幹也が睨みつけるその場所には、当然だれもいない。話しかけても、変化が起こることはなかった。白い壁が立ちふさがるだけだ。
もしここにシオン達がいれば、怪我で頭がおかしくなったと思っただろう。
しかしそれでも、幹也は眉根を吊りあげながら言った。
「いい加減しろ。こっちは病み上がりでだるいんだ」
「…………」
返事はない。幹也は大仰にため息を吐き――掌に魔力を集めた。
「出てこないなら――」
「もう、相変わらず辛抱というものが足りませんわ」
甲高い声だった。空気が歪む。そして彼女は、そこにいた。
異様な出で立ちだった。フリルふんだんにあしらった漆黒のドレス。力強く輝く金の双眸。細長く伸びる白皙の脚は、やけに妖艶だ。長い金糸の髪がそれをさらに際立たせる。シミ一つない顔は十代ように見えるのに、発せられた言葉はその歳とは思えない落ち着きを持っていた。
浮世離れした格好なのに、この少女はそれに負けない雰囲気を放っている。何処か――そう、毒々しいと言えばいいだろう。迂闊には近づけない、悪魔のような美しさだ。
しかし。
そんな彼女には、非常識な美しさよりも注目すべき点が三つある。
一つは、背中に羽があること。黒い、肩からはみ出るぐらいの小さな羽だ。複雑な紋様が刻まれており、ときおり点滅している。
二つ目は、それを小刻みに動かし浮いていること。この場合は、飛んでいると言った方が正しいだろう。
そして最後は、彼女があまりに小さいことだ。そのサイズは、幹也の手と同じくらい。明らかに人間とは言えない。
「せっかくの再会……そう、再会。それなのに、どうしてこうも幹也は無愛想なのでしょう。わたくし、涙で前が見えませんわ」
「うるさい。再会で姿消して、気配までも消す奴がいるか、ただのストーカーじゃねーか」
「それもですわ。どうしてそこまでしたのに、気づいてしまうの。あと三日は観察に興じるつもりだったのに」
「いや、ないから。相変わらず変態だな、レファルシー」
「あら、人間とは興味深い生き物ですわ。愚かで、怠惰で、卑屈で。それなのに時折、こちらの予想を遥かに上回る存在がいる。実に観察しがいのある愛すべき生き物ですわ。ゆえにわたしは、あなたのそばにいるのです、幹也」
レファルシーと呼ばれた少女は――否、少女と呼んでいいかは定かではないが――口元に含んだ笑みを浮かべた。
「あなたは変わりませんわ。身体が弱体しようが年月を重ねようとも、気高く美しい。そのありようは人間と思えない。一度、解体して中身を調べてみたいぐらいですわ。ああ、そういえば幹也……あなた、いくつになったの?」
「…………十九歳だ」
「十九歳」
レファルシーが繰り返す。
「あら、おかしいわね。わたくしの記憶が正しければ、五年前に別れたときあなたは二十一歳だったはずなのだけれど。年齢が下がっていくなんて、人間とは奇妙なものね」
「嫌味を言うな。いいんだよ。もともと、自分の歳なんて分からないし、前の方が詐称
気味だったし。もっと言ってしまえば、おれに歳なんて関係ないしな」
物心ついたときに自分が何者なのか教えてくれるものは、幹也の周りにはいなかった。ゆえに、幹也は自分の歳を知らないし、誕生日も分からない。そして、それが気になったこともない。
何故なら、幹也の容姿は数年前からずっと同じなのだ。身長も伸びないし、体重も増えない。髭も生えてこないし、皺もできない。正真正銘、ずっと同じままだ。
確証はないが、幹也は死ぬまでずっとこのままだと思っている。だから、歳など関係ないのだ。
「ふふふ、冗談よ。冗談。それくらい知っていますわ。これでもわたくしは、あなたをずっと“視て”いたのだから」
「待て。“視て”いただと?」
わずかに幹也の眉が動く。
そうよ、とレファルシーは自らの紅い唇をなぞりながら言った。
「二十四時間、三百六十日。春霖の月、轟の月、紅の月、雪嶺の月。片時も離れず、あなたと精神を共有して、内側から視ていましたわ」
「それはつまり、そういうことか?」
「そういうことですわ。接続率が上がったの。もっとも、ほんの少しだけ――埃程度のものだけですが。だから出てきましたの。おそらくは、一年間接続しなかったことが原因でしょうね。うすうす感づいていたのでしょう?」
「ああ。自信はなかったがな」
いつもより早く目覚めた理由。そこを突き詰めていくと、その考えしか浮かばなかったのだ。
「ということは、あの時、お前は爆発に巻き込まれたわけじゃないんだな」
「違う。それは違いますわ。幹也が無理をするから、外に出ることもできなくなっただけ」
