エビモスの森を、ブラウツェンベルグは『魔の森』、フェルシアは『迷いの森』、ローラッドでは『帰らずの森』と呼んで怖れている。
昼なおも暗く、月の光すら差さぬと言われている。磁石はきかず、星も見えない為に方向感覚を失い、遭難者が続出するのだ。
勿論それだけではない。この森には幻獣が未だ存在しているとも言われている。幻獣は伝説にせよ、危険な獣が多いことは確かだ。このあたりの森にはクマがいるし、ラプルという肉食のトカゲも生息しているのだ。
森を踏破した人間がゼロとは言わないが、十人中九人までが帰らないとまで言われている。
……逃げるためとはいえ、イシュラが森に踏み込んだのは、彼が十人中の残る一人……この森を踏破したことがある人間だったからだ。
ただし、それは装備をきちんと揃えた上でのこと。特に食料は二か月分も持つほどに念をいれていた。
それを考えると今の彼らの状況は絶望的と言えた。
(食料ゼロっつーのが最悪だよな)
このまま水と木の実だけしか口にすることが出来ない毎日が続くと、イシュラの体力もどこまでもつかわからない。
だが、不思議なくらいイシュラは焦っていなかったし、悲観もしていなかった。
(それも、これも姫さんがいるからだな……)
彼の背中にしがみつく少女の存在が、イシュラを救う。
「……イシュラ、うんがいいぞ、ほら」
「は?」
背負った少女が伸ばした指先には、この森に迷い込んだ人間の慣れの果て……白骨化した遺体が転がっている。それもニ体。互いに剣を突き刺しあっているところを見るとどうやら殺し合いをして相討ちになったらしい。
「……生憎、オレにゃあ『運が良い』の意味がわかりません、姫」
この三日で、イシュラの口調はすっかり素のものになってしまっていた。
リースレイがまったくそれを気にしないせいもあったが、何よりも、リースレイ自身がまったくもって規格外の姫君だったからだ。
「……のうまできんにくなのだな、イシュラは」
ほぉと口元を押さえて可愛らしく溜息をつく。扇でも手にしていれば完璧な貴族のご令嬢だ。
……いや、リースレイは確かに名門貴族の令嬢なのだが、いかんせん恐ろしいほど口と頭が回る。
イシュラは、最初の半日で絶対に口ではリースレイに勝てない事を思い知った。
(……オレは金輪際、子供が無邪気で可愛いものだなんて思わない)
リースレイは確かに規格外だ。いや、規格外でなくては困る。
だが、リースレイが『子供』に分類されるという時点で……リースレイのような規格外がごく稀に混じる事があるというだけでもう、イシュラは『子供』というものに夢が抱けない。
「……………………愚かなあなたの騎士に理由を教えていただけませんか、姫」
言っている事はまったく可愛くなかったので、殊更嫌みったらしい口調でイシュラは問う。いかにも騎士らしい丁寧な口調が嫌味に最適だということは、この三日で知ったことだ。イシュラの嫌味など、リースレイは鼻にもひっかけなかったが。
「しかたがない」
ふぅと幼子はいかにもどうしようもないというような諦めの溜息をついて口を開く。
「……あのしたいはみずぶくろをもっている。つるぎももっているな。ほかにもなにかやくにたつものをもっているかもしれぬ」
互いに突き刺しあっているのを持っていると言っていいかはわからないが、確かに剣はそこにある。
「……………遭難者の遺体から略奪かい…………」
およそ、深窓のご令嬢とは思えない大変斬新な発想だった。戦場で生きてきたイシュラだって言われるまで気付かなかった。
「ばかもの。ししゃにはもうひつようないものを、それをひつようとしているものがゆずってもらうだけだ」
おまえはまったくりかいしていないな、という眼差しでリースレイがイシュラを見下ろしているのがわかる。わかりたくないのにわかってしまう。
(…………ムカつくのに、可愛いと思ってしまうのが末期だな)
己の主だと思えば、何をやってもどんな小生意気な口をきいても可愛い。
生憎、彼は幼女趣味の変態ではなかったので、リースレイを女性として意識したり性的対象と考えることはまったくなかったが。
