時刻は午後五時五十分。
あと十分でアトラスの正式サービスが開始される。
昼食を食べた後、ありとあらゆるアトラス関連情報を纏めた情報サイト【Atlus wiki】に目を通していたが、特に目新しい情報は無かった。
自慢ではないが、俺はアトラスの開発発表から今日まで、公式サイトに載っている情報からネット上の真偽不明の噂話まで、アトラス関連の情報を毎日のように漁ってきた。
そうして収集した事前に知り得る情報は、全て頭に叩き込んである。
今更新情報が出てくるとも思っていなかったが、念のための各サイトの更新確認と、単純に復習も兼ねて暇潰しに眺めていただけだ。
午後六時まであと三分。
ログインの準備をするためにブラウザを閉じて専用ソフトを起動し、VRシステム一体型ウォーターベッドの電源を入れて横になる。
新型VRシステム【アルカディアゲート】、通称AG。
AGは一番安価なモデルでも約三十万円と高額だが、アトラスの他に対応タイトルがなく、5年前に発売されたばかりの旧型VRシステム対応ソフトとの互換性もないため、現状アトラス専用機としてしか使い道はない。
アトラスがいかに優れたタイトルであろうと、ネットゲームの単一タイトル専用機が三十万円という高額では売れ行きは伸び悩むのではと言われていた。
しかし、初回出荷の二十万台は瞬く間に予約が締め切られ、現在四次出荷分まで予約が終了しており、総予約数は百万台を超えるという。
アトラスの誇る圧倒的なまでのリアリティで構築された世界は、ゲーマーだけではなく、老若男女幅広い人間の心を掴んだのだ。
MMORPGであるアトラスは、一般的なMMORPGと同じように、敵との戦闘を通じて自分の分身たるキャラクターを育成し、より高難易度のコンテンツに挑戦していくのが基本的な楽しみ方だ。
しかし、そういったメインコンテンツを端から度外視したプレイヤーもいる。
代表的なのは【旅行好き】と【釣り好き】だ。
アトラスでは僅かな時間で日常とは掛け離れたリアルな風景を家にいながらにして楽しめるし、現実と同じ感覚で釣竿を使って釣りをする事が出来る。
これらはそれぞれの専門雑誌などで特集が組まれた程で、これまではVRゲームなどに興味を示さなかった客層を多く取り込む事に成功している。
とはいえ、初回二十万台という狭き門に殺到する希望者の数が増えた事で、倍率が跳ね上がり【AG難民】が続出する結果となった訳だが。
ちなみに我が家は両親と俺、妹の四人全員がゲーマーで、家族四人でネトゲ中にパーティーを組んで狩りをしながら明日の晩御飯は何が食べたいかなどといった話をパーティーチャットでするような家庭だ。
当然アトラスも家族全員がプレイする気満々である。
四台ものAGが手に入るか不安ではあったが、親父が謎のコネを使って四台確保してきた。
AGには三つのモデルがある。
主要システムとヘッドセットのみのベーシックモデル、専用リクライニングシートにVRシステムを内蔵したVRチェアモデル、専用ウォーターベッドにVRシステムを内蔵したVRベッドモデル。
馬鹿のくせに稼ぎは良く、趣味への投資には金に糸目を付けない親父が買ってきたのは四台のVRベッドモデルだった。
先週とどいたばかりの寝なれないウォータベーッドに寝そべり、ヘッドボードのパネルを操作すると、ベッドの上半分を覆うカバーがゆっくりと降りてくる。
完全に上半身を覆うカバーに微かな息苦しさを感じるが、それも数秒。
新型VRシステムの睡眠誘導機能によって、瞬く間に眠りに落ちる。
感覚では一瞬の暗転。
生体認証と住基IDカード認証による自動ログイン設定を済ませておいたので、一昔前までは主流だったログイン時のIDやパスワードの入力は必要ない。
周囲には何も無い。
地面に立っている感覚はあるが、床も壁も天井もない。
暗闇に浮かべたガラス板の上に立っている。そんな感覚。
不自然極まりないこの空間は既にVRシステムによって作られた世界だ。
ここはエントランスレイヤーと呼ばれている。
