一時期は見なかった夢を何故か今日も見た。
夢の中の俺はやはりネットゲームをしていて、仲良くなったパラディンと旅に出ていた。
大きな教会が見たいと言ったそいつを長年連れ添った火龍の後ろに乗せて、低い高度でゆっくりと飛んでいく。
壮大な風景とモンスター、いつもの様にひっそりと存在するダンジョン。全てが見慣れた物だった。
それでもはしゃぐそいつに付き合っている内に、二人にとって特別になった場所が幾つも出来た。
それはこの世界に初めて来た時――目覚めてから思い出せば酷い皮肉だ――を鮮明に思い出させる感覚。
懐かしく、そして新鮮だった。
『ね、大聖堂ってさ。確か……その、結婚とかも、出来るようになってるんだよね……?』
はにかんで聞いて来たらしくないそいつに、知り合いの式に出る度に馬鹿騒ぎでデスペナがつくと笑って答えた。
その時はそれだけだった。
大聖堂に向かう理由が一つ増えるまでに――それほど長い時間はかからなかった。
「……どんな夢だよ……」
薄ぼんやりとした悪夢の記憶を振り払って身を起こすと既に日が昇っていた。
残念ながら腕時計はこちらにつけて来なかったが時刻ウインドウが表示できる。
午前6時50分。昨夜は早く寝たので十分に休んでいる。起きるなら丁度良い時間だろう。
僅かに残った眠気を耐性で脇に退け、ベッドを出て部屋内に視線を巡らせた。
隣のベッドには当然麻衣が居る。そして勿論眠っている。
もう眠っている麻衣の姿に特に感慨を覚えなくなってきていた。
付き合いだしてまだ一週間と経っていないのにこれはどうなんだろうか。
「麻衣、ほら、起きろ。朝だぞ」
「ん……ぅ……先輩……?」
軽く揺するとすぐに目覚めてくれた。
四人の中で比較的寝起きが悪いのは健一ぐらいでのもので、それでもすぐに起きてくれるので助かっている。
そう言えば杏里はどうなんだろうと一瞬考えた。もう起きているんだろうか。
しかしあの唐突なチャットメッセージで目覚めさせるのも不憫だ。そっとしておこう。
「おはよう、ございます……」
「おはよう。まだ早いけど風呂に行くなら今の内だ。しばらく野宿になるし、入っておかないか?」
「……そうですね……はい……はい、行きましょう」
大して時間もかからずしっかりと目が覚めたらしい。
言いながら少し恥ずかしそうに手櫛で髪を直している。見ると確かに幾らかほつれていた。
寝相が良いとは言っても流石に長さがある、仕方がないんだろう。
麻衣の物だろう、小さな櫛がテーブルに置かれているのが目に付く。
拾い上げて、ベッドの上で服を整える麻衣に歩み寄った。
「あ、ありがとうございます……先輩?」
「じっとしてててくれ」
受け取ろうとした麻衣の後ろに回り、長い黒髪に指を這わせる。俺の意図を察したのか麻衣は無言で両手を下ろした。
そっと頭を撫でた後、軽く手櫛を通していく。思ったよりも柔らかい。そして少し油分の感触がある。
一晩でこれなら道中お湯が使えないのは辛いだろう。帽子を被る意図もわかる。
ほつれた部分は無理をせずに少しだけほぐして、下からもう一度。
力を入れたつもりはないが数本の髪が指に絡んでいる。湿っていて、ほんのりと冷たい。
ふわりと長い髪が舞う。麻衣が身じろぎをする度に部屋の中に甘い匂いが広がるのを感じる。
簡単に済ませて櫛を手に、今度は最初から毛先に手を伸ばし、下から少しずつ櫛を入れていく。
長いからどうしても時間がかかるが、少しずつ登って行くそれが逆に楽しかった。
徐々に上に進み、ようやく根元に近い辺りまで進む。指の腹で軽く頭皮を揉んで上から櫛を通した。
すんなりと流れていく感触が気持ち良い。同じように感じてくれているのだろうか、緩んだ麻衣の横顔はどこか幼く見えた。
ざっと済ませたところで正面に向き直ると麻衣は目を閉じていた。きっと、余程気を抜いていたんだろう。
シーツの上に揃えられた手に櫛を置いて彼女から離れ、バッグからタオルと下着を取り出して風呂の準備をした。
この世界では平均的だが残念ながら余り触り心地は良くない生地だ。
柔らかくて良い香りのするタオルにはきっと帰らなければありつけない。
「さ、行こう。カギは俺でいいよな」
「あ、はい……あの、先輩」
未だにベッドに座ったままの麻衣が、まだ少しぼんやりとしたまま俺を見つめた。
「上がったら、また……いいですか?」
「……高いぞ?」
お幾らでも、と言われてしまった。そこまで言われたらしょうがない。
……麻衣が替えの下着を用意する所を思いっきり見てしまったのは引き続きぼんやりしていた彼女が悪いのであって、決して俺のせいではないと思う。
この世界に混浴という文化はないのだろうか。いつか絶対に調べてみよう。
第六話 要らない(下)
荷物の大半を馬車に積み終わり、管理が悪いのか若干体調を崩していた馬達を治癒してやるぐらいの時間が経っても、まだ杏里は約束の大門に現れない。
「まさか、寝坊か?」
「妙な事が起きたとか言うより寝坊しただけって方が幾らか気が楽だよ」
そうフォローした健一は御者台に座り、今日も馬が言うことを聞かないのを確認している。
そう言えば杏里は騎乗スキルを上げているだろうか。俺も馬車内でみんなと談笑する側に回ってみたいんだが。
「あ……見てくださいほら、あれじゃないですか?」
「あれってのはちょっと酷く…………ああ、うん、アレだな」
遠くの方でこちらに走ってきている人影が見えた。
それだけなら良いのだが、前衛職の身体能力だろう、相当の勢いで疾走している。
クーミリアの様な一瞬の瞬発力がない為か。その人影は後ろに砂埃を出すという半ばフィクションのような光景を現実のものにしていた。
唖然と見守る間にも凄まじい勢いで駆け抜け、冗談のように砂煙を起こながら杏里が馬車の目の前に停止した。
「―――ごっめーんっ! ごめん! 寝坊しちゃった!」
「……いや、いい、十分だ。気にするな」
「あ……あはは、おはよう杏里ちゃん」
「お、おはよー、栗原さん」
「おはようございます……」
爆笑するという事はなかったのだが、実際に見られて少し感動した。
四人でうんうんと頷いているのを杏里が不思議そうに見ていたが言わずに済ませておこう。
そうすればまたいずれあの光景が拝める日が来るかもしれない。
最後にもう一度準備を確認したが一通りは揃っていた。
芋やら玉葱やら、まともに使えそうな食材が増えているのが期待できそうだ。
「あれ、杏里ちゃん、荷物は?」
「あたしは全部インベに入ってるから手ぶらで大丈夫。結構筋力あるからさ、そんなにスタミナ減らないの」
不思議そうな健一へ得意気に笑い返した杏里は、むん、と力こぶを作った。肉が集まって微妙に盛り上がる状態を力こぶと言うのなら、だが。
インベントリを使っているのなら杏里に荷物なんてものがないのは当然だろう。
むしろ杏里本人がお荷物かどうかを確かめるべきだ。
「杏里、騎乗スキルあるか? あるなら交代で……」
「ううん、全然ないよ?」
即答でお荷物確定だった。
残念ながら麻衣の膝枕で寝ながら次の町へ行く野望は一瞬でついえた。本当に本当に残念だ。
「うっわ、こいつ使えねえ……」
「大丈夫だって、一緒に隣に乗ってあげるから。ね?」
寂しくないよー、と偉そうな事を言う杏里を馬車の中に押し込んだ。
結局俺にとってはナビシートの交代要員が一人増えただけのようである。
「じゃあ、俺達は行きます。ありがとうございました」
「――待て」
「……はい?」
門兵に簡単に挨拶をした所、思いっきり呼び止められた。
よく見ると行きに止められた門兵だ。またクーミリア関連で何かあるんだろうか。
「お前達、どこに向かう? アテナスか、それともライソードか」
「サイレイン経由でライソード、ですが……何か問題でしょうか」
「関所を通って東三叉路を通るルートだな?」
「……そうですが」
「わかった……問題はない、行くと良い」
聞くだけ聞いて、言うだけ言って、兵士はさっさと戻っていった。
何なんだろう、本気でクーミリアファンの嫌がらせな気がしてきた。ロリコンなのかだろうかあの男。
もしもこの先もう一度クーミリアと会うことがあったらあの兵士には気をつけるように伝えておこう。
「山田、どうしたの?」
「……いや、行こうか」
二度目の出発、ナビシート第一号はやはり健一。
手綱を少し緩めると馬達は元気良く歩き出した。
今日は相当な山道を歩かせることになる。騎乗物ウインドウで馬達のステータスは見られるので気をつけておかなければならない。
遠ざかっていく山岳都市ガイオニスを振り返ると例の門兵と思わしき男がこちらを睨むように見ていた――ような、そんな気がした。
朝食代わりにカントルで買わされたパンの残りをかじる事にした。
焼きたてとは程遠い時間が経っているのにそこそこ食べられる。困ったことに、魔法というのは本当に便利なものらしい。
「でさ、次の町ってどんな所なの?」
隣で同様にパンをかじる健一。一昨日の夜も食べたからだろう、明らかに食が進んでいない。
「教会都市サイレイン、そして境界都市サイレイン。そこを抜ければ、教国首都ライソードまで4日って所だな」
俺も同様に食欲の起きなかったパンを口から離して言った。
名前や予定は昨日聞かせているが境界の話はしていない。疑問符を浮かべた健一に向き直る。
「サイレインは帝国と教国の境目にある。他に宗教があるって訳でもないが、一応布教の意味で教会が山ほどあるんだ。それで教会都市だ」
「へえ……バチカンみたいな感じ?」
「いや、それは首都ライソードの方だな。あっちには大聖堂があるし教会一つ一つの規模が大分違う。サイレインは教会の数だけが多いんだよ。それで色々面倒ごとがあるらしくて、お使いクエストが山ほどある町だ」
「……お使いクエ……やらされるのかな」
「通行証が要るとかそういうのはないから、まあ無視すればいいだけだと思う。むしろ問題は境界都市の方だな」
「…………つまり?」
口にしてもわかりにくい話だろう。首を捻って先を促した健一に応じた。
「さっき言った通りサイレインは帝国と教国の境目にある。休戦状態にはあるが二国は今もって臨戦態勢……って設定だった。だから帝国のスパイや教国の内通者がわんさかいる。そっち方面のクエストも多い」
「戦争かあ。余り係わり合いにはなりたくないね」
「まあな……でも神を降ろすには結構な準備が要る。何かしら戦争の為に神を使おうとしてくれればこっちにはラッキーだ」
「神様を使うって……あー、そうか、山田はゲームの中なら神様に会ったことあるんだ? どういうのなの、その神様って」
「……言ってなかったか?」
聞いてないよ、と睨まれた。
そういえば麻衣に迫られてこの世界の大半の事を話し終えたから安心してしまって、昨日の夕食でもオーガ退治の話なんかをしていた。
桂木も今頃は麻衣と杏里から聞いているのだろうか。一応健一にも話しておこう。
「えーと、だな。まず神は魔王に大分押されてる」
「押されてるんだ?」
「押されてないとゲームにならないからな。その理由の一つが各国首脳部に潜入してる魔王の眷族。それが理由で教国以外の国では幾らか信仰心が落ちていて神がパワーダウンしてる。それで神は人間の戦いにも介入するんだ。で、定期的に戦争の為に神が降ろされるからそこで話しかけられればイベントを一気に飛ばせる、と」
戦意高揚、武器の聖別、首都防衛の加護。何でもいい、戦争再開前に神を降ろす所に丁度出向ければそれ以上のことはない。
「なるほどね。その眷族を倒して神を復活させて魔王を倒すってストーリーなんだ」
そう考えると確かにありがちな話だろう。
しかし折角納得してくれたようなのだが、残念ながら違う。
「いや、別に復活させたりはしなかった。眷属とかはまだ名前だけで未実装だし……昔は何もしなくても普通に魔王と戦えたしな」
「……じゃあ何のためにその設定があるのさ」
「イベントと、クエスト」
「……大丈夫かな、神様……」
「一応神の為に色々するクエはあって、その結果としてやっと魔王の空間に踏み込める。でもそれは単に入場許可フラグってだけだ。一人が何かして世界の設定が変わるんじゃネットゲームは成り立たない」
「そんなもんなんだ……」
実際にはイベントをこなすと自分の画面では神が常時ライソードに降臨している状態になるが、それこそだから何だという話だ。
話しかけるたびにお礼を言われて、なのに何故か魔王とモンスターの居るMAPに飛ぶかどうかを聞かれる。
行けば倒した筈の魔王は復活していて、数日に一度だけ戦える。
