(これは…………何?)
詠唱はほとんど終わった。後は、魔力を練って最後の言葉を発するだけだ。集中するために閉じていた瞳を久しぶりに開けると、シオンはまず初めに我が目を疑った。
信じられない光景だった。予想していたことと、まったく逆のことが起きていた。
心の何処かで疑っていた。彼――フジシロ・ミキヤは、止めると言っていたが、心の何処かで無理だと思っていた。あの時は勢いで答えてしまったが、相手は魔族なのだ。普通に考えたら無理に決まっている。
だからどんな光景でも動揺しないように、目を閉じていた。どうせ開いていても意味はない。自分にあの斬撃を避ける実力はなく、失敗したら死ぬしかないのだから。
そして現実は、フジシロがワイルドルーディーを圧倒している姿だった。
否、それは違うかもしれない。闘いは繊細なものだ。一部始終を見ただけでは、どちらかを優勢と判断するのは難しい。他人から見えても、互いの心情はまったく別だったりする。
それでも、シオンはフジシロが優勢だと感じた。感じてしまった。
銀閃が煌めく。獰猛で直情的なそれは、ワイルドルーディーのかぎ爪だ。愕然とする。自分とやったときよりも数段速い。あれは遊びだったのだ。遠目でもシオンの双眸ではほとんど捉えることができない。
それを、フジシロはことごとく捌いていた。
時に躱し、時に受け流し、隙があれば反撃までしている。
明らかにフジシロは速度で劣っているのに、致命傷を貰わない。冗談のような本当の話。あらかじめ指示したところにワイルドルーディーがあえて攻撃をしているようなぐらい不自然に捌き切っている。
これは、もう手助けなんていらないのではないか。むしろ、手を出したら邪魔なのではないか。
シオンはそう思い始めていた。
レベルが違い過ぎるのだ。こうまで離れていると、どんな行為も邪魔にしかならない。シオンがDランクの同学年を相手にするのと一緒だ。動かれると、そっちに意識に割かなければならない。それは億劫で、隙に繋がる。そしてなにより、シオンには超高速で移動するワイルドルーディーに魔術を当てられるとは思えなかった。
上級魔術となれば、いくら単体専用でも相当広範囲に式を展開することができる。だがそんなことはなんの救いにもならない。相手は瞬きをしている間にシオンの首を狩ることができる。たとえ視界全て覆い尽くす魔術を展開しても、無駄な行為なのだ。ワイルドルーディーも、それを見越してこちらには何も仕掛けてこないのだろう。
どうしようもできない。
シオンは自分の無力さに唇を噛む。
驕っていた。自分は強いと、有りもしないことを思っていた。他よりほんの少しだけ前に進んでいただけで、そんな幻想を抱いていた。上には上がいること知ろうともせず、怠惰に過ごしていた。
だから、肝心なときに何もできないのだ。
きつく結んだ唇から赤い血が流れる。それを一顧だにせず必死に前を見つめていると、初めて状況に変化があった。
ワイルドルーディーがさらに速度を増した。それはもはや亜音速の領域だ。気付いたときにはフジシロの首に死の刃が迫っていた。
その先のことは分からなかった。爆発的な暴風が吹き荒れ、ワイルドルーディーから漏れ出た魔力が辺りに振動を起こす。金属音が耳に届くころには、フジシロは大きく吹き飛ばされ側面の岩が切断されていた。
状況は理解を許さない。ワイルドルーディーの姿は完全にシオンの視界から消えた。代わりに、銀の閃光が動く度にフジシロが後退する。固唾を持って見守ってもそれは変わらない。やがてフジシロは岩に身体を打ち付けた。
よろよろと立ちあがる姿に余裕は見受けられない。一方、ワイルドルーディーは傲然とそれを見下ろしていた。誰がどう見ても、フジシロの命は風前の灯だった。
このタイミングで使うしか…………
シオンは逡巡する。魔術はまだ完成していない。必要な魔力が足りてないのだ。もう少し時間をかけなければいけない。しかし今発動したとしても、およそ八割の威力は望めるだろう。それでも相当なものだ。
どうする?
