隔離都市物語
01
とある勇者の独白
≪主人公≫
永遠の平和が続くと思われていた我が祖国世界統一王朝アラヘン。
だが、その永久の平和は脆くも崩れ去った。
「はーっはっはっは!我は世界を渡る者!人呼んで魔王ラスボス!」
今でもあの高笑いを忘れる事は出来ない。
当時の私は一介の見習い近衛騎士で、
そう、最初は軽い気持ちで仲間達と共に出陣したのを覚えている。
一年も前の事だと言うのにその時の会話までも一言一句思い出せる。
「聞いたか?魔王だとよ」
「ああ、七つの世界を滅ぼした伝説の魔王……って普通自分で言うか?」
「しかし同志よ。幾つかの村が奴によって滅ぼされたのは事実」
「そうだな。だからこそ我等に出陣の命令が下ったのだろう」
「ふっ、まあいいさ。俺達に手柄を立てさせてくれるんだ。感謝してもいいかもな」
「不謹慎すぎるんだよお前は」
一年前のあの日。
私達王国騎士団は馬を連ね、軽口を叩きながらのんびりと街道を進んでいた。
そうだ。確かその日は抜けるような青空だったように思う。
空一面の青と所々に散らばる白い雲。そして気のいい仲間達。
……全てはもう失われてしまったものだ。
「叙任の儀を、執り行う」
思い出から引き戻された現実の私は王の目の前で膝を折っている。
それだけなら何とも名誉な事なのだが、実際は私以上の兵が残っていないと言うだけの事。
威厳の節々に不安の見え隠れする王の言葉をかみ締めながら、私は勇者の称号を授与されていた。
「近衛騎士シーザーよ、汝に勇者の称号と我が国に代々伝わる伝説の武具一式を授ける」
「ははっ!」
白く輝く伝説の武具に身を包み、国王陛下と城下町の民の大歓声を背に私は魔王の城へと向かう。
空は厚い黒雲に覆われ、足元には枯れ草のみ。
ここで私が何とかせねば世界は文字通り滅んでしまうのだろう。
「既に先行した王国軍の精鋭が敵本隊と戦闘を開始しております」
「自分等はその隙に魔王の根城に潜入して直接ぶっ叩くって訳さ」
「ガハハ!腕が鳴るわ!」
宮廷魔術師最後の一人でもある老魔道師とギルド一の腕利き盗賊。
……そして力自慢の木こり。
この日の為に集められた精鋭である。
いや、この国に残された……と言うべきだろうか?
かつて余裕と共に歩んだ街道は半ば崩れ、
跨る乗馬も随分と痩せ衰えて見えた。
かつての民家は焼け落ち、屍が埋葬もされずに野ざらしとなっている。
青々と茂っていた草原は最早唯の荒地と成り果てていた。
そう、全ては死に絶えようとしていたのだ。
現状を打開する方法はただ一つ。
……魔王を、討伐する事……。
「酷いものじゃ……せめて騎士団が残っておれば」
「おっと爺さん!若旦那の前でそれは禁句だぜ?」
「ガハハ、何せその騎士団最後の生き残りだからな!」
「……最後の生き残り、か」
一年前のあの日、魔王の根城に攻め込んだ我々王国近衛騎士団は壊滅。
生き残った私達はその後も魔王とそれに従う軍勢との絶望的な戦いを続ける事となったのだ。
永き戦いで櫛の歯が抜けるように磨り減った騎士たちは更にその数を減らし、
今では遂に戦えるものが私一人となってしまっていた。
王国軍もかつての威容はもう無い。
だが今回は私達の突撃にあわせて陽動作戦を決行すべく、
全国に散っていた部隊を総結集させていると言う。
そして、一気呵成に敵本陣に切りかかるのだと聞かされている。
だが敵対者は余りに強大で正面からの勝ち目は無い。
だが、もし後方で魔王が倒れれば……万一の勝ちの目が出てくると思われた。
そう、全ては私達にかかっているのだ。
「……命の火が消えていく」
「ガハハハハ……ご老体。それは覚悟の上だろう?」
「違いない。ギルドも世界がなくなりゃお飯の食い上げですんでね?頑張りますよ今回は」
死闘の繰り広げられる大草原を迂回し、
魔王により占拠された、とある城の門を開ける。
鍵を変えられていなかった事に僅かばかりの安堵をしつつ、
私達四人は昼なお暗い城の中を進んでいく。
「シンニュウシャ!」
「人狼……ワーウルフじゃ!」
腰巻を付けた犬と人の中間の姿をした魔物に対し剣を抜き放つ。
こんな奴等にやられている場合ではない。
「ちっ!横から後ろからゾロゾロ来るぜ?」
「あっちゃー……隠れる場所が無いと自分の持ち味が出せないんですけどね」
木こりが斧を振り上げ盗賊が短刀に毒を垂らす。
老魔道師は杖を掲げ、口元に手をやって呪文の詠唱を始めた。
……敵の増援は近い。時間を無駄にしている余裕は無い。
ならば答えは一つだろう。
「前方を突破する!……この奥に玉座の間があるはず。私に続け!」
「ガハハハハハハ!よし、ならば殿はこちらで務めよう」
「木こりのオッサン、正気ですかい?」
「ここは奴の、戦士の心意気に応えようぞ。勇者シーザーよ……先に進むぞ!」
私達三人は走る。
眼前に迫ったワーウルフの剣を盾で受け止め、がら空きになった胴に伝説の剣を突き立てる。
老魔道師の指先から巻き起こる熱線が毛皮と肉を突き破り、
盗賊の短刀にたっぷりと塗られた毒により敵は錯乱し、見境無く仲間まで襲い始めた。
……好機!