結論を言えば確かに健一の言う通り――
「まあ、そんなもんだな」
「……ちょっと期待がそがれたなあ」
軽く落ち込まれてしまった。
しかし魔王を除けばこの世界でもっとも強力な――プレイヤーを除いて――存在だ。
イベント内ではそこそこ威厳もあったし、個人的には期待している。
「でも全能はともかく全知って設定は確かな筈だ。それが生きてれば俺たちがここに居る理由ぐらいは教えてもらえると思う。イベントの内容も大体覚えてるから自力で呼び出すこともできる。手がかりは近づいてるよ」
「そっか……でもさ、そもそも自分の世界に知らない人間が入ってきたら向こうから来てくれてもいいぐらいなのに……」
全くだ。それなら面倒がなかった。
「美しい女神って事になってたからその辺も楽しみだな」
「へえ、女神なんだ。神の如き美しさ、かな……」
馬車の中にいる俺の女神様を振り返ると、スキルウインドウらしき光のスクリーンを表示した杏里に何かの説明を受けていた。
当然右手には炎の杖を握っている。随分としつこい女神様だ。
一緒にそれを見ている健一専用女神の桂木はどうなんだろうか。
なんとなく桂木なら素直にウインドウぐらい開いてしまいそうな気がする。ただの印象だが、意外とありそうだ。
「杏里ちゃんはパラディンだって言ってたよね」
「ん……ああ、みたいだな」
声をかけられて視線を馬車の正面に戻した。道はそろそろ勾配のピークを迎えている。
周囲は山肌に覆われているが幸いにも崖ギリギリを進まされるような難所は存在しない。
昨夜もゲームをしていた頃の夢を見たせいだろうか、この馬達がペガサスなら今頃次の町に着いているのにと詮無いことを考えた。
しかし翼こそついていないものの、この道も歩き慣れているのだろう。馬達は相変わらずもくもくと歩いてくれている。
このPTで一番頼れるのはこいつらなんじゃないかと思ってしまう気持ちも、若干はあったりする。
「それで山田は僧侶で……そういうのって最初から決まってる? それとも後から転職して?」
「転職だな。ナイトなら帝都、シーフなら王都、魔法使いは天空都市で神父は教国首都。クエストをすればその職業になれる」
中位職で枝分かれして後は一本道だ、と話を続けるが正直微妙な気分だ。
やはりネットゲームを知り合いに解説するのは不思議な気恥ずかしさがある。
「僕もクエストが終われば転職できるのかな?」
「まだレベルが足りないな。最低で10からだ」
「そっか……うーん、レベル上げか……」
「レベルだけ上げた所でステータスも振れない、スキルも使えないのにどうするんだよ。麻衣みたいにそっちの練習をしたほうが建設的だ」
言って、虚空にPTウインドウを表示してやる。
光が集まって映像を映し出すSFに近いぐらいのファンタジーな光景を見て健一がげんなりと呻いた。
「いきなりそんな魔法みたいなことするのは難しそうなんだよ……」
「残念だけどこれが初歩だ。しかし……何でベルは出せるのにこっちは全く理解できないんだろうな。この世界なら……」
「……この世界なら?」
「……いや、なんでもない」
ベルを使うのはこの世界なら誰にでも出来ることだから、と口に出そうとして、すぐにやめた。
この考えは危険だ。突き詰めると俺と杏里以外の三人が世界にとってプレイヤーではなくNPCとして扱われているという結論にしかならない。
クエストを受けて、オーガに止めをさせた。だから大丈夫だとは思うんだが……クーミリアの例もある。
不安はずっと感じていたが、絶対にそうであってほしくない。そうであったら――いざという時に取り返しがつかない事になる。
「まあオーガを倒して一応HPは伸びてるみたいだけどな。ほら、数値が――あれ……?」
PTウインドウのKenichiの欄を展開、表示されたHP、MP、SPを見て違和感に気づいた。
KenichiのMPは40、SPは100――スタミナは%表示なのでこれは現在100%のスタミナを確保しているという意味――で、そこまではいい。
問題はHPの数値だ。表示されている健一のHPは330。
見ると展開されたままのMaiのHP数値は、こちらもやはり上昇しているが230しかない。
明らかに差があった。もちろんステータスで体力数値に振れば最大HPは伸びるが、健一は数値を伸ばしていないはずなのだ。
職業によって変わる面倒くさいHP計算式をすべて覚えてはいないが同職同レベルでステータスを上げていないならこれだけの差はつかない筈だ。
自分がキャラクターを作る時は体力を1に設定した特化型にする事もあるが実際の人間にそれはないだろう。
麻衣は元々体力がなかったから初期数値が低めに設定されているのかもしれないが……それでも100の差はおかしい。
健一も体力自慢というタイプではない。麻衣とそんなに極端な体力差はないだろう。
考えられるのは、こちらに来てからオーガを倒すまでの間ずっと体力不足に悩んでいた健一の無意識で体力数値が伸ばされているか、それとも――
「あ、一応僕の方が二人よりはHPがあるんだ。うわ、でも100倍しても山田に届いてない……やっぱり納得いかないなあ」
「……伸びてるっぽいぞ、お前のステータス」
「……え?」
「体力が増えてないと麻衣とこんなに差はつかない。多分知らない間にステータスを上げてるんだと思う」
「本当に!? じゃあレベルさえ上げれば強くなるんだ?」
「可能性はあるけどな……」
勝手にステータスが伸びていると言うと異様に聞こえるが、頑張って歩いたから体力が増えたと考えれば逆に当然だ。
長い距離を歩いて頭が良くなっている方がむしろおかしいだろう。そんな事が起きるのはゲームの中だけだ。
そしてここはゲームの世界だからこそ好きな様に伸ばす能力を選べる。なのに健一のステータスは勝手に変化している。
麻衣の数値を確認すると健一より明らかにMPが多い。
MPは知力と精神力で伸びるが、知力はむしろMP回復速度への影響が強い。大きな効果があるのは精神力の方だ。
俺を助けるために一人でオーガの前に飛び出して、それで精神力が伸びた……?
魔法使いを目指す麻衣が意識的に伸ばすなら間違いなく知力の方だろう。やはりプレイヤーよりNPCのイメージが強い。
いや、考え方が悪い。ゲームのシステムそのままに動いている俺や杏里と何かが違うんだ。
何と言えばいいんだろうか、健一達を支配しているのはゲームの設定じゃなく、この世界の現実の法則の様な気がする。
そこに差がついている理由は何だ。どうしてそんな違いが生まれているんだ。
ゲームのシステムを認識できていないということなんだろうか。ゲームであることを知っても、理解できている訳じゃないのが原因だろうか。
どこか、そんな単純な図式ではない気がしている。
ゲームをプレイしていた俺と杏里だけがデタラメなシステムで動いていて、それがむしろおかしい。
なのに世界はその異端をあっさりと受け入れているし、クーミリアだってこの世界の人間なのに動きだけ見れば俺以上に'外れて’いた。
情報が足りない。絶対に神に会わなければならない、何故かそんな風に思う。
「まあ、レベルを上げようにもここらのモンスターじゃもう健一には荷が重い。どうしても必要になったらカントルの辺りに戻らなきゃな」
「そっか、進んでるから強いモンスターが出るんだね……じゃあしばらくはしょうがないかな」
進んだから強くなったのではなく各国首都から遠い位置に居るからなのだが……そんな事を話しても意味がない。
無茶はするなよ、と声をかけたのだが、頷きながらも腰のソードを確認している。まあ男の浪漫だし仕方がない部分はあると思うのだが。
「……言い忘れてたんだが、その剣は装備制限が15ぐらいだからお前が使うと敵に当たるかもわからないぞ」
「え゛っ!?」
桂木が聞いている時にはどうしても言えなかった俺の気持ちも察してもらいたい。
ちなみに当の桂木のHPは二人の間ぐらい、至極平均的だった。何とも常識人で安心する。
三時間程で中腹の関所に到着した。
関所と言っても通行料を取られるわけではない。道行く旅人から道中の情報を聞いて危険がある場合は随時伝えるという好意的なものだ。
迎えた時は笑顔だった中年の兵士は若い男二人女三人の俺達を見て苦い顔をした。
「最近ここらにゴブリンが群れて出るんだよ。腕に自信がないようなら出来れば戻った方が良いぞ」
そっちも安全とは言い切れないんだがな、と申し訳なさ気に言う兵士に、後ろから顔を出した杏里が軽く請け負った。
「腕には自信がありますから! まっかせといて下さいっ!」
「……連れが何か言ってますが、会わない事を祈って進みます。ありがとうございました」
「……ああ、気をつけてな」
「大丈夫だって、全部倒しちゃうから! おじさん、後の人にはもう出ないって言っちゃって――」
余計な事を言うな、杏里。
優しい視線を送ってくる兵士に頭を下げて関所を通過する。
隣の健一に視線を向けて馬車を指すと、肩を竦めて中に入ってくれた。
申し訳ないがああ言われては、それこそオチが見えているという話だ。
「立った、立った、フラグが立った、ってね?」
「ね? じゃねえって……全くお断りなフラグだな……」
交代で出てきた桂木は相当退屈していたのだろう、むしろ嬉しそうだった。こちらとしては勘弁してもらいたい。
スキルウインドウを表示している俺と、インベントリウインドウを表示している杏里。ぼんやり座っているが一応は臨戦態勢だ。
「出てきたらどうする? あたしが全部倒そうか?」
「いや、タゲは俺が取るから個別に倒していってくれ」
「……ゴブリンぐらいなら何とかなるよ?」
嘘つけ、群れのタゲ――ターゲット 攻撃対象選択――が全部来たらPOTで間に合うか怪しいくせに。
初心者の強がりを受け入れる上級者のつもりで優しく笑ってやったらマジ切れされた。何が悪かったんだろうか。
「……全くもう、いっそ死んでも何とかなるんだから少し任せてくれてもいいじゃん。カディならフルリザあるんでしょ?」
「……まあ、あるけどさ…………」
「うん? 触媒足りないの?」
口ごもった俺に対して、素のままの表情で杏里がこちらを見てくる。
何でもない事のように言われたが、ゲームの世界で死んだらどうなるか、というのは相当に深い部分じゃないだろうか。
死んだら戻れるかもしれないと考えてしまうのはよくあることだし、蘇生なんてものがある世界だとさらに複雑だ。
しかし杏里は人が気にしてることこそが馬鹿だとでも言う様に、あっさりと口に出してくる。
そう言えば最初に声をかけられた時も、俺が話すのに何日もかかったプレイヤーって台詞を第二声に持ってきていた。
そういう性格なんだろうか。むしろ俺が悩み過ぎなんだろうか。
わからないがしかし、やはり色々と気にするのが馬鹿馬鹿しくなったのは確かだ。
不安で口に出せなかった事でも、杏里に言われると不思議となんとかなるように思える。
どうしてだろうか。意見が合わないのは麻衣と同じなのに、何故か悪い気分じゃない。
少しだけ呆れて、少しだけ面白い。軽く笑って杏里と目を合わせた。
「いや、数はある。そうじゃなくて……何て言うんだろうな。杏里はそうやってあっさり踏み込んでくるよな」
「……もしかして、会って三日であつかましいぞこの女的な宣告をされてる? あれ、もしかして今、山田君フラグ折れた?」
「何だ俺フラグって、最初から立ってない。それに別に貶したわけじゃなくて……そうだな、蘇生魔法な……」
カディ、カーディナルのスキルには死者を蘇生する魔法がある――いや、蘇生する魔法自体は守性僧侶中位職で既に覚える。
だがその蘇生スキルを受けると莫大なデスペナルティが付加される事になるのだ。次レベルまでの必要経験値10%分がレベルを下げてでも奪い去られる。
そしてカーディナルのスキル、フルリザレクションはそのペナルティを無視して蘇生が可能になる。その為どうしても身内に一人必要で、俺はこの職業を選んでいた。
しかし死んだ後にその場で蘇生されることを選ばずセーブポイントへ戻ればペナルティは一気に緩和されるのでそれ程の問題はない。
そもそもカーディナルが実装されるまで何年もの間ペナルティつきの蘇生と復帰に慣れていたので便利なスキルでも無いなら無いで何とかなってしまうのだ。
少人数で狩りをして死んだら一緒に戻る。大人数なら死なないように動く。カーディナルが求められるのはお祭り騒ぎとカンスト寸前で必死になっている誰かの蘇生だけだ。