意図的に現実とも仮想現実とも懸け離れたエリアをログイン、ログアウト時に挟む事で現実と仮想現実の違いを明確にし混同を防ぐだとかなんとか。
まぁ難しい事はどうでもいい。
十秒程経つと、目の前にはどこからともなく現れた一冊の本が浮いている。
厚手の革張りの表紙を開くと、最初のページにはアトラスの規約が長々と書かれていた。
五ページに渡って記載された規約を眺める程度に流し読みし、次のページを捲ろうと手をかけた所で目の前に電子的なウインドウが突然表示される。
【規約に同意しますか? No/Yes】
迷わずYesを選択し、ページを捲る。
次のページにはキャラクターステータスが記されていた。
アトラスは専用ソフトで予め作成したキャラクターデータを読み込んで使用する。
ここで出来るのは各項目の最終確認と一部のステータスの数値を変更する程度だ。
見開きの左側には、要所を鉄板で補強した革防具に身を包み、片手剣と盾を持った男の姿が描かれている。
髪は黒味の強い銀髪で肌は薄い褐色。
顔は毎日のように鏡で見ている自分の顔。違うのは赤味がかった瞳くらいだろうか。
そこに描かれているのはこの世界での俺のキャラクターの姿だ。
顔立ちがリアルそのままなのは多少不本意だが仕方ない。
基本的にアトラスのキャラクターの容姿は、提携病院の専用設備で測定し作成された3D体型モデルを使用しなければならない。
キャラクター作成ソフトで多少のバランス調整や体型の伸縮、肌や髪、瞳の色の変更や刺青やピアスなどを設定する事は出来るが、別人の顔や体型データを使用する事は出来ない。
タレントや政治家など、リアルそのままの顔ではプレイに支障がある場合は、審査の上インフィニティ・ソフトウェア本社で容姿の変更が出来るらしいが、あくまで例外。
それ以外の方法での体型モデルの無断改竄や他人の体型データの使用は禁止されている。
好むと好まざるとに関わらず、見慣れた自分の顔以外に選択肢はないのだ。
髪や肌、瞳の色も、完全に自由に決められる訳ではない。
設定した種族の特性に沿った色調から選ばなければならず、銀髪に褐色の肌、赤い瞳は選んだ種族のデフォルトほぼそのままだ。
色に関しては結構な時間をかけて弄ってはみたものの、どうもデフォルト以外は不自然な色調になってしまい諦めて投げ出した結果だった。
右側のページにはキャラクターの各種ステータスが書かれている。
ファーストネーム:ガイアス
種族:ノスフェラトゥ
信仰神:破壊神ミデラ
出身地:クランガルム
現在地:アーカス前哨基地
所属ギルド:傭兵ギルド
宿命値:-1000
能力値
STR:30
DEX:30
AGI:20
BAL:20
VIT:30
INT:20
MAG:20
MEN:20
CHA:20
ステータスポイント:0
名前はファーストネームのみ設定可能で、予め決められた名前のリストから好きな物を選ぶ。
ネトゲに付き物のNGワードスレスレの名前や、世界観を無視したアニメキャラの名前を付けるプレイヤー対策だろう。
これに関してはネットでも批判的な意見が多かった。
しかし現実でも自分の名前は自分では決められないのだから、山ほどある候補から選べるだけ選択の自由があるほうだろう。
選べる種族は、光神の末裔四種族と闇神の末裔四種族の計八種族。
俺が選んだのはその中でも一番基本性能の高い闇神の末裔ノスフェラトゥ。
他種族と比べて初期ステータスが最も高く、戦闘スキルの上昇も早い、戦闘向きの種族だ。
しかしノスフェラトゥには大きなデメリットもある。
まず、ノスフェラトゥに限らず闇神の末裔四種族はソロプレイ向きの種族として設計されている。
なので、他プレイヤーとの共闘時に能力値やスキル値にペナルティが課せられる。
特にノスフェラトゥは課せられる共闘ペナルティが飛びぬけて高い。
また、破壊を司る神の末裔であるが故に、生産系スキル全般に大きなペナルティが発生する。
生産スキルは上がりにくく、生産品は品質の良い物は出来にくくなる。
そして、初期宿命値の低さ。