「よいか。このもりをぬけるのには、さいていでも7かはかかる。おまえにはわたしというおにもつがいるのだから、きっともっとかかるだろう。……そうびもなくもりをぬけられるとおもうのは、あますぎる。げんきょうは、おさきまっくらのじさつこういだ」
沢にそって歩いている今は良い。水にだけは不自由しない。
幸いなことに、リースレイは食べられる草木や木の実などをよく知っていて、かろうじて食べ物もどうにかなっている。だが、この先もずっとそうだとはいえない。
(あー、たどたどしいこの口調でよく口が回んな……)
イシュラは、思わず感心してしまう。
「いちばんひつようなのは、みずぶくろだな。あと、ひをおこすどうぐがあるといいな。たべものはなんとかなる。さいわいなことにふゆではないし……もりのめぐみにかんしゃするのだな」
「あー……姫さん、だいたい、なんでそんなに食える草だとか実だとかに詳しいんだ?それに野宿にも文句言わないし、こんな事態になっても泣き言一つ言わねーよな」
イシュラはリースレイを背中から下ろし、白骨の所持品の確認に入る。
「なきごとをいってどうにかなることなら、とっくにいってる」
「……確かにそうなんだけどよ」
だが、今の現況が、貴族として生まれ育った者にとってどれほど耐えがたいものであるかはイシュラは知っている。
この三日、口にしたのは木の実と水……それだけだ。普通の貴族ならそれが一食出ただけでまず確実にブチ切れる。それがもう三日間続いているのだ。
(死ぬ気もないのに、こんなことなら死んだほうがマシだとか言い出すんだよな……)
一時、部下に貴族のボンボンがたくさんいたイシュラはそれなりに貴族のことをよく知っているのだ。
リースレイは子供としても規格外だが、貴族としても規格外だ。
「貴族らしからぬっつーか……いや、姫さんは何からも規格外な感じなんだけどよ」
「……カンがいいな、イシュラ」
「なんだ?その、おや、意外に役に立ちそうな…みたいな言い草は。グレるぞ」
「やせいのほんのうとは、すばらしいものだ」
うんうん、とうなづく。
「おい、姫さん。オレはあんたの騎士になったんだぜ」
「わかっている。おまえはわたしをぜったいにうらぎらぬわたしのきしだ」
にっこりとリースレイは笑う。それはそれは満面の笑みで。
「……な、なんだよ、その自信」
そのことが嬉しく、同時に、あまりの照れくささにそっぽ向いた。残念なことに、イシュラがその笑みの裏にあるものを察するにはまだまだ経験が足りなかった。
イシュラは白骨の手にしていた剣をあらためるフリをしながら緩む頬をひきしめようと努力する。
「そうおおくをしるわけではない。……だが、ひとはせいしのさかいにおかれたときに、いちばんそのほんしつをあらわにするという。おまえは、じぶんがいきのこるためだけだったら、わたしなどみすてるべきだった。もしくは、わたしをてきにさしだすべきだった」
「そんなことする人間はクズだ」
「わかっている。おまえはしない。……そも、わたしが、そんなにんげんのつるぎをうけるわけがなかろう」
おまえの剣の腕は知らぬが、それなりに腕がたつことだって、おまえの身のこなしを見ていればわかる。とリースレイは続ける。
「……カンがよく、めもいい。からだもきたえている。おまえのきんにくのつきかたは、けんしとしてりそうてきだ。わたしはしらぬが、おまえはそうとうデキるきしのはずだ。ましてや、わたしをたくされたのだ。ひとりでも、てきのなかをとっぱするだけのうでがあったからだとみるのがだとうだ」
背筋がぞくりとした。
怖れとか畏れ……ではない。それは喜びなのだと気付いた。
「…………姫さん、あんた、ほんとにどこのお子様だよ」
あけっぴろげな性格のせいか、イシュラはかなり顔が広い。帝都の学者にも友人がいるし、その友人を通じて、一般的に頭が良いといわれる人間とも親しいつきあいがある。天才と呼ばれる政治家にだって会ったことがある。だが、そのイシュラでさえも、リースレイほど頭の回る……頭の良い人間を知らない……そう思える。
「わたしは、ふつうのこどもではないのだ」
仕える主が素晴らしいと思い知ることは、騎士の喜びだ。
それを、イシュラは初めて知る。
「あー、そんなの百も承知だから。……あんたが普通の子供だったら、オレはそこらじゅうの子供に怯えて生きなきゃなんねー」
