―――**―――
ごちゃごちゃとした色が、自分の小さな世界を支配する。
黒とも茶ともつかない、混沌。
白とも銀ともつかない、混沌。
分からない。
だが、ただ一つ。
それが光を放っていないことだけは分かった。
視野を広げようともがいても、自分は動けない。
ただ色が、不気味に混ざり合っていくのを見届けるだけ。
おかしい。
そう、首をかしげながら思った。
見ていた範囲では、それは輝いていたはずだ。
様々な色が秩序を守って並び、そして確かに輝いていた。
だが、今は。
おかしい。
心に生まれた疑問は、いつまでも首をかしげさせる。
自分の、小さな世界。
だが、それよりもっと小さい、自分。
視野の狭さには気づけない。
だから、自分が見ているものが、“理解不能”という結論だけを告げてくる。
そして。
だから、自分の脳裏に刻まれたのは、その混沌が生まれたきっかけだけ。
深追いしたからだ。
あの人が。
それだけを、胸に刻んだ。
分からなかったから。
だけど。
それでいいのだと、アキラは思う―――
「…………、」
呆然と正面の窓を眺めること数秒、アキラはようやく、自分が寝入っていたことに気づいた。
ひじ掛けのある一人用の木椅子に深々と座り込み、背中は堅い背もたれのせいで僅かに痛む。
首のこりをほぐそうと回して見れば、パキパキと音が鳴り、その分僅かな爽快感が浮かんできた。
木の縁の中から差し込む日からして、朝から昼に変わる頃だろうか。
睡眠時特有の身体冷えはあるが、十分に暖かい。
眠気が襲ってきたのは、この気候のせいなのだろう。
「……?」
頭が事態に追いつかない。
自分が今いるのは、とある町の宿舎の中。
そしてここは、自分の部屋だ。
僅かに大きい一人部屋。
視線を落とせば、先ほどまで皆で囲っていた小さなテーブル。
そういえば、朝のミーティングは終わって、
「……、ふ、」
「……!」
不意に隣から聞こえた声に、アキラはびくりとしながら視線を向けた。
右にあるのは、自分の寝床。
先ほどまで二人用の椅子として活躍していたそのベッドには、今、一人の少女が座り込んでいた。
「寝心地悪くなかった……? その椅子」
「っ、お、お前、」
妙に静かな声に、アキラは呂律の回らない声で返した。
ベッドの上で足を投げ出しているのは、エリー。
エリーは普段後頭部で束ねている長髪をそのまま背に垂らし、やはり静かな表情をアキラに向けてきていた。
未だぼうっとする頭で、アキラが室内を見渡しても、自分とエリー以外いなかった。
「……、あんたの無表情ほど、不気味なものはないわね……」
「……いや、マジで軽く記憶障害になってるんだが……、」
「そんなとこで寝るからよ。ま……、最近の早起きのしわ寄せってとこね」
言葉とは裏腹に、咎めるわけでもなくエリーは言葉を吐き出していた。
今のアキラの混乱は、もしかしたら寝起きだからではなく、彼女のこの声色のせいかもしれない。
アキラの経験では、彼女は怒鳴るのだ。壮絶に。
もしくは、彼女は極端に静かになる。
怒っているときと、そうではないとき。
その両者を経験済みだが、後者は数えるほどしか見ていない。
「最近……、随分起きるの早いわね……」
「……罰ゲームはいやだからな」
だが、多分。
今は後者だ。
アキラは淡白に返しながら、エリーにまっすぐ視線を向けた。
怒鳴るでもない。
怒って静かになるでもない。
エリーは、こんなとき、どんな少女だったろう。
「嘘」
「……?」
エリーは僅かに目を細め、小さく呟いた。
「あんたが無理しだしたの、あの“勇者様”たちに逢ってからでしょ?」
あれから、十日ほど、だろうか。
エリーの言う“勇者様”たちに逢ったのは。
一人は、白髪の男、スライク=キース=ガイロード。
一人は、銀髪の女、リリル=サース=ロングトン。
唐突に出逢った、自分以外の“勇者様”。
結局、去り際は大した会話もなく別れたのだが、その出逢いは、アキラの中で、確かな意味を持った。
すなわち、自分はどうあるべきか。
自分はあのとき、自称や外観も関係なく、勇者であろうと思ったのだ。
確かにエリーの言葉通り、アキラの行動は、それを意識してのものだった。
感動的な言葉もなにも吐き出せない自分は、行動で、そうあろう、と。
「……なんだよ? だったら起きてろ、って言いたいのかよ?」
「自由時間のうたた寝くらいでとやかく言わないわよ……。ま、もうすぐ依頼が始まるだろうけど」
「……、ああ、」
そうだ、思い出した。
今後の動向を話し終えたあと、他の仲間が依頼を受けに行ったのだ。
それを待っている中、いつしか自分は寝入っていたらしい。
ようやく脳が回転し出したアキラは、背もたれから身体を起こしうなだれる。
横着して座ったまま眠るものではない。
嫌な夢も見る羽目になった。
「……あんたさ、」
「……ん?」
エリーは静かに、視線を窓に移した。
アキラも倣ってそこを見る。
だが、相変わらず、窓の向こうには日の光が当たった木造の建物しか見えない。
「無茶、しないでよね……。何かあると必死になって……、無理が来ると元に戻る。いつものパターンじゃない」
「てめぇ……、」
だが、反論できない。
確かにアキラは、そうやってここまで来たのだ。
何かが起こるとやる気を出し、いつしかそれが霞む。
そしてまた何かに触発され、それを繰り返す。
波があるのだ。
アキラのモチベーションは。
ただその度、やる気を出している期間が延びる。
それはきっと、成長なのだと信じたい。
「そだ、あんたさ、」
「?」
「あたしとの婚約、覚えてるわよね?」
「っ、忘れるわけないだろ、それは」
アキラは頭をかきながら強く返した。
不慮の事故でアキラとエリーは婚約中。
その婚約を唯一解除できる神族に願いを叶えてもらうため、打倒魔王を誓ってここまで来たのだ。
忘れるわけがない。
それを同じく当事者のエリーから聞かれ、アキラは僅かに眉を寄せる。
自分たちの最大の問題とも言うべきそれを、エリーはあくまで静かに語った。
こんなことは、初めてだ。
「……、もし、よ」
「……なんだよ?」
自分が動揺しているのに、エリーの口調は変わらない。
アキラはどこか面白くないものを感じ、口を尖らせた。
「もし……、“それが無くなったとしたら”……、あんたは魔王を倒そうと思う……?」
「……、え、」
大前提を覆すようなことを、エリーは聞いてきた。
アキラは頭が追いつかず、ただ口を開けただけ。
「どうなの? “勇者様”」
卑怯だ。
エリーは、“聞いているのに、聞いていない”。
十日ほど前、アキラは、エリーの前で宣言したのだ。
期待をかけられるのが、どこか苦痛になりそうで、煮え切らなかったアキラ。
そのアキラは、確かに宣言した。
自分は、勇者だ、と。
だから、そんな聞き方をされれば、こう答えるしかない。
「ああ」
「……、そう、」
エリーはそれを聞くと、小さく笑って立ち上がった。
「あたしも準備あるし……、もう行くわ。あんたも準備、あるでしょ?」
「え、そりゃあ、」
「じゃ、」
最後に短く別れを告げ、エリーは部屋を出ていった。
一体、なんだったのだろう。
エリーはずっと、自分が寝ている間ここにいたのだろうか。
そして、今の話をするためだけに、自分が起きるのを待っていたのだろうか。
アキラは椅子から立ち上がり、何となく閉まったドアを眺めた。
あのドアから出ていったエリーは、最後まで、静かなまま。
「……、なんだってんだよ、あいつは」
呟いても、当然その声はエリーに届かなかった。
――――――
おんりーらぶ!?
