2
ミューティ・ルナ・サイレスはセイレーン種である。
その容姿は20代前半のヒト種女性に似る。
違いを挙げると、肌の色が陽に焼けたようにうす紅色で、膝から下や肘から手首のあたりまで、そして頭髪のあるべきところも鮮やかな色彩の羽毛で覆われている事などだろうか。あとは、肢体は細め。胸の曲線も形はよいが、それほどではない。
爪先には鷹のような鋭い爪を有している。
精霊魔法をよく使う種族としては有名なのはエルフだが、彼女達もまた精霊魔法を得意とし
ている。
美しい歌声で船乗り達を惑わし、船を難破させるといった伝説すらある。それは彼女達が海辺や島嶼などをその居住地として、外界からの侵入者は徹底的に拒み、近づく者の船を魔法をもって沈めたり、船乗り達を惑わして追い払うという閉鎖的な性格から発生した伝承であろう。
その意味ではミューティは変わり者と言える。同族達の住む島を出て、雑多な種族が住む大陸なんぞで傭兵などを職業にしているのだから。もちろん、そこに行き着くまでにはそれなりの紆余曲折というものがあったわけなのだが、それを詳しく語る必要はない。「男が関わっている。それもロクでもない類の……」、これで説明修了。「あとはご想像の通り」と言ったところだ。
ここで重要なことは、ミューティという若いセイレーンが本来の性格には向かないはずの傭兵を職業としていたことである。ヒト種の男と一緒に。そして彼女達の雇い主のとある小国が、コドゥ・リノ・グワバン……すなわち連合諸王国軍に兵を出し、アルヌスの攻略戦に参加した。
連合諸王国軍は自衛隊の火力の前にいとも簡単に敗亡した。殲滅された。徹底的に叩きのめされた。だがミューティと男は、生き残っていた。
生き残った者にとっては、敗北は終わりを意味しない。逆に始まりを意味するかも知れない。満足な水も食糧もないままに、荒野を彷徨するという逃避行の。
泥にまみれて地を這うようにして歩き、空腹に耐えかねて民家の戸を叩き食糧を分けて貰えないかと頼み込んでみたものの、すげなく断られてしまう。すると、腹を立てた男が剣を抜いて押し入り強盗へと早変わりしてしまった。
ミューティには止める間もなかった。また、それ以外に空腹を満たす方法もなかった。
こうして見事なまでに、男と女は野盗へと身を堕とすこととなった。
ほんのわずかに残っていた良心も、瞬く間に磨り減っていった。
生きるために仕方ない。そんな言い訳を呟いていたのも最初の数回までで、しばらくすると言い訳を考えることすらしなくなっていた。まるで、熱病にでも冒されているかのように、非現実的な興奮の中で、民家や、集落や、隊商を襲い続けたのである。
一種の病気だったのかも知れない。それも相当に質の悪い種類のだ。
まるで実感が湧かなかった。
男と共に人を殺して、酒を飲んで、腹を満たす。
暗がりや、草むらに男と共にしけ込んで情欲に溺れる。
男が他の女を抱いている時は、他の男に身を委ねることすらした。
それも一人や二人ではなく、三人四人、一度に複数と……とにかく何かに夢中になることで、ぐちゃぐちゃとぼやけている頭の中を真っ白にしたかった。それが出来るなら何でもよかったのだ。
男の肩越しに星空を眺めつつ、いったい何をやっているのだろうと思うこともあった。だが、そうするのが当然であるかのように、ただ殺戮の興奮と肉欲に耽っていたのだ。
「病気だ。それも精神的な方面の病気だ。みんな頭が変になったんだ」
大空に向かって訳もなく叫き、痛みも苦しみも、何もかも味わい尽くそうとするかのように駆けめぐって無法を働いた。
そしてその病は、イタリカの街を襲うことで最高潮に達した。
同じように野盗に身を落とした連中が集まり、人数を増やし、いつの間にか街を襲うことになっていた。どこの街でも良かったのである。だから手近にある街が選ばれた。
街を攻めることに果たしてどんな意味があるのかと考えることもない。反対する者もなかった。まるで海に向けて集団自殺をはかる鼠みたいに、何かに向けて剣を抜きたくて仕方なかったのだ。それだけである。
その戦いは、彼女達がアルヌスに置き忘れてきた何かを思い出させてくれた。
剣戟の音、飛び交う矢、仲間の呻き声、そして大地にしみこむ血の香り。彼女が、いや皆がよく知る戦争がそこにあった。
「ウチ、これ知ってるよ。これって戦争って言うんだ。これが戦争なんだよ。きゃっほぅ!!」
馴染み深い戦争だった。
だからミューティは懸命に戦った。精霊魔法を駆使して、風を吹かせて味方を守った。剣を振って矢を放ち、戦いの熱狂の中に自分を投げ込んだ。
彼女の男も剣を抜いてがむしゃらに突き進んでいった。そして、その戦いで男は望みのものを得た。それは死という名の終焉である。
彼ら彼女らの前に立ち塞がったのは、エムロイの使徒、ロゥリィ。
その槍斧は祝福だった。
羨ましいことにミューティの男は亜神の自らの手で頭を二つに割られて果てて逝ったのだ。
そして、大空から降り注ぐ弾雨と辺りを満たす爆発こそが、全ての幕引きとなった。
燃え上がると炎と、炸裂と、硝煙の香りに包まれながら、ミューティは爆風を全身で受け止めようと、浴びようとして両手を拡げた。これで終われる。全てが終わる。
世界の中に自分を放り出して、全ての終わりを受け容れていた。そう。これが終わりだと信じていたのだ。
だが……
夜が明けると、「不運にも」生き残った者が集められていた。
見張りは立っていたが、あまり意味はない。
誰も彼も呆けたようにただ座り込んでおり、逃げようという意志を持つ者などどこにもいなかったからだ。
捕虜となって奴隷に売られる。それが彼ら、彼女らの運命である。
正直、どうでも良かった。彼女が愛した男も死んでしまったが、別段悲しくもないし、そもそも愛していたかどうかも今では分からなくなっていた。そんな男が居たな。出会ったな、故郷を飛び出したな。その後下らない生活をしていたな……そんな漠然とした感想が、すり切れた記憶の中で、色あせて残っているだけ。