そしてレベルが限界値に達すれば必要経験値は0になり、当然ペナルティもない。仲間の大半がカンストしていれば尚の事効果が薄い。
必要だけど要る時だけ来てくれればいい。そしてパトリアルフの方が正直便利。気の良い仲間が居なければ寂しいゲーム生活になったかもしれない。
「フルリザはある。こっちじゃまだ使った事はないけど……なあ、杏里」
「え、何? 実験にあたし殺す、とか……?」
「誰がするか、そんな事……やらないからその鎧脱げ。そうじゃなくてな、杏里は世界樹クエ、まだやってないだろ?」
「世界樹ってあの長い連続クエでしょ、レベルも足りないし始めてもないけど……」
「それでな、蘇生のイベントがあるんだ。世界樹の実を使ってNPCが息子の蘇生を試みる」
世界樹の実は使い捨ての蘇生アイテムでペナルティつきの蘇生を行える。希少とゲーム内では設定されているがあまり珍しいアイテムではない。
それを手に入れてきてNPCに渡して、事故で死んだ息子の蘇生を手伝うイベントがあるのだ。
「……どうなるの?」
大体俺の言いたい事を察したんだろう。明らかにテンションを落とした杏里に、何故か溜飲が下がる気持ちで続けた。
「……ゾンビになって復活するよ。倒せばイベントが進む」
「……うわぁ……」
実際に生き返ってしまったらそれ以外のNPCイベントで死者が出た時に何の感慨もなくなってしまうからゲーム的には当然だ。
しかしこうして現実になると余りにも重い。それが原因で蘇生を考えてしまう自分を止めてきていた。
「ま、そういう事でな。ちゃんと蘇生できるかゾンビになるかがはっきりしないからフルリザには頼らないつもりでやってるんだ」
「なるほどねー……そっか、それは……うっわー、ぞっとしないね、そんなの」
「まあ心配するな。お前が死んだら一応試してやるから」
「……ゾンビになったら、どうするの?」
「ターンアンデット」
「即答!? あたし浄化されるの!?」
「光の中に消し去ってやるから安らかに眠れ。きっと夢の中でNPCと仲良くやってるさ」
「やだー! せめて死に際の夢は元の世界がいいー!」
だだをこねられた。
しかし正直、杏里に試みれば成功するような気がしている。
杏里と俺ならフルリザや世界樹の実のシステムに乗ってその場で復活できる様に思うのだ。
その反面、麻衣や健一に試みたらどうなるかはずっと考えていたが……不安材料ばかりが増える。
「いいよもう、山田君が死んだら世界樹使うからね」
「……で、殴り倒すのか?」
「…………山田君のゾンビに勝てるのかな、あたし……」
「POTが切れた後からが勝負だろうな」
「うう、二代目魔王山田君誕生の予感しかしない……」
止められるのはお前だけだ。頑張れ杏里。
どうでもいいことをつらつらと話し続けて数十分、気配らしいものは一切発せず、そいつらは唐突に現れた。
「おいでなさったか……こりゃ、思ったよりグロいな」
「匂いも、うっわー、臭い……みんな、外出ないでねー?」
馬車に声をかけた杏里に幾つかの返事が返った。外にさえ出なければ馬車の耐久力が削りきられるまでは大丈夫な筈だ。
馬の足を止めさせて御者台から飛び降りた俺達の前方50メートル程におよそ20匹のゴブリンが群れを成している。
――グルァァァァァ
群れの中央に位置した比較的まともな斧を握った一匹が叫び、鬨の声を上げて一斉に襲い掛かって来た。
一瞬前に出ようとした鎧姿の杏里を抑え、代わりに飛び出す。
走りながら反転、襲い掛かってくるゴブリン達に思いっきり背中を見せる。バックブローで攻撃優先度が上がる筈だ。
しかし現実的に考えると無茶もいい所だろう。案の定唖然としている杏里をターゲット。
――コンセクレーション――
――グランドサクラメント――
金と白の光が杏里の体を取り巻き、力のオーラを吹き上げる。
れで相当殴られてもターンアンデットに挑戦するような目には合わないだろう。
「いや、ちょっと、そんな場合じゃないって!」
慌てたように叫び声を上げる杏里の姿に後ろにゴブリンが迫っていることを予期した、と同時。
感覚としては、すぱーん! という所だろうか。バラエティ番組でお笑い芸人がやわらかい棒で殴られたらこんな感じだろう、という痛みを連続で受けた。
ぺちぺちと殴られながら向き直ると大量のゴブリンがそれぞれの獲物をこちらへ向けている。折れた剣、短い棍棒、さびた斧、どれも大した物じゃない。
アタッカーは杏里に任せたいが、とりあえずはと腰に下げていたウォーメイスを取り、手近の一匹を狙って思いっきり叩きつけた。
出来れば今生感じたくなかった、何かの潰れる手ごたえが返ってきたが……残念ながらこちらは神父だ。とてもじゃないが一撃で倒す力はない。
――グォォォォ!!
やはり即死には遠いダメージだったらしい。そのゴブリンは視線と声に怒りをこめて短剣を振り回して来た。しかしほとんど痛くはない。
オーガの攻撃を受け止めた時のあのダメージが1000弱とすると、こいつらの攻撃は50程だ。20匹居るとすればダメージ自体は同じになる。
しかし体力によるダメージ減算が固定数値で入っているのでほとんどダメージがないのだ。
普段は固定値の減少は何も嬉しくないが、こういう時には便利だ。1000ダメージが950になるのと50ダメージが1になるのでは全く意味が違う
しかし痛くないからといって楽でもない。剣やら斧やらを掻い潜ってメイスを振り下ろすと緑の血が噴き出し、むせ返るような悪臭が返ってくる。普通に地獄だ。
馬車の方を振り向くと4体のゴブリンが杏里に向かっていた。
杏里は慌てる事なくしっかりと腰を落とし、左手の大盾――カイトシールド、だったと思う――を軽く前方に出して右手で下段斜に直刀を構えている。
詳しくはわからないがこなれた構えだろうと思う。当然か、この世界の戦闘経験ならおそらく俺より多い。
盾装備の前衛職は本来複数の敵と相対する方が自然だ。大丈夫だとは思うが、一番俺に近い1匹をターゲットにスキルを使用する。
キュアバーストの光がゴブリンにダメージを与え、しかし倒すには至らず怒ったゴブリンがこちらに向き直った。
残りは3匹。再度詠唱する間もなく杏里に肉薄していく――
「――えいっ、ていっ……やっ!」
何とも気が抜ける掛け声だったが、意外にも杏里の戦い振りは鮮やかだった。
飛び掛ってきた1匹目の攻撃を盾で捕らえ、逆に押し返して完璧なタイミングで弾き返す。パラディンのスキル、シールドパリィ。
ゲーム内では判断の難しい敵の攻撃タイミングもこうして目の前に相対するとわかりやすいが、それでも十分な思い切りと反射神経だ。
たたらを踏んだ1匹目に構わず、振った盾を引き寄せるのではなく盾の重量で体を引き寄せて2体目の攻撃を抑える。
攻撃を止めた所で迫ってきた3体目に体ごと盾で打ちかかっていく。衝撃を受けた3匹目は頭の上にひよこマークを浮かべて倒れこんだ。
サブ攻撃の盾殴りは小型モンスターに中確率でスタンを与える……流石に自分の職らしく、よくわかっている。
「よっ、せいっ! ……ひやぁっ!?」
まだ攻撃を試みていた2匹目に向かって斜め下から切り払った一撃が、恐らく本人も予想外だったんだろう。何の抵抗もなくそのまま振り切られた。
思いっきり噴出した緑の返り血を引っかぶった杏里が叫び声を上げている。気持ちはわかる。臭いし、汚いし。
攻撃の威力が想定外だったのは支援を受けた自分の体がどの程度動けるのか把握できていなかったんだろう。
ゲームと同じ気分だった俺が悪い。事前に使って体を慣らせてやるべきだった。
しかし幾らか驚いただけでグロテスクなゴブリンの死体に怯えたり混乱する様子はない。
一応は生き物の命を絶ったのに、その点については極々落ち着いているのだ。杏里は予想外に頼れるかもしれない。
目の前で仲間が真っ二つになったからだろうか、及び腰になった1匹目を軽く切り捨て、スタンしていた3匹目の首を容赦なく落とした所で、杏里は見つめている俺に気がついた。
「あー、山田君、サボ……って…………ぶふっ」
「……なんで笑ってんだよ」
戦闘中に吹き出されるとは思わなかった。何だその反応は。
「いや、だって何か……子供に絡まれてる保父さんみたいな……ぷっ、ふふふ、あははははっ」
「……いいから手伝え。範囲攻撃あるだろ、パラディン。何ならテレポートで全部擦り付けるぞ」
「ご、ごめん、今……ぷっ、今やるから……」
折角感心した所なのにこれだ。
戦闘中に自分の姿が笑いのツボに入る相棒というのは最悪の部類に入る気がする。
ぺちぺちと殴られながら憮然と見つめる俺から離れた位置でようやく姿勢を整え、杏里がこちらに構えを取った。
「じゃあ、いくよー?」
「ああ……いや、行くって何だ、行くって」
こっちに来て範囲スキルを撃つのだと思っていたら、杏里はその場で腰を落とし、全身を盾の後ろに隠した。
そして――――そのまま猛烈な勢いで突進を始めた。
「お前、何でプッシュチャージなんだよっ!?」
「てえやあああああああああっ!」
言葉は同時で、着弾は直後だった。
金の光と白い光、ついでに赤の閃光を交じり合わせて高速で突進して来た杏里が放ったのはプッシュチャージ。
助走距離で威力の変わる盾突撃スキルだ。
十分な助走距離と潤沢な支援の下で放たれた最速の一撃は全てのゴブリンを盛大に弾き飛ばし――俺を天高く舞わせた。
いや、天高くというのは言い過ぎだろう。
数秒で――それでも数秒は空中に居た――特に痛みもなく、しかし結構な勢いで地面に激突した。
幸い大きなダメージは受けていない。杏里の突進を受けた前面には流石に鈍痛を感じたがそれもすぐに消えた。
「何ダメぐらい入ったかな、ね、どのぐらいかな!?」
砂埃を上げて止まった杏里が期待に満ちた声を上げた。
ずっとソロだったプレイヤーに支援をかけると大体こうして暴れ始める。
冷静だったクーミリアもあれだけはしゃいでいたのだし、杏里ならこんなものかもしれないと妙な納得をしてしまった。
文句を言う前にとりあえずステータスを確認してみる……何だろうこの尻に敷かれているような気分は。
「お前な……いや、もう回復してるっぽいけど」
「これでも自然回復超えないとか……うう、本当にゾンビになったら勝てないかも」
「……よし、ゆっくり話をしようか。凄く大事な話があるんだ、杏里」
冗談だって、と笑う杏里の顔が微妙に赤く染まっていく。
人を盛大に吹き飛ばしといて照れてるんじゃない、全く。
鎧を戻していつもの騎士服に戻った杏里を小突いた所で、最後まで残っていたボスゴブリンの死体が消失した。
――クエスト 達成――
「山田、もう終わったの……うわっ!?」
馬車から顔を出した健一が驚いた様に自分の頭上を見上げた。
クエスト達成経験値によるレベルアップ。ゴブリン掃討クエの経験値は多くないがレベル一桁なら1か2ぐらいは上がるだろう。
「何かさ、レベル上げ手伝ってる状態だよね、これって」
「……まあ、いいんじゃないか」
表示したままのPTウインドウで三人のHPが増加していた。
杏里は思った以上にちゃんと戦えている。これなら教国首都までは何の問題もないだろう。
体力や敏捷性が上がって日常生活に損はないのだから戦えない程度ならレベルが上がるのは良い事だ。
後は……そう、桂木の技術力ステータスが伸びてくれればそれ以上の事はないのだし。
ゴブリンの匂いが消える辺りまで進んだら昼飯にしよう。
昼食は朝の間に買っておいたらしい果物のサラダだった。
ハチミツのかかったフルーツサラダは何とも甘そうで正直に言えば余り嬉しくはなかったのだが、女性陣に加えて健一まで喜んで食べているので大人しく頂戴した。
味はそこそこだったのだがやはり物足りない。簡単に済ませて軽く馬を休ませ、早々に出発した後もまだ俺の腹は空腹を訴えていた。
インベントリの料理を『使用』する形で使えば見られずに腹は膨れるのだろうが……わざわざ選んで用意してくれた桂木の気持ちを考えると手を出す気にならない。
「全然足りない、って顔してるよ? インベに料理あるけど食べる?」
「俺も多少は持ってるよ……まあ、夕食までは我慢する」
精神力ステータスは満腹度には影響してくれない。複雑な気分で手綱を握る俺を見て隣の杏里が笑った。
「女の子が3人いるんだから夕食はちゃんと作ってあげるって。レシピなしで作ったら魔法料理にはならないけど、ちゃんと食べられるものは出来るんだよ?」
「できるのか、料理?」
