合流地点となる広い十字路は、冒険者で溢れかえっていた。
シルバはその中に、自分のパーティーの面々が揃っている事を確かめた。
「やれやれ、どうやら俺達が一番最後だったみたいだな」
ノンビリと歩きながら、そんな事を呟くと、前を歩いていた新米パーティー『ハーフ・フーリガン』の面々が振り返った。
「ま、しょうがねーんじゃねえッスかね。せんせー、色々実験し過ぎッスよ」
「そうそう」
モヒカンやら髪を尖らせたのや、外見はチンピラっぽいが気のいい面々だ。
「いやぁ、新しい装備の意外な効果につい」
遅れた主な原因である、シルバは弁明した。
精霊を見極められる眼鏡と、魔力針の効果はまだまだ未知数だ。
それなりに研究が必要だろう。
そしてもう一つ。
「あとアルフレードは、言った事忘れないように。回復と防御の出し所さえ間違えなければ、滅多に死ぬ事はないんだから」
ヘロヘロになっている、ハーフ・フーリガンの回復役に、シルバは告げた。
「うう、先生は鬼教官です」
ポーションを口にくわえたまま、スキンヘッドのアルフレードは泣き言を呟いた。今回の探索で、一番シルバの叱咤を受けたのは彼である。
「本当の鬼なら、魔力ポーション渡したりしないと思う」
「五臓六腑に染み渡るッス~」
はふぅ……と息を漏らすアルフレード。
ちなみに今回の探索で彼は、やや威力は弱いものの『鉄壁』を身につける事が出来た。
ゴールに辿り着くと、ハーフ・フーリガンの面々は他のパーティーから拍手で迎えられた。
「それで結局順位は?」
各パーティーが交流する中、シルバは待っていたキキョウに訊ねた。
「一位がカナリーの『アンクル・ファーム』。二位が某の『プラス・ロウ』。三位がヒイロの『フェアリーズ』。四位タイランの『フィフス・フラワーズ』。五位がリフの『ツーカ雑貨商隊』となった。シルバ殿の『ハーフ・フーリガン』は残念ながら、最後だな」
「ま、それはしょうがない。カナリーとキキョウは僅差だったって?」
「うむ。互いに最短距離を突き進んだが、回復する時間の差で、某達は後れを取ったようだ」
「どっちも特攻タイプだったからなぁ」
パーティーを選別したのは、シルバだ。
どちらも似たパーティーだったが、魔力消耗の大きい方を、回復を今回の強化テーマにしたカナリーに振ったのだ。
「最後はアンクル・ファームのアポロと某がタッチの差であった。実に惜しかった……」
無念、とキキョウは肩をすくめる。
とはいえ、それほど落ち込んでいないのは、尻尾を見れば大体分かるのである。
何より、最大の危機は脱したのだから、お互いホッとしていると言ってもいい。
「……ほら、ヒイロの一位を阻止出来たからよしとしようや」
「……であるな。何せ、某達のパーティーの一位は、今晩の夕飯が他面子の奢りであるからして」
つまり今晩誰がタダ飯を食うかという、実におそろしい、賭けだったのだ。
そしてこうした食欲が関わるイベントとなると、最大の敵はヒイロだった。幸い、今回はカナリーが一位を取ってくれたので、それはなくなったが。
「ま、カナリーなら、それなりに自重してくれるだろう」
高い料理ばかり注文する可能性も考えたが、カナリーの事だ。タダだからと言って、無茶な注文をするような真似はしないだろうと、高をくくっている。
「……って、そういえばずいぶんと大人しいけど、どうしたんだアイツ?」
「む、それがだな」
キキョウの向いた方に、シルバの視線をやった。
「ふはぁ……うぃ~……ひっく」
木箱を並べた簡易ベッドに、カナリーは横たわっていた。傍に控えて見守っているのはタイランだ。
赤らんだ頬に、時折漏れるしゃっくり。
まるっきり、酔っ払いの体であった。
「……赤ワインの飲み過ぎか?」
「否。冒険の途中で酒に酔うほど、間抜けではないはずなのだが……」
シルバは、カナリーに近付いた。
「大丈夫か、カナリー」
「……何だと」
カナリーはシルバを見上げ、訝しげに眉をひそめた。
「あ?」
「……シルバ。君はいつの間に幻術を使えるようになった。そうか、キキョウに教わったのだな。で、どれが本物なんだい?」
