属性ではあるが、同時に、“その反動を抑え込む術”を有していると。
故にこの力は―――火曜属性は、何かを守るためにも使えるのだ。
バンッ!! と破裂音が響き渡った。
クロックが突き出した両手の前に、赤いベールが出現し、『蛇』の身体はまたも千切れる。
村を瞬時に滅亡させる攻撃でも、クロックへの衝撃は無いに等しい。
火曜属性の衝撃は驚異的である。
爆弾そのもの―――あるいは、それさえ凌駕するような衝撃なのだ。最初の『蛇』の身体を閉じる攻撃をしたとき、クロックが爆弾を使用するのを控えたように、至近距離での爆発は危険極まりない。
しかし、火曜属性の者はそれを実現している。
その答えは、火曜属性の術者が元来有してしまう“癖”にある。
破壊を打ち出す力と同時に、“破壊を打ち消す力を使用すること”。
小柄な少女の細腕でも無傷で岩石が砕けるように、打ち消す衝撃は物理魔術を問わない。
敵の攻撃を前にしたとき、回避や防御では無く、最も危険な“相殺”を狙うのは火曜属性の者ぐらいであると言われる。
クロックはそこに着目した。
火曜属性は、防御能力にかけても長けているのだと。
物理的な防御力ならば、金曜属性には遠く及ばない。
魔術的な防御力ならば、土曜属性には遠く及ばない。
しかし火曜属性は、守る力を選ぶことも可能なのだ。
破壊と守護。
矛盾しているような力をその身に宿す属性は、岩石など遥かに凌駕する。
「ふん!!」
今度は展開。
『蛇』の身体は広がり、クロックを岩石の壁が襲う。
クロックは、赤いベールを出現させ、岩を砕いてやり過ごした。
この赤いベールに、相手を破壊する効果は無い。ただ、自分への衝撃を抑え込むだけのものだ。
故に、敵が高速で突撃しなければ相手には何も起こらない。
『蛇』は、自らの力によって、我が身を破壊している。
「!」
『蛇』は、今度は身体を閉じなかった。
破壊された身体を結合しつつもそのまま転がり、村の外まで広がっていく。
すでにトラゴエルが通過した樹木は破壊され、村は岩だけに囲まれている。
改めて全体を見渡して、クロックはギョッとした。
『蛇』は、壮観とも言えるほど巨大だった。
岩の身体に轢かれた樹木が千切れて埋め込まれた“荒野”は、ガルドパルナの面積を拡張し、禁断の樹海を開拓している。
今まで部分部分でしか見ていなかったその全貌は、今まで戦闘を行っていたクロックでさえ、動くとは信じられなかった。
『蛇』が身体を起こし始める。
恐らく尾に分類される側の岩石はとぐろを巻き、恐らく頭に分類される側の岩石は鎌首をもたげ、再び『蛇』は夜空を突くが如く身体を起こす。
「う―――」
ブッ!! と尾が走った。
とぐろを巻いていた岩石の連なりが解放され、疾風のようにクロックに向かって突き出される。
絶望的な光景に目を奪われていたクロックだが、即座に反応して地面に飛び込む。
『蛇』の突きは、間一髪、轟音を響かせクロックの背後を通過した。
“知恵持ち”。
クロックは地面から身を起こし、即座に構える。表情は焦りのみが浮かんでいた。
この魔物は、こちらの戦力を分析し、すでに的確な行動に移っている。
万能に思える火曜属性の力だが、致命的な欠陥として、連続攻撃に弱い性質がある。
と言うより、そもそも脅威の防御力を発揮できるのはほぼ一瞬だけなのだ。
そもそも自己の反動を打ち消すために長けている力である。
己、または相手の攻撃に一瞬だけ力を合わせ、反動を抑え込む。それだけで、火曜属性の者にとっては十分過ぎる。何故ならその防御が成立した瞬間、倒れているのは相手なのだから。
そのため、トラゴエルの身体が繰り出す突きは最悪だ。
最初の岩石を砕けても、次の岩石が襲いかかり、その先にも無限の岩石が控えている。
この突きに、クロックの赤のベールは通用しない。
範囲攻撃ならば一点突破で何とかなったが、こちらはまるで種類が違う。
―――どうする。
クロックは『蛇』の頭にも尾にも警戒しながら、荒野となったガルドパルナをひた走る。
動きを止めたら終わりだ。止まった瞬間、鋭い突きがこの身をすり潰してしまう。
「…………」
クロックの背筋を、岩石の突きが掠める。
心臓が早鐘のように成り続ける。
自分は一体―――何をここまで必死になっているのか。
クロックは成す術無く逃げ惑いながらも、自分へ疑問を投げかけていた。
自分はツバキのため―――いや、違うか―――自分の死に場所を求めているのではないのか。
軌道の変わった岩石は、間一髪踏み留まったクロックの眼前を通過する。
非戦闘要員である自分。魔術もそこまで得意ではない。
火事場の馬鹿力のような防御も、間もなく魔力が切れるだろう。
危なくなったら逃げるつもりだったではないか。
最早逃げることもできそうにないが、素直に『ターゲット』を差し出せば、話くらいは通じるかもしれない。
妙なルールを設定する魔族軍だ。可能性はゼロではないだろう。
だが―――何故だ。
自分の死に場所を探すよりも―――それを嫌う自分がいる。
「―――、」
トラゴエルは無差別に攻撃を繰り出していたわけでは無かったようだ。
気づけばクロックは岩山の壁にまで追い詰められていた。
広大な荒野となった村は、いつしかトラゴエルの身体に埋め尽くされ、移動範囲が極端に狭くなっている。
あと幾度か攻撃を繰り出されたら、逃れる術は無いだろう。
「……」
クロックは、呆然と、蹂躙され尽くされた村を眺めた。
トラゴエルの身体に阻まれ、見える範囲はずっと狭い。
だが、破壊の痕は、生々しく土煙を上げている。
どれだけ時間が経ったのか分からない。
5分ほどだったようにも、数時間だったようにも思える。
夢の中の物語のように時間間隔が曖昧で、おぼろげで、そしてあまりに儚ない場所だった。
「…………」
こんな風に―――自分の村も、滅ぼされた。
魔物が蹂躙し、無に帰されそうなところを、ミツルギ家が止めを刺した。
最終的にはミツルギ家の判断によって破壊された自分の村だが、結局のところ、原因はこの戦争だ。
ミツルギ家を恨むのはお門違いなのだろう。
ならば。
「……そうか」
クロックは目を伏せて呟いた。
今頭上では、トラゴエルが鎌首をもたげ、獲物を鋭く狙っているだろう。
「そうだ……。そうだな」
クロックは拳を握り、僅かに微笑んだ。
こうしている間にも、トラゴエルはクロックを轢き殺す算段を立てているのだろう。
もしかしたら、すでに尾が走って自分に高速で接近しているかもしれない。
だが、クロックには、はっきりさせたいことがあった。
自分の死に場所を探していた。
確かにそうだ。
自分は失ってしまった仲間たちに、この身を捧げたいと思ったのだ。
それは事実。
しかしその一方で、自分から発する想いがある。
受動的なものでは無く、クロック=クロウという人間が、強く強く想うこと。
そんなもの、ひとつしかない。
「俺の村を壊しやがって―――ふざけんじゃねぇぞコラ」
トラゴエルが尾を放った。
クロックは身をひるがえして突きを回避する。
激震。
トラゴエルの尾はガルドパルナ聖堂の岩盤を突き破る。
岩山が鈍く揺れ動く。
しかし、乱雑な開通工事でも、岩山が崩れるようなことは無かった。
ミツルギ=サイガが言った通り、この岩山は丈夫らしい。
トラゴエルが尾を引き抜いたところで、クロックは空洞に身を滑り込ました。
『ターゲット』がいようが関係無い。広い空間でトラゴエルと戦うのは限界だ。
トラゴエルの縦横無尽な攻撃を避けるには、ある程度制限が必要だった。
「そうじゃなきゃ―――こいつをぶっ殺せねぇだろうが!!」
クロックが入り込んだのは、案の定、多くのタンガタンザの村が眠る墓地だった。
広さだけならガルドパルナを超えている。
だが、ここには高さの制限があり、そして、罠が大量に仕掛けてある。
クロックは手をかざし、自らの魔力で灯りを灯した。
赤く光る墓標は小刻みに揺れ、更なる衝撃を予感させる。
クロックは目を細め、外の情景を予想した。
恐らく、馬鹿正直に空いた穴から突撃してくることは無い。
岩山は無理なのだろうが、村と隣接するように墓地があるこの空洞が、唯一壁を討ち抜ける。
そしてトラゴエルの頭と尾の位置からして―――
「そこだろ!!」
クロックは爆弾を壁に投げつけた。
次の瞬間、壁が吹き飛びトラゴエルの頭が姿を現す。
爆発。
完璧なタイミングで爆ぜた攻撃は、トラゴエルを怯ませる。
頭の岩は―――砕けない。
僅かにひびが入っているが、身体の岩のように軟ではなかった。
やはり―――あれがトラゴエルの本体。
あの部分は、特殊な岩石のようだ。
もしかしたら魔力の原石を使っているのかもしれない。
この―――岩山のように。
「はっ!!」
クロックは砕けて転がっていた形のいい石を投げつけた。
いつしか赤く光っていた石は、怯みながらも突撃を目論むトラゴエルに向かっていく。
キーン、と鈴のような音が響いた。
トラゴエルの身体がピタリと止まる。
『ターゲット』であるエニシ=マキナにこの岩山の“材質”を聞いたとき、試してみたのだが、これはかなり効率的だ。
魔力を込め、押さえ付ける魔術を発動しつつ相手に投げつける。
すると魔術を受けつけない魔力の原石は魔術と成った魔力を弾き出す。その僅かなタイムラグが、火曜属性の遠距離攻撃を可能とするのだ。
範囲は狭く、破壊効果も無い。
相手が大群であることを想定して爆薬の方を優先していたが、突きで攻撃してくるトラゴエル相手ならば有効だ。
クロックは足元に転がる岩を拾い集めて魔力を込める。
準備は万全だ。
岩山への侵入を防ぐことができる。
トラゴエルは警戒しているのか、容易に突撃してこなくなった。
クロックは不敵に笑う。
「来いよコラ。“お前の弱点は分かっている”」
そのとき。
「……、って、え、クロックさん?」
「動くなっつったろこのガキ!!」
『ターゲット』と―――何故かミツルギ=ツバキが姿を現した。
――――――
「はっ」
人のものとは思えぬ大剣を荒野に突き刺し。
全身におどろおどろしい毒物を浴びながら。
スライク=キース=ガイロードは鋭く笑った。
毒物に関しては問題無い。すでに治癒が始まっている。
深刻なのはスタミナか。
毒物のせいで順調に回復せず、四肢の動きが微妙に鈍い。
肩で息をしなければ呼吸はままならない。
疲弊感を曝してまでも、体力回復に努めなければ危険な状態だった。
しかし。
その戦果は、人の遥か先を行っていた。
「……随分と―――慎ましい光景だなぁ、おい」
「お前には幾度となく驚かされる」
水の中で響くような声。
無機物型の“言葉持ち”は、水色の身体を波間のように揺らめかせ、タンガタンザの大地に漂っていた。
そして―――今この場の敵は、その存在だけだった。
風が、タンガタンザの大地に吹いた。阻む者は無く、荒れ狂った大地を吹き抜け、ひとりと1匹の身体のみを叩く。
戦闘が開始されてから半日をゆうに超えた大地には、魔物大群は存在しない。
総て―――その剣から逃れることはできなかった。
