「戦闘とは激動の状態である。ゆえに戦場での全ての行為は激動的になされなければならない」
イッソスで大王が残した名言としてそんな言葉が残っているという。
この場合むしろ迷言であると思わなくもないが。
何その激動的って。
マケドニア軍の展開は迅速であった。
数万の軍勢が一斉に横隊を形成し、歩兵が堅牢な隊伍を組み、両翼に騎兵が展開していく様は圧巻に尽きる。
敵前でなされた戦術機動であることを考えればこれほど見事な機動は戦史にも稀なことであるだろう。
もっともアレクサンドロスは全く心配などしていない。
地形的優位に自らを縛り上げたペルシャ軍が、危険を冒して出戦するなど絶対にないことをアレクサンドロスは露ほども疑っていなかったのである。
マケドニア軍の兵力は歩兵三万五千、騎兵六千ほどでしかない。
しかしコリントス同盟のホプリタイもマケドニアの重装歩兵ペゼタイロイも練度ではペルシャ歩兵を大きく凌駕していた。
唯一マケドニア側がペルシャに勝っているのはただ歩兵の練度とアレクサンドロスの天才あるのみなのだ。
ペルシャ軍総数十万。これには輜重兵である非戦闘員は一切含まれていない。
食糧や褒美の財宝にも不足はなく、武具の装備についてもペルシャ軍とマケドニア軍の差は明らかであった。
しかもダレイオスがその気になればさらに数万以上の兵を手当てすることは容易かった。
それほどにマケドニアとペルシャの国力は隔絶している。
…………それでもなお我に挑むか、小僧。
ダレイオスは寝苦しい夜に感じるような不快さを禁じえなかった。
実際のところアレクサンドロスが奪った土地はペルシャにとって港を除けばそれほど旨みのある土地ではないのである。
決戦を回避しているだけでもマケドニアが疲弊して勝手に自壊してくれる可能性も決して少なくはないのだ。
だからこそダレイオスとしてはメムノンが提案した焦土作戦によって、早期にマケドニアが戦線を維持できなくなることを期待していた。
マケドニアならばいざ知らず、大ペルシャではその程度の経済能力がなければ王の王を名乗る資格はない。
老練な指揮官であるダレイオスは戦場で勝つことだけが勝利の方法でないことを知り尽くしていた。
だが、後継者の一人であった昔とは違い、王の王たるダレイオスには守らなくてはならない権威が存在する。
マケドニアに好き勝手やらせたあげく何ら損害を与えることなく帰国させてしまうのは大ペルシャの王としての権威が許さなかった。
何より大きくなりすぎた現在のペルシャを維持していくためには、王の王というある種幻想上の絶対的な権威というものがどうしても必要なのであった。
本来ならば直接的な戦闘を避けたいダレイオスをして自ら戦場に立たしめた理由がそれだった。
……………メムノンが生きてさえおれば余自らが出る必要もなかったであろうが…………
瞑目してダレイオスは早逝したかつての部下を思った。
無能な味方に足を引っ張られてはいたが、それでもなお彼ならば最終的な勝利をペルシャにもたらしてくれるはずであった。
異国人のギリシャ人である彼が対マケドニア方面軍の指揮官になりおおせたのはダレイオスが強力に後押ししたからに他ならない。
メムノンに与えられた職権は現地太守のそれさえ上回っていた。
王の意志が介在しないかぎりそんな人事が成立するはずはないのである。
唐突なメムノンの病死というアクシデントがなければ、ダレイオスの希望通り緒戦でマケドニアが敗退する可能性は非常に高いものであった。
メムノンの死がペルシャにとってあまりに大きな痛手であることに気づいていたのはダレイオスだけであろう。
戦争というグランドデザインを描くことの出来る人材が、既にペルシャにはダレイオスを除いて残っていなかったからだ。
