十
彼女は、世界を留めることに幸福を感じるもの。
彼女の見据えるその幸福は、なんとなく分かる。
いつまでも夕焼けなんてこないで、夜にもならず、永遠に遊び続けていたかった時期もあった。
最も、そんな時間も当の昔に失われてしまったのだけれども。
サウゼラよりも数十年数百年、数千年長く生きているというのに、彼女が恐れているものは、きっとそんなことなのだろう。
幼稚な、本当に子供のような夢。
そしてそんなものに彼女は囚われている。
いつまでも変わらぬ日常を。
同じように起きて同じように喰らい同じように遊び同じように寝る。
それをいつまでも、ただ繰り返す。
そしてそれを成就せんがために、世界中全てを掻き乱すのだ。
人より長いとはいえ定命のサウゼラには、彼女の幸福は理解できても、動機までは知りえない。
どのような経緯でその幸福に至り、信仰したのか。
知りたいとも特に思わなかった。
彼女の心情を察しようが察しまいが、結果的に何も変わらない。
善悪もそう。
彼女を悪と断じるか否かなど、愚かな些事に過ぎない。
戦は勝者が善悪を定める。
ならば、圧倒的勝者である彼女に対して、サウゼラが善悪を問うたところで、何一つ意味は無い。
彼我の差は少なくとも今現在、絶対なのだ。
ならば、今考えることは、彼女のことではなく、自分のことだけ。
ああまた逃避してしまったと、嘆息を吐く。
己がどうするか、それを決めるはずだったのに、また思考は別に行く。
悪い癖だと分かっていても、治せもしない。
元来優柔不断、目標に向かうのには誰より優れていても、その目標を定めるには、誰よりも不向きだ。
選択は、後にしか悔やめない。
どうにもならないのが、ただ嫌なのだ。
いずれにしても、決めなければならないこと。
まだどうなるのかも分からない。
ならば、今悩むだけ無駄だろう。
取り越し苦労ということもある。
パチパチと弾ける小枝を見ながらサウゼラはぼんやりと考え込む。
ミラナで話を聞いた。
戦争になれば、まず間違いなく、亜人の楽園は落ちるだろう。
なにせ、ミラナはフェリアラが属国。
負ける要素が見当たらないといっていい。
いま東部にフェリアラに勝てる国など何処にも無い。
守り抜けるのも精々が極東の離れにある倭国くらいなものだろう。
それも、立地に恵まれている、という程度の差でしかないが。
それを守りきる?
一度や二度ではなく、己が命が果てるまで。
出来ない、ことは無いか。
戦略的価値のある土地では無いように思う。
悪感情から来る侵攻であれば、フェリアラが手を貸すとも思えない。あちらはあちらで小国に手こずっている。
まさかミラナも、そんな理由で援軍を頼むことも出来ないだろう。
落とすのは難しい、そう思わせることさえ出来れば、上手くいくかもしれない。
ミラナはあの程度の国ならば確実に落とせると踏んでいるからこそ、これだけ強気に出れるのだ。
サウゼラがそこに介入することさえ出来れば、そのバランスは崩れる。
そうすれば、なんとかはなるか。
ある種の賭けにはなるが、多少のリスクは仕方が無い。
それだけのことをしようとしているのだ。
月は輝き、道を照らす。
「……私は、ただ見据えて進むだけ、か」
そう呟く。
それが不器用な己にできる、最善で、最良の選択。
そう思えば、怖いとも思わない。
「……まだ起きてるの?」
「ああ、お前のようなお子様ならともかく、私のような立派な大人は睡眠時間が短くなるものなのだ」
「…………単に寝つきが悪いっていうだけなんじゃない? 不健康なだけだよきっと」
寝ぼけ眼を擦りながら身を起こす。
風呂を毎夜作っているが故か、以前より身奇麗になったような気はする。
「ガキは寝ておけ。馬から落ちても助けてやらんぞ」
「落とさせたら、怒るよ。後ろに乗ってるんだから支えてやる、くらいのこといっても罰は当たらないと思うんだけど」
「面倒だ」
「………………」
こちらを流し目で睨みつけると頬を膨らませる。