こうしている間にも、スライク=キース=ガイロードの体力は急速に回復していく。
最早身体の造りは、およそ生物としての枠組みを超えた構造だった。
「“線超え”」
「あ?」
液状の魔物は、呟くように囁いた。
不快な声を睨みつけながら、スライクは応じる。
体力回復の機会をくれるのならばありがたい。
「以前、アグリナオルス様が私に教えて下さった言葉だ。生物には確かに限界ラインが存在するのに、歴史はそれを嘲笑った存在がいることを教えてくれる。スライク=キース=ガイロードは“線超え”、ということか」
「線だがなんだか知らねぇが、随分悠長な評価だなぁ、おい。全滅してんぞ」
「まだ私がいる」
恐らく手と思われる位置が、恐らく胸と思われる位置を叩いた。
この光景を前にしても、液状の魔物に―――もともと表情は分からないのだが―――焦りは見えない。
スライクは、身体の状態を確認した。
毒物。完全除去終了。
体力。順次回復中。
四肢は十分に動く。
何も問題は無い。
「スライク=キース=ガイロードに“線超え”という言葉を使うのならば、私にも同様の言葉が使える。魔物の中の“線超え”―――お前たちは、“言葉持ち”という言葉を使うらしいな」
剣を大地から抜き放った。
重く、切れ味は無い、高速の世界でのみ剣と化す神話の再現。
スライクは、猫のような瞳を光らせた。
この大群を―――野生の塊を抑え、率いて見せた“言葉持ち”。
来る。
「人間が。話を聞けよ」
ビュッ!! と弾丸が射出された。
鋭く走ったのは青い魔術。それが水曜属性の魔術だと察した瞬間、スライクは剣を振り抜いた。
水面を叩くような音が響いた。
スライクが振るった大剣は弾丸を斬り裂き、全てを背後へやり過ごす。
魔術の原石を使用した剣。それは魔術を受けつけず、魔術攻撃すらも切断する。
スライクは即座にその身を暴風と化し、液状の魔物に斬りかかった。
「―――!?」
一瞬驚愕。そして即座に距離を取る。
今、振り切った剣は液状の魔物の脳天を捉え、股下まで斬り捨てた。
しかし、あまりに抵抗が無い。
まさしく水を切るかのように、スライクの一閃は大地を砕くために振るわれたようだった。
「―――分かると思うが」
水の中で響く声。それが、スライクが切り裂いた液体から発せられた。
生存。
生物ならば死は免れない一撃を受けてなお生存。
これが“無機物型”。
“環境”であるその存在は、生物のロジックを超えている。
「私の身体は水である。剣が斬れるものではない」
―――だが、想定できることはある。
「ならよぉ!!」
スライクは、液状の魔物に急接近して横一閃を放った。
同時に切り裂く個所を注視する。
高速の世界の剣撃が創り出した攻撃に合わせ、液状の魔物は即座に修復を始めていた。
液状の魔物の身体の幅は、剣の幅より僅かに太い。
剣が通過した瞬間に身体を繋ぎ、決して身体の水を分けようとはしない。
やはりか。
振り切ったスライクは、再び距離を取る。
“核”の存在。
あの液体の身体の中に、“本体”がいる。その存在と完全に切り離された液体は、結合されることは無いのだろう。身体の液体には僅かな魔力を帯びさせているに過ぎない。
だがその結果、物理的な攻撃には何ら被害を負わず、即座に修復して見せる―――不死とも言える身体を実現している。
無機物型として有名なスライムやゴーレムは、ただ身体の材質が水や岩であるということ以外、普通の生物と変わりは無い。斬激を浴びせれば飛び散るし、岩であれば砕くことは容易だ。ある程度耐久はあるらしいが、身体の損壊はそのままダメージに繋がる。
しかし目の前の“言葉持ち”は、異質も異質。
いかに身体を切り刻もうとも、ダメージは蓄積しない。
ゆえに攻略法は、“核”を正確に斬り裂くか、高速結合を凌駕する全身全霊を込めた一閃―――
「……」
―――と、思った瞬間に殺される。
「シュリスロール」
散弾のような水滴が唸りを上げて降り注いだ。
スライクは荒れた大地を踏み砕き、身を翻してそれを避ける。一部の隙も見せられない。
ひとつ目の攻略法―――敵の“核”を正確に討ち抜く。これは実質不可能だ。
“核”のある場所の見当は付けられるが、サイズも分からないし、身体の中を移動するかもしれない。極小の“核”だとしたら、余程の“決め打ち”でもしない限り捉えられないだろう。
そしてふたつ目の攻略法―――高速結合を凌駕する一閃。これは―――“論外”だ。
仮に。そう、仮に、自分が無機物型の魔物を作り出し、その中に“核”とも言える存在を造るとしたら、どうするか。
より不死を狙うとすれば、何をするべきなのか。
そんな答えは、ロジック上、決まっている。
「―――、」
スライク=キース=ガイロードは思考する。
自身の身体は問題無い。疲弊はしているが、全能を捨て去ってまで手に入れた木曜属性の身体はまだまだ駆け抜けられる。
しかし、攻撃方法には難がある。
剣では水を斬り割けない。
いや、魔術攻撃にしたって、奴の身体を通り過ぎてしまうだろう。
身体全てを“核”ごと吹き飛ばすような攻撃が、唯一水の身体を凌駕する。それも、地中に逃げることも許さぬ高速攻撃が、だ。
「―――、」
そこで―――“降りた”。
無機物型の魔物を凌駕する手段が、スライクの脳に下ってくる。
世の理すらも凌駕する、驚天動地の最強魔術―――いや、魔法。
その存在をスライク=キース=ガイロードは認識した。
だがその可能性は、自分はとっくに捨て去っている。弾かれるように選択肢は消え去った。
「は―――」
どれだけ可能性を切り捨てても、情報だけは降りてくる、この状態。
とうに不可能になっている手段を、幾度となく、鬱陶しくも世界の裏側は降ろしてくる。
なんとも生半可な自分を、スライクは嗤った。
ますます不気味で奇妙な属性だ。
だがその疑問は、今はどうでもいい。
“その魔法”が最良の方法だということは分かった。
確かにそうだ。今認識した“それ”を凌駕する力は存在しない。
だが―――唯一の方法?
笑わせる。
「―――疲れちまったよ」
荒れ狂う暴雨のような攻撃の縫い間に、スライクはぽつりと呟いた。
嵐は一時止み、液状の魔物は不気味に漂う。
「? 想定よりも幾分早い」
響き渡るような声は、“言葉持ち”らしく、感情が込められていた。
この魔物の基本戦術は、その不死ともいえる身体を盾に、攻撃を繰り返すというものなのだろう。
ただ相手が疲弊していくのを待つだけの戦いは、確かに単騎では最強の部類に入る。
その将が大群を引き連れていては、タンガタンザの歴史が黒星一色なのも頷ける。
だが、それもここで終わりだ。
「体力の話じゃねぇよ。この戦争がだ」
大群を相手にしていたときよりは動く頻度が減ったからだろう。
僅かに回復している自分の身体を認識しつつ、スライクは笑った。
不死の身体と、無限に近い体力の対決。それはいずれ、不死に軍配が上がる。
そんなことは分かっていた。
決定的に“差”があるのだから。
しかし。
「随分勿体ぶって出てきたようだが―――哀れだなぁ、おい」
スライクは、ゆったりと、神話の物品を構えた。
「てめぇは瞬殺だ」
その“差”を埋める、『剣』が輝いた。
――――――
戦闘に対しての凡人でも、その殺意は即座に察することができた。
「―――ツバキ!!」
エニシ=マキナはツバキを抱え上げ、入ってきた通路に逃げ込んだ。
墓場に立つクロック=クロウは、僅かな光源の中、目を見開いて固まっている。
直後、轟音。
墓場の壁がお伽噺のように砕かれ、寓話のような化物が姿を現した。
「―――っ、っ、」
ツバキを抱えて倒れ込んだマキナは、身体中から汗を噴き出した。
確かに騒音はすると思っていたが、まさかここまでの化物が相手だったとは。
そして―――よりによって“こいつ”とは。
「トラゴエル……!!」
あの運命の日に出遭った『蛇』が、岩の貌をマキナに向けていた。
そして岩に空いた瞳に光が宿る。
ぞわりと背筋が冷え切った。
感情の読めない魔物だが、今はっきりと、分かってしまう。
トラゴエルは、『ターゲット』の発見に、歓喜している。
「ふんっ!!」
トラゴエルの貌が赤く光った。
それが、クロックが投擲した石のもたらした効果だと知ったときにはトラゴエルの頭は墓場から姿を消していた。
しかし、そこで、見えてしまった。
村と墓場を隔てる壁はすでに蜂の巣のように穴が空き、外の様子が確かに見える。
“消滅した村”―――何も無い世界。
そして、月下に浮かび上がる強大な『蛇』。
あれは―――
「エニシ!! とっとと消えろ!!」
「―――、っ、」
思わず、本当に思わず足を踏み出そうとしていたマキナは、クロックの荒い口調に止められた。
確かに自分は『ターゲット』。
戦場の最前線とも言える場所にいられるわけが無い。
マキナは拳を握りしめると、ツバキを連れたままクロックに背を向ける。
これからは、何があってもここに来るべきではないのだろう。
ここは、非戦闘要員がいて良い場所では無い。
が。
「戻ったらアステラを呼んでくれ!!」
「は!?」
ツバキを抱えて逃げ出そうとしたマキナは、予想外の言葉に足を強引に止めた。
振り返ればクロックが、両手に石を抱えて駆け寄ってきた。
「何言ってんだ!?」
「ひとりじゃあの野郎が殺せねぇ!! アステラを呼んで来い!! 爆薬も持ってこいと伝えろ!!」
クロックの荒だった口調に、マキナは気圧された。
だが、この男は何を言っているのか。
アステラ。
この数ヶ月自分と共にスライク=キース=ガイロードの剣を作り上げ、戦争の下準備をしただけ女性。
武器の使用は“見たことがある”からできるようだが、それでも、彼女自身言っていた通りの―――“非戦闘要員”。
「おいおいふざけんな!! あんな化物の前にアステラを連れ出せってのか!?」
「どうやってもあるか!! あいつを殺すにゃ人数がいる!!」
恐らくクロックも、アステラの戦闘能力は理解しているであろう。
しかし彼は譲らない。
その剣幕に気圧され、マキナは口を噤んだ。
あまりに非情なことを口走るこの男は、自分自身も非戦闘要員だと言っていた。
今も、あの巨大な『蛇』を撃破できるとは到底思えない。
だが何故か、矛盾したことに―――力強く感じるのだ。
「いいから連れて来い!!」
「っ、そんなことは、させられない」
トラゴエルは、今も突撃の機会を試みているだろう。
今にも洞窟の岩盤を自身の身体で打ち抜いてきそうだ。
しかし、それでもマキナは動けなかった。
逃げろと言われれば尻尾を巻いて逃げよう。隠れろと言われれば泥の中にだって飛び込もう。
だが、自分の代わりに誰かを差し出せと言われたら―――それは流石に違う。
そんな覚悟は、自分には無い。
「ちっ」
クロックは踵で地面を蹴った。冷静さを欠いた子供のような行動。
そして底冷えするような瞳で、マキナを睨んだ。
「お前が止めるなら、お前を殺してでも連れてくる」
ピリリと背筋が凍った。
