バルシネーはまるでひな鳥が親鳥について回るかのようにエウメネスについて回るのが日常になりつつあった。
彼女の見るところエウメネスは会話する相手としては全く申し分のない男であった。
容姿も美しく物腰もたおやかで武勇は一流であり、学識はペリシャ世界にあっても有数なものであろう。
政略にも知略にも鋭く激しく通じている。
彼にもっとも近い人間をあげるとすれば…………それはかつて愛した夫メムノンをおいて他にあるまいとバルシネーは考えいてた。
武勇・政治力・統率力・学識が非常に高い次元で整備されているあたりは瓜二つと言ってよい。
しかしその人となりについては180度異なるものと言わざるをえなかった。
己の力量に見合った地位を欲してやまなかったメムノンとは違い、異国人であるせいだろうか、エウメネスは己の手腕を発揮することが出来ればそれでよしとする雰囲気がある。
むしろ政治や軍事に関わりを持つことが厄介事であるように感じられるほどだ。
それはエウメネスの本質が行政官であり、また純粋な学究の徒であるせいでもあるだろう。
だがことの問題はそんなところにあるのではない。
問題なのはどうやら自分が女としてエウメネスに惹かれつつあるということなのであった。
メムノンが巌であるとするなら、エウメネスは水流である。
その本質はひとところに留まることをよしとしない。
束縛よりも自由を、既知より未知を求めるその本性がバルシネーにとってはこのうえなく心地よいものであったのだ。
自分が惚れやすい女であるとは思わない。
稀なる佳人としてバルシネーに言い寄る男は多かったが、心から愛したと言えるのはただメムノン一人があるのみだった。
エウメネスに対するほのかな慕情はメムノンに対するものとはいささかベクトルが異なる気もするが、それでも共にありたいという気持ちだけは本物だった。
しかしバルシネーは先にエウメネスに恋情を抱いたアルトニスに対して特に後ろめたさを感じてはいなかった。
それはごく当然のように、夫は姉妹で共有することが出来るものだと信じていたからである。
自分の想いがアルトニスの恋情を傷つけるなどとはバルシネーは考えない。
これまでもこれからも、姉妹は人生を共にしていくことをまるで運命のように信じきっているからだった。
アルトニスもそう望んでくれていると、バルシネーは疑いもなく信じた。
バルシネーのエウメネスを見る目が変わったことを恋する乙女であるアルトニスが見逃すことはありえなかった。
いまだエウメネスは姉の恋情に気づいていないようだが、彼が男女のそれかどうかは別としても姉に好意を抱いていることは連日の親密ぶりが明らかにしていた。
またも自分は恋の戦いに敗れてしまったのか。
アルトニスは常にない積極性をもって姉とエウメネスのなかに割り込んでいったつもりであった。
自分にそんな勇気をくれたレオンナトスにはいくら感謝してもしきれないと思う。
あの甲斐あってか親しく会話を交わすまでになったものの、やはり姉のように深い学識や機知に富んだ応答はアルトニスには難しかった。
アルトニスに出来ることは控えめに笑みを浮かべながら、二人の会話に相槌を打つことぐらいなのだということがたまらなくもどかしかった。
どうしてあの姉は私が欲してやまないものばかりを取り上げていってしまうのか―――――。
アルトニスの落ち込みようは手に取るようにわかる。
もともと表情に出やすいということもあるが、オレは似たような女性をごく身近に知っていたからだ。
シャーロッテ・クベドリアス。
それは遥か二千数百年未来に置いてきてしまった最愛の恋人の名であった。
今でこそ毒舌家になったシャーロッテだが、もとよりそんな性格をしていたわけではない。
むしろ内気ではにかみやな目立たない少女であった。
彼女が現在のように変わったのは、幼いころからいつも一緒にいた三歳年上の姉マーガレッタが婚約したころに遡る。
姉の婚約者はオレ自身もよく知る近所の男性で、幼いころには兄貴分としてよく遊んでもらった人でもあった。
幼馴染同士の婚約は長年の交際を実らせたこととも相まって、盛大な祝福をもって周囲に迎えられた。
しかし同時にそれは幼いころから胸に秘めてきたシャーロッテの初恋の終わりをも意味していたのである。
それでも結婚式までは気丈に姉を祝福していたシャーロッテだったが、式も終り姉が住み慣れた家を出て行ってからしばらくは見ているこちらまで胸が痛くなるような落ち込みよう
であった。
己の無力さを噛みしめながら幾日無言のシャーロッテに付き合っていただろう。
やがてポツリポツリと言葉を交わすようになり、日に幾度か笑みを見せ始めるといつしかシャーロッテは羽化の終わった蝶のように明らかに変わった。
―――――天下無双の毒舌家へと。
恋人よ、それはあまりな変わりようではないだろうか?
