「聞こえとりますぇ」
不意に、そんな声が後ろから掛かった。
「うわぁっ!?」
「に!?」
二人が跳び退り、振り返ると、いつの間にかそこには黒眼鏡の青年、キムリック・ウェルズが回り込んでいた。
ほんの一瞬目を離しただけでこの距離を詰める速さ、そして何より動く気配がカケラほどもなかった事に、リフは寒気を覚える。
横に並ぶヒイロも青ざめているところを見ると、同じ心境のようだ。
一方、二人を驚かせたキムリックは、ゆったりとした両袖に手を突っ込んだまま、口元に笑みを浮かべている。
「おっとっと、そない慌てんでも。お久しゅうですな、猫はん。えらい美人さんにならはりましたなぁ」
「にぅ……ほめられてもうれしくない」
いつでも攻撃出来るように、リフは足に力を込める。
魔法の類の無効化の効果がまだ続いているのだろう、精霊砲はまだ使えない。
「えらい警戒されとりますなぁ……心配せんでも、今回はマタツアとか持ってまへんて」
キムリックは愉快そうに笑いながら、ぽいっと小さな実のようなモノを投げつけてきた。
それが何か見極めるより速く、ヒイロが骨剣を振るった。
「言いながら、サラッと投げるなぁっ!!」
「ふむぅ、魔法が使われへんのは案外不便どすな。まあ、ええです」
剣風で吹き飛ばされたマタツアの実に、キムリックは残念そうに眉を下げた。
小さく首を振ると、リフ達の背後、浮遊車を修理しているラグドール・ベイカーに声を掛ける。
「ラグはん、ここはしばしウチが足止めしときますさかいに、そちらは作業を終わらせとくんなはれ」
「最初からそのつもりだ」
「あらら」
仲間の連れない返事に、キムリックは肩を竦める。
リフ達も振り返って、ラグドールを攻撃すればいいのだが、理屈で分かっていても、現実にはそれが難しい。
目の前の敵は、少し目を離すとそれが致命傷に繋がりかねない危険な相手だ。
何が恐ろしいと言って、これだけ至近距離にも関わらず、このキムリック・ウェルズという男、ほとんど気配を感じないのだ。
「2対1でやり合う気?」
骨剣を構えたまま、ヒイロが言う。
「はいな。ええ、足止めぐらいなら、まあ、何とかなるかと思いますわ」
キムリックは、腰の後ろに差していた二本の儀式用短剣を引き抜いた。
「言ったな!」
「にぅ……」
ヒイロは勇猛に、リフはいささか警戒心を強めて、キムリックに立ち向かう。
――そしてその攻撃のことごとくが、当たらない。
ヒイロの骨剣はまず、振ろうとする挙動の時点から察知されているのか、攻撃の軌道を完全に見切られている。
その隙間を縫うように出されるリフの手刀や蹴りも、いいところまでは届くが、それでもせいぜい相手の着物を裂く程度が限界だ。
むしろ、相手の反撃を避けるのに集中してしまい、自然リフの手数は減ってしまう。
それも見切っているのか、キムリックは余裕の笑みを崩さないまま、のらりくらりと二人の攻撃を避け続ける。
そしてこの、敵の攻撃も気配……というか殺気が感じられず、回避に苦労する。
殺気がないと言っても、首筋や手首を狙うそれは、食らえば間違いなく重傷を負うだろう。感じないだけで、存在しない訳ではないのだ。
数合の打ち合いの後、二人はキムリックから距離を取った。
(どしたの、リフちゃん。何か変だよ?)
ヒイロに囁かれ、リフは額の汗を拭った。
帽子はとっくに脱ぎ、頭からピンと飛び出た毛――ヒゲの鋭敏な感度は相当に高められている。
それでも駄目なのだ。
相手の気配が、希薄すぎる。
まるで煙か幽霊を相手にしているようだった。
(に……変なのは、相手の方。すごく変。やりにくい)
(言われてみれば……でも何で?)
(それが分からない……)
ヒイロに怯えが見えないのは、良くも悪くも{単純/シンプル}だからだろう。
気配云々ではなく、今のヒイロはとにかく見える攻撃は避け、相手を叩きのめす事だけを考えている。
だから、他の余計な事を考えずに済んでいる。
骨剣が当たるかどうかは別にして、それがリフには羨ましかった。
(見極めましょうか?)
不意に、そんな声が身体の中から軽い振動と共に響いた。
(!?)