戦争のルール上在り得ないその言葉は、彼の本意にしか聞こえない。
うろたえるマキナに、クロックははっと息を吐き、さらに言葉を続ける。
「“駄目元で頼んでるわけじゃねぇよ。時間の無駄だからな”。俺はどうしても、あの野郎をぶち殺してぇんだ」
「っ―――そこまでするなら、逃げた方がいい。あんなもんが攻めてきた時点で負けだ。今なら樹海にトラゴエルが作った道があるはずだしよ」
マキナは、きっと誰もが心の中で思っていたであろうことを口にした。
『ターゲット』が範囲外に出れば、当然戦争はタンガタンザの負けに終わる。
しかしそうなれば戦争の続行。たかが『ターゲット』ひとりに固執したりしないであろう。
上手くいけば生き長らえることができるかもしれない。
卑怯なことかもしれない。タンガタンザの民の誰もが望む1年の平穏を自ら捨てるのだ。絶望的な状況であれ、僅かな機会を捨てるのは、まさしく非情なことだろう。魔物の大群にひとり立ち向かっているスライクにも合わせる顔は無い案だ。
だがそれでも、その甘い思考は、1度浮かんでしまえば沈まない。
しかしクロックは、表情を変えなかった。
「“馬鹿が。それじゃあ奴を殺せねぇだろう”」
その言葉で、マキナの中で何かがキレた。
クロックの頭には、微塵にも、『ターゲット』のこともタンガタンザのことも存在していなかった。
「私情じゃねぇか!! あんた目的見失ってんだろ!! ツバキもいんだぞ!?」
「そのガキは、自分でここにいるだけだ!!」
ツバキのことを出せばもしやと思ったが、クロックの意思は僅かにも揺るがなかった。
彼はすでにツバキのことを認識し、その上で、トラゴエルに立ち向かうと言っている。
「俺にとっちゃ、お前も、ツバキも、タンガタンザも、関係ねぇ!! あの野郎は、ガルドパルナを―――『村』を、殺したんだぞ!!」
クロック=クロウは、小さな村を創り上げた人物だと聞く。
「っ―――」
確かにトラゴエルの接近をここまで許した以上、攻略は必須だ。
しかし、撃破ではなく逃亡ならばすでに攻略していると言える。先ほど見たクロックの“止める”魔術。
トラゴエル1体ならば、抑え込んで逃げられるかもしれない。
逆に“知恵持ち”がクロックの魔術を攻略したら、それこそ打つ手は無い。
生存率が最も高い選択肢。
今は一刻も早く逃げるべきなのだ。
一方、クロックの意見にも一理ある。
トラゴエルが樹海に道を造ったことで、新たな魔物の軍がそのルートから雪崩込んでくるかもしれない。
そうなれば鉢合わせの上挟み打ちだ。
ならば当初の予定通り、この場所で籠城戦をした方が時間は稼げる。
タンガタンザが勝利する選択肢。
今は一刻も早くトラゴエルを撃破し、更なる軍政に備えるべきなのだ。
論理や計算で言えば、両者の言い分はどちらも一長一短。
しかし互いにそんなことは頭の外に追い出していた。
マキナは、この場全員の命を紡ぐことを願い。
そして、クロックは、
「紡ぐことにも意味はある。だがな、目の前で村ぶっ壊されて、好き勝手やられて、それでお前は悔しくねぇのかよ!?」
ああ、そういうことか。
マキナは拳を握り絞めた。
あらゆる計算に基づいた上で、それを放り投げて出てきたのであろうクロックの言葉。
それは奇しくも、結局は誰もが思っていたことだった。
悔しい。
そんな想いを、確かにマキナも持っていたのだ。
だから。魔物に対抗できる剣を創り上げた。
だから。危険でも、反対でも、アステラやクロックを戦場から追い払わなかった。
逃げ伸びて、誰かにこの恐怖を、この無力さを伝えたいと思ったのは、いつか誰かにこの非情を凌駕してもらいたかったからだ。
そう。
結局自分は―――魔物たちの鼻を明かしたかったのだ。
「私情で結構。戦争だ」
僅かに冷静さを取り戻したのか、クロックの声は静かだった。
冷たいような言葉。
争いというものが思想の違いから―――想いの違いから起こるものならば、確かに戦争は私情で溢れ返っている。
それでも冷静さや役割は必要で、常人には理解できない。
そして高が魔物の1匹の魔物によって村が全壊したのも―――理解できない。
それが自分の“外”の世界では、もう百年も続いていると言う。
魔物たちの都合で。
「ぁ……」
腕の中のツバキが、小さく唸った。
眉を僅かにしかめ、空洞の中の何かを見ている。
マキナにはどこを見ているか分からなかった。
だが恐らく、彼女が見ているのは、毎晩訪れていた場所だったのだろう。
砕かれた岩石に弾かれ、埋もれ、もう何があるか分からない。
多分、“外れた”彼女は、祈りを捧げるものが無くなっていることに、ただ純粋に困っているだけだろう。
この場所は、多くの私情の結果によって、作り出された場所だった。
「もう1度言う。お前はツバキと奥へ逃げろ。あいつは俺とアステラが片付ける」
クロックの眼は、怒りが僅かに収まったからか色を変え、冷たくなっていた。
はっきりと、邪魔だと言われている。
ツバキにも聞こえたのだろう、何も言わず、ただ、目を伏せた。
初めて見た表情だ。
彼女はきっと、思っている。
これだけ好き勝手に暴れられ、自分の家さえも、日課でさえも壊された、無力な被害者は、思っている。
悔しい、と。
「……」
自分の世界が、空っぽなわけだ。
過去の自分が勝手に諦めたペナルティ?
だから何も成し遂げられない?
笑わせるな。お前は未来の自分の言い訳材料に成るつもりか。
英雄には成り得ない自分は、伝えることで完結すると思っていたが―――どうやら違うらしい。アステラには、知った風に、随分と無責任なことを言ってしまった。
今ここで感じる想いは、今の自分だけのものだ。
きっとこの先、誰かがこの物語を知ることになっても、例え未来の自分であっても、この感情の半分も伝わらないだろう。いや、記憶の中に留まることも無く、ただの無駄話として耳を通り過ぎてしまうだろう。
今、ここにいる者だけが。
今、これを経験している者だけが。
想いを元に、タンガタンザ物語を刻み切れるのだ。
「……完結させよう」
マキナは、ゆっくりと目を開いた。
紡ぐことは後の話だ。
今はただ、この感情に身を任せよう。
クロックの思っている通り、自分は足手まといだが―――この場に立つには、私情でいいのだろう?
「爆薬なら、ここにもある」
マキナは自分の胸から、拳大ほどの爆薬を取り出した。
封を切り、投げ付ければ爆発が起こる、子供にでも扱える物品だ。
胸ポケットには、まだいくらか入っている。
「ツバキ。アステラのところに逃げてろ。罠には気をつけろよ」
「え……、え……?」
まだ動転しているのか、両足で立つこともおぼつかないようだったが、軽く背を押すと、よろよろと奥へ向かって進んでいった。
そしてマキナは、クロックに並び立ち、トラゴエルの様子を巨大な穴から窺う。
随分と静かだったが、どうやら何かを思考しているようだった。
単純な突撃はクロックに防がれるため、その解決策を思案している。
そんな“知恵持ち”ならば、夜明け前にここを突破して見せるだろう。
だからその前に―――倒す。
「エニシ。お前は自分の立場を理解しているか?」
クロックの表情は、別に驚愕しているわけでもなく、ただ単純な戦力としてマキナを値踏みしているようなものだった。
「私情だよ。立場なんか関係無い」
自分が死ねば全てが終わる。
だが別に、『ターゲット』が戦ってはならないというルールは無い。
いやそもそも、ルールなんて必要ないではないか。
これは、私情なのだから。
「ぶっちゃけ俺はアステラより役に立たないが、勝算はあるんだろ?」
「ある。が、外れていたら死ぬ」
勝つか死ぬか。
そういうものだ。
そういうものなのだ、戦争という、自分が知らなかった世界は。
人間は知らないことを知りたいものだと表現したが、少なくともマキナは、こんな世界を知りたいとは思わなかった。
だけどとりあえず、身を縮め込ませるように隠れていた『ターゲット』としては、百年戦争に巻き込まれ続けたタンガタンザの民としては、こんな世界に言いたいことはある。
「てめぇらの都合で巻き込んでんじゃねぇよ、いい迷惑だ」
思案を終えたのか、トラゴエルは再びゆったりと、突撃体勢をとった。
あくまで平穏に過ごしていた自分の世界を壊した存在が、
逃げたい気持ちは確かにあるが、そうすると―――こいつらの鼻を明かすことができない。
この戦争に勝利することによってのみ、自分の想いは完結するのだから。
――――――
スライク=キース=ガイロードは己の剣の鼓動を感じる。
生きているかのように錯覚する感触がした。
求めれば応じるように、この剣は脈打つ。
―――術式の進捗率、およそ30%。
「シュリスロール」
液体の魔物から放たれた水曜属性の上位魔術は、最早人が認識している同種の枠を超えていた。
タンガタンザの大地を巻き込み、さながら土石流のように押し寄せる巨大な水流が唸りを上げて襲いくる。
それが、十数本。夜空に魔力の波動を蠢かせ、それらは龍の大群とも形容できた。
流石に“言葉持ち”と言える。
水曜属性の術者は力を増すごとに操れる魔術の量が増えると聞くが、かつてここまでの量を操った魔術師は存在しないであろう。
―――初代七曜の魔術師。
スライクの脳に、余計な情報が降りてくる。
覗いてみれば、いた。
最も数が多いとされる水曜属性の魔術師―――その頂点。
魔力制御に秀でている水曜属性であるにもかかわらず、あまりに膨大な自己の魔力の反動で、声を失った史上最強の水曜属性の術者。
華々しく神話を飾ったその魔術師は、目の前の怒涛の光景すら片手間に演出してみせたようだ。
―――術式の進捗率、およそ50%。
余計な情報を置き去りにして、スライクは大地を駆けた。
滝壺にでもいるかのように錯覚するほど打ち下ろされる魔術は、大地を抉り、吹き飛ばす。
スライクは目を細め、液状の魔物を視認した。数多の破壊の先、液状の魔物は動いていない。
どうやらこの魔術に―――いや、スライク=キース=ガイロードに、全てを捧げているようだ。
先ほど、自我が目覚めたばかりと言っていたが、それが幸いしている。
あの液状の魔物は、いかに理知的な風に装っても、未だ本能を抑えきれていない。
奴の頭からは、すでに『ターゲット』のことが抜け落ちているのだろう。
スライクのみに、固執している。
「―――ちっ、」
進行方向に、“龍”が叩き落とされた。
スライク自身は狙わず、動きを止めるために放たれた攻撃に、スライクは急停止。そして即座に新たなルートを駆け抜ける。直後、背後の大地が吹き飛んだ。
スライクは握る剣に鼓動を感じた。
現在、進捗率60%。
途端に滞り始めた。
やはり身体能力に総てを捧げた自分では、器用な真似はできないらしい。だが、一応は自分が日曜属性の汎用性を捨ててまで手に入れた力の一部だ。
そんなものは、“不可能ですら”ない。
「シュリスロール」
今度は直線。
空から撃ち落とされるのではなく、スライクを地面から抉り取るように正面から魔術が襲ってきた。