「今だ!突撃!」
「クソッ!正面戦闘は自分の領域じゃ無いっての!」
「わがまま言うでないわ!ハァ、ハァ、先に、進むのだ!」
盾を前面に押し出し、力づくで先に進む。
時折金属音が盾の表面から聞こえるが、流石は伝説の一品。
欠ける事はおろか傷が付く事も無く敵の攻撃を受け止め続けている。
盾をずらして剣を突き出す。
「キャイイイイイン!?」
「今だ!やってくれ老師!」
「うむ!」
更に敵が怯んだ所に老魔道師の大呪文が炸裂。
爆発が前方に対し無数に巻き起こり、収まった時には前方から敵の姿が消えていた。
「よし、このまま魔王の元へ走る!」
「ハァ、ハァ……そうじゃの。あと……ひと踏ん張りか」
……きっと木こりは生きている。
生きてこの地獄から脱出してくれただろう。
必死に自分自身にそう言い聞かせ、
ふと……盗賊の声がしない事に気が付いた。
「彼は何処だ?」
「あの盗賊坊やか……そこにおる」
はっとして振り向く。
「へ、へへ……畜生、ドジっちまった」
「……その傷は」
盗賊は足に深い傷を負っていた。
足の腱が切れている。最早歩く事は出来まい。
一体どうすればいいのか。
「ちっ。これじゃあもう足手纏いだな……行け」
「ぐっ!?……ああ、そうだな」
「良いのかの?その足では逃げ切れまい」
「どうせこのままじゃ進むも引くも出来ないもんでね……ま、見てな」
「お前の事は忘れない!忘れるものか……!」
「さらばだ。わしもすぐ同じ所に行く……」
老魔道師と二人、廊下を走る。
背後からの爆発音。
そして追撃が止まった。
盗賊だ。彼がやってくれたのだ。
必死に歯を食いしばり、玉座の間に続く扉に手をかけた。
思い起こせば、我が騎士団は一年前、ここで力尽きている。
魔王の姿を見るのも私自身は初めてだ。
まあ、だからと言って何かが変わる訳では無い。
どちらにせよやる事は一つだ。
ともかく一度大きく深呼吸をし、扉にかけた手に力を入れた。
「魔王ラスボス!覚悟おおっ!」
「死んだ婆さんの仇じゃっ!」
心の奥底から沸き上がる恐怖を叫び声の奥に閉じ込め、扉を押し開くとそのまま室内に突入。
そして私は見たのだ。
魔王の姿を。
「ようこそ勇者よ。我が名は魔王ラスボス!七つの世界を滅ぼした伝説の魔王だ!」
「貴様が……ラスボス!」
「覚悟するのじゃ!」
魔王ラスボス。それは巨体を持つ悪魔……とそう呼ぶ他無い存在だった。
玉座の間から更に三階までぶち抜いて作られた巨大な私室。
その奥全てを占有するかのごとく鎮座するは、
頭部の側面から巨大な角を生やした筋骨隆々の巨人。
立ち上がるとそれでも角が時折天井に擦り、石の破片が周囲に降り注ぐ。
背には蝙蝠の様な羽。
武器のようなものは見当たらない。だが、鋭いその爪は明らかに凶器でしかない。
「ふふふ、この世界にもやはり骨のあるものが存在するか……」
「魔王よ!貴様の暴虐もここまでだ!私が……勇者シーザーとその一行が貴様を倒す!」
「まずは食らえぃ地獄の熱波を!"マックス・グリル"じゃ!」
だが、私達も負けてはいられない。
世界の命運は、まさに私達の戦いぶりにかかっているのだから!
老魔道師の最強炎熱呪文が凄まじい熱波を引き起こす。
そして魔王がそれに巻き込まれるのを確認し、
私自身も剣を抜いて走り出した!
「こんがりと美味しいローストになってしまえぇい!」
「……温い」
「ならば、これでどうだっ!」
驚異的な熱波の中、魔王は涼しい顔をしている。
効かないと言うのか!?だが、伝説の剣の一撃なら!
「真っ向勝負!逆袈裟切り!」
「……ほぉ?」
「おお、魔王の指が!」
しかし、私の渾身の一撃は魔王の小指を第一関節から切り離しただけに終わった。
馬鹿な……飢えた虎でさえ一刀両断にする私の剣技が!?
いや、僅かでも効いたと考えるんだ!
傷が付くなら殺せる筈……!