目を開いても何も見ておらず、見ていたとしても意識しておらず、意識していても他人事のように感じている。
誰かに指図されればそのまま動いて、指図されなければそのまま動かずにじっとしていた。そんな人形のような存在となり果てていた。
そんな彼女達の前に、数人の男達が現れた。
濃い緑、若草色、茶色、そんな色の混在した斑模様の服を着た男達だった。
「そこの女と、この女と……」
「隊長、……女の子ばっかり選んでません? 良からぬこと考えてるでしょう?」
「んな訳ないだろう。あくまでも取り調べの参考人としてだなあ」
「わかってますよ。奴隷として売られるからでしょ? こっちじゃあ、どんな扱いをされるか分かりませんからね」
「なら茶化すな。でも、一人くらいは男を選ばないと不味いか……よし、そこの男にしよう。これで五人だ。お前達、こいつら連れていけ」
「へ~い」
両腕を男達にとられて、何かに載せられ運ばれる。
自分がどこへ運ばれようとしてるのか、これからどんなことになるのか。その時のミューティはどうでも良く感じられて、全く気にならなかったのである。
* *
「ミューティっ!」
枕を蹴っ飛ばすような勢いで投げかけられた声に吃驚して、思わず寝台から墜ち、床との激しい抱擁を強いられた。
顔をベチャッとぶつけた痛みで涙目になっている。
なんだか、非常に屈辱的な気分であった。
「あ痛ぁ……」
石造りの壁、格子の入った高い窓。薄暗い中にそこから朝の一時だけ光が入り込む。
まぶしさすら感じる光の加減からすると、今日はきっと晴天なのだろうが……そう言えば、もう随分と外の気色を眺めていないことに気づいた。
扉にしつらえられた覗き窓から、看守役の男女が覗き込んでいる。
「オ、オハヨウございます」
慌てて身支度を整えた。
『じゃーじ』とか呼ばれる伸縮性の生地で出来た服に、シャツという格好になった。
履き物はサンダル。ヒト種と違ってセイレーン種は足の爪が尖っているから爪先が開放されている履き物は有り難い。
「よしっと」
全ての支度を終えると、鉄の扉が開かれた。
独房に入って来るのはいつも必ず女性だ。歩く時もミューティの傍を歩くのは女で、男性は少し離れて続くという付き添い方をしている。もしかしたら気を使ってくれてるのかも知れないが、盗賊に身を落とした時に羞恥心にはじまるいろいろを棄ててしまっただけに、今更気を使われても困るというのが正直な思いである。
恥じらいの気持とかが蘇ったら、穴を掘って埋まりたくなっちゃうから。だからかえって、物みたいに、獣みたいに扱われたかった。
ミューティは、独房から廊下に出ると長い廊下の突き当たりの一室に入るように指示された。
中には、小さな机があって椅子が三つある。いつものように一番奥の椅子に座った。
ここに連れて来られて以来、毎日毎日毎日毎日、様々な男女と話をすることが彼女の日課である。
訊かれる内容は、どこから来たか? どんな所に住んでいたか? これまで何をして来たか? というミューティ個人についての詮索から、戦争に出た理由、つきあっていた男のことに至る全てだった。だから素直に話した。
「出会った男に、自分にはもっと大きな可能性があると言われて故郷を出た……」
「そんなことを言ってくれた男は初めてなので、つい惚れてしまった」
「ところが、男はヒモだった。自分ばかり働かせられた。博打で借金をつくって、それから逃れる為に男と一緒に傭兵になったりして各国を旅していた」
こんな事を話したら、呆れられてしまった。
時には、セイレーン種の女がどのように子をなして何日、何ヶ月かけて産むのかなんてことまでも訊かれたこともある。身体検査とか医学検査だとかいって、膝や肘をコツコツと叩かれたり、針を刺されて血を抜かれたこともあった。痛くて、ちょっと怖かった。
精霊魔法が使える話をしたら、いろいろと人前で試させられた。
「さつえい」をするとか言われて何かの器具の前に立ったり、身体に何か色々を取り付けて精霊魔法を試させられたこともあった。
でも、そんなことも毎日続けていればやがてネタが尽きる。
ミューティもあまり物事をよく知っている方ではなかったからなおさらで、ここ数日は雑談ばかりで一日が終わるようになっていた。
「よおっ!」
今日やって来たのは、カツモトとか言う男だった。
他に、女が通訳にやって来たこともある。でも、このカツモトという男が一番通訳に来る回数が多い。
いつもは態度の偉そうな男がカツモトに何かを言って、カツモトがミューティに解る言葉で話しかけて来る。そしてミューティの答えを、カツモトが通訳するという繰り返し。だけど今日のカツモトは珍しいことに一人だけで来て、しかも机の上に荷物をドサッと置いた。
布袋の中を見ろと言うので開いてみると、ここに来た時にミューティが身につけていた所持品が入っていた。
「ウチの荷物……もしかして、返してくれるの?」
「中身、全部入ってるか?」
誰が洗濯したのか服はとても綺麗に、しかもきちんと畳まれて初めて見る透明な包みに入れられていた。それと捕まった時に身につけていたアクセサリー類。小物とか、それと財布まで入っている。中には、こんなもの持っていたっけと思うような物まであった。
「全部あるかって……よくわかんないよ。捕まった時の自分がどうだったかなんて、よく憶えてないもん」
ここに連れてこられて時のことは、実のところあまり良く憶えていないのだ。変な夢を見ていたというのがミューティの実感である。深酒をしていて酔っ払っていた。そんな感じが近いかも知れない。
素面(しらふ)にかえった今、思い返そうとすると「マジかよ」と、本当に自分がやったのかなと思いたくなるような記憶に触れそうになる。だから今は出来るだけ考えないようにしているのだ。