スライクは剣を一瞬構え、即座に退く。
この剣は魔力の原石を使用しているため、魔術の両断は可能だ。
原石は、魔術という不確かなもの弾き、物体として捉えるような性質を持っているのだから。
だが今、そんな余計なことはさせられない。
進捗率は、70%。
「瞬殺、と聞いたが?」
破壊の轟音の隙を縫って、言葉が届いた。
水中で響くような声。
“言葉持ち”の、言葉。
感情は伝わり難いが、どうやら相当苛立っているらしい。
この魔物は、自分の目的を忘れている。
「分かりやすくていいよなぁ、目の前の野郎をぶっ潰すのはよ」
スライクは呟き、なおも大地を駆け抜ける。
太古。
“二代目勇者”―――ラグリオ=フォルス=ゴードは敵の数を数えようともしなかったという。
計算することに意味は無く、目の前の敵を撃破し続け、その中に、“ただ魔王が含まれていた”という超越者。
ゆえに彼の周囲は、常に戦火に包まれていたと言う。
至ってシンプルなその『剣』を前には如何なる謀略も通じることは無く、彼は威風堂々戦場を駆け抜けた。
―――術式の進捗率、およそ80%。
スライクはすっと瞳を鋭く細める。
無機物型であろうと、それを餌とする狩猟動物のように、液状の魔物を捉えた。
奴は私情で動いている。
ここまでの力を持っているのならば、あの大群と共に攻めてくればスライクを突破できたかもしれない。
もしくは、以前見た、地面に溶け込む能力を使い、村へ侵入すればスライクを突破できたかもしれない。
奴は、この戦争を任されたと言っていた。
つまり、奴の役割は、スライクを撃破することでも、全軍を率いてお山の大将を気取ることでもなく、『ターゲット』の破壊だ。
だが、それでなお、スライクは思う。
それで良い、と。
先のことばかりを考えて、思うまま行動できなくなるのは、進化とは言えない。
―――術式の進捗率、およそ90%。
間もなく、スライク=キース=ガイロードは、この大剣は奇跡を起こす。
数で大きく劣る今年の戦争において、最重要課題である魔物の大群は姿を消した。
スライクの目的はすでに達成しているとさえ言ってもいい。
だがそれでも、スライクは止まらない。
スライクは、己が思うまま、この大剣を振るうのだ。
それで、達成できる。
そして、証明できる。
決められた運命など、この手で斬り裂くことができるのだと。
「―――ならよ、始めっか」
スライクは大剣を掲げる。
「“言葉持ち”らしく、最後に何か言い残せや」
『剣』が駆けた。
見渡す限りを埋め尽くす魔物の大群を僅かひとりで討ち滅ぼした化物が、未知の無機物型に突撃する。
「―――、」
―――かかった。
液状の魔物は、“思考し”、歓喜した。
液状の魔物は、“全て分かっていた”。
スライク=キース=ガイロードが、魔術を回避しながら何らかの術式を組み上げていたことも、そしてそれを凌駕する方法も。
スライク=キース=ガイロードは確かに脅威だ。
暴力的なまでの力。無限を思わせるタフネス。そして尋常ならざる回復速度。
どれを取っても人の枠を超えている。いや、生物の枠と言った方が的確か。
結果、主に任された大群は全滅。スライク=キース=ガイロードは、その剣ひとつで打ち砕いて見せた。
だが。
スライク=キース=ガイロードにも欠点はある。
攻撃手段が剣しか存在しないのだ。
恐らくは潜在する魔術能力を総て身体能力に捧げた結果だろうが、決定的に間合いが短い。何をするにしても、相手に接近しなければならないのだ。
そして同時に、防御手段も回避のみ。先ほどの動きから、剣は防御に使用できない。
故に。
回避不能な魔術攻撃には無力。
液状の魔物は、荒ぶる暴風の突撃に、“両腕を形作り”、突き出す。
“スライクの動きを察し”、魔術攻撃と並行して組み上げていた大規模術式が発動する。
直後、総ての視界を濁流が埋め尽くした。
月下、土煙を上げて突き進んでいたスライク=キース=ガイロードは成す術もなく飲み込まれる。
肉が焼けるような音が響く。
視界が歪な泥で埋め尽くされる。
液状の魔物が放った大規模術式は、人智を遥かに超えていた。
人など破壊対象ですらない広範囲攻撃は唸りを上げ、僅かひとりを襲い尽くす。
退路も何も無い。回避は不可能だ。
互いに狙いは、術式の完成したこの一瞬。
故に、結末は遠距離攻撃に軍配が上がった。
が。
「―――、」
濁流総てが染め上げられた。
星々の灯りを凌駕する、光という概念の根源が強く輝く。
液状の魔物の思考は、全てその色に捧げられた。
決めたはずの必殺の術式。
決めたはずの戦闘。
しかしそれらを瞬時に覆す―――常識を斬り裂く最強属性。
「っっっはぁぁぁああああーーーっっっ!!!!」
暴風。
濁流すら吹き飛ばす嵐が踊った。
再び肉の焼けるような音が届いたときには、大規模術式は弾かれたように四散し―――“スライクの身体に取りこまれていた”。
暴風が、黄金色に輝くスライクが、駆ける。
「特化―――“木曜特化”!!」
最初から分かっていたことだった。
液状の魔物は走馬灯のように“知識”が呼び起こされる。
スライク=キース=ガイロードの、尋常ならざる身体能力。
それは日輪属性の万能な力を木曜属性に突出させたゆえのものだと。
しかしこれは、程度が違い過ぎる。
スライク=キース=ガイロードと以前接触した時点では、彼は魔術などまるで習得していなかったではないか。
それなのに、スライク=キース―ガイロードは、すでに木曜属性の上位魔術を習得している。
スライク=キース=ガイロードが術式を組み上げているのは、剣だけだと思っていた。
しかし、彼の身体自身にも、その色は宿っている。
最早オリジナルと言ってよい。
こんな―――“全身を魔力吸収で覆う魔術など”。
「死んどけや」
猫のように鋭い眼が液状の魔物を射抜く。
液状の魔物は、知識ゆえに察し、むしろ笑いが込み上げてきた。
この術式を組み上げられた時点で、液状の魔物の敗北は確定した。
木曜属性。魔力吸収魔術を使用する、あらゆる魔術攻撃の天敵。
その力を有した以上、スライク=キース=ガイロードに魔術攻撃は“必然的に通じない”。
そして―――武具。眼前で振り下ろされる、神話の物品。
魔力を溜め込み、魔術を弾く原石の剣。
剣に込められた日輪の魔力は、木曜魔術に変換され―――“吹き飛ぶように射出される”。
ザンッ!!
落雷のような斬激音が大地に響いた。
何かを言い残す間もなく切断された液状の魔物は大地ごと砕かれ二分される。
修復は行われない。
木曜魔術の斬激は、切り口の魔力を消失させ、壊死させたように結合を封殺する。
同時に“核”も破損したようだ。
身体中に魔力を溜め込んでいたがゆえに、木曜属性の浸食から逃れることはできなかったのだろう。
蓋を開けてしまえば圧倒的に相性が悪い相手との戦いで、“言葉持ち”は撃破された。
「……はっ、不運だったなぁ、おい」
スライクは、死骸に背を向け、距離を取る。
魔族軍主力部隊、及び“言葉持ち”撃破。
残ったのは、たったひとりだ。
タンガタンザの歴史上類を見ない脅威の戦果は正確に伝わることは無く、歪な形で広まるだろう。
だがそれでいい。
結局のところ、スライク=キース=ガイロードも、この戦争に私情で参加したに過ぎないのだから。
これで―――不可能を可能にする、剣の料金くらいは働いただろう。
「役割―――遂行だ」
思い出したように、魔物の死骸が月下に爆ぜた。
――――――
「……それが、“タネ”かよ」
「ああ。―――!!」
「うおっ!?」
エニシ=マキナは洞窟を揺さぶる振動に両手をついて耐えた。
かなり大きい。
いたるところに大穴が空き、ほら穴のような状態になった巨大な空洞。タンガタンザの“村”が眠る墓地で、マキナとクロック=クロウはトラゴエル攻略の作戦を立てていた。
眼前の大穴から見えるのは、更地と化したガルドパルナ。
トラゴエルのあまりに巨大な岩の身体が鎮座し、今なおマキナたちを“攻撃”している。
しかしその攻撃は、直接的なものではなかった。
「おいおい、持つんだろうな、この山」
「分からん。だが、生き埋めを狙っているわけではないだろう。新たに通路を造るつもりなのか、あぶり出しなのかは知らんがな」
トラゴエルは現在、ガルドパルナ聖堂そのものに突撃しているようだった。
響く轟音。時折落下してくる岩石。どうやらこの岩山は、頑丈な岩と脆い岩が共存しているようだった。頑丈な岩が上手く支え合っているがゆえに崩れないのだろう。
今すぐにでも山から離れるべき災害が頻繁に襲ってくる。いずれ拮抗は崩れるかもしれない。
だが、外でお伽噺のような化物が待ち構えているとなると話は別だ。
「それは分かったけど、どうやって倒すんだよ」
危機的状況なのは変わらないが、それでも作戦を立てる時間はある。
マキナは爆薬を強く握りしめながら、クロックの話を促した。
「奴を破壊するには特定のエリアでなければならない。奴の動きが制限される場所におびき出すしかないだろう」
「?」
振動の中で続く説明に、マキナは半分ほど付いていけてなかった。
トラゴエルがどこかに突撃するたびに落石を警戒する必要があり、話が途切れ途切れになってしまう。
対してクロックは、“知恵持ち”のみに注意を払い続けていた。
冷静さも戻ってきている。
しかしこの場で籠城していても勝機は無い。
落石も次第に酷くなってきている。
「だが、幸いにもこの聖域にはそのエリアがある。お前も分かるだろう」
「……誘い出す、ってか。どこにだよ」
「……少し考えれば分かるだろう」
クロックはそれだけしか言わなかった。
マキナは眉を潜め、質問を変える。
「じゃあ、一体どうやって、」
「マキナ。お前が外に出て、囮になれ。奴を誘い込む」
「死ぬわっ!!」
途端自分の身に最上級の危機が降りかかり、マキナは思わず叫んでいた。
本当にこの男は冷静なのだろうか。
響き続けるトラゴエルの突撃音が一層大きく聞こえていた。
やはり、恐い。『ターゲット』の姿を見れば、嬉々として襲ってくるだろう。
マキナは言葉に詰まり、外の様子を覗う。
洞穴からではトラゴエルの全身も見えないが、今見えている身体だけでマキナが見たどの生物より大きい。
そんな化物の前に姿を曝して逃げ切るとなると、それだけで一生分の運を使い果たしてしまうだろう。
「……、って」
しかし、マキナようやくこの作戦の意図に気づく。
クロックが語った作戦。
それを満たす条件は、ひとつしかない。
トラゴエルを誘い込むのは、“細長いルートの必要がある”―――
「ちょっと待てよ、俺が逃げ込むのって、」
「勿論奥の間だ。あそこまでの道が最も適しているのだからな」
「……お、い」
「俺はアステラじゃなくてお前で妥協したんだ。お前も妥協しろ」
「妥協どころか、“最悪じゃねぇかよ”」
「それしかない」
「……、……」
マキナはやがてゆっくりと頷いた。
奥の間にはアステラがいる。ツバキがいる。あの場所が最良の安全地帯なのだから。
