大ペルシャ恐るべし。
オレとエウメネスはダマスカスの一角に林立した倉庫を見上げて呆然と立ち尽くしていた。
この見渡すかぎりに積み上げられた食糧の山はなんだろう。
なけなしの食料を配給するためにオレたちがどれほど苦労してきたかを考えると阿呆らしくなるような泣けてくるような光景であった。
食料だけでも何万人分?というか今のマケドニア軍が全軍で食い放題をしてドンちゃん騒ぎをしても軽く半年は持ちそうってどんだけだよ。
………それにしてもこの世界に写真がないのが無念でならないな。
ダマスカスに備蓄されていた莫大な物資の量を見て、思わず唖然としているエウメネスの表情はまさに激レアと言っていい。
滅多にこんな無防備な顔をするエウメネスではないだけに、久しぶりに奴をからかうネタが出来たと思ったのだが………。
「…………本当に毎度のことながらこりませんね、レオンナトス様………」
水を差すなよヒエロニュモス。少しくらい黒い優越感に浸らせてくれてもいいだろう?
「………これは仕分けるのが大変そうだねえ………それでもレオンナトスならきっとやり遂げることができるさ!」
あれぇ?
そこでいい感じに嗤っている黒い人は誰でしょうか?
ひしひしと負のオーラを感じるのですが。
そこ!ヒエロニュモス!いかにもあきれ返ったみたいに頭を振らないで助けなさい!オレと君の仲じゃないの。
いや、無理ですよ?こんなマケドニア王国全体の流通量をさらに数倍したような量の仕分けをオレ一人に任されたら間違いなく処理限界を超えます。
というか死にます。こ、殺さないでええええええええええ!
「逝ってらっしゃい」
エウメネス、それちょっと字が違う!古代にそんなネタはいらんからああああ!!
「おぬしら………ずいぶんと楽しそうじゃの」
明らかに苦笑いという表情を浮かべてひょっこり現れたのはバルシネー・アルトニス姉妹であった。
といっても厳密には苦笑いを浮かべているのはバルシネーだけで、アルトニスの方は目を丸くして呆然としている。
大柄な彼女にそんな小動物的な仕草がなんとも言えず似合っていた。
う~ん……黒い邪笑を浮かべたエウメネスの悪魔降臨!はやはり貴族のお嬢様には荷が重かったか?
実際のところバルシネーもアルトニスもレオンナトスの内心とはまったく別の場所にいた。
目の前の光景はペルシャではまず常識的にありえない。
レオンナトスはマケドニアの王家に連なる大貴族でエウメネスは国王秘書官とはいえ一介の異民族である。
予想される上下関係とは理不尽なまでに真逆な光景を見せられて戸惑うなというほうがどうかしていた。
…………もしかしてマケドニアでは貴族は虐待されているのか………?