「中々やるではないか。我が体に傷を付けるか?」
「ゆ、指が……くっ付いた、だって!?」
「ぬ、ぬぬぬ!ならばこれじゃ!宙を舞う刃に切り刻まれよ!"フライング・スラスト"じゃ!」
しかし、魔王は自分の指を拾い上げると傷口に当てる。
ただそれだけで指は再び元に戻り、数秒後には傷跡すら残らなかった。
恐るべし、これが魔王か……。
だが、老魔道師も私も諦めはしない。
詠唱が始まった次なる呪文は風の刃を発生させ敵を切り刻む"フライング・スラスト"か。
特筆するべきはその数。かつて畑を荒らすカラスに放つ所を見たことがあるが、
数十羽の群れの一羽一羽に直撃を与えていたのを覚えている。
決して威力の高い術ではない。
だが、隙を必ず作ってくれるはず。
……そのはず。なのだが。
「……老師?」
「ぐはっ」
何故か飛んでこない無数の風の刃。
ぞっとする感覚が背後から迫り、思わず振り返る。
そこで私の目に飛び込んできたのは……。
「脆いな、魔道師というものは。何処の世界でも変わらぬ。奴等が異常なだけなのだ、うむ」
「老師ーーーーーっ!?」
「あ、あが、が……」
無残に顔面を石で潰された老魔道師の姿。
砕けた鼻からはとめどなく血液が流れ出る。
見ると小石、と呼ぶには大きすぎる石が老魔道師の顔面を潰していた。
「く、そっ……何故じゃ……異界への移動なぞ、天使でもなければ不可能では……」
「愚かなり。それはあくまでこの世界の常識。我が故郷では異界へ飛ぶ技術は確立されていた」
「む、無念、じゃ……がはっ」
「老師!?」
「力尽きたか……多次元時空では弱き事こそ罪悪。我意を通したくば強くある事だな」
そして遂に力尽き、その場に倒れこんだ。
駄目だ。これでは、もう……。
ぐっと怒りをかみ殺し私は魔王を見上げた。
その顔は笑っている。
「それにしても。こんな小石を弾くだけで死んでしまうとは。何とも脆い」
「き、貴様っ!」
魔王は次なる呪文に気付いていたのだろう。
指先で小石、と言っても人間の握り拳大ほどもあるそれを弾き飛ばしたのだ。
……そしてそれは老魔道師の老いた肉体を破壊するには十分すぎるほどの威力を持っていた。
既に呼吸は停止している。
そして、戦闘中に蘇生を行う方法を私は持っていなかった。
「哀れだな勇者よ。これでお前は一人だ」
「……私は、それでも……諦めない!」
嘲りの声に屈しそうになる自分を必死に繋ぎとめる。
そうだ。仲間を失うのも覚悟の上でここに居るはずだろう。
もし老魔道師の死に動揺し、そのせいで倒されてしまったら、
天国の仲間達に何と言って詫びろと言うのだ。
「伝説の剣よ。私に力を……!」
【宜しい、勇者よ。この世界を救うのです!】
「ぬ。剣に光が?」
心を無にし、剣を正眼に構える。
……その時、私の心の叫びに応えた伝説の剣、
いや、剣に宿った世界の守護者の意思が奇跡を起こした。
光が剣に宿り、全てを切り裂く力を与えたのだ。
そう、それこそがこのような事態に備え古の人々が残した軌跡の力!
……奇跡にあらず。
それは長く続く歴史の生み出した"軌跡"の結晶!
「おおおおおおっ!魔王ラスボス!覚悟おおおおっ!」
「む!?」
光を得た剣に全てを託し、敵を目掛け突進する。
……何も教えられなくても判る。
この光り輝く剣を突き立てれば流石の魔王ラスボスといえど無事では済まない!
私は文字通り全ての力をその一撃に託し、
輝く剣の力により魔王の想像を超えた速度で魔王の胸元目掛けて剣を突き立て……!
「危ない魔王様!」
「なっ!?」
「馬鹿な!」
ようとした瞬間、横から割り込んできた子悪魔に輝く剣は受け止められた。
いや、小悪魔は己の身を挺して主君を救ったのだ。
敵は剣を己の胴で受け止め、自らの体が半ば両断されても決してその手を離さない。
敵ながら何と天晴れな心意気か。
違う……そんな事を気にしている場合では……!
「馬鹿者があっ!」
「ぐはあああっ!」
そう、その一瞬。
その一瞬が余りにも致命的だった。
魔王の腕により薙ぎ払われた私は吹き飛ばされ石壁に半分ほどめり込んで、
そのままズルズルと地面に落ちていく。
【まさかこんな結末があろうとは……】
「……ふん」
なんと言う事だろう。
私の手に剣が無い。魔王が指先でつまんでいる。
……伝説の剣は敵に奪われてしまった。
剣に宿りし世界の守護者も絶望的な溜息をついている。
世界はこのまま闇に落ちてしまうのだろうか?
……だが、魔王の取った行動は私の予想を遥かに上回っていた。
「……勇者よ。一撃だけ食らってやる」
「なっ!?剣を返すだと!?」
【何を考えているのですか?まさかこの輝く一撃に耐えられるとでも!?】
魔王は何を思ったか輝く剣を私の足元に放り投げてきたのだ。
「ま、おう、さま?」
「愚かな使い魔よ。我が名はラスボス。七つの世界を破滅させしもの……その力を見まごうな」
「たった、それだけの為に……!?」
【勇者よ!何にせよチャンスです。輝く一撃を魔王に食らわしなさい!】
余りの事態に一瞬思考が停止したが、確かにそうだ。
どんな形であれこれはチャンス。
一体どういう意図があるのかは知らないが、事は私一人の問題ではない。
私の背中にはこの世界に暮らす全ての人々の平和がかかっているのだ。
「私は勇者シーザー……魔王ラスボス!その敵を侮る態度が貴様の敗因と知れ!」
「侮る?我がお前を……か?」
【その余裕が何時まで続くか見物ですね!】
剣を握り締め、輝きを増す刃を敵の胴体に向けて突き出す。
魔王は腕組みをして仁王立ちのままだ。
伝説の剣はそのまま光り輝きながら魔王の胴体に吸い込まれていく。
……何故だ?何故回避も防御もしないのだ!?