――――――
カーバックル。
ヨーテンガース大陸の南西に位置するこの町は、北にはタイローン大樹海、西にはベックベルン山脈と、いずれもほとんど不可侵の領域に阻まれ、交流という観点ではいささか冷遇された地にある。
しかし、町民にとって幸か不幸か、この町の南部には魔王の牙城があるという山岳地があるゆえに、軍事的な重要起点として強固な守りと共に栄えていた。
魔王の牙城があるという、その山岳地。
それは、ヨーテンガース大陸の南部、四分の一ほどを完全に埋め尽くすほど広大で、危険な魔物は元より人の足でも進行は難を極める。
そしてその山岳地を北から囲い、抑え込むように、四つほどカーバックルのような町が点在しているらしい。
その最西端のカーバックルは、言わば、魔王を閉じ込める牢の一本というところだろう。
ヨーテンガース大陸の北に位置する入り口の港町、クラストラスを出て、西から回り込むようにタイローン大樹海を突破するとこのカーバックルにようやく到着できるという遠隔地。
だが、不可侵領域のタイローン大樹海に安全に通行できるだけのパイプラインが確保されていることが、ここの重要性を物語っていた。
「……、」
目前、なんだな。
そんなことを、店の並ぶ繁華街の中、アキラはぼうっと町の中心にある建造物を眺めながら呟いた。
いずれも石や鉄のような強固なもので形作られた町並み。
外に出るにも町を囲う城壁のような守りの正規の出口を通らなければならない。
東西南北と、僅か四つの門。
それらから垂直に線を引き、ぶつかるのは町の中心の、今アキラが見上げている天を突くような高い塔だった。
アキラが初めてこの世界を訪れたとき、落とされたのも、あんな塔だった。
もっともあの村の塔は、あれほど強固に、そして、殺伐とは造られていなかったのだけれど。
東のアイルーク大陸にある小さな村、初代勇者もそこから現れたと言われる、リビリスアーク。
リビリスアーク“ス”、と、村の名前を誤認していたのも、未だ記憶に新しい。
ようやく昨夜、この町に到着した夜、勇者の歴史でも調べてみるかと町の資料館で読み漁って見つけた事実に、アキラは頭を抱えた。
だが、今からでも十分に訂正が利く。
そんな僅かな旅路。
だけど自分は、もう、いるのだ。
魔王の牙城の、目前に。
「……にーさん、思い出してるんすか?」
「……、ああ」
何となくセンチな気分になっていたアキラに、その誤認を与えた少女が呼び掛けた。
たぼたぼのマントに、半開きの眼。
色彩の薄いその瞳と同色の銀の長い髪は背中でマントにそのまま仕舞われていた。
色が違うだけで、エリーと同じ容姿。
彼女の双子の妹。
「“マリー”、だ……!」
「…………、にーさん、もしかして、今さら言ってるんすか……?」
「いや、昨日気づいた事実に、俺は……、」
まさか今更気づいたとは、といった表情で、マリスは呆れたようにため息を吐いていた。
無表情ながらも意思が伝わってくるのは、共に旅をしていた成果か。
アキラは僅かな感動を覚えるも、彼女の戦力の方は未だ底が見えない。
この、数千年に一人の天才とさえ言われるマリスが、今回の依頼のパートナーの一人だ。
「おかしいとは思ってたさ……、みんなはそう呼んでたし……。でもさ、そう名乗られたから……、」
「……マリスでいいっすよ」
マリスは一言そう言って、半分の眼を塔に向けた。
彼女の説明によると、あれは監視塔というだけではないらしい。
顔を真上に向けてようや頂点が見えるその塔は、他の町から見える存在。
すなわち、緊急時に危険信号を出すものらしい。
他の三つの最終ラインを務める町にも、同じ建造物があるらしく、初代勇者の出身地にあやかって造られたというそれらは、実用性にも役しているとのことだ。
「でも……、早かったっすね、ここまで」
「……ああ」
アキラもマリスと同じく、再び塔を見上げた。
この世界に来て、すなわちあの塔から落とされて、二か月ほどだ。
ほとんど移動時間にのみ費やされたようなこの旅は、間もなく終焉を迎える。
それも、全ては自分たちの有する常識外の力によってだ。
最たるものは、アキラの持つ、魔力の具現化の、あの銃。
そして、隣のマリスも、それに匹敵する力を持っている。
あまりに順調だ。
この旅は。
だが何故か、ようやく、とも思ってしまう。
それは、自分たちが過ごした時間の密度によるものだろうか。
隣のマリスも同様なのか、不思議な表情を浮かべていた。
言葉を交わさずとも、そう思える。
それと同時に、どうしても、この旅が終わった“後”のことを想像できないのだけれど。
「……、お待たせしました」
そんな折、目先の武器屋から紅い着物を羽織った女性が現れた。
肩ほどまでの黒髪を、後頭部の位置でまとめた女性は、素早くアキラたち二人に駆け寄ってきた。
戦闘中になればきっとした凛々しい顔立ちになる、サク。
ただ、サクは今、満足そうな表情を腰から下げた長刀に向けていた。
「どうだった?」
「専門家から見ても、問題ないそうです」
アキラより僅かに低い程度の背丈だが、愛刀の状態を確認し終えて喜ぶサクは、どこか子犬のようにも見えた。
とある事件からアキラを主君と定め、従者としての立場を守るサク。
また、アキラの剣の師として戦い方を教えるほどの実力者だ。
しかし、その様子は年相応の少女のようで、むしろ安心感を覚える。
アキラと、マリスと、サク。
この三人で、今から依頼を受けに行くのだ。
「でも、いいよな……、」
「?」
間もなく、依頼の場所に向かう馬車が出るであろう。
人もまばらな昼時より僅かに早い時間、歩き出しながら、アキラは何となく、サクの愛刀を眺めた。
「いやさ、その刀。俺のなんて、市販だぜ?」
アキラが背中に担ぐのは、つい先ほど購入した片手用の剣。
サクに見立ててもらったその剣は、激戦区というだけはあって質がいい。
アイルークの町、ヘヴンズゲートから使用していた剣はついに限界に到達し、新たな武器を手に入れたのだが、やはりそれは、市販だった。
戦闘において不具合こそないのだが、やはり魔王討伐を志す“勇者様”としては、不満はある。
「“伝説の武器”とか欲しいんすか?」
「お、そうそう」
正にそれだ、とアキラはマリスの言葉に頷いた。
先日、複数の“勇者様”に出逢った以上、世界に一つしかない伝説の武器を手に入れる、という儚い望みは薄れてしまったが、それでも、行く先々で武器を買い直す、というのはどこか格好がつかない。
せめてサクのように、メンテナンスをして使い続けるような武器が欲しかったりする。
「なあ、サク。それ、特殊な武器なんだろ? 俺いろんな武器屋見たけど、そんなの見たことないぜ?」
「え、ええ、」
サクは短く肯定した。
彼女の身の丈にしては、長いその刀。
アキラがずっと、彼女の装備として視界に捉えていたものだ。
武器屋では見たことがない。
それとも、彼女の出身地、タンガタンザには上質な武器が揃っているのだろうか。
タンガタンザは、製鉄に関して世界一とアキラは聞いたことがある。
そういえば、十日前に逢った勇者、スライク=キース=ガイロードも、見たこともない大剣を腰に下げていた。
あとで聞いた話によれば、彼の出身地もタンガタンザらしい。
「名前とかついてるのか? なんか、かっこいい名前が」
ちなみに、アキラは自分が背負っている武器の名前を覚えていない。
覚えているのは、一ダースほど並んでいたこの武器の名前の最期に、“特価!!”とついていたことだけだ。
「いえ、名はありません。呼ぶ必要がありませんから。この武器は、そもそも私のためだけに生まれたものですし」
「……、ぎゃ、逆にかっこいいな……、」
「でも、その剣も上等ですよ。その値で手に入ったのが信じられないくらい」
方や、個人のためだけに造られた刀。
方や、セール品。
どう考えても、サクの言葉でアキラは喜べなかった。
「でも、にーさんはある意味武器いらないじゃないっすか。最近見てないっすけど、」
「そうですよ」
「……、」
二人が示唆しているのは、アキラのメインウェポンだ。
魔力の具現化、プロミネンスを反動さえ抑え込めばノーリスクで放つ銃。
日輪属性の強力かつ広範な魔力攻撃で、倒れなかった敵はいない。
とある意地から使用を控えてはいるが、確かに剣一つでとやかく言える立場ではなかったりする。
「マ、マリスは武器とか使わないのか……?」
あまり刺激して欲しくない分野から話題を逸らすべく、アキラはだぼだぼのマントのみを纏うマリスに視線を向けた。
「杖とかあったけど……、」
アキラの脳裏には、先ほど武器屋で見た杖。
専門用語なのか、説明書には何を書いてあるかさっぱりであったのだが、それでも戦力増強にはなるのだろう。
マリスの戦闘スタイルは、魔術師タイプだ。
魔力攻撃で、敵を討つ。
とすれば杖は、イメージ通り、魔術師タイプの者を補助するものではないのだろうか。
「少しは考えたんすけど……、ただの荷物になりそうなんすよ」
僅かに思考したのち、マリスはのほほんと答えた。
「杖って、使用者の魔力を増強して放出するタイプが多いっすから」
「え、いいじゃん」
「いや、」
マリスは適当に視線を泳がせ、通り過ぎたもう一軒の武器屋を見やった。
