ついに言ってしまったとパルメニオンは抑えきれなかった自分の激情を嗤った。
こんな言葉をぶつければアレクサンドロスが激発し、決して自分を許さないであろうことをパルメニオンは気づいていた。
しかし同時にそれでもなお言わねばならないとも思っていた。
テュロスの攻防はマケドニアに有利に風向きが変わり始めているが、そのために失われた貴重な時間は二度と戻らない。
本国のアンティパトロスからはスパルタの不穏な敵対行動が報告されており、続く激戦にマケドニアの精兵からも厭戦の声が漏れ始めていた。
そもそもこれほど長い遠征をおこなうこと自体が前代未聞なのだ。
確かにアレクサンドロスは奇跡的な幸運の将だが、幸運とは永久に続かぬがゆえに幸運と呼ぶのである。
たった一度の敗北がマケドニアの滅亡につながる事態をパルメニオンはこれ以上看過できなかった。
「パルメニオンよ。貴様は王を知らぬ」
そうしたパルメニオンの思考を、アレクサンドロスはついに生涯理解することはなかった。
彼ら家臣はいつだって現状維持を肯定する。
今、自分の才能は世界に羽ばたこうとしているのに彼らはマケドニアのような田舎が恋しくてならないのだ。
ペルシャの圧倒的な財力と、眩いばかりの文化洗練度を見せつけられてなお、彼らは現状から変わることをよしとしない。
その頑迷さがアレクサンドロスにはあまりに泥臭く矮小なものに感じられてならなかった。
「いいえ、先王陛下はおっしゃられました。国王のもっとも大事な役割は国を無事に次代へとつなげることなのだと」
フィリッポスの親友であったパルメニオンだからこそ断言できる話であった。
王国は決して国王の欲しいままにできるものではない。
傍目には好きなように王国を切りまわしているように見えてもそこには未来へ国の命脈を繋げていくという確固とした戦略が存在する。
国王の戦死、暗殺、イリュリアの侵攻とフィリッポスが即位した当時のマケドニアは滅亡の寸前まで追い詰められていた。
だからこそフィリッポスは取りうるかぎりの権謀術数を用いて国内を整備し、ヘラスの分裂を誘い、辺境を征服して国力の増進に努めてきた。
フィリッポスほどの英雄が後世に梟雄と呼ばれ決して人気が高いとはいえないのはなりふり構わぬこの頃の権謀術数に負うところが大きいのである。
しかしアレクサンドロスが物ごころついたころにはマケドニアはすでにヘラスのリーダーシップを取るほどに強大な軍事国家になりおおせていた。
ヘラス最高の頭脳とまで呼ばれたアリストテレスまで招聘したアレクサンドロスの英才教育によって、アレクサンドロスは幼くして世界の大きさを知り、その逆に祖国に対する思い入れというものを失っていった。
マケドニアのさらなる国際化のためにフィリッポスはあえてそれを問題視はしなかったが、やはり危機感は抱いたのだろう。
アレクサンドロスの側近として生粋の国粋主義者であるクレイトスとクラテロスを手配している。
フィリッポスがどれほどマケドニアを想い、どれほどの努力をしてきたか盟友たるパルメニオンは余すところなく知っていた。
若き日、いつ滅亡するかヘラスのポリスたちに嘲笑とともに賭けの対象となっていた貧弱な祖国をいつかヘラスを導く大国にして見せる。
そう二人で誓いあったのは愛するマケドニアを未来に繋げていくためであったはずだ。
決して個人的な虚栄の投機に賭けさせるためではない。
マケドニア国王はマケドニアあってこその国王であり、国を守護する義務がある。
現代風に言うならばフィリッポスの考え方は近代型の啓蒙君主であったプロイセンのフリードリヒ大王に近いものと言えるかもしれない。
偉大な父をもつ者の常であろうか。
即位する以前からアレクサンドロスは父のやり方には批判的であった。
生まれときから貴種として大事に育てられてきたアレクサンドロスはフィリッポスのように生死が隣り合わせの人質生活を送ったりはしていない。
与えられたものをどう活用して自らの生に意義を見出すか。
