「だからヘロドトスは…………」
「いえ、それだと天はどう動いているのかしら?」
「天もまた球体であることは動かないと思うけどね。そのよってたつところまでは………」
「だいだい70万スタディアの根拠は………」
このところとみにエウメネスとバルシネーの仲が良かとです。
おのれリア充許すまじ!くらえ嫉妬破壊光線!
そんな嫉妬全開で怨念電波を送ろうとしていたオレの視界の片隅に、寂しそうに一人床に座り込んでいるアルトニスが写ったのはそのときだった。
「………行かなくていいのですか?」
「レオンナトス様………」
まるで全てをあきらめきったようなアルトニスの表情に不覚にも胸が痛む。
アルトニスが姉に対して大きすぎるコンプレックスを抱いているのはわかっていた。
素人に近いオレにでもバルシネーの覇気と博識と度量が人並みはずれているのはわかる。
さすがに英雄アレクサンドロスに生まれて初めて恋を教えたと言われる女だけのことはあると思う。
しかし…………。
…………妹の恋路を応援するってのはどうなったんだ?バルシネーさんよ…………。
フィリッポス2世の時代から図書館の建設などにも携わってきたエウメネスの知識はおそらくマケドニアでも随一のものであろう。
それに気づいたときからバルシネーの態度は明らかに変わっていった。
頭の良い人間にありがちなことだが、己と対等の人間との会話に飢えていていたのであろう。
日に日にバルシネーはエウメネスに傾倒していき、エウメネスもまた苦笑いを浮かべつつも決してそれを嫌がっているそぶりは感じられなかった。
彼もまた同類の人間に飢えている男であったからだ。
もちろんそれでもっとも割を食ったのがアルトニスである。
エウメネスを補佐し、控えめながらも必死に会話しようと努力している様子は、見ているオレが悶えそうなほどいじらしいものだったのに今ではその指定席は
すっかり姉にとって代わられてしまっていた。
いや、むしろ彼女のほうから引いて姉へ譲ったというのが表現としては正しい。
目的のエウメネスの傍にいられなくなったのに、こうして毎日わざわざ手伝いに出てきてくれるのがまたいじらしくてならないのだが。
「わかってはいたんです。きっとエウメネス様も姉に気を惹かれるだろうってことは」
アルトニスが俯くのに合わせるように艶やかな黒髪がアルトニスの肩を流れて落ちた。
寂しそうに微笑むその表情からは嫉妬や憤怒は欠片ほども窺うことはできない。
おそらくは本心から姉が人の注目を集めることを認めきっているのだろう。
もしそうだとすればこの目の前の女性は今までどれほど姉によって自分を忘れ去られてきたのだろうか。
「姉は神に愛された大輪の花…………例え誰であろうと姉を愛さずにはいられません」
「いや、………」
決してそんなことはない。
なぜならオレは―――――
信じ難いことに思わず口をついて出たのは驚くべき言葉だった。
こんな台詞は恋人であるシャーロッテにも言ったことがあったかどうか………。
「他の男はともかく、私はバルシネー殿よりアルトニス殿のほうが美しくも愛らしいと感じておりますよ」
アルトニスの均整のとれた切れ長の瞳が大きく見開かれるのがオレの目にも見て取れた。
言った本人が実は一番驚いていたのだが………。
生まれてこの方姉と比較されて勝ったためしなどない。
容姿、聡明さ、気性、華やかさ、体力………その全てにおいて姉は私の遥か高みに身をおいていた。
それにひきかえ私はといえば、母譲りの容姿こそまともではあるものの、引っ込み思案で気の利いた台詞のひとつも言えない始末。
夫であるメムノンのもとへ嫁いだのも明らかに姉のおまけに等しい立場であった。
それでも夫であるメムノンは男として非常に魅力ある存在であったから、なんとかその寵愛を得ようと努力した時期もあった。
メムノンはやさしく、まるで年の離れた妹のように私を大事に扱ってくれたが、それでもアルトニスを一人の女としてはついに私を見てくれることはなかった。
彼の心は最初から姉バルシネー一人に囚われてしまっていたからだ。
せめて姉の次でもいい。
一人の女として愛されることができたなら、あるいは女としての自分に自信が持てたのかもしれなかったが、その機会を与えることなくメムノンは異郷の地から二度と戻っては来なかった。
まるで初恋の相手をなくしたかのように泣き崩れる私をやさしく慰めてくれたのはやはり姉だった。
物心ついたときからずっと、私が泣きだすと姉は泣き止むまでずっとついていてくれるのだ。
亡命貴族である父に対する中傷から、私たち姉妹へ悪意が向けられるときもいつも私をかばってくれていたのも姉である。
思えば私は姉というこの上なく優しいゆりかごのなかで生きてきたようなものだった。
その私が姉をさしおいて新たな恋を手に入れようなどと出来るはずもない。
そもそもこんな半人前の女を誰が愛してくれようか。
まして姉という誰もが認める天女がそこに在るというのに。
「他の男はともかく、私はバルシネー殿よりアルトニス殿のほうが美しくも愛らしいと感じておりますよ」
今この人はなんと言ったのだろう。
私が姉より美しい?
そんなはずはない。姉はただその造形が美しいだけの存在ではないのだ。
それに今までただの一人だってそんなことを言ってくれた人は―――――
レオンナトス殿が顔を真っ赤にしてものすごい勢いで目をそらす。
もしかして本当に―――――?