「分身の術を使った憶えはないぞ。それはお前の目の錯覚だ。っつーかどうしたんだよ、カナリー?」
「あー……うん。タイラン、お水を頼むよ」
「は、はい」
カナリーは身を起こすと、タイランからグラスを受け取った。
水を軽く口に含み、木箱に腰掛ける。
「ふぅ……まあ、つまり新しく身につけた生命吸収なんだがね」
「うん」
「これはすなわち……吸血鬼の特性を強めたモノだ。吸精の類はね、基本的に与える方も受ける方も快楽が伴う。それはそうだ。基本的にそれは甘美なモノなのだから。吸血鬼個々人によって、それは性的快楽の場合もある」
「性……っ!?」
ぼんっ、とキキョウの顔が赤くなった。
しかし、カナリーはそれには構わない。
「僕の吸精は……さて、どうやら、酩酊効果があったらしい」
「つまり、アルコール摂取みたいなもんか」
「うん。自覚するまでちょっと時間が掛かったがねぇ……そして気付いた時には手遅れだった。ところでリフに枝豆を用意してもらえるように言ってもらないだろうか」
そのリフはというと何か買うつもりなのか、ツーカ雑貨商隊の商品をヒイロと一緒に眺めている真っ最中だ。
「却下だ却下。つー事は、お前が考えてた強化案は、使い物にならないって事か?」
シルバの問いに、カナリーは首を振った。
「いやぁ、量次第って所かな。言っただろう、酒と一緒だって。使いすぎなければ大丈夫」
「使いすぎたら?」
「ふむ……まずろれつが回らなくなるから、詠唱の長い呪文から使えなくなる。集中力が乱れるので、命中率が落ちる。精神面での乱れが大きいので威力も下がるか」
「おいおいおいおいおい」
「だからやり過ぎればの話を言っているのさ。消耗した時に適度に利用する程度なら問題はない……ただ、無茶をすると」
「倒れるか」
「……まあ、そうなるな。シルバ、鍼の技術を身につけるなら酔い冷ましのツボを憶えてくれないか」
「……真っ先に憶えとくよ。おい、立っても大丈夫なのか?」
「ずっと座ってもいられないだろう」
言ってカナリーは立ち上がるが、足取りはかなりおぼつかない。
「おっとっと」
「お、おい……」
たたらを踏んだカナリーを、シルバは慌てて支えた。
むにゅ。
「……うん?」
手の平に、何だか妙に柔らかい感触が伝わった。
「こりゃ失礼」
だが、カナリー自身はそれには気付かなかったようだ。
まだ頬を赤らめたまま、軽く頭を振ってカナリーはシルバから離れる。
「というか、歩けるかカナリー。タイランに運んでもらった方がよいのではないか?」
心配そうなキキョウの忠告に、カナリーは頷いた。
「そうみたいだね。タイラン、頼むよ」
「あ、は、はい」
ふわふわと浮いたカナリーが、タイランの背中に乗った。
一方シルバは、自分の手をワキワキさせていた。
その様子に、キキョウが目を瞬かせていた。
「どうした、シルバ殿?」
「……えっと、いや」
シルバとしては、何とも答えようがない。
「むにゅ、って……おい」
手に伝わった感触はまだ、シルバの手の中に残ったままだった。
合同演習終了後、シルバ達は揃って大きな酒場に入った。
新米パーティー達がいつも集まる酒場の名前を『ジュークボックス』という。
そしてどういう話の流れからか「やっぱりビリのパーティーにも何かペナルティが欲しい」という事になり……。
熱気の漂う厨房。
エプロンを着けたシルバは、深いフライパンで何人前ものピラフを強火で掻き回していた。
「『ツーカ雑貨商隊』で焼き鳥盛り合わせと枝豆を二つずつ、シーフードサラダ一つ、麦酒一つに麦茶一つ。『フィフス・フェアリーズ』でピーチサワーとグレープフルーツジュース。『アンクル・ファーム』が焼き肉三人前。んで『守護神』が同じく焼き肉と野菜炒めをそれぞれ五人前――って食い過ぎだろヒイロ!?」
手を休めないまま、精神共有で各パーティー単位での注文を読み上げていく。
「あ、あとアイアンオックスのステーキも五枚と赤ワインのいいとこ二本も追加」
これは、カナリーの注文だ。
酒場の広さに比例して、この厨房もかなり巨大だ。