「中身は間違いないな。じゃあこの受け取りにサインしろ」
なんだか沢山字の書いてある紙を出され、名前を書けと言われる。文章をカツモトが読み上げてくれたが、要するに袋に入っていたものの一覧らしかった。
ミューティは字の読み書きが出来なかったから、かわりに書き判と言うもの描くことになる。
書き判というのは字の代わりに一筆書きで記す自分の印だ。ミューティの場合は鳥に似た形を描いた。
紙を受けとったカツモトは、よしと頷くと告げた。
「さて、ミューティ。釈放だ」
「釈放ってなに?」
「要するに用が済んだから帰って良いよってこと」
「何処に?」
「実家とか……故郷にあるんだろ?」
確かに、故郷はある。けれど今更帰れるはずがない。それに遠い。凄く遠いのだ。そこまで、どうやって帰れと言うのだろう。
「ちょっと困るよ。ウチはあんたらの奴隷なんだろ? だったらそっちで身の振り方を決めておくれよお」
「奴隷なんかにしてないって。取り調べと、この世界の調査に協力をして貰っていただけだ。盗賊行為は確かに犯罪だけど、フォルマル伯爵家と協定を結んだことで、伯爵領内のことについては日本国の司法権が及ばないことが確認されたからな。この度正式に、不起訴処分の釈放ということになったわけだ」
「何それ?」
「要するに、自分の身の振り方は自分で決めろと言うこと。さ、行くぞ」
こうしてミューティは、独り放り出されることとなったのである。
もう二度と来るんじゃないぞと言う出所時お定まりのセリフと共に放り出され、これからどうしたら良いのか分からなくて、所在なげに路傍に立ちつくす。
すると突如自分の名を呼ぶ声があった。
「あなたがぁミューティ?」
「はい?」
振り返って見た瞬間、ミューティは「ああ、自分はこれから死ぬんだ」と思った。自分がしてきたことの償いを、ここですることになるんだと思った。
何故ならそこに、死神が立っていたからだ。
これが、ミューティとロゥリイとの出会いであった。
自衛隊 彼の地にて、斯く戦っちゃっています。
「商売繁盛編」 -2-
ロゥリィ・マーキュリィ。亜神、エムロイの使徒。
一般的に常識とされる知識ではそういうことになっている。だが、まじまじと向かい合うのは、当然の事ながらこれが始めてだ。話しかけられることがあるなどとは思っても見なかった。イタリカでの乱戦中に、対峙したことがあったかも知れないが、全く持って憶えていない。
見た目はヒト種で、年の頃12~13才くらいの少女。
真っ黒でフリルをちりばめたエムロイ神殿の神官服を纏っていて、手にはドでかいハルバートを持っている。そのハルバートの柄は、数匹の蛇が絡み合ったような形で棒状になっていた。
黒く染められた紗のベールの向こう側にある真っ黒な相貌は、冷たく自分を見据えている。その下に見える小ぶりな唇は、古くなった血液を思わせる黒色が塗られていた。
全身を覆う冷え冷えとした感触。
思わず身体が硬直して身じろぐことも出来なくなっていた。これが蛇に睨まれるカエルの心境という奴かも知れないとミューティは思った。
何も言えない。声すらも出ない。
何か反応を示した方がよいということは解っているのだが、果たしてどのようにするべきか。どうしたら良いのか、まったくもって思い付けなかった。
無言で立ちつくすミューティに、死神は紅い唇をひらく。
「ついてらっしゃぁい」
確かその唇……黒くなかった?
一瞬、目の錯覚かな? とミューティは瞼をしばたたかせた。だが、改めて見直してもロゥリィの唇は濡れたように紅く艶めいていた。
「何をしているのぉ?」
「あ……はい」
ミューティは、深々と息を吐いた。緊張の余りいつのまにか呼吸すら止めていたようだ。
胸を満たしていた濁気を新鮮な空気と入れ替える数瞬の遅れを取り戻すため、慌てて黒い少女の背中を追いかけた。
アルヌスの丘を麓へと下っていく。
どこへ行こうとしているのか? そう思って遠くへと視線を向けると、稜線の向こう側には目を疑いたくなるような光景が広がっていた。
「え、ここがアルヌス?」
そこは、かつては何にもない荒野と森だったはずである。
しかもそれは大昔の話ではない。ほんのちょっと前のことだ。麓から、頂上に向かって攻め上ったことがあるから間違いない。野営をして、森の泉にまで水を汲みに行ったこともあった。なのにその森の畔には、今や小さな集落が、いや、既に小さな街とも言って良い程の建物群が建設されようとしているのだ。
その建設中の街へと入っていく。
ドワーフを始めとした様々な種族の職人達が大勢集まって、一斉に釿(ちょうな)を振って大木の皮を削り落として角材に形成していく作業をしている。
槍鉋(やりがんな)を構えた職人が柱となる木材の表面を削って、向こうが透けて見えるほどの薄い削りかすを作りあげ、大地に積もったおが屑は、真新しい木材の鮮烈な香りを周囲に放っていた。
男達の野太い掛け声と共に大柱が天に向かって立てられ、梁が渡され、新しい倉庫が居住用の建物が、様々な施設がその骨格を表し始めていた。
この街を覆い尽くす陽性の喧騒と活気は、行き交う人々が「おはようっ」と、やけっぱちにも近い怒号に似た挨拶を交わしてしまうほどだ。
「野郎共っ、ぼやぼやしてんじゃねぇゾ! さっさと次の梁を渡せっ!」
絵図面を片手にしたドワーフの頭領が、喧嘩を売ってるんじゃないかと思うほどの勢いで指図と言う名の罵声を職人達に浴びせている。一斉に木槌が振るわれて轟音と共に梁が柱にはめ込まれていく。鼓膜をつんざく騒音に思わず首をひっこめたくなった。
「凄いでしょぉ?」
あまりにもポカンとした表情をしていたからだろう、ロゥリィが言葉をかけて来た。だが騒音に妨げられてよく聞き取ることができず、「いま、なんて言いました?!」と問い返してしまった。
ロィリィはミューティの耳に口を近づけて来る。
「これはねぇ。ぴぃえっくすというお店になるのよぉ」