そんなことはない。虐待されているのはただレオンナトスだけである。
ここでようやくレオンナトスを嬲るのを一時中断したエウメネスがバルシネーたちに向き直った。
「こんなところまでいらっしゃるとはどうかしたのですか?」
エウメネスやレオンナトスの任務には捕虜となったペルシャ貴族たちの世話も含まれる。
アレクサンドロスからは彼らを丁重に扱うようにとの厳命があり、もし不満があるのであれば早急に対処しなければならない立場にエウメネスはいたのである。
「ヒマをもてあましての。散歩がてら挨拶に……と思ったのだが……どうやら人手が足りなさそうだの」
ペルシャの行政機構にはこうした兵站を担う文官に蓄積された分厚い層がある。
広大な版図の物資を必要とされるところに集積するのには当然それを計画運営できるだけの文官が存在していなくてはならないことを、さすが世界帝国だけあってペルシャはよく承知していた。
もちろんマケドニアにも同様の役職は存在するが、ペルシャのそれに比較しては人数も権限もお寒いものでしかない。
かろうじてアンティパトロスが指揮をとる本国だけがなんとか流通を制御するだけの官僚団を整備しつつあった。
「バルシネー様もそう思いますよね?エウメネスはこれを私一人にやらせようとしてるんですよ。これは任務の名を借りた殺人と言わざるを得ません!」
「いや………なんというか……そもそもレオンナトス殿の立場弱すぎじゃろ?」
こんな膨大な量の仕事を押し付けられれば文句のひとつも出るのは仕方ない、が冷静に考えればエウメネスにそんな権限があるはずもないのだ。
むしろ後ろでふんぞり返ってレオンナトスが指示を出しているほうが自然な流れのはずであった。
なんとも鼠に猫がおびえて平身低頭するような違和感を禁じえない。
「そうなんです!こいつは何故かオレにだけは遠慮も呵責もない悪魔なんです!お願いですから慈悲を!あの悪魔を止められる力を!」
「少し………頭冷やそうか…………」
恥も外聞もなく自分の置かれた立場の劣悪さを説くオレの後頭部を、美貌の悪鬼が口元だけで笑いながら渾身の力で締め付けた。
みしみしと頭蓋がきしむ音に真剣に生命の危機を感じたが、しかしこれだけは言っておかなくてはなるまい。
「レオンナトス死すとも自由は死せず!!」
自由を求める人の魂の叫びはどんな圧力にも屈することはないのだよ!by板垣退助。
「………今永久に自由にしてあげるからね………」
ごめんなさい!調子こきました――――!!
「え~と、その、私でしたら、計数には自信がありますし………少なからずお力になれるかと思いますが………」
エウメネスの怒りの鉄槌はオレを数秒の間生死の境に追い込んでようやく止まった。いや、止まらなかったら間違いなく死んでます。
断罪の終了と見て控えめにおずおずと切り出したのはアルトニスである。
どうも最初から協力を申し出るつもりであったらしい。
ニヤニヤと笑いながらバルシネーがアルトニスの言葉を引き取る。
「私とて文官としても武官としてもその辺の連中には負けんぞ?今は人手がいくらあっても足りるということはなかろう?」
「しかしペルシャでも大貴族であられる貴女がたをこのような激務に関わらせるというのは………」
珍しくエウメネスが困惑していた。
無理もない。ペルシャでも王族に連なろうかという有数の大貴族のご令嬢に兵站仕事を手伝わせようとか他人が聞いたら何かの冗談にしか思わないだろう。
だが今必要なのは屈強な兵士ではなく物資の必要量と輸送量を適切に配分し運用することのできる文官なのも確かであった。
「だいたいそこのレオンナトス殿も王族に連なる大貴族であったと思うがな」
このバルシネーの言葉が決定打となった。
彼女たちが進んで協力してくれようというのを断るにはあまりに作業が膨大でありすぎた。
ダマスカスの備蓄量はエウメネスの当初の予想を遥かに上回っており、これまで想定されてきたマケドニア軍の兵站規模では対応しきれないことはエウメネスの目にも明らかであったのである。
さらにアレクサンドロスはこの機会にフェニキア地方の沿岸制海権を確保することを明言しており、シリア一帯の征服作業はかなりの長期戦になることが予想されていた。
そのためにも物資を無駄に使わせるわけにはいかなかったし、今後の有事のためにはある程度のプール分も見込んでおかなくてはならなかった。
イッソスで一敗地に塗れたとはいえペルシャ軍にはまだまだ十分な余力があるはずなのだ。
お留守になった後背にいつ再びペルシャ軍の逆撃がないとも限らなかった。
保存、駐留、進軍、予備に物資を再配分し、保管しておく場所を確保して警備を立て、略奪から物資を守らなくてはならない。
躊躇している余裕はないことをエウメネスもまた認めざるをえなかったのである。
「それでは………まことに恐縮ですが………ご助力をお願いします」
このとき姉妹がまるで花が咲くかのように微笑んだのをオレは見逃さなかった。
大輪の花の蕾が今まさにこぼれるような笑顔であった。
バルシネーの笑顔が妖艶さを湛えつつも野に咲くたくましさを併せ持つ蘭の花であるとすれば、アルトニスの笑顔は大柄ながら美しくも清楚な佇まいのアマリリスと
言ったところだろうか。
小柄ながら存在感で圧倒するバルシネーに対し長身で抜群のスタイルを誇りながら控えめで清楚なアルトニス。
ちっとも似ていない姉妹だが、鑑賞する方としてはこのうえない好一対である。
下世話な話だが、オレのような凡人から言わせるとアルトニスのつつましくも艶やかな美しさがなんとも好ましい。
ほかの人間がどう感じるのかはわからないが、バルシネーの清冽さはなんともオレには眩しすぎるように感じられてならなかった。
………しかしどうやら一杯食わされたようだ。
姉のいたずらっぽい表情や妹の恥じらいに上気した頬を鑑みるに、妹の恋路を助けるおせっかいな姉の図が垣間見えた。
しかも姉のほうも少なからず興味はある、といったところか。
…………くそっ、これだからリア充は……!