「ぐふっ……ふ、ん……この程度、なんと言う事は無いわ!」
【苦し紛れに強がりを!】
そして、本当に回避のそぶりすら見せないまま、
魔王の体に伝説の剣は突き刺さって行く。
その魔王の顔に苦悶が浮かぶ。
だが、崩れない。
堂々と立っている。
「剣如きが何を偉そうに……」
「いいのか?お前の体は伝説の剣の力によって崩れ去ろうとしているぞ!」
【剣に宿りし力は"崩壊"の魔力。誰であろうと破壊するのです!】
「ま、おう、さま……」
今言ったとおり、突き刺さった剣は未だ光を失わず、
傷口から魔王の肉体に亀裂が走り、そこから崩壊して行くのがわかった。
しかし何故だ?何故剣を抜こうとも……そもそも動こうともしないのだ?
「我が故郷は食料を得る事すらままならぬ荒廃した土地……力こそが正義の世界」
「だからって、私達の世界を襲って良い理由にはならない!」
【その通りです。心得違いをした時点で貴方に勝ち目は無かったのですよ、魔王!】
「故に我は負けられぬ。我は我意を通すべく最強足らねばならぬのだ!」
「……剣を掴んだ!?」
【いけない……ギ、ギャッ!?】
動かなかった理由は、至極単純なものだった。
動けないのでも、侮っているのでもない。
……剣の柄の宝石が握りつぶされ、再び剣は魔王の親指と人差し指の間に捕らわれた。
守護者の声はもう聞こえない。
「どうだ……正面から耐え切ったぞ……」
「そん、な……!」
「魔王様……ま、お……」
瀕死の小悪魔が感涙の涙を流す中、魔王はさも興味なさげに言い放つ。
「見るが良い、これがお前の主君!七つの世界を滅ぼした魔王、ラスボスなるぞ!」
「おお、おお…………うぅ……」
小悪魔は、そのまま息絶えた。
魔王は伝説の剣と正面から戦い、粉砕する事こそ望んでいたのだ。
己の力を誇示せんがために。
……光を失った剣は、そのまま魔王の足元に落ちる。
「終わりだ。どうやら肉体の崩壊する呪いのかかった剣だったようだが、力の源は砕いたぞ?」
「は、はは、は……殊勝な部下への餞(はなむけ)とは、魔王という割りには高潔な事だ」
「……唯の下郎に魔王は務まらぬ。そんな事より、神とやらへの祈りは済んだのか?」
「生憎と、私はあまり信心深いほうでも……ましてや諦めの良いほうでも無いのでな!」
伝説の剣を失ったのは余りにも痛い。
だが、あれではもしまともに食らわしていても耐えられていた事だろう。
そう考えれば最初から無い物として考えた方が都合が良い。
諦めるのは何時でも出来るのだ。
ならば、最後まで足掻くべきだろう!
私は気を取り直し、予備の……そして愛用の鋼鉄製長剣を鞘から抜き放つ。
見習い時代に今は亡き父が腕の良い鍛冶屋に作らせたもので、
この一年を私と共に歩んできた業物だ。
伝説の剣のような強い力は一切持っていないが、手にした時の安心感が全く違う。
最後に頼りになるのは手に馴染んだ武具と言う事なのかもしれない。
「行くぞおおおおおおおっ!」
「……来るが良い!」
魔王の手より鋭く硬い爪が突き出すかのように生えてくるのが判る。
鋭く振り下ろされた鋼鉄の如き爪と私の愛用武器が交差し、
……爪が一本折れて宙に舞った。
「……我は負けぬ。もう二度と、負けぬのだ!」
「く、そっ……!」
だが、残る四本の爪は私の鎧を裂き、傷口からは鮮血が舞っている。
……魔王自身は無傷だ。
私は……負けた?
ああ、負けてしまったのか……。
「あぐ、ぐうっ……!」
「どうやら傷が内臓まで達したか……ふん。これでは訓練にすらならん」
「く、んれ、ん?」
「お前達には関係の無い事だ。滅び……ぬ?」
その時、急に体が落下するような感覚を覚えた。
体が支えを失って急激に沈み、私は急速に落下していく。
何時しか元居た広間が暗黒の中の小さな光の点に変わっていった。
これは、これは一体!?
【幸か不幸か……どうやら召喚魔法を受けたようですね】
「け、剣の精霊!?剣の……守護者よ、こ、これは一体!?」
先程砕かれた筈の伝説の剣がまるで私を追うかのように落ちてくる。
朦朧とした意識の中必死にそれを掴むと、私は声を張り上げた。
そうでもしなければ意識を保つ自身が無かったからだ、
だがその手に収まったものは剣では無かった。
これは……割れた宝石?