「……素で疑問に思ってるっぽいのが凄い失礼だよね。これでも一人暮らし暦半年、家事は任せなさい」
胸を張って自信満々に言われた。
半年って、それは大学に入って一人暮らしを始めたってだけじゃないのか。
「丁度飽きて適当になってくる時期だろ、それ……」
「ううん、得意なんだって、本当に。ゲームでも料理スキルはちゃんと上げてたんだよ?」
「ああ、それは助かるな。そっちには期待しておく」
基本レベルが低いと生活スキルの上昇速度が余り早くないので俺よりは低いのだろうが、出来るならそれに越したこともない。
魔法料理は作るのにそれなりの時間が必要だ。出発前に手分けして作っておければ幾らか食生活を豊かに出来る。
明るい未来に希望を見出した俺とは対照的に杏里はへこんだ様子だった。
「折れてる、絶対山田君フラグ折れてる。酷いなー、あたしからのフラグはビンビンなのに」
「一応女の子を自称するならビンビンとか言うなよ……」
照れてる? 照れてる? と詰め寄ってくる杏里を押し返してため息をついた。
前の俺なら生き物を殴り倒したリアルな感触に落ち込んでいそうなものを、能天気な杏里と話していると全くそんな気分にならない。
こいつのそういう所は嫌いじゃなかった。今なら少しは楽しい旅だと言ってもいいかもしれない。
「あの……栗原さん」
「ん、松風さん? どうしたの?」
まだ苗字なのかお前ら、と一瞬思ったが口には出さなかった。
麻衣がすぐに他人と仲良くなれるような性格なら今こうして異世界を旅する羽目にはなっていないだろう。
ついそれを忘れそうになるってしまうのは、扉代わりの布を開いて馬車から半分身を乗り出している今のような姿が結構活動的に見えるからだ。
会った頃と比べれば幾らか顔を上げて話す様にもなった。そうして見ると麻衣はやはり綺麗だと言っていい顔立ちをしている。
そういう目で見ればスタイルも決して悪くないし、時々よくわからない事を言い出して勝手にテンションを上げる以外に不満らしい不満もない。
本当によく出来た彼女だ。俺にはもったいないな。
「もう危なくないんでしたら、代わりますけど……」
「ああ、いいよー、大丈夫だから。クエのゴブリンは終わったけど普通のMOBはいつ出るかわかんないしね」
「……そうですか」
しょんぼりと戻って行ってしまった。
杏里と二人で感動しながら手を振る程度の扱いしかしていなかったが、ノンアクティブのモンスターは道中に時折見かけていた。
アクティブのモンスターもゴブリン以外に出現する可能性がある。杏里の言う通り危険はあるだろう。
しかしよく考えると出発してからは余り麻衣と話していない。
いつでもイチャついてないと駄目ってわけでもないんだろうが、余り放っておくと――そう、今やってる様に杖を見つめてぶつぶつ言い出すので怖い。
そう考えると案外愛されているのかもしれない。夜にでもフォローしておこう。
「んー、あたし邪魔者だったかな。単体のゴブでも松風さんのHPじゃ相当痛いから出来れば外には出て欲しくないんだけど……」
「実際その通りだしな、そこは麻衣に我慢してもらうしか……いや、我慢って言い方は何か調子乗ってるみたいで嫌だな」
「ラヴラヴでウザイね?」
「……真顔でウザイとか言うなよ、傷つくだろ」
進行形で傷ついてます。どんよりと言い返された。美形の男NPCに走るなら手がかりを見つけてからにして欲しい。
しかし単純に横に乗せるなら今の杏里よりは麻衣の方が見栄えがいい気がする。
隣に座る杏里をじっと見つめてみる。確かに杏里も可愛いとは思うのだが、どこか容姿が子供っぽく感じた。
桂木や健一よりさらに一回り小柄な上に、気にしていなかったがよく見ると非常にすっきりした体型をしている。
部分的に肌の出る服を着ているのに全く色気がない。
表面上は何となく凹凸がわかる程度だ。何度か触れた覚えがある麻衣と比べると余りに女性らしくない。
「……あの、ね」
「ん、どうした?」
何の遠慮も無く見つめていたせいか、杏里は微妙な表情を見せていた。
「あんまりこう、じーっと見られると、照れるなーって……」
「ああ、悪い、俺は良い彼女に出会えて良かったなあと思って」
「えええっ!?」
思いっきり後ろに下がった杏里の顔が目に見えるぐらいの勢いで赤く染まった。
まずい、言い方が悪かった。麻衣にはとても言えない台詞も杏里には軽く口に出せるのだが、軽すぎて考えなしになる部分がある。
「いや、勿論お前じゃなくて麻衣な。杏里と違って良かったなって」
「折るよ!? 杏里ちゃんフラグ真っ二つに折るよ!?」
「立てた覚えがないし、折っていい」
「ううう、ふこーへい……」
「そうだな、不公平PTだな」
麻衣の台詞だが、杏里も気に入ったらしい。
しかし過去の経験から言うと、俺はこんな風に初対面の女性から微妙なフラグの立つ対象ではないと思うんだが。
彼女が出来るとモテるようになるというのはこういう事なんだろうか。余裕が出来るから気安く話せて、冗談や褒め言葉も軽く言える気がする。
単に杏里と気があうだけだろうか。向こうもそう思ってくれているのかもしれない。
「まあ、こんな時に明るく騒いでくれるのは助かってるよ。お前のおかげで大分元気になれた気がする」
上手く言えた気がしない。こんな流れで言ってもとってつけたお世辞にしか聞こえないかもしれない。
少し不安に思ったのだが、杏里は素直に微笑んだ。
「あたしも……こんな時に馬鹿な事言ってるあたしに付き合ってくれる山田君が居て、本当に良かった。一人だったらきっと、もう駄目になってたと思うから」
普段より少し真剣な言葉に、確かな杏里の気持ちを感じた。
初めて会った時に明るい口調の裏で涙を浮かべていた姿を思い出す。
杏里も同時に呼び出されていて、あの時で確か4日……会話の出来る相手が居るからはっきりと狂いはしなくても、現代の人間としては限界だったのかもしれない。
「俺も難しく考えすぎて結局何も出来ないばっかりで、いつか後悔する事になってたと思う。会えてよかったよ」
「……うん」
少し力が抜けていたのだろう、馬車を襲った大きな振動で杏里がこちらに体勢を崩した。
肩同士をぶつけ合って、そのまま足の方へ倒れこんでくる。軽い衝撃と共に杏里の頭が綺麗に俺の膝に納まり、呆然とこちらを見上げてきた。
何となく頭に触れてみると、子猫のように目を細めた。薄い茶色の髪は意外と触り心地が悪くない。涼やかな杏里の香りを感じ、そのまま軽く撫で続ける。
平地では少し暑いぐらいだったが山を登ってきてかなり涼しくなっている。日差しの暖かさと杏里の温もりが気持ち良い。
暖かい雰囲気だった。でも、それだけじゃない。杏里はそのままの姿勢で笑っているし、俺の口もゆるんでいる。
お互いにどのタイミングでいつもの流れに戻るのが一番面白いかを計りあっているのを感じた。
幾つかは思いついた。いきなり膝から頭を落としてやってもいいし、唐突に胸の近くを触って溜息をついて見せてもいい。
杏里はどうするだろうか、思いながら軽く耳に触れて――
「なに、してるんですか」
――そりゃ、そうだ。唐突に御者台から一人分の姿がなくなったら見にも来るだろう。
ゆっくりと振り返ると無表情の麻衣がこちらに身を乗り出していて、寝ているらしい健一のそばで桂木が めっ と人差し指を向けていた。
「いや、倒れてきたからちょっと遊んでやってただけで……」
「な、何もないよ!? だた少し良い雰囲気になったから甘えてみようかなって――」
黙れ。余計な事を言うな。
もごもごともがく杏里を膝に押さえつける俺へ冷たい視線を向けた後、麻衣は極々平静に言った。
「栗原さん」
「――ぷはっ……は、はい」
「もう危なくないんでしたら、代わります」
「……はい、ありがとうございます」
そそくさと起き上がりすごすごと馬車に入っていった杏里に桂木が何事か言っている。
無言のまま隣に腰を下ろした彼女に視線を向けると、こちらをじっと見ていたらしく思いっきり目が合った。
「え、えーと……」
「……先輩、膝、貸してください」
「…………どうぞ」
「……栗原さんと仲が良いからって怒ってる訳じゃないんです。でも、やっぱりそういうのは嫌です。わかりますよね?」
「はい、ごめんなさい」
膝に頭を下ろした麻衣に小言を言われ、しかし数分で機嫌を直した彼女をずっと撫でたまま夕方まで歩き続けた。
昨日の事といい麻衣は結構嫉妬深い……独占欲が強い? いや、経験がないから判断がつかない。これが普通なのかもしれない。
どちらにせよ、少なくとも今は好かれているような実感がある。膝の上で甘える彼女が可愛い。
――麻衣に邪魔されなかったら――と何度か思ってしまったのを、考えないように胸に押しとどめる。
女の子と付き合うのは大変で、多分別れるのはもっと大変なんだろう。
惰性というのがどんな物か、自然消滅というのが何故起こるか、何となくわかった気がする。
いや、麻衣と別れる気はさらさらないんだが……何となく、だ。
山越え全体の道程から言えば8割、一日目の行程を終えて休憩所らしき山間の広場に馬車を止めた。
火種を出してきて火を起こし、紙と枯れ木で強めたら彼女の出番だ。
「それではシェフ桂木、よろしくお願いします」
「ふええっ!?」
エプロンまでしてやる気満々なくせに驚いてるんじゃない。
「御者役頑張った俺は休憩してるから、後任せるな」
「えと、はい。あんまり自信はないんですけど……やれるだけは」
「ん、あたしも手伝うよー。じゃがいも使うんでしょ、剥く?」
「いえ、それは茹でてからなので、まずお水を……健先輩、ベーコンそのまま食べないでくださいっ!」
「あはは、お腹減っちゃってさ」
にぎやかに料理を始める三人を少し離れたところで座って眺める。
こうしてみると飯盒炊飯でもしているようで和やかだ。残念ながら米はないのだが。
見ていると、調理を始めた三人から弾き出された麻衣がこちらに向かってきた。
二人の時間が出来て良かったよ、麻衣。
「ううう……」
良かったって言ってるじゃないか。そんな顔するなって、ほら。
「というわけで、完成でーす」
「……結構かかったな」
優に一時間を超えるぐらいの時間が経っていた。
漏れ聞こえていた話からすると火力が問題だったようだ。料理用の特殊アイテムを早く銀行から出したい。
「あたしもお腹すいたー。ほら、食べよ食べよ」
「いや、とりあえずはシェフ桂木の説明を聞こう。桂木、本日のメニューは?」
見ればわかるのだがとりあえず聞くのが礼儀だろう。
手伝っていた二人も含めて四人から見つめられ、桂木が少し不安気に言った。
「一応、ジャーマンポテト……なんですけど……塩とバターぐらいしか間違いない調味料がなくて、これぐらいしか……」
出来上がりを見れば、確かに普通のジャーマンポテトだ。
少し薄めに切られたポテトにたまねぎとベーコンが食欲をそそる香りを漂わせている。
こんな状況で『普通の』料理を作るのがどれだけ大変かはわかる。材料をそろえるところから考えても相当苦労しただろう。
何となく全員で拍手を送る。おろおろと照れ笑いを浮かべる桂木を優しい目で健一が見ていた。
いただきます、と何となく唱和するのが日本人だと思う。
一口食べたその味は元の世界で食べた事のあるそれで、思わず目頭が熱くなった。
この世界でも悪くない食事を取ったことはあるが、それでもどこか日本らしくない香草の味や不思議な匂いが残っていた。
しかし、これにはそれがない。日本料理ではないけれど、間違いなく日本の味だった。
美味しい美味しいと上がる声に桂木の顔が赤くなる。誇っていい。ありがとう桂木。
それにしても……
「結構手間かかっただろ、美味いけどそんなに無理しなくてもいいんだぞ?」
「茹でて焼くだけですから別にそんなって程じゃ……」
十分に手間だ。焼くだけ煮るだけの料理もそんなに少なくない筈だし、これは焼くのも材料毎の料理だったと思う。
桂木も幾らかの自覚はあるんだろう、少し健一の方に視線を向けて、小声で続けた。
「結構得意だったから……最初の手料理だし、その……これぐらいはって……」
言葉もなく見詰め合う二人に暖かい視線が注がれた。残さず食べろよ、健一。
「……先輩、私も頑張りますね」
いや、何も言ってない。頑張らなくていい。やめろ、明日が怖いからやる気を出すな、麻衣。
食事を取って片付けたらさっさと眠るのが旅人の暮らし方だろう。
時間で言えばまだ9時程度ではある。杏里が驚いていたがもう大分旅慣れしてきている俺達は既に眠い時間だ。