それはともかく、シャーロッテにとって姉という重しが取れたことが独り立ちのきっかけとなったことは疑いない。
美しく聡明で頼れる姉であったマーガレッタの存在は、シャーロッテにとって居心地の良さを保証してくれる暖かな繭であった。
しかし繭の中では何を得ることもできない。
姉から与えられるだけの居心地の良さからは、決して自分の人生を生きた充足を得ることはできないことにシャーロッテは気づいたのだ。
自分自身の手で欲しいものを勝ち取る。
ありたいと願った何者かに、自分自身が成ることこそが本当の充足であるのだ、と。
そうして控えめでおとなしかった少女は勝気で誇り高い女豹となった。
………できればアルトニスには女豹になり果てるのは避けていただきたいものだが、姉離れをきっかけにアルトニスが大きく変わるであろうことは十分予想できることであった。
「気を落とすなよアルトニス。勝負なんてものは最後の瞬間までわからないものさ」
「………気休めはよしてください………」
アルトニスはオレの方を見ようともせずに俯いたまま答える。
まるでシャーロッテに無視されたような気がして地味にへこみながら、最大限の親しみを込めてオレはアルトニスの濡れたように黒々とした髪を撫ぜた。
嫌がるそぶりもなく受け入れてくれたのを確認して、安堵の息をともにオレは天を仰いだ。
確かにオレの目にもアルトニスの勝ち目が薄いことはわかっていた。
しかし愛し合う二人が素直に結ばれるほど、この時代は優しくはない―――あるいはそれは親友にとって不幸なことなのかもしれないけれど。
そう、バルシネーはアレクサンドロスの側妾になる運命にあり、エウメネスと最終的に結ばれるのはアルトニスなのだから。
「蛮族の王め!我らが神を土足で汚すつもりか!」
テュロスは海洋民族フェニキア人の都市国家のなかでも最大規模を誇る巨大なものだ。
同じ海洋覇権国家カルタゴと結んだテュロスは、マケドニアとペルシャとの戦争を奇貨として双方からの中立を宣言しその独立性を高める戦略をとろうとしていた。
ところがそれを一顧だにすることなく恭順を求め、そればかりか国家の支柱たるメルカルト神殿へ参拝しようとするアレクサンドロスの政治的姿勢はテュロスにとっては
侮辱以外の何物でもなかったのである。
ヘラス世界が成立する以前から海洋民族として生活してきたフェニキア人の誇りにかけて、主神メルカルトはヘラクレスなどという半神半人の半端者ではありえなかった。
そもそもヘラクレスと始祖とするマケドニア王が祖先の礼拝に訪れるという図式そのものがテュロスにとって耐えがたい屈辱なのであった。
有史以来、テュロスはメルカルトとヘラクレスは同一神であるなどという妄言を一度として認めてはいない。
だからといって日の出の勢いであるマケドニアと全面戦争に突入することもテュロスにとって得策であるとは思えなかった。
苦渋の妥協点としてテュロス指導部はテュロスのマケドニアへの好意的中立と神殿以外へのアレクサンドロスの立ち入りを認めたのである。
これはマケドニアが大ペルシャと交戦中の国の常識として考えるならば満足すべき妥協点であるのかもしれなかった。
しかし損得ではなく誇りを行動の指針とするアレクサンドロスにとって、神域への参拝の拒絶はテュロスの敵対行為以外の何物でもなかったということを、このときテュロス指導部は
読み違えていた。
「余に従わぬならば滅ぶがよい。貴様らの居場所がどこにあろうと余の手から逃れられると思うな」
後方に不安を抱え、さらにエジプトへと遠征しようとしている今、テュロスとおそらくは長期戦を戦うことはマケドニア軍にとっても決して楽な選択肢ではありえない。
利に聡いフェニキア人のこと、戦況がマケドニアに傾いたと判断すれば自ずとマケドニアに尻尾を振ってくることはよほどの外交オンチでもないかぎり予想できることであったからだ。
ましてマケドニア軍は海上戦闘に慣れた軍集団ではないのである。
テュロスの誤算はあるいはそうした利に聡い海洋民族特有の習性にあるのかもしれなかった。
テュロスの征伐を決めたアレクサンドロスはイッソスの戦いで傷ついた東征軍を再編してダマスカスに入城した。
先にダマスカスを実効支配していたパルメニオンは、ペルシャが備蓄していた食料と酒を惜しげもなく振舞って王の入城を歓待したという。
マケドニア王国では想像もつかぬ膨大な食料は東征軍の兵士がいかに飽食しようとも一向に尽きる気配を見せなかった。
アレクサンドロスもまた、このときばかりは浴びるほどに酒を飲み陽気に兵士たちに声をかけていった。
名もなき兵を鼓舞することもまた、英雄たるの使命であるとアレクサンドロスは信じていた
「陛下、このたびの御戦勝お喜び申し上げます」
「おうヘラオネスではないか、息災か」
「陛下のおかげをもちまして」
マケドニア軍の特徴は集団戦の強みにあるが、アレクサンドロス自身は個人的武勇の士を好む傾向にある。
ヘラオネスはパルメニオンの旗下ではあるが、大力で屈強な兵士としてアレクサンドロスの記憶にとどめ置かれていた。
所詮は一部隊長であるヘラオネスが王と私的に言葉を交わせる機会は少ない。
ヘラオネスは偶然訪れたこの機会を最大限に利用するつもりでいた。
「この場を借りて言上させていただくことをお許しください陛下、お引き合わせしたい人物がおります」
「…………ほう……ヘラオネスほどの勇者が言うのであれば一考しよう」
ヘラオネスは実直な男である。
策謀を張り巡らせるには単純に過ぎ、誇り高いがゆえに人に阿ることをよしとしない。
そうした意味でアレクサンドロスはヘラオネスの言葉に興味をそそられたのは事実であった。
「その者はペルシャでもっとも美しく、もっとも聡明で、もっとも武技に秀でたこの世にただ一人の佳人。必ずや陛下のお気に召すものと」
美しい女は数あれど、賢くしかも武技に秀でた女は滅多にあるものではない。
しかしこのときはまだアレクサンドロスはそのペルシャの女に強い好奇心を抱いたにすぎなかった。
運命の二人が顔を合わせるその日には、今少しの時が必要であった。