【口惜しい事ですが、自らの傷を癒す為に暫し眠らねばならぬようです】
「なおる、の、か?」
【喋る必要はありません。私は聖剣……時があれば修復は容易い】
「そ、か……」
既に意識は半分飛びかけている。
震える手で砕けた宝石を必死に道具袋に放り込んだ。
……これでとりあえず失くす事は無いだろう。
これから向かう地がどんな場所なのかは知らないが、
それでも今以下と言う状況は無いだろう。
私は暫しそこで傷を癒し、そしてまた戦おうではないか。
「逃さぬぞ!」
「魔王ラスボス!?」
その時、飛びかけた意識を現世に引き戻す怒号が遥か上空から響く。
……声の主は、魔王!
追って来るにもその巨体が邪魔をしてこの暗闇へは腕を突っ込むのが精一杯のようだ。
窮屈そうに穴から突き出された腕が私のほうへ突き出され……光を放った!
「うあ、うあああああああああっ!?」
「刻印が己に刻まれたのがわかるか?その印がお前の場所を我に教えてくれる……逃さんぞ」
腕が見えなくなり、変わりに豆粒ほどになった"穴"から魔王が此方を覗き込んでいるのが見えた。
そして、段々とその顔すら判別できなくなって行く。
「くっ!追って来る必要は無い……傷を癒し、何時か必ずお前を倒しに戻ってくる!」
「ほう……ならばこの世界を制し次第、逆にお前を追って行こうではないか!」
既に声も聞き取りづらくなってきた。
だが、その言葉は聞き捨てならない。
思わず聞き返す。
「何!?」
「お前のせいでお前の落ちた先は災厄に包まれるのだ。疫病神になるという経験を楽しむが良い」
楽しめるか!
だが、言い返そうにも既に魔王の声は届かない。
光も最早点にしか見えない状態だ。
くっ、こうなれば何としても私を呼んだ人達に……。
と、ここまで考えて気が付いた。
「私は、これから一体何処へ行くというのだ!?」
既に召喚魔法が使えるほどの術士は先程戦死した老魔道師以外に存在しない筈。
それに、私がここに居る事は国民全員が知っているだろうが、
正確な場所など判りようが無いではないか。
だとしたら一体誰が!?
いや、よく考えれば敵と言う事も無いだろう。
何故なら当の魔王自身がこの展開に困惑していた。
そもそも敵だと言うのなら、あのまま数秒待っていれば私は死んでいたはずだ。
「……まあいいか。全ては行ってから確かめれば良いだけの話」
私は仰向けに落ちている。
そして背後から光を受け始めている、
と言う事は出口が近いと言うことだ。
何にせよ、召喚者は驚くだろうな。
何せ召喚したものがこの通り死にかけているのだから。
さて、ここは少し休ませてもらおうか。
もう意識を保つのも辛いしな……。
……いや待て。
よく考えろ。
召喚と言う魔法を使う場合は数種類に分けられる。
儀式か、それとも戦いの為か。
もしかしたら何かの実験と言う可能性も考えられない事も無い。
だが、もしも。
「おねーやんには指一本触れさせないお!アルカナが相手……痛いお!噛んじゃ駄目!痛いお!」
「「「「ガヴ、ガブ!」」」」
『来たれ、来たれ……!』
「おねーやん!ワンワンにかじられてるお!痛いお!早くするお!痛いお!痛いおーっ!」
『来たれ、来たれっ……竜王とクレア=パトラの名の下に!』
もしも、召喚者自身が危機に陥っていたとしたら?
だが、体は満足に動かない。限界はもうすぐそこまで来ていた。
故にせめて覚悟を決める事にした。
いかなる事態にも冷静さを失わないようにと願いを込めつつ。
「あー!来たお!何か落ちてきたお!召喚成功だお!おねーやん!助けが来たお!」
『竜王の名において!この場を切り抜けられるだけの力を持った存在よ!"召喚"(コール)!』
そして、私は降り立ったのだ。
文字通りの"異境"へ。
「グベラアアアアアアアッ!?」
「助けがき、だおおおおおおおおっ!?」
「「「「キャイイイイン!?」」」」
……全身を地面に叩きつけながら……ではあるが。
成る程、私はこの差し迫った危機を回避すべく呼ばれたと言う訳か。
まあ、落ちた衝撃だけで問題が解決した事はいい事だな。
……細かい問題点はこの際無視する事としよう。
特に、何か守るべき相手まで巻き込んでしまったような気がするところとか……。
「お、お、おお!見事に飢えた野犬の群れを蹴散らしたお!凄いお!」
「……小型の流星かしら?」
「残念だが、私は……人間だ……」
姉妹だろうか。
快活そうに見えて意外と淑やかな雰囲気をかもし出す姉。
そして、見るからに快活そうな妹か。
彼女達はこちらを見て驚いていた。
正確に言うと妹の方は私の背中の下から這い出した上で驚いていたが。
「い、生きてるおーーーーっ!?」
「え、え、え……ええぇぇぇ!?」
まあ、それも当然か。
ともかく高所から落ちてくればなんでも良かったようだからな。
野犬の群れ相手ならそれも当然だ。
何にせよ、助けられたのは私のほうかも知れんな。
明らかにあのままでは殺されていたのだ。
だが一応……彼女達は此方の都合も考えず召喚してきたのだ。
