バルシネーがエウメネスたちの出征を知ったのは軍議が終わってまもなくのことであった。
軍神アレクサンドロスならばともかく、エウメネスや、ましてレオンナトスが6万にも及ぼうとするペルシャ軍に挑もうとするのはいかにも無謀な試みに思われた。
まともに考えればわずか5200人で救援に向かうのは正しく自殺行為である。
いくらマケドニア軍が精鋭といえども服属したばかりの現地兵と合わせて4倍の兵力差を覆すにはアレクサンドロスのような奇蹟的な幸運を必要とするであろう。
それにしてもなぜこれほどに胸がざわめくのか。
夫の仇であり、誇りを傷つけたエウメネスがこの機会に無様に死んでくれるならばそれはバルシネーにとっても幸いであるはずだった。
あの日の告白以来、エウメネスという存在はバルシネーの心に抜けることのない棘を刺し続けている。
憎い憎い憎い――――――。
あの優しそうな笑顔の影で私の愛するメムノンを毒殺した。
虫も殺せないような綺麗な顔をしてあれほどの武人を無惨にも戦場の外でだまし討ちにした。
そして何よりも許せないのは、薄汚い罪悪感にかられてこの私を憐れんだこと………。
ああ、許せない許せない許せない―――――!
どす黒い感情で胸が張り裂けそうな錯覚にとらわれる。
こうした負の感情に支配されるのはバルシネーにとっても生まれて初めての経験で制御するのは不可能であった。
そうだ。
あの男には名誉ある戦死など相応しくはない。
もっと、口にするのもはばかられるような不名誉で死ぬまで長く続く拷問のような生こそが相応しいのだ…………。
「姉さん!エウメネス様がダマスカスに出征されるというのは本当なの?」
アルトニスが血相を変えて現れたのはそのときだった。
妹がエウメネスに惹かれているであろうことをバルシネーは知っていた。
夫の仇だというのに、しかも王家に連なる誇り高い私たちを侮辱した最低な男だというのに………。
そう思うとバルシネーの心臓のあたりがチリチリと甘痒い痛みを訴えるのだった。
「そうらしいわね。今度こそあの男の悪運も終わりかしら」
「そんな………!」
サッと顔を青ざめさせるアルトニスを見ると何故か胸のもやもやが治まるような感じがした。
そう私は何も間違っていない。
大事な妹があんな卑劣な男に惹かれていいはずがないのだから。
「ペルシャ軍6万に対してたった1万5千の兵でいったい何が出来るのかしらね」
ことさらエウメネスの命運が尽きたかのように振舞って見せたもののバルシネー自身がそうなることを望んではいない。
それでも言わざるをえない不可思議な衝動がバルシネーを突き動かしていた。
「どこにいくの………?」
咄嗟に身をひるがえして部屋を出て行こうとするアルトニスを鋭いバルシネーの声が引きとめた。
底意地の悪い笑みを浮かべてバルシネーはアルトニスを牽制する。
それに今さらいったところで出征の準備で忙しいエウメネスにはどうせ会えはしないに違いなかった。
「姉さんはそれでいいの―――――?」
ズキリと心臓から血が流れ出すような痛みが走った。
どういう意味なの?とアルトニスに問いただすべきなのかもしれなかったがなぜか言葉が出ない。
死んでしまえばいい。
いや、ここで死んでしまってはメムノンの恨みは晴らすことが出来ない。
私はエウメネスに生きて帰ってきて欲しいのか?
いったい私は何を求めているのか―――。
「…………どうせあの卑劣な男のことだから生き汚く戻ってくるに違いないわ………」
かろうじてバルシネーはそう呟いた。
エウメネスならば勝てないまでも生きて帰ってこれるのではないか?