随分と多彩な表情を見せるようになったと、少し笑う。
それを見た彼女がより険を帯びた目つきで睨んできたので、さらに笑う。
そして、なんとなく問いかける。
「……お前は今、幸せか?」
「ええとっても! こんな風にあなたにからかわれてるのが嬉しくて嬉しくて仕方ありません!」
「はは、そうか…………それでいい」
嫌味ったらしくそう告げた彼女は寝る旨を怒声で告げると、毛布に包まる。
その様子を見てさらに笑う。
こんな日々がずっと続けば、ああ、それは確かに朝の寝床のように離れがたい夢想だと、なんとなく彼女が理解できた気がした。
結果として、それも幸せの一つとなるだろう。
選択の一つとしては、悪くない。
「知る知らぬで変わらぬということも無し、か」
そう思ってまた少し、笑った。
カードは全て配り終えて、あとはそれを捲るだけ。
イカサマ以外で、カードの図柄は動かない。
配り手にその気がなければ、要するにこれで結果は既に決まっているということ。
紅茶を傾けて庭を見る。
赤い椿が、鮮やかに眼に映る。
自画自賛ともいえるかもしれないが、この花の散り方は酷く好きだった。
元は朱音も一介の精霊として椿の木から生まれ、いつの間にか自我を持ち魔を帯びた。
その村では毎年終わりになると、村の中から一人、椿の木下で斬首する。
罪人の場合が多かったが、稀に無実のものもいた。
ただ、誰の首が落ちても、死体を埋めると、次の年には鮮やかな花を椿は毎年咲かせた。
土が肥えたことによる自然の現象も、あの頃の世界にとっては幻想で、ゆえに自分のようなものが生まれ出でる余裕があったのだ。
それは酷く、素晴らしいことで、懐かしいことのように思えた。
「……鞘からしゃらんと白銀を出して、朱の舞い散るその音を、あなたの耳に届けましょう。さすればきっとより濃き花を、あなたはここに咲かせます故」
まるで愛を囁くように行われた血の神楽。
その営みがおぞましいものとも思わない。
彼らは椿に幸福を願い、椿もまた出来うる限りの幸福を、彼らに与えようと努力した。
わたし達は皆、幸福を求めていただけなのだ、とそう思った。
過ぎたことだ、村を守るには力もなく、平穏を維持するには犠牲が大きすぎた。
結束は崩れ、そして村は焼かれた。
同じ失敗は繰り返したくない、そう思う。
誰からも、奪わせない。
奪わせないためには力が必要だ。
誰にも、平穏を崩させない。
崩させないためには、知恵が必要だ。
そうして一体何年だろう。
もはや、忘れた。
ただただ、いつまでも平穏が維持される。
それは酷く幸福で、少し退屈なもの。
失ってしまえば取り返しが付かなくなるもの。
いつもきっと後になって気付く。
だから、自分は同じことを繰り返さないために、ここでこうして過ごしている。
反する道理は切り捨てればいい。
外れた願いは消してしまえばいい。
そしてそのためにはどうしても魔王という札が必要で、そしてあの男がそうなってくれればこの上が無いとも思う。
実力も性格、性質も全てがこのためだけに生まれてきたかのような男だ。
人にありながら、亜人を想う。
そこにいつかの己と似たものを感じたのもあるだろう。
花が花のまま、咲き誇る。
落ちて散る際も確かに美しい。
しかし落ちもせず、枯れもしなければ、それは一体どれだけ素晴らしいことだろうか。
桜の精ならば、また違った思いを抱いただろう。
散る際こそが美しい、と。
だが、己は椿の精。
美しいままを善しとする、誇り高き花の化身だ。
そしてそうあるだけの力を得て、行えるだけの知恵も手に入れた。
これは我侭で、しかしだからきっと自分の力で守らねばならぬ幸福だ。
すでに極まりきったこの身はもはや不死に近い。
だから、全てのものにも付き合ってもらう。
―――わたしの首が落ちるまで。
「……本当、童のような勝手な夢ですよね」
椿の精はそう思って、童女のように微笑んだ。
答えるように花が揺れ、落ちることなく佇む。
永遠に、ただ、永遠に。