考えるまでもない。フジシロはもう限界なのだ。加えて、油断している今なら当たる可能性がある。チャンスは今しかないように思えた。
シオンは集中し手を前にかざす。そして最後の一節を紡ごうとして――
腕が弾き飛ばされた。
シオンは目を見張った。痛みはなかったが、突然のことに気が動転したのだ。慌てて首を振って左右を見渡すが、人影はない。腕にも外傷はなかった。
どうなっている。シオンは自問自答する。気のせいでは決してない。自分は確かに何かの妨害を受けた。そしてそれは、まさに今、術を発動しようとするときだった。タイミングが良すぎる。あれではまるで――まるで誰かが止めたような。
突風が吹いた。シオンはいつの間にか俯いていた顔を上げる。
ワイルドルーディーとフジシロが再び剣を交わしていた。シオンは驚きで集めた魔力を零しそうになる。疲労で満身創痍に見えたフジシロが、どういうことかワイルドルーディーと同じ速さで動いていたのだ。
超高速の闘いは剣が交わり止まるごとに姿を目視できるぐらいで、シオンの瞳にはコマ送りでしか映らない。だがそれは洗練された一種の舞のようで、美しかった。剣が奏でる音も紙一重で躱して流れる鮮血も、全てがこの闘いを彩っているようだ。
永久に続くかと思われたそれは、やがて終わりを告げた。フジシロ大きく距離を取り、片膝をつく。見入っていたシオンは、はっと正気に戻った。
ワイルドルーディーはゆっくりと歩き出す。その足には、多くの傷がある。逆に、そこ以外に傷は一つもない。フジシロがわざとそこしか狙わなかったのが、シオンにはすぐ理解できた。
今しかないっ!
シオンは素早く手を前にかざした。
「魔人の憤怒を持って我が敵を裁く。――――イフリートの業炎」
紅蓮の炎は凄まじい威力だった。地面から湧きあがるとワイルドルーディーを一瞬で包み込み、天にまで届くかと思われるほどの勢いで全てを焼き尽くす火柱となった。大分距離がある幹也でも、身が焦げるほどに熱い。
しかし立ちあがって離れるのも、今は億劫だ。大の字で寝転がると、足音が聞こえてきた。幹也はそのままの姿勢で口を開いた。
「見事な一撃だった」
シオン・ミスタリアは、上から幹也を見つめる。
「威力も、精度も確かなものだ。後は時間さえ短縮すれば、使い物になる」
「本気で言っているの?」
淡々と口にされる言葉に、シオンは若干眉を顰めた。
「全部、きみがいたから出来たんじゃない。私は仕上がった土台に、最後を積んだだけ。きみは注意を割き、時間を稼ぎ、機動力まで奪った。それも、魔術を使うタイミングまでも考慮していた。どうやってか知らないけど、わたしの魔術を止めたのはきみでしょ」
「……ああ」
幹也は小さく頷いた。シオンの魔力を感知した幹也は、ワイルドルーディーに気付かれないよう風の初級魔術でシオンの腕を叩いたのだ。
「あの激しい戦闘中に、わたしにまで注意しているなんて…………きみは、何者なの?」
「……さあ、とりあえず普通の学生だと思うよ」
シオンの問いに軽く返し、幹也は持てる力を全て使って立ちあがった。
「無理しないで。まだ動ける状態じゃ――」
「ともかく、そう悲観する必要はない。最後の一撃は、本当に見事だった。あれでもし魔術が失敗に終わっていたら、おれにはどうすることもできなかったし。だから――」
炎の中で、影が動いた。
「気にするな」
「――――え?」
「ああああああぁぁぁぁあああ!!」
迷宮内を、殺意の籠った怒号が支配した。
火柱から物体が出てくる。それは黒く焼き焦げ、もはや何か判別できない。しかしすぐに異変が現れた。
燃えたはずの毛がどんどん入れ替わっていく。先ほどの、狼の怪物のように。焼け落ちた腕も、信じられないことに生えてきていた。
「…………うそ」
「……超回復再生か。まったく魔力を使わないから、変だとは思っていたんだが。これの為に温存していたのか」