そして料理人やウェイトレスもひっきりなしに行き来を繰り返す。
「……便利なモンねー、精神共有って」
『ジュークボックス』の店主にして、休日限定パーティー『魔食倶楽部』のメンバーでもあるタキ・ヨロノが感心した声を上げる。
二十代前半の、頭にバンダナを巻いた女性だ。
料理人も兼ねていて、シルバと同じエプロンを腰に巻いている。
「どういたしまして。あいよ、餡かけ卵包みシーフードピラフ出来ました。持ってって!」
汗だくになったシルバが、大きな皿に盛った料理をでん、とカウンターに置く。
「っさー、せんせー!」
「ってきやっす!」
モヒカンやら頭の尖ったウェイター達が、料理を手に各テーブルへと渡っていった。
額の汗を腕で拭い、振り返る。
「に。ふらいどぽてと、出来た」
蝶ネクタイを着けたリフが、ポテトを持った皿を掲げていた。
「ってリフは別に食べてていいんだけど?」
「に……お兄のおてつだい、する。食べるのいっしょ」
タキは苦笑し、シルバに向かって肩を竦めて見せた。
「まあ、そろそろ落ち着いてきたからいいんじゃない? あ、でもリフちゃん、枝豆だけ追加頼める?」
「にぃ……まかせて」
肉料理と野菜炒めをトレイに載せ、シルバとリフは自分達のテーブルに向かう。
リフは、自分が持つ大根サラダに、手をかざしていた。
「おいしくなあれ」
「……効くのか、それ?」
「すごく、きく」
リフはサラダをシルバに突き出した。
「食べてみると、わかる」
シルバは、大根スティックを一本つまんでみた。
一口囓り、軽く目を見開く。
「……霊獣すげえ」
テーブルの主役は案の定、ヒイロだった。
肉の盛られた鉄板の左右には、相当枚数の鉄板が積まれている。
「先輩、リフっちおかえりー」
「うーす。つかお前の注文が一番多かったぞヒイロ」
「そりゃもう運動したからねー。うん、ソースもおいしー♪」
パンで鉄板のソースを拭い、口に放り込む。
「シューズの具合はどうよ。カナリーは重さ気にしてたみたいだけど」
シルバの質問に、ヒイロはひょいとブーツを脱いだ素足を持ち上げた。
「ボクにしてみれば、それほど気になる重量じゃないし、問題ないない。それに重さがあるって事は、威力もあるって事だしねぇ」
どうやら心配はないらしい。
ウェイトレスが空いた皿を回収し、やや空白の出来たテーブルにシルバとリフは新たな料理を載せた。
「リフの方も、無事に済んだようで何より」
「にぃ……お給料もらった」
『ツーカ雑貨商隊』は、探索の報酬山分けとは別に、給与の支給もあったらしい。
「大事に使えよ」
「に」
もちろん、とリフは頷いた。
席に座ると、横には憮然としたキキョウが座っていた。
「……シルバ殿。某も、仕事を手伝わせてくれてもよかったのではないか」
リフだけずるい、と暗に言っているキキョウであった。
「だからそれじゃ罰ゲームにならないっつーの。大体お前が注文取りに行ってみろ。伝票が束になっても足りなくなるぞ」
「むぅ……難儀な話だ。あ、この料理はシルバ殿の分だ」
キキョウが差し出した鉄板とスープの皿を受け取る。
「悪い」
水を口に含み、背もたれに身体を預けると、ドッと疲れが押し寄せてくる。
キキョウは、リフにも丸皿を差し出す。
「リフの分もあるぞ」
薄い魚のスライスが、花弁のように並べられていた。
「生魚……?」
「刺身だ。これをつけて食べるがよい」
「にぃ」
勧められるまま、リフは魚を一切れ黒いソースをつけて食べてみる。
ピン、とリフの尻尾が立った。
「……おいしい」
そこからはもう止まらなかった。
そんなリフの様子を尻目に、席の中央にいるヒイロの隣に視線を向ける。
大人しいタイランは、樽ジョッキの中身をストローで啜っていた。
「タイラン飲んでるか?」
「あ、は、はい。水蜜水、美味しいです……それよりも……」
さらにその隣、一番端で黙々と、カナリーは肉料理と赤ワインを口に運んでいた。
動き自体は優雅だが、その量はヒイロに匹敵していた。
「……その量は大丈夫なのか、カナリー?」
「うん? ああ、問題ない。ワインなんてのは元々水も同然でね。強烈に酔う事はあまりないんだ」