「店?! これが店?!」
問い返したくなるのも仕方のないことである。これから梁が載せられようとしてる建物は、ミューティが見たこともないような規模だったからだ。
勿論、ミューティが知らないだけで、これを越える規模の建造物はこの世界にも存在しているだろう。だが倉庫でなく、また軍事施設でもなく、はたまた神殿の類でもなしに、小売りを目的とした商用施設でこれほどの規模を持つものは存在したことがない。その意味では『売り場面積、特地で最大』の称号が得られるような建築物なのだ。
それをわずか2~3ヶ月で棟上げまでこぎ着けるとは、大工達もはりきったものである。実に驚異的な早さであった。
「前見た時は、ここには何にもなかったのに。凄い速さですね」
頭領率いる職人集団の手際の良さや作業能力の素晴らしさが示されたと言っても良いが、彼らがここまで張り切っているには、実はそれなりの理由があるらしい。ロゥリィの説明によるとアルヌス生活者協同組合で、「着工開始から50日以内に完成したら、工賃は3倍。70日以内なら2倍(注/材料費別)。ただし手抜きをしたら以下略」という破格過ぎるほどの条件をつけたと言う。
そのお陰で、毎日、早朝からこの騒ぎである。
朝の目覚めを、脳天を連打するような槌音で迎えるレレイやテュカは「あんな条件出すんじゃなかった」と激しく後悔してボヤいているなどと言って、ロゥリィはコロコロと笑った。
工事現場を突っ切って進むと、小ぶりな長屋棟がある。
「こっちに来なさぁい」
ロゥリィに言われるままに建物の玄関をくぐる。
どうやらその建物は食堂のようであった。包丁や鍋が並んだ厨房らしき場所と、大テーブル、そしてそれを囲むように椅子が並べられているところから、そう解釈することが出来た。
ミューティはロゥリィから、椅子の一つに座れと促された。
既に昼食の仕込みが始まっているようで、厨房の奥では料理人が忙しそうに手を動かしていた。だが、入ってきたのがロゥリィだと知ると料理人が「丁度良かった」と声を掛けて来た。
「聖下。ちょっと良いですか?」
「なぁに? ガストン」
「実は、職人相手に酒を出したいんですが……」
料理人は、チラリとミューティを一瞥してから、ロゥリィに説明を始めた。
ドワーフを含めて大工職人達は大抵が大酒飲みの荒くれ男達であり、今度の仕事でも膨大な量の酒を樽で持ちこんで来ていた。だが、それもそろそろ飲みきってしまう頃だ。だから組合で酒を出せば儲かるのではないかと言う。
だが、ロゥリィはいい顔をしない。
「酔っぱらいに騒がれるのはいやぁよぉ」
「いやいや、それは逆ですって」
ガストンは自分の胸ほどの背丈しかないロゥリィに縋るように、あたふたと説明を並べた。
こんな娯楽もないところにいる彼らの楽しみは酒だけだ。もしこれを切らして欲求不満を蓄積させたら、荒くれた連中なだけにちょっとばかり不味いことになるかも知れない等々……。
少し遠いが、最寄りの街まで出かけさせるが、あるいはここで程々に飲ませるのが良いのではないか。それがガストンの言わんとしていることである。
「俺が棟梁の下で働いていた時は、食い物にしても酒を切らさないように気を使ったもんです」
ここでロゥリィは、会話に加われず居心地悪そうにしているミューティに気づいて、料理人を指さして紹介する心遣いを見せた。
「この男はガストンよ。元々は土木作業員だったの」
「へぇ。でも、土木作業員がなんだってまた料理人に?」
ミューティの問いも当然と思ったのか、ガストンは自分がここの料理人に収まった経緯の説明をはじめた。
ドワーフを中心とした亜人の大工職人達は、ヒト種の数倍『喰う』。
ヒト種だって肉体労働者は、頭脳労働者が見るとびっくりするほど多く『喰う』のだから、働きまくっている百人以上の男達がどれほどの食糧を消費するか、ちょっと考えも付かないほどになってしまう。
ところがこの難民キャンプでは、台所作業はもっぱら避難民のお年寄りとか、子供達、テュカやレレイ達が交代で行っていた。
自衛隊からは、フルタという料理の専門家が支援に来てくれていたから調理の方はなんとかなっていたが、食材の買い出しなどを含めると店舗の管理や商談、翼竜の鱗の採集等々と同時並行に進めることが出来なくなって、人手不足の状態に陥ってしまったのである。
そんな時に名乗り出たのが、この筋肉質で白髪のおっさんなのである。
「ガストン・ノル・ボァです。以前は、クレナドで料理店をひらいてました」
百人を超える職人集団は種族も出身も雑多だが、その境遇もまちまちである。
例えば棟梁所有の技術奴隷もいるし、一般の雇われ作業員達もいると言うように。ましてや今回は滅多にない大もうけのチャンスだったから、棟梁はあちこち職人を呼び寄せて大量増員を図っていた。
しかしガストンは、この職能集団の中ではヒエラルキー的には最下層に近い地位しか得られなかった。大工という職人集団の中で物を言うのは技術だからである。逆に言えば一定以上の技術を持っていれば奴隷であってもかなり厚遇されている。例えば食事、配給の酒、寝る場所、休みがあった時の娯楽、もちろん女もだ。従って、自由民であろうとも雑用や力仕事しか出来ないような者は、扱いがはなはだ悪いのである。
さらにガストンの場合は、土工作業員と言いつつも、実のところこれまで賄い食をつくる作業ばかりして来た。一般的に賄い調理という仕事は、作業員達がきつい肉体労働を厭ってサボるための口実にされていることが多い。そのせいで楽な調理仕事で時間の大半を潰し、他の作業員達と同じ給料をせしめようとしている狡い奴と思われていたのである。
もちろんガストンのしていた仕事は違う。彼は粗悪な食材と格闘して、職人達が喜ぶような食事を作っていたのだから。だが、先入観というものはなかなか払拭できない。どうしても、土木作業員達は自分の仕事が一番きつい、賄いなんて楽な仕事と考えてしまう。そして、それが日常のささいなところで嫌味や悪口となり、ささくれた心をさらに痛めつけてくれたのである。