天にも昇るような歓喜と同時に、これが決してエウメネスのものではないことに言い知れぬやるせなさを感じてしまう。
そんな自分が醜く思えてならなかった。
せっかく褒めてくれたレオンナトス殿にも申し訳ない。
こんなにうれしいのに、こんなに心が震えているのに、私の心が求めているのは決してレオンナトス殿ではないのだから――――。
「貴女という花は決してバルシネー殿に劣るものではない。遠慮せずにおいきなさい。多弁で優雅な花より清楚で控えめな花のほうが共に生きるには大切なこともあるのだから―――」
そう言って背中を押してくれる彼に申し訳なくて泣きそうになりながら、私は意を決して姉とエウメネスのもとへと生まれて初めての一歩を踏み出していた。
ヘラオネスという男がいる。
古くからパルメニオンの指揮下で剣を振るってきた歴戦の古強者である。
パルメニオンからの信任も厚く、その武勇はアレクサンドロスさえも名を記憶しているほどに優れたものだ。
その彼は現状に強い不満を抱いていた。
マケドニア軍最強の武勇をもってなるパルメニオン軍団が、異国人に顎で使われて補給作業ごときに汗しなくてはならない。
それは彼にとって屈辱以外のなにものでもないのであった。
どうやらパルメニオンが陛下の不興をかったらしいという噂はヘラオネスの耳にも届いている。
不本意ではあるが正面からあの異国人に反抗することは難しかった。
そんなことをすれば立場を危うくしている尊敬する主将がさらにその立場を悪化させることにもなりかねないからだ。
個人的武勇はともかく、上級指揮官としての能力は評価されることのなかった彼でもさすがにそのくらいのことは承知していた。
だからこそこの現状をなんとかしたい。
マケドニア軍を本来あるべき姿へと戻したいのである。
当然それはパルメニオンがマケドニア軍の副将としてアレクサンドロスとともに軍権を掌握することにあるのであった。
そのためにはパルメニオンに対する王の不興を取り除かなくてはならなかった。
だがいったいどうやって…………。
そんなときヘラオネスの瞳に映るものがあった。
あの忌まわしい異国人と、ペルシャの捕虜の女が仲むつまじく何かを羊皮紙に書き込んでいる様子が見て取れた。
腸が煮えくり返るような憤怒がヘラオネスの胸中に沸き起こる。
――――敵国の女と乳繰り合っている場合か―――!
将兵の誰もが不慣れで不本意な作業に汗しているのに何様のつもりであろうか。
そもそもあの女はマケドニア王国の戦利品であってあの男が自由にしてよいものではないはずではないか。
そこまで考えてヘラオネスの脳裏にひらめくものがある。
―――――果たして陛下はこのことを知っているのだろうか?
確かに敵国人ではあるがあの女の美しさは認めなくてはなるまい。
高貴な血筋の、しかも絶世の美女があの異国人のもとにいるというのはひどく不自然なものに感じられる。
戦利品は王のものであってしかるべきではないか?
もっとも美しい女は、王のもとにこそ侍るべきではないのか?
聞けばペルシャの女は技芸に通じ、ヘラスの学者が舌を巻くほどに聡明であるとも聞く。
王のように色香にうといお人であっても心を動かされる可能性は十分なものであるようにヘラオネスには思えた。
「我が主パルメニオンの名においてあの女を陛下に献上せねばなるまいて」
うまくいけばパルメニオンの立場は不興を解消するどころかさらに強固なものとなるであろう。
都合のいい想像に笑みを浮かべつつヘラオネスはエウメネスを一瞥して冷たく嗤った。
―――――今のうちにいい気になっているがいい。所詮貴様は異国人で我がマケドニアによって使いつぶされる運命にあるのだから。
「これをアンティゴノス様にお届けしろ」
パルメニオンの指揮下にある一人の兵が、行商人の男に一枚の羊皮紙を手渡していた。
これが初めてのことではないらしい。
行商人の男は丁重にその手紙を押し頂き、何事もなかったかのように人ごみへと消えていく。
パルメニオンの兵もまた、ごく自然な動作で人ごみのなかへと身を溶け込ませていった。
「全くアンティゴノス様の手はどこまで長いんでしょうね………」
そういって苦笑とともにことの成り行きを見守っていたのはヒエロニュモスであった。
マケドニア王国の情報を司るヒエロニュモスではあるが、アンティゴノスの行為を正面から処罰するというわけにはいかない。
なぜならアンティゴノスは国内政治の材料として情報を収集しているのであって、別にペルシャやヘラスに情報を売り渡すような利敵行為をしようとしているわけではないからだ。
この程度の情報収集は、情報の価値がわかっている将ならば多かれ少なかれやっているものなのである。
しかしそれでもアンティゴノスの収集部隊は数と質において他の諸将を圧倒するものであった。
これに対抗できる組織はヒエロニュモスの組織するマケドニアの耳以外にはあるまい。
「まあ、あの方がパルメニオン様の苦境を知って援助してくれるならそれにこしたことはないのですが…………」
アンティゴノスはパルメニオンとともに古きマケドニア軍の双璧ともいうべきものだ。
同じ古株であるパルメニオンが不興をかったとなれば決して人事ではないであろう。
だが残念なことにアンティゴノスという怪物はヒエロニュモスが考えるほど人のいい人物ではありえなかった。
―――――ヒエロニュモスは知らない。
この日アンティゴノスの密偵を見逃したことを、彼は終生後悔することになるのだということを。