茫然と諦めたかのように、シオンはへなへなと地面に膝をつける。表情には生気が失われている。
しかし、幹也は迷うことなく一直線に歩き出した
「どうしよっていうの?」
ぴたりと足を止め、前を向いたまま口を開く。
「いくつか、頼みがある」
「……は?」
「この出来事は、恐らく上で話題になる。おれは事情があって、あまり目立つわけにはいかない。だから、こいつはきみが倒したことにしてくれ。かかっている賞金も、全部きみのものでいい。それから――」
「ちょ、ちょっと」
「おそらくおれは、この後、数日は目を覚まさない。上に担いで行ってくれ。最後に、これから起こることは全て忘れて――」
「ちょっと待ってよ!! 何を言っているの? その言い方じゃまるで――」
あいつに勝てるみたいじゃない。
シオンの言葉は、しかし続かなかった。
「そう言っているんだよ。これだけは使いたくなかったが、きみを上に返すことは約束しよう。そして、巻き込むことを謝る。ごめん」
「な、何を言っているの? だいたい、もう魔力も無いのに」
「無いなら――あるところから持ってくればいい」
目を閉じる。イメージするのは一つの扉だ。大きくも小さくもない、普通の簡素な扉。鍵は自分が持っている。自分しか持っていない。それが役割だから。
ポケットからそれを取り出し、鍵穴に入れる。そうして回す。ただそれだけの、簡単なことだ。
「契約を持って――我は終焉の塔、五階層にアクセスする」
一気に膨大な量の情報が頭に流れ込む。雪崩のように一方的で、こちらの言うことは一切聞かない。頭が破裂しそうになる。身体に壊れてしまいそうな激痛が駆け巡る。人間には不相応な能力だからだ。
だが同時に、溢れんばかりの魔力が湧き出てくる。
時間は掛けられない。幹也は歩き出した。後ろで何か聞こえるが、無視する。
ワイルドルーディーはほとんどその姿を元に戻していた。
「小僧……てめぇは絶対殺す。斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬り刻んでやる。そして生まれた……あ?」
ワイルドルーディーの言葉が止まる。視線が彷徨い、顔にいく、正確には、赤色に変わった瞳に。
「お前、その目は…………く、くははははは! テメェ『鍵』か! どおりで色々知ってるわけだ。『扉』を探しにきて鍵に会うとは……くははははは! 殺すのはやめだ。連れて帰ろう。あの方もお喜びになる。ただし腕は――」
「黙れ」
「――あ?」
「死ぬのは、お前だよ」
「……上等だよ。テェメが――」
幹也は音を遮断する。味覚を遮断する。聴覚を遮断する。嗅覚を遮断する。視覚を遮断する。いらないもの全てを遮断する。あいつを斬れればそれでいい。
剣を鞘に納め、腰を低く構える。未だ身体は痛いが心は落ち着いている。
垂れ流している魔力を身体に留めていく。それを使えるように変える。属性は雷。
パチッパチッと電気を帯び始めると、それはすぐさま眩しいぐらい輝きを放ち始める。魔力の奔流が吹き荒れる。空気が音を消す。幹也は言葉を紡ぎだした。
「我が剣は疾風迅雷」
これは魔術ではない。純粋なる剣技だ。ゆえに、この言葉に意味はない。それでも幹也は口にする。これは尊敬する人の技だから。
「触れし者を全て斬る」
ワイルドルーディーが動いた。目を瞑っていても、気配でわかる。だがまだ遠い。まだだ。
「しかしてそれは悪にならず」
止まった世界で、ワイルドルーディーはゆっくりと向かってくる。もう少しだ。
「何故ならそれは――」
かぎ爪が振るわれた。そして、世界が動きだす。
「死ねゃぁぁあああああああ!!」
「――護りたい者を、護るためだから」
居合・瞬雷。
迷宮が眩い光に包まれる。遅れて、爆発音が地面を揺らす。
宙に舞うワイルドルーディーの首を見届けると、幹也は意識を失った。