もちろん我慢するしか手はない。ガストンは黙って耐え仕事を続ける日々を送っていた。
ところがである。このアルヌスの工事現場では賄い食をつくる必要はないと言うことになった。
作業現場が街から遠いこともあって、施主側が賄い食を用意するという契約を交わしたからだ。そのため彼は、本来の仕事である土工作業に専念できることとなったわけである。
しかし、仕事のペースはいつもより数倍上がっていて、過酷なまでにきつい。さらに、今まで楽してきたと皆から思われている分、周囲からの視線も、高額の報酬に目の色を変えている棟梁からの監視も厳しくて、寸刻も休ませてもらえない。
こうなるともう、とんこ(飯場用語である。工事現場などから逃走することを言う。一般に現場監督は、給料日が近くなって来ると作業員に非常に厳しい仕事を言いつけるようになる。作業員が給料を諦めて逃げ出すようにし向けて人件費の節約をはかるのだ)するしかない。
そして遂に、ガストンは音を上げて『とんこ』したのである。
だが、ただ逃げたのではなかった。その足で組合事務所に赴いてテュカやレレイ、ロゥリィ相手に、料理人として雇って欲しいと申し出た。
「言ってくれれば、料理ばかりじゃなくて小間使いからなんでもやりますよ。その代わり、作業員並の賃金をもらいたいんです……」
見れば女子供、怪我人老人ばかりである。自分みたいな者がいたら便利ではないですかと売り込んだ。
「料理人が、なんで土工作業員をしていたの?」
テュカの問いにガストンは恥ずかしげに答えた。
「店が潰れて女房には逃げられた上に借金が残っちまったんですよ」
それで工事現場で働きだしたということである。
「何故、作業員が嫌になった?」
レレイの問いに、元料理人の男は自分の両手を開いて見つめた。
「今はこんな立場になっちまいましたが、俺は自分の手を食い物を扱うように鍛えてきました。地面をほじくって、木を削ってたら、それがどんどんダメになっちまうように思えて来たんです。そこに来て、ここじゃものすごい美味い食い物を出してるじゃないですか? 俺、居ても立ってもいられなくなっちまって……」
こうして彼は料理人として採用され、難民キャンプの調理場で働くようになったのである。従って土木作業員達の機微には、他の誰よりも詳しいと言える。そんな彼からの提案だから一考に値する。ロゥリィは腕組みをして考え込んだ。
「お酒ねぇ……テュカ達はなんて言ってるぅ?」
「治安にかかわるので、聖下の意見を聞いてからと言うことでした」
それでロゥリィの許可を求めているということである。
「貴女はどうおもう?」
突然問われたミューティは慌てた。自分には関係のない話しと思っていたからだ。
「え、あっ、はい?」
「荒くれ者にお酒を出した方がいいかしらぁ?」
元傭兵として、そして傭兵崩れの元盗賊の経験を思い返しながら「り、量が過ぎなければ、良いかも」答えた。たいていの荒くれ者は飲酒量が過ぎると大変扱いにくくなった。
「そうなのよねぇ……問題は量なのよぉ。量を呑まさないにはどうしたらぁ……」
考え込んだロゥリィは、ポンと手を打つ。
「高いお酒のみ許可するわぁ」
エールだの濁酒(どぶろく)だの、安くて品質の悪い酒は、騒動の種になる酔っぱらいを量産するだけである。それを避けるならば量を呑みたくても呑めないくらい値の張る物を用意すればよい。普通の酒を持ってきて高い値段をつけたりすれば不満が高まるが、文句を言わせないほどに品質の良い物ならば不満も少ないだろうと言うのだ。
「ニホンに良いお酒があったからぁ、そこから仕入れましょう」
確かビールとかウィスキーとか言ったわね、と呟いている。呑んだことがあるのか、味を反芻して舌なめずりしていた。
だがガストンには、彼女とは違う思惑があったようである。
「俺としては、その、あの……」
「なぁに? 文句あるのぉ?」
鋭い、射殺すような視線を受けて、ガストンは背筋を伸ばして返事した。
「い、いいえっ、ありませんっ!」
そうは言いながらもガストンの額にぶわっと脂汗の雫が浮かべていた。ロゥリィが、お前の心底などお見通しだと言わんばかりに恐い笑みで見つめたからである。
「素直でよい子は好きよぉ」
満足そうに肯いたロゥリィは「あ、でも」と自らの頬に人差し指を充て首を傾げた。
「お酒を出すようになったらぁ人手が足りなくならなぁい? 買い出しも大変よねぇ?」
今は、食事を出すだけなので職人達は食い終わるとすぐに食堂から立ち去るが、酒を出すと居酒屋のようにいつまでも居座り続けることになる。するとこの食堂では確実に手狭になる。それに給仕が必要になるだろう。酒を出せば確実に摘みの料理が必要となるから、料理の材料を仕入れて来るのにも手を増やす必要がある。
するとガストンは緊張した面持ちで言った。
「き、給仕の件ですが……」
ガストンは最近出入りするようになった、行商人の娘を雇ってみたいと言う。
親の仕事も手伝わず暇をもてあましているので、下働きでも良いから使ってやってくれと父親から頼まれていたという説明であった。
「そんな娘でぇ大丈夫なのぉ?」
「猫の手も借りたいってことで、この際ですよ。もしよかったら、こちらのお嬢さんもどうですか?」
ガストンはそんなことを言いながら、ちらとミューティへと目を向けた。
「ダメよぉ。コレはあたしぃの方で使う予定だからぁ……」
ミューティは、自分がロゥリィの下で働くことになっていることをこの時始めて知った。
とりあえず自分が宙に浮いたような、寄る辺のない状態ではなくなったようで、これで一安心という心境になれた。とは言え、いったい何をさせられるのだろうという不安は残る。さらに、ガストンが「せ、聖下がお使いになるんですか?」と驚いてみせたことで、この不安は、沸き上がる雲のように一層大きくなった。