誰、と一瞬考えるが、思い出した。
口の中に入れていた三魔獣の欠片、粘体となっているヤパンだ。
(私達にこの地に踏み入る者を『排除』するよう命令を送っていた『声』が聞こえなくなりましたし、もしかすると自由になれるチャンスかもしれませんから。……ここで、貴方達に恩を売っておくのも悪くないと思いまして)
(に……おねがい。リフ達、あの相手をするのでいっぱいいっぱい)
ヤパンとの信頼関係が築けている訳ではない。
が、それでもリフは信じる事にした。
というか、そうしないと、キムリック相手に勝ち目がなさそうなのだ。
(承知しました。少々時間が掛かるかもしれませんがやってみましょう……それから私の事はまだ、伏せておいた方がいいでしょうね。切り札的に)
(に)
「ふふふ、ほな今度はウチから行きますえ」
そういうキムリックの身体が、いきなり大きくなった。
違う、一瞬にして数メルトの距離を詰めてきたのだ。
その双剣が、ヒイロの首筋に迫る。
「っ!?」
「ヒイロあぶない!」
目を見張り硬直したヒイロを突き飛ばし、そのままリフの両手がキムリックの二刀流を捌く。
キムリックは無理に攻めずに後ろにステップし、再び距離をとる。
「っとっとっと。ずいぶん速い」
「にぅ!」
一方リフはそのままキムリックを追い、爪を相手の胸元に振るう。
しかし当たったかと思われたその爪は、キムリックの残像を貫いただけだった。
「そない雑な攻撃、当たりまへんよ」
「にぃ……距離がつかめない」
リフも後退し、キムリックとの間は再び距離が開いた。
「リフちゃん、アイツ何か変。気持ち悪いよ」
「に、リフもさっきそう言った」
ヒイロの意見に、リフは頷く。
「えらい言われようどすなあ」
「何か、トリックがある」
「ほほう」
そして、その正体を突き止めないと、おそらくリフ達に勝機はない。
少し考え、リフは直接相手に聞く事にした。
「どんなトリック?」
「……それを、ウチが教えると思いますか?」
少し呆れられてしまった。
「だめもと」
「残念ながら――」
次の瞬間。
「――あきまへん!!」
再び、キムリックが二人の間合いに滑り込んできた。
「何で何で何で!? 何でこんなスルッと入られちゃうの!?」
ヒイロは骨剣の柄で、双剣の一本を弾く。
「それがウチの得意技やからどす」
だがもう一本の短剣が、ヒイロの左の二の腕を切り裂いた。
「くうっ!!」
顔をしかめるヒイロに、キムリックは微笑みを絶やさないまま、双剣を振るい続ける。
「だらしのおおますな。そないな事では、仇うてまへんよ?」
「仇?」
ダメージを追ったヒイロに代わり、リフが前に出た。
けれど、キムリックの口は止まらない。
「ほら、何て言いましたかいな、あの重甲冑の中の子。そうそうモンブラン、でしたっけ? 今頃、必死に手当てしてる最中どす。まあ原因はほれ、今修理中のアレに組み込んでる精霊炉に見覚えあらしまへんか?」
グルッとキムリックが回り込み、視界が入れ替わる。
キムリックの背後に、浮遊車に精霊炉を組み込んでいるラグドールの姿が見えた。
そしてその手には、精霊炉があった。
それが本当に、重甲冑に仕込まれていたモノなのかどうかはリフには分からない。
「まあ、この距離やと見えまへんやろけどね」
が、ヒイロには今の言葉で充分だったようだ。
「があっ!!」
『狂化』はしていないはずなのに、それに匹敵する強撃がリフの背後から放たれる。
「おおっと」
ニヤニヤと笑うキムリックの笑みは変わらない。
狙い通り、という事なのだろう。
(挑発です。止めて下さい)
内から響くヤパンの声も、敵の狙いに気付いたようだ。
「に! ヒイロだめ!」
けれど、ヒイロは止まらない。
そのまま突進し、キムリックに迫る。
鬼気迫るその攻めは猛攻ではあったが、その反面単調なパターンの攻撃でもあった。
「あきまへんなぁ。そない分かりやすい動きされたら、こっちもやりやすうてしゃあないですわ」
ひらりひらり、とキムリックはヒイロの荒れる太刀筋を見切り、手の中の短剣を瞬かせた。
その刃がヒイロの首筋に迫る。
リフが間に割って入ろうとしたが、それよりも速くヒイロの後頭部にキムリックの剣の柄が叩き込まれていた。
「が……!!」
その一撃で、ヒイロは気を失い倒れる。
「まずは一人」
ニヤニヤと笑うキムリックはふと、低い唸り声が鳴り響き始めているのに気がついたようだ。
彼の背後で、傾いていた浮遊車が起こされていた。
中に乗ったラグドールの手で、エンジンが始動されたようだ。
「どうやら、出発には間に合いそうどすなぁ」
手の中の二本の短剣を弄びながら、キムリックは呟いた。
リフは、口の中のヤパンに囁く。
(……まだ?)
(気配を感じない理由は大体掴めました。なるほど厄介ですね。まず臭いがありません)
(におい?)
(あなたも獣人なら、相手の気配を探るのに臭いが重要なのは分かると思います)
(に……)
言われてみれば、確かにそれは普段、リフが頼りにしているモノの一つだ。
無意識にそれがない事に気づき、相手に危険を感じていたのかもしれない。
だが、ヤパンの言葉はまだ続いていた。
(それよりも危険なのは)
(に、まだある?)
(はい。音ですね)
(おと……)
(……呼吸音や衣擦れ、足音も聞こえません。無音。単純ながら、恐ろしい能力です)
※ちなみにヒイロがキムリックにやられる場面で「あれ?」と思う人がいるかもしれませんが、間違ってません。