ただ戦場で槍をとるだけの勇士に不足はなくとも、いかにしてマケドニアに勝利して地中海制海権を死守するかという大戦略を描ける部下がダレイオスには
思い浮かばなかったのである。
――――大ペルシャに人なし
それだけがダレイオス王の心に一抹の不安の影を落としていたのであった。
マケドニアからペルシャに身を投じたアミュンタスはこれから起こるであろう戦場の推移をほぼ正確に洞察していた。
アレクサンドロスはペルシャ歩兵の一部を突破してダレイオス王に直接攻撃を仕掛けようとするであろう。
おそらくはペルシャ歩兵はアレクサンドロスの鋭鋒を受け止められまい。
だが、そのときこそが最大の勝機である。
アミュンタスやあのメムノンの甥であるティンダモスが率いるヘラス密集歩兵部隊はペルシャ軍右翼に配置されていた。
アレクサンドロスがペルシャ軍左翼を突破した瞬間にマケドニア軍左翼は無防備な横腹をさらすことになろう。
ヘラス傭兵はマケドニア軍にも練度で引きはとらない。
数にものを言わせてマケドニア軍左翼を打ち破ることができればアレクサンドロスはペルシャ軍の真っ只中で孤立するのみだ。
―――――そのときこそ己の無謀さを呪うがいい。エペイロスの物狂いの血が貴様を殺すのだ!
アミュンタスはかつてマケドニア王国でも重臣と言ってよい地位にあった。
しかしアレクサンドロスの激情家ぶりと英雄願望は臣下として彼が許容できる範疇を大きく超えていた。
王、王たらずば臣、臣たらず。
あるいはアミュンタスにとっての心の王もまた、今は亡きフィリッポスであるのかもしれなかった。
しかしいかに欠点が多かろうと、アレクサンドロスはやはり戦場の寵児であった。
彼にしか備わっていないであろう天運がこのときもまたマケドニアに恩寵をもたらしたのである。
ピナロス川の南岸には窪地が多く、ペルシャ軍側がマケドニア軍の陣容を把握できなかったのに対し、マケドニア軍は偵察騎兵からペルシャ側の正確な陣容がもたらされていた。
「ヘタイロイの一部とテッサリア騎兵を左翼に向けよ」
ペルシャ軍最精鋭の騎兵部隊と、歩兵戦力の主力であるヘラス傭兵がマケドニア軍左翼側に集中していることが明らかになったためである。
マケドニア軍後方を迂回した騎兵部隊は、その移動をペルシャ軍に気づかれることなく無事左翼への配置を完了した。
もしもマケドニア軍がペルシャ側の配置に気づくことなく戦端を開いていたならば、左翼の劣勢は免れなかったに違いない。
それでもなお左翼が受け持たなくてはならない圧力は並大抵のものではなかったのだが。
「相変わらず陛下の強運には恐れ入るよ」
そういってエウメネスは莞爾と笑った。
こうしたとき、エウメネスはアレクサンドロスに惹かれているのだな、と感じる。
カルディアで命を救ってもらったとかフィリッポスのもとで王と共に薫陶を受けたとか噂は様々だが、このひねくれた男は彼なりにアレクサンドロスに対して忠誠心を
抱いているらしい。
「前にも言ったと思うけど余計なことを考えるとき、人を見下すような目をするね、君は」
「いやいやそんな、滅相もない」
迂闊に考え事もできんのかオレは。
でも正直意外だ。
確かにアレクサンドロスは一代の英傑であることは間違いないんだが、自己中心的というか考えなしというか………現実主義者のオレにはあの浪漫主義にはついていけないものがある。
なんといってもオレやエウメネスはその現実の部分を補うために危うく過労死寸前まで追いやられたのだ。
当然あまりよい感情を抱いていないものだと思っていたのだが…………。
「私が陛下に忠誠を尽くすのが意外かい?」
どこまで顔に出やすいんだろう。