「じゃあ俺が起きてるから皆は先に寝てくれ。杏里、夜中に交代いいか?」
「ん、おっけー」
戦える杏里が居る以上は一人で起き続ける必要もない。
5時間で交代、と決めたのだが、それには物言いが入った。
「山田と杏里ちゃんが交代で起きるなら僕も山田に付き合うよ。女の子だけの中で寝る気にもならないし」
お前昼に思いっきり寝てたじゃないか、とは口に出さなかった。
一人では退屈なのも確かだ。付き合ってくれるならそれはそれで嬉しい。
「それじゃあ私も栗原さんと一緒に起きてますね、麻衣も、いい?」
「あ、はい……そうですね」
「……男女別か。そうだな、気が楽だし、そうするか」
男組と女組で交代して起きれば、それぞれ同性だけで眠れる。大分落ち着くだろう。
「あたしまだ眠くないし、先でもいいかな?」
「俺は眠りに耐性あるからな、いつでもいいぞ」
「……精神150?」
「ああ、超えてる」
これ見よがしに溜息をついた杏里を殴る真似をしてから馬車に入った。
眠気は抑えられるが、眠れるのなら眠りたいのが人間の気持ちだ。これだけでも杏里が来てくれてよかった。
「んじゃ、お休み」
「うん、ちゃんと起こしてよ?」
男二人、色気のある会話なんてある筈もなく、さっさと床についた。
――うん、だからさ、松風さんは――
眠ろうとした所で、馬車外から聞こえる小さな話し声が気になった。
別に大した意味はない。微かに聞こえたので何となく気になったというだけだ。
しかし無駄に高い技術ステータスが気になった声に対して盗み聞き判定を起こす。
当然の様に成功。本当なら聞こえないはずの女性陣の話し声がはっきりと耳に届いた。
――ごめんね、昼の事。そんなつもりはなかったんだけど、山田君とは何か気が合って――
――いえ、私も、その……ごめんなさい――
――あれは麻衣も怒るよね。麻衣、あんなに山田先輩大好きなのに……――
――えっと、あの……――
――大丈夫だよ、山田君も松風さん大好きだから。ほら、その首のとか、他のも。普通は他人にあげたりしないよ?――
――あ、そうそう、麻衣のそのネックレス、凄く高いんだって。何千万円もするって……――
――えっ!?――
――ううん、単位で言うと最低で億だよ――
――ふえええっ――
――私、そんな高価な物だなんて……返さなきゃ……――
――いいんじゃない? 高い分だけ効果は高いんだから、松風さんの為にあげたんだよ、きっと――
――麻衣の安全に比べたら値段は問題じゃないっ! 愛されてるね、麻衣?――
――あ……はい……でも、私も先輩に何か、ちゃんと形で示せたらいいんですけど……――
――え、じゃあヤれば?――
――栗原さんっ!?――
――やっぱり、そうするべきですか?――
――麻衣ーっ!? 何言い出してるの!?――
――うん、松風さんスタイルいいし、基本体押しでもいいぐらいだと思うよ?――
――やめて、栗原さん、麻衣を悪い道に引きずり込まないでっ!――
「…………マジか」
「……ん? どうしたの、山田?」
「あ、いや……うん、何でもない、何でも」
これ以上聞くのは余りにも卑怯な気がして、頭まで毛布を被って音を遠ざけた。
直接言われたわけではないが麻衣から好きだと言われてしまった形になる。
正直、そんなには好かれてはいないんじゃないかと思っていた。でも……すまない、麻衣。
というか、もしかして明日から体押しで来るのか。今までも相当体押しだった気がするんだが……。
――言われてしまったって、しまったって、何だよ。
考えをやめて目を強く閉じた。
どうせ今日もどこかのパラディンの夢を見るんだろう、そう思いながら眠りに入っていく。
しかし夢の中の俺はいつもの仲間とゲームをしていて、一度もそのプレイヤーとは会わなかった。
ただ時折フレンドキャラクター『Acri』のログインを知らせるメッセージが画面端を流れていた。
しかし見るとすぐにログアウト表示に変わっていた様に思う。
いつも通りに楽しかった筈なのに、何故か物足りない気分をずっと抱えている、そんな夢だった。
「や、ま、だ、くん……夜、だよ……」
「うおわあああああああああああ」
夢を見ていた俺を甘い囁き声が現実に引き戻す。
しかし耳元で告げられたその余りの違和感に、思わず反射的に飛び上がってしまった。
「あ、杏里か……夜だよってなんだよ……いや、夜だけど……」
「そこまで驚かれると逆に何か……寂しいような……」
「とりあえず、交代だな。ほら健一、起きろ」
俺の大声も気づかずに寝ている健一を蹴り起こし、入ってきた麻衣と軽く頷きあって馬車の外に出た。
麻衣が微妙に緊張して見えたのは俺の気のせいだろうか。それとも緊張していたのは俺の方か。
「あ、山田君の匂いがするー! あたし、山田君の毛布借りるねっ」
……俺は何も聞いてない。何も聞いていない。
「じゃあ杏里ちゃんは強いんだ?」
「無理をさせたくないのは一緒だけど、素人扱いするのも失礼だな。単純にモンスターと戦うなら俺より戦力だよ」
「へえ……本当に僧侶なんだね、山田」
「当たり前だろ。その上、残念だけどこっちの僧侶はバギクロスもホーリーもない」
「でも女の子を戦わせるのはあんまり……ねえ山田、お手軽にレベル上げる方法ってないかな?」
「ねえよそんなの……」
だいたいそんな夜だった。
特別な出来事と言えば、ひょっこりと現れた羽つきウサギのモンスターに麻衣が買ったまま放置されていた人参をやってみた所、後から後から20羽ほど現れて手に負えなくなったぐらいだろう。
奈良公園で鹿せんべいを配っているような気分で人参は綺麗に捌ききれた。
仲良く去っていった羽ウサギを見て、少しは健一がモンスターへの印象を変えていると良いと思う。
「今日も一日進んで野宿だ。さ、頑張っていこう」
「とりあえず山道が抜けられるならもう何でも良いです。うう、お尻痛い……」
モンスターへの警戒はどうでも良いような扱いになってきた。
昨日健一杏里麻衣が隣に座ったからか、御者台の俺の横はクッションを敷いた桂木が座っている。
馬車の中でもそこそこ辛いのがこちらに座ると余計に加速するようだ。揺れに慣れない上に振動が痛いらしい。
無理をして付き合う必要もないんだが、だからと言って無碍にするのもやはり違う気がする。
責任を感じてモンスターに向き合うぐらいなら尻の痛みをその代わりにしてくれた方がいいんだ。
「あ……あの、山田先輩、後ろ……」
「……ん? 忘れ物か?」
馬車の後ろを振り向いて何事か言う桂木に応じると、羽ウサギの群れが小さく飛びながらついてきていた。
「あー……夜に餌をやったから懐いたのかもな。馬が食わなかった分を代わりに食わせたんだ」
「ずるいですよー! うわー、ちっちゃな羽がはえてる、可愛いー!」
確かに間違いなく見た目は愛らしい。
短い足で精一杯前に飛び、小さな羽根をちまちまと動かしてほんの少しだけ飛ぶ。
ちょこまかと可愛い動きで追ってきているが、残念ながらこの辺りに出るモンスターはやはりレベルが低くない。
「気をつけろよ、桂木なら体当たり3回で半殺しぐらいにはなるから」
「あれでですかっ!?」
あれで、だ。
幸い餌をやっていた健一は一撃も食らわなかった。撫でたりつついたりするのが攻撃判定にならなくて幸いだ。
和んでいた桂木が表情を一変させるのと合わせたように羽ウサギ達は森の中に戻っていった。
またこちらに来る事があったら人参を買って来てやろうと思う。
順調すぎる旅に嫌な予感を覚えていなかったと言えば嘘になるだろう。
その上フラグという意味では事前に嫌という程立っていたのに、正直な話、それは全くの予想外だった。
ゲームとは全く無関係な事を普通に話しながら、数時間程は馬を歩かせただろうか。
ついに山を登りきり、帝都と教国への分かれ道――ガイオニスの門兵と話した東三叉路――が見えた。
「あれ、曲がり角ですか? 初めてですよね……どうしよう、山田先輩、道わかります?」
「大丈夫だ……ってか、これまでもそこそこ分かれ道はあったんだぞ、言ってないけど」
慌てて地図をひっくり返し始めた桂木に思わず苦笑してしまった。
MAP内で幾つか道が分かれていても結果行き着く所が同じなら問題はないのだ。
ここのように違うMAPへ向かう意味での分かれ道は看板がついているし、騎乗物を持っていない頃は歩いて通った事もある。
騎士団所有の馬達だけに、帝都へ向かい慣れていたんだろう。教国の方へ手綱を向けると少し戸惑ったようだった。
「ここで出るモンスターが変わるんだ。アクティブはそんなに居ないけど……一応杏里と代わった方がいいな」
「あ、はーい。栗原さん……わ、ちょっと起きて……」
モンスターが切り替わるタイミングでもあったので、既に臀部的に限界を迎えている桂木に杏里との交代を頼んだ。
当の杏里は……爆睡している。全くもって緊張感がない。
まあ隣に誰も居なくてもそれはそれで安心なんだ。溜息をついて視線を戻した――瞬間。
「――はあああああああっ!」
何の気配もなかった。
感じたのは衝撃と鈍い痛み、そして聞き覚えのあるエフェクト音が唐突に響き、何もわからないままに視界が大きくブレる。
それこそ光のような速さで白い閃光が横合いから飛び込み、痛烈な一撃で俺を馬車から弾き落としていた。
「ぐっ……な、なん……」
視界の隅にステータスウインドウを展開。ダメージは確かにあるがそれほど大きくない。痛みさえ気にしなければ問題はないレベルだ。
馬達が嘶きを上げて足を止めていた。大きなエフェクト音で驚いたのは馬だけではないんだろう、桂木が馬車から顔を出して叫ぶ。
「山田先輩っ!? ……え、この子……」
「やめろ、戻れっ――!?」
モンスターだ、と続けようとして言葉が止まった。
俺の正面に立っていたのは贔屓目にも化け物には見えなかったからだ。
最初に目に入ったのは金色の髪だった。攻撃の威力から見て大型のモンスターだろうと判断して向けた視線が最初にそれを捕らえたのだ。
そのまま頭に焦点が合って今更のように気がついた。人間だ。そして、恐らくは子供だ。
タイミングを計るように小さく体を動かすのにあわせて短い金色の髪が揺れる。
本当なら愛らしいだろう表情を精一杯の緊張に彩り、その半ばを隠すように両手剣を正眼に構えている。
杏里が着ているナイトの基本衣装と似た服装、その上を部分的に覆う鎧にも見覚えがある。
ダメージのショックで抜けていた記憶が繋がった。そうだ、最初の裂帛の気合を込めた雄叫びも既に聞いている。
ただそれを向けられる相手がオーガではなく俺だというだけで――
「……クー、ミリア……?」
その言葉が合図になった。
ほんの少しだけ表情を歪め、一度だけ共に戦ったドラゴンナイトの少女が俺にその剣を振り下ろした。
「せ――やっ!」
縦に、返す刀で横に、全身を大きく捻って少女の剣が俺に向けられる。
反射的に向けたウォーメイスは二合で弾かれ、光をまとったクーミリアの剣がジャケットとシャツを突き破って胸にまで突き刺さった。
「ぐっ……なん、なんだよっ!?」
痛みで冷静な思考が出来ていないのが自覚できた。
クーミリアの攻撃なら相当無防備に食らい続けなければ死なないのはわかっているが、それでも痛いものは痛いのだ。
――ショートテレポート――
クーミリア、ついでに言えば馬車からも離れた位置に一瞬で飛ぶ。
奇襲で仕留めるつもりだったのか。少女の悔しげな表情を見ながら、自分を対象にヒーリングを使った。
こちらに来てから自分に回復魔法を使うのは初めてだ……まさか、その相手が彼女になるとは思いもしなかった。
「クーミリア、俺だ、わかってやってるのか? 何か事情があるなら――」
焦った中で精一杯の言葉にも耳を貸さず、再度俺へ剣を向け直すクーミリア。
問題はない。どう頑張ったってクーミリアに俺は倒せない。それは間違いない。
しかし逆に止めるにはどうすればいい? まさか彼女を殺せと――
「山田君、敵っ!?」
「杏里――だめだ、待てっ……」
敵の襲撃だと思ったのだろう。飛び出してきた杏里は寝起きらしく髪が随分とぼさぼさのままだ。
そしてそれに気づけたという事は――兜を被っていない。普段の服以外にまともに装備をしていない。
警告した俺と同時にクーミリアもそれに気づき、そして敏捷型ドラゴンナイトの動きに杏里は反応できなかった。
「え……ぁっ……」
「―――――あ、んり……」
無言のまま振り切られたクーミリアの剣が斜めに杏里の体を切り裂き、赤い血飛沫が盛大に舞う。