漠然とそうした期待を抱いていることもまた事実であった。
「どんな理由でもいい……………生きて帰ってくださればそれ以上は望まないわ…………」
祈るように胸の前で両手を組むアルトニスの姿は、同性のバルシネーが見ても惚れ惚れするほど美しかった。
これまで控え目な性格に隠れて目立たなかった大輪の華が、恋を知って咲きこぼれるように花弁を開いたような光景であった。
妹に初めて恋を教えたのがメムノンではなくエウメネスであったということにバルシネーは再びエウメネスへの怨念の炎が燃え盛るのを自覚した。
―――――――――帰ってきなさい、エウメネス。あなたに復讐する権利があるのは私だけ。あなたを地獄に突き落としていいのは私だけ――――――――。
「いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ!死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!オレが死ぬオレが死ぬ!死ぬのはいやっ!死ぬのはいやあああああ!」
「そろそろ落ち着きなさいレオンナトス」
ゴメス!!
一瞬目の前で火花が散ったかと思うと猛烈な頭頂部への痛みにオレはようやく正気を取り戻した。
あまりの激痛に反射的にうずくまって頭を抱える。
こいつ本陣を離れた途端遠慮がなくなりやがったな。
それにしてもひでえ話だ。
プトレマイオスの奴もペルディッカスの奴も貧乏くじを引きたくないものだから、王の気持ちが変わらないうちにオレとエウメネスを叩きだしやがった。
たった5千程度でどうしろと?自慢じゃないけどオレは弱いですよ?
「アンティゴノスの手腕からすればしばらくは現地兵を繋ぎとめておけるでしょうが、それでも限界があります。早く助けにいってやらないとダマスカス周辺で服属した兵がみんな寝返って壊滅しますよ」
「やっぱりおっさんだけじゃ勝てないか?」
「陛下じゃあるまいし、あなたはアンティゴノスにどんな期待をしているのですか?」
「いや、あの親父が負けるとこあまり想像できないし………」
長身と美貌と隻眼と下手な国王よりよっぽど迫力あるからな。
しゃべってみると気のいいおっちゃんなのだが、………もっとも外面だけなので油断できんけどなぜか憎めない親父なんだよな。
「確かにあの人が簡単に敗北を認めるとは思いませんが…………だからこそ性質が悪いのですよ」
「まあ煮ても焼いても食えない親父だけどな」
「そういう意味ではありません……まあ否定もしませんがここで問題なのはあの人は損得を考えて利があれば平気でマケドニアを裏切ってペルシャに味方する可能性もあるのですよ」
「はあああ??」
エウメネスに言われて初めて気づいたが確かに野心家のアンティゴノスにとって彼の望みを叶えてくれるならそれはダレイオスであっても構わないだろう。
いかにアレクサンドロスが天才でもアンティゴノスほどの宿将が裏切れば連鎖的にマケドニア軍は崩壊することは疑いない。
冷や汗がタラリとこめかみから頬を伝って顎へと落ちていく。
「つまりオレたちはアンティゴノスがペルシャに投降しないうちに救援しなければいけないわけだ」
「ようやくわかっていただけましたか。というわけであまりアンティゴノスを待たせるという選択肢はありません」
「無茶ぶりだろっ?!それ!」
あわよくばアンティゴノスに頑張ってもらってペルシャ軍が疲労したところを奇襲しようと思っていたオレの思惑はあっけなく砕け散った。
確かにあの親父ならありうる。
このままアレクサンドロスについているより利益があると判断すればあの親父は顔色ひとつ変えずに味方を裏切る。
もっともダレイオスの下について親父の野心が叶えられるとも思えないので、よほど追い込まれない限り裏切ることはないだろうが………。
「じゃ、じゃあ夜襲というのは……?」
「だめですね。グラニコスの夜戦を思い出してください。ペルシャ軍は決して夜戦に弱いというわけではありません」
「一点突破でアンティゴノスと合流する…………」
