爆発の直前、シオンが視界の端に捉えたのは、透明の液体が入ったフラスコ瓶だった。それは丁度、死角に当たる振りあげられたかぎ爪の下を絶妙に掻い潜り、ワイルドルーディーの顔面に当たって砕けた。そして理解する間もなく、爆発は起こった。
爆発の余波は、暴風となってシオンにも被害を及ぼす。顔を腕で覆い小石が目に入らないようにするが、そのくらいでは防げない。足が地面から浮きあがる。それと同時に、シオンは腹部に衝撃を感じた。
最初、シオンはそれをワイルドルーディーの追撃だと思った。しかし、どうも違う。追撃というよりは、強引に後ろへ引っ張られている感じなのだ。もっとも、分かったところでシオンにはどうしようもできない。そのまま身を委ねた。
ほんの数瞬で、シオンは地面に足をつけた。無意識のうちに目を瞑っていたシオンは、そのことを不意に聞こえてきた声で自覚した。
「もういいぞ」
「…………ふ、フジシロくん!? どうして――」
目と鼻の先にフジシロの顔があったことにシオンは取り乱して声を上げるが、唇に伸びてきた人差し指によってそれは遮られる。
「静かに」
フジシロは冷静な声で言った。彼は視線をワイルドルーディーに向けた。
ワイルドルーディーは顔面を両手で覆い、叫びながら地面をのたうち回っていた。あの程度の爆発なら、そこまでの被害はないはずだ。疑問に思うシオンの考えを察してか、フジシロは口を開いた。
「催涙爆弾だ。二分ぐらいなら、あいつの視力を奪えるはずだ。けど、あいつの聴覚だと、でかい声で喋ってると位置がばれる。まぐれでも一撃喰らったら死ぬからな。気をつけてくれ」
淡々と喋るフジシロ。シオンは怪訝そうに眉をひそめた。
「催涙……爆弾? どうしてそんな高価なものを」
爆弾というものは、相当高価な代物である。シオンもよくは知らないが、どうも調合が難しく材料も非常に珍しいとあって、あまり数が出回ってないそうだ。しかし、強力なものとなると上級魔術以上の威力があるので、探索者には重宝されており、学園支給の装備で身を固めるフジシロには過ぎた代物に見えた。
「さすがにこの装備だと心許なかったからな。いざという時のために持ってきたんだが、結局無駄にいつっ」
「っ!? そうだ、あなた大丈夫なの?」
いきなり腹部を押さえ顔を歪めるフジシロに、シオンは先ほどの光景を思い出した。何事もなかったかのように振る舞っているから忘れていたが、彼はディオスとケルムをワイルドルーディーのかぎ爪から庇い、一番重症のはずなのだ。普通なら、死んでもおかしくない傷を負っているはずなのだ。
「ちょっと見せて」
フジシロの手をどける。案の定、そこは制服越しでも分かるぐらい血で汚れていた。
「出血多量、あばら三本という所かな。まあ、問題ない」
「問題ないわけが――」
シオンの言葉は、フジシロの手で防がれる。無機質な鉄の匂いがした。鋭い眼光がシオンを射抜く。
「いいか、今はそれどころじゃない。このままだと死ぬんだ。多少の怪我なら、何一つ問題はない。分かってるだろ?」
静寂が場を支配する。シオンは目を背けることができなかった。その迫力に、圧倒されていた。それは、ワイルドルーディーに睨まれたときよりも、数段上だった。
やがて手が離れる。フジシロは静かに口を開いた。
「もう時間がないから、手短に言う。魔術戦士だよな? 単体への上級魔術は使えるか?」
「……使えるけど、まだ実戦で使うにはほど遠いわ。相当時間がかかる」
「何分?」
「完全に動かないで、およそ五分かな」
「よし」
フジシロは勢いよく立ちあがった。その動きは、重症者とは思えない機敏な動きである。
「なら、その時間はおれが稼ぐ。上級魔術をまともに受ければ、たとえ魔族とあっても無傷ではいかないだろ」
「なっ!?」