「顔か!やっぱり男は顔なのか!美形なんて一人残らず死んでしまえ!」
「…………レオンナトスは一人でも頑張れるよね」
いやあああああああああああああああ!!
一人にされたら寂しすぎて死んじゃうからああああああああああああああ!!
イッソスの後方基地と、ダマスカスで得た膨大な物資はペルシャとの戦いが始まってから初めてマケドニア軍に長期戦の遂行を可能とさせた。
本国からの細々とした補給に汲々とせず、占領地の略奪に頼らずとも飢える心配が遂になくなったのである。
この事実が示す意味はあまりにも大きい。
エウメネスをはじめとする一部の文官だけが知っていたことだが、もしもペルシャ側に決戦を回避されたとえば大兵力でダマスカスに篭城された場合、
マケドニア軍は二月を持たずして傭兵たちの給金を払えなくなり、遅くとも半年以内には戦わずして飢え死にの已む無きに到ったであろう。
ましてペルシャ軍が有り余る余剰兵力を動かしてハルカルナッソス以北を脅かした場合、マケドニアに帰国することすら危うかったに違いない。
もちろんそれを選択することの出来ぬダレイオス王の政治的事情は確かに存在したが、結果的に見ればただ避戦に徹するだけでペルシャ軍の勝利は約束されていたのである。
イッソス以前と以後の戦略的環境の決定的な違いはそこにある。
イッソス以前のペルシャは戦を回避するだけで勝利を手中にすることが出来た。
しかしイッソス以後は積極的にマケドニアに勝利することなくしてペルシャの勝利はなくなったのだ。
何よりも大きなのは、不滅の大帝国に思われた大ペルシャが決して不滅ではなく西方の蛮国によって滅ぼされてしまう可能性があることを知らしめたということにある。
ペルシャ世界はこのとき初めて滅亡、という言葉を意識せざるを得なかったのであった。
とはいえまだまだ両国の国力の差は冠絶していた。
マケドニアを仰天させたダマスカスの物資ですらペルシャにとっては取りに足らぬものにすぎない。
反抗する力は十分すぎるほどに残されていたのである。
………実はこのとき、ペルシャに天佑神助が訪れようとしていた。
神に選ばれた英雄たるを自認するアレクサンドロスがフェニキア最大の都市国家テュロスのメルカルト神殿の主祭神がヘラクレスに同定されていることを知り、並々ならぬ関心を寄せていたのである。
そもそもマケドニア王家はその始祖をギリシャ神話の英雄ヘラクレスにおいている。
つまりヘラクレスの末裔たるアレクサンドロスがヘラクレスを祭る神殿を詣で、これを庇護下におくことは彼にとってしごく当然の使命のように思われたのだ。
しかし問題なのは誇り高い海の民たるテュロスの市民がアレクサンドロスの信じる正義を共有することができるかということにあるのであった。
アレクサンドロスの信じる正義が最終的にテュロスに何をもたらすのか、今はただ異邦人たるレオンナトスだけが知っていた。