私にだって傷の手当てと送還を乞う権利ぐらいはあるだろう。
何にせよ、婦女子を前にして無様に倒れているのは勇者にしても騎士にしても名折れ。
苦痛を隠して出来る限り穏やかな表情を作り、折れた骨を騙し騙し立ち上がる。
愛用の剣を杖代わりにして立つと、折れた骨がズキリと痛んだ。
だが、構ってはいられない。
まずは挨拶だ。
必死に笑顔を作り、出来る限りにこやかに。
「ぐっ……あぁ、はじめまして」
「はじめましてだお!アルカナだお!」
「え、と。クレアと申します」
姉の方は相当におっかなびっくりとした挨拶だ。
だが、現在の私の状況を考えれば当然とも言えよう。
対して未だ幼子の域を抜けていないように見える妹の方は堂々としたものだ。
小さな胸を張り、短い手足をピンと伸ばして妙に偉そうに挨拶をする妹と、
自分の膝ほどの身長しかない妹の後ろでぺこりと頭を垂れる姉の退避が可笑しくて、
ついつい苦笑が顔に出てしまう。
いかんいかん、城づとめでこう言う事があまり良く無い事は判っているはずなのにな。
何はともあれ、まずは交渉の基本だ。
此方も相手の事を何も知らないのだ。出来る限り穏やかな表情で、と。
「可愛らしいお嬢様方。この度は一体どういうご用向きですか?」
「済んだお!お散歩してたら道に迷ったんだお!本当だお!勉強を抜け出したりはして無いお!」
「申し訳ありません。妹を連れ戻そうとしたら野犬の群れに襲われてしまって」
やはりか。
それを確認すると、僅かばかりの安心感と共に周囲が白く染まっていくのがわかった。
限界なのだ。私の体も精神も。
幸い、彼女達は友好的なようだ。
例えこのまま倒れても、最低限治療はしてくれるだろう。
……とは言え、野犬の群れに教われるような状況で女性二人を置いて勝手に気絶と言うのも、
「ユーアー、ダァァァアイ!……誘拐犯よ!貴方の好きにはさせませんよ!」
「「「「舐めた真似をーーーーーーっ!」」」」
……!?
「え?違う!違うよ皆!?」
「おにーやん、誘拐犯だったお?……オド!だったらやってしまうお!悪即斬、だお!」
どうやら、考える意味も無かったらしい。
私の胴体は腰から上と下に一刀両断された。
そして、私の意識は、ゆっくりと、薄れていく……。
「しっかし、おねーやんの魔法で呼ばれた人が誘拐犯らったとは。世界は意外で満ちてるお」
「アルカナ!そうじゃないでしょう!?ああ、もうこの子は……」
「ホワッツ?どう言う事でしょうか?」
これが私の終わりか。
なんとも無様であっけない。
こんな事なら、
いっそ魔王に殺されていた方が。
……違う!
それは無い。
それだけは望んではいけない。
何故なら私は、勇者だからだ。
倒れる時まで、願わくば前のめりに……!
「ノォ……ではこの方は貴方がたの恩人では無いですか!」
「そうなの。何とか出来る?」
「アイ、マム。陛下と姉君に出来ない事など最早ありません……姫様にお願いしましょう」
「えー。おねーやんにお願いするお?アルカナ、また怒られるお!斧で頭かち割られるお!」
「私の召喚術のせいだもの。私が姉さんにお願いする。オド?お父さんへの報告は頼んで良い?」
なにやら頭上が騒がしいが、もはやまともに意味を捉えることも出来ない。
どうやら私への誤解は解けたようだが。
まあいい。どちらにせよもうこれでは助からん。
人が生きていくうえで重要な何かが幾つも切れてしまっているようだ。
どう考えても、これでは……。
「隊長!この方の心臓が!」
「ホワイ!?くっ、とにかく心臓マッサージ!体の上下も即繋ぐんです!」
「「「はっ!」」」
「私は念話で姉さんを呼びます……精神集中用の絨毯をここへ」
「はっ!」
「アルカナは元気付ける為にお歌を歌うお!自分で作詞したお!これで怖くないお!」
「……何がでしょうかアルカナ様」
ああ、意識、が……。
「いち、にい、さん!いち、にい、さん!」
『姉さん!ハイム姉さん!助けて!?私、とんでもない事してしまったの!』
「アーユーレディ?貴方は担架を用意、貴方達は処置を続けなさい。私は陛下に報告に上がります」
「「「サーイエッサー!」」」
「わたしはわたしははーちゅねー。は・ちゅ・ねっぽいな・に・か♪」
……途切れ、る……。
「に、に、さん!さん、に、さん!」
『急いで!死んじゃうよ!うん、死んでから生き返らせるのが楽なのは判るけど……』
「今日も元気だよはーちゅねー、はーちゅねっぽいー、なぁにぃか!」
「そこから台詞入るんですよね確か。とりあえず邪魔なので退いてくださいね姫様」
「何か何だか何なのか?あ、それ。何が何だかなにぬねのー♪」
「よいしょっと。おーい、姫様退かしたぞー!次はどうするーっ!?」
「陛下が前世の故郷から持ってきたって言う……LED?だっけ?あれ持ってきてくれ!」
「心臓本格的に止まったぞ?マズイ、急いでくれ!」
「畜生!我が聖印魔道竜騎士団が護衛の任務についてる時にこんな失態を……」
「これだから守護隊と差を付けられるんだよな。最精鋭の二枚看板が聞いて呆れられちまうぜ」