シオンは絶句した。あまりの驚きに、声が出なかった。シオンが歯も立たなかったところを、フジシロも見ていたはずなのだ。それなのに、こうまではっきりと「時間を稼ぐ」と宣言したことが、信じられなかった。金魚のように口をぱくぱくと開閉するシオンに、フジシロは微笑した。それは、さっきとは別人のような、柔らかい笑みだった。
「大丈夫。おれは死なないようにできているんだ」
「……フジシロくん?」
「こういう場面は何回も直面してきた。信じられないことは分かっているけど、納得してくれ。きっちり五分、稼いでやるから」
「……本気で言ってるの?」
「冗談言う場面でもないだろ」
「……そう」
戦闘での五分とは、気の遠くなるような長い時間である。それが証拠に、シオンがワイルドルーディーと打ち合ったのは、一方的な受け身にまわったにも関わらず三十秒にもみたない。しかも、この闘いにはさらに条件が追加される。五分間、何もできないシオンを守りきらないといけないのである。それは足手まとい以外の何者でもない。常識的に考えたら、フジシロの言ったことは到底不可能な話なのである。
しかしだ。
シオンはそれに賭けてもいいと思ってしまった。否、こちらを見据えるフジシロの瞳が、そう思わせてしまった。そこには、自身が宿っていた。一流の探索者とはこういうものなのだろうか、シオンはなんとなく想像してしまう。失敗したらパーティーは全滅だが、どうせいい案があるわけでもない。ならば最後くらい、冒険してみるのも悪くない。
「分かった。他に何かすることはある?」
「あー剣貸してくれるかな?」
気恥ずかしげに言うフジシロに、シオンは一瞬首を傾げすぐに思い当たった。そういえば、彼の武器は学園支給のショートソードなのだ。それでは傷一つ、つけられない。
「いいわよ。どうせだったら防具も貸そうか? わたし、ただ詠唱するだけだし」
「いや、剣だけでいいよ。防具は着る時間ないし、サイズが合わないだろうから」
フジシロは剣を慣れた手つきで鞘から引き抜き刀身を数秒眺めると、「いい剣だ」と呟いて、すぐに納めた。
「じゃあ、行ってくる」
まるで散歩に行くような気軽な声で、フジシロは歩き出した。シオンはその背中を一瞥すると、すぐに詠唱を開始した。
「さて、困ったことになった」
悠然と歩く幹也は、一人そう呟いた。大見えを切ってきたはいいが、五分も止める自信はさらさらなかった。よくて三分が限界だろう、というのが彼の本心である。しかしあの場では、そう言う他に方法がなかった。
あのままだと、シオン・ミスタリアという少女は、さらに闘いを挑んだであろう。それは無茶を通り越して無謀である。才能があっても、彼女はまだ未熟。力の使い方も、魔力の操り方も、何も知らない。たとえ何度挑んだとしても、死ぬしか道はなかった。ならば、自分がやる以外に術はないのである。
大丈夫。
幹也は自分に言い聞かせる。シオンに言ったことは、全てが嘘ではない。今まで修羅場を潜ってきたのは事実である。その回数は、およそ同年代の者とは比べ物にならないだろう。だからこの場に至っても、幹也は対処法を心得ている。
大きく深呼吸。身体に炎系統の肉体強化を施す。何万回と繰り返してきたそれをすることにより、徐々に落ち着きを取り戻す。鼓動を平常状態に持っていき、借りた剣を鞘から引き抜き一振りする。軽い。手に馴染む。別段何か特殊付与がされているわけではないが、それは名刀と言って差し支えないものだった。折らないように気をつけねば、と幹也は丁寧に圧縮強化をかけた。
準備は終了。あとは――
「あああぁぁぁああ!」
突如、ワイルドルーディーが迷宮内全体にとどろくような雄たけびを上げた。
「小僧ぉ! なんだか愉快なことをやってくれたじゃねーか。さっさと死んでおけばいいものを」
「さて、なんのことやら」
いい具合だ。幹也は挑発しながら、冷静に考える。今回の目的は、倒すことではない。あくまで時間稼ぎだ。ならば怒らせてでも、こちらに注意を引きつかせなければならない。もうひと押しだ。