もう一つの現実を謳うアトラスは、そのリアリティの表現の一環としてかなりの自由度を誇る。
与えられた自由の中で、そのプレイヤーが善い行いをしてきたのか、悪い行いをしてきたのかを表すのが宿命値だ。
宿命値が高まる行動を取り続ければ、周囲からの信頼を得て、ひいては英雄と評される人物になる。
逆に宿命値が減少する行動を続けると、一部の街以外は立ち入る事が出来なくなり、不用意に近づけばガードNPCから攻撃を受けたり、賞金首として他のプレイヤーから狙われる事もある。
宿命値-1000は小悪党程度の評価だが、それでも立ち入れる場所は限られるし、宿命値が高い相手からの評価は得にくくなる。
強い力を持っているが、生き難い種族、それがノスフェラトゥというわけだ。
信仰神は選んだ神によってプレイスタイルが大きく変わってくる。
信仰する神をプレイ中に変更できるかどうかの詳細は事前には発表されなかったので、本来であればキャラメイクでの一番の悩み所なのだが、ノスフェラトゥが選べるのは破壊神ミデラのみなので変更のしようが無い。
出身地と現在地は個別に設定する事が出来る。
しかしノスフェラトゥの首都であるクランガルムは設定では既に滅びているので、現在地としては選択不可能となっている。
現在地の選択には初期宿命値が影響するので、ノスフェラトゥが選べるのはアーカス前哨基地を含めて二つのみ。選択の余地は無いと言っていい。
所属ギルドは傭兵ギルド。
ここでいうギルドというのは、プレイヤーの集団の事ではなく職業組合的な意味でのギルドだ。
MMOでよくあるプレイヤーコミュニティとしてのギルドは、アトラスでは【クラン】と呼ばれている。
最初に選べるギルドは傭兵ギルド、冒険者ギルド、生産者ギルドの三つ。
傭兵ギルドでは戦闘関連のクエストが多いらしいので、傭兵ギルドを選んだ。
アトラスにはレベルという概念は無く、ステータスとスキルによってキャラクターの性能を数値的に表現している。
キャラクターの力の強さや体力、器用さなどを表すステータス値はMMORPGでは馴染み深いシステムだ。
ノスフェラトゥの初期ステータス値は一律20。
更に任意で合計30のステータスポイントを各能力に割り振る事が出来る。
全種族中最も基本性能が低いヒューマンは初期ステータス一律10なので、ステータス的には優遇されている。
ステータスポイントはSTR、DEX、VITの三つが30になるように割り振ってある。
耐久力を上げて死ににくくし、力強い攻撃を確実に当てていく近接戦闘向きのステータス配分だ。
これはキャラクタークリエイト関連の情報が公開されてから考え抜いて決めた配分なので、この後に及んで迷う事は無い。
ページを捲ると、次のページはスキルリストになっており、多様なスキル名がリストアップされている。
アトラスは自分が取った行動に関連したスキルが上昇していくスキル制のMMORPGなので、スキルの組み合わせは重要だ。
初期スキルとして選んだ三つのスキルにそれぞれ30.0ポイントが割り振られる。
俺が選んだのは過去の経験から上げるのに苦労しそうな魔術と神術、そして生存率を上げるために危機探知。
ほとんどスキルの修行方法について情報の無い新作で、過去の経験がどれだけ役立つかはわからないが、仮に失敗してもスキル制なら後から変更も出来るので多少の出遅れに目を瞑れば問題無いだろう。
次のページを捲る。
白紙の見開きの上に再びウインドウが表示される。
【この本を閉じる事でキャラクター作成が完了し、規約に最終同意した事になります。問題が無ければ本を閉じてください】
表紙にかけた手が微かに期待で震える。
言われるがまま本を閉じると、ログインした瞬間と同じ、一瞬の意識の暗転。
『ようこそ、アトラスへ。神々に創られし終わり無き戦いの世界へ』
どこからともなく聞こえる声と、地に足が着いた感覚。
再び目を開けると、そこは無機質なエントランスレイヤーではなく、殺風景ではあるが生々しいリアリティを感じさせる荒野のど真ん中だった