「そら、悪かったな」
ふてくしたように鼻を鳴らす幹也。レファルシーは小さく笑った。
「怒らないでよ。せっかくの再会なのですから。五年振り、嬉しくって涙が出そうでしょ」
「別の意味でな」
「あら、何が不満なのかしら。言ってごらんなさい」
「ふざけんなよ。お前が出てきたってことは――」
「ああ、そういうことね」
レファルシーは軽やかに舞うと、幹也の肩に乗った。
「そうよ。始まるの。愉快で、残虐な、血に塗れた殺し合いが。わたくし、今から楽しみで仕方ありませんわ」
「それも、相変わらずだな」
「あら、幹也は楽しみじゃないの?」
「そんなわけないだろ」
「そうね。そうよね。幹也は優しくて甘いから。まあ、今、その話はいいですわ。どうせ全てが終わるには後十年以上はかかるでしょうし」
十年後に全てが終わる。それはすなわち十年後に世界が滅ぶことであり、まったくもってどうでもよくないのだが、しかしそれをこの見た目可憐の中身腹黒女に言っても意味がない。幹也は口をつぐんだ。
「そんなことより、あの小娘たちはどうしますの?」
「小娘たちと言うと、シオンとミリアのことか?」
「それ以外、誰がいますの。あの、愚かな小娘たち。幹也は、どういたしますの?」
信念を持って、道を突き進む二人。それは尊敬さえもする。できるなら、助けてやりたい。金色の悪魔が関係してくるのなら、自分も無関係とは言えないだろう。
だが、しかし――
「放っておくよ。それが一番だ」
「そう。放っておくのね」
幹也の返答に、レファルシーは喜色を浮かべた。
「わたくし、あなたのそういう残酷なところ好きよ、幹也。今、放っておくということは、見殺しにするのと同意だもの。なにせ、相手は金色の悪魔。このままいけば、そこに辿りつく前に死ぬでしょう」
「なら、どうする。あいつらとギルドを組めと言うのか。それこそ、巻き込むことになる。死んだも同然だ」
幹也が最後まであれを使わなかったのは、巻き込みたくなかったからだ。自分に関わらせたくなかったからだ。それは、死を意味するから。
それなのに、ギルドを組んでしまったりしたら、、ああまでした意味がない。
「あら、あの娘たち、才能はありそうでしたけど。まあ、そこら辺は、幹也の方が見極めるのは得意でしょうけど。どうですの?」
「才能は……あるよ」
幹也は俯きながら言う。
「おそらく、鍛えれば三年もすればSランクの端っこには引っかかるだろう。その後は本人次第だな」
「凄いじゃない。そこまでとは、わたくしも予想してなかったわ」
「だが、三年はかかる。それまでに死ぬ可能性のほうが、ずっと高い。それともなんだ。俺があいつらを守って鍛えろというのか」
「ふふっ……そうね。なら――わたくし預かりというのはどうでしょう」
「……は?」
幹也が呆けた声を上げる。
「レファルシー、何を考えているんだ?」
「いいじゃない。もう彼らには頼らないのでしょう。だったら、同じ目的を持った仲間が幹也には必要ですわ。それに、興味がありますの。特にあの紅い髪のほう」
「……シオンか」
「そう。確かシオン・ミスタリアと言っていましたわね。シオン・ミスタリア。あの傲慢さは、あの女に通じると思いませんこと。幹也が唯一負けた、あの女に」
「似てないさ。あの人はもっと強かったし、容姿も全然ちがう」
「容姿云々の話ではありません。強さで言えば、あの女より強い人間など、わたくしは知りませんし。ですが、よく似ていますわ。わたくしの言っている意味が、分かりますわよね?」
「…………」
分かっている。シオンはあの人に似ている。
あの人はもっと傲慢で、我が侭だった。容姿も全然違う。能力も、使う魔力だってかすりもしない。
しかしそれでも似ていると断言できるほど、シオン・ミスタリアは似てしまっている。
だがそれを、幹也は認めたくなかった。それを認めると,情が移ってしまう気がした。
「まあ、いいですわ。そんなことは、どうでもいいですわ。似ているだけなんて、所詮似ているだけですから。ともかく、わたくしはあの娘たちに興味があるのよ。実に知的好奇心を刺激してくれます」
「それで、どうしろと?」
「だから言っているでしょう。わたくし預かりだと。そうね、少し試してみたいのよ」
「試す、ね」
「試練みたいなものを、与えてみますわ。それに合格したら、幹也もあの娘たちに協力してあげなさい」
「いや、それ俺に得が何一つないんだが」
「あら、あの娘たちが戦力になるかもしれないじゃない。それに、わたくしが与える試練よ。合格する確率は、せいぜい一割……いえ、それ以下でしょうね」