の先に立てかけてあるのは、セール品の杖。
だがそれを興味薄げに眺め、半開きの眼をアキラに戻した。
「自分が使うと、耐えられなくてすぐ壊れるんすよ。“普通の杖”じゃ」
どうやら“伝説の武器”が必要なのはマリスの方なのかもしれない。
アキラはそれきり沈黙し、ただただ北の門を目指した。
―――**―――
「ふっ、ふっ、ふっ、」
「……お、落ち着くんだ、」
イオリは目の前の少女に両手を突き出し、一歩後ずさった。
黒いローブをベルトできっちりと絞めた服装。
魔術を職として志す者の資格としての最終到達地点、魔道士であるイオリの正装だ。
だが、小さな飾りのついたヘアピンで止めた黒髪から覗く表情には、僅かに汗が浮かんでいた。
町行く人々や、イオリたちと同じように馬車の到着を待つ者たちからは、怪訝な表情を向けられている。
それもこれも、目の前の少女のせいだ。
「イオリン……、いいじゃないですかっ、減るもんじゃなし……、」
「いや、僕の魔力が減るんだけど、」
イオリが返答しても、目の前の少女の瞳は輝き続けた。
「いいか、アルティア、」
「あっしはアルティアではありません!! ティアにゃんです!!」
「いや、その愛称の方が本名だと言い張るのは無理があるんじゃないかな……、」
青みがかった短髪に、元気、が特徴の、目の前の少女。
ティアは、叫びながらもじりじりとイオリを建物の壁に追いやる。
どこか狂気に満ちているようなティアの瞳に、イオリは己の不運を呪った。
今回の依頼は、それぞれくじ引きでメンバーが決まり、各々当たっているのだが、
「っ、」
ついにイオリの背が建物に触れた。
ティアは目を輝かせ、さらにじりじりと接近してくる。
依頼は三つ。
一つはアキラ、マリス、サクの班。
一つはエリー、エレナの班。
そして最後の一つはここ、ティアとイオリの班だ。
「さあっ、ラッキーを……!!」
ティアが必要に迫っているのは、イオリの召喚。
召喚術士たるイオリ操る召喚獣、ラッキーの簡易召喚(小)は、その愛くるしい姿で、ティアの心を鷲掴みにしてしまったらしい。
ここ最近、ずっと召喚を迫られているのだが、何故か妙な意地のようなものができ、イオリがティアの前で召喚していなかった。
本日とうとう二人だけという組み合わせになってしまい、ティアの不満は爆発したようだ。
頭一つ分低い体格とはいえ、ティアの狂気に満ちた瞳に、ある種貞操の危機さえ感じる。
「いいか、よく聞くんだ」
イオリはティアを諭すように、落ち着き払った声を意識して出した。
「今から僕たちは、依頼に行く。いいね?」
一言一言確認を取るように、もしくは子供を騙すように、イオリはゆっくりと現状を確認させる。
「内容は、魔物の討伐だ。ほら、ここに、」
イオリはローブから、依頼書を取り出した。
そこには確かに、魔物討伐、と記されている。
「それまで魔力は温存した方がいいだろう?」
「で、でも、イオリンならっ!!」
「っ、」
ティアの食いつきに、イオリの頭痛は増した。
痛い所をついてくる。
確かに簡易召喚など、ほとんど何の労力も使わないだろう。
依頼書を見ても、この激戦区にしては内容も軽く、何の支障もない。
「……召喚っていうのは、途方もないほど魔力を使うんだよ」
「……えっ、そうなんですかっ!?」
「あ、ああ、そうなんだ」
イオリはまっすぐなティアの瞳から僅かに視線を逸らして肯定した。
「じ、尋常ではないほどに、ね。依頼に、大きな支障をきたすかもしれない」
「それだけ代償があるとは……!!」
イオリは未だ、視線をティアに合わせなかった。
「だから、万全を期すべき……。そうだろう?」
「……、わ、分かりました……。……すみません」
申し訳なさそうに頷いたティアに、ふう、とイオリは息を吐いた。
馬車の到着時間まではまだ間がある。
早期にティアをなだめられたのは幸いだ。
だが、胸の奥がきりきりと痛んだ。
狂気に満ちていた瞳を僅かに閉じ、途端意気消沈したティアは、イオリを追い込むのを止め、黙り込む。
「ま、まあ、アルティア……、その、今回は、」
「……はい」
いつもなら猛烈にその言葉に反応するティアは、沈んだまま、沈んだ声色を返してきた。
まるで、大人に約束を破られた子供のようだ。
やはり、胸が痛む。
きりきりと。
「そ、そうだ。じゃ、じゃあ、依頼が終わったあとなら、」
「―――!!」
良心の呵責に耐えられなくなり、イオリが譲歩した瞬間、ティアの表情が一変した。
途端飛び跳ねるように動いたティアは、満面の笑みをイオリに向けてくる。
「つっ、ついに……!!!」
「あ、ああ、分かった、分かったから、」
「うおおおおおーーーっ!!!!」
叫び出したティアに、周囲の目がさらに冷たくなる。
このモチベーションなら依頼はことなきことを得るだろうが、イオリはティアの肩を押さえ、黙り込ませた。
この騒音発生機と共に依頼をすることになったのも、やはり、あのくじ引きのせいだ。
邪険に扱っているわけではないが、流石に町中で叫ばれるのは勘弁して欲しい。
「そうと決まればっ、とっとと終わらせましょう!!」
「あ、ああ、そうだね、」
ティアは悦びを身体全体で現わすように回ると、びしっ、と未だ閉ざされた門を指差した。
この町、カーバックルの周囲を囲う重厚な灰色の門。
二階ほどの建造物ならすっぽり隠すほどの高い壁に囲まれたこの町の、唯一の出口だ。
もちろん、その巨大な門にも小さな勝手口が付いているのだが、魔物が大群で攻めるにはあの門を突破しなければならない。
イオリたちが眺めているのは、町の西部に位置する門だが、東西南北全て同じ造りらしい。
堅牢な、このカーバックル。
魔王の牙城にあるのなら当然の処置であり、また、馬車の待合所も町の中にある。
比較的大きい、元の世界のバスの停留所のよう。
あの門を開き、馬車を乗り入らせたところで、再び閉めるのだから相当警戒しているようだ。
イオリたちがいるのもその場所で、同じく馬車を待つ人々に白い目を向けられていた。
「イオリン……、あっし、ちょっと、ははは、」
「……、あ、ああ、まだ時間はあるしね。行っておいで」
照れたように笑うティアにイオリは手を振り、見送った。
その背中がどこか浮足立っているのは、イオリが与えた報酬のせいだろう。
一人になって、イオリはゆっくり数人ほど座っている長いベンチの端に腰かけた。
他の人々はようやく静かになったと、それぞれ会話を開始する。
激戦区にしては、随分と平和な光景だ。
温暖な気候も手伝って、眠気を誘うほど。
「……、」
イオリは何となく、座ったまま空を眺めた。
浮かんでいる形のいい雲の隣、太陽は、まだ頂上に届いていない。
馬車の時間は正午なのだから、随分と早く来てしまった。
とはいえ、装備の決まっているイオリ自身、あてもなく町を彷徨するのは性にあわない。
もっとも、ティアに迫られながら足早にこの場に到着したのが最たる理由なのだけど。
「……、」
イオリは、目を細めた。
騒がしいティアがいなくなって、今は、一人。
そんな状況では、いつも自分はこうした表情を浮かべているかもしれない。
そして思考は進むのだ。
黒い方向へ。
「……、」
二年前。
イオリは自分が“この世界”に来たときのことを思い出した。
この世界の定義するところの“異世界”。
自分は、そしてアキラは、そこの住人だった。
非現実的だが、実際にそうなり、魔法という未知の存在を見てしまえば呑み込むしかない。
昔のことを思い出すのは我ながら年より臭いとは思うが、そう思えるだけの場所にいる。
魔王の牙城は目の前だ。
そこで自分たちの旅は完結し、そして終わる。
「大丈夫だ……、」
小さな声は、町の喧騒に溶けていく。
離れた隣に座る、馬車を待つ人々も気づかない。
それをいいことに、イオリは何度も呟いた。
大丈夫だ、と。
きっと、絶対に。
自分たちは魔王を討ち、この物語は“神話”になる。
カリ。
イオリは親指の爪を噛んだ。
思考を進めるときの、彼女の癖。
「……、」
きっと、きっと、きっと。
そう何度も、心でつぶやく。
これは、祈りなのかもしれない。
魔王に挑む不安を振り切るための。
恐らく、こうして祈った人々は、多くいるだろう。
歴代を通し、数多くいる“勇者様”。
その中で、“神話”になれたのは、九十九代までの魔王を倒した、九十九組。
その百人組目。
それにきっと、自分たちは成れる。
だから、きっと。
「……、」
いつしか目を瞑っていたらしいイオリは、騒音を聞いた。
視線を向けると、巨大な門がゆっくりと開き始める。
どうやら、随分時間が経っていたらしい。
馬車の到着だ。
「……?」
イオリは立ち上がって、周囲を見渡した。
いない。
いれば即座に分かる、あの少女がいなかった。
いくらなんでも遅すぎる。
「イッ、イオリーーーンッ!!」
「……!」
途端、背後から声が聞こえた。
僅かな安堵と共に、イオリは振り返る。
開く門の正反対、青みがかった髪を振り乱し、ティアはわき目も振らず走ってきていた。
「ずいぶん遠くに、」
「そ、それ……、どころじゃ、な、い、んで、すっ!!」
ティアはイオリの眼前で止まると、弾んだ息で言葉を強引に吐き出した。
そのあまりに必死な様子に、イオリも表情を変える。