母譲りの感受性の強さで教師から神話と歴史を学んだアレクサンドロスにとってフィリッポスの清濁を合わせのむ泥臭い手法はその有効性を認めつつも英雄としての品を欠くものと感じていた。
英雄たるの生き方にはそこに美学が存在しなければならないはずであった。
もしもそうフィリッポスに問うたとすれば、マケドニアの戦略的勝利こそが何よりも優先されるというのが美学であると答えたかもしれない。
しかし少なくともアレクサンドロスにとって、なりふり構わず汚れ仕事も平気でこなす父の姿は王者に相応しくない堕弱な在り方に思われていたのである。
「人が生まれて必ず死ぬように国家もまた永遠ではありえない。しかし人が成長し大きくなっていくように国家もまた成長していくことが可能だ。あるいは歴史に永遠に名を遺すということも」
「それは賢者の言であって王の吐くべき言ではない!」
パルメニオンは血を吐く思いで絶叫した。
もしかしたらいつかはこの若者にもわかってもらえるのではないか、と期待していた。
国王の重責を担い、国を経営すればフリッポスの苦労と理想を理解してくれるのではないか、と。
だがそれが永久に不可能であることをパルメニオンはアレクサンドロスの断固とした主張のなかに卒然として悟らざるをえなかった。
現実を生きる民を背負った為政者は後世の歴史の風評などを気にするべきではない。
たとえ悪逆無道をそしられようと国を豊かに、安全を長く保障していくことこそが全てで誇りや美名などというものは統治するための方便として利用できるというだけの不純物にすぎぬ。
少なくともフリッポスという男はそうした王であった。
しかしアレクサンドロスという男の意思はマケドニアという国家の枠には留まらない。
実際にアレクサンドロスはペルシャを征服した暁にはマケドニアという殻を脱ぎ捨てペルシャ世界を中心とした新たな王朝を建設することを視野に入れていた。
その結果マケドニアと言う国家が地図上から消滅してもなんらの感慨も覚えなかったであろう。
歴代の覇者を鑑みるにアレクサンドロスの考え方はむしろ正しい。
ただそれはマケドニアをほとんど一から強国に育て上げたパルメニオンにとって許容できる思考でないこともまた確かであった。
「パルメニオン殿!陛下に対してなんという言い草かっ!」
側近のペルディッカスとヘファイスティオンが顔を真っ赤に染めて今にも斬りかからんばかりに吠えた。
ヘファイスティオンはともかくペルディッカスは虎の威を借るなんとやらだ。
自分が至高と信じ、また同時に自らの権力の源泉となる王を軽く扱われて思わず激発した、というのが正直なところであろう。
アレクサンドロスを模倣し、自らももう一人のアレクサンドロスたらんとしている点においてペルディッカスの右にでるものはいない。
臣下として明らかに行き過ぎたパルメニオンの発言には穏健なプトレマイオスすらもしぶい表情を隠さずにいた。
それをアレクサンドロスは軽く右手を振るだけで一掃した。
「余がパルメニオンであればあるいはペルシャの申し出を受けたやも知れぬ。しかし余はパルメニオンではなく、パルメニオンもまた余ではない。ただはっきりとしていることはパルメニオンよ。いかに勇猛で聡明なお前でも王に仕える臣下であるということだ。王の言葉を、理想を、臣下のみ身でこれ以上語るでない。先王よりの功績に免じて今日の無礼な見逃してやる」
「…………ご厚情に………感謝いたします………」
パルメニオンは項垂れたまま天幕を後にした。
どうしようもない無力感がパルメニオンの年老いた身体を容赦なく貫く。
パルメニオンが想定していたレベルを遥かに上回るレベルまで拡大した戦火を治めるには今しかないはずであった。
しかしアレクサンドロスは誰が止めようともあくなく勝利を手にするまで戦争を続けるだろう。
あるいは彼の天運をもってすればペルシャを倒し、新たに王の中の王に成り変わることさえ可能かもしれない。
――――――だがそれは本当にマケドニアにとって良いことなのか?