「そっちもだけど、飯の方。どんだけ肉食うんだ、お前は」
熱を放つステーキは、ナイフで切ると中から肉汁と血が滴っていた。
「……うん、今日の僕はいくらでも入るね」
「つまり、ボクと勝負って事かな☆」
「張り合うな、ヒイロ。お前らは、パーティーの財産を破産させる気か」
ふ、とカナリーは小さく笑った。
「心配しなくても、自重はするよ。いくらタダとはいえ、食欲のまま進めると、実際洒落にならない事になりそうだし」
「実際、酔いの方はどうなんだ? 吸精の副作用の方だけど」
「そっちは収まった。ある程度時間をおけば、何とかなるみたいだ」
「そうか」
シルバはパンを食べ、空になった手を見た。
そして、カナリーを見る。
聞くべきかどうするか。
さすがに状況的に、今は厳しいだろうが……。
「何だい、シルバ。人の顔をジッと見て」
「……いや、何でもない」
ま、本人が言わないなら別にそれでもいいか、と思うシルバだった。
「……むむ?」
そんなシルバの様子に、キキョウは何となく尻尾を揺らしていた。
宴が終わり、シルバは自分の部屋に戻った。
ベッドに横になると、疲れのせいか、そのまますぐに睡魔が押し寄せてきた。
……だから、何となく目が醒めたのが何時頃なのかはよく分からない。
ただ、確実に閉めたはずの窓が開き、風が入ってきていた。
「…………」
はて、前にもこんな事があったような気がする。
そんな風に考えながら目を開くと、月を背に窓枠に腰掛ける金髪の吸血鬼が一人。
「やあ、シルバ。こんばんは」
カナリーの瞳がやたら、紅く輝いていた。
「……深夜に吸血鬼の来訪とはまた、定番だな、おい」
ベッドに横たわったまま、シルバはカナリーを見上げた。
「ただし、この場合絵になるのは、俺の立ち位置が美女じゃないと様にならないんだが」「それは的確じゃないな。吸血鬼が女性の場合は、相手は美青年さ」
「……それなら尚更、俺じゃ役者不足なんじゃないか?」
「残念な事に、他に役者がいない」
「出演依頼を受けた記憶もないんだが……あと、この金縛りを説いてもらえると、大変助かる」
おそらく、カナリーの瞳を見てしまったせいだろう。シルバは、指一本も動けないでいた。
「でも、この金縛りを解いたら君、逃げるだろ?」
「うん、逃げるなぁ」
「じゃあ駄目だね」
カナリーは足を組んだまま、妖艶に笑った。
「せめて、理由の説明を」
嫌な汗が流れるのを自覚しながら、シルバはカナリーに要求する。回復の術を使って撃退……もこの状況では無理そうだ。
「いいとも。吸精の副作用その2さ。吸血行為の根源を探れば、これは渇望に到る。つまり吸精っていう吸血鬼の特性を利用する事により、渇きの衝動に襲われるんだ」
言われてみれば……と、シルバは酒場でのカナリーを思い出す。
ワインの量も然る事ながら、食事の量も相当なモノだった。アレは食欲ではなく、むしろ……肉から滴る動物の血液が目的だったのではないか。
シルバの心を見抜いたように、カナリーは頷いた。
「そう。水、トマトジュース、赤ワイン、動物の血……そういったモノで、ある程度の渇きを満たす事は出来る」
「……が、今回は足りなかった、と」
「そういう事だね」
さて、とカナリーはふわりと身体を浮かせ、重力を感じさせない動きで、シルバのベッドの脇に回り込んだ。
「……もう一つ」
シルバは視線だけ動かし、カナリーを見る。
「時間稼ぎなら無駄だよ。精神共有で、キキョウ辺りに助けを求めようとしても、さすがに遠い。初めて会った時のように、都合よく登場という訳にはいかないだろうね」
「……だったら質問タイム延長でも問題はないだろ。えーとつまりあれだ。お前に噛まれたら、俺はどうなるんだっけ? 吸血鬼に噛まれたモノは、その眷属になる……というか、下僕になるんでよかったか?」
「さすが、聖職者。それで合ってるよ」
「……普段のお前なら、絶対そんな事しないよな」
「そうだね。しかし今の私は正気じゃない。例えキキョウやリフを敵に回しても……君の血が欲しい。君を僕の下僕に堕としたい。その衝動の方が上回っている」