周囲の人々が、またあの子か、という表情を向ける中、イオリには彼女の危機感が伝わってきた。
ティアは、常時うるさいのだが、それでもいつも笑っている。
それだけに、彼女のこの表情は、危険信号を放つ。
「あっし、どうしたらいいのか……!!」
「落ち着いてくれ、一体何が、」
「急いで、急いでアッキーを……!!」
「落ち着くんだ、アルティア」
努めて冷静さを保ち、イオリはティアの肩に手を置く。
「それが―――」
ティアが眉を寄せ吐き出した言葉に、イオリは再び、爪を噛んだ。
―――**―――
「カピレット、ある?」
「え、ええ、」
「あるだけ全部ちょうだい。それと、コアロックも。安いのでいいから」
エレナはカウンター越しに女性の店員に告げると、そのまま振り返って背中を預けた。
ウェーブのかかった甘栗色の髪に、甘い吐息を吐き出すふっくらとした唇。
ふくよかな胸に、その見目麗しい顔立ちが合わされば、女性の理想形だろう。
だが、胸元の開いた服に羽織ったカーディガンを軽く両手で直しながら、エレナは機械的な表情を浮かべていた。
視線の先には、赤毛の少女、エリー。
宝石店の中、ショウウィンドウが狭い室内を満たし、キラキラと輝く。
が、それに囲まれた彼女は反面どこか暗い表情を浮かべていた。
馬鹿。
小さく口だけ動かし、エリーにメッセージを送る。
気づいたのかそうでないのか、エリーは視線を外し、ぼんやりと、宝石を眺めた。
ショウウィンドウに並ぶ、緋、蒼、碧と様々な宝石たち。
女性なら一様に目を輝かせるそれらだが、恐らくエリーはそれを満足に捉えていないだろう。
本来ならばエレナも楽しめる空間なのだが、生憎今はそういう気分ではない。
遊んでいては、依頼のくじ引きに操作を加えた意味がなくなってしまうのだから。
「こ、こちらでよろしいでしょうか……?」
「……、ええ、」
エレナは、女性の店員に運ばれてきた袋を受け取った。
手持ちのズタ袋に入れられた、カピレット。
覗き込むと、砕かれたクッキーのような小さな欠片がジャラジャラと音を立てた。
鈍い光沢の、赤い石。
とある岩石を商品化するため削り落されるこの付属物は、宝石としての商品には成り得ない、副産物だ。
このカピレットを削ることで姿を現す宝石はショウウィンドウに並んでいるが、こちらの方に用がある。
この宝石は、マジックアイテムなのだ。
魔力を流すことで、火曜属性の力を発する宝石。
夜の灯に使われることもある。
「これで全部?」
「え、ええ、」
金額を確認するまでもなく、エレナは購入の意を伝えた。
いかにマジックアイテムとはいえ、微弱なもの。
こうした高級な店にはいささか不釣り合いな存在なのだから、店の奥にしまわれ、加工前は二束三文で手に入る。
エレナはズタ袋の紐をきゅっと縛って手に下げた。
「それと、」
「……、」
次に店員が差し出したのは、一応は横長のケースに入れられているものの、僅かに濁った岩塩のような石。
ケースの中、上列に二つ、下列に三つ、計五つ並んでいる、コアロック。
菱形の形のそれらもまた、マジックアイテムだ。
魔力を流しても、何の効果も生み出さないのだが、コアロックは流された魔力を蓄えることができる。
もっとも、こちらも価値は低い。
ショウウィンドウに並んでいる透明度の高いものならいざ知らず、鈍い光沢を持つこちらは装飾品としてもアイテムとしてもあまり使用されないのだから。
どこかの町にも、簡単な手見上げとして店先に乱雑に積まれていたのを思い出す。
「これ、二ケースね……。で、いくら?」
「あ、あの、お客様でしたら、」
「……いくらなの?」
エレナの有無を言わぬ催促に流され、店員は委縮しながら金額を提示してきた。
予想通り、安価だ。
エレナは適当に財布から料金を取り出し、適当にカウンターに置く。
慌てたように金額を数え始める女性の店員。
彼女からしてみれば、エレナのような客は異様に映る。
この店は、激戦区の町にあるとはいえ、ベックベルン山脈から取れる鉱物で発展してきたのだ。
それだけに、ここでの宝石の購入は比較的安価で手に入り、その上、それで商品価値を落とさないほど上質で美しい。
実用性が問われるこの地域でかなりの利益を上げられるのだから相当なものだ。
特にエレナのような容姿の者なら、それ相応のものを購入してしかるべき。
しかし、エレナが求めたのは、本来商品として扱っていないようなものばかり。
経済的な問題かとも思いきや、彼女が投げ捨てるように置いた金額はかなり多く、また、彼女の財布からはそれ以上の貨幣が覗いていた。
「……、じゃ、行きましょうか」
エレナは購入を済ませ、そのまま踵を返して店を出た。
途中声をかけたエリーは僅かに反応し、ついてきているとはいえ、表情は、やはり暗い。
「……、」
徐々に人気も増えてきた町並みを歩くエレナは、ちらりと後ろを振り返った。
しかしエリーはそれさえ気づかず、ただエレナのあとを追うという作業を繰り返すだけ。
「……、止める?」
「っ、」
エレナの言葉に、ようやくエリーは反応した。
そしてどこか静かな表情を浮かべる。
ここ数日、ずっと見てきた顔だ。
まるで、町の中心の高い塔の天辺で、バランスを取ることだけを考えているような。
「ちょっと、いい?」
「……、」
町行く雑踏が急に不快になり、エレナはエリーを路地裏に促した。
高い建物に囲まれ、日の光が極端に制限された中。
どこかカビ臭いそこは、町行く人々の目を一切引かず、町の中で確かに孤立していた。
「もう一度、確認よ」
「……ええ、」
エレナはエリーを建物に追いやるように立ち、その瞳を捉えた。
「九分九厘、失敗する」
「……、分かってます」
この十日間、何度もエリーに送った言葉だ。
勧めもしない。
止めもしない。
これは、ただ単純な事実。
九分九厘失敗。
それは、千人がやって、たった一人が成功する可能性。
その中の一人になるというのは、あまりに希望的観測だ。
その上、エレナが口にしたのは、あくまで比喩。
本来、それ以上に、可能性は低い。
しかしエリーは頷いた。
「それでも……、」
「……、」
エリーは視線を落とし、小さく呟いた。
そして顔を上げ、エレナの瞳を確かに捉える。
「『あたし、やります』」
その言葉をエレナはクラストラスでも聞いた。
あの、アキラ以外の“勇者様”に出逢った依頼。
思わぬ数の被害者を出したあの依頼から返ってきた直後、エレナは、エリーに呼び出された。
声をかけられたときから、予感はした。
そのときのエリーの表情を、エレナはかつて鏡で見た気がしたのだから。
現状への憤り。
どうにもできない環境。
しかし、迫っている危機。
それらが混ざると、人はそんな表情を浮かべるらしい。
「失敗したら、死ぬ。これは脅しでも何でもないわよ?」
エレナは目を瞑り、またも事実だけを告げた。
勧めもしない。
止めもしない。
そのどちらも、エレナにはする資格がないのだから。
「でも、強くなれるんですよね……?」
エリーがこれから挑むのは、とある秘術だ。
エレナが以前、看過できない事件に遭遇したとき、挑んだ秘術。
魔力を大量に押し込み、対象の“器”を強引に広げる手法。
魔術師にとって魔力とは、その生命と密接な関係がある。
それこそ、命を対価として一時的に力を増大させられるように。
その魔力の受け皿ともいうべき、“器”。
ときには鍛錬によって成長し、ときには戦闘によって成長する存在。
いずれも、魔力使用の回数が増えることに、その成長は起因している。
確かに、先天的なものはある。
魔力の“器”とは、何に依存しているかは不明なのだ。
最たる例が、エリーの双子の妹、マリス。
彼女の“器”は何に頼るでもなく、常識外れのサイズを誇っている。
彼女が戦果を立てずとも、数千年に一人といわれるのには、それを測定した結果なのだ。
だが、それ以外にも、それを広げる方法が存在していた。
それが、今から行う、“器”への外部干渉。
中から徐々に押し広げられるべきそれを、強引に拡大するのだ。
本来、そのコアは、戦闘に置いて最も守るべき位置にある。
肉弾戦でいうところの、内臓。
いくら筋力を鍛えたところで、それを直接握り潰されれば、生き残れる者は皆無だ。
そのあまりに儚い粘土細工のような受け皿に、例えば海の水を流し込めば、受け皿は形を変えるだろう。
場合によっては、大きく。
場合によっては、破損。
結果、形が本来のものから乖離すれば、失敗、ということになる。
「確かに……、強くなれるわ」
エレナはエリーの言葉を肯定した。
止めるつもりも、ない。
「少なくとも……、私には勝てるくらいにね」
その秘術の成功例たるエレナは、あっさりと自分を引き合いに出した。
火曜属性のエリーが成功すれば、相性で勝る木曜属性のエレナを凌駕することはできる。
「じゃあ、」
「最後に、もう一度だけ言っとくわ」
エレナはエリーの言葉を遮って続けた。
「これから起こるのは、想いの強さ、だとか、どれだけ真摯に務めたか、とか、そんなどうでもいいことは関係ない。完全な、運任せ。例えば妙にツキのあるアキラや、あの天才ちゃんに同じことをしても、あんたと成功率は変わらないわ」
「……、」
エレナの言葉にも、エリーはきつく結んだ口を解かなかった。