広大なペルシャの地を支配するためにはヘラスよりも進んだペルシャの官僚機構に頼らざるをえまい。
人口比率を考えても宮廷にペルシャ貴族の割合が高くなることもわかりきっている。
それによって最終的には王がマケドニア人になっただけで、マケドニアはペルシャ人に支配されてしまうのではないか?
もしそうなら我々はなんのために戦っているのだ?
「―――――何故………私を置いて逝かれたのです。フィリッポス陛下―――――」
(とうとうオレたちもここまで来たぞ!パルメニオン!)
(この先ヘラスはそれほど旨みのある土地ではなくなる………これからはペルシャだ!)
(いつの間にか年をとったものだな、オレもお前も――――)
パルメニオンにとってマケドニア王国こそは生きてきた証。
長年の親友との絆そのものであった。
忘れ形見であるアレクサンドロスを盛りたててマケドニア王国に繁栄をもたらしたい気持ちは確かにある。
だが、王国のためにアクレサンドロスが邪魔になったそのときには―――――。
今はだめだ。
アレクサンドロスを失えばマケドニアが滅ぶ。
言語障害を患ったアリダイオスではアレクサンドロス亡きあとのマケドニアをペルシャの侵攻から守り抜くことは不可能であった。
だがこのままアレクサンドロスに任せておけばいつかマケドニアはアレクサンドロスが生まれた場所というだけの西方の片田舎におとしめられてしまうだろう。
哀惜とも憎悪ともつかぬ凶暴な感情がパルメニオンを支配した。
「…………すまぬ。………フィリッポス、すまぬ…………!」
自分のしようとしていることはもしかしたら世界帝国に羽ばたこうとしているマケドニアを掣肘するものであるかもしれない。
だが、どうしてもパルメニオンには許容できなかった。
彼がフィリッポスとともに築き上げてきたマケドニアという故郷は子供のような英雄願望の供物にするべきものではないはずであった。
たとえこの戦争で得られた占領地を全て失うことになろうとも、しかるべきとき、ペルシャ戦での勝利が確定したそのとき、アレクサンドロスには死んでもらう。
幸い兵たちの間で長期の遠征を危ぶむ声は大きい。
アレクサンドロスの幸運も戦場を離れてしまえば常人のそれと変わるところがないことも大きかった。
これまで漠然とアレクサンドロスに対する危機感を抱いてきたパルメニオンがはっきりと謀反を決意した瞬間であった。
「い、一大事でございます!」
風塵に全身を汚れさせた使者が駆けこんできたのはそのときだった。
ようやく落ち着きを取り戻しつつあったアレクサンドロスがテュロス攻略の詰めを議論しようと諸将を並べた軍議の席に、息せききった使者はあいさつもそこそこにアレクサンドロスに向かって絶叫した。
「ペルシャ軍が大挙してダマスカスへ侵攻!その数およそ6万!!」
思いもよらぬ大軍勢にアレクサンドロスでさえが息を呑む。
ここでアンティゴノスが敗れるようなことがあればせっかく優位に立ったテュロスの攻防も大逆転だ。
いや、それどころか退路を断たれたマケドニア軍を、降伏して味方についたフェニキア海軍が見限らないとも限らない。
そうなればマケドニア軍の全滅は必至であった。
そんな使者の報告を瞳孔を見開いて冷や汗で全身を濡らしたレオンナトスが聞いていた。
いやいやいやいやいやいやいやいや!聞いてない!そんな史実は聞いてませんよ?オレはっ!!