早口で、カナリーが言う。
シルバとしては、予想通り、といった所だ。
微笑んでこそいるモノの、カナリーの余裕は実はあまりない。
何故なら、これはカナリーの本意ではないからだ。
ただ、血への渇望に突き動かされ、こうした暴挙に出ているのだろう。
「その後どうする」
「知った事か。きっと後悔するだろうが、それでも今の私は……もういいだろう? せめて逃げる時間は確保したいんだ」
カナリーの細い指が、シルバの寝間着をはだけ、首筋をむき出しにする。
その状態のまま、シルバはカナリーを見据えた。
「……心配しなくても、キキョウは呼んでない」
「他の仲間かい」
「いいや、今日はみんな疲れてるんで、ゆっくり休んでもらいたいんだ。それに、お前をどうにかするのぐらい、俺一人で充分だしな」
「身体も動かせず、何をするって言うんだ、シルバ」
「は……っ」
シルバは小さく笑った。
「俺と目を合わせたのは失敗だったな、カナリー……っ!」
精神共有のバリエーション――精神同調。
本来は、対象の五感に同調して、感覚を共有する術だ。
シルバはその術を用いて、自分の意識そのモノをカナリーの意識に思いっきり叩き付けた。
「くぁっ……!?」
意識そのモノにダメージを食らい、カナリーの身体が大きく仰け反った。
視界が、自分のモノとカナリーの視界を交互の行き来し、悪酔いに似た感覚を引き起こす。
血に飢えた吸血鬼の意識に抑圧されていた、本来のカナリーの意識が浮上するのを感じ、シルバはようやく精神同調を解いた。
「……正気に返ったか、カナリー?」
金縛りは既に解けていたが、頭がクラクラする。
一方、カナリーもその場にへたり込んだまま、頭を振っていた。
「す、すまない、シルバ……助かった……」
「……まあ、お前自身が抵抗してたから、何とか間に合ったって所だけどな。完全に衝動に負けてたら、俺は寝てる最中に、もう噛まれてただろうし」
ようやく頭痛も治まり、シルバは軽く息を吐いた。
身体を起こし、ベッドサイドスタンドの明かりを付ける。
部屋が明るくなった。
「つーか……何で、俺。他にも男なら、幾らでもいるだろうに」
「あの状況を覆せる人間の心当たりが他にいなかった。何より……」
カナリーは手近にあった丸椅子を引き寄せると、おぼつかない足取りで立ち上がり、それに腰掛けた。
そして、重い溜め息をつく。
「……同性のメンバーの血を吸う嗜好は、持ち合わせていないんでね」
「……敢えて追求しないぞ、その発言の真意」
何となく察してはいる、シルバであった。
「それと、これからどうするかだな。何しろ一時的に正気に戻ったとはいえ、渇望自体はまだあるんだろう?」
「ああ」
つまり現状は、改善されたとは言い難い。いつまた、カナリーの中にいる吸血鬼の本性がもたげてくるか、分からないのだ。
「赤ワイン程度では、足りないと」
「足りてたら、こんな夜這いみたいなはしたない真似、するものか……すまない、反省している」
「かと言って噛まれると、俺までお前の眷属になっちまう。そして俺は、お前の下僕になるつもりはない」
「当然だな。少なくとも僕もそれは望んでいない」
「ならどうするかってーと……」
シルバは少し考えたが、手は一つしかなかった。
「やっぱこれしかないか」
そして、自分の親指の皮を噛み切った。
「……!? お、おい、シルバ……」
動揺するカナリーに、シルバは血の滴る指先を突き出した。
「吸えよ。それで、飢えは癒されるんだろ」
「し、しかし」
「……吸われるだけなら、吸血鬼にはならない。これでも聖職者の端くれで、対吸血鬼の知識ぐらい多少はある。噛まれなきゃ大丈夫……のはずだよな?」
「そ、そうだけど……」
「今のお前なら、噛まないように吸えるだろ?」
手首を切って、コップに血を満たすという手も考えたのだが、おそらくそれだと血としての効果が『薄い』。
この場合、血とは生命力を意味し、ダイレクトに吸わなければ意味がないのだ。
「あと、もう一つだけ、回避方法があるのも知ってるけど、常識で考えてアレは駄目だろ」