分かり切っていたことだ。
この十日間を、エレナはエリーに準備期間として与えた。
すなわち、気持ちを整理する時間、と。
だがエリーは、“そう”ではないよう振舞っていた。
決して、成功するのだから別れを告げる必要はない、と思っていたわけではないだろう。
彼女が一人でいるときに、盗み見てみれば何かに押し潰されそうな表情を浮かべていたのだから。
何が彼女をそこまで追い詰めたのだろう。
彼女は決して、脆弱というわけではない。
単純な実力で最も不安なのは、エリーではなく、むしろティアの方だ。
だがその二人も、これまでの経験から、この激戦区で十分に戦えている。
しかし、エレナにはどこか分かる。
この“勇者様御一行”の中で、最も不安を募らせやすいのはエリーだ。
チート、と呼ばれる力を持つアキラ、マリス、そしてエレナはその面で何も思い煩うことはない。
イオリも問題ないだろう。チートとまでは言わないが、魔道士たる彼女は十分な実力者だ。
この四人は、何の問題もない。
そして、必然的にもっぱら比較対象になるサクとティア。
だが、この二人も問題ないのだ。
速度、という点で、瞬間的にはサクが最も長けている。
危険な相手が現れても、戦闘において特に重要なそれに特化している彼女は、あまり危機感を覚えない。
陽動さえ容易だ。
その上、卓越した腕で刀を使うのだから、攻撃面も十分にこなせる。
そして、ティア。
彼女の場合は極端だ。
勝てない相手が現れれば、さっさと諦めて後ろで治癒魔術をしていればいい。
現にその力は重宝し、チーム戦では欠かせない存在でもある。
だが、エリーは違う。
彼女の戦闘スタイルは、敵に近接して、己の体躯のみで戦うもの。
瞬間の威力は高いとはいえ、敵にしてみれば崩しやすい。
もしエリーが勝てない敵に出遭ってしまえば、何もせずに遠くから見ているしかないのだ。
サクは速力。
ティアは治癒魔術。
エリーは攻撃力。
三人は、一芸を持っている。
だが、それが生かされないシチュエーションが多いのは、やはり、エリーなのだ。
「……、行きましょ」
エリーから言葉が返って来なくなり、エレナは歩き出した。
僅かに頷いたのち、エリーもそれに続く。
二つだけの依頼を三つと偽り、くじ引きを操作し、これから二人は儀式に向かう。
“双子大陸”、ヨーテンガース。
ここは、エリーの出身地。
その山に囲まれた村とやらも、この近くらしい。
そして、手に下げる二つのマジックアイテム。
秘術の準備は整った。
「……、」
二人は、路地裏を静かに出る。
その影に、いつもは騒がしい少女が声も出せずに潜んでいることには、最後まで気づかなかった。
―――**―――
「ここ、だよな?」
「そのはずですが……、どうも……、」
サクの唸り声を聞きながら、アキラは周囲の様子を眺めた。
昼をとうに過ぎた森林、タイローン大樹海。
カーバックルの町から北に位置するこの場所は、大樹海の入り口付近で、木々もまばら。
日差しも十分差し込める。
そんな中。
アキラたちが辿り着いたのはキャンプ場のような場所だった。
「どうするよ、……いなくね?」
それも、無人の。
三角形のテントや、大きな四角いテントが十程度並ぶここは、確かに人間の生活の匂いがする。
足元の土は踏みならされているし、テントの中心にあるのは巨大なたき火の跡。
投げやりに置かれている飯盒やら何やらの調理器具。
何かの赤い作物が、テントとテントの間に紐で吊るされて干されている。
確かに、人間がつい最近までここにいたようだ。
だが、どれだけ耳をそば立てても、笑い声一つしない。
シン、とした森のどこか冷たい空気が流れているだけだ。
てっきり来た瞬間に依頼人が待ち受けていると思っていたのに、これでは馬車から下りてまっすぐにここを目指した自分たちが報われない。
「……マリス、魔物討伐、なんだよな?」
「そうっすね……。依頼書にも、そう書いてあるっすよ」
マリスは眠たげな眼を、手に持った真新しい用紙に下ろす。
ここまでの道中でも聞いたことなのだが、その詳細は記されていないらしい。
「依頼人は、カトールの民、族長、カルド。タイローン大樹海の探索を行う、移動民族の人っすね」
「移動民族……、ね」
そう言われて見てみれば、テントには大分年季が入っていた。
その上、キャンプのように短期的にではなく、長期的にその場に居残れるよう、重厚な杭や野太いロープでセッティングされている。
「たまに町の近くに来て、いろいろ売ったり買ったりするらしいっす。タイローンには、結構珍しい食糧があるっすから」
流石のデータバンク。
マリスからはすらすら言葉が漏れてくる。
だが、そんなアウトラインを聞いていても、依頼は一向に始まらない。
「留守なのかな……?」
「いや、流石に見張りくらいはいるはずっすよ。依頼のこともあるし、」
「……、魔物に襲われたとか……、」
「それならそれで、争った跡くらい……、」
一切ない。
人間がいないことを除けば、平和そのものだ。
「どうする? 引き返すか?」
「せめてもう少しくらい待った方がいいっすよ……。……? サクさん?」
そこで、マリスがサクの異変に気づいた。
サクはじっと、最も大きなテントを眺めている。
「サク?」
「今、そこに、」
「?」
アキラが寄ると、サクはテントの入り口を指した。
大きなのれんのような、その入口。
「……!」
風にそよいでいるようにしか見えないそこ。
だがアキラも注視して、ようやく気づいた。
今、中から誰かがこちらを覗き見ていたことに。
それも、一人二人ではない。
「すみませーん!」
アキラが声を出すと、入り口の布が確かに動く。
やはり、人がいる。
「俺たち、依頼を受けて、」
「“本当ですか”?」
アキラの声を遮ったのは、どこか震えたような男の声。
怪訝な顔をしながらも、アキラは一歩テントに近づいた。
それだけで、入り口の布が激しく揺れる。
その動きが、それ以上近づくな、と言っているようにも思えた。
「? 依頼書も、あるっすよ?」
マリスも眉を寄せながら、手に持ったままの依頼書をテントに向ける。
「……、」
それを、姿も見せずにテントから盗み見てくると、ようやくテントの布が開いた。
薄暗いテントの前に、一人の男が恐る恐る姿を現す。
年は、四十代ほど。
日に焼けた肌に、白髪交じりの短い髪。
広い肩幅に茶色い作業服のようなものを纏い、たくましい胸板を覗かせている。
そんな、体格のいい、その男は、
「早く、入って下さい……!! 危険です!!」
そんな言葉を、怯えながら叫んだ。
―――**―――
「それで、私は、どうしたらいいか分からなくてっ、」
「っ、」
「とっ、とにかく、急がないと、」
「分かっている!!」
イオリは、騒ぐティアに一喝し、目を伏せ続けた。
今は、落ち着かなければならない。
緊急時、最も危険なことは、当たり前のことだが慌てふためくこと。
今は冷静になり、どのような手を打つべきかを考えることだ。
とはいえ、まともに思考が進まない。
「っ、……すまない、アルティア、酒場に行ってくれ。僕たちの依頼のキャンセルと、アキラたちの居場所を、」
「はい!!」
文句も何もなく、ティアは指示通りに駆け出していった。
その待ち時間、イオリはひたすら、状況を整理する。
馬車の待合所、周りの人々が到着した馬車に乗り込む中、ただ立って、じっと眼を伏せ、爪を噛む。
ティアが持ち帰った情報。
それは、エリーとエレナが危険な儀式を取り行うというものだ。
強引な“器”への外部干渉で、それを押し広げる秘術。
イオリもどこかで、それを聞いたことがある。
情報を集めることに執着していた二年間だ。
儀式の詳細は知らないが、自殺にも等しいものだと分かっている。
この想定外の事態に、イオリは睨むように視線を門に向けた。
馬車を乗り入れ、再び閉ざされたそれは、重く、進路を阻むようにそこに座す。
だがあの二人は、もうとっくに町の外へ向かってしまっただろう。
今日の依頼は、珍しくもエレナが酒場に向かっていた。
そして、くじ引きのさい、彼女が妙な仕草をしていたのを思い出す。
結果、予想とは裏腹にエレナがエリーと組んだのを見て、そこに操作性は無いと踏んでいたのだが、まさか本当に狙った結果にしていたとは。
こんな“刻”、刻んでいない。
イオリが進める思考の中、何度もその言葉が生まれる。
自分が視た世界に、そんな濁りはなかった。
最後までは、全てがキラキラと輝いていたのだから。
だが、今起こっていることは何なのか。
あのエリーが、そんなことをするとは思えなかった。
意地を張って、思いつめることはあるとはいえ、彼女はそこまで愚かではない。
コンプレックスに苛まれながらも、彼女は実直に力を高めていた。
それとも、“チート”な存在に囲まれ、心を痛めてしまったのだろうか。
「っ、」
とにかく、今はアキラたちと合流することだ。
ティアが呆然自失し、エリーたちを見失った以上、彼女たちを追う術はない。
自分たちができる、唯一の方法。
それは、あらゆることに精通している、エリーの妹、マリスに話を聞くことだ。
彼女ならば儀式の存在を知っている可能性もある上、それに必要な場所まで特定できるかもしれない。
何しろ、元地元民だ。