金色の髪と小さな体が軽やかに舞い、薄っすらと血の色に染まって輝いた。
余りにも非現実的な光景に思考が止まる間にも俺の中のどこかが冷静に杏里をターゲットする。
――ヒーリング――
スキルを使うと同時にPTウインドウを確認、派手なのは見た目だけで杏里のHPはまだ8割以上残っている。
それも治癒魔法で一瞬で全快した。しかし安堵する時間もない。
「やっ……痛……う、あああああっ」
俺からは背中しか見えないクーミリアが連続で剣を振るう。
一振り毎に杏里の体が朱に染まり、聞くに耐えない苦悶の声が響いた。
―― ヒーリング――
大丈夫だ、回復は溢れるぐらいに間に合っている。
このままどれだけ続いてもクーミリアでは杏里を殺しきれない。
……だが、それが何だっていうんだ。
連続でダメージを食らい、そしてすぐに癒される。
吹き出す血が虚空で消え去り、薄れて消える傷跡をなぞるように再びの剣戟が襲う。
ゲームではよくある、そして現実にすれば地獄の光景だ。
俺はこんな目に杏里を合わせたくないと言って、杏里も嫌だと言ったんだ。
それを、それが……くそ、わかってるのか――
「クーミリア……!」
――アークミスティリオン――
「――――っ!?」
杏里の周囲を青い光の壁が覆い、地獄の剣戟を塞き止めた。
小さな全身で大きく剣を振るう分だけ彼女の攻撃は弾かれた時に隙が大きい。
しかし耐えられるのは3発だけだ。クーミリアの攻撃速度なら数秒ともたないだろう。
杏里を回復してやる時間もない。まさしく仇を睨み付けるようにしてクーミリアの背後を狙う。
ショートカットのスキルを使うと同時にスキル欄を展開、左手でパッシブスキルの一つを稼動させる。
――ショートテレポート――
一瞬で背後に飛び、同時にウォーメイスを振り上げる。
もはや是非もなかった。
いや、そんな罪悪感は起こっていなかっただろう。
燃え上がるような怒りだけを胸に右手の棍棒を――
「――っ!」
少女の短い呼気が聞こえた。
俺が右手の棒切れを振り上げて下ろすまでには、それを聞く十分な時間がある
そしてそれは――最初から後ろを斬るつもりだった彼女の全力の剣が振り切られるのに、十分過ぎる時間だった。
「……えっ……?」
見事な一撃だったと思う。
これ見よがしに杏里を狙い、しかし最初から俺が狙いだったんだろう。
背後を見ることなく振るわれた光の剣撃は見事に俺の急所、首筋を捕らえ――そして、皮膚一枚すら切れずにそこで止まっていた。
目の前の『敵』が、いつか聞いたような歳相応の声を上げて呆然と立ち尽くすのを冷徹に見る。
「ぅ、ぁっ……」
止めることなく振り下ろしたウォーメイスの一撃が少女の顔面を襲い、一歩後退させた。
しかしそれだけだ。俺の攻撃一発じゃ前衛職にはとても痛撃を与えられない。
「……舐める、なっ!」
咆哮と共に前進したクーミリアの剣とメイスを合わせる。しかし俺の力では止められない。
恐らく意識的に打ち合わせた事で使えもしないソードパリィをした判定になったんだろう。
先程は弾かれただけのメイスが俺の手から離れて道の反対側にまで飛んだ。
だが、それがどうした。
偉そうに、そっちこそ舐めてるんじゃねえぞ、たかが中位職如きが――
「ぅっ……っ!」
構わずにそのまま右手を小さな体に振り下ろす。
職業補正値だけでも相当な筋力があるのだ。殴られた少女の左肩が不自然に下がった。
お返しのように連続で剣を叩きつけられるが、痛みさえ無視すればそんな物は何でもない。
全てが青い光に覆われた俺の体に触れる事すら出来ずに弾かれる。
起動したスキル、神の威光の力が俺を一切後退させずに守っていた。
「な……んで……」
三発の斬撃の全てが弾かれてクーミリアの表情に怯えが混ざった。
弾かれているだけで確かにダメージはあるのだが……あの杏里の姿を見た今、そんな事を言う気になどなれない。
もう一度拳を振るった。避けようとした少女の動きが不自然に鈍り、右肩を捕らえる。
俺の敏捷性は低く、しかし技術力は高い。動きは遅いのに何故か攻撃は当たる。
自分の剣は全て弾かれ、避けられるはずの鈍重な攻撃を無防備に受けて、一歩引いたクーミリアにさらに拳を重ねる。
顔面に届いた右拳に一瞬柔らかな感触が走り、直後に硬い物に突き刺さった手ごたえが帰った。
「ぐ、ぅっ……」
「――――っ」
余りにもリアリティのある感覚と赤く腫れた幼い少女の顔に、一瞬で頭が冷える。
勝敗は決している。いや、最初から決まっていた。
クーミリアでは俺に勝てない。きっと彼女もわかっていただろうに、何だってこんな事を……。
そして、それは俺も同じだ。何をやっているんだ、と自覚しながら……体は止まらない。
まるで自動攻撃を指定しているように、そのまま少女を殴り続ける。
動かない体を必死に振って放たれた二発の剣撃を無視して横っ腹に拳をねじ込む。
投げ出すようにぶつけられた剣を肩で弾き飛ばし、こめかみに右拳を叩きつける。
「う、うああああああああっ!」
破れかぶれの光の刺突――インパクトスラスト、だったか――を意に介さず、小さな顎を左拳が捕らえた。
ふらふらと後退してようやく体勢を崩し、クーミリアが地面に膝をついた。
「何でだよ……くそっ……」
戦う姿勢だけは崩した相手を前に、俺の腕もようやく止まってくれた。
彼女のHPは素で3000程度だった筈だ。
俺が一発殴ったところでダメージは100か200だがそれでも殴り続ければ痛みは蓄積する。
いや、蓄積どころじゃない。10回で半死半生、これ以上は場合によっては死ぬ。
それでも少女の目には闘志が消えていない。動けないのではなくただ力を溜めているだけのようにさえ見えた。
確かに座っていれば回復速度が上がる設定もある。しかしその時間は同時に俺のHPも回復させる。
俺と少女にある生命力の圧倒的な差。それは回復力にも影響している。
命を削って放った少女の剣は確かに俺に大きなダメージを与えていたが、それも自然回復だけで十分に癒えていくのだ。
冷静になった今、これ以上殴り続けるのは絶対にお断りだったが……どうしろって言うんだ。
悪いのは向こうだ。話を聞かずに襲ってくるNPCなんてモンスターと何が違う。
倒してしまえば、いっそ殺してしまえば――
「うー、お待たせー」
「――杏里っ!? 大丈夫なのか、血は……」
思わず握り締めていた俺の右手を、鎧と付属したグローブに覆われた冷たい手が握った。
いつのまにか立ち上がって装備を整えた杏里が俺の横に来ている。
「POT飲んだから平気平気。それに切られたって言うか……あれ、ブラッディソードの出血エフェみたい」
「――――」
思わずクーミリアに視線を戻していた。
ドラゴンナイトのスキルの中に、相手に弱ダメージと継続ダメの出血という状態異常を与える地味なスキルがあった。
恐ろしく低威力の為に人気がなくゲーム内ではほとんど見なかったが……そうか。
やっぱり最初から、杏里を殺す気はなかったのか。
「クーちゃん……この子が山田君の言ってたNPCか。というわけで……」
「あ、お、おい……」
極々平然と向かってくる重装のパラディンに向かって反射的に剣を向けるクーミリア。
それを予期していたように、軽く杏里の盾が振るわれる。
一応攻撃の判定だったんだろう。膝だけ持ち上げてほとんど屈み込んでいた少女の体勢がシールドパリィでさらに崩れた。
「とー……りゃっ!」
「う、うわ……」
相変らず気合の入らない掛け声と共に、杏里は少女に軽く笑いかけ――ガンッ! と鈍い音が響いた。
多くのゲームにあるだろう、盾で殴って気絶状態にするバッシュ系のスキル。盾が大型なのでヘビーバッシュか。
大きな盾で思いっきり顔面を殴り飛ばされたクーミリアは頭にひよこを浮かべて倒れ伏している。
サブ攻撃とは違いスタン率が高く、見た目とは裏腹にダメージはほとんどなかったはずだ。
ない筈だ。そうだったと思う。多分。ないよな?
「うん、決着!」
「……いや、もう、お前が良いならそれでいいけどな……」
どうも、そういう事らしかった。
持っててよかった荒縄ロープ、である。最初にカントルで買っておいたのが使う機会に恵まれた。
しかし気絶した少女の体を縛るというのは、もう倒錯的を通り越して変態的だ。
かといって急に起きると危ないので俺と杏里以外はクーミリアに近づかせられない。
そして杏里が一人で人間を縛ってしまう技術を持っていたなら、それはそれで今後の付き合いを考えなければならない羽目になるだろう。
しょうがなく俺もそっと縄を抑えるぐらいの形で、四苦八苦する杏里を手伝った。
そうしていてわかったのだが、この娘、歳の割にそんなに幼児体型というわけでもない。しっかりと柔らかかった。
どうもそれに気づいたらしい杏里が――いや、多分この場合は『俺がそれに気づいた事』に気づいて――微妙な表情をしている。
そして逆に俺はそれに気づかない振りをして、縛り終えた杏里に声をかけた。
「起こすぞ……いいか?」
「あー……うん」
まだ若干不満そうな顔つきだがそこの所は何とか収めて欲しい。
むしろぱっと見は縛り方に納得がいかないように見られそうで、他人事ながらそちらが心配だ。
ともかく。
いくら敏捷型のクーミリアの体力数値が低くとも放っておけば気絶はすぐに解けるだろう。
しかしわざわざ待つ必要もない、スキルを起動する。
――リカバリーオール――
ターゲット、クーミリア。
残り2羽程にまで減っていた頭のひよこがふわふわと飛び立ち、小さな体の割に大きな瞳が、ゆっくりと開かれた。
「……そう、か……」
「……冷静だな?」
「そのつもりで来たんだ。これ程にあしらわれるとは……思わなかったが」
「負ける気って……そんなの……」
「……そのつもりで……何のために、だ?」
殺しにかかった相手に捕らえられてもクーミリアは冷静だった。
困惑する杏里に自嘲した様に笑いかけ、もう青いオーラは消えている俺を見て続けた。
「何人もその姿を一目見ただけで、その神性を感じ取らぬ事はない。神に愛されし、認められし、それは代弁者であり代行者。神の使徒の再来を確認したと……私は陛下に伝えた」
「皇帝に……それは言わないんじゃなかったのか?」、
「それだけは出来なかった。あくまでも戦闘に関わらない形でとは言ったが……これだけの事実、陛下に伝えない事など、私には……」
「……そうか」
そういうものなのかもしれない。俺が口を出せるような事ではなかった。
そして恐らく、俺が一番聞きたい部分はその先にあり、クーミリアに隠すつもりはないんだろう。
「教国に神の使徒が戻れば、形勢は変わる。それは絶対に許容できない。配下部隊壊滅の汚名、その首をもってそそげと主命を受けた」
「……わかってたんだろ、無理だって。それは死ねと同じだって言わなかったのか」
カーディナルが神の使徒だというのは設定としてあった。しかしそれがそんなにも重いものだとは思ってもみなかった。
逃げるように問いを発した俺に、否定か、肯定か。少女はらしくない、どちらとも取れるような曖昧な笑みを答えに代えた。
「ガイオニスの兵士から連絡を受け、宮廷魔術師の転送でこちらに来た。もしも教国ではなく帝都向かうのなら……いや、それだけだ。さあ、殺すと良い」
何も言えなかった。
恩人を殺せと命令を受けてむざむざ殺しに来たのかと罵る気にもなれない。
彼女は間違いなく本気だった。そして、本気で挑んで返り討ちにあうのを知っていた。最初から全部わかっていたんだ。
襲撃をかけたのは俺一人しか御者台に居ない時。
テレポートする俺にはまともにやっても追いつけない。仕方なく別の人間を襲って挑発したその時も見た目だけ派手なスキルを使った。
そして可能な事なら戦いを避けようと、俺達が教国へ向かう道を選ぶまで手を出さなかったんだろう。
あのロリコンの――違うんだろうが――門兵が帝都に情報を流していたなら目的地も一緒に聞いた筈だ。
いつなのかは知らないが、追いついた時点で手をかけてもよかったのに。
主命を断る事も逃げる事も出来ず、俺に恩を仇で返す事も避けたくて、そして結果殺される道を選んだ幼い少女。
全く、ふざけてる。
何が悪いんだ。頭の悪い皇帝か、滅茶苦茶なこの世界か、神の威光を使った俺か。
それともお前か――『仕掛け人』
「……すまないと思っている。しかし……もう、私に残っているものは……頼む、終わらせてくれ」
さあ殺せ、と意気込んで言うならまだしも、気落ちしたように言われるから始末が悪い。
ふわふわの金髪と愛らしい顔、妖精のような声でそんな事を言われても正直困るのだ。とてもじゃないが殺せるわけもない。