『お父さん!お母さん!ルン母さん!アルシェ母さん!お願い……姉さんに何とか言って!』
「~♪~~♪~~~♪ありがとうだおー!……誰も聞いて無いお。空しいお」
……。
「アルカナ!アルカナからもお願いして!姉さん来てくれないの!」
「やだお!姉やんにお願いなんて嫌だお!」
「この人死んじゃうよ?折角私達を助けてくれたのに……本当に死んじゃうよ?」
「……それも嫌らお。判ったお、何とかするお…………ハー姉やんの、お馬鹿!おぶあーっか!」
「"転移"!……このアホ妹めが……今日と言う今日はしっかりと教育を……はっ!」
……わ、た、し、は……。
「姉さん、お願い!私、私のせいでこの人死んじゃうかも知れないの!助けてあげて!」
「むう、しかし既にこの男死んでおるぞ?下準備の無い死者の蘇生は世界への負担が大きい……」
「おねーやんの言い方じゃ駄目だお。ハー姉やん?そんな事も出来ないお?駄目駄目だお!」
「何だと!?ふん!では見るがよい!わらわの力を!」
「ふふん。ちょろいお」
「うん。その手腕は認めるけど……私、そういうのはズルイと思う……」
そして、わたしのいしきは、
しろくそまって、
かくさんして、
いった……。
……。
「……ここは……?」
目を開けると、そこは白い部屋の中だった。
清潔な毛布のかけられたかなりしっかりしたつくりのベッド。
恐る恐る手を毛布の中に突っ込んでみると、上半身と下半身はしっかりと繋がっているようだ。
だが、僅かに残る傷跡が、私の身に起こった事が事実だと教えてくれる。
「あの姉妹はちゃんと治療をしてくれたようだな……」
誰も居ない部屋で一人深い息を吐く。
突然誘拐犯と間違われて切り倒されるとは思わなかった。
恐らく彼女達の護衛だったのだろう。
雇い主を探し回っていたら血塗れの男が目の前に居たのだ。ありえない話では無いか。
怨みは無い。
むしろ騎士としての私は彼等の必死さを好ましく感じていた。
主君を守れない騎士に何の存在意義があろうか。
「主君を守れなかった騎士……か」
自分で考えておいて空しくなる。
それは他ならぬ私自身ではないか。
国中の期待を背に戦いに向かい、
敗北し仲間を失い。
そして自分ひとりだけ幸か不幸か生き延びている。
……国の皆は無事で居るだろうか。
魔王に蹂躙されて居なければ良いのだが。
しかし、同時にこうも思う。
今私がもし帰ったとして、果たしてなんの役に立つのだろうかと。
部屋の隅に裂けた鎧と砕けた剣の破片が転がっている。
これでは最早手の施しようもあるまい。
「体は戦える状態ではない。伝説の武具は失った……そもそも実力が違いすぎる」
気概と精神論でどうにかなるレベルでは無い。
例え今すぐ傷が全快し直ちに帰還したとしても、
無様な敗北と周囲への失望を与えるだけではないか。
そも、国民と兵の士気を高める勇者と言う存在が軽く捻り潰されては士気が持つまい。
だとすれば私はどうすればいいのか……。
「ここで引き篭もっているか?ははは、それこそ無様な!」
「ぶーざまぶざまぶーざまー♪」
「!?」
「やっほい、目は覚めたお?」
「良かった。一時はどうしようかと思いましたよ」
随分悩んでいたからだろうか。
先日の姉妹が見舞いに来てくれていたようだが全く気付けなかった。
これはいかんな。襟を正さねば。
「これはご婦人方。いえ、みっともない所を見せてしまいました」
「あ、いえ。こちらこそいきなり呼びつけた上あんな高い所から……申し訳ありません」
「でも助かったお!お陰で歯型があんまり付かないで済んだお!」
ふむ。なるほど。
顔や腕を中心に全身に野犬の歯型が付いている。
姉の方は全身を覆う衣装のお陰でよく判らないが恐らく無傷だと思われた。
そう考えると私の膝までしかないその小さな体で良く持ちこたえたと幼子に賞賛を送りたくなる。
うん。私の無様な墜落もそう考えると意味のあることだったのだな。
良かったと思う。本当に。
「そうか。一人でお姉さんを守っていたのか。偉いな、君は」
「えっへんだお!」
「もう。あんな目にあったのは元々アルカナのせいでしょうに」
「それでも死を賭して貴方を守ろうとしたのは事実だろう。そこは認めても宜しいのでは?」
「ふふ、そうですね。そうかも知れません」
「おお!判ってくれる人が現れたお!嬉しいお!」
妹は姉の為に体を張り、姉は妹が褒められた事を自らの事のように喜ぶ、か。
良い姉妹だ。本当にそう思う。
だが、その微笑ましい光景を眺めてただ座している訳にも行かない。
私には、成さねばならぬ事があるのだから。
「自己紹介が遅れましたね。私はアラヘン王国の騎士にして勇者が一人。シーザーと申します」
「アラヘンという国の名。聞き覚えがありませんね……アルカナ、聞いた事ある?」
「無いかな!」
……はて、彼女達の言いたい事が判らない。
世界に国家と呼べるものはアラヘンのみ。
かつて世界中に国家が乱立し群雄割拠を呈していたのは最早100年以上も昔の話のはず。
それを知らぬとなると、ここは人里離れた隠れ里なのだろうか?