しかし、トラゴエルを倒すためにはその場の地の利がいる。増援の可能性を考えると、ぐずぐずしている暇は無い。
「……ち。やってもやんなくても危険は危険か」
「そういうことだ」
クロックの言葉に後押しされるように、マキナは口を真一文に閉じて足を踏み出した。
洞穴の外では脅威の巨獣が今なお暴れ回っている。
村ひとつ瞬時に滅ぼしたような化物に向かうというのに、マキナの装備は爆弾が数発程度。心細いことこの上無い。
しかし、それでもマキナは震えている足を進めた。
死への恐怖。切り離せない絶対の恐怖。それを乗り越えることはきっとできないだろうが、それでも今、前へ進む必要がある。
この戦争に、勝つために。
「……エニシ」
「……なんだよ?」
「言い残したいことはあるか?」
「えらく不吉な物言いだな……」
「自分で考えておいて何だが、危険極まりないからな。そのまま死なれたら目覚めが悪い」
「俺に何かあったらお前ら死ぬぞ」
「実に的を射ている脅迫だな」
クロックは苦笑し、マキナも少し笑った。
本当に、いつからこんな馬鹿げた世界になったのだろう。
マキナの世界は、きっと、ずっと空っぽだった。
“普通”が無いだけではなく、実際は何も無かったのだ。
武具を造っていたのも、才があったからだけで、別段それを操る戦士を想ってのことでは決して無い。右から左に、左から右に、何も残さずあらゆるものが通過していった。
哀しい世界。虚空な世界。
だけどもし、今ここで、勝つことができたなら―――
「俺、この戦争に勝ったら何かを手に入れられそうな気がする」
「そうか。言い残したいことはあるか?」
マキナは笑い、
「いっぱいあるよ。だから、勝つさ」
駆け出した。
「おらぁ!! バケモンッッッ!!」
洞穴から飛び出るや否や、マキナは叫び、そして目を細める。
間近で見ると、恐ろしく巨大な蛇が動きを止めた。
マキナは“正規の入口”の位置を確認する。僅か5メートル。今から自分はトラゴエルの囮となり、奥の間まで駆け込まなければならない。
大層見晴らしが良くなった村でも、その全貌さえ認めることができない『蛇』は、ゆったりと鎌釘をもたげ、マキナを見定めた。
ゴクリと喉を鳴らす。強烈な威圧感を覚える。
だが、微塵にも集中力は切らさなかった。
“想定しろ”。
奴の動きやその速度。今までの戦闘で見たトラゴエルの行動を、全て把握し、“その上で強化しろ”。
常人では理解できない怪物は、自分が通常想定する領域の遥か先を行くはずだ。
“あり得ないと思えるくらいで丁度いい”―――
「―――!!」
反射的に地面に飛び込めたのは全くの奇跡だった。
あらゆる予想を総て放り出し、身体を叩き付けるように転げたマキナは飛び跳ねるように立ち上がる。
その背後、音さえも遅れて聞こえてくるような高速の『蛇』は再び夜空に頭を上げていた。
マキナは感情総てを投げ捨てた。
余計なことは考えるな。ただ相手が、自分の想定の、その先の、その遥か先の力を持っていただけだ。
今は全力で、再び聖域に飛び込まなければならない。
轟音。
振り返るのも恐かった。
聖域に飛び込む直前、背中を掠めたようにも感じるトラゴエルの突撃が、骨髄を揺さぶる。マキナの身体以上はある岩石が軽々と飛び跳ね、小石のように遥か向こうの樹海に飛んでいくのが見えた。
壮絶な恐怖が全身を痺れさせる前に、マキナは強引に足を動かし駆け続ける。
辛うじて飛び込めた聖堂は、昼に見たときよりもずっと幻想的だった。
紅い光を放つ照明が通路を浮かび上がらせ、脳が溶けるような錯覚に陥る。
通路の幅は、およそトラゴエルの身体ほどだ。奴の身体は展開できない。
そして幸いにも、曲がりくねっていた。アステラが用意した罠がふんだんに仕掛けられている。
これならば逃げ切ることができる―――
轟音。
「―――!?」
息を吐こうとしたマキナの心は凍えきった。
この曲がりくねった細い道。巨体と人間が張り合える唯一の聖域。
しかしその聖域が今、音を立てて崩れ始めていた。
「まさ、か」
ほぼ直角に曲がる道を折れたマキナは、逃げることも忘れ、足を止めてしまった。
轟音。
今度はマキナの目の前の岩盤がけたたましく揺れた。
そして小気味良ささえ覚える音と共に、強固な岩盤に幾筋もヒビが入る。
不味い、と思ったときにはマキナは駆け出していた。どうやらこの通路は一部、例の脆い岩だったらしい。
その直後、背後の岩盤が丸ごと吹き飛び、『蛇』が姿を現した。
「く―――」
アステラの罠は、通常のルートを通常の手順で通ったときに威力を発揮するように設置されていた。
細い道には足止め用。広い道には広範囲爆破。
大群が押し寄せても籠城戦が行えるように仕掛けられていたのだ。
しかし、“知恵持”ちゆえにか、それとも単に直線ルートを選んでいるのか、トラゴエルは道無き道を押し進んでいる。
どうする――――
こうなると、途端にマキナの分が悪くなる。
曲がりくねった道ならば、逃げ切ることは可能だろう。いくら『蛇』のように動くとはいえ、身体が岩石ならば動きは制限される。
だが、相手のみ直線ルートを進むとなると、逆にこの道がマキナの枷となる。
岩を砕く足止め分を差し引いても、トラゴエルの突撃速度はマキナをゆうに上回ってしまう。
ならば。
「ち―――」
マキナは懐から爆薬を取り出した。
走りながらの慌ただしい動作にふたつほど爆薬を取り零してしまったが、ひとつを強く握り絞め、マキナは振り返る。
最早目前。
手を伸ばせば届きそうな位置に、無表情な岩が存在していた。
「っ―――っ、っ、っ」
ほとんど反射で、マキナは爆薬をトラゴエルに投げ付けた。
カンッと澄んだ音が響き、拳大ほどの爆薬が通路内で跳ね回る。
爆薬の威力を“理解”していたトラゴエルは一瞬怯み、動きを止めた。
マキナは爆薬の行方を確認することも無く再び走り出す。
今のは、危なかった。
思わず投げてしまっていたが、あのとき爆薬が爆ぜていたら吹き飛んでいたのは自分であろう。どうやら爆薬は、付属されている“栓”を抜かなければ真価を発揮しないらしい。
装備している武具の使用法も理解していない自分に苦笑しつつも、マキナは駆けた。
爆薬は、あとひとつ。
さあ、どうするか。
「は」
駆けて、駆けて、駆け続けた紅い通路。
今にも倒れそうなほど息は荒く、四肢は千切れそうなほど硬直していく。
しかし、マキナは笑っていた。
背後には巨獣。今にも自分をすり潰そうと伝説の聖地を破壊し追撃してくる。
それでもどこか、何かを感じられた。
敵は強大。だが、倒す手段はある。
それを成すためには、この身体が持つ総てを捧げなければならない。
命の危機への恐怖が、別の何かに変わっていく。
勿論恐怖は常にある。だが、それではない何かが混じり、溶け合い、身を奮い立たせる力に変わる。
武具を創り上げているときとは違う高揚感が、確かにある。
これはきっと、好奇心だ。
自分はきっと特別で、不可能なことなど存在しない。
遥か昔に自分から遠ざかった、そんな全能感を確かに覚える。
そんな想いは、自分が少し手を伸ばしてみるだけで、手に入れることができたというのか。
そのマキナの背に、体勢を立て直したトラゴエルの鼻先が触れた。
「……こい」
爆音。
遥か後方で、爆音が轟いた。
背後に感じていたトラゴエルの気配が瞬時に消え去る。
恐らくはトラゴエルの中央付近で爆薬が爆ぜたのだろう。
それが自分の取り零した爆薬か、アステラの罠かは分からないが、ともあれトラゴエルは身体を修復するために動きを止めた。
今、自分は“発生する事象が分かっていた”。
自分がこの場で死を免れる事象が必ず起こると、何故か確信できた。
マキナはまた笑い、さらに通路を疾走する。
「ここまで奇跡が起こったんだ。勝利以外あり得ねぇ」
日の出まで、あと僅か。
「―――!!」
そして、見えた。
マキナの目指す、ゴール。
紅の光差すその先に、不自然に広がった巨大な空洞―――
「アステラ!!」
背後の威圧感は過去最上級に成っていた。
最早距離はゼロと言っても差し支えない。
だが問題無い。大して勢いづいていないトラゴエルの突撃では、精々倒れ込む程度の威力だ。
「なんだ?」
非常時にも関わらず、抑揚の無い、マキナが最も聞きたかった声が聞こえた。
“頼むから今度こそ察してくれ”。
「―――、」
アステラは通路から顔だけ出すと、即座に下がり、道を開ける。
その動きが、マキナはまるで天井から見下ろしているように分かった。
いける―――
「らぁっ!!」
マキナは空洞に飛び込むや否や、身体の力の全てを片足に集約し倒れ込んだ。
直後、無限の岩を操る規格外の『蛇』が、無表情な貌を叩き込む。
今だ。
「アステラ!! “首を落とせ”!!」
倒れながらマキナが顔だけ向けると、潤沢な装備に身を包んだアステラが爆撃を開始していた。
そして、連なるように。
岩山の外からも爆音が轟いた。
――――――
『“核”?』
『ああ、そうだ』
トラゴエルが岩山への突撃を繰り返す中、クロック=クロウは岩の“知恵持ち”の特性を語らった。
『トラゴエルには“核”となる本体の岩がある。それに自然の岩を結合し、己が身としているのだろう。実際、私が砕いたときも普通の岩と何ら変わらなかった』
ただその普通の岩は、操作されることで脅威の巨体を形作っている。
『ならよ、核を砕けばあいつは戦闘不能になるのかよ』
『……まあ、そうだ』
僅かばかりトラゴエルへの恐怖心が薄まった。
トラゴエルは明らかに世界のロジックに反した存在ではあるが、人間が想像する空想の世界ではいくらでもいる。
そしてその弱点も同様だ。
龍の逆鱗のように、巨大な化物には必ず急所があり、そこを破壊すれば勝利を得られる。
それが数多の物語が示し出す、非論理への勝利方法。
『パターンから言って、核は頭か?』
『まあそうだろう。頭は他の部位と違って、流石に丈夫のようだ』
よし、とマキナは拳を握る。
あの巨体だ。全てを破壊し尽くすことは不可能だが、狙いがひとつとなると勝機が出る。
なりふり構わず猛攻し、頭の岩に全爆薬を注ぎ込めばトラゴエルを撃破できるのだ。
『―――と、思った瞬間に殺されるだろうな』
『へ?』
破壊音が轟く中、クロックはいやに冷静な声を出した。
『考えても見てみろ。もし仮に、仮にだ。お前が無機物型の魔物を想像するとして―――そのアドバンテージを活かすとして、最初に何を考える?』
『……』
マキナは沈黙し、答えを待った。
分かるわけがない。
マキナの専門は武具製造だ。
『私なら、まず“核”はひとつにしない』
『……! ふたつ在るって言うのかよ』
クロックは重々しく頷いた。
『お前も知っての通り、通常の物質には魔力を留めさせ続けることはできない。常に“核”と結合させることで、自然物を魔力を帯びた“生物”としているのだろう。私が爆薬でトラゴエルの中央付近を砕き、切断したとき、奴は“両脇の岩を移動させて結合した”』