「はっ! 言うじゃねーか。…………まあいい。お前よりもあの女が先だ」
しかしワイルドルーディーは冷静だった。よほどシオンの魔力が気にいったのだろう。それは仕方ないことである。幹也とシオンでは、魔力量が十倍違うのだから。
「おいおい、おれとは遊んでくれないのか」
「お前より断然あの女の方が断然美味そうなんだよ。安心しろ、お前はここであっさり殺してってやるから」
ワイルドルーディーが前かがみになって突進してくる。速い。超近戦闘型と聞いていたが、まさかこれほどとは。予想を遥かに超える。しかし、ここを通すわけにもいかない。こいつには、自分一人を見といてもらわないと困るのである。
ゆえに幹也は、その単語を口にした。
「扉だろ」
ワイルドルーディーの動きが、嘘のようにぴたりと止まった。振りあげられたかぎ爪がゆっくりと降りていく。幹也は不敵に笑い、続きを言った。
「まったく、わざわざこんな僻地まで探しにくるとは、御苦労なことだ。いくら結界が弱まっているとはいえ、相当な力を必要とするだろうに。ルシフェルの命令か?」
「てめぇ……」
「何驚いてるんだよ。知ってる人間がいても、不思議じゃないだろ」
もっとも、お前みたいな大物が動けるようになっていたとは思わなかったがな。幹也は心中で呟いた。長らく迷宮と離れていたため、ここまで本格的にやばくなっていたとは、思っていなかったのだ。
沈黙が流れる。そしてワイルドルーディーは、口元を歪めた。
「なかなか面白いじゃねーか。いいだろう、お前と遊んでやる」
「そら、どうもっ!」
油断しきったワイルドルーディーに、幹也は剣を振る。完全な不意打ち。この距離なら当たる。幹也はそう確信して、しかしその期待は見事に裏切られた。
当たったと思った直後、地面が爆発した。否違う。驚異的な脚力でワイルドルーディーが地面を蹴ったのだ。結果、計ったかのように剣は空を斬り、幹也はたたらを踏んだ。
「礼儀がなってねーな小僧。誰もまだ合図は出してないぞ」
「今のが合図なんだよ。犬野郎」
減らず口を叩きながらも、幹也は次の手を考えていた。あれを躱されたとなると、これは真剣にきつい。一体どうやったらあの一撃に反応できるのか、教えて欲しいぐらいである。自分だったら、あっさりと半分になっていただろう。敵の単純な戦闘能力は、幹也の遥か上をいく。
しかし、勝負は別である。幹也は足の裏を地面につけたまま、這うように動く。ゆらゆらと、半ばそれは病人のように頼りない。ワイルドルーディーは構うことなく幹也の懐へ、力任せにかぎ爪を叩きつけた。
――はずだった。
「ぐっ!」
悲痛の声を上げたのは、ワイルドルーディーだった。引き裂いたはずの幹也が、死角から足を斬りつけたのである。ワイルドルーディーはそこに向かって蹴りを放つが、その行動は予想していた。幹也は屈んでそれを避け、転んで間合いを取る。
ワイルドルーディーはそれを追わず、かぎ爪と血が流れる足を交互に見比べる。隙なく構える幹也に向かって、やがてぽつりと呟いた。
「どういうことだ?」
それは、思わず口にしたかのようだった。いくら考えても納得できなかったのだろう。
「おれの一撃は、確かにお前を裂いたはずなんだがな」
「手品は得意なんだ」
凍てつくような視線に、幹也は素っ気なくそう答えた。ワイルドルーディーの瞳が見開かれる。とうとう激昂したのかと思い、幹也は腰を低くして次の動きに対応しようとする。しかし、そうではなかった。
「くくく……いいぞ小僧。ここまで面白いのは久しぶりだ!」
戦闘快楽者。高笑いするワイルドルーディーを見ていると、頭の中でそんな単語が浮かんだ。こういう相手は厄介なのである。長引くほど強くなる。もし幹也一人だったら、すぐに撤退しただろう。
ため息をつきたいのを我慢して、幹也は言った。
「来いよ、犬」