「何かぁ問題ぃ? それとも、ガストンが代わるぅ?」
「いえいえいえいえ……是非、遠慮しておきます。でも、大変だろうなぁ。きっと、食堂の方が楽だと思うよ」
そんな事を言いながら勧誘するガストンの視線は、あきらかに同情の色を含んでいた。
これを受けてミューティの脳裏に「給仕の方がいいのかな?」という思いが一瞬だけ浮かんだ。だが、ロゥリィに面と向かって「給仕をします」とも言えず、また自分にその手の接客業向くとも思えなかったので、諦めることにしたのである。
「問題は買い出しよね。ガストンとその娘だけじゃあ無理でしょう?」
「ええ。それでなんですが、行商人から仕入れるしかないと思いまして、その、あの……」
どうしたことか、突然ガストンの額から大量の汗が流れ出した。
ロゥリィの鋭い視線が彼の目を貫いたのだ。
「ふ~ん、そう言うことぉ。 行商人とはもう話がつけてあるのねぇ?」
「あ、いえ、そんなことは……ですが、俺が決めて良いのなら、その、あの……」
「なるほどぉ」
ロゥリィはポンと掌を拳で打った。
そしておもむろに右腕を伸ばすと自分よりも背の高い料理人の襟首をむんずと掴み、片手でひょいと引き倒せた。
逆らいがたい凄まじい腕力によって、男は立っていることが出来なかった。ロゥリィの前で膝をついて跪く姿になる。それでもロゥリィを見下ろす姿になってしまう体格差があったが、心情的にはロゥリィから見下ろされているような気分となっていた。
しかも冷酷な殺視線に晒されて生きた心地がしない。
魄のすくみ上がったガストンの身体は、瘧のように震えていた。
「あ、あの、な、何か不味かったですか?」
「良い報せがあるわぁ。今日から貴方の給料は倍になりますぅ。それに昇格よお。今後は料理長を名乗っていいわぁ」
「あ、あ、あ、有り難うございます」
「その代わりと言ったら何なんだけどぉ。何かを決めたり選んだりする時は料理人としての経験と誇りに従うことぉ。口に入る物を任せるのよぉ。その仕入れを袖の下なんかに左右させたらぁ、寸刻みにしてハーディのところに送り込んであげるぅ。いいことぉ、わかったかしらぁ?」
「あ、はっ、はいっ!」
悲鳴にも似た甲高い返事を上げるガストン。
ロゥリイは大変良くできましたと言わんばかりに満面の笑みを浮かべるとガストンを「ひょい」と立ち上がらせ、ついでに自分が握り締めて乱した襟元を丁寧に整えてやる。
「給仕は貴方が雇うのだからぁ、よく目を配りなさぁい。その娘がすることは、貴方の責任よぉ? いいわねぇ」
こ、恐わぁ。
傍らで見ていただけなのに、とばっちりをうけて肝が大いにすくみ上がるのを感じたミューティであった。
* *
こうしてミューティは、アルヌス生活者協同組合で働くこととなった。
彼女に与えられた仕事はロゥリィの手伝い……つまり、金の臭いを嗅いで集まってくる連中の警戒と退治と説明された。
ロゥリィがハルバートを振り回す横で、ミューティが投げナイフを投擲する。
荷物を抱えて逃げ出した暴力担当と思われる大男をロゥリィがいとも簡単に吹っ飛ばして、知謀担当と思われる小男はミューティが組み伏して踏んづける。
「ウチ、元盗賊ですよ。良いんですか?」
「それはカツモトから聞いてるから大丈夫よぉ。盗賊だったなら、盗賊の考えそうなことも、わかるでしょぉ? よからぬ事も、考えるまでは赦してあげるからぁ安心なさい。もちろん、実行に移したらバッサリやってあげるけどねぇ」
そうかぁ、行き場のない自分のことをロゥリィに頼んでくれたのは彼だったのか。
他人の情けが身に染みる。極寒の冷風の如き孤独感の中で差し出された手の温もりは、どれほどに感じられるか。その上ミューティは惚れっぽかった。そんなこともあって彼女はカツモトのことを好きになっていた。今度会えたら、誘ってみようかと思ったりしている。
「と言っても傭兵崩れだから、本業じゃないんですけどね」
生粋の盗賊ではないとあたかも言い訳するかのように呟きながら、よっこらせとミューティは盗賊を縛りあげたのである。
こうして捕らえた泥棒等は、警務隊へと引き渡すことになっている。
「勝手に処罰したり、闇に葬ったりしてはいけないことになっているのよぉ」と、ロゥリィは、自分達がこれからどういう運命をたどるのかを心配している泥棒達に、実に残念そうな口振りで語って聞かせた。だから大人しくするしているように、と。
「もし暴れたらぁ、手荒なことをしなければならなくなるわぁ」と警告する言葉には、どこかで暴れることを期待しているかのような響きがあった。
もちろんそんな風に言われれば誰だって抵抗に躊躇するだろう。自分達が反抗的な態度をとるのを死神とあだ名された亜神が虎視眈々と待ち構えているのだから。
その上でロィリィは、後はミューティに任せると言ってさっさと立ち去ってしまう。
残ったのミューティは独りだ。
女一人である。「うまくやればぁ、逃げ出せるかも知れないわよぉ」そんな幻声が泥棒二人の耳元で誘惑する。だがしかし、二人の男は恐怖の色彩を帯びた瞳のまま、きょろきょろと周囲を警戒するように見渡した。ロゥリィの言葉がそして態度が、強い呪縛となって彼らを縛っていたからである。
「どうしたの? もしかして逃げようとか?」
尋ねるミューティの言葉に、「めっそうもない」と泥棒二人はぶんぶんっと首を振った。そして、はやく引き渡されたいとばかりに率先して立ち上がりテキパキと連行されたのだった。
これなら楽な仕事である。ミューティは言われているほど大変ではないなと思った。
だが彼女の仕事は、警務隊に「泥棒捕まえてきました」と言って送り届けても終わりとはならない。泥棒を捕らえるに至った経緯についての詳細な供述を求められたからである。
「もしかして、このためにウチを雇ったのかな」