「……、」
ティアを待つのももどかしく、イオリも酒場に向かって駆ける。
やるべきことは決まった。
あとは即座に彼らに合流し、エリーたちを追わなければならない。
一刻も早く、止めなければ。
いや、
「……、っ、」
浮かんだ黒い思考を、イオリは強く地を蹴ることで解消した。
黒い思考。
僅かにでも、思ってしまった。
エリーを、止める必要はないのかもしれない、と。
もし彼女が成功すれば、パーティ内の戦力は大きく増強されるだろう。
魔王の牙城は目の前だ。
戦力増強は望ましい。
そして、そうすれば。
あの黒い結末から、脱出できるかもしれない。
「っ、」
酒場の前に到着し、イオリは強く首を振った。
違う。
それは、違うのだ。
人道的に、認めてはならない。
もしかしたらこれは、自分が好き勝手動いた“バグ”かもしれないのだから。
世界のあるべき姿から、大きく逸れたこの事態。
創り手は、誰なのか分からない。
だが、自分はそれを、看過するわけにはいかないのだ。
「! イオリン!!」
「っ、どうだった!?」
待つこと数分、ティアが酒場の扉を壊さんばかりの勢いで飛び出してきた。
その手に持つのは、依頼書の写し。
どうやら、アキラたちが受けた依頼がつづられているものらしい。
「アルティア、離れてくれ!!」
イオリは叫ぶと、指で輪を作った。
町中だが、事態が事態だ。
問題になっても、勇者様の名を使えば問題ない。
イオリは大きく息を吸い、
「ラッキー!!」
指笛を、吹いた。
―――**―――
男は、カルドと名乗った。
依頼書にもあった依頼人、移動民族カトールを束ねる族長だ。
大柄で、筋肉質なカルドは、しかしその身を縮こまらせ、テントの中の椅子に慎ましく座っている。
大木をそのまま切断したようなテーブルに、その子供のような同じ形の椅子。
その対面に座っているアキラは、同じように委縮しながら、カルドに視線を向けていた。
とても、周りは見ていられない。
「……、実は、」
「はい、」
アキラの隣に座るサクが、カルドに言葉を返す。
その反対にマリスが座り、相変わらず無音のままなのだが、このテントの中の人々の方が余程音を立てていなかった。
キャンプ場のようなこの場の、最も広いテント。
その中は、アキラたち含め、総勢二十名近くの人口を誇っていた。
椅子に座っているのはアキラたちとカルドのみ。
他の者たちは、その机を囲むように地面に座り込み、疑心暗鬼に満ちた瞳をアキラたちに向けてくる。
人によっては怯え、人によっては威嚇するような瞳を向けてくるこの場は、異常なまでに居心地が悪い。
アキラは決して視線を合わせないように、唯一言葉を交わせるカルドにのみ視線を向けていた。
「恐いんです」
「……え?」
カルドから漏れた言葉に、アキラは眉を寄せた。
恐い。
見れば分かる。
こんな大男が、震え上がっているのだから。
「わたくしどもカトールの民は、昔からこの樹海の探索をしているのですが……、ここ数日、どうも魔物が恐くなってきて……、」
「?」
「だ、だって……、魔物に殺されたら……、もう、お終いなんですよ?」
「……、」
それで、よく探索などできるものだ。
やはり奇妙なカルドの言葉に、アキラは、とりあえずはと先を促す。
「死んだら終わり……。そうしたら、探索も、何もできなくなります……」
「……えっと、それで、今までどうやって探索を?」
「そ、それは、その、何となく……、」
「……?」
「今考えても、自分たちの行動が分かりません……。何故魔物が出現するような場所で生活していたのか……、」
「……、」
未だに話が分からない。
アキラは頭を抱えた。
この男は一体何を言っているのだろう。
元も子もないようなことを、こうも当たり前のように語っている。
しかも、恐る恐る周囲の人々に視線を走らせても、カルドの言葉に同意しているようだった。
「それなら……、樹海から出て生活すれば……、」
「そ、それは、できません。カトールの民は、昔から、この樹海の探索を、」
今度こそ、アキラは額に手を当て、その肘を机についた。
支離滅裂だ。
恐いから、樹海の探索ができない。
しかし、樹海からは出ない。
その二律背反を訴えかけられたところで、アキラたちにはどうしようもない。
「それで、俺たちは一体何をすれば……?」
「あ、ああ、そうでした、」
カルドはおどおどと立ち上がり、奥の机に乱雑に積まれた紙を、一枚取り出してきた。
どうやら、この辺りの地図のようだ。
「そもそも……、わたくしどもが恐いと思うようになったのは……、夜に妙な“遠吠え”が聞こえてきてからなんです」
「遠吠え?」
「ええ、この……、」
アキラは、カルドが机の上に広げた地図を覗きこんだ。
使い古したボロボロとの地図。
この大樹海の一角を現わしているらしいそれには、要所に細かな書き込みがあり、現在地や川の位置、さらには食糧になりうる食物がある場所が明記されていた。
季節によって移動すべき位置や、その特徴。
何年も前からここにいる者にしか作り上げることができないような地図だ。
今アキラたちがいるのはその地図の西部のようで、町に向かうルートも書き記してある。
アキラたちが通ってきた大樹海のパイプラインも、正確そうだ。
そして、更にその西部、ベックベルン山脈と思わる場所には、新たに書き込まれたらしい赤い字の×マークがあった。
「四日……、いや、五日前ですかね……。この場所の方から、魔物の雄叫びが聞こえるのです……。獣のような……、ああ、それはそれは、」
思い出すだけでも震えるようで、カルドや周りの民も身をすくめた。
何故か声だけで、本当に恐怖が刻み込まれているようだ。
「でも、魔物の遠吠えって結構あるじゃないっすか」
カルドの心が開きかけてきた頃、マリスが口を挟んだ。
だがアキラも、同じことを思っていた。
魔物の遠吠え。
それを、この世界で初めて野宿を経験した夜にも聞いたことがある。
あのときはただ体を震わせ襲ってこないように祈ったものだが、今では自然の音として捉えられるようになっているのだ。
それなのに、アキラよりもずっとこの世界の野宿に精通しているこの人々がそれに震えるのは不自然に思える。
「そんなに変な遠吠えなんすか?」
「いや、それは……、でも、恐いんです」
「?」
自分が覚えている恐怖の温床も分かっていないのか、カルドは執拗に、恐いとばかり口にする。
「えっと、ちなみにここには何かがあるんですか?」
タイローン大樹海の探索を行う、カトールの民。
しかしその者たちが、警戒しているのは、タイローン大樹海の魔物ではなくベックベルン山脈のそれなのだ。
「……え、」
「? 行く予定とか……、」
「い、いや、特には……、」
「……?」
ますます分からない。
何故そんな離れた場所に警戒するのか。
近いといえば近い。
だが、直接的には関係ないはずだ。
対岸の火事に、ここまで震えるカトールの民。
もう、会話が成立していないとしか思えなかった。
「でもとにかく、そこに様子を見に行ってもらわないと……、わたくしどもは……、外に出られないのです」
「はあ、」
「若い衆は、今は町に物を売りに行ってもらってますが……、戻ってきても、ここで足止めです」
「カルドさん!!」
周囲から初めて声が漏れた。
カルドをたしなめるような言葉。
大方、今この場所は戦力が乏しいということをアキラたちに伝えたくなかったのだろう。
確かにこのテントの中にいる人々を見渡した限り、戦えそうな若い人はあまりいないようだ。
「だから、とにかく、依頼を頼まなければいけなくて、」
カルドはとうとう、祈るような目つきに変わった。
「……、」
そこでふと、アキラは震えた。
アキラの疑念は拭えない。
だが、自分はそんなことに疑念を持つような人間だったろうか。
話としては、遺跡に調査に向かってもらいたい、ということだろう。
そして、その恐怖の元凶の遠吠えをする魔物を倒せばいい。
それだけのはずだ。
RPGではよくあるような話。
適当にテキストを読み飛ばして、疑念さえ持たず、ずんずん進んでいくべきなのだろう。
今までだって、そうして進んできたではないか。
「……、」
深く考え過ぎだ。
アキラは目を閉じ、こめかみを軽く押さえた。
世界の“バグ”に、神経質になり過ぎているのかもしれない。
これは、単なる依頼のイベント。
そう考えることが、世界のあるべき姿のはずだ。
それに、自分は、“勇者様”なのだ。
震える民に、希望を与える存在。
だが、やはり気になる。
この、不協和音は。
「……、」
“どれ”だ。
アキラは、そんなことを思った。
物語にある単純な謎。
この疑念は、それなのだろうか。
それとも、“バグ”から生まれた異変。
この疑念は、それなのかもしれない。
どれが、何なのか。
身体が震える。
判断がつかない。
「アキラ様」
そのとき、サクが小声でアキラを読んだ。
視線を向けると、サクが視線を入口の方に向ける。
話がある、ということなのだろう。
「……、マリス、ここ、頼めるか?」
「……了解っす」
アキラはマリスの返事を聞き、立ち上がる。
同じく立ち上がったサクの背を追い、人々からは最後まで、疑念に満ちた瞳を受けたままだった。
「……、どう思われましたか?」