『……!』
そうだ。
いかに非論理といえど、自然物を使う以上、そこには必ずロジックが介入する。
マキナの持つロジック―――“自然物の魔力四散効果”。
自然物は、魔力の原石以外魔力を留めておけないのだ。
そうなると、先ほどクロックが言ったような動きはできないはずだ。
“核”と分断された以上、岩は自然物と化し、魔力を失う。
しかし身体の中央が切断されても動いたとなると、その双方に“核”が無ければならない。
『不死に近い構造の無機物型。そのアドバンテージは普通の生物の枠組みを超えられることだ。ならばあらゆる神話に語られる生物の枠組みすらも超えなければならない。主要器官は、複数ある』
確かにそうなるのかもしれない。
“核”がひとつならば、切り離された時点で魔力は四散し、片側からしか結合できないだろう。
トラゴエルが操るのは総ての岩でないのは分かり切っている。そんなことができるならば“この山総てが敵になっている”だろう。操れるのは自分の魔力を流している岩だけのはずだ。
ゆえに、“核”は複数ある。
ようやくマキナも理解が追いついた。
先ほどの例え話。仮にマキナが無機物型の魔物を造るとするなら、“核”をひとつにしたりはしない。いかに巨大で無敵な力を得たとしても、一ヶ所破壊されたら行動不能になるならば普通の生物と何ら変わらない。生物型にも劣る可能性はある。
そういえば、あの運命の日。
トラゴエルは2度現れた。
1度目は巨兵として。
2度目は今外にいる『蛇』として。
巨兵は“核”のひとつが切り離されて形作られたのだろう。
『ならよ、どうやって倒す』
マキナが問うと、クロックは親指を立て、引いた。
『首を落とす』
『首?』
『ああ、ただし尾と同時にだ。“核”があるのは恐らく頭部と尾の先。ならば我々は、“その直前”の岩を砕けばいい』
トラゴエルの“核”以外の部位はただの自然物。砕くのは容易だ。
確かにその方法ならば、身体に連なる大量の岩を瞬時に無力化できるだろう。
『同時に、か。随分息合わせなきゃならないな』
マキナはトラゴエルの全長を計ろうとし、止めた。どう考えても、頭部と尾を攻撃するマキナとクロックの位置からコミュニケーションが成立するとは思えない。
『別に息など合わせる必要は無い』
『は?』
『我々は、奴が行動不能になるまで爆破し続ければいいのだからな。多少ずれても問題は無い』
爆音ならば離れていても届くだろう。
クロックの狙いを察し、マキナは息を吐いた。
随分と強引な作戦だ。マキナが幼い頃に思い浮かべていた英雄たちの戦いとは、もっとクールだったのだが。
とにかく今から自分たちは、トラゴエルが行動不能になるまで首と尾を爆撃することになるようだ。
『まあ、正念場は砕いた後だ。お前も私も、分断したトラゴエルの“核”と対峙することになるのだからな』
『……でも、あの巨体を相手にするよりはマシ、か』
『ああ、頭だけ、尾だけならば、そこまで驚異的な相手ではないだろう。持てる爆薬総てを注ぎ込み、我々はそれぞれ担当した方を破壊する。隣に巨体は横たわっているが警戒することは無い。意思無き自然物なのだから』
いける。
そんな確信を持てた。
巨大な敵があり、攻略法があり、意思がある。
いける。
『……それが、“タネ”かよ』
マキナは笑っていた。
トラゴエル撃破の方法は分かったが、手段はまだ聞いていない。
しかし何故か。
トラゴエルが破壊されるその瞬間が、目を閉じれば浮かんできた。
――――――
「っは!!」
アステラ=ルード=ヴォルスによる爆撃が開始された直後、エニシ=マキナは跳び上がるように立ち上がった。
そして即座にアステラが運んだ爆薬を掴み上げ、あらん限りの力を持って投擲する。
目の前は、黒煙と光で染まっていた。
腹の底を叩くような振動。目を焦がすような閃光。身を蒸発させるような熱風が、ガルドパルナ聖堂の最奥に炸裂する。
構うか。
ほとんど視力も、そして皮膚の感覚すら薄れた状態でも、マキナは破壊を続けていた。
突き飛ばされるような爆風を浴び、手持ちの爆薬が尽きては足元にばらまいた爆薬を手探りで掴み上げ、乏しい感覚だけを頼りに投擲を続ける。
ミツルギ=ツバキは離れて立っていた。身をかがめていれば身体を守れるだろう。
アステラ=ルード=ヴォルスは金曜属性だ。装備に身を固めていたし、爆風の被害は極小だろう。
自分だけ。エニシ=マキナだけが、身を守る術は無く、衝撃を受け続ける。
だがそれでいい。
右手の感覚が無くなってきた。
爆薬を拾い上げるのを左手に預け、右手は岩石放のような動きで爆破を続ける。
右腕が上がらなくなってきた。
攻撃のペースが落ち込んでも、左手で慎重に爆破を続ける。
この戦いが終わったら、自分はまともな生活を歩めないかもしれない。
だがそれでいい。
それでいいのだ、勝つために、必要なことだから。
我ながらおかしなことだと思う。
自分の生活を取り戻すために戦っていたはずなのに。
それを失ってでも、手に入れたいものができてしまった。
恐らくは生まれてからずっと、蓄え続けてしまった自分への期待、未来への欲求。
その物語を、完結させる。
「―――キナ!!」
「!!」
恐ろしく滑稽に自分は転んだであろう。
途端真横から跳びかかられ、マキナは背中を強く打った。
カッ、と燃えるほど皮膚は痛み、視界は白と黒が入り混じった不気味な景色で埋められている。
一瞬、視力を完全に失ったと思ったが、砂嵐のような光景の先、無表情な女性の顔が見え、マキナはやっと息が吐けた。
「なに……、なに、が」
「落ち着け。終わった。終わったんだ」
「あ……え?」
鼓膜も破けていなかったらしい。
右手は壊れたらしく動かないが、どうやら自分はアステラの細い腕に抱きかかえられているようだ。
そして、爆音は、止まっていた。
「……、……」
「放心しているようだが……、まあいい。トラゴエルの頭部は破壊した」
アステラに座り直させてもらいながら、マキナは首だけ動かして周囲を覗う。
部屋の隅では耳を抑えてうずくまっているミツルギ=ツバキ。
そしてその反対側。火薬の匂いと粉塵が入り混じった先には、焦げ付いた空洞の壁しかなかった。
「倒した……のか」
「いや、まだ身体が残っている」
「倒したんだ……マジで」
わざわざ訂正するのも億劫だ。
マキナは震えながら左拳を握った。どうやらトラゴエルの戦闘不能の爆破も、爆薬の中でもみ消されていたらしい。
外からも爆音は聞こえてこない。クロック=クロウも首尾よくやったのだろう。
“知恵持ち”―――トラゴエルを、撃破したのだ。
高が人間の攻撃で。
「……話が分からないが、トラゴエルは活動停止ということか。ならば、次は脱出方法だ。出入口が詰っている。あれだけの爆破をし、我々が呼吸できているのは不可解だが」
この高なりをアステラは理解してくれていないようだった。
マキナは僅かばかり気落ちするも、ゆっくりと立ち上がり、奥の大穴を指差した。
「空気なら問題ねぇよ。“あの穴からいくらでも出てくるさ”」
「? ……まあいい。それよりエニシ=マキナ、もう立てるのか?」
「ん? ああ、まあ」
右腕は上がらないが、爆弾の被害は懸念していたほどではなかった。
相変わらず原理は分からないが、ある程度は“遮断していたらしい”。
「おわ……終わりました?」
部屋の隅でよろよろとミツルギ=ツバキも立ち上がり、無事を確認。
ある程度は賢さもあったようで、水に濡らした布を口と鼻に当てていた。
随分と砕けた石が飛び散っていたが、身体は無傷。この娘もこの娘で、特殊な力があるらしい。
「終わったよ。全員無事だ」
「えっと、その……はい」
「?」
相変わらずズレたことを言うツバキに、マキナは僅か首を傾げた。
間もなく日の出が訪れる。
この空洞は、トラゴエルの身体のお陰である意味遥かに堅牢になった。
スライク=キース=ガイロードも最後まで魔物の増援を許さなかった。
これで勝ちは―――最も欲したものは、動かない。
――――――
ルールが設定された3ヶ月のタンガタンザ戦争。
その最終日の―――日の出直前。
無機物型の“言葉持ち”及びその軍勢を撃破したスライク=キース=ガイロードは、壊れ果てた大地で歩みを止めた。
腰にぞんざいにぶら下げた大剣に、思わず手を当てながら。
「なるほど……。今期は“初期完成型”の勇者か」
「あ?」
背後から声。
スライクは、薄らいできた星々よりも遥かに鋭い眼光を向ける。
そこに。
『鋼』が、立っていた。
「まあ確かに、今のタンガタンザから生み出すには、そうするより他あるまいか」
鉄仮面を被ったような貌。
逆立つように尖った髪。
鎧を纏ったような身体。
ナイフのように鋭い指先。
鋼の巨躯。
あまりに無機質なその姿は、しかし高らかに笑っていてこそ意味をなすような錯覚さえ起こさせる。
その存在は、タンガタンザを戦火に包み続けていた。
「“魔族”―――アグリナオルス=ノア。以前遭ったときも伝えたか」
「随分のんびりした登場だなぁ、おい。あの雑魚の行動も“主”由来か」
人から見れば脅威の存在である魔族を前に、スライクの態度は変わらなかった。
夜空の下、対面した両者の距離は数メートル。
その差を埋めるほどの大剣を、スライクはゆっくりと抜き放つ。
「それについては俺も頭を悩ましている。いくら時を費やしても、俺が望んだ領域まで配下が届きはしない。あるときは人間に倒され、またあるときは自滅する。難しいものだ、何かを育てるというものは」
脅威の戦果をもたらしたスライクの剣を前に、アグリナオルスの態度は変わらなかった。
ただ己が思うままを口に出し、頭を抱えるような仕草をする。
そしてゆっくりと、その鉤爪の『指』を差す。
「愚痴なら聞く気はねぇ。ついでにてめぇも死んどけや」
「悪いが」
アグリナオルスの『指』が差しているのは、スライクでは無かった。
「俺はこれからやらねばならんことがある。配下を用い、戦略的に勝利を収めるはずだったこの戦争。それも最早難しい。しかし世界を回すために、帳尻を合わせんといかんのでな。お前を相手にしている時間は無い」
「―――ちっ」
スライクは、反射的に身構えた。
アグリナオルスの道を塞ぐように、ガルドパルナに立ち塞がる。
空は白みが増してきている。
日の出まで、あと数分程度だろう。
今からできるのは、精々スライク=キース=ガイロードとの交戦程度だ。
最早人間側の勝利は揺るぎ無い。
だがこの魔族の『指』は―――まっすぐに、ガルドパルナを差している。
「戦略も何も無い、つまらん幕引きとなるであろうが―――始めようか」
――――――
『トラゴエル。そこをどけ』
勝利を確信、いや、事実上勝利が確定していたガルドパルナに、“聲”が届いた。
エニシ=マキナの頭が砕けるように震える。
この、“聲”は。
「―――!?」
ほぼ同時。
ガルドパルナの聖域までの道を封じていた岩石が蠢いた。
つい先ほどまで暴れ回り、ガルドパルナを破壊し尽くした化物が、岩と岩が削り合うような不気味な轟音を奏で始める。