逆に、シルバがカナリーの血を吸う、という方法だ。
こちらは、噛む必要はない。
ただし、吸血鬼が人間に血を吸わせるという行為は、吸血鬼の魂そのモノを吸わせた人間に服従させる事を意味していた。また、吸血貴族の間では、屈辱的な行為とも見なされている。
カナリーは、真っ赤になって首を振った。
「……っ! た、確かに……アレは。しかし、本当に、い、いいのか? もらうぞ、お前の血……?」
「何を今更。いいからさっさと吸え、ほら」
「あ、ああ」
おそるおそるカナリーは指先に顔を寄せ、舌先で軽く血を舐め取った。
その途端、口元を手で押さえ、どことなく恍惚とした風情で身を震わせた。
「……何という」
「うん?」
まだ、シルバの指先からは血が流れている。当然、少し舐めた程度でカナリーの衝動が収まるとも思ってなかったので、そのまま待つ事にした。
「……と、時にシルバ、先に謝っておく。やり過ぎたらすまない」
やや興奮気味に、カナリーが言う。
「お、おそろしい事言うなよ、おい……!?」
「何しろ……その……人間の男の血を吸うのは、初めてなのでね……加減する自信が少々、心もとないというか……」
軽く息を荒げつつ、カナリーはシルバの指先を口に含んだ。
「お、お前このギリギリになってそんな爆弾発言するなー……っ!?」
指の先から緩やかに精気を吸い上げられる心地よい感覚を覚えながら、シルバは絶叫した。
ちなみに、一般的な吸血鬼が成人となる通過儀礼が人間の血を吸う事だという事も、シルバは知っていたりする。
カナリーの背後の影から現れた赤と青の従者二人が、無表情のまま、パチパチと拍手をしていた。
液体を舐め啜る音が寝室に奏でられ始めて数十分……。
「……カ、カナリー……そろそろ、ストップ……」
さすがに、シルバにも精神に限界が来た。
「ん、ふぁ……?」
初めての血液を蕩けるような表情で啜り続けていたカナリーが、ようやく唇を指先から離す。
そのお陰で、ようやくシルバも、まともな思考が戻りつつあった。
カナリーの舌使いはおそろしく絶妙で、舌が這い回る度に何とも得体の知れない快感が、シルバを何度も虜にしかけていたのだ。自分の指で、カナリーの口内を隅々まで犯したい衝動を堪えるのに、シルバは精神力のことごとくを使い果たしていた。
「さ、さすがに……三十分は……ちょっと……」
ベッドに腰掛けてはいたモノの、シルバはすっかり腰砕けになっていた。
後ろに倒れ、ベッドに大の字になる。
「だ、大丈夫、シルバ!? しまったやり過ぎた。こ、ここは、エナジーを……」
「……ってそれやったら本末転倒だろうが。少ししたら回復するから、待て……」
それから五分後。
「あーもー……」
ようやく、シルバも起き上がり、落ち着いて話をする事が出来るようになった。
「ご、ごめん。初めてなモノで、加減が分からなくて……」
「ずいぶんとしおらしいじゃないか。え、カナリー・ホルスティン?」
敢えて意地悪な口調で言うと、カナリーは真っ赤になって俯いた。
「か、からかうな」
「ふぅ……大分楽になった。ったく、あんまり気持ちよすぎて、危うく押し倒す所だったじゃないか」
「……僕としては、そうされても文句の言えないことをしている訳だから、そういう事になったら受け入れるしかないな」
髪を弄りながら、カナリーはとんでもない事を言う。
「こらこら。そうなる前に、お前が止めろ」
冗談めかして言ったが、かなり危ない所だったのだ。
大きく息を吐き、話題を転じる事にする。
「……事のついでだし、何で男装してるのかも聞いておこうか」
「そうだね、シルバには聞く権利があると思う」
どうやら、カナリーもホッとしたようだ。
「といっても家に関わる人間以外から見れば、大した話じゃない。ホルスティンの家督の問題さ」
「跡継ぎが、お前しかいないってか」
「いや、いる。ただ、弟は幼すぎるんだ。ウチは男子直系でね。アレが大きくなるまでは、僕が男の跡継ぎとして、頑張らなくちゃいけない」
「何だ、悪い叔父とかが乗っ取ろうとか企んでるのか?」