「しつれいな」
むぅっと口を尖らせる。
天使のように愛らしい外見を持つ少女は、どんな表情をしても可愛い。思わず頬が緩みそうになる。
「……そうだな、おまえにはおしえてもいいかもしれない」
「何を?」
「……わたしは、リーフェルドはくしゃくれいじょうリースレイ=シェルディアナだ。それはおまえもしっているな?」
「勿論」
イシュラは、リースレイが何を言い出したのかわからなくて、側に立つ幼い少女を見上げた。
膝をついている彼と立っている彼女は目線がほぼ同じだ。むしろ、心持ちイシュラの方が高い位置にある。だが、心理的に言うのならば間違いなくリースレイの目線の方が上である。……そう。立っているイシュラよりも。
「わたしは、リースレイ=シェルディアナとしてうまれるいぜん、『シェスティリエ』というなのまどうしだったのだ」
「……………は?」
リースレイの告白がイシュラの脳に到達するまでにははいささかの時間を要した。
「おまえにわかりやすくいうのならば、『うまれかわり』というやつだ」
わたしのきしがそんなこともわからぬのか、なげかわしい、と、リースレイはためいきをつく。
「………………そんなことがあるのか?」
「あるのだ。わたしもはじめてたいけんして、いろいろときょうみぶかい」
うんうん、とリースレイはうなづく。
「リースレイのきおくもちゃんとあるぞ。もっとも、こどもの5ねんぶんのきおくなんてびびたるものだし、ぼんやりしているけどな……だが……」
「…………だが?」
イシュラは先を促す。
「……………………じょうさいでの……ははのさいごは、このめにやきついている」
固く結ばれた口元……その表情は、既に何かを決めた人間のものだ。
「姫……」
「ちちのさいごは、おまえがおしえてくれた。……わたしはふたりのことをぜったいにわすれないだろう」
「…………はい」
「シェスティリエは、すてごだった……だから、わたしにとって『おや』とよべるのはあのふたりだけだ。たとえ、いまのわたしのいしきが、めのまえでははをうしなったためによみがえったものだったとしても、わたしのなかには、たしかにかれらにあいされたきおくがあるのだ」
「……執政官は、オレにあんたと女房を救ってくれと頼んだんだ……命令じゃなかった」
『命令』でなく、『依頼』だったからイシュラはそれにうなづいた。
『ローラッドの左の死神』などという異名で呼ばれ、どれほどもてはやされたとしても、イシュラは所詮下っ端の騎士だ。貴族でない彼はただの使い捨ての駒でしかない。
そんな駒に、建国以来続く名門伯爵家の主である男が頭を下げたのだ。それに応えねば男ではない。
「ははうえは……さいしょ、わたしをころそうとしたのだ。ほのおのなかでやけしぬはあわれ。ましてや、てきにとらわれてもてあそばれるやもしれぬ、と。だが……ころせなかった。かのじょは、かみにいのった……どうか、むすめをたすけてください、と。だいしょうに、いのちをささげると……」
命を賭しての願いであった。と、リースレイは呟く。
「……わたしは……あのときのははのねがいでめざめたのかもしれぬな」
生まれ変わりというものがあることを、彼女は知っている。だが、記憶を取り戻すのは極めて稀なことであり、更には、その記憶が定着するのはもっと稀なことだった。
幼児の時は前世の記憶を持っていたとしても、だいたいの場合、それは日々増えていく現在の記憶に寝食されて消える。
リースレイのように過去の記憶をもったまま融合する例は聞いたことが無い。
(これは、わたしがまどうしであったこととむえんではないのだろうな……)
「まあ、このようなおさないからだでは、なかみがわたしであったとしても、かなりのうりょくがわりびかれる。わたしはちえを、おまえはたいりょくをふりしぼってともにがんばることにしよう」
さすればきっとみちはきりひらける、と小さな拳を握り締める姿に、イシュラは感動するべきか怒るべきか迷った。そして、曖昧な、ひきつった笑いを浮かべるしかなかった。
2009.09.01 更新
2009.09.02 修正
2009.09.03 修正
2009.09.22 修正