泥棒を捕まえた一般市民は経験したことがあるかも知れないが、日本の警察機構では犯罪者を捕らえた時、その日の朝から何をしていたかまで訊ねられる。朝何時に起きたかなんて、ひったくりを捕まえたことにはまったく関係ないというのに、そんなことまで供述調書に書き記していくのである。警務隊でもそれは同じであり、その時の状況を説明するのは大変に時間がかかる。夕方から始まった調書の作成が、夜半近くになってしまうほどだ。それを盗賊だの、ならず者だのを捕まえる都度やっていたら、たしかに面倒くさくなってしまうだろう。自分の身代わりに出来る者を雇おうと思ってもおかしくない。
なるほど、確かに大変だ。
ミューティは料理長からの視線の意味を、ここに来てようやく悟ったのだった。
さて、半月ほどの時が流れる。
3、3、3の法則がという物があって、大抵の人間は新しい職場にはいると3日、3週間、3ヶ月頃(さらに1年、3年、そして10年)の時期で、その職場を辞めたくなる。
これを乗り越えることが出来れば大抵はその仕事を続けることが出来るのだが、ミューティは最初の「3日」を乗り越えて、次の「3週間」をこれから迎えようとしていた。
慣れない仕事と人間関係、そして自分の立ち位置の確保に悪戦苦闘する時期である。
難民キャンプ内を警備して見回り、何かあればすぐさま駆けつけるという仕事もそれだけならば前からしていた傭兵の仕事に近い部分もあるので、3~4日で要領を掴むことが出来た。
だが、最大の難関は直属の上司となったロゥリィに馴れることである。
例えばロゥリィという亜神は、朝が異様に早い。まだヒトであった時……随分と昔のことらしいが彼女は神殿で生活をしていたと言う。その頃の習慣が身に付いており、日の出と共に起き出して、まず陽光に向けて跪拝するのだ。
それは深夜に捕り物があった時でも変わらない日課であった。
泥棒というのは、往々にして夜行性であるから当然のごとくミューティは寝不足となる。ロゥリィだってそうで、そんな朝は眠そうな表情をしていた。
とは言えロゥリィは亜神だ。
どれほど不健康な生活をしようとも、そのダメージが肉体に刻まれることはない。対するにミューティは生身の女だから、寝不足が蓄積すれば、その影響は確実に肌や、羽毛の色艶にダメージを与えてしまうのである。
妙齢のミューティにとってそれはかなり深刻な問題と言えた。
出来ることなら、不足した分の睡眠時間は起床時間を繰り下げることで埋め合わせたいのだが、直属の上司が早朝から仕事をしていると言うのに、自分だけ安穏と寝ているというのもなかなかに抵抗のある行為である。
出来れば、一度きちんと話してみたいところであるが、今のところ敷居が高かった。
そして今日も朝から二人してアルヌスを見回っていたのである。
「行商人の出入りを禁止したくなるわぁ」
道を進む荷馬車が数珠繋ぎになっている風景にロゥリィがボヤく。
アルヌスやってくる行商人は日を追う毎に増えており、それに伴って紛れ込んでくる盗賊とかならず者の数もますます増えていた。
盗賊は捕らえれば良い。ならず者は二度と来ないように、骨の髄まで恐怖を刻み込めば良い。だが、それよりももっと質の悪い者が商人の中にいるとロゥリイは呟く。
どうにもロゥリィの癇に障る者がいるらしい。
「そうなるとわっちらは、困ったことになってしまいんす」
突然、かけられた言葉に振り返ると、荷馬車の一台からであった。
最近取引高の増えたトラウトという行商人の細君は、このあたりではまず見かけることのない人狼種の少女であった。荷車の隣にいるトラウト氏がミューティの肢体を舐めるように見てしまい、その爪先が狼少女によってぎゅっと踏んづけられている。
その様子に、ミューティは思わず微笑んでしまった。他人のものに手を出したくなるような悪癖はミューティにはないが、この男性については、ちょっといいかなと思ったりしてしまった。やはり、惚れっぽい。
その視線に気づいたのか、狼少女の尻尾の毛が逆立った。
トラウト氏は慌てて、商人らしい笑顔をつくって初見の会釈をして来た。
勘弁してください。彼の目はそう語っている。
「ここでは、糖蜜に漬け込んだ桃を缶に詰めたものが、大変安く手に入りますからね。私の妻はあれが大層お気に入りなのですよ。もし、商人の出入りを禁止なさりたいのであれば、どこかの街にでも、この組合の商店を構えていただきませんと私が大変困ったことになります」
モモ缶のことらしい。ミューティもあれを食べた時のあまりの甘さ、美味さに舌がとろけるかと思った。
「どう困るの?」
「それは、その、いろいろと……」
紅くるなるトラウトを見て、ミューティはリア充自爆しやがれと思ったりする。
一方、隣ではロゥリィが、「余所の街に店を出すのは良いわねぇ」とトラウト氏の提案に頷いていた。街に出入りする人間を減らす良い方法のように思えたのである。
「その話、あとで聞かせてもらえるかしら?」
「え、余所に店を構える件ですか? 真剣にご検討いただけるので? 畏まりました。では後ほどお話しさせて頂きます……」
大もうけの臭いを嗅ぎつけたのか、トラウト氏ははしゃぐように瞳を輝かせた。
そして、馬に軽く鞭をくれると、荷馬車を先へと進ませて行った。
彼によって堰きとめられていた荷馬車が再び流れていく。やってくる行商人の荷車のほとんどに、野菜や小麦といった生鮮食料品が積まれていた。
「こうして見ると、食べ物を扱っている行商人が多いですね」
「そうよぉ。ガストンが酒を出し始めてから、みんな食べること食べること……自衛隊の人達も来るから、食べ物の買い付け量がとても多くなっているのぉ」
仕事をすればするほど、仕事が増えていくと嘆くように呟いてロゥリィは肩を竦めるのだった。
* *
アルヌス生活者協同組合は、主にコダ村からの避難民達の合議制で運営されているが、ミューティの見たところ実質的に仕切っているのは、ロゥリィ、テュカ、レレイの3人のようである。