振り返ると離れたところで見ている健一達も困った表情を見せていた。
桂木がぶんぶんと首を振っているが……わかってる、殺したりしないって。
どうしたもんか、と杏里を見て――さっき以上に思いっきり不満気に見返された。
「あたし、そういうの嫌い」
「……え……は?」
「いや、嫌いって……お前な」
ぽかんとするクーミリアと渋面を浮かべる俺に構う様子もない。
腕を組み、うん、と強く頷き、杏里は続けた。
「全然、死にたくなんてないくせに!」
「…………」
何となく、微妙な空気が辺りを包んだ。
俺もクーミリアも、ついでに言えば後ろの三人も無言だった。
言いたい事はわかるんだがその台詞はもっとこう、長い話の〆に持ってくるものじゃないだろうか。
二言目がそれってどうなんだ。幾らなんでも単刀直入が過ぎないか。
俺が突っ込む前に、杏里はさらに言葉を重ねる。
「その馬鹿みたいな王様も、馬鹿正直に聞いちゃった君もだけど……そんな事より、死にたくないくせに死ぬとか言い出す子供とか、凄く嫌い」
純粋にわがままな台詞だった。
でもそれは奇麗事じゃなく本音なんだろうと、それだけは確かに伝わったと思う。
理解が追いつかない様におろおろと視線を動かしていたクーミリアの表情が一瞬だけ歪む。
それに気がついたのか、単純に言いたい事を言っているだけなのか。
しかめっ面をふっと和らげて、杏里は少しだけ微笑んだ。
「お姉さんが聞いてあげるから、ほら、子供はもっとわがまま言いなさい」
「え……あ……」
「死にたくないんでしょ? 嫌なんでしょー?」
「…………」
正直な話、馬鹿な事を言っていると思った。
誇りと忠誠の為に死にたいと、そう言うに決まっていると思ったのだ。
しかしそんな俺の不安を他所にクーミリアはうつむいて黙り込んでしまった。
それは……確かにそうなんだろう。
振るう力がどれだけ強かろうと、口調がどうであれ、持たされた責任が何であれ、彼女はまだ幼い。
見た目からしてもはっきりと解かっていて、ずっとそれを理解していた筈だ。
言動に惑わされたつもりはないのに、どうしてだろうか。
そうして甘い所を見せてくれたりはしないと、他人を買いかぶって自分を下に見ていたのかもしれない。
正しくまだ子供なんだ。絶対死にたくはないだろうし、甘えもしたいだろう。
杏里に感心すればいいんだろうか。それとも呆れればいいんだろうか。
何かもう、コメントが出てこない。
呆然と立ち尽くす俺を尻目にクーミリアに歩み寄った杏里は、屈み込んでそっと小さな顔に触れた。
その表情は後ろからは伺えない。
でも、俯かせていた顔を上げて能天気なパラディンを見つめる少女の表情で……何となくわかる気がした。
「あたし達さ、ちょっと困った事があって旅をしてるんだ。でも後ろの三人は本当に素人なの」
後ろを示した杏里の手に沿うようにクーミリアの目線がずれた。
苦笑いを浮かべる健一とにこやかに手を振る桂木をぼんやりと見返している。
「だからさ、もう全っ然人手が足りないんだ。ライソードには用があるだけで、終わったらさっさと出る予定だし……」
「え……ぁ……?」
よしよしと少女の頭を撫で、背中に手を当てて少しだけ抱くようにして、杏里が笑う。
「ずっとの旅じゃなくて、もしかしたらすぐにでも終わるかもしれないけど……ね、一緒に来ない?」
「わ、たし……」
何の相談もなく勝手に勧誘始めやがって。
それでも、すがるようにこちらを見たクーミリアに俺が言える事なんて決まっていた。
「杏里が良いなら、いいんじゃないか。どうせその命令は果たせないんだ。魔法でも毒でも、納得が行くまで試してみろ。死なないぞ、俺」
「山田君……何かさ、もうちょっと言い方ってあるでしょ?」
杏里、お前にだけは言われたくない。
殺そうとした相手に拒絶されなかったのは随分と予想外だったらしい。
驚いたようで、混乱したようで……でも今にも手を取りたいような、そんな風に見える。
もう一押しかな、と杏里を見るとそちらもうんうんと頷いた。
「ね、この子強いし、一緒に来てもらってもいいよね?」
駄目押しなんだろう。離れていた三人を振り返って言った杏里に、桂木が笑って何かを言いかけて――――
「――駄目です――」
「え……」
「麻衣……?」
麻衣が、はっきりと拒絶を口にしていた。
「先輩を殺そうとして、栗原さんをあんな風にして……そんな人、絶対に要りません」
言い切った。そして、口を挟めなかった。
確かに道理だった事もあるし、戦えない麻衣達の事を考えていない誘いだと思ったこともあった。
それでも何かフォローをしようと口を開く前に、クーミリアが動いた。
回復力の高い前衛職だ。もう十分に回復していたんだろう。
縛られたままの状態から微塵もバランスを崩さず立ち上がり、大きく後ろに跳躍する。
呆然と見つめる俺達の前で少女の後ろから赤い魔力で編まれた剣が具現化され、縄を断ち切って消えた。
魔力の剣を作り出して投擲するイリュージョンブレード、こういう使い方もできるのか。
それに、逃げようと思えば最初から使えただろうに、それでも……。
「あ……待って!」
杏里の声にも耳を貸さず、無言のままで振り返って歩き去っていく。その方向は俺たちの進む向きとは逆。
そちらにあるのはガイオニスか――そうでなければ、帝都だ。
一瞬考えてからスキルを起動する。
パッシブスキル ――神の威光――
稼動状態へ。
「待てっ!」
スキルの効果か、クーミリアが足を止めてゆっくりとこちらに振り向いた。
距離が離れていてよくは見えないが、しかし、彼女の大きな瞳が少しだけ濡れているように見える。
呼び止めはした。でも何を言えばいいのかはわからない。
天秤にかけるというのなら、麻衣とクーミリアはとても釣り合いはしない。
それはカントルのあの日に既に決まっている。それでもやはりその時と同じように、このままじゃダメだと思えてならないのだ。
「猊下」
「……クーミリア」
先手を取られて、思わず鸚鵡返しに名を呼ぶ事しか出来ない。
少女は自分を殴り倒した男の情けない姿にほんの少しだけ笑みを浮かべた。
「猊下の御要望であっても……例え神本人の命令であっても、わたくしにとっては陛下の御言葉が優先されるのです」
「……そんな……そんなの……」
間違ってる、とは口に出せなかった。
半端に助けようとして期待を持たせて、後から蹴落とした立場でもある。偉そうな事は言えない。
「もう猊下に剣を向けることはありません。……そう、その剣を、誓いに代えて」
言われて、クーミリアが自身の剣を置いたままにしている事に気がついた。
そして視線を戻した時には、本当に驚くような速度で、もう声の聞こえない位置まで走り去っていた。
あれだけ早く走れるなら確かにカントルから帝都までも一日か二日だろうが……。
神の威光を消して溜息をついた時、オーガに襲われたあの日に聞こえない筈の彼女の声が届いたように、小さな謝罪を受けた。
――すまなかった
「……謝る事、ねえだろ……」
ガキのくせに、と。
今なら心から思える気がしたのに。
何とも言えない雰囲気だった。
「……確かに、危ないとか、不安だとか……ちょっと考えたのは事実だよ」
健一は自身の不信を認めた。
「可愛い子でしたし、悪い子でもなさそうでしたし。話はなんだかわかりませんでしたけど……麻衣、可哀想じゃなかったかな」
桂木はまだ罪悪感を感じているようだった。
「……先輩を殺そうとした、それだけで絶対に……絶対に駄目です」
麻衣は小さいけれど確かに、本当に怒っていた。
「んー、言いたい事言ったし、最後は死ぬ気って感じでもなかったし……何か、また会える気がしない?」
少し気落ちして、それでも杏里は明るく振舞おうとした。
「……まあ、とにかく行こうぜ。俺達もそんなに余裕があるわけじゃないしな」
そして俺は正論に逃げる事しか出来なかった。
クーミリアは誓ったけれど絶対とは言い切れない。別の刺客もありうる。
俺が一人で御者台に座って杏里が馬車の中で三人を守る。
言葉もなく、そんな形で歩みを進めた。
クーミリアの剣は大切に保管しておこう。必ず返す日が来ると信じたい。
――後から考えると、その日は案外早々に訪れたのだが。
「ね、山田君」
「……ん、どうした?」
一時間程歩いてようやくぽつぽつと会話が再開された頃、杏里が後ろから顔を出して話しかけてきた。
クーミリアを『撃退』して、一つの国に敵として見られている現実が俺達に降りかかった。
今までのようにのんびりした旅には出来ないだろうと、皆には移動中は車内から出ないように頼んでいる。
杏里にも一応は心境の変化があったのだろうか、しっかりと鎧を装備していた。
「やっぱり皆のレベル、上げた方がいいのかな。変な卑屈さとか、警戒心とか懐疑心とか……持ったりしたら」
「それぐらいで丁度良いのかもしれない。今回は俺に危機感が足りなすぎたんだ」
「そう、かな……」
これは間違っている。
不安気に、というより心配気に見つめる杏里の視線に思うものがあった。
杏里のおかげで悪い癖が抜けてきていたのに、少しシリアスになるとすぐにこれだ。
「……いや、悪い。俺が原因だって言って終わるのも、それはそれで逃げてるだけだな」
「あれ、なになに、ちょっと格好良い事言ってみたりして」
混ぜっ返されたが、微笑んだ杏里は全てわかっているような顔だった。
昨日余計な事を話したせいかもしれないが、能天気なくせに意外と侮れない。
「どちらにしてもこの辺のモンスターを狩らせてレベル上げってのは無理だろう。教国まで行けば初期MOBも居るし、とにかくそこまではしょうがないな。レベルの事は健一には話してみるから、そっちも女の方を頼む」
「うーん……だよね。サイレインでクエとかあればいいんだけど」
「……お使い以外でな」
苦笑しあって、少し調子が戻った。結局問題は先送りだ。でも、向き合うと少し楽になれると思う。
「しかし……NPCに敵対されるって普通はないよな。気をつけてたつもりだけどこれからは町の中も安全じゃないのか」
「松風さんの装備とか、ちょっと考えた方がいいんじゃない?」
「……言うのが、怖い。そっちは別に対策を取ろう」
頑張ってね、と軽く笑われた。
一緒に頑張ってくれ、頼む。
気持ちの切り替えも旅の中で学んだ事の一つだ。
昼飯にするか、と声をかけた時には元気よく返事が返ってきた。何よりだ。
「本日の昼食は、あたしが用意します!」
「……リカバリー、オール」
「早めの状態治癒魔法っ!?」
幸い杏里の手料理ではなかった。
俺の言葉に笑って反応しながらインベントリに触れた杏里の手元に、湯気を放つパイが実体化する。
なるほど、PC製作の魔法料理か……こちらではまだチョコレートしか食べていない。
「こちら、ミートパイになりまーす。五つ星なので、設定としてはほっぺたが落ちる程美味しい……筈!」
筈、なのである。
虚空から出現したミートパイを恐る恐る齧ってみると……なるほど、美味い。
腹も満腹になったが、しかし一気に満腹にまで持っていける食料を幾つも持ち歩く必要はない。
多分杏里の手元にもそんなに数がある訳じゃないだろう。雰囲気を戻そうとわざわざ振舞ってくれたんだと思う。
いい所があるじゃないか。目配せをすると、口元に小さく人差し指を立てて悪戯っぽく笑って見せる杏里。
俺の好感度を上げて一体どうしたいんだこいつは。何となく逆ギレに近い事を考えてしまった。
「うう、ううううう」
桂木はうんうん唸りながらちびちびとパイを齧り、時折ふええと泣き声をもらしている。
気落ちするな、桂木。教国に着いたらレシピを渡そう。それを使えばお前も魔法料理が作れる。
流石に食後の会話が盛り上がるという事もない。早めに出発となった。
「あのさ、山田、ちょっといい?」
「……今度はお前か」
歩き出して数分、顔を出したのは健一だった。
顔を狙われたら死ぬ……と言っても、流石にそこまで警戒したら何も出来ない。
それに杏里には言わなかったちょっとした希望なのだが、プレイヤー同士の対決、PKにはレベル制限がある。
レベル20に達していないキャラクターには対決の申請が出せず、対戦許可マップに入る事も出来ない。
クーミリアと健一がNPCとして判定されているなら意味はないだろうが、逆にNPC同士なら尚の事戦闘は起きない。
縛りに縛ってもすぐに限界は来る。顔を出すぐらいなら大丈夫だろう。