今度会話するときには鏡を見ながらにしてみようか。
「別に特段理由があるわけじゃないよ。強いて言えば………理で割り切れないものに対して私は臆病な性でね。陛下に惹かれるのはそれが理由なのかもしれないな………」
なるほど。
現実主義者のエウメネスにはアレクサンドロスのように後先を考えない無謀な行動はとれない。
もしかすると王のそうした決断の早さがある種爽快さを感じさせるのかも知れなかった。
オレも幾分エウメネスと気質は似ているから、そうした印象を受ける気持ちはわからないでもないのだ。
「これでこちらに迷惑をかけさえしなければ諸手をあげて賛同したいところなんだがね………」
くつくつとのどを鳴らしてエウメネスがまた苦しそうに笑う。
「ところで話の内容が立場が逆転しているような気がするんだけれど?」
「あはははは!本当だ!あははははは!!」
疲労でテンションが高かったせいか、オレもエウメネスも腹が痛くなるまで笑いころげた。
王家に連なる大貴族がアレクサンドロスに呆れ、異国人のひねくれものが無謀な王に忠誠を誓う。
世界とはどこまでも皮肉に満ちているものなのであった。
太陽が大分西に傾き始めたころ、マケドニア軍の展開は完了した。
配置された横隊の長さはほぼ両軍互角である。
それはつまりマケドニア軍の横隊の厚みはペルシャ軍の半分程度であるということだ。
密集歩兵同士の持久戦となれば、この厚みの多寡は決定的な意味を持つことを左翼の主将であるパルメニオンはもちろんよく承知していた。
…………この戦いは時間が味方した側が勝利する。その時間を少しでも増やすのがわしの使命か。
かつての同僚であったアミュンタスの性格はよく知っている。
戦術指揮官としては十分以上に優秀な男だ。
ほぼ間違いなくアレクサンドロスの突出の瞬間を狙ってくるに違いなかった。
その判断は正しいが残念なことに彼はヘラス傭兵の一指揮官であるに過ぎない。
ペルシャ軍右翼の全軍を統括する指揮官では決してないのだ。
……………悪いがアミュンタス、お前の思うようにはいくまいぞ。
「ペルディッカス、お前は二列目に下がって逆撃のときを待て。セレウコスは左翼騎兵を援護しろ」
パルメニオンの言葉にペルディッカスは思わず目を剥いた。
ただでさえ戦列の薄い歩兵部隊からさらに予備を抽出する余裕がマケドニア軍にあるとは到底思われなかったのである。
ペルディッカスもまた優秀な戦術指揮官として、アレクサンドロスが右翼から突破した後どれだけ左翼が持ちこたえるかで戦いの帰趨が決まるということを理解していた。
戦術目的を考えればパルメニオンの指示は戦争そのものを危機に陥らせかねない暴挙に思われたのだ。
「お考え直しください。左翼がわずかでも破れれば全軍の崩壊は必至。今は無駄な冒険は避けねばなりません」
「……………破らせはせん」
「…………………はっ?」
パルメニオンの静かな言葉にペルディッカスは耳を疑った。
静かだが、強烈な自信に満ちた言葉であった。
獰猛な虎が毛を逆立てて威嚇するような殺気が、瞬時にしてペルディッカスの舌を凍りつかせた。
……………忘れていた。閣下の本質は…………
常から安全策で王を諫言するパルメニオンの態度に慣れて忘れていたが、かつて戦場で上司として采配を振るうパルメニオンはまさに獰猛な肉食獣といっていい男であった。
「………わしが今までどれほどの戦場を駆けどれほどの敵を葬ってきたと思っているのだ。わしが破らせぬといったら決して破らせはせぬ」
こと戦場にかぎってはアンティゴノスさえしのぐ、マケドニア最大最強の宿将は国家存亡の危機に、日頃王の抑え役に回り自らを縛っていた鎖を今こそ解き放ったのである。