テントの外に出て、たき火の跡まで来ると、サクが振り返った。
やはり相変わらず、人気は無い。
誰もが気配を消し、テントの中からこちらを覗っていると思うと、森の朗らかな気分は消し飛んでしまった。
「どう、って?」
「いや、彼らの様子です」
「……、だよな、」
当然、アキラの隣でも、サクは疑念を膨らませていたようだ。
アキラは転がっていた木を拾い、適当に煤だらけのたき火を弄った。
「彼の話は……、あまりに、」
「ああ、わけ分からん」
答えながらも、アキラは安堵した。
対岸の火事を恐怖と語るカルド。
それに同意していたような、周囲のカトールの民たち。
人数差から、こちらの常識の方がおかしいと思ってしまうほどだった。
「私には……、同じだと感じました」
「……? 同じ? 何と?」
「覚えていませんか? あの、カリス副隊長を」
忘れるわけがない。
アキラは、目を細め、頷いた。
カリス副隊長。
それは、イオリが国の魔術師隊の隊長を務めていたときの部下だ。
有能な隊長であるイオリに劣情を宿し、牙を向けてきた男。
イオリの創った“バグ”の、最たる例だ。
「言っていることが……、その、支離滅裂というか、」
「そういえば、」
確かに、種類こそ違えど、カルドの言葉は、変わり果てたカリスの様子と同様だった。
大柄なカルドは震え上がる。
実直なカリスは愚直な計画を立てる。
自然に結論を出しているようで、それらは何かが間違っているのだ。
「……?」
「? 何か?」
アキラは何故か、サクの顔を見ていた。
慌てて視線を逸らし、再びたき火をかき混ぜる。
気のせいだ。
気にするな。
「ま、とりあえずは依頼をやってみれば分かるだろ? 罠っぽいけど……、」
「……、え、ええ」
適当に口に出したつもりだったのだが、サクは目を細めた。
罠。
口にしてみれば、確かにそんな気もする。
だが、カトールの民の様子に、嘘はなさそうだった。
「それに、マリスもいるし、な」
「はい」
アキラの言葉に、サクは即座に肯定した。
マリス。
数千年に一人の天才と言われ、実力もそれに恥じない彼女がいれば、何が起ころうと、依頼の達成は約束されている。
だが、この話題を出したとき、いつも僅かに視線を外すサクは、珍しく全面的に肯定してきた。
「私は……、彼女の底が未だ計れません」
アキラの懸念に気づいたのか、サクは言葉を紡いだ。
「彼女と二人で組んだとき……、次元の違いを感じさせられました」
「……あ、そういえば、組んでたっけ」
アキラは十日前の依頼を思い出す。
自分とエリー、そしてイオリが別の依頼に向かい、エレナとティアに留守を任せたあの日。
別の“勇者様”に逢った自分たちの話題ばかりで、結局、マリスとサクの班の詳細を聞いていなかった。
「討伐対象が洞窟の奥にいたせいで時間はかかりましたが……、そこで、」
「終わったっすよ」
サクの言葉を、いつしかテントから出てきていたマリスが遮った。
依頼の手続きを終えたのだろう。
手には、先ほどの地図の写しを持っている。
だがカトールの民は、見送りもなく、再びテントの中に引きこもっているようだった。
「ま、とりあえず行くか。あの山……、てか、直接行った方が良かったな」
「まあ、遠いと言えば遠いんすけど……、大した距離じゃないっすよ。それに、比較的危険な魔物もいないっすから」
「……?」
とぼとぼと歩き出すマリスの背を追うアキラは、その言葉に違和感を覚えた。
「マリス、そこ、知ってるのか?」
こくり。
マリスは頷いて返してきた。
「自分とねーさんの生まれた村、その辺りにあるんす。山頂まで昇らなければ、安全っすよ」
「……、え、」
「? 言ってなかったすか?」
言っていない。
アキラは確信を持って、そう言えた。
―――**―――
ペンタグラムを形作るように、中央に人一人が寝転べる距離を保って、コアロックを五ヶ所に設置。
一ヶ所に、二つずつの計十個。
“部屋”の四隅に設置した松明に照らされて、濁った白の中はメラメラと燃えているよう。
そしてさらにそれを囲うように、欠片とも砂ともつかないカピレットで円を書く。
こちらも濁った、しかし紅い鉱物。
「……、」
丁度一周したところで、空になったズタ袋を、エリーは隅に放り投げた。
「これで、いいんですか?」
「ええ」
エリーが確認を取ると、壁に背を預けていたエレナが頷いた。
儀式の準備は、整った。
「随分おあつらえ向きの場所ね……、ここ」
「避難所なんです。もっとも、場所が場所なだけに緊急用なんですけどね」
二人が今いるのは、カーバックルから歩くこと数時間。ベックベルン山脈の麓の洞窟だった。
木々に日差しが遮られた、深く、どこかカビ臭い、そんな場所だ。
洞窟に入って、進路を阻む曲がりくねった道を進み、到着するのがこの最奥の広間。
避難所とはいえ、これほど奥にまで人が逃げ込むことはあまりない。
天井も吹き抜けのように高く、幅もある程度あるのだが、天然物の岩石がむき出しになっているせいで圧迫感はある。
前にエリーが入ったシーフゴブリンの巣が近いかもしれない。
だが、この場所は、一つだけ魔物の巣と大きく異なっている点がある。
激戦区の危険地域、ベックベルン山脈にあって、この場所は魔物の出現率が極端に低い。
魔物が不用意に襲ってこない性質を持つ鉱物がこの辺りにはあり、その上特殊な術式が組み込まれ、確かにここは避難所だった。
人が生活できる普通の町と同程度のセキュリティ。
明らかな敵意を持って現れなければ、野生の魔物たちは生理的にこの場所に近づこうとしない。
「……あんた、前にもここ、来たことあるの?」
「多分、ないです。村からほとんど外に出ませんでしたから」
エリーの忘却の彼方にある生まれた村。
それは確かに、この近くだ。
ただ、この場所は話しでだけ聞いたもので、物心つく前はどうか知らないが、実際に来たのは初めてだ。
あれから十年以上経っているとはいえ、この避難所は変わっていないらしい。
これで、問題なく儀式は行える。
行えてしまう。
「じゃ、始めましょうか」
「……はい」
目を瞑ってエリーが作り上げた魔法陣に近づいたエレナは、落ち度がないか再確認していた。
だが、完璧のはずだ。
簡単な術式の編み方は、魔術師試験の科目の一つでもあるのだから。
「……。じゃあ、説明するわ」
エレナはあまりに無表情な顔を、エリーに向けてきた。
「あんたは今からこの真ん中に座り込んで、“ひたすら耐えなさい”」
「え、」
エレナの説明はあまりにシンプルだった。
彼女が指差すのは、ペンタグラムの中央。
そこに座り、ただ待てばいいと言う。
「他のことは私がやるわ」
「わ、分かりました」
エリーは自分で描いたカピレットを踏まないように跨ごうとする。
しかし、エレナが腕でそれを阻んだ。
「服」
「え?」
「服、脱ぎなさい」
「……えっ!?」
聞き間違いではない。
からかわれているわけでもない。
エレナは相変わらずの無表情で、エリーの服装を見ていた。
「こ、こんな所で、」
「それ、」
「?」
「あんたのそのプロテクター。そんなもん着てたら身体中ズタズタになるわよ。それに、その服も。首なんか絞まったら、洒落にならないわ」
あまりに事務的なエレナの言葉に、気恥しさも忘れ、エリーは呆然とした。
戦闘用、というだけはあり、エリーの服装は機能的だ。
上下に連なったアンダーウェアに、半袖の上着にハーフパンツのようなズボン。
例え敵にもみくちゃに襲われても、エリーの身体を守れるものだ。
しかし、エレナの目から見れば、それは暴れ回る自己の身体を傷つける要因にしかならないらしい。
「……、」
「早く」
「……はい」
エリーはおずおずと、部屋の隅に歩き服を脱ぎ出す。
手甲とプロテクターを外し、上着を脱ぎ、ズボンに手をかける。
靴も危険だ。
この靴は、蹴りを放つときのために鉄板が仕込んである。
アンダーウェアは脱いだが、流石に下着は外せなかった。
「……、」
日に焼けた健康色の四肢を露出させ、じゃりじゃりとした足場を裸足で歩く。
淡い桃色の上下の下着を、何となく手で隠しながらエレナに近づくと、彼女は中央の場の小石を横に払っていた。
「……、」
エレナは身体を起こし、エリーの身体をしげしげと眺める。
自分の身体に自信がないわけではなかったが、エレナのスタイルを見ていると、エリーはやはり気後れしてしまった。
「……あの、」
「……、」
エレナは相変わらずの無表情を、エリーに向け続ける。
もじもじと身体を動かし、抗議の意を伝えるも、エレナはそのままだった。
「エレナさん?」
「……その髪も、切った方がいいかもね」
「……、あ、」
エリーは言われて気づいた。
背中まで伸びた、綺麗な赤毛。
今はゴムで一本にまとめている。
乱暴な戦闘をしていても、手入れは欠かしたことがない。
だがその髪も、エレナにとっては危険なものに見えるらしかった。
「……こっち、来なさい。肩くらいまでで、大丈夫でしょ」
エレナに言われるがまま、エリーは彼女について行った。
到着するなり彼女が投げ出した一抱えほどのバッグ。
彼女が手荷物を持ち歩くのは珍しいと思っていたのだが、その中には儀式に付属的に必要な用具が詰め込まれているらしい。
「……、」