「もしかして……あの、カルーマ商会の名前、聞いた事あります?」
「え?いえ……そんな名前の商会なんてあったかな……私は存じませんが」
「モグリだお!天然記念物だお!」
「こら。そう言う事言わないの。……そうですか。カルーマの名を知らない、と」
そう言うと少女は暫し黙り込んだ。
妹さんの方はその周りをぐるぐると走り回っている。
その間、私はこの周囲と彼女達の観察を始めた。
何か、先程の問答の中に余りに不可解な感じを受けたのだ。
「退屈だお!」
「待って。ちょっと考えを纏めたいの……もしかしたら、この人は……」
姉の服装……確かクレアさんと言ったか。
身に纏っている物だが上半身は水兵の服装に似ている気がする。
下半身は幅広で膝ほどまでの半ズボンか。
比較的動きやすさを重視しているようだ。
だが、まるで顔を隠すかのように分厚いフード付きマントを羽織っている。
これでは動きやすさも台無しでは無いか?
口元も布で覆って表情を判り辛いようにしているような感じを受けた。
だが、それでも隠された中から覗く目元だけでも相当の美少女である事は疑う余地は無い。
そして、特筆すべきはその身に纏う衣装の材質である。
特別飾り立てている訳ではないのに一目で高級品である事がわかる。
光沢が違う。布も糸も最高級品では無いだろうか。
明らかに隠れ里の住民のものではない。例え里の長の子だとしても不相応だ。
……間違いなく王侯貴族、さもなくばかなり裕福な商家のお嬢様か。
まあ、先程の会話から察するにきっと大店の跡取り娘なのだろうが。
「おねーやんが無視するお!シーザー!遊んで欲しいお!」
「私が?まあ構わないが……」
妹さんの方は随分活発だ。確か名前はアルカナと言ったか。
こちらのベッドに飛び乗ってコロコロ転がっている。
頭髪を顔の左右に一房づつ垂らしている。確かツーテールとか言う髪形だ。
まだ幼子の域を出ていない。姉とは10年ほど歳が離れていると思われた。
ただ、だとしても余り顔立ちが似ていない気がするのが気にかかるが。
話し方は舌足らず。だが、声の質自体はよく通り美しいものだと思う。
歌が好きなようだがそれも納得である。
……服は暗色系統、だが決して暗くは見えない。
そして恐ろしく頑丈な材質で出来ているようだ。
そう言えば落ちてきた私に下敷きにされても全く傷が付いていなかったような……。
それでいて触れてみても全く硬そうに感じない。
一体何で出来ているというのか?どちらにせよ値の張る一品であろう事は疑う余地も無い。
第一この部屋の清潔さは何だ?
王都だとしても魔王の襲撃に怯える我が国にこんな清潔で静かな部屋などない。
あったとしても、たとえ勇者でも一人で使わせてもらえる訳が無い。
第一王都の医師の下には毎日何百人と言う怪我人が担ぎこまれ、
どのベッドにも洗っても落ちきれない血液がこびり付いていた筈だが……。
では、だとすると……。
ここは、何処だと言うのだ!?
この平和な場所は、一体何処だと言うのだ!?
「……もしかしてと思いますが……貴方は」
「まさか、私は……」
その答えを聞くのが恐ろしかった。
私は勇者の称号を得たものだと言うのに。
それを認めるのが恐ろしかった。
……帰れないかも、等と思いたくも無かったのだ。
そしてその時、去り際の魔王の言葉を思い出した。
"この世界を制したらお前を追う"と言うその言葉を。
「あの……魔王……その名をご存知か?」
「ハインフォーティンだお!常識問題だお!でも、何でだお?」
「では、ラスボスと言う名の魔王に心当たりは?」
「ああ、やっぱり……」
そう言ってクレアさんはキッ、と私の目を見つめてこう言った。
始めに、信じられないかもしれませんが、と前置きをしてから。
「ここは商都トレイディアの南部森林地帯でカルーマ商会の拠点。アクセリオン館です」
「聞いた事も無い……」
「トレイディアはリンカーネイト大陸の由緒正しき商業都市です。落ち着いた街並みの街ですよ」
「何処だ!?そんな街、そして大陸の事なんか、聞いた事が、無い!」
「めっちゃ有名だお。もしかしてシーザー……知らない世界から来たお?」
……目の前が、真っ暗になった。
世界は、どうなってしまうのか。
私は、何も出来ないのか。
その無力さと、余りの無慈悲な展開に。
私は今一度、気を失ったのである……。
「かわいそうに。アリシア姉さん……今日はどうして助けてくれなかったの?」
「そうだお!シーザー、何か可哀想だお。助けが来てたら呼ぶことも無かったお」
「ひつようだったから。です」
「ま、精々苦労してもらうでありますよ」
「……それ分の見返りはあるからねー。色々と」
これが、この私のはじまり。
世界を見失った勇者。国を失った騎士。
そんな私がこのおかしな世界に迷い込んだ。
その……始まりの日の話である。
続く