しかし、その仕草は。
マキナには、怯えおののくように見えた。
「行動不能ではなかったのか―――」
反射的な行動か、アステラは珍しくも焦るようにマキナを庇うように前に出た。
装備は潤沢。トラゴエルに注ぎ込もうとも、あと数分は尽きることは無い。
しかし、あの巨大な『蛇』の前には心細ささえ覚えてしまう。
だが。マキナは眼前を埋め尽くす高が岩など、最早見てはいなかった。
「……っ、っ、」
頭の中がかき混ぜられる。何も考えられなかった。
この“恐怖”は―――何だ。
身体中が震える。
アステラには今の“聲”が―――“世界の裏側から回って来たような胎動”が聞こえていないのだろうか。
本能が告げる。トラゴエルごときにかまけるな、と。
「―――っ!?」
驚愕するような光景が見えた。
聖域までの通路を塞いでいた岩の身体。
その身体が、正しく蛇のような鋭さで、ターゲットから瞬時に離脱していく。
高速で遠ざかる岩の身体を見ながら、マキナは察した。
トラゴエルの頭部の“核”は破壊した。クロック=クロウも首尾よくやったのだろうから、もうひとつの“核”は破壊されている。
となると、“ふたつ以上の核”が存在していたことになる。
そんな理屈も飛び越え、マキナは、察した―――“察していた”。
これから起こる、結末を。
「―――ぁ」
声を漏らしたのは誰か。それは分からない。
だが、ついぞトラゴエルが聖堂から身体を抜き放ち、がっぽりと空いた穴からまっすぐに見えた外の景色。
“その世界を見た瞬間、全員が察した”。
「……こりゃ駄目だ」
間もなく日の出。その直前。
呟いたのは今度こそマキナだった。
今、この瞬間をもって、確定していた人間側の勝利は白紙に戻る。
だが、不思議と、マキナは達観していた。
尋常ならざる光景を前に、それが当り前であることのように思えたのだ。
この光景は“既知”だ、と。
そしてその先。
自分の末路も、既知だった。
「…………」
マキナは生気が抜けたように、アステラとツバキの顔を見た。
どちらも“その光景”を、呆然と眺めている。
マキナの身体も、その“役”に準じろとでも言われているように、動かない。
だが。
「…………それじゃあやっぱ、悔しいよな」
マキナは、“未来では動かなかった身体を動かした”。
身体を動かすことだけで、何故か痛烈な吐き気と倦怠感が伴う。
だが、それに、抗った。
「アステラ。スライクに礼、言っといてくれ。クロックさんにも」
「……?」
声をかけられて、初めてアステラは顔を動かした。
マキナは答えを聞かず、“拾い”、ぎこちない足取りで部屋の奥へと進む。
「ツバキ。お前はもうちょっと、いろいろ分かるようになれよ」
呆然とするばかりのツバキに一声かけて、マキナはさらに奥へと進む。
「は」
そして深く目を閉じて、苦笑する。
まさか自分が、こんなことをする羽目になるとは。
自分は“それ”を―――最も恐れていたはずなのに。
マキナは強引に、身体を動かす。
この身体を縛りつけているのは、“それ”への恐怖か。それとも、ときおり降りてくる原因不明の“強制力”か。
だが、どちらでもいい。
もう、自分は昇っている。奈落へと続く、大穴のバリケードに。
どこまでも続く、漆黒の闇へ、いつでも向かえる。
タイムリミット直前。
だが、眼前の“あれ”は間違いなく到達してしまう。
ならばきっと、意味がある。
僅かだけでも、“それ”のタイミングをずらすことは。
「……」
誰も何も言わない。
アステラも、ツバキも、呆然としたままだ。
そんな中、マキナだけが、粛々と続ける。
清い行動だとは、決して思えない。
いや、清い行動では、あり得ない。
“この行動”は、自分自身も含め、マキナが出逢ったあらゆる存在への冒涜だ。
決して勝利では無い。
気持ちの悪い、煮え切らない、敗北だ。
だけど。
「……きっとこの犠牲は、未来に繋がる導となる」
ふと思う。
もしかしたら自分は、今まで操られていたのではないか、と。
子供の頃に夢視た存在になれなかったのは、自分が自分を信じられなかったのは、“そうなるように予め決まっていたからかもしれない”、と。
自分の何も無い世界で視た、あの眼。むしろそれ自体が、やはり本物のエニシ=マキナ自身だったのかもしれない、と。
自分に武術の才能が無かったのも、自分が、“ほとんど大成することのない属性”であったのも、予定調和。
自分がこの瞬間、この場所で、あの魔族が世界を回すための一役になることが、エニシ=マキナという人間が存在する意味だったのかもしれない。
あれほど死を恐れ、危険なものには決して近寄らなかったのも、そのためだったのかと―――思ってしまう。
だから。
むしろエニシ=マキナは、少しだけ嬉しかった。
震える足。まともに動かない身体。それを乗り越え、自分は多分、始めて自分の意思で、ここに立っている。
“奴ら”にひと泡吹かしたいと、“自分自身”は思うのだ。
「どれだけ世界が回っても、抗う力の礎となる」
マキナは、顔を上げ、眼前の光景を睨みつけた。
そして掲げる。
砕けるほどに握り締めた爆薬を、確かにかざす。
「魔族!! 俺は爆薬を持っている!!」
衝撃を受ければ爆ぜる爆薬は、きっと“そのタイミングを知らしめる”。
日の出まで、あと十数秒。
そのタイミングは、マキナには確かに分かる。
“向こう”の焦りも、同時に伝わった。
最早“確定”だ。
「は」
マキナは最後に笑い、呟いた。
「ざまあ、見やがれ」
直後。
男の身体は漆黒に飲まれ、切望していた朝が訪れた。
――――――
「納得できん、と言えるがな」
クロック=クロウは聖堂の入口で、まともに動かない足を行儀悪く広げたまま、アステラの報告を聞いていた。
エニシ=マキナの“行動”から数時間。
戦争のルール通り、魔族軍は素直に退却していった。
歴史上2度目となる人間側のタンガタンザ戦争勝利の朝は、恐ろしく静かなものだった。
「だが事実上、エニシ=マキナの行動により、我々は生存している。その上、来期までタンガタンザ戦争は停止した」
事が済み、出てくるまで数時間を要したアステラは、普段と変わらぬ様子で事実だけを告げる。
クロックは帽子を目深に被り、ガルドパルナの街を見渡す。
全てが無。
人が営んできた歴史を塗り潰すような蹂躙の爪痕は、村を森の中の広場に変貌させていた。
面影はどこにもない。
だが、ミツルギ家で数多の戦争を見てきたクロックにしてみれば、物理的な被害は奇跡的と言ってよかった。
「アステラよ」
「なんだ」
「お前は今年を、幸運だと思うか」
「…………」
アステラは言葉を返してこなかった。
相変わらずの無表情で村を眺め、沈黙する。
だが、それでもクロックには分かる。
タンガタンザの民から見れば、この程度の被害で、値千金の戦果である。
語り次ぐに相応しい奇跡の物語になるだろう。
だが、今この瞬間、この場にいる者にしか分からないこともある。
「ところで、ツバキ」
「……は、はい」
アステラに一歩遅れて出てきたツバキはおずおずと頷いた。
戦場で見かけたときは緊急時のため見逃したが、終わった今となっては叱りつける必要がある。
そう思ってクロックは声をかけたのだが、思わず口を噤んでしまった。
昨日までの彼女ならば、能天気にクロックの怪我を気遣うようなことを言っていただろうに、今の彼女は、呆然と、村を眺めている。
「……村を守れなくて、すまなかった」
それだけを言って、クロックは足に力を込めた。
よろめきながら立ち上がろうとしたところで、ツバキが支えになるように、腕を掴んでくれた。
「あの、クロックさん……」
「なんだ」
「私、」
ツバキは、クロックの顔を見上げながら、アステラのような無表情で、呟いた。
「なんにもできなかったです」
「…………」
クロックは、目を伏せた。
何もできなかった。当然だ。
いくらこの場に残っていたとはいえ、ミツルギ=ツバキは被害者に過ぎない。
自分や、あのエニシ=マキナが、どれほど熱を―――想いを込めて叫んだところで、ツバキは所詮、遠巻きに祭りを見ている存在に過ぎない。
どれほど被害を巻き散らかされても、いいように翻弄される被害者だ。
そしてその結果、彼女は今度こそ、全てを失った。自分の家や両親の街の墓標など、最早跡形もないだろう。
クロックにとって、勝利も敗北も得られなかったこの戦争。ツバキは、その完結もしなかった物語に参加すらできず、いいように弄ばれていただけだ。
「…………。アステラ、外してくれ」
「分かった。私も行くところがある」
何の詮索もせず、アステラは素直に樹海に向かって歩いていった。
この時ばかりは流石にガルドリアも付近から離れているのか、樹海はいっそ、清々しさすら感じられる。
「ツバキ」
そんな空虚な世界の中、クロックは慎重に言葉を紡いだ。
「お前が生きているのはタンガタンザだ。こんなことが、これから何度もある」
すでにツバキは、2度も被害を受けている。
両親を失い、その偶像すら失った。
この幼い身体に、一体あと何度、そんな悲劇が訪れるのか。
「もう1度“それ”が訪れたとき、お前はどこにいたい? 再び翻弄されるだけの今の場所か?」
ツバキは首を振った。自分の意思で。
「“それ”が訪れることも無い、遠くの地か? アイルークには著名な孤児院がある。私が手配すれば、安全な場所に行くことができる」
ツバキは首を振った。自分の意思で。
「私は、」
ツバキは言った。自分の意思で。
「抗ってみたいです。こんなことを起こさないために、今度は自分が参加して、何もできない今を変えたい」
こんな子供が何を言う。
僅かばかり前のクロックならば、恐らくはそんなことを思っていただろう。
もしかしたらツバキがここに残った理由は、両親の墓参りだけではなく、それを自分の手で守りたいと本能的に思っていたからかもしれない。そしてそれが自分では分からないから、中途半端なまま、無駄に命を危険にさらしていた。
「……」
クロックは目を伏せた。
そうなると、彼女も彼女で、正常な感覚を持っていたらしい。
今でも子供には戦争なんぞと縁の無いところにいて欲しいと強く願う―――が、生憎と、ツバキの感情には心当たりがある。
「お前も悔しいか」
「……はい。“あの岩”は、壊したんです。おとーさんとおかーさんを」
「…………」
相変わらずどこかズレたような言葉だが、ツバキの拳は、震えるほど強く握られていた。
ただ、どの道自分とツバキの狙いは、逃亡したトラゴエルで共通しているらしい。
クロックは、ため息ひとつ吐き、ツバキに向かい合った。
アステラに外してもらったのはやはり正解だったらしい。
“あの男”の思惑通りというのも気に入らないし、どこか気恥ずかしいものがある。
だが、ミツルギ=ツバキを対魔族軍の戦力として迎え入れるには、都合のいい地位が用意されているのも事実だった。
「ならば、ツバキ」
「はい」