エレナはハサミと霧吹き、そして櫛を取り出し、エリーの背後に回る。
シュッシュ、と簡単にエリーの髪をならして、櫛ですく。
決して、痛まないように。
霧吹きの液体も、ただの水ではない。
女性の髪を切るという行為、それ相応の、特殊な液体だ。
その手慣れた、しかし無機質な動きを背中で感じ、エリーはどこか背筋が寒くなった。
無防備な下着姿でダンジョンにいるというこの事態さえ、取るに足らない恐怖。
「……今なら、よ?」
「……分かってます。でも、やって下さい」
「そう」
赤毛をならし終え、エレナはハサミを取り出した。
ジョキ。
無機質な音が響いた。
ふっと頭が軽くなる。
そこでようやく、エリーは戻ることができないと感じた。
今までだって覚悟が無かったわけじゃない。
だが、今まで自分の外で行われていた儀式の準備。
それがとうとう自分の容姿にまで浸食し、エリーは儀式の一部になってしまった。
「……、そんなに、苦しいんですか……?」
エレナが器用に毛先を揃えている中、エリーは沈黙に耐えきれずに声を出した。
服を脱げという指示。
髪すらも、首が絞まると今切ってもらっている。
それほど自分は、暴れることになるのだろうか。
「……、言っても、無駄よ。あんたが経験したことない、……想像もしたこともないことが、今から起こるわ」
「……、」
流石に、身を固くした。
衣服を脱いでいる現状も重なり、どうしようもなく恐くなる。
足元をふと見ると、自分の赤毛が散乱していた。
随分、伸ばしたものだ。
「……、ねえ、」
「はい」
「あんた、なんで髪伸ばしてたの?」
気を紛らわせてくれているのだろうか。
エレナは淀みない手つきで散髪を続けながら呟いた。
「……、願掛け……、みたいな感じです」
「願掛け?」
「ええ……、マリーと一緒に、伸ばそう、って」
「……、」
一体、何の願掛けだったのか。
どちらが言い出したのかも思い出せない。
ただ、ずっと、一緒にいようという想いは、あったのだろう。
たった一人の肉親だ。
瓜二つの容姿もさることながら、マリスはほとんど、自分と一心同体と考えていた。
毛先を揃えるときも、同じ。
それだけに、妹をあるいは自分以上に守りたい。
しかし、それは、逆、だ。
「髪みたいに……、簡単に伸ばせたら良かったんですけどね……」
「……そうね」
エレナは淡白に、一言で返した。
散髪は進んでいく。
それは、完全に、マリスと乖離している。
だがそうしなければ、彼女に近づけないのだ。
足の裏で感じる、岩や砂のひんやりとした感触。
パラパラと落ち続ける赤毛。
そして今から始まる、命をかけた秘術。
どうしてこうなったのか。
エリーには思い出せなかった。
エレナにこの秘術の存在を聞いたのは、もう、半月ほど前になる。
魅力的な提案だった。それは認めざるを得ない。
だけどそれ以上に、自分はそれを恐れていなかっただろうか。
だが時間が経つにつれ、恐怖は薄れ、その甘美な吐息が耳元で囁く。
これは、ルール違反だ。
自分は、そう思う人間ではなかっただろうか。
命をかけて力を手に入れたエレナを非難するつもりはなかったが、自分はもっと、安定志向の持ち主だった気がする。
将来、魔術師隊に入り、誰かに恋をして、共に孤児院を経営するのがエリーの夢だ。
よく読む漫画のような燃え上がる恋をしてみたかった。
だがそれと同時、歳と共に広がってきた世界に、それを諦めた自分もいた。
自分は、きっと、“普通”を求めていたのだ。
だがそのはずなのに、自分はこのままではいけないと思ってしまった。
いかに自分の力が上がっても、それでは足りないと頭で何かが囁き続ける。
魔王討伐の旅だ。
確かに力はあるに越したことはない。
だが、魔王に憎悪を燃やす人々には悪いが、自分にとって、それは通過点のはずだった。
魔王を討ち、婚約を破棄し、そして普通に戻る。
それが、理想。
目的と手段が入れ換わったのはいつからだったろうか。
エレナに秘術の存在を聞き、それからの半月で入れ替わったのだとは思う。
そして。
魔王討伐をしなくてもいいなどと思ったのは、いつからだったろうか。
だが、それは、きっと。
もっと、ずっと、前からかもしれない。
「……、終わったわ。やっつけだけど、まあまあ、かな」
エレナがエリーの肩の毛を払いながら、ハサミを仕舞い込んだ。
軽くなって、心細くなった頭。
肩よりさらに短い、おかっぱの髪型。
自分からは見えないが、エレナの表情からするに、似合っていると信じたい。
「さ、真ん中に行って」
「はい」
エリーは足元に散らばる赤毛を、まるで他人事のように見下ろし、歩き出した。
目指すは、自分の作った魔法陣だ。
「……、」
エレナは、自分に、勧めも止めもしない。
再三の注意も、きっと、これから起こる苦痛を知っているがゆえの、ただの情報だろう。
だが、それでいいとエリーは思う。
今の自分は、あまりに不安定だ。
どちらかでも言われたら、きっと、奈落へ崩れ落ちてしまう。
そんな状況分析もできるのに、この足は、止まらない。
「じゃあ、二つ。始める前に言わなきゃいけないことがあるわ」
エリーが魔法陣の中心に立つと、エレナは無表情なまま指を二本突き出した。
彼女が立つのはカピレットの円の外。
エリーと距離を持ち、ただ情報を与えてくる。
「これから、私はここから“スイッチ”を入れる。ただ、魔力を流し込むだけだけど」
その魔力は、カピレットの力で火曜属性の魔力に変換され、五芒星のコアロックに溜まる。
各箇所に二つあるのは、予備。
予算の関係で上等な物は手に入らなかったが、それでも影響はないらしい。
そんな説明を、自分は受けたのだと思う。
エリーはただぼんやりと、エレナの二本の指を見ていた。
「一つ目の注意は、そこから絶対に出ないこと。どれだけもがき苦しんでも、そこにいることだけは放棄しないで」
「……はい」
「それから二つ目」
エレナはペンタグラムの形で並ぶコアロックをざっと見てから、再びエリーに視線を向けた。
「始まると、コアロックが一ヶ所ずつ砕けていくわ。計五回。そのたびに襲う苦痛は、どんどん強くなる。強く光ったら合図だから、それに耐えなさい」
エレナは腕をまくるとマウスピースを取り出した。
「気休めかもしれないけど……、舌、噛まないように、ね。それと、立ったままは絶対に無理。……呑み込まないようにしなさいよ」
エリーはエレナがほうったマウスピースを受け取り、言われるがまま座り込んだ。
マウスピースと、座った地面からひんやりとした感触が伝わってくる。
エリーは必要以上に歯を噛み合わせ、身体をすぼめるように膝を合わせて腕を回す。
そしてエレナは、体育座りになったエリーに視線を合わせ、両手をカピレットの円に置いた。
「……エレナさんは、誰に協力してもらったんですか……?」
マウスピースの口のまま、エリーは不意に訪ねた。
「私は……、一人。魔力を宿す宝石を使えば、流し手は補えるのよ」
「……、」
自分は多分、幸運なのだろう。
薄暗く、松明だけが照らす洞窟。
そんな中で、一人でこの儀式を淡々と進めることなどエリーには想像もつかなかった。
「それと、五つ全部に耐えなきゃ意味ないわ。徐々に強くなるんじゃなくて、最後に一気に、よ」
「……分かりました」
エリーはぐっと、身体を硬直させる。
今の自分は、きっと、死刑の執行を待つ囚人のような顔をしているだろう。
「エレナさん……、」
「……なに?」
エリーは僅かに間を置いて、目付きを鋭くした。
「……お願いします」
「ええ」
エレナは目を閉じ、深く息を吸った。
「もともとは、対象を滅するための術式」
エレナから漏れた魔力が、カピレットに伝わる。
そして洞窟内は、円形に輝くスカーレットで埋め尽くされた。
「でも、まれに……、本当にごくまれに、異常事態が発生する」
コアロックも、僅かに輝き始めた。
しかしそれは、濁った白から出ると思えない、鮮やかな紅。
「そのせいで伝説級の魔物が生まれて……、闇に葬られた秘術」
エリーは目を、きつく閉じる。
自分が今から挑むのは、その異常事態だ。
「いくわよ……、」
「はい」
エリーは何度も、頭の中で反芻する。
何が起きても、自分は、ここから出ない。
「―――、」
エレナが何かを呟いた。
何の言葉かも分からない、秘術の名。
それと同時、最初のコアロックが、強く輝き始めた。
―――**―――
「……、これしかない。これでいいはず。これをしなければならない」
気悦にまみれた声が、小さく響いた。
まるで、誰かに囁きかけているように。
暗闇の洞窟内。
入り口が違う隣の洞窟では、現在儀式が行われている。
壁一枚の向こう。彼女が温めた想いは、強い。
完璧だ。
あまりに。
「あと、もう少し……」
それはきっと、女性の声なのだろう。
ベックベルン山脈の、暗闇の洞窟。
そこに浮かぶ、唯一の光源は囁き続ける。
霧とも粒子ともつかない、そのぼやけた塊。
だがそれは、確かに笑っていた。
静かに、小さく、そして妖艶に。
全てが自分の思い通りに進み、その罠が、今、閉じる。
この上ない快感。
この上ない全能感。
しばし酔いしれ、そして、なおも笑う。
間もなく日は落ち、月が登る。
きっとそれは、不気味なほど巨大な満月だろう。