「ああもう。はいはい、分かったよ。勝手にしろよ」
「いいのね? もしかしたら危険な目に……というか、失敗したら簡単に死ねるわよ」
「向こうも、それは覚悟しているだろう」
「ふふっ……じゃあ、お許しも出たし、さっそく行ってきますわ」
レファルシーが肩から離れると、ドアが勝手に開いた。彼女は休めていた羽を優雅に広げ、そこから出ていこうとする。
しかし、唐突に振り返った。
「忘れていましたわ」
「まだ、何か?」
「誓いの言葉を」
レファルシーは頬笑みを浮かべ頭を下げる。
「我が身はあなた様の傍らに。我が魂はあなた様の内に。たとえ全てを敵に回そうとも、このレファルシー・クィンツェッタ、幹也様に忠誠を誓います。――終焉の鐘を、鳴らすまで」
そして、レファルシーは消えた。存在そのものが部屋からなくなった。
やっと一人になった幹也は、開いている窓から外を眺める。
時刻はまだ昼を過ぎたぐらいだ。日差しがきついにもかかわらず、多くの人々が行きかっている。病室には冷却魔術がかけられているが、見ているとこっちまで暑くなってしまう。
そのくらい、ルディエンス公国の首都、モールは人に溢れている。
「終焉の鐘か…………」
はたして十年後も、この光景は続いているのだろうか。
幹也は、小さく呟いた。
シオン・ミスタリアの家は貴族だ。東部の片田舎だが、一応中流と言って過言じゃないだろう。屋敷もそれなりに大きい。
しかし、彼女は田舎者ゆえに、いわゆる”貴族らしい態度”や”貴族らしい場所”というのが酷く苦手だった。
大通りから少し外れた場所にひっそりとたたずむ喫茶店『クラウン』は、いかにもそういう”貴族らしい場所”だ。
木を基調とした内装は、落ち着きがあって趣味のよさがうかがえる。出される食器も雰囲気を整える為か、全てアンティークものだ。
シオンはそういうことに詳しくはないが、隣にいるミリアがいちいち「うわっ……」とうめき声を上げていた。どうやら相当高いものらしい。
カウンターに並ぶコーヒー豆にも圧巻だ。ずらりと数十種類。注文されてから入れるため、全て豆のままで置かれている。しかもそこに立つ人も出来過ぎだ。齢六十に届きそうな老紳士。引きしまった肉体と鋭い瞳には老練さを漂わせているが、口元に生える豊かな白髭には愛嬌がある。
質素にして豪奢な調度品の数々は、全て安心してお茶を楽しめるための雰囲気作りのためなのだろう。それは理解できる。この喫茶店は、素晴らしいところだ。
だが、落ち着かない。
食器を割ってしまったらどうしよう。
何か作法を間違っていないだろうか。
そんなことばかり考えてしまう。
壊したり割ったりしても店主は弁償しろとは言わないだろうが、正義感の強いシオン自身がそれを許さない。たとえ借金をしてでも返すだろう。
だから、出されたコーヒーにも手をつけれずにいた。
隣の友人はなんとか対応できているようで上品にコーヒーを含んでいるが、つき合いの長いシオンには見た目ほど余裕がないことは明白だった。
そもそも、このコーヒー自体が高い。
千二百シクル。ガルロンならば十二ガルロン。いつも飲んでいるコーヒーが二百シクルのシオンにとって、それは価格破壊という値段だ。似ているだけの、別の世界に来てしまったのではないかと、本気で思ってしまう。
もっとも、今回このコーヒーは奢りなのだが。
「シオンさん、お口に合いませんでしたか」
そのコーヒーを奢ってくれた自分より年下の少女は、心配そうにこちらを見つめている。
シオンは慌てて手を振った。
「う、ううん。ちょっと考え事してただけ。ほんと、それだけだから」
「そうですか。よかった、ここはコーヒーが自慢なんですよ」
それは見れば分かる。なんて減らず口は、この場ではさすがのシオンも吐くことができない。
コーヒーをすすりながら、シオンは眼前に座る少女をこっそりと見遣った。
アシリアス・オルマニウス。
聖女と称えられる少女は、この空気にも負けてない。むしろ、この上なく似合っている。
夜を連想させる黒髪。雪のように儚いローブ。
蒼い双眸は水晶のように透き通っており、見つめられるとどぎまぎしてしまう。容姿はまだ幼いが、それはすでに完成された美となっていた。
公国を統べる四貴族。その一系にあたるオルマニウス家の長女である彼女は、シオンとは住む世界が違う。
権力、財力、地位、探索者としての力も、まったく吊り合ってない。普通なら話すこともままならない。
そんな相手とどうして優雅にお茶をしているのか、シオンも分からなかった。