もちろん、何でもかんでも3人で話し合って仕事を進めているわけではない。自然と役割分担のようなものが出来上がっていた。
例えば、組合としての商談や金勘定に類することはレレイ。
難民キャンプや森、組合の施設整備に関わることはテュカ。
ロゥリィは祭祀の他、アルヌスの治安を仕切っている。
もちろん、自分の役割以外には関心を払わないという意味ではなく、それぞれに気を配っていて日に一度は、こうしたらどうか、ああしたらどうかと話し合っている姿が見られる。
顧問格にカトーという老人がいるが、こちらは何かの研究をしたり、本を書いたり、日本や、帝国から派遣されてきた役人達に語学教育を施したりに忙しく、実務はほとんどしていない。賢者だと聞いた時は堅苦しい年寄りは苦手だと思ったが、時々スケベな発言をしては女性陣の顰蹙を買ったりしていて、ミューティにとっては親しみやすいと感じた。
子供達は多くは家事の他、翼竜の鱗を掻き集める仕事をしている。
翼竜の死骸にウジ虫やスライムをたからせて屍肉を啄ませ、骨だけになってから鱗を集めるのである。「がすますく」とかいう面帽をつけ、ごわごわした服を纏った姿で丘のあちこちを徘徊する彼らの姿は、ゴブリンのような怪異に似ていると思ってしまった。
正直、ミューティは子供は苦手である。どう接して良いかわからないからであるが、その事が子供達にも伝わるのか彼らも距離を置いて観察してくるだけで、彼女に近づこうとはしない。
残るはお年寄りや怪我人だが、こちらは店番や、小さな子供達の面倒を見ていることが多い。これがアルヌス生活者協同組合の構成員達であった。
いつものように、警務隊に盗賊犯をつきだして、独り調書作成につきあわされていたミューティは、担当の警務官から「難民キャンプ内に、警務隊を常駐拠点を建設することになったよ」と報されて、これで仕事も楽になるかもと喜び勇んだ。ロゥリィが、すなわち自分が泥棒を捕まえるために、走ることも少なくなるはずだからである。
そして急いでその事を知らせようと組合事務所へと戻ったところで、3人娘が顔をつきあわせて考え込んでいるところに出くわしてしまった。
そこには、柳田二等陸尉の姿もあった。
この男に、ミューティはあまり良い印象を抱いていない。日頃から態度が横柄で、留置施設にいた時にも何度か尋問というか、根ほり葉ほり尋ねられたことがあり、他にも人が大勢居るところにつれていかれ、精霊魔法を使って見せろとか、さらし者にされたからである。
今回は何事かと思ったら、どうやら商談のようであった。
「そういうことで、自衛隊の糧食斑で使う食材の一部を、現地購入つまり、この特地で購入することになったわけだが、納入業者をやってもらいたいんだ……」
要するにアルヌスに駐屯する自衛官達の食べる、食事の材料をアルヌス生活者協同組合に納入して貰いたいということであった。
「いったいどれほどの量になると思ってるのぉ?」
ロゥリィは地響きが聞こえそうな重々しい声で、柳田に迫った。
レレイもテュカも天井を仰いでいる。
「別に、食材の全部をここから買うって言っているわけではないさ。肉や野菜と言った一部をだよ。大変なら人を雇えばいいと思うぞ」
柳田はそう言いながら、組合に雇われているミューティを見た。
食堂部門では料理長のガストンと、ニキータ。ニキータとか言う娘は、いささがドジだが言われるままにくるくるとよく働くという評判である。
その調子で人を増やせば良いと柳田は言う。
「出入りの行商人を何人か、直に雇ったらどうだ?」
「でも、日本から運んでくればいいものを、どうしてここから買うの?」
テュカやロゥリィには日本の品物の方が品質がよいという先入観がある。わざわざ特地の品物を買いたいと言う理由がわからなかった。
「実のところ自衛隊も財政的に厳しい。そこで経費を極力引き下げたいんだ。その為には、隊員達に喰わせる飯の経費を切りつめるのが一番ってことなんだ。じゃぁ、質を落とすか。それは出来ない。良い品物を、安く手に入れる必要がある。そう思ってみれば、この特地は農薬も使わない良質な食品の宝庫だろう」
寄生虫とかが怖いが、生で食べさえしなければ良いのである。そう思えば、特地の物価の安さは金勘定をしている側からすると大いに魅力的であった。
「それと、これは為替相場の不均衡を是正するよい機会だぞ」
柳田は言った。
今までは、PXでの売上だけで日本の品物をほそぼそと買い付けていた。だが、食材を納入するようになれば、そこで得た日本円で取引を拡大することが出来る。そうすれば、日本円が有利すぎて、特地の貨幣がどんどん流出してしまうという現状も改善できるだろう、と。
「なるほど。それで最近になって、こちらの金貨だとか銀貨を、やたらと両替するようになったのね?」
テュカに問われて柳田は「あ、ばれた?」とでも言うかのように頭を掻いた。
組合にとって良い話と言われるよりも、その実、彼の私益追及が目的という方が、こんな話を持ちかけて来た理由としては理解しやすい。
「そんなことないぞ。あれはたまたまこちらの貨幣を土産としてだなあ、ただちょっと多すぎたんで、日本円に両替しなおそうとは思っているが……」
語るに落ちるとはこのことであった。
だがそのことを差し引いても、柳田がこの話を組合に持ちこんでくれたことは有り難かった。彼としては、適当にそこらの行商人にこの取引を持ちかけてもよかったのだから。だがそうなればいかに免税特権を有しているとは言え、本物の商人に勝てるはずがない。こんなチンケな組合、商売の流れからあっという間にはじき出されてしまうに違いないのだ。
「じゃ、そう言うことで……」
そう言い残して、柳田は立ち去っていく。
ロゥリィ、レレイ、テュカ……アルヌスの間で生活する彼女達には、この話を断るという選択肢は最初からなかったのである。