「さっきの、オーガと戦ってた子なんだよね? 山田が凄い僧侶で教国に向かってるからって、それだけで殺そうとしたの?」
「……らしいな」
「……何て言うのかな、その……それは山田にあんまりじゃないのかな」
確かにそちらの意味でもあんまりではある。
せめて帝国につくか教国につくかぐらい選ばせてくれてもいいんじゃないか。
「でもまあ、クーミリアが悪いわけじゃない。まだあの歳だし、命令されて嫌と言うってのは……なかったんだろう」
少しだけ期待を持つとすれば、杏里のどこまでも我侭な言葉が幾らか届いていればあの生意気な子供も多少の自分勝手ができるんじゃないかと思う。
自分が少しだけ杏里に変えられた自覚があるからだろうか、何となく期待してしまう。
能天気な友人に会ってちょっと明るくなりました、というのと同レベルで語るのも酷かもしれないが。
「あの歳で……もう、あんなに強いんだよね。普通なのかな、結構凄い呼ばれ方してたけど」
「凄いは凄いだろうな。この世界は中位職も少ないらしいし。でもあんなの俺なら一日で上がるレベルだぞ、それで持ち上げられて戦えだとか――」
「ちょっと待って、ストップ。今の言葉、もう一度」
ちょっと待ったコールがかかった。どこだろうか。
「クーミリアは凄い。中位職が少ない。俺なら一日で上がる」
「その、最後の所。レベルってそんなに簡単に上がるの?」
「あー……そうだな、難しい所だな」
ゲームの中ではレベルが低い内は楽に上がったのだが、この世界で簡単かと言われると何とも言いがたい。
モンスターそのものが微妙に少なく感じるし、何をするのにも時間がかかるように思う。
転送してくれるプレイヤー魔法使いも居ないしアイテムも売っていない。
しかし、全て勘案したとしても――
「レベルだけで言えば、この世界でも一週間ぐらいで届くと思う。多分な」
「そんなにすぐに上がるんだ……」
わかってるのか、一週間だぞ。これからさらに一週間とか行方不明が蒸発に変わりかねない時間だぞ。
「一週間もかけて強くなって何する気だよ。言っとくけどここでレベル上げたって現実では何の役にも立たない……んだ、ぞ?」
言っていてやたらと胸が痛んだ。7年も無駄な時間を過ごしやがって。そう言われたような気分だ。
むしろこうして役に立っているのはもしかして得なんだろうか、やはり損なんだろうか。
微妙にテンションが下がった俺の心中を察したのか、健一は軽く笑って、しかしすぐに表情を戻した。
「別に強くなりたいわけじゃないよ。怯えて過ごすのも、山田と杏里ちゃんに縋りつくのも、どっちも嫌なだけさ。出来ればすずちゃんぐらいは守ってあげたい」
「最初は桂木に守らせる、みたいな事言ってただろ。大した進歩だな、お前」
「…………あれは、冗談だよ」
無言の時間に微妙な罪悪感が感じられた。そっと目をそらす辺りも怪しいが、心意気に免じてやる事にする。
「とりあえずこの辺にはお前に倒せる敵が居ない。レベルを上げるにしても、どちらにしろ教国に行かなきゃいけないんだ。話はそれからだな」
「……そっか」
結局先送りにするしかない。それは事実だ。
でもそれで終わらせないと、さっき決めたところだ。少しだけしょげている健一の肩を抱く。
「でも、お前の希望は聞いた。お偉い神様が何の頼りにもならなかったら、その時は出来るだけ力を貸す。絶対だ、約束する」
「……ありがと、山田」
気にするな親友、と、口には出さなかったけれど。
いつかこの友人に背中を預けて戦う日が来るのなら、それは現実に戻れなくても悪くないぐらいの未来かもしれない。
「うわー、どうしようかな。変な話だけどイメージ的にはシーフがいいのかな。魔法使いは麻衣ちゃんの希望だし……あー、でもやっぱりナイトってあこがれるよね」
「……お前神に見捨てられる方がいいのか?」
そんな事ないよ、と首を振ったものの、健一の妄想は止まる所を知らなかった。
ナイトだろうがシーフだろうが勇者だろうが好きにしてくれ。どうせ俺は裏方の僧侶だ。
その時は桂木が惚れ直すぐらい、花を持たせるように頑張ってやろう。
幸いにも麻衣が夕食を作るとは言い出さなかった。
流れとして俺がインベントリから料理を出そうかとも思ったのだが、恐らく桂木には道中の食事について予定があったと思う。
昼はともかく夜にそれを乱すのは忍びない。俺は早々にシェフ桂木に出番を求めた。
「今日は昨日より大分適当なんですけど……」
言いながらもキノコ類と大根にごぼうやネギなんかの腐りにくい野菜をスープにしている桂木はどこか満足気で、多分間違っていないんだと思う。
「あれ、人参ないんですか? 沢山あるから使おうかなーと思ってたんですけど……」
ごめんなさい。羽兎が食べつくしました。
醤油に問題があるらしく、スープの味は微妙に違和感が残るものだったがそれでも十分に食べられるものだった。
そして意外にも醤油風味のスープ――汁と言うべきか――が主食のパンに合う。美味しゅうございました。
ごちそうさまです、を唱和するのも日本人だと思う。
今日は手伝わなかった健一が食器を片付けて――水は貴重なので食べたらすぐに軽く流して拭く、だけだ――今日も就寝だ。
「じゃあ今日は交代して、女の子組が先に寝る感じで、いい?」
「ああ、どっちでもいい。起こすからな、ちゃんと寝ろよ」
「そこまで言われると絶対起きないぐらいに寝て見せたくなるよね」
「やめてくれ……」
無駄に元気な杏里が馬車に入るのを見送って、そのまま見ていると桂木と健一も馬車に入っていった。
残っているのは……
「あの、先輩……」
「健一と交代か?」
「……はい」
健一じゃ杏里に手は出せない――物理的な意味で――から、確かにこれでも問題はない。
杏里が気にしないのなら、だが……二人とも平然と昼寝をしていたし、今更と言えば今更だろう。
いつもの様に二人並んで座り、システム的に暗くても十分に見通せる闇の中でぼんやりと空を見上げた。
モンスターは居ても野生動物は居ないので、寒さを毛布でしのいで火はつけずに過ごしている。
毛布一枚では幾らか冷えるので自然と距離は縮まっていった。
肩同士がしっかりと触れ合い、俺が一緒に毛布に入るかと言うべきか悩み始めたところで――麻衣が小さく口に出した。
「……ごめん、なさい」
「いや……麻衣が悪いわけじゃない。取り返しがつかない事になってからじゃ遅いんだ。俺が気遣うべきだったよ」
昼の事だろう。随分とわだかまりがなくなっていたようなので馬車の中ではもう話していると思う。
それでこうして俺たちを二人にしようと企んだ……そんな所だろう。
「……私、酷いですよね」
「そんな事言うなよ」
以前なら素直に受け取れた麻衣の言葉に、否定されるための台詞なんて出すなと言ってしまいそうになった。
弱音を吐いてもいい。でもそれに溺れたら前に進めなくなる。
「私、悪い子です……」
「麻衣……」
杏里が俺にそうしてくれたように、下を向いて小さな声で言う麻衣をたしなめようと思った。
しかし彼女の次の台詞に、その言葉を途中で飲み込む。
「でも……好きなんです」
「――――っ」
うつむいたまま、少しだけ震えて、何かを吐き出すように告白する麻衣。
「好きなんです、大好きなんです。本当に、先輩、私、だから……」
「……ありがとう、麻衣……俺もだ」
だから大丈夫だと言った瞬間、胸元に彼女が飛び込んできた。
2枚の毛布を挟んで確かに暖かな、柔らかい感触がある。目の前の髪が闇の中で尚も黒く艶やかに見えた。
俺もだと追従して言うんじゃなく、ちゃんと好きだと言ってやりたい。
なのに何故か口に出せない。
どうしてだ、言おう言おうと悩む間が、やはり麻衣の決意の時間になってしまう。
「先輩……」
胸に押し付けられていた麻衣の顔がこちらに向き直る。
焦りそうなぐらい近い距離に麻衣の全てがあって、かすかに囁かれた声の甘さにとろけそうになった。
本当に近い二人の間をさらに少しだけ縮めて――震えながら目を閉じた麻衣の意図をわざわざ確認するほど鈍くもない。
極々軽く顔を傾けて、それだけで唇に柔らかい何かを感じた。
さらに強く麻衣の匂いに包まれて知らぬ間に目を閉じる。
思ったより感動するような感触じゃないなと、冷静などこかで思っていた。
実際に触れ合っていたのは数秒だと思う。それは長いようでいて、一瞬にも感じられる時間だった。
「あ、あの……」
「えーと……」
明かりがなくてもわかるぐらいに頬を染める麻衣と見つめ合った。
暖かい、いや、熱いぐらいの気恥ずかしい空気。耐えられなくなったんだろう、麻衣が立ち上がった。
「お、お休みなさいっ」
「いや、待て、麻衣」
とりあえずローブの端を引っつかむ。
つんのめった麻衣は照れが怒りに変わったような表情でこちらを睨んでいるが、微妙に口元は緩んでいる。愛い奴め。
「お休みじゃないだろ。健一と変わったんならまだ5時間あるぞ」
「あ……ぅ……」
別に無視して戻ってもいいだろうに、根が真面目な麻衣らしい。大人しく隣に座り込んだ。
さて、どうしてくれようか。とりあえずは俺のファーストキスを要求した責任を取ってもらおう。
5時間をかけて先程の行為を数回繰り返した程度だったが、それでも残りの三人を起こす時間には麻衣は相当ふらついていた。
麻衣にした投資の成果を幾らかは回収できたように思う。体押し歓迎です。
馬車の中で眠る桂木と健一を軽く揺すると二人はしっかり起きてくれた。
しかし微妙にいびきをかいている杏里は何となく起きない気がしたので、呼ぶ前にスキルを使ってみる。
リカバリーオールが睡眠状態を解除。音が出そうなぐらいの勢いで杏里の瞳が開いた。
「……あれ、山田君?」
「ああ。交代だぞ」
「…………山田君、来なかったじゃん」
「……何にだ。思いっきり起こしに来たぞ」
寝ぼけているのだろうか、ううん、なんでもないんだけど、とよくわからない事を返された。
やはり寝起きは良くないらしい。寝床の上でふらふらしたまま話し続ける杏里。
「んー、松風さんと仲良くした?」
「お気遣いありがとう、たっぷりした。……いや、したのかと言われたらしてないけど」
「あー、そのぐらいなんだ……松風さんは多分それが限界だし、後は山田君からで」
寝ぼけた様子のまま、おっけーだからね、と言われた。何をだと言うべきか、知ってると言うべきか。
寝起きに下品な事を口走った杏里には一応制裁を加えて馬車を出る。
麻衣は麻衣で桂木にからかわれていた。もしかして俺たちは暇つぶしのネタか何かだろうか。
杏里もようやく出てきたし、こちらも戻ろう。
「とまあ、中に入っても結局二人なんだよな」
「そう……です、ね」
しかも今度は寝床がある。方向としてはさらに良くない。
扉代わりの布を閉めた後、どうにも動こうとしない麻衣の背中を押して、簡易に作った毛布の寝床に座らせる。
対面に座るとすぐに顔をそらされた。そういう風にされると、なんだか逆に困らせてみたくなる。
軽く力を入れてそっと押してやると、麻衣は押されるままに素直に横になった。
麻衣自身は結局のところ恥ずかしがるだけで拒んでいない。
杏里に言われるまでもなく、昨夜のことを思い出すまでもなく、はっきりとわかる。
冷静なつもりでも自分の中の何かが止められない。
布一枚隔てて友人が居るというのに、そのまま麻衣に覆いかぶさった。
「ぁ……ゃ……」
それでも顔をそらす麻衣から小さな声が聞こえて、それが逆に燃え上がらせる。
わざとやってるのか、そうなんだろう。なら、遠慮は要らない。
体重をかけると、怯えと期待で朱に染まった麻衣の顔、そして下に敷かれた毛布が近づいて――
――杏里の、匂いがした。
どこか蠱惑的に甘い麻衣の匂いとは違う、状況からすれば場違いな、透き通る香り。
ここは杏里が使っていたんだろう。昨日俺の匂いがすると言った杏里を何となく思い出した。
理由はわからない。冷めた、と。一言で言えばそうなんだろう。
身を縮めて目を瞑る麻衣に口付けて、お休みと声をかけて身を起こした。
「え……?」
麻衣の声を無視してそのまま隣に横になり、目を閉じる。
理由なんて幾らでもあるだろう。大事だから、急ぎすぎたくないから、外に人が居るから。好きに解釈してくれると思う。
今日も夢にはどうせパラディンが出てくるんだ。そう思って眠りについたが、結局夢にそいつは出てこなかった。
夢の中の俺は、どうして来ないんだと、八つ当たりの様な怒りを感じていた。
そうだな、起きた時最初に見た顔があいつの物だったら言ってしまうかもしれない。
来なかったじゃないか、と。