「突然すいません。待ち伏せなんてことは、オルマニウス家の家訓に反するんですが」
コーヒーを半分ほど飲みほしたところで、アシリアスが話を切り出した。今かと待ち構えていたシオンは、ずっと聞きたかったことを口にした。
「それはいいんだけど……どうしてあんな所で、待ち伏せなんか」
用事の終わったシオンとミリアスは、大通りをぶらつくことにした。今回の事件でそれなりに金も入るし、シオンはもうすぐAランクになるということで装備をそろそろ新調しようとしたのだ。
そうして、とりあえず武器屋に向かおうとした矢先、先ほど別れたばかりのアシリアスに会った。何か用事があったんじゃないんだろうか、とシオンは疑問に思いながらも笑顔で挨拶したら、いつの間にかここに連れてこられていた。
意味が分からないが、仕方ない。シオンにもさっぱりだ。有無も言わさない強制出頭だったのは確かだが。
「今回の事件のあらすじと、その他、色々を聞こうと思いまして」
「それなら、病院内で聞けばよかったのに。あんな所で待っとくの、疲れたでしょ?」
「いえ、病院内はミキヤさんの領域内なので」
奇妙な物言いに、シオンは首を傾げた。
曲がりなりにも、首都の大病院だ。そこら辺の屋敷とは比べ物にならないぐらい大きい。幹也の目が届かない場所など、いくらでもあると思うんだが。
アシリアスは頬笑みを浮かべたまま答えない。まあいい、とシオンは思考を打ち切った。
「じゃ、まずどんなことが聞きたいの?」
「そうですね……一番聞きたいのは、シオンさんたちがミキヤさんの秘密をどうするかです」
「え?」
二人の声が重なった。
心臓がどくんと跳ねる。
「ちょっと。秘密って何よ」
「もろもろ、全てですよ。あの人の絶対的な強さや、理不尽な裏技。その、全てです」
「ま、待ってよ。今回ワイルドルーディーを倒したのは――」
「いいえ、シオンさん。申し訳ありませんが、それはあり得ないんですよ」
冷や汗を背中にかきながらも言い訳を並べようとするシオンを、アシリアスは冷淡に遮った。
「フジシロ・ミキヤという名前は、ある一定の所では大きな意味を持ちます」
アシリアスは淡々と続ける。
「知っているものが非常に少ないがゆえに、その価値は計り知れないほど重い。今回の事件の情報は、裏では高値で取引されています。」
「そう、なの?」
シオンは黒髪の青年を思い浮かべる。
適当に切り揃えられた短髪。何を考えているか分からない横顔。
黒髪黒目という以外にさして特徴のない彼は、シオンにとってつい最近までどうでもよかった。自分に寄って来る、有象無象と同じだった。
しかし、今は違う。彼はどうしても欲しい。
だが今回、一緒に共闘したといっても、シオンはミキヤのことをほとんど知らない。同じ学園で、迷宮に潜ろうとしない変わり種というぐらいだ。
何となく、それが悔しかった。
「そうです。おそらく、一万ガルロンは下らないんじゃないでしょうか」
「それは……」
シオンは声を失った。
情報は貴重だ。それは覆せない。だが、たかが情報というのもまた事実だ。
一回話を聞くだけでそんな大金を払うことは、シオンには考えられない。それだけで、この情報を扱う者達の力が想像できる。
「ですから、無理なんです。わたしたちの間では、この事件の中心はミキヤさんだというのはすでに決定事項なんです」
「そっか」
だからか、とシオンは心中で呟いた。
アシリアスはお見舞いに来たとき、一度もミキヤに何をしたかは尋ねなかった。それをシオンは不思議に思っていた。普通なら真っ先に尋ねることだ。
遠慮しているのかと思っていたが、それは間違いだった。言う必要がなかったのだ。
言わなくても、伝わっている大まかな内容で、全て理解できたのだろう。
「そう。全てミキヤがやったことよ。残念だけど、わたしたちにワイルドルーディーを倒す力なんてない。ごめんね、嘘ついて」
「いえ、ミキヤさんが頼んだことでしょうし。むしろ、安心しました。その様子だと、お二人は秘密を守ってくれるようですね」
「うん。約束だしね」
「よかったです。これで、わたしもしかるべき処置をとらなくてすみました」
「――――もし、わたしたちが誰かれ構わず吹聴した場合、アシリアスちゃんはどうするつもりだったの?」
今まで沈黙を守っていたミリアスが、初めて口を開いた。
突然のことに、視線を遣る。ミリアスは珍しく笑みを浮かべてなかった。真剣な表情で、前を見つめている。どうしてそんな顔なのか、シオンには分からない。
アシリアスはやはり冷静に、ただ淡々と、明日の天気を話すのと変わらない口調で。
「殺します」