「せっかくの援軍がたった五千程度では味方の士気が下がるほうが早いと思いますよ」
「それじゃどうしろってんだ!?」
次々と作戦を駄目だしされてさすがのオレもキレた。
そもそもオレはアレクサンドロスやエウメネスのような英雄ではない。
ただの血筋がいいだけのボンボンだ。
自分が戦いというステージで活躍するには何か決定的なものが不足しているということは誰よりもよく承知していた。
「――――私に頼るのをやめなさい、レオンナトス。今回の主将は貴方であり私は補佐役にすぎないのです。助言はしますが最終的な判断は貴方がしなくてはなりません」
アレクサンドロスが救援軍を率いるのを指名したのはあくまでもレオンナトスであり、エウメネスではない。
マケドニア人としては例外なことにレオンナトスは自分が凡人であることを理解していて、才能あるものに敬意を払うのを当たり前のように考えているが、そうでないもののほうが遥かに多いのだ。
ここでエウメネスが自分の思うままに軍の采配を振るったりしては逆に二人とも処罰の対象になりかねなかった。
それに―――――――。
「この戦いはまともな考えでは勝負にすらなりません。そうした意味で私は貴方がたまに見せる常識外な発想に期待しているのです。おそらくは陛下もそれを直感的に察したのでしょう」
良くも悪くもアレクサンドロスは直感の武将である。
こと戦に関するかぎりその彼の閃きがはずれることはほぼありえないと言ってよい。
ならばアレクサンドロスの直感に応えるだけのものが、きっとレオンナトスには秘められている。
これまでの付き合いを考えてもそれは十二分にあり得ることだとエウメネスは確信していた。
間違いなくレオンナトスは凡人である。
政治的センスも軍事的センスも本当に王家に連なる人間かと思えるほどにひどく歪つで危うい。
にもかかわらず数字計算に長け、人の心の機微に敏く、驚くほどの情報通であったりもする。
ヒエロニュモスにも探らせているがレオンナトスの情報源はいまだに全くその入手経路が不明なままであった。
独自の諜報網を持ち、時に協力、時に敵対するアンティゴノスとは好対照である。
そう考えるとエウメネスは生来生まれ持った知的好奇心が沸々と胸の奥から湧きあがるのを感じた。
レオンナトス、君はいったい何を隠しているのだ?
呆れるほど庶民的な凡人の君が、どうしてマケドニアの武人らしからぬ学識を手に入れたのだ?
君はいったい何者なのだ――――――?
さあ、早く私を驚かせてくれ。
陛下も認めた君の異能を早く私に見せてくれ。
エウメネスの内心はともかくとしてレオンナトスはようやく落ち着きを取り戻したようであった。
本当にひどい無茶ぶりだがエウメネスの言わんとするところはわかった。
まともには戦えないからまともでない戦いかたをしろ、と。
そしてそこで必要なのはレオンナトスではなく、どうやらブカレスト大学史学生ヴラドであるということらしい。
……………まぁ多少は戦史上の戦術やエピソードには詳しいとは思うが…………
それが机上の空論であるということをオレは知っている。
軍という組織は命令を伝達することにすら将の力量を必要とする非常に複雑で鈍重な生き物なのだ。
紙の上で知っている知識を現実に再現することは至難であるし、あまり時代を先取りした戦法は歴史を歪めることにもなりかねない。
……………とはいえここでオレが死んだらそれだけで歴史が変わるんだよな。
ふと、このところしばらく思い出さなかった恋人シャーロッテの顔が思い浮かんだ。
それはいつもの強がりな表情ではなく、幼なじみであった昔のさびしがり屋な少女のような表情だった。
……………そんな泣きそうな顔をするなよ。
大丈夫、必ず生きて帰ってみせるから。
早く戻って強気で前向きなお前でいられるように傍にいてあげるから。
ここの気候なら使えそうな策もないわけじゃない。
「エウメネス、ひとつ考えがあるにはあるんだが………………」
そのときなぜか、必死に泣くのをこらえているようなシャーロッテの顔が、どこかアルトニスに似ているような、そんな気がした。