「今から私が示す道は、抗うこともできるが目にする悲劇も増える。それでもいいと言うのならば―――」
――――――
ギッ、と包帯をきつく縛った腕からは、変わらず血が溢れてくる。
さらに2重、3重と止血し、乱暴に縛り上げ、スライク=キース=ガイロードは立ち上がった。
樹海を進撃したトラゴエルの通行ルートに無かったのが幸いか、倒れた大木が屋根を突き破っていること以外は正常な家屋を、スライクは猫のような瞳で見渡す。
つい3ヶ月ほど前に別れを告げたはずの室内は、何度見てもそっけないものだった。
壁に立てかけた無骨な大剣を乱雑に腰に提げ、バッグを振りまわすように肩にかけたところで、ずきりと脇腹が痛んだ。
腹部に巻いた包帯から血が漏れているのを感じたが、どうせすぐ治る。
スライクは構わず蹴破るようにドアを開けた。
すると、無表情な女性が立っていた。
「てめぇは何度ここに来りゃ気が済むんだ」
「知らせることがある」
スライクはアステラを抜き、そのまま樹海を進んだ。
当然のように追跡者があった。
「“アグリナオルス=ノアの来期の『ターゲット』だ”。狙いはガルドパルナ聖堂。あの洞窟を破壊すると言っていた」
「それを伝えるべきなのは俺じゃねぇだろ」
スライクは苛立たしげに返した。
アグリナオルス=ノア。今最も聞きたくない言葉だ。
「スライク=キース=ガイロードに依頼がある」
「断る。戦争ごっこは俺の仕事じゃねぇ」
取りつく島もないようなスライクの態度に、アステラの気配が僅かばかり変わった。
スライクは、気づかないふりをしたまま歩を進める。
「いいのか?」
「あ?」
僅かばかり感情のこもったアステラの言葉に、スライクは立ち止り、殺気を帯びた言葉を返す。
アステラの言葉には、少しだけ、挑発にも似た色が混ざっていた。
「結果として、スライクはタンガタンザの平和に大きく貢献した。しかし、それはスライクが想定していた勝利ではないはずだ。なにせ、結局、」
「あのマキナとかいう野郎が、か?」
シンとした森の中。
スライクは一瞬腰の大剣に視線を這わせてしまい、舌打ちをした。
スライクは、今年の戦争とエニシ=マキナの顛末は把握しており、アステラもそのことは分かっているだろう。
だが、その結末に固執しているように思われるようなことは、スライクは避けたかった。
「そうだ。スライク=キース=ガイロードにとって、最も早く目的が果たせるのはこの場所だ。何せ、来年になればアグリナオルス=ノアが姿を現すのだから」
アステラには察されたようだった。
スライクは再び舌を打つと、背を向け、歩き出す。
アステラとこれ以上言葉を交わしても無駄だ。
「スライク」
やはりついてくる。
彼女も彼女で、今回のことを一刻も早くミツルギ家に報告する必要があるはずなのだが、優先順位は今にもこの地を去りそうなスライクの方が高いのだろう。
煩わしげに、スライクは口を開いた。
「俺の目的がアグリナオルスだなんて決めてんじゃねぇ。俺には俺でやることがある」
「だが、このままアグリナオルスを野放しにするつもりか?」
「知ったことか」
口論にも似た会話が続き、いつしか樹海を抜けた。
村であった場所を通り過ぎ、外へ続く細い道に差しかかる。
いつしか別れた場所だったが、アステラはなおも歩を止めない。
「スライク」
「アステラさんよ」
最後に、大きな舌打ち。
スライクは振り返り、アステラに向かい合った。
「てめぇは、エニシ=マキナの最期に納得してねぇから俺を止めようとしてんだろ」
「……ああ」
一拍置いて、アステラは答えた。
スライクは、目を細めて続ける。この事実を言うのははばかれるが、このままでは彼女はどこまでも付いてくる。
止むを得ない。
「だがな、後になって言うのも何だが、“あの野郎の最後は最初からここだった”」
決まっていた事実。
決まっていた物語。
そして―――決まっていた悲劇。
それが“降りてきたのは”、つい先ほどのことだ。
スライクは、傷跡から血が噴き出すほど拳を握り締めたのを覚えている。
“その領域へのパス”を持たないアステラには分からない言葉だろう。
だが彼女は、その言葉を黙って聞いていた。
「俺が潰してぇのは“それ”なんだよ。方々回って潰し続ける。アグリナオルスだけに固執してられるか」
言って、スライクは自分が想像以上にアグリナオルスに固執していることに気付かされた。
無表情のくせに自分の言葉尻だけは拾うアステラなら気付いているだろう。
スライクは返答を考えながらアステラの言葉を待ったが、アステラは、予想に反したことを言った。
「……私はスライクに、タンガタンザにいて欲しい」
スライクも、アステラも、表情を変えなかった。
朝の健やかさが微塵も感じられない荒れ果てた空間で、ゆっくりと時間が流れる。
スライクは目を瞑り、やがて沈黙を破った。
「アステラ。言ったろ、“約束は果たした”」
「……」
スライクが、何を失っても元凶を叩き潰さなければならないと思う前。
ただ、自分の周囲で“事故”が起こり続けていた頃。
ふたりの両親が、共に巻き込まれた時。
我ながら馬鹿なことをしたと今でも思っているが、スライクはアステラに、ひとつだけ、詫びをしたことがある。
その“汚点”を清算した以上、自分がここに残る理由は無い。
「“あらゆる願いをひとつだけ叶える”。てめぇはそれを、3ヶ月前に使ったじゃねぇかよ」
エニシ=マキナを誘拐犯から救出すること。
それが無ければ、スライクは決して、あの場所には行かなかった。
「……きっかけになると、思ったんだ。また、交流ができるかなって。失敗したなぁ」
そう呟いたアステラは、顔だけは、素なのか作っているのか、無表情だった。
ただ、どうやら最早スライクを追う気は無くなっているようだった。
「じゃあなアステラ」
「……ああ。元気で」
天地が湧きたち、熱気漂う今年の戦争は、ここで静かに終結した。
スライクは、振り返ることなく外の世界へ向かう。
そして、思う。
今回、特に強く感じた“世界の裏側”。
あれほど連続で、あれほど的確な情報が降り続けたことは今まで無かった。ああした情報が降り続けるのは、どちらかと言えば、“エニシ=マキナの属性”の本分であるはずなのに。
その残り香だけで、苛立つほどの嫌悪を覚える。
恐らくは、エニシ=マキナもその場所へのパスを開花させていたのであろう。
そして、その上で、エニシ=マキナは“確定事項”を捻じ曲げたのだ。
自分がこれまで、恐らくは1度も出来なかったことを、あの男は達成した。
そう考えると、腰に提げた剣が重くなったような気さえする。
「俺の世界に普通は無い、ねぇ」
そのフレーズが、妙に耳に残る。
あの男はスライクを差し、“お前こそが”と言っていたが、果たしてそうなのか。
だが確かに、これから自分が探す、姿も形も分からぬ敵を落とすためには、そうである必要がある。
「……」
ついに樹海に挟まれた道を出た。
流石に今度は魔物の大群が待ち構えていることも無いようだ。
荒れ爛れ、最早土地としての意味を持たない空間。
凹凸が激しく、車両での通行は不可能だろう。
そしてここで、自分はあの魔族と再会した。
「……」
“魔族”―――アグリナオルス=ノア。
“あの戦闘”には強い憤りを感じる。
仮に奴が“世界の裏側”に関連する存在ならば、今度は勝らなければならない。
何にせよ、力を得ることも必要となってくるだろう。
当てもなく、広大な大地を行く旅路の中で、何かが見つかることがあるのだろうか―――
「ほ、人か」
「!」
何も無いものと通り過ぎた樹海の出口。
振り返れば、そこにいつしか山吹色のローブを羽織った男が立っていた。
そのローブよりも特徴的な長い杖を背負った男は、まるでちょっとした知り合いに声をかけるように歩み寄ってくる。
その男の存在に気付けなかったことに、スライクは苛立ち、金色の眼を光らせる。
男は構わず、
「悪いんだけど、聞きたいことがあるんだ。ここがガルドパルナだよな? 戦争の期日って、昨日だったりする?」
「あ?」
「いや、えっと、結構遠くてさ。交通機関も全滅してたし……、遅れちゃった……かな?」
信用できない男だ。
スライクは即座に判断した。
目の前の男は、話に聞くミツルギ家の当主のように、人によって態度を変える種類の人間だ。ただ、相手を利用しようとしている、と言うよりは、無駄な衝突を避けるために動いているようだが。
「戦争ごっこなら昨日までだ。物見遊山なら消えた方が良い。もうすぐ軍隊どもが調査に来る」
「そっか……、そんなら帰ろうかな。途中まで一緒に行かないか?」
「お断りだ」
アステラを巻いた直後にこんな妙な奴に絡まれるなど冗談ではない。
スライクは却下と同時に歩き出した。
しかし、男も付いてくる。先ほどのアステラの焼き回しだ。
これならまだ、魔物の大群でも待ち構えていた方が遥かにマシだった。
「なあ、あんた村から出てきたよな? 今年の戦争の顛末、聞いていいか?」
恐らく追い払おうとしても、行く方向が同じだからとか言い放ち、ついてくるだろう。
スライクはそこまで先読みし、辟易した。
全力で駆け出せば巻けるだろうが、そんな子供臭いことをする気にはなれなかった。
「“終わることが決まっていた奴”が、終わった。それだけだ」
“パス”を持たない者には決して理解できない言葉。それだけを吐き出した。
これで分からなければ、会話を続ける意味もないし、続ける気も無い。
だが男は、取り立てて聞き返すことも無く、呟くように言った。
「ふぅん。“決まる前”に、避けられたかもしれないのにな」
正しく意味を受け取らなかったのか、それとも意味を受け取っているのか、他者が聞けばついて来られないであろう会話が初対面のふたりの間で交わされる。
男の言葉を解釈するとすれば、例えばスライクが魔物の大群に挑むよりずっと前―――あの夜アグリナオルス=ノアが“指”を差すことを未然に防ぐ、ということになる。
普段ならば鼻で笑うが、そのときスライクは、そんな考え方もあるか、と漠然と思った。
事件が発生する前に、それを防ごうとするのも、あるいは“物語”に抗うことになるのかもしれない。
いつしか横並びになった男の長い杖が、妙に目に焼き付いた。
「はん」
「……なんだよ。笑うこと……って、行くな行くな、待ってくれよ。俺はマルド=サダル=ソーグ。月輪属性の旅の魔術師だ。レアだろ? で、お前は?」
「スライク=キース=ガイロード」
スライクは、あっさりと答え、しかし歩みは緩めない。
目指す先は、猛威を振るった伝説とは別の道。
定められた運命に抗うという、あくまで漠然とした―――あくまで自分勝手なアナザーストーリーだ。
だから、自分は決して、勇者様などではあり得ない。
そしてその不規則な在り方は、きっと世界に―――定められた運命に“バグ”を作り出すだろう―――
「日輪属性の旅の魔術師だ。レアだろ」
―――***―――
そして、その2年後。
同じ時間軸―――燃えるような戦場が、襲来していた。