「近いね。強いて言えば、父の愛人とその息子かな。コイツがまた、女好きのろくでなしだし……まあ、他にも候補はいるんだけど、酷いモンだ。学生の間はまだ、しばらく好きな時間がもらえているって所だけど……そんな訳で、性別は隠す必要があったのさ」
「なるほどな……」
「みんなには、話すかい?」
カナリーに問われ、シルバは頭を掻いた。
「んー、それも含むんだけど、吸血の件もなー」
「うん」
「カナリー。お前はどう思う?」
シルバが逆に問い返すと、カナリーは両手の指を何度も組み直しながら答えた。
「……そりゃ……まあ……話した方がいいな。バレた時の信頼にも関わるし、キキョウ達なら多分、その、大丈夫だと思うし」
「うーん」
カナリーの様子を見て、シルバは決めた。
「俺は黙ってようと思う」
「え?」
カナリーには、意外だったらしい。
「お前の言ってる事は正論だけど、やっぱり不安だろ? みんなはお前が吸血鬼だって知ってるけど、直に血を吸ってる所を見た訳じゃない。それを見られた時のリアクションは、想像に頼るしかない」
そして、とシルバは天井を見上げた。
「あまりいい想像は出来ないってトコだ」
「そ、そりゃまあ」
「物事にはタイミングってモンがあるし、俺にバレたからって他のメンバーにも即話すってのは拙速ってモンだろ。俺が話さなきゃ、今晩の事はバレてない」
「で、でも……みんなに秘密というのは……」
カナリーが弱気に躊躇う。
何だかキャラが違うなーとシルバは思ったが、これはこれでカナリーの一面なのか。
か弱い風のカナリーに、シルバは再び意地悪な笑みを浮かべた。
「ん? なーに、言ってんだ今更。性別ずっと隠してたくせに」
「う……そ、それはそうだけど……ここで黙るっていう事は、シルバ、君も巻き込むという事だぞ。もしバレたら、それこそみんなの信用が……」
「みんなの信用も大事だけど、お前の事も大事なんだって」
「え……」
反射的にシルバは答えたのだが、カナリーの白磁のような顔が見る見るうちに真っ赤になった。
「うん?」
自分の発言を反芻し、シルバは慌てて両手を振った。
「い、いや、ちょっと待て。勘違いするなよ? 仲間としてだぞ!? 後ろの従者二人、拍手するんじゃないっ!?」
シルバは、カナリーに頼んで、赤と青の二人を影の中に引っ込めさせた。
二人揃って落ち着いてから話を再開する。
「そ、そもそもバレるバレないは、俺は大丈夫だと踏んでるんだよ。その時は、黙ってた理由まで正直にみんなに話すまでだ。多分、それで済む。だけど、それまでは、俺は沈黙を守ろうと思うって話だよ」
シルバは指を組み、カナリーの紅い瞳を見据えた。
「言い方を変えよう。正直この件、みんなに話したいと思うか?」
「……話さなきゃいけない事だと思う」
カナリーの目は、不安に揺れていた。
「でも……本音を言えば、まだ、覚悟は中途半端だね。黙っていてくれるのなら、助かる」
「じゃあ、そういう事で」
結論は出た、とシルバは両手をパンと叩いた。
「……しかし、心底意外だ。君の性格から考えると、絶対仲間に隠し事はよくないって言うと思った」
「そりゃもっともだけど、俺の仕事は仲間を守る事。お前個人だって、例外じゃないんだぞ」
さっきの勘違されかけた発言を、シルバはもう一度言い直した。
そして、拳を突き出す。
「それに俺は司祭だ。守秘義務があるし。ま、しばらくは共犯者って事で一つよろしく」
「……分かった。こちらこそよろしく頼む」
カナリーは軽く微笑むと、シルバの拳に自分の拳をコツンとぶつけた。
その手を開くと、シルバの拳を包み込み、俯いた。
「時々……その、また血の世話になると思う」
耳まで真っ赤にしながら言うカナリーに、シルバは何となく明後日の方向を向いた。
「やり過ぎんなよ」
それからシルバは教会での朝の務めもあり、カナリーと一緒にアパートを出た。
「あれ、二人揃って朝帰り?」
「「なぁ……っ!?」」
いきなり、狩りに出掛けるヒイロと出くわし、絶句する二人であった。
数時間後、キキョウの詰